駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

樹林伸『東京ワイン会ピープル』(文春文庫)

2019年11月30日 | 乱読記/書名た行
 不動産会社に勤める桜木紫野は、同僚に誘われてワイン会に参加する。口慣れないワインと人間関係に意気消沈する紫野だったが、織田一志というベンチャーの若手旗手と出会う。紫野のワインに対する鋭敏な感覚に興味を持った彼は、新たなワイン会に紫野を誘うが…『神の雫』の原作者が描くワイン小説。

 漫画原作者として名前は知っていましたが、小説を読むのは初めてでした。ザッツ通俗的かつスノッブで、大変楽しく読みました(笑)。同じモチーフでも女性作家ならこうは描かないだろう、という男性作家のミソジニーをバリバリ感じましたが、そう書きたかったんだろうし連載の掲載誌は「別冊文藝春秋」だったようなので、いいところなのでしょう。単行本になったのは一昨年で、早くもやや古い感じがまたたまりませんでした。
 しかしこれはこの秋に映画になったそうなんですが、どんなだったのやら…ただでさえワインなんて呑まなきゃわからないもので、文章でいろいろ表現されるのはそこからの想像をまだ味わえるものですが、そのイメージをそのまま映像化しちゃうと途端に陳腐になるんですけどねえ…味わっているヒロインを色っぽく描写するだけなら、エロティックでいいのかも。まあ観る気もないし、言っても詮ないことですが…
 と、つっこみながらの読書が大変楽しかったです(笑)。

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『鎌塚氏、舞い散る』

2019年11月25日 | 観劇記/タイトルか行
 本多劇場、2019年11月24日14時。

 貴族制度が続いている世界の現代の日本。「完璧なる執事」として名高い鎌塚アカシ(三宅弘城)は今、北三条マヤコ(大空ゆうひ)の従者として雪山の別荘に来ていた。マヤコの夫は昨年他界したばかり。その悲しみを癒やすためか、マヤコは毎晩のように盛大なパーティーを開催。人員不足に悩んだアカシは、旧知の女中・上見ケシキ(ともさかりえ)に助っ人を頼む。彼女に恋心を抱くアカシは嬉しそうだが、彼女に女中頭のポジションを奪われた若い女中・円子ミア(岡本あずさ)は不満顔。そこへスキー中に負傷した堂田男爵夫妻(片桐仁、広岡由里子)が保護を求めてやってきて…
 作・演出/倉持裕、美術/中根聡子。2011年『鎌塚氏、放り投げる』以降、連作されてきたシリーズ第5弾。全一幕。

 過去シリーズを観たことがなかったのでどんなノリかもわからず行ったのですが、ラブコメドリフでした(笑)。盆回りが特徴のシリーズらしく、またケシキさんや堂田夫妻は何度も登場しているキャラクターのようです。いっぷう変わったファーストネームには特に意味はないのかな? 私は名前だと認識しづらくて当初混乱しましたが、貴族制度が未だ残る日本、という設定故のものなのかもしれません。でもここにも別に深遠な思想とかはおそらく特になくて、単に使用人とご主人様のドタバタ人情コメディをやってみたくて始めて、そしてまあまあ当たったので連作上演している…という感じなのかなと勝手に解釈しました。
 なんせ達者な役者しか出ていないのでこの舞台の、というかこの世界の約束事みたいなものはすぐに理解できましたし、クスクス笑いつつもどうなることかと集中して楽しく見守れました。
 大空さんはシリーズ初の女主人役、マダムな役どころなわけですが、素敵なお衣装をきちんと着こなし上品な貴族ぶりも酔っ払いのメリーウィドウっぷりも素晴らしく、とにかく全編通してチャーミングで、スキーウェア姿に至ってはキュートさ100億点で滾りまくりました。倉持作品にはもう何度目かの出演になりますし、ご縁が続いているということは評価もされているんだろうと思うのですけれど、贔屓目かもしれませんが本当にちゃんとその役になるし上手いし綺麗だし可愛い! 夫とは別に愛していたかもしれない人、を誘い出すために連夜のパーティー開催だなんてどこのギャツツビーかと思いましたが、そのせつなさと、想いの届かない展開も絶妙でよかったです。もちろん途中のまさかのショー・スターっぷりもたまりませんでした! てかミュージカルだったとか聞いていないから!!(笑)それ故のキャスティングだったのかもしれませんが、大正解でした。
 来週は久々にお茶会に行くので、いろいろ話が聞けるのが今から楽しみです。次回作の『お勢、断行』は前作をたまたま観ているので、また楽しめるかな。来年の活動にも今から期待しています。



