駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ラフヘスト』

2024年07月31日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京芸術劇場シアターイースト、2024年7月25日19時。

 2004年、死の瞬間を迎えつつある美術評論家でエッセイストのキム・ヒャンアン(ソニン)は、長年書きためてきた手帳を手に取り、これまでの人生を心の中で再生し始める。1936年、二十歳になったばかりのピョン・トンリム(山口乃々華)は本とコーヒーが好きでナンラン・パーラーというカフェに足繁く通っている。1937年、最後の小説を書き終えた奇人と呼ばれた文筆家イ・サン(相葉裕樹)は東京帝国大学附属病院のベッドに横になっている。1943年、無名の画家キム・ファンギ(古屋敬多)はソウルで出会った三歳年下の女性に手紙を書いている。彼らが出会い影響し合った長く短い時間が交錯していく…
 脚本/キム・ハンソル、作曲/ムン・ヘソン、チョン・ヘジ、演出/稲葉賀恵、音楽監督/落合崇志、上演台本/オノマリコ、訳詞/オノマリコ、ソニン、翻訳/宋元燮。2022年韓国初演のミュージカル、全1幕。

 冒頭、老境のソニンが若き日の自分を見ていて、それが山口乃々華なんだな、ということはすぐ見て取れました。ただその後、というか基本的にはほぼずっと歌、歌、歌で、ふたりは名前が違うようだし何故か会話を交わす場面もあるので、おやや?と混乱し、そこで私はちょっと集中力を切らせてしまったのかもしれません。みんな歌はめっちゃ上手いんだけど、芝居パートがあまりなくてそれぞれの人物像がよくわからないので、話についていきづらく感じてしまったのです。
 そのあとに、山口乃々華のトンリムの時間は若いころから未来へ向かって進み、そう描かれていくこと、逆にソニンのヒャンアンの時間は過去に遡って描かれていく構造になっていることに気づかされます。トンリムはイ・サンと出会い、恋をし、ともに暮らすようになっていき、ヒャンアンはファンギとの日々がこれまでどう進んできてそもそもどう始まったものかを時間を遡って見せていく。その途中で、トンリムという名だった女性がファンギの雅号をもらってヒャンアンと名乗るようになる経緯も明かされます。なるほどね、という感じ。なのでふたりはやはり同一人物であり、会話のくだりはイマジナリー会話だったということです。
 最後の四重奏のあと、まだトンリムだったソニンがファンギと出会う場面を描いて、順に描かれてきた彼女の前半の人生と遡って描かれてきた後半の人生とが真ん中でひとつになったことを見せて、おしまい。舞台の中央に、盆に載せられてふたつの逆向きのスロープがあり、それは真ん中の位置で高さが揃っているので容易に移れるのですが、それもこの劇の構造を反映するものだったのだな、と思いました。
 構成としてはおもしろいな、好みだなと感じましたが、本当に歌また歌の作品で、何度も言いますが上手いは上手いんだけど耳が滑るというか、キャラや状況、描かれているドラマの意味がよくわからないままに聞かされるので、歌詞ははっきり聞き取れるんだけど意味が取れないというか、聞いていてこちらの心が動かないんですよ。だって知らない人の知らない話だからさ…これは、テハンノで上演している分には、韓国人の観客にはイ・サンもキム・ファンギもキム・ヒャンアンも、その人生も作品もよく知られたもので常識で今さら説明する必要がないもので、このままでわかるから十分、なんでしょうか…でも普遍性がないのなら、わざわざ日本に持ってきて上演する意味とは…?と私は感じました。
 絶賛感想も目にするので、刺さる人には刺さっているのかもしれませんが…私は、作家や作品のことは知らなくても、彼らにとって芸術とはなんだったのかを語ってくれていたなら、そこには興味が持てたのでもう少し楽しく観られたのでは、と思ったのですが、それもなかったんですよねえ。芸術家と暮らす人生、とか芸術家として生きる人生、とか歌われるわりには、それがどういうことなのか、普通の人生(って何?)とどう違うのか、どんな軋轢や葛藤があるのか…が語られていたとは思えなかったので、結局なんの話かよくわからん、とやや退屈してしまったのでした。
 イ・サンが東京で不逞鮮人として殺された(長く収監されたことが元で健康を損ね、亡くなった)ことについては、韓国併合時代の話でもあり、日本人として申し訳ない、とは思いましたが…日本で上演するからといってそこになんらかの改変なり重きを置かせたようでもなかった、とも感じました。それこそ韓国人には常識でも、日本人はなんのことやらわからん、って人が多そうで、それもまた申し訳ないのですが、ではどんな手当てをしたらよかったんだと言われると困るので…うぅーむ。
 韓国語にこんな言葉があるんだ? なんて意味? などとうっすら思っていたタイトルは、「Les gens partent mais l'art reste」、「人は去っても芸術は残る」というフランス語から来ているようでした。わかりにく…! サブタイトルは「~残されたもの」。うーんやっぱりよくわからん…いい観客でなくてすみませんでした。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇花組『ドン・ジュアン』

2024年07月30日 | 観劇記/タイトルた行
 御園座、2024年7月24日11時、15時半。

 アンダルシア地方、セビリア。スペイン貴族ドン・ルイ・テノリオ(英真なおき)の跡取り息子でありながら、酒と女に溺れ、悪徳の限りを尽くす放蕩息子として悪名を馳せるドン・ジュアン(永久輝せあ)は、夜ごと女たちとの情事に耽っていた。今宵の相手は誇り高き騎士団長(綺城ひか理)の一人娘(二葉ゆゆ)。事態を知った騎士団長は娘を穢された怒りからドン・ジュアンに決闘を挑み…
 脚本・作詞・作曲/フェリックス・グレイ、潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健。2004年カナダ初演、20周年となる今年は世界ツアーを実施中のフランス発ミュージカル。2016年雪組で上演したものから衣装と舞台装置(装置/國包洋子)を一新して、花組新トップコンビのプレお披露目公演として再演、全2幕。

