駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

溝口彰子『BL研究者によるジェンダー批評入門』(笠間書院)

2024年08月12日 | 乱読記/書名は行
 BL論を研究し、映画・アート・クィア領域研究倫理などについて執筆してきた著者と、映画・ドラマ・漫画・現代アートなどさまざまな「ビジュアル」作品をジェンダーの視点で読み解き、見てから読んでも読んでから見ても楽しめる作品批評を学ぶ一冊。

 中村明日美子のカバーイラストに惹かれてうっかり手に取りましたが、おもしろくてすぐ読めましたし、勉強にもなりました。
 著者はクィア・ビジュアル・カルチュラル・セオリストと名乗っている方で、早稲田大学文学学術院准教授だそうです。生まれ年の記載がありませんが、1990年代に青山のスパイラル/ワコールアートセンターで仕事をしていたそうで、そのあとのことのようですがアメリカの大学院にも行っているそうなので、年齢的には私と同じくらいかちょっとだけ上なまかな?と思います(私は16年間の学校教育を92年に終了)。子供のころや思春期、青春時代に触れてきた漫画やテレビ番組なんかが、似たところがあるのかな?と思えたので、初めて読む人でしたがとっつきやすかったです。というか『BL進化論』の著者なんですね、これも私はタイトルしか知らず、未読ですが、界隈では著名な方なのでしょうか。失礼いたしました…
 前半、というか本の大半が「あっこ先生」と「もえ」さんの会話形式で、ビジュアル作品の批評、つまり表象分析を学んでいくスタイルになっています。おっさんが若い女性にものを教えるスタイルにはムカつきますが、女性同士でも年長者が教える側なのはある種あたりまえなのだろうか…と思いつつ、そこはかとない違和感がないこともなかったのですが(私がネット記事なんかによくある、こういう対話スタイルの文章が苦手で嫌いだということもあります)、もえさんが教わる一方でなくけっこう鋭い意見を述べたり、もえさんの方がくわしい分野があることになっていたりもしたので、対等というほどではないですが、一方的ではない対話になっていて、慣れたらすらすら読めました。ふたりともレズビアンで、でも別に恋愛関係にはない…というようなキャラ立てに見えたのも、よかったのかもしれません。まあこれは私の勝手な解釈であり、ふたりのセクシュアリティについては特に言及されていませんし、そこは本質的な部分ではないのでしょうが…
 ただ、本の後半に、もとになったそもそもの論文や解説文が収録されていて、前半のある種のネタばらしになっているという、ちょっと変わった本でもあります。これらの論文を一般書として書き直すのに当たり、この形式の方がいい、と編集者とかと相談して決めたのかなあ? 普通にフラットにくだけた文章に書き直すだけでもよかった気もしましたが…
 でも、「学ぶ」ということを考えると、それこそ著者が一方的に読者に教える形になるよりは、この形式の方がよかった、ということなのかもしれません。
 表象分析では、複雑に関連する「ファンタジー:私たちが頭の中で考えていること」「表象:何らかの方法で表現されたもの」「現実:生身の身体でこの社会に生きていること」のみっつの関係を考えるんだそうです。お題に取り上げられている漫画や映画、アートは、私は知っているものやタイトルしか知らないもの、全然知らなかったものなどいろいろでしたが、どれについてもおもしろく読めましたし、納得できました。なのでこうした分野に興味がある方にはオススメの一冊です。この6月に出たばかりの本ですしね。