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マーガレット・アトウッド『侍女の物語』(ハヤカワepi文庫)

2019年11月24日 | 乱読記/書名さ行
 ギレアデ共和国の侍女オブフレッドの役目はただひとつ、配属先の邸宅の主である司令官を子を産むこと。しかし彼女は夫と幼い娘と暮らしていた時代、仕事や財産を持っていた昔を忘れることができない。監視と処刑の恐怖に怯えながら逃亡の道を探る彼女の生活に、ある日希望の光が差し込むが…自由を奪われた近未来社会でもがく人々を描く、アーサー・C・クラーク賞受賞作。

 これはカバー表4にあるあらすじを移したものですが、コレジャナイ感をものすごく感じました。1986年に発表された作品で、私は今読んだわけですが、もちろん作品がスリラーとして一級品だということもありますが、読んでいてもう怖くて怖くて仕方がなかったし、オチがひどいというか最終章のつまらなさの怖さがもう半端ありませんでした。文庫化が2001年でそのとき書かれた落合恵子の解説がついていますが、これがまたあまりおもしろくないのも怖い。つまりこの時点では、まだこれがきちんとディストピア小説に読めたんだと思うんですよね。だからこんなある種のんきな解説ですんでいる。でもそこから18年、残念ながら事態はもっとずっと悪くなっていて、小説は全体としてこれが過去になった近未来の物語として描かれているわけですが、今やこれは突入しつつある明日、なんなら今の物語にしか思えないわけです。これを乗り越えた未来、がまったく想像できないくらいの現実に私たちは生きている。それが怖い。
 そして最終章のつまらなさは、そこまで見越して著者が書いているのだろうなと思うとなお怖い。ネタバレしますが、最終章は本編を過去の歴史書として見てなされた討論、講演みたいなものとして書かれているわけですが、ここで司会をしている女性の学者も基調演説をしている男性学者も、この国のこの時代を踏まえて今より進化している様子がまったく見られないんですね。本編を我がこととして読んできた読者にとっては的外れな重箱の隅をつついているとしか思えないし、この学者たちが生きている「未来」が今より、またギレアデ時代より良くなっているようにも全然見えない。そしてこれは明らかにわざとそう書かれているのだと思うのです。その絶望感たるや、もうたまらないものがありました。
 この物語は全然過去にも創作にもなっていない、その現実が怖い。たとえば訳者あとがきも、侍女たちが「本名を使うことを禁じられ」「所有の意味での『オブ』に自分の派遣された男性のファーストネームをつけた名前を強制される」ことを「人が自由を奪われることを、まず何よりも名前を奪われる体験として(あるいは他人の名前を強制される体験として)描」いていて「作家としての見事な想像力」だ、とか語っているんだけれど、それって選択制夫婦別姓ができていない今の日本とまったく同じで想像でもなんでもないじゃん、としか私には思えませんでした。でもこの男性解説者はそのことにまったく気づいていないんですね。しかも「日本語にあえて訳せば『一郎の』とか『浩司の』という風になるだろうか」とか書いているんだけれど、一郎はともかく浩司ってどこから来てるんでしょうね、何故そこで自分のファーストネームで「英治の」と書かないのでしょうね。そして自分が妻に自分の姓を名乗らせていることに何故気づかないのでしょうね。ファーストネームでやりがちな欧米人とそれを姓でやっているだけの日本人の同質さ、あるいはその差異ということにもまるで思い至らない、その発想がまるでない。ことほどさように現実は、今はこうなのです。怖すぎる。
 本編のオチは一見安易に見えようともこうとしかしようがなかったかなと思うし、もちろん作品としては「注釈」まで含めてのものなのであり、すべて計算されているんだと思うのだけれど、この作品がこれだけ読まれて話題になりドラマにもなりそれでもなお世界は悪化している…ということに絶望を感じないではいられません。でもその絶望を知るためにも、今、読めてよかったです。