 雪組版の感想はこちら、外部版初演はこちら、再演はこちら。再演はきぃちゃんマリアが素晴らしすぎて円盤買いましたよ…!
 今読み返すに、いろいろとブラッシュアップしてきて、やっとだいぶ整ったんだな、という印象です(まだ「だいぶ」だけど)。最初からこれくらい仕上げてこいよ、という言い方もできるけれど…良くなっているので良きですね。わかりやすくなった分、シンプルでスタイリッシュになりすぎたのでは?と感じているようなツイートも見ましたが、まあこのあたりは好みもあるかな…私はストーリーがあるもの、その整合性がある物語、作品が好きなので。
 あとはやはりラストの「愛のために、俺は死ぬ」ってなんなんだ、って問題は、まだあるかな…? これ、そもそもフランス版ではどんなニュアンスで描かれているんでしょうかね? だって向こうの人は、自殺ダメ、ゼッタイ、な価値観なんでしょ…? あと、「ために」って訳されているけど、「for」みたいな意味なのか、それとも「by」みたいな「愛によって、愛が原因で命を落とす」というような意味なのか…?ってのもありますよね。まあなんか私としても未だ納得したようなしないようななんですが、でもオチとしては「ドン・ジュアンの死」しかない気もするし、とにかく全体としてとてもおもしろく観たので、満足です。楽曲もいいし、改めて好きな作品だな、と思いました。日帰りダブル観劇遠征でしたが、大充実、大満足でした。

 花組新トップスターとなったひとこちゃん、改めておめでとうございました。ここで言うことではないかもしれませんが、生え抜きでない花組トップって内外からなんとなくそういう目があってご本人はホントーにタイヘンなんじゃないかと思ったりするのですが、まあなるものはなるんだしなっちゃったんだからもうやるしかないんです。ちょっと小柄というか細身かな…?という気はしなくもないけれど、歴代そんなトップはたくさんいたし、なんでもできる総合力の高いスターさんだと思うので、全然心配していません。あとはこの先も作品に恵まれることを本当に祈っています…!
 プレお披露目がこの作品になったことは、ある程度出来が担保された作品であることや、初演でラファエル(天城れいん)を演じていた生徒がついに主演を…!みたいなエモさも演出されて、よかったと思います。上演する組が違うのもいいですよね、生徒があまり被りすぎていたらこの企画って通りづらかったんじゃないかと思うので…いろいろ違っていることもあり、新鮮に観られましたし、やはり全体のレベルも上がっていて、とてもよかったと思いました。そしてその真ん中をひとこが務めることになんの問題もないし、頼れるし、一番暗く輝いていて、良さも出ていて、これからが楽しみだなー、と純粋に思えました。ひとこドン・ジュアン、よかったです!
 あまり比較して語るのもどうかと思いますし、語れるほど回数を観ていないのですが、だいもんドン・ジュアンより少年っぽさが持ち味としてある気がして、それがまずいいなと思いました。だいもんのワルい顔、ギラギラさ加減はすごすぎて、まあ言うなればクドすぎて、物語の主人公として観客が好感を持ちチャーミングに感じる枠をギリギリ逸脱しているのでは…と当時の私は考えていたので。
 精神的に不安定だったのか、息子の美貌に溺れた母親が溺愛の一線を越えて息子を襲ってしまったらしい…というようなくだりが今回は完全にカットされていたので(ちなみにこれもフランス版にそもそもあったエピソードなのかなあ? 生田先生の付け足し? だから初演も会場替えたらニュアンス変わって外部版からはなくなった…のかなあ?)、そうした性的虐待のトラウマによる女性不信もあり放埒に走っている…のではなく、単に二十歳そこそこくらいの若者がグレてイキってサカって暴れてるんだな、と思えました。なのでドン・ルイは、「息子よ」の歌とかでうっかりいい夫いい父親みたいに見えないよう、もっと妻や息子を顧みなかった、仕事か愛人かにかまけて家にいなかった男に描くとなおいいのではないかと思いましたね。彼は体面を気にして息子を叱っているだけで、心から心配しているわけではない…みたいな方が、逆に心配しすぎてあれこれくっついて回っているドン・カルロ(希波らいと)との対比にもなるし、ドン・ジュアンがそういうのが嫌で寂しくてグレて暴れているのね、って説得力が増すと思うので。
(まあでも、多数の女たちを虜にしたある男がいた…ってのはある程度の事実だとしても、やはり男性作家によるモテ・ドリームみたいなものがそこに乗っている、というか乗りすぎているのはすごく感じるので、そこはちょっとつっこみたいですよね。どんなに金や権力や性技?があろうと、それで寄ってくる女ってそれだけのものでしかないし、人数だってホントたかがしれているはずなんであって…そんなことあるかい、デカいチンコがそんなにすごいと思ってんのか?そこに価値は本当にあるのか?とかの冷静な視点も必要だよね、とか考えたりも、しました。まあでも少女漫画で今でもやっている「みんなからモテモテのあんなに素敵なカレが、何故こんなサエないワタシに…!?」みたいなのもその裏返しなので、男女同罪両成敗なんでしょうけれど…でも、ドン・ジュアンがマリア(星空美咲)とくっついて、要するにただのそこらにいる若い男に成り下がると、周りの女たちはさーっと冷たくなるし、決闘騒ぎにも野次馬的冷やかししかしなくなるのが、リアルでヒドくていいな、と思いました(笑))
 そんなわけで、「俺の名は」はなんかあんまり良く聞こえなかったのですが、「エメ」とか「変わる」(これは邦題「シャンジェ」でいいのでは…「Aimer」が「エメ」なんだから。チェンジのフランス語ってことね、ってわかるでしょう普通…)、「愛だけが」なんかはとてもよかった。初めて恋を知った若い男の、少年のようなきらめき、輝き…キュン! そして、「嫉妬」が本領発揮だと思いました。
 そう、本当に愛があれば、もっと広い心でマリアの「昔の恋」を受け入れられるはずなんですよ。マリアだってドン・ジュアンの過去の愛人たちについていちいち何かを言っていないんだし…でも彼は、騎士団長の呪いとは別に、未だ本当の愛、深い愛を知らないから、プライドとかメンツとかを取って「決闘だ」となってしまう。
 ここでラファエルが応じるのには、ある種の理屈がある気がしますよね。断るなんて恥なので事実上できない、ってのもあるでしょうが…エルヴィラ(美羽愛)がマリアを陥れようとするのと同様で、嫉妬の矛先がダメダメなんですけれどね。つまり、こういうときに人は矛先を恋敵に向けがちだけど、本当に相対すべきは恋人、自分の恋愛相手なんですよね。恋敵なんてふたりの関係にそれこそなんの関係もないし、その人がいなくなれば自分たちの関係が改善されるというものでもない。でも人はたいていそこを見誤る…このあたりはまたラファエルに関するくだりで語ります。
 ところで外部版ではラファエルが本当に不死身で、ドン・ジュアンが刺しても突いても立ち上がり立ち向かってきて、このままだと本当に殺すしかないけれど、いくら決闘での殺人は法的に問われないとはいえ騎士団長に続いて間を置かず二度となるとさすがにマズい気もするし…とドン・ジュアンがためらい、怯え、ラファエルをそうまでして立たせるものってなんなんだ…となって、そこに彼のマリアへの愛を見る…というような解釈を私は前回したように思うのですが、そういうラファエルの不死身感は今回はあまりなかったような気がしました。そこからの「愛のために、俺は死ぬ」なので、やはりここでドン・ジュアンが突然理解した「愛」ってなんなんだ、とこの流れの意味はわかったようなわからないような…なのですが、ともかくどっちかが死ななきゃこの場は納まらないし、でも相手を殺す資格は自分にはない気がしたので自分で自分を死なせることにした、という感じなのかな、とも思いました。愛を知った人として愛に殉じた証として死ぬ…というほどきちんと考えられていない、若者の性急な決断、という気もして、それもひとこドン・ジュアンに似合いかな、という幕切れに感じました。
 うん、ホントよかったです、ひとこドン・ジュアン。主役はなんでもそうだろうけれどそれにしても出番の多い、大変なお役だろうけれど、どうぞがんばって完走してください。そしてまたひとつの伝説となり、この作品が愛され受け継がれ再演されていくことを私は望んでいます。