 なので以下は、この本での『おっさんずラブ』に関する論評についての感想です。章のタイトルは「モヤモヤを言語化する ホモフォビアとミソジニー」でした。私もこちらこちらこちらなどの感想日記を過去に書いてきましたが、改めて、なるほどここをこう評価すべきだったのか、とかここはやっぱり問題だったのか、など発見できたのです。
 もちろんできればこの本を読んでいただきたいので、あまりくわしく言及するのは避けますが、私がまず感心したのは、「『おっさんずラブ』前夜」として、それ以前のBLについてかなりざっとではありますが歴史的な解説が書かれていたことです。そういう視点が著者にちゃんとあるから、「LGBTをテーマにした映像コンテンツに関して、欧米の常識と日本の常識は大きくかけ離れている」という指摘もできるわけです。そもそもBLとはなんなのか、何故生まれどう変化してきたのかが追えていて、その上での『おさラブ』語りだ、ということです。
 ちなみに最初の単発ドラマと連続ドラマ第一期、映画版、および『-in the sky-』が論考対象で、『リターンズ』はおそらくこの本の締め切りには間に合わなかったんだと思います。『リターンズ』に関してこの著者がどう評したのか、まあ調べればネット記事とかで出てくるのかもしれませんが、まとまった論考が読みたいくらいに興味深いです。
 さて、まず「単発ドラマは単純に世間のホモフォビアを反映してい」るとし、連続ドラマ第一期については「ホモフォビアが軟化してほぼなくなっている」としています。ただ、作り手側にきちんとした意識はなくて、たまたまだったのではないか、また俳優陣の工夫や演技力でカバーされていた部分が大きいのでは、とも語られていて、「俳優・田中圭が徹頭徹尾『セクシュアリティが未分化な小学生のような人物』として春田を演じている」のがよかったのだ、という指摘には唸らされました。というか著者も単純にこのドラマのファンだったんだと思うんだけど、そこは出さずにきちんと論じていて偉い…とか思っちゃいました。イヤ学者さんに対して失礼ですんません…つまり愛があるのが感じられ、しかし愛に流されない論旨になっているのです。ま、学者さんですものね…そして実際、あのドラマに関しては役者の寄与がとても大きかったろうことはあちこちで語られる証言からも見えていますし、私もそう思います。
 だからこそ、「作品だけを批評するのではダメ」として、「制作側の意識」を厳しく追及しているターンが私にはとても印象的でした。私はわりと、このドラマの立役者である女性プロデューサーと男性脚本家の姿勢を、ナンパだなと思いつつ容認してきた意識があるからです。この姿勢の駄目さを、この本はちゃんと『おさラブ』前夜の歴史からきちんと説明しているのでした。なので、2018年の時点でエンターテインメントの作り手がこういう姿勢だったことに大きなショックを受けた、と著者は吐露していますし、著者のそんな真面目さに、広い意味でエンターテインメント業界にいるつもりでいる私は、いたく反省させられましたね…もちろんこのプロデューサーが若くて、過去のそうした歴史や経緯を知らないできた、というのは仕方がないことかもしれない、としつつ、「テレビ局に勤めてドラマ制作に長い間携わっているなら、本や論文は読む時間がなくても、せめて海外の映画やドラマを見たり、それらの作り手や出演者がどう語っているかなどはチェックした方がいいのではないでしょうか」というのも立派な提言だと思いました。ま、でも、学者さんはそれが仕事だから勉強するけど、フツーはそんな時間は全然取れないって人も多かろうよ、とまたつい擁護して考えてしまう私…でも、それじゃ駄目なんですよね。エンタメには、フィクションには大きな力があることを認めるからこそ、高い意識を持って作ってほしいし、安易に、なんとなく、ウケ狙いだけで作品を作ってくれるな、と著者は訴えているのでしょう。イタタタタ…
 そう、私は、プロデューサーの(そしておそらく脚本家も)「ただイケメン男優同士で少女漫画がやりたかっただけ」(ちなみにこのカッコはどこかからの引用という意味ではなくて、私が強調のために振っているものです。実際にはこの単語、この言い回しでのこのプロデューサーの発言はないと思います。でも総括すると私にはこう聞こえるので、私は再三この表現を使っています)、という制作姿勢は、わかるし、いいじゃん、と思ってきてしまったんですよね。この制作陣はBLという言葉もゲイも同性愛という言葉も使っていなくて、おそらく意図的に避けているんですが、それはつまりそこは狙っていないからだ、というのが彼女たちの理屈なんだと思うのです。私はそれもわかる気がしたんですよね、BLじゃなくて少女漫画がやりたかった、だから部長が「ヒロイン」なんです。
 でも、そこってやはり細かすぎることで伝わらない人には伝わらないし、一方で男性同士のラブコメドラマなことは誰が見てもわかるんだから、「現実のゲイとかは全然関係ない」では済まされない、という指摘は正しい、と思いました。「作り手ももちろんですが、受け手である視聴者も、社会的に進歩・進化して」「勉強していく必要がある」という指摘ももっともだと思いました。耳に痛いですけれどね…
 その上で「『新たなホモフォビアの装置』となった映画」版や、「寅さんスタイル」が成立しきれなかった、とする『its』についての論評も小気味良く、超納得のものでした。
 そうなんですよね、映画版の残念さって脚本のザルさももちろんあるけれど、なんといってもドラマ第一期ラストがなかったことにされていることなんですよね…(><)役者ががんばってあのラストシーンを作ったのに、映画の脚本家と監督は日和った。そんな関係性あるわけない、長続きしない、されちゃ困る、ってホモフォビアが顔出しちゃってるんですよ。それが、また仕事で離れ離れになるふたり、というラストにも出ちゃっているわけで、そら著者も「制作陣が男性同士で家庭を築くことを避けたかったのかなと思」うわけですよ…
 しかし、そこからの『リターンズ』だったわけで…うーん、やはり通しての論考が読みたいぜ! そして私もしつこいけれど再度考えてみるために、『its』を履修したいぜ! どんだけこだわるんだ、って話ですが、好きってそういうことだから…
 と、ことほどさように刺激的な読書だったのでした。