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祝・新生星組! こっとんプレお披露目『ロックオペラ モーツァルト』初日雑感

2019年11月21日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 こっちゃんがわりと好き、そしてひっとんは大大大好き! ここ最近の娘役のマイ大ヒット!! そしてそして演目も未見ですがよかったと聞いている! というので、なんとかかんとか手配して梅芸初日にいそいそと出向いてきました。というかお披露目開演アナウンスに心おきなく拍手入れられるってやっぱり貴重ですよね…!
 パリ初演の海外版もアッキーヤマコーWキャストの外部版も未見で、いわゆる『モーツァルト!』ならこちらこちら、『マドモアゼル・モーツァルト』ならこちら、が私の今までの観劇記です。
 なので比較は全然できないのですが、プログラムによれば、こっとんお披露目用にヴォルフガングとコンスタンツェの出会いの場面を作ったり、そもそもは二幕からしか登場しないはずのサリエリをプロローグに出したりと、けっこう潤色・改変できている印象を受けました。というかそもそもフランス版はほぼコンサートみたいな作品だとも聞きますし、だいぶ芝居パートを足しているんですよね? ラストもかなりこっとん仕様になっている印象だったので、だからこそ、ならもっとさあ…!と私は全体の構成に不満を持ちました。今回は主にそういう話です。

 さて、モーツァルトといえば父レオポルドと姉ナンネール、悪妻のコンスタンツェにライバル・サリエリの嫉妬、みたいなのが定番のエピソードかなと思います。で、アロイジアに関しては『モーツァルト!』にも出ているそうですが私はすっかり忘れていました。コンスタンツェの姉、ヴォルフガングの最初の恋人、です。このキャラクターが今回はとても大きく扱われていました。それはいい。というか素晴らしい。
 もっと言えば全体に、男役はみんなしどころがない印象でしたが(どーでもいいとしか思えない役のかりんたんの印象のせいかもしれません…てか確か外部版にはなかったんじゃなかったっけこの役…足してコレなのかダーイシよ…(ToT)でもまあオレキザキとかかなえたんとかひーろーとかしどりゅーとかはちゃんと仕事していたとは思います。おいしいかはともかく…(>_<))、娘役はひっとんはもちろん白妙なっちゃんもあんるもほのかもマメちゃんも歌う歌う歌う! 耳福!! のお祭りだったのです(いーちゃんはもったいなかったかな…)。やはり欧米のミュージカルはプリマドンナありきなのかなあ? 宝塚歌劇ではトップ娘役以外の娘役になかなかいいキャラクターが描かれない、ましてソロなど…という状況を考えたら破格で、娘役好きとしては狂喜乱舞だったのです。
 けれどトータルで考えたときに、これがあくまで宝塚歌劇としての潤色を許諾されたのなら、そしてこっとんお披露目としての調整を許されたのなら、さらにもうちょっといろいろできたろうダーイシ!!!と言いたいワケです。