 さて、何度も何度も言いますし毎度申し訳ないのですが私は星空ちゃんが苦手で、それは残念ながら未だ変わらないのですが、しかしマリアはよかったです。というか「石の像」の歌がホントよかった! きぃちゃんのこの歌は絶品で、そらこの歌声にどんな人間もメロメロになるよ…!という説得力がハンパなかったのですが、それに匹敵しました。もともと歌が上手いスターさんだよなとはずっと思ってきましたが、磨きがかかった気がします。歌声に彩りがあり、艶があり、華やかでした。それでカーンとノミ?木槌?を振るわれたらそらハートにガツンときますって…! ひとことのハモリのあるデュエットも素晴らしく、いくらまどかが支えてもこれはれいちゃんには無理だった…とか思うと耳が幸せでした。
 みちるマリアは騎士団長の像を途中までは彫って、その後壊しちゃったんでしたっけ? 今回は手もつけていないので、職人として芸術家としてどーなんだって気もしますが、別に恋に溺れたら仕事はどーでもよくなった、とかではなくて、この石じゃないのでちょっと仕切り直しね、ってだけにも見えて、私はわりと納得できました。ただ、周りにあったのは歩廊としていた騎士団彫像のイメージってこと? 私はマリアの過去作かなとか思っていたのですが…どういう設定なんでしょうね?
 ラファエルとの関係に関しても、マリアが結婚式を先延ばしにするのに「あなたは戦争で死ぬかもしれないんだから」みたいな、人としてかなり薄情に聞こえかねない台詞を言うのがなくなっていて、よかったなと思いました。おそらく幼馴染みで、嫌いじゃないから押し切られてつきあってきて、周りから愛されているんだから幸せでしょ、それが愛よ、と言われるけど今ひとつピンときていなくて…みたいな、やはりいろいろとまだ幼い、若い、早熟すぎるこの時代・社会の女性からしたらちょっと変わった、でも本当に普通の女性という感じで、別に芸術家だからエキセントリックだとか浮き世離れしている、とかはないヒロインに私には思えて、好感が持てました。
 キャラのせいもあるかもしれないけれど、ドレスになっても星空ちゃんが変に膝折りしていなくて(靴はペタンコで、作業着姿のときのブーツの方がヒールがあったと思いますが)、結果ふたりの身長はほぼ揃っているんだけれど、それで対等なカップル、という感じが出ているのもいいなと思いました。ドン・ジュアンはそんなことを気にする男じゃないと思いますしね。
 ただ、お衣装はなー…(衣装/有村淳)作業着としてなめし革のエプロンみたいなのを身につけていてもいいしズボンでもいいんだけれど、ブラウスはスモーキーなピンクとか、別に白でも、なんかとにかくもうちょっと可愛い、綺麗な服を着ていてもよくないですか? ドレスになっても謎のグリーンで…もっと明るい黄色でもオレンジでもよくない?
 あと、「歌劇」かなんかで演出としてもっとプラトニック感を出したい、みたいなことが語られていたかもしれませんが(歌詞にも残っているし、セックスしてないワケないので意味あんの?って気もしますが)、それで寝室での翌朝みたいな場面が抽象的なものになるのはいいんだけれど、そこでマリアがドレスを脱いだら黒いレースの縁飾りがある白の変なワンピース姿になってるのは、なんでなの!? 飾りはあってもいいけど、もっとロングの白のドレスとかじゃダメ? 別にネグリジェには見えない白ドレスなんて売るほど持ってるでしょ劇団は!? なんなのあのワンピ、あのころのセビリアにそんな服はないよ、てかそこだけ新宿のガールズバーみたいだったじゃん! やめてくれ!! 
 さらに言うとラストのどう見ても喪服な黒ドレス…いくら決闘で誰かしら死人は出るだろうと予想されるにしても、準備よすぎでは? てかそう思われちゃうでしょ? 教会へ祈りに行ったあとで、祈りのための厳かな服装なんだ…ってことなのかもしれないけど、なんの説明もないでしょ? ここでまたグリーンのドレスじゃつまらないのはわかる、でもなんかもっと他にあってもよくない…!?
 ラスト、ドン・ジュアンを掻き抱く姿はピエタっぽくて、とてもよかったです。
 このあとマリアは、ドン・ジュアンを想って愛の像を彫って、そのあとはもう彫刻はやめてひっそり生きていくのかもしれない…し、また別の恋をするのかもしれません。それはわからない。ラファエルも、エルヴィラも、ドン・カルロも、イザベル(美穂圭子)も、また別の恋人と出会っていくのかもしれません。愛はひとつじゃないのです…
 あとは一幕ラストの、みんなして総踊りになる場面のダンスがキレッキレでとても良くて、本公演のショーがとても楽しみになりました。学年は若いけれど、キャリアは十分踏まされてきたトップ娘役さんだと思います。がんばれー!