【私信】つーことで読んで! なんなら貸すから! そんでまた呑み語りにいらしてー!










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池田理代子『フランス革命の女たち〈新版〉』(新潮社)

2024年08月04日 | 乱読記/書名は行
 激動の時代を生きた11人の物語。『ベルばら』には描けなかった、歴史の真実。

 デュ・バリー夫人やマリー・アントワネット、ロラン夫人、リュシル・デムーラン、マリー・テレーズ・ド・フランス…はたまたエオン・ド・ボーモンやジョフラン夫人など、誰?みたいな、そこまで有名ではないような気もする人まで、18世紀を生きた11人の女性の、ごく簡単な評伝集でした。
 タレーランは「一八世紀に生きた者でなければ、生きる歓びを知ったことにはならない」という、同時代人ならではの暴言をかましているそうですが(笑)、激動の大革命の前後では世の中もずいぶんと違ったろうことは想像がつきますし、著者ももちろん18世紀を生きてはいないわけですが、情熱や憧憬があふれた筆致で、楽しく読みました。
 おそらくゴーストライターを起用しておらず、ちゃんと自分で書いたんだろうな、となんとなく思えました。1985年に出したものを、『ベルばら』50周年の2021年に改訂・再構成して出した新装版だそうで、まあこういう企画って著者の名前だけ出して中身は過去の既存の評伝の抜粋とか百科事典レベルの知識、蘊蓄を並べるだけで作る、ってのはありえそうじゃないですか。でも、文章のある種の硬さや逆にものすごく格調高い部分とかが素人っぽいというか、プロのライターっぽくなくて、そしてやはり池田史観をきっちり反映した文に思えたので、意外にもそういう点をおもしろく読んでしまったのです。評伝としてはやはりかなり食い足りなくて、もっとくわしい専門書を読まないと…という感じは残念ながらありました。
 池田史観とはまた違うのかもしれませんが、すごくおもしろいなと思えたのが、著者はフランス大革命の人権宣言の「人間」に女性が含まれていなかったことを、めちゃくちゃ痛烈に、何度も何度も指摘し怒り批判しあげつらっている点です。帯にある「『ベルばら』には描けなかった』というのは、このことなのかもしれません。オスカルは革命に殉じて死に、アントワネットは革命を理解せず反対したまま処刑された物語なので、そもそもその革命も完璧なものではなかったよ、という視点は確かに入れづらかったことでしょう。でも今、『ベルばら』や『1789』、あるいは『MA』でもいいけれど、そうした物語やミュージカルでフランス革命を知っている気でいる人々、特に女性観客・ファンにも、その「人民」に私たち女性は含まれていなかったのだ、ということを知っている、それを意識できている人ってまだまだ少ないんだと思うので、この指摘はとても重要だなと思いました。
「大革命前もそして驚くべき事に大革命後においても、未だ女性に一人前の人間として莉存在を許さない時代でした。ジャン=ジャック・ルソーによってフランス女性たちが生き方を変えられた後でさえ、相変わらず、法律上女性は一生未成年のままであり、従って女性に対して権力を与える事は禁じられており、結婚まで父親の後見の下にあった女性が結婚後は夫の後見に委ねられるという、ただそれだけの存在に過ぎなかったのです」、ですよ。この権力って要するに人権のことですからね。250年がすぎようというのに未だ怪しいのが情けなくもありますが、それはまた別のこととして、あんなにも輝かしい、素晴らしい、画期的に思えた人民革命、人権宣言にも実はこんなにも大きな穴があり、もちろん当時もそれに異を唱えた女性もいただろうけれどその声は踏みつぶされたのだ…という事実は、きちんと認識しておく必要があるな、と思えました。
 この手の指摘が手を変え品を変え何度も出てくる本で、その執拗さ、真面目さは本当に貴重だと思えました。読めてよかったです。