 まずもって、休憩30分にフィナーレ込みで上演時間まるっと3時間なのに、一幕がきっかり1時間で終わっちゃうんですよ。かつ話がほぼ始まっていない印象で終わるのです。ヴォルフガングはアロイジアにフラれました、マル、くらいしかストーリー的な内容がない。いかにもバランスが悪いです。コンスタンツェと再会して結婚!までやっちゃった方がいいのでは? と思いました。
 そしてこのアロイジアがなかなかいいキャラクターで、物語的にヴォルフガングが先に出会うのはちゃんとコンスタンツェにされているのですが、そのあと姉妹の両親の打算もあってヴォルフガングに勧められるのは歌姫としての出世を目指して売り出し中のアロイジアであり、彼女もそれを目指して彼を誘惑し売名に利用しようとする、なんなら悪女なのかもしれませんが逆に言えば主体性のある、すごくいい女性キャラクターとして描かれているのです。そしてヴォルフガングは彼女の色香にコロッと騙された部分も確かにあるんだけれど、一番は彼女の音楽的才能、歌唱の力量に惚れたんだと思うんですよね。そういう描写、演出になっていました。
 だからそんな恋に破れて、そのあとコンスタンツェと再会したときに、そこは魂の双子みたいな、やんちゃさとか自由を求める気質みたいなところが合致して、かつコンスタンツェの方はけっこう最初からヴォルフガングLOVEだったので、っていうんでまとまるのはいいんだけれど(めっちゃいい仕事してる桃堂くんの後見人とはるこママの思惑による契約書をコンスタンツェが破いて、でもヴォルフガングが改めてプロポーズする、という流れはエモくてとても良い)、それでヴォルフガングはよくてもコンスタンツェには実はけっこう屈託があったのだ…とすれば、もっと盛り上がるドラマが描けたのではないかなあ。
 このコンスタンツェは「ダンスはやめられない」とは歌わないのだけれど、姉アロイジアほどの音楽的才能はなく夫のミューズにもなれない、というコンプレックスと、それでも誰よりヴォルフガングを理解しているし悩み苦しむ彼のそばから離れない、という自負があったはずなんですよね。そこをもっと描いてほしかったし、だからこそ逆に夜遊びシーンみたいなのは必要だったんじゃないのかなあ? 世間では悪妻と言われている、けれどヴォルフガング自身は「僕にはちょうどよかった」と言う、っていうのがいいんじゃん。それがあってこその、最期の最後までヴォルフガングに付き添う彼女だし、サリエリの見舞いをつっぱねたりまたそのあとヴォルガングのそばに飛んでいって最期を看取ったり…ってのが生きてくるワケじゃないですか。それがあってこそのラストのネチネチふたりいちゃいちゃタイムなはずじゃないですか。新トップコンビおめでとう!になるはずなんじゃないですか。
 今、それがないからせっかくのラストが冗長に感じます。というかコンスタンツェがただヴォルフガングにまとわりついているだけの女になってしまっています。でもそれじゃダメでしょ!? コンスタンツェを単なる悪妻として描かないのではなく、悪妻だったかもしれないけれどそれ以上に魅力的な人物だったのでありヴォルフガングとは似合いの一対だったのだ、としないとダメでしょ? だってせっかくのこっとんプレお披露目なんだから!!!
 このコンスタンツェはアロイジアと対峙されるのではなくむしろサリエリと対峙されるくらいでもよかったのかもしれません。ヴォルフガングの天才ぶりを重く感じ、彼を愛し同時に妬み憎む、という意味では表裏一体のようだったふたり…としてもおもしろかったのでは?
 コンスタンツェとアロイジアののちの和解?も、シスターフッドとして喜ばしく見ていいのか、あいかわらずの嘘の吐き合い化かし合いと薄ら寒く感じればいいのか、中途半端で残念でした。

 そしてサリエリも、嫉妬と出世競争に疲れ、それでもついに勝った!となったときにふと口ずさむのが例えば「きらきら星」、とかさ、そういう何か具体的なエピソードが欲しかったと思うのですよ。で、ただ「勝利ですよ、良かったじゃないですか!」とか騒ぐローゼンベルクとの差、とかを描かないと、彼が後世に残らないまでもまがりなりにも芸術家だったからこそモーツァルトを憎み嫉み邪魔もし迫害もしたけれど、その喪失感に悩むし病魔に侵されていると聞けば動揺し後悔する…って流れが効いてくるはずで、もっと感動的に描けたはずなんですよ。そのあたりが全然甘かったし、今の時間配分だとそんなところまで二幕に突っ込めないから、とにかく全体のバランスが悪いしキャラクターとドラマとストーリーの不整合が美しくなくて、もったいない!と思ってしまったのです。
 せっかくのパンチある楽曲もただ並べただけではやはりただそれだけで、それを支える芝居が、キャラクターの感情とドラマがないと、盛り上がらないんだと思うのですよ…