 さて、初演の2番手格は咲ちゃんのドン・カルロだったと思うし、がおりは当時もそれ以前も以後も別格スター扱いだったとと思いますが、今回の2番手格はしっかり騎士団長役のあかちゃんでした。あかちゃんも別格は別格なんだけれど、スカステの番組なんか見ていても、他の組と揃えて3番手や4番手格まで並べるときに、あかちゃんとはなこが今のところ置かれていますもんね。でもホントはだいやらいとれいん…って流れなんだろうけどな、など思ってしまっているわけですよ私は…(てからいとなんでしょ? 休演が長かったのが痛いけれど、今や少しも早くバウ主演をください…!!)
 でも騎士団長/亡霊って本当にキーパーソンだし、あかちゃんはひとこの同期でもあるわけで納得の起用だし、もうひとりのドン・ジュアンのようでもあって存在感ありまくりだし、ホントいい仕事をしていたと思いました。なんだろう、亡霊とか死神というより、まっとうな、あるいは理想の男の姿、本来ドン・ジュアンが目指すべき人間像…みたいなものだったのかもしれません。仕事して、周りの人望があって、家族を持ち、愛して…みたいな、ある意味、普通の、まっとうな男、人間…
 登場のカッコいいことよ! 御園座にセリってあるんだ…!みたいな新鮮な驚きもありましたね。
 かつての宙組のテルキタみたいでもあるかな…ま、いいか悪いかは別にして。カテコでにこやかなのもラブリーでした(笑)。

 セカンドヒロインはエルヴィラでしょうが、これまた初演のくらっちとだいぶ印象が違う気がしました。くらっちの方がエキセントリックで、狂信的一歩手前の意外と情熱的な女性、という感じだった気がします。あわちゃんはあくまで世間知らずでおぼこくて残念ながらそんなに頭がいいわけではない、まあ貴族の娘としては平均的な女性…という役作りだったような気がします。だからアンダルシアの美女(紫門ゆりや。この役といえば生腹ですが、細いというより薄い! 内臓はどこに納まっているの!?)に対抗して脱いでも中途半端だし(脱がされすぎ、という感想を見て、スカートも取られるくらいまでいくと思っていたのにアララ残念…とか感じた自分をちょっと反省しました)、その後も酔っぱらって調子に乗った男とキスしようとして、やっぱりできなくて顔を背ける…という仕草がとても印象に残りました。
 そもそもの登場シーンも、事実としては単にふたりが一夜をともにしただけであって、そこからの結婚云々はすべて彼女の常識による彼女の思い込みなんだな、というのがわかりやすくなっていてよかったと思います。その後の彼女の行動も特別悪辣ではないと思うし、いい塩梅でした。ただ観客の同情を誘えるかというと、どうかな…あと第一声は「ありがとうございます、ドン・カルロ」にしてほしい。彼の名前をさっさと提示すべきです。
 結局のところ、女性の生き方として誰かの娘か妻か母親か、未亡人か修道女かさもなければ娼婦、という選択肢しかないこの社会がクソなのであって、エルヴィラには罪はありません。もちろん誘惑されても乗らなかった修道院で勉学している娘、ってのもいるはいるんだろうけれどさ…マリアの職人/芸術家ってのはだいぶイレギュラーなんだろうし、それこそ大きな工房の親方かなんかをやっている父親でもいないと成立していないのかもしれませんよね。そしてタベルナやタブラオにたむろしてドン・ジュアンに群がっている女たちは、あれで誰かの娘か妻か母親であり、そして兼娼婦なのでしょう…
 このあとエルヴィラが修道院に戻るんだとして、彼女が結局この顛末を見て神様についてどう考えるようになったのか謎ですが、修道院が受け入れられたのなら彼女の醜聞は忘れられたかごく小さなことだと判断されたということだろうから、スガナレル(紅羽真希)がドン・ルイに言う理屈はちょっとおかしくない…?とは思いました。
 あわちゃんは歌を心配されていたと思うのだけれど、大健闘していて問題ないと思いましたし、かわいそうになりすぎたり嫌な女になりすぎていない、いい塩梅で作品の中にいるな、と感じました。下級生トップ娘役の体制の中で、娘役さんとしてはここからが勝負でもありおもしろいところなんだから、いっぱいいいお役をやって活躍していただきたいと思っています。わりと好きなんだ、応援しています!

 で、3番手格がらいとドン・カルロなんですかね。幕開きの第一声、そして歌、緊張したでしょうが素敵でしたよ! 2幕とっぱしの後ろ姿もシビれました。長身でスタイルがいい、顔がいい、素晴らしい武器ですよ! すみません好きなんです、甘いです…
 でもマチネは、心配しながら観ていたからかもしれませんが、演技があまり良くないのでは…と感じてしまいました。というか私はドン・カルロみたいなキャラクターが(あるいは彼とドン・ジュアンみたいなキャラクターとの関係性が)好きなので、「私が観たいドン・カルロ」と微妙に違って感じられた、という私の側の問題もあったでしょう。歌は低音で歌えていてよかったんだけれど、芝居の声はもっと明るい地声でもいいのでは、無理して低い声でしかつめらしくしゃべりすぎているのでは…とその似合わなさにちょっとヒヤヒヤしてしまったのです。その方向性の役作りもわかるけれど、ちょっと足りていない気がしたので。だったら、幼馴染みのちょっと歳下の男の子で、ドン・ジュアンがグレ出す前はふたりしてそれこそ子犬のようにじゃれて転がり回って遊んでいたんだろうような、真面目で純粋な男の子で、ドン・ジュアンが何故変わってしまったのか全然わからなくてつらくて、酒や女や博打やに遊び回っていてもドン・ジュアンが全然楽しそうじゃないこともつらくて、とにかく心配でついて回っては小言を言う、でっかい子犬のような青年…みたいな方向性の方が、無理なく自然に作品に中にいられたのでは、と考えてしまったんですよね。
 でも、ソワレはなんか、すとんと納得できました。一回一回、らいとが何かをつかんで明らかに前進し上達している、というのもあるけれど、同い歳の幼馴染みに見えないこともないかもしれない、とも感じました。
 てかあの慇懃無礼に見えるお辞儀、いいなー! ドン・ルイがあまりいい父親ではなかったのなら、ドン・カルロがそれを知っているのなら、あの慇懃無礼さは正解なんですよね。
 あとは、イザベル相手だとしても一人称「私」な男には見えなかったことがネックかな…てかココ別に「僕」でよくない? ダメ?? 私が聞きたいだけですかそうですか…
 ドン・ジュアンが騎士団長を見て話しちゃうところの彼には、「誰と話してるんだ?」「誰もいないぞ、何もないぞ、どうした?」みたいな台詞をもっと足してほしかったかな。アドリブで入れちゃってもいいのよらいと…決闘の最中では、みんなが騎士団長の呪い?で固まってストップモーションになるのに、ドン・カルロは動けている一瞬がありましたよね。あれも、彼がドン・ジュアンを愛しているからこその描写だと思うんだけどなー…プログラムのあらすじの、募らせる「他言する事の出来ぬ淡い想い」ってそういうことでしょう?
 歌詞としてはエルヴィラに対して同情のちラブ、みたいなことが歌われているような気もしますが、自覚があろうとなかろうとドン・カルロが愛しているのはドン・ジュアンなんですよ。むしろエルヴィラのように、服を脱いで彼に迫って愛を乞いたかったことでしょう。でもできない、同性だから、友達だから…床ドンがなくなっても、そしてひとこはだいもんよりさらにドン・カルロにあんま興味なさそうだったけれど、それでもここにあるのはそういう関係性だと思うなあ…二幕冒頭のドン・カルロの目が死んでるのがいいんですよね。マリアの登場は彼にとっては全然嬉しくなかったんですよ、たとえそれでドン・ジュアンが嬉しそうでも、彼のために寿げない。そういう「嫉妬」がドン・カルロにもあったんです。一方的な「友人」でも、ただ彼のそばにいたかった…その気持ちはイザベルが言うように、ドン・ジュアンの周りに侍る女たちと同じなのでした。ドン・ジュアンがマリアと愛し合い、しばらくはマリアだけがいればいい、「愛だけあれば 他に何もいらない」と歌うような状態が続いたとしても、やがてその愛が深まり広がれば、ドン・ジュアンは友人ドン・カルロを求めたし受け入れたはずなのです。ただ、その時間は彼には与えられなかった…
 ドン・カルロがどこぞの貴族の次男坊とかなら、ドン・ルイの養子になって家や財産を継ぐといいと思います。それかエルヴィラが養女になって、その婿に入るのか…うーむ、なんでもいいけど幸せになってねドン・カルロ…!