 ところでそれとは別に、今なら「キュリー夫人って言うな、マリー・キュリーと言え」みたいな指摘も出来るのですが、そのあたりはやはりまだこの本は駄目で、章タイトルはおろか本文にも「~夫人」だけでその女性のフルネームが出てこない章があります。それは残念ですが、しかし欧米における、クリスチャンネームやセカンドネーム以下がうじゃうじゃあるような文化におけるいわゆるファーストネームって、どこに重きがあるのかは私には謎です…たとえば今回の雪組の『ベルサイユのばら フェルゼン編』にもあった
「マリーと呼んでください」
「マリー…アントワネット!」
「フェルゼン!」
 って会話、マジでホント謎なのです。マリーと呼んでくれ、と言われて何故アントワネットまで付けるのか? 彼女は相手をハンスと呼ばなくていいのか? 『1789』では「アクセル」と呼んでいましたが、マリー・アントワネットも名前をどれかひとつと言われたらアントワネットと称されることが多い気がします。でもそれは単にマリーやハンスだと他にたくさんいるから? でもアントワネットもアクセルも彼ら固有の名前というわけではなくて、他にもこの名を持つ人はたくさんいるんでしょう? だいたいがみんな聖書の聖人の名前由来だったりするんでしょうし…選択的夫婦別姓の議論が全然進まない(というか壺議員だけが反対している)のを見るだに、名前にアイデンティティを見ることの重要性を考えさせられますが、一方で名前なんて単なる記号だろう、とも考えられるわけで、このこだわり、あるいはこだわりのなさってなんなんだろう…とかつい考えてししまうのでした。
 以上、脱線です。ともあれ読みやすい本で、でも含蓄もあり、興味がある方にはオススメです。物語のタネもこのあたりにまだまだあるな、とも思えました。楽しい読書でした。





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ミン・ジン・リー『パチンコ』(文春文庫上下巻)

2024年05月26日 | 乱読記/書名は行
 日韓併合下の釜山沖の小さな島、影島。下宿屋の娘、キム・ソンジャは粋な仲買人のコ・ハンスと出会い、恋に落ちて身籠もるが、実はハンスには妻子がいた。妊娠を恥じる彼女に牧師のイサクが手を差し伸べ、ふたりはイサクの兄が住む大阪の鶴橋へ。しかし過酷な日々が待ち受けていた…国家と歴史に翻弄されながらも生き抜く家族の姿を描いた、比類なき最高傑作。