 こっちゃんにしても、首席だったしなんでもできる人だけれど、単なる天才じゃなくて努力もしてるはずだし悩んだり壁にぶち当たったりもしてきたはずで、そういうあたりもヴォルフガングの生き様とうまく重ねられるとなお感動的だったんだろうけれど、そこまでは望みすぎかなとも思うので、せめてコンスタンツェとサリエリはもうちょっとていねいに描いてあげてほしかったです。今はアロイジアがいいだけに、かえって全体のバランスが悪いようで、本当に残念なのです…

 フィナーレの振り付けが今ひとつだったな、とかモーツァルトの編曲も今ひとつだったな、とかには目をつぶってもいい、というか少なくとも後回しにしてもいいです。でも本編のこのもったいなさは、原作側がガチガチに縛っていっさいの改変を認めん!みたいな態度ではなかったろうと思われるだけに、ならもっとやりようあったろう! と歯痒くて悔しかったのです。仕事してダーイシ!(><)
 役者たちはこの先どんどん進化して、緩急もつけてくることでしょう。でもそれだけでは埋まらないものってやはりあるので…せっかくのお披露目、せっかく改変が許諾された外部作品なら、もうひと練りしてほしかった、という話です。
 装置がお洒落で、見どころもたくさんで、組子はみんながんばっていて楽しそうで、新生星組の前途がキラキラして見えただけに、手放しで大傑作!と言えないのが残念だったのでした。
 でもこっとんは本当に相性がよさそうで、フルメンバーになるのが今から楽しみです。
 ありがたくも池袋でも一度だけ観られる予定なので、深化を楽しみにしています。あと、新しい劇場も楽しみ!
 年内、まだまだ楽しい発見や出会いがあるといいなあ…大事に味わっていきたいです。









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『終わりのない』

2019年11月17日 | 観劇記/タイトルあ行
世田谷パブリックシアター、2019年11月15日19時。

 18歳の悠理(山田裕貴)は旅の途中で目的地を見失い、立ち止まっていた。自分の人生を振り返ってみると、短いけれど、恋愛もしたし死にかけたこともあり、尊敬できる両親がいていつも気にかけてくれる友達もいた。かつて悠理は世界と一体で、完全だった。でも今は違う。ある日、悠理は両親と友達に、湖畔のキャンプに連れ出されるが…
 脚本・演出/前川知大、原典/ホメロス『オデュッセイア』、監修/野村萬斎。『奇ッ怪』シリーズ三部作に続く新作。全一幕。