 ひとこがかつて演じたラファエルはれいんくん。でもこれがまた、だいもんドン・ジュアンも濃かったけどひとこラファエルも濃かったんだなー、と改めて思い知らされる、なんというか…ライトさでした。それこそ地声や持ち味が明るいタイプだからなー…ならもっとやんちゃ小僧で作ってもよかったかもしれませんけどね。無理にドス効かせるとか、ホント無理なものだからさ…モラハラ男じゃなくなっても、いいヤツなんだけどちょっとめんどくさい男、みたいな表現はできるはずですしね。でも、れいんくんも健闘しているとは思いました。別箱でこれくらいの大きめなお役、絶対に糧になりますよ…!
 マリアとの関係は、ラファエルの強引さというか思い込みというかな部分は確かに大きいのだけれど、マリアも明確には否定しなかったのが悪いんだから、確かにちゃんと婚約者なんですよ、自他ともに認めているんですよ。そりゃ戦闘で生死不明、というのは誰にとっても残酷だったと思うけれど、マリアがラファエルが帰らないことに全然傷ついていない様子なのが、もう、ね…イヤわかるし、別にラッキー!これでドン・ジュアンと被らないじゃん!とか考えてるわけではない、ってのもわかる。でも深く考えたくなかったんだよね、言いたくなかった、言わないですませたかった…ヒロインの発言としてはいかがかと思われますが、リアルだし真実だろうし、私はいいなと思いました。そらもう男たちは決闘で決着つけるしかなくなりますよね、まあなんの決着?って話なんですけれどね…
 ドン・カルロは「ドン・ジュアン、きみの方が強い」とか歌いますけれど、貴族のボンボンでそれなりに嗜みはあるだろうけれど、酔いどれへっぽこ男に職業軍人が負けるものなのか…とかちょっと思ったんですよね。でもラファエルたちって民兵というか、民間人だけど徴兵制があって簡単な訓練だけで前線に送られるような、ほとんど一般人なのかもしれないな、とも考え直しました。それでもカッとなれば剣を抜いてドン・ジュアンにつっかかっていくラファエル、ドン・ジュアンを庇って剣を抜き応戦するドン・カルロ…萌えしかないシチュエーションでした…! 今回足されたんでしたっけね?
 それでも、ラファエルだって心移りした恋人の気持ちは取り戻せない、なんてことはわかっていたと思うんですよね。だから決闘なんてなんの解決策にもなっていないんだけど、でもやっちゃうのが男なんですよね、馬鹿ですよね…決闘の最中、マリアが割って入ろうとしたりつらそうに顔を背けたりドン・ジュアンを案じて泣いているのを見て、ラファエルの「恋人を奪われた怒り」みたいなものはしおしおと小さくなっていくのがわかります。なんならマリアのために決闘なんて途中ででやめてあげたいくらいなんだけれど、でもそういうわけにもいかないから続けるし、それとは別に死にたくないからがんばるわけで…その袋小路感がたまりません。
 でもこのラファエルの必死さ、真剣さが、ドン・ジュアンに自分とは違うな、とも思わせたのでしょう。本当の意味で愛を知っている人間の戦い方は、あまりにも刹那的な自分とは違う…とは感じられたのではないかしらん。だから、その域に自分がいくには、死んでみせるしかなかったのではないでしょうか…
 このときの怪我がもとでその後脚が少し悪くなったりしても、ドン・ルイが何かしらの経済的援助をしてくれる、とかはあるんじゃないでしょうかね。そして彼もまた次の恋に出会うこともあるでしょう。幸せになってねラファエル…

 初演から続投のじゅんこさんと圭子姐さんは頼もしい。特に圭子さんは外部のオサのイザベルに近くなったというか、これまた塩梅良く作品の中にいるなと思いました。場を攫いすぎていないところがいいし、ドン・ジュアンの最初期の女としていい感じの存在感を醸し出していて上手いな、と唸らされました。主演と学年差が開いたからかな…ホントは凛乃姐さんとかがここをやっても、できなかないんでしょうけれどね。
 ところでフェルナンド(紫門ゆりや。『アルカンシェル』に続いて二役ですが、ホントすごいよ…!)は伍長だしラファエルの上官なんじゃないの? なんか口調おかしくなかった…? パロマ(凛乃しづか)の妊娠って以前はなかったんでしたっけ? てかタマラの詩希すみれちゃん、よかったなあぁ…! てかファニータ(咲乃深音)も、歌えるってのもあるけどだいぶ目立つ役になっていた気がしましたが、まさか次でやめないよねみょんちゃん…? あとはカルラの湖春ひめ花ちゃんが垢抜けてきて娘役として綺麗になってきて良きでした。入ってきたときは顔がデカすぎて童顔すぎてこれは難しいのでは…などと心配していましたすみません。シュッとしてきて、こうなるとこの特徴的なお顔は目立ってイイのですよ…! 
 あとはやはり美空のまるくんがいつでもどこでも上手いですね。最下に近いところにいた、おそらく希蘭るねくんかな?が華やかな美貌で目を惹きました。

 行きの新幹線では持参したお弁当をいただき、大休憩はちょっと離れたカフェで涼んで、終演後は御園座の下の「おか富士」さんでテイクアウト予約した鰻丼を買って帰りました。ちょうど土用丑の日だったんですよね。曇天で暑さがそこまでではなく、楽しい遠征となりました。スカステで映像で見るのも楽しみです、早く放送されてー!
 お披露目本公演のポスターもいい感じでしたし、この先も楽しみです!!