 作家はソウル生まれではあるものの、1976年に家族でニューヨークに移住して、イエール大学、ジョージタウン大学ロースクールを経て弁護士となった人だそうで、この作品は大学在学中に構想され、東京在住中の取材に基づいて草稿を破棄し、2017年に刊行されたものだそうです。韓国風にいうとイ・ミンジンさんなのかな? おそらく英語で書かれたものなのでしょう。Apple TV+でドラマ化され、アメリカの放送映画批評家協会賞を受賞しているそうです。韓国でも翻訳されているのでしょうか? 「在日コリアン一家の四世代にわたる年代記」で、韓国に朝ドラがあるならそのいい原作になりそう、とかも思いました。そういう物語です。ものすごくおもしろく読みました。
 ソンジャが主人公とされているけれど、特にそういうことはないのではないかしらん…また、これではたしてオチなのだろうか?とも思ったかな。家族の血脈は続いていくので…ただ、彼女の孫息子のソロモンが父のあとを継いでパチンコ店経営の仕事に就くと決めたこと、自死した息子ノアが失踪中も父親の墓参りを欠かさなかったことを彼女が知ったことで、一応ひとつの区切りにはなったのかもしれないな、とは思いました。
 作品とはあまり関係ないようですが、パチンコっておそらく日本でガラパゴス的に進化したギャンブルなのではないでしょうか? 韓国始め外国ではあまりウケないギャンブルなのでは…というか、ものすごく日本人向きっぽいギャンブルだと思います。自分対、台。でも自分の部屋でひとりでやるゲームとかではなくて、わざわざ店に来て、大勢の中で、喧噪の中で、孤独にやるゲーム。音や光に中毒している。ポーカーとかの、周りとのコミュニケーションや戦略が要るようなゲームとは違う。求道的ですらある…日本人が好きなのがわかる気がします。やったことないのでイメージだけで語っていますが…で、卑賤な職業、業界とされていて、それで在日韓国人に押しつけてきた部分があるのでしょうね。
 アメリカと戦争して負けたことすら知らない若者も多い今の日本で、朝鮮半島を併合していたことなんかまして知られていないのでしょうが、朝鮮人からしたら忘れることなどありえない近くも近い歴史、現代と直結した歴史なわけです。正しい言い方ではないかもしれませんが、改めて勉強になりましたし、読んでいて、差別とかいじめとかの在り方が「ああ、ホント、日本人がいかにもしそう…」って感じで的確に描かれていて、とてもわかりやすかったです。それが今では日本人内にも持ち込まれていて内ゲバ化しているわけですが、それはまた別の話です。
 あとはそういうことは抜きにしても、家族の年代記ものとして本当におもしろく読めました。花は私には不可解すぎて、物語の中でもどういう意味があるのかな、とかは思いましたけど…また、病名を明かさないのは別の差別では、とかも思いましたが、まあ些細なことです。
 私はもちろんキム・チャンホが好きでしたよ…生きていきくれるといいな、今はもういくつになるのかしら…今年の夏、久々にソウルに旅行する予定です。楽しみです。







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有吉佐和子『非色』(河出文庫)

2024年02月09日 | 乱読記/書名は行
 終戦直後に黒人兵と結婚し、幼い子を連れてニューヨークに渡った笑子だが、待っていたのは貧民街ハァレムでの半地下生活だった。人種差別と偏見にあいながら「差別とは何か?」を問い続け、笑子はたくましく生き方を模索する…1964年、ニューヨーク留学後にアメリカの人権問題を内面から描いた傑作長編。

 2003年の重版を最後に、以後重版未定となっていた作品が復刊されたそうです。イヤすごい、全然古びていない、今も読まれる価値が十分にあります。文章がてきぱきしていて読みやすいのもあり、展開がスリリングなこともあり、ぐいぐい読んでしまいました。ラストも圧巻です。そしてなお考えさせられる…
「色に非(あら)ず」、その「色」とは何か…要するに「色眼鏡」の「色」と同じなのかな、とも思います。差別というより偏見、そして人権意識の欠如というか…人は弱いので誰しも自分より下を作って安心しようとしたり、敵を作って身内だけで固まって安心しようとしたりするものなのでしょう。そこを、そうじゃない、みんな違ってみんないい、みんな同じ、大事にし合おう、尊重し合おう…とまで持っていくには、人類はもう一段階優しく、賢くならないと駄目なんでしょう。でもその理想(というか本来あるべき姿であり、真実)、理屈が見えていて、わかっているのに、21世紀ももう4分の1が終わろうとしているのに未だ達成される気配がない。むしろ後退している国や地域すらある…情けない限りです。
 でも、笑子が決してへこたれなかったように、できるところから、前を向いて、進んでいくしかないですね。彼女のこのタフネス、バイタリティ、プライドや開き直り、ど根性は素晴らしい。こういうヒロインはなかなか描けないものなのではないかしらん…その点も、この題材で今なおこの作品を凌駕したものってある!? なくない!? と改めて新鮮に読みました。
 帯のブレイディみかこのコメントは「人を分かつものは色ではない。では何なのか? この小説の新しさに驚いた」とあります。この人選も的確だし、この人が言うからより価値あるコメントだと思いました。解説は斎藤美奈子、これもよかったです。必読。



 
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ケイト・クイン『亡国のハントレス』(ハーパーBOOKS)