 私は前川作品は『遠野物語・奇ッ怪 其ノ三』と先日の『獣の柱』再演しか観ていないのですが、もうイキウメのファンになることに決めました! 前回私は自分がいかにSF者であるかを語り、ギリシア神話というかトロイア戦争オタクなのでこれも観ます!と宣言したのですが、実は私は理学部物理学科卒業で卒論は素粒子だった身なのですよ…! もうおもしろすぎました。主人公の中の人のことは朝ドラ『なつぞら』で初めて知りましたが、そういうのはどうでもよかったです。というかいい役者さんでした、感心しました。
 本当にいいSFでいいジュヴナイルでいいビルドゥングスロマンでした。多少説教臭くは感じましたが、SFって現代文明批判であり未来への提言なので、当然です。現代に生きる我々人類が未来に向けて背負わねばならないことをただあたりまえに宣言してくれているだけです。この夏の、というか秋の台風の被害を少しでも感じた人になら、絶対に響くはずです。今の地球はおかしい。
 日本はあと50年も怪しいなと思えて海外脱出を考えなくもない私ですが、人類でいうならあと200年も怪しいと考えているので、500年後には地球に住む人類は滅亡しごく小数が月面に逃げたのみ、というこの物語の設定はすごくよくわかるし、そこからもう500年経っててもこの程度の進化か、というのもものすごく納得です。だってAIのダン(浜田信也)なんて今もうほぼできているかあと一歩のはずですもん。でも今後の人類は、お金持ちとそのお抱えの研究者だけが月面に逃げた程度じゃ多様性もそれこそひらめきも失われ、進化のスピードは鈍って、せいぜい到達できるのがこの程度ってことなワケです。ホントわかりすぎます…! 宇宙航法はどうにかなる、惑星探査もどうにかなる、でも宇宙人には出会えない。そんな確率はない。わかりすぎました。
 しかし『オデュッセイア』を原典にこんな物語を思いつくというのがすごいです。オデュッセウスの旅路は長いと言ってもせいぜい10年だったワケですが、我々人類には今のところゴールはなく、だから「終わりのない」旅路なのでした。ユリシーズのユーリで悠理なのだと思うけれど、物語としては『オデュッセイア』というよりはむしろ『A-A'』であり『2001年宇宙の旅』であり『新世紀エヴァンゲリオン』でしたね。本当におもしろかったし、よくできていました。
 舞台の奥の円と円形の八百屋舞台も素晴らしければ(美術/土岐研一)、溺れる子供のイメージから始まって最後の暗転まで演出も素晴らしく、何より悠理の母親(村岡希美)の説明から惑星調査班のメンバーの台詞から悠理のアドリブめいた反応の台詞まですべて、脚本が素晴らしかったです。赤入れしたくならない脚本って存在するんだな、と感動しました。すべて過不足がなく、わかりづらいこともおかしいところもなく、完全で完璧でした。単に好みの問題と言われればそうなのかもしれませんが、とにかく私にはそうでした。
 個々の意識を持つ以前の、個にして全でありある種の神と共にあるイプノス人の在り方とか、それと同様のダンがスタンドアローンになって孤独だけれど自由になったり、いわゆるパラレルワールドとは違うんだけれどそうした平行世界というかいろいろなたらればの時空を行き来してしまう悠理と、彼が経験する最初と最後の場面とで増えているメンバーが惑星調査班のリヒト(安井順平)とゼン(盛隆二)であること、ヒロインの杏(奈緒)だげが最初から両方のメンバーにいること…ものすごくよくできていました。
 ところでユリシーズだからユーリなんだとして、アンはアンドロマケのアンなのでしょうか。彼女はヘクトルの妻でトロイア戦争後はアキレウスの息子ネオプトレモスの奴隷にさせられるんだったと思うのだけれど、オデュッセウスがかばったりしたんだったかな? まあペネローペという名前は日本人にはなじまないというのもあるし、この先の悠理の未来にはたとえば鳩子とかいう名前ののちに妻となる女性が現れるのかもしれません。杏が流産した子供はヘクトルとの間に生まれのちにネオプトレモスに殺された息子のことなのかもしれません。堕胎ではなく自然流産だったのだとしても、それは母体が妊娠に耐えられないくらい幼かったということであり、避妊しなかった悠理の罪は決して容認されないものです。彼が引きこもりになった原因としたかったんだろうとなんだろうと、物語として安易に扱っていいモチーフではないですが(肉体と精神と人生を傷つけられたのはむしろ杏の方であるのは自明です)、杏には妊娠しなかった未来もそもそも悠理なんかとつきあってなどいなかった未来もあるのだ、たとえ流産を経験してもその後悠理なんかと別れて別の道を行きそこで幸せになる未来もあったのだ、と考えることで救われることにします。ここに関しては私はちょっとざらっとしたので。男性作家に関して私が警戒しすぎなのかもしれませんが。
 イキウメのファンだという山田くんは舞台でも達者で、初舞台だという奈緒ちゃんもちょっと特徴ある声がとても印象的でとても良かったと思いました。二役もとても上手かった。『獣の柱』で覚えたイキウメ役者もみんないい。悠理の両親もとてもいい。
 ノスタルジーというのは私にはちょっとピンとこなくて、単に誰でももともと所属する場所なりなんなりに愛着を持つのは当然だろうとしか思えず、むしろたまに間が開くと新幹線に乗りたくてたまらない、旅に出たくてたまらなくなるこの旅心はなんなんだと思ったりするのですが、オデュッセイアというのはもしかしたらそういう物語でもあるのかもしれません。ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』、機会があれば読んでみたいです。



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