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐川俊彦『「JUNE」の時代』(亜紀書房)

2024年07月23日 | 乱読記/書名さ行
 1970年代後半、アニメ専門誌が次々と創刊され、第一回コミックマーケットが開催されたおたく文化黎明期。同人文化、二次創作が盛り上がりを見せる中、密やかに「JUNE」という妖しい花が開花しつつあった…サン出版のアルバイトとして「JUNE」を企画、創刊した著者によるやおいBL紀元前、創世記、黎明編。サブタイトルは「BLの夜明け前」。

 著者は1954年生まれ、私のちょうど15歳年長です。いわゆるおたく第1世代とはこの間、著者寄りの60年前後に生まれている層をいうのではないでしょうか。でも私も遅ればせながらその時代感は共有して生きてきた意識があるので、とてもおもしろく読みました。当時の日記か覚え書きみたいな記録があるのか、はたまた記憶だけで書いているのかわかりませんが、貴重な証言だとも思いました。
 私は「JUNE」(ちなみに雑誌のロゴはJはともかくあとはすべてどう見ても小文字ですが、すべて大文字なのが正しい表記なのでしょうか…)自体を購読したことはまったくないのですが、存在はもちろん知っていましたし、中島梓『小説道場』を読んですごく刮目させられたことを覚えています。創作の作法みたいなことは私はこの本と鈴木光明『少女まんが入門』ですべて覚えた、と言っても過言ではありません。また、「JUNE」が創刊時に参考にしたというアニメ誌(というか創刊時はポップ・サブカルチャー誌で、アニメ特集が当たったのでそちらに舵をきったという印象)『OUT』(1977年創刊)はかなり初期から読者でしたし、「りぼん」を卒業するころ「LaLa」に出会いやがて「WINGS」に出会い(そしてJUNE出身の西炯子の初期作品を愛読した…)、一方で中学生のころおっかなびっくり行った地元の小さなアニメフェスみたいなものから同人文化を知り、やがて当時まだ晴海でやっていたコミックマーケットに行くようになった中高生のころ世は『キャプテン翼』二次創作大流行でやおい文化の大輪の花が咲き乱れ…という思春期・青春を送った身なので、ホント親近感、同時代感がある記録でした。
 当時BLという言葉はありませんでしたし、のちにBLという一大ジャンルが生まれても、「JUNE」とは違う、という認識もまた当時はしっかりありました。別格、とかいう意味ではなくて、目指す方向性、在り方みたいなのが違ったんですよね。それは成り立ちの違いによるものも大きいと思いますし、そういうところもきちんと書かれていて納得度が高かったです。1995年に休刊してからは(「小説JUNEは2004年休刊)もうかなり経ってしまっているわけで、当時のことなんか全然知らない、という世代も増えているからこそ、どう違っていたのか、という検証は必要で大事で、そういう意味でも大きな一冊だと思います。
 サン出版ではゲイ雑誌(これも当時ゲイという言葉はまったくメジャーではなく、フツーにホモ雑誌と呼ばれ、でも女性のヌードグラビアが載っているようなタイプのエロ本とはまた違う文化圏の雑誌…という認識だったかと思います)「さぶ」が先行していた風土(?)もあるわけですが、それも今で言う当事者が編集・刊行している感じはあまりなかったんですよね。「JUNE」もそうで、女性の間で「男の子同士」というのが流行っているから、と企画されたとはいえ、編集スタッフは著者含めて女性でもないし男性同性愛者でもなかったわけです。当時からわかるような不思議なような…などと思っていたのですが、この本に「女の子が好きだったから、女の子の読者のために雑誌をつくっていたのです」という一文があり、ソレだ!とこれまた納得しました。男性異性愛者でも、マッチョな方に行かずに、女性に寄り添おう、女性を知ろう、女性を楽しませようという方に行く稀有な存在がいるものなんですよね。でも、当時の当人も、何がウケるのか、何故ウケるのかよくわからないままに、同好の志の友人知人を巻き込んでいろいろ試行錯誤してみていた…その空気感もめっちゃわかります。給料や原稿料がちゃんと出ていたのかも謎ですが、そうしたことを許容する全体的な右肩上がり感、余裕や希望がある時代でした。そこから徒花のように花咲いていったボイスドラマやOVAなど、もはや望むべくもない令和の世になりはてた…とも思いました。だって最近の『らんま』だの『ぬ~べ~』だののリメイクのニュースって、要するにその残滓ですもんね…
 別ルートで萩尾望都や竹宮恵子が言語化している、何故「少年愛」だったのか、みたいなことに関してもしっかり語られていて、改めて納得できました。手塚治虫や横山光輝を読んで育った女子が大人になって、女性なのでいわゆる少女漫画を描き始め、しかし「女の子を主人公にすると少女マンガ的な制約が強すぎて、描きたい本来のストーリー展開ができなかった」から「男の子を主人公に」した。「男の子の立場になり代わって、女の子が言えないことを言わせる」、「少年を描くことでこれまで女性が受けてきた社会的な制約からの強い開放感があった」…そこで得た「自由」には「性的な自由」もあった。「女の子のままじゃダメで、美少年になったらできる。でも『中の人』は女の子なので、その対象の相手は男性になる。つまり、表面的にはゲイに見える。『少年愛』とはそういう仕組み」というのはとてもわかりやすい説明だなと思いました。逃避ではなく、脱出…これも、BLの生まれ方とは明らかに違うと思います。
 でも、そこから、女子の女子による女子のためのBLが生まれた。そちらのことは著者にはもう全然わからない…その感じもとてもよくわかりました。逆カプ争いに関する感想のくだりとかね。「JUNE」は役割を終え、著者もまた教えの仕事に転じていく…周りでは他界する人も出てくる年齢となりましたが、それでも長い人生、まだまだもう一展開あるかもしれないわけで、そんなポジティブさも素敵な一冊だな、と感じました。過度ではない自分語りでまとめられている様子に、わりと好感が持てたのです。よくある「あの大仕事は俺がやったんだ」というオレオレ詐欺的な自慢話感がないところがまた反マッチョで、読みやすかったのかもしれません。ひとつの総括として、とてもよくできている本だな、と思いました。興味がある方、オススメです!