2022年12月05日 | 乱読記/書名は行
 第二次大戦のさなか、ドイツ占領下のポーランドに「ザ・ハントレス」と呼ばれた殺人者がいた。森で人を狩り、子供や兵士を殺した冷酷な親衛隊将校の愛人。その女に弟の命を奪われた元従軍記者の英国人イアンはナチハンターとして行方を捜し、1950年春、手がかりを追って大西洋を渡る。一方、米国ボストンでは、17歳の娘ジョーダンが父親の再婚相手に不審を抱き始めていた…本の雑誌が選ぶ2019年度文庫ベストテン第1位の歴史ミステリー。

戦場のアリス』もおもしろく読みましたが、これもおもしろかったです。モデルがいいのはもちろんあるかもしれないけれど、キャラクターがみんな魅力的で愛嬌があって、お話がおもしろいというのもあるけれど彼らの日々を追うのがとにかく楽しかったです。イアン、トニー、ニーナ、ジョーダン、ルース…みんなものすごく奥行きがある、素敵な人間でした。
 お話としては、ローレライの正体に何かギミックがひとつあるのかな、だからセブのことが語られないのかな、そのどんでん返しがクライマックスなのかな、読者もそこである種の裏切りを作品から受けることになるのかな…とやや身構えて読んだのですが、そこは素直な作りでよかったです。そしてこれはこの「狩り」を通して、みんながトラウマを乗り越え何かを手に入れるお話になっているんですね。そこがいい。
 個人的には、ニーナがローレライを殺して終わり、みたいにならなくて本当によかったと思いました。彼女もまた傷を乗り越え、成長し変化したわけです。こういう作品は、女だって人間だ、と言いたいがあまり女にだって酷いこともできる、という方向に走ることがままあると思うのですが、そうでなくてよかった、と本当に安心しました。
 逆に言うと男も女もなく怪物は怪物でローレライはそれだ、というのが結論なんでしょうけれど、そこはあまり深く掘られていませんでしたし、私はローレライもまたわりと普通の人間だったんだろうな、と思いました。命令されたからやっただけ、むしろ有能で責任感が強くちゃんとしていて、戦後に人からそれは悪いことだったんだと言われてもでも当時はそれが正解だったんだし自分のせいじゃないし、と考えて自分を守り、追われたから逃げただけで特に悪びれていない、ごく普通の人間なんじゃないかと思うんですよね。自分もその立場だったらそうなりかねない、と私は思います。でもだから許されるというものではないし、だからこそこの作品はそこを掘らなかったんだと思います。そこがテーマの物語ではないので。
 そして、逃げて、過去から目を背けて、逆に言うと心理的には留まり続けていたローレライは変われず、成長できず、トラウマも乗り越えられず、だから捕まったわけです。これはそれを描く物語なんだと思いました。万物は流転するのです(ちょっと違うか)。
 エピローグは1年後、さらにその8年後に判決が出たことを報道するイアンの記事で締められていて、そのとき彼の妻がまだ傍らにいるかは描かれていないのだけれど、それはまた別のお話、という感じなのもいいなと思いました。そうであれ!(笑)
 あとは、ダンはもちろん気の毒だったしルースにもまだまだこの先乗り越えなければならないことがあるのかもしれないけれど、ジョーダンがアンネリーゼから得られた「世界」のことはやはり印象深く、禍福はあざなえる縄のごとしとかいうとこれまたちょっと違うのかもしれませんが、やはりよかったねとか、根っからの悪人というものはいないのだろうか、とか考えてしまいます。ジョーダンを追い出すためもあったかもしれないけれど、やはり女性の先輩として、親切として人生の指針として、「あなたは何が欲しいの?」とアンネリーゼがきちんと尋ねてくれたからこそ、ジョーダンは「あたしは世界が欲しい」ということに気づけたのだし、それはそれこそ性別問わずこの世に生まれた人間が当然持っていい希望であるはずなんですよ。人は幸せになるために生まれてくる、というのと同じくらい自明のはずなのです。でも女子は、誰からも尋ねてもらえない。尋ねてもらえればそれが望みだったと自分で気づけるのに。「女がしたいのは何がしたいのか尋ねてもらうこと」、勝手に決めつけられ仕向けられるのではなく、ただ人として尊重されること。歪んでいるしゆるやかすぎたけれどこの女性同士の一瞬の連帯が、彼女の人生を変えました。それはルースに、ニーナに、友情や親愛の情として広がっていくことでしょう。そこに確かに希望を見る、そんな物語だったと思いました。
 次作も楽しみです!





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