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『トスカ』

2024年07月22日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場オペラパレス、2024年7月19日19時。

 原作/ヴィクトリアン・サルドゥ、台本/ジュゼッペ・ジャコーザ、ルイージ・イッリカ、作曲/ジャコモ・プッチーニ。指揮/マウリツィオ・ベニーニ、演出/アントネッロ・マダウ=ディアツ、美術/川口直次、衣裳/ピエール・ルチアーノ・カヴァッロッティ。
 トスカ/ジョイス・エル=コーリー、カヴァラドッシ/テオトール・イリンカイ、スカルピア/青山貴、アンジェロッティ/妻屋秀和。

 過去に観たものではこちらこちらなど。
 今回も安定のB席、3階最前列センターブロック上手寄りで、十分に堪能しました。
 1幕はやや眠かったのですが、2幕は俄然おもしろくて、やはりゲスのスカルピアが出てきてこそなのかもしれない…など思いました。あとは、今年いっぱい毎月月末に刊行される『新装版 動物のお医者さん』を楽しく買い集めているので、新装版ではまだその収録巻が出ていないのですがトスカ回のことをついつい思い出してしまい、おお空気椅子、ナイフがない、蝋燭が熱い…などニヤニヤして観てしまった、というのもあります。イヤすみません…
 しかしトスカがあまりに嫉妬深い女とされていることは解せないなー。オペラはミュージカルと違って現代解釈で改変するなどはしづらいから仕方ないんでしょうけれど、当時フツーだったのかもしれないこうしたミソジニー感は今となっては気に障りますよね…まあスカルピアのゲスっぷりもたいがいなんだけれどさ。
 歌手はみなさん押し出しも良く声はもちろん素晴らしく、楽しく観ました。「歌に生き、愛に生き」もとてもとてもよかったなあぁ、ピアニッシモまで綺麗に響いて…
 スカルピアはキャスト変更でしたが、まったく問題ありませんでした。満足!










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇花組『Liefie』

2024年07月20日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 日本青年館ホール、2024年7月18日15時。

 オランダの小さな町で新聞記者として働くダーン(聖乃あすか)は、誰もが思わず笑顔になるような、世界を明るくするような「言葉」を探している。そのために自ら新聞の広告欄を購入し、「あなたに伝えたいこと」と題した街の人々に取材した記事を連載している。ニュースが掲載される水曜日、ダーンは幼馴染みのミラ(七彩はづき)が働くカフェへと必ず足を運ぶ。ダーンとミラは幼いころからよく一緒に遊んでいたが、大人になるにつれてミラはどんどん笑わなくなっていた…
 作・演出/生駒怜子、作曲/手島恭子。サブタイトルは「愛しい人」というロマンチックコメディ、全2幕。

 ほのかちゃんの初主演作の感想はこちら、2作目はこちら。生駒先生のデビュー作についてはこちら。今回がデビューかと思っていましたが、違ったんですね…てか進化してないじゃん、劣化してるじゃん……どうした? もう疲れちゃったのか…??
 イヤなんか景子先生とかもたまにこのテの作品をやらかすけど、でも作家性が全然違いますよね。イヤなんかほわっと温かい、ええ話をやりたかったんだろうけど、でも、でもさ…どなたかが「学生演劇みたい」と言っていましたが、要するにそういうことですよ。中学生が書いたみたいな脚本で、歌詞も台詞も素人臭くて、演出はフツーで…セットがやたらお洒落だったので(装置/川崎真奈)、何かのパクリじゃないことを心底祈ってます。劇団のチェックがザルだから、たまにやらかしますからね…マジ勘弁してくださいよ?
 というかこの椅子、「居場所」のメタファーだってホント? そんなこと劇中で言ってました? これって居場所探しの話だったの? でも別にミラは祖父の店で働いていてレオは大工修行していて、社会的な居場所がちゃんとあるじゃん。二幕冒頭にミラの椅子取りゲーム場面がありましたが、私はめっちゃトートツに感じましたけど…書店のブランコもそういうことなの? それでレオ(侑輝大弥)は座れなかったの? でも最後にダーンと和解したら椅子に腰掛けられたの? たまたまではなく、そういう演出だったの? ホントに?? でも伝わってなくない…???
『夢現~』はとんがっていておもしろい意欲作だったのに…なんでだろう、あまり評判良くなかったのかな? それでフツーのも作れますよ、って見せる方向に行っちゃったのかな? いやー、でもなあぁ…あ、ほっこり可愛らしいお話でおもしろかった楽しかった、好き、と感じた方にはすみません。私は全然ダメだった、という話です。
 なんとなーく嫌な予感がして、一回でいいや、遠征もしなくていいや、と判断したかつての自分を褒めたいです。しかしほのかちゃんは残念だなー、初主演作も決して出来がいい作品ではなかったしなー(だが作家のやる気は断然感じた)、『舞姫』はいうても再演だしなー。まあひとこ任期中にもう一、二作は主演作が来ると思いますが、それでいい当たり役に巡り会えるといいですね。それか、本公演で二番手としていいお役をもらえればいいのだけれど…フィナーレのデュエダンがなんかそんなイメージなのかな、とも思ったんですけれど、ほのかちゃんって『青薔薇』新公みたいな中性的なフェアリーか、でなかったらもう『冬霞~』みたいな方に振り切っちゃった方がいっそ似合うのかなー、とか思ったりします。なんにせよこの素敵なスターをもっと生かす役、作品を回してやってくれよ劇団!と切に思うのでした…
 あとはもうホントちゃんと作家を育ててくれ劇団!と言いたいですね。企画をちゃんと精査しているのか?という不信感がマジであります…
 別に善人しか出てこないほっこり可愛いお伽話でも全然いいんだけれど、でもじゃあヒロインの両親の事故死なんて重いネタをぶっ込むなよ、と思うのです。そして主人公がそれもあってか新聞記者になったようなのに、では実際の事故の経緯はどんなものだったのか、当時どんな報道がなされていたのか、今はどういうことだったと認識されているのか、15年ぶりの今回の取材、報道がどんなものだったのか、それで何が変わったのか…そういう説明が全然ないじゃん。なんなの?
 ミラはひとり生き残ってしまったことに対して罪悪感を感じていて、笑わなくなっていったということなの? でもミラが笑わない、って設定ってプログラムのあらすじにあるだけじゃない? ミラがアンナ(真澄ゆかり)と会話していたときの変顔は、単なる変顔だとしか私には感じられなかったんですけど…
 アンナもダーンもミラの幼馴染みで、ということはご近所で家族ぐるみのつきあいだったのでは?とも思うのだけれど、ふたりの両親の話は全然出てきませんよね。ふたりは一瞬たりとも「死んだのがうちの親でなくてよかった」とかは思わなかったのでしょうか? そしてミラは祖父ヨハン(一樹千尋)に育てられたということなのでしょうが、傷ついてかわいそうな子としてみんなから腫れ物に触るようにいたわられつつ成長したということ? ミラにはそれが苦しかったけれど、レオはそれを妬いていたということ? レオも幼馴染み…ではないですよね、でも歳が近くて周りで様子を見ていたということ? レオの両親がいないのは事故とは関係ないんですよね? じゃあなんで今さらレオがミラに絡んでいくの…?
 ダーンとミラがお互い告白していないだけで好き合っていて、周りもわかっていてじれじれ見守っている…というのはわかるしまあまあ楽しめましたが、でも突然跪いて指輪の小箱ぱっかーんと開けてプロポーズとか、むしろ怖くない…? パレードは結婚式でしたが、サービス過剰というか…むしろ恋愛も結婚も舐めてんのかこの作家、って気が私はしました。ホントすみません…でも、無理。
 そもそも、ダーンが自分の連載枠を買っているって設定、要ります? 記者として情けなくない? てかあの社長(美風舞良)ならフツーに紙面をくれるのでは? というかこの新聞社は地方新聞を発行しているんだと思いますが、街ネタ部にこんなに人手が割けるほど規模がデカいのか?という…いや若手男役を出さなきゃならない都合はわかるんですけどね、もう少しやりようはなかったのかと言いたい、ということです。
 ジェームス(泉まいら)も別に悪役ではないんだけれど、彼の家庭の事情もよくわかりませんでした…単身赴任じゃないよね、どういう別居だったの? でもヤン(初音夢)はちゃんと懐いてたからときどきは会っていた、良き父だったということ? ヤンの歳とミラが事故にあった歳は同じだけれど、それはたまたま? というかジェームス自身はこの事故とはなんの関係もないんですよね? それとも当時偏向報道をしてしまったということなの? そう、なんかそういう報道被害とかのお話なのかなとも考えていたんですけど、全部中途半端にふわっとして終わりましたよね…なんなの??? すみませんマジでわかりませんでした…
 細かいディープな設定があったけれど、重すぎたのでなくしたのではないかという考察も見ましたが…そうなの? でも重いのが人生でしょう、それをどう軽く明るく描くか、がエンタメの極意なんじゃないの? 全部なくしてどーするよ…作品には作家が人間を、人生を、世界をどう捉えているのかが表れます。私はこの作品からはすごーくあさはかなものしか感じ取れなかったので、評価したくないのです…
 楽しかった、おもしろかったと感じられた方がうらやましいです。別にシリアスに作れと言いたいわけじゃないのです、たわいないほっこり作品だってあっていい、というかあるべきだと考えています。でもそれを作るにはただほのぼのやってたら駄目だと思うんですよね…ウェルメイド舐めんなよ、と言いたいのです。
 もう一作くらい別箱やって大劇場デビュー…なのでしょうか? ショーのセンスがあるなら、まずはショーから、はいいかもしれませんね。ショーなら若い、目新しいってだけでなんとかいけると思うので…

 というわけでほのかちゃん、次の本公演は素敵なお役が来ることを祈ってます。三番手としては辛抱役も多かった気もするので…
 はづきちゃんは美声でとても良き。しどころなさげなヒロインを可愛くやっていて好感持てました。ただ、娘役スターさんとしては地味、か、な…?
 ところでミラの登場には聖乃会が率先して拍手を切るべきでは? あと、プログラムはちゃんと1ページ取ってヒロイン扱いしてくれよ劇団!と思いました。
 二番手格はだいやになるんですね。でもプロローグで意味ありげに出たあとはずーっと出番がなく、その後も出番としては少なくて、新入社員ピーター(鏡星珠)のほうが目立っていておいしく見えたので、フィナーレとか私はけっこう困惑しました…てかここも拍手が欲しいぞ! まあ鏡くんも『巡礼』新公のなんだったんだ大抜擢以降、特に扱いがいいわけでもないので、やっとおいしい役が来てよかったねという気はしました。元気でうるさくてでも邪魔していなくて、よかったです。
 そして娘役二番手格は仰天の真澄ゆかりちゃんですよ…! えっ、次回でやめないよね? イヤ次でやめるからって役付きが良くなるようなクラスのスターじゃないと思うので、大丈夫だと信じていますが…私は顔が好きでずっと注目してきましたが、新公含めてこんなに
役が大きかったことなんて今までまったくなかったじゃん。ぽっぷあっぷも出たことないのにナウオンですよ、何事? 主要スターがみんな御園座に行っているとはいえ…イヤしかし達者でした可愛かった綺麗だったやればできるんです知ってます、フィナーレ娘役群舞センターもたいしたものでした。でもホント何故…という動揺の方が大きいです。でもみんなが覚えてくれたら嬉しい!
 あと、アンナはしっかりしているだけでダーンやミラより歳上、というわけではないのかな? 優男のダーンなんかより自分がミラを守る、ってのはすごくいいし、なんなら百合でもよかったんですけど、でもなんでそんなにミラに過保護になるんだ?ってのはややあったかな…あと、ピーターとのくだりも可愛くてよかったんだけど、なんでもかんでもカップルに仕上げて終えなくてもいいんですよ、とはつっこみたかったです。
 MVPは子役のゆうゆかな。『BF』の茉莉那ふみと並ぶ今年の子役ベストアクトでは…ただ彼女もまだ新公内ですよね、ちゃんとヒロインやらせてくださいね劇団? フィナーレの娘役姿も素敵でした。きちんと起用してくれー!
 あとはみんななんかちょっと役不足でしたかね…ゆかちゃんがヨハンでも問題なかったとも思いますけどね。一樹さんは『アルカンシェル』でも花組にいたしね…
 可愛くて目立っていたのは常和紅葉ちゃん。本公演でも見つけられたらいいなあ…(でも役名の「おかし屋」という表記が嫌。「ぼうし屋」も…何故そこをひらがなに開く!?)

 配信の方が意外に観やすい作品なのかもしれません。DCのほうが青年館より気持ち狭いのかな? まあ、これでほっこりした、愛しい人を大切にしたいと思えた、という観客が増えるなら、いいことなのだとは思います。無事の完走をお祈りしています…!













コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする