駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

さいとうちほ『とりかえ・ばや』(小学館flowersフラワーコミックスアルファ全13巻)

2018年04月30日 | 乱読記/書名た行
 時は平安。男らしい姉・沙羅双樹と女らしい弟・睡蓮は入れ替わった性のまま運命に翻弄されていき…衝撃のトランスセクシャル・ストーリー。

 雑誌でもパラパラと読んではいましたが、連載が完結しコミックス最終巻も出たので一気読みしてみました。原作は未読。平安時代末期に書かれたと言われる、作者不詳の物語だそうですね。確かに『源氏物語』の影響は色濃く感じられますが、そこに自分なりの萌えを投下してオリジナルなものを作っているのが見事です。それが今で言う男装女子とか男の娘とかBLとかに通じている、というのもすごい。てか日本人のDNAすごい、1000年前からやってること一緒(笑)。そしてそれを現代視点からある程度整理し、理解しやすく読み替えて描かれたのがこの漫画なのでしょう。
 何度か言っていますが私は月二回刊の少女漫画雑誌「少女コミック」(現「Sho-Comi」)をまったく通ってこなかった漫画読みなので、さいとうちほ作品もある程度大人になってから勉強しました。好きだったのは『花冠のマドンナ』や『花音』とかかなあ。愛蔵しているのは『銀の狼』と『子爵ヴァルモン』だけです。前者は宝塚歌劇の作品をコミカライズして「宝塚グラフ」に掲載していたものをまとめたコミックスですし、後者は『仮面のロマネスク』の原作『危険な関係』のコミカライズ作品ですから、どちらも宝塚関連作品としての所蔵ですね。
 つまり、端整で丁寧で繊細な絵柄でデッサン的にもしっかりしているのだけれど、私にはやや整いすぎていて味気なく思え、またキャラクターの心理描写やキャラクター同士の関係性に重きを置くことが多い少女漫画にしては珍しく、むしろストーリーテリングの方に興味があるタイプの作家で、結果的にキャラクターが類型的にまた大味になることが多く、簡単に言うと「萌えない」…というのが、今までの私のこの作家への評価だったのでした。
 でも、この作品は、金脈を当てた気がします。先日始まった新連載も同じ系統のお話のようですし、そちらも当たるといいなと思っています。なんと言っても性別逆転というギミックそのものが萌えなので、それを体現するキャラクター自体が多少記号的すぎようと十分に萌えられるのです。これは大きい。
 美麗な絵柄なのでキャラクターがそもそも中性的であり、その性別の描き分け方もまたそもそもかなり記号的です。私が漫画の描き方を覚えた教則本では、まあ素人はたいてい一種類の顔しか描けないものなのだけれど、それでも眉を太く首を太くすれば男顔になるし下まつげまできちんと描けば女顔になる、みたいなことを教えていましたが、この作家の画風にもちょっとそんなところがあります。加えてもちろん上手すぎるくらい上手いので、表情とかでも性別や性格が表せられる。だから主人公の男女ふたりがまず絵としてきちんと描き分けられていて、この入れ替わりで混乱する物語をしっかり成立させているのです。これはすごい。
 そう、物語の主人公はふたり、権大納言のふたりの妻に同時期にそれぞれ生まれた、活発で凜々しい姉の沙羅双樹姫と、引っ込み思案で泣き虫の弟の睡蓮の若君です。顔はそっくり、性格は正反対。家族は見分けがつくけれど、周りはどっちが姉だか弟だか姫だか若君だか混乱してしょっちゅう取り違えている。やがてその評判は帝にまで届き、出仕させるよう言われて…女の沙羅双樹の方が男装し元服し帝の侍従となって男性として働いていくことになり、男の睡蓮は女装して裳着をすませ、のちに立った女東宮の内侍となって女性として生きていくことになります。
 このふたりを、同じ童禿のときから異性装をするようになってもどっちがどっちかちゃんとわかるように描けているのがまず見事。そしてこの話がおもしろいのは、そうやって性を逆転させて働き始めたふたりだけれど、実はトランスセクシャルではなくてむしろトランスジェンダーであり、性指向としてはヘテロセクシャルだったことが恋と性愛の訪れによって明らかになっていくところです。これは私にはけっこうリアルに思えました。
 本当は、自分をどっちの性だと思うか、ということと、どっちの性の相手を好きになるかということはあまり関係ないことなのかもしれません。でも世間的にはシスジェンダー・ヘテロセクシャルがマジョリティだから、そういうふうに組み込まれていってしまう、というところもあるのでしょう。ふたりは自分や世界というものがまだ曖昧模糊としていた子供の世界から、とりあえずおちつく性で世間に出て周りと交わっていくうちに、自分の真の性や恋や人生を見つけていくことになるのでした。
 沙羅双樹は侍従として楽しく凜々しく働き、宮廷の女房たちからは可愛らしい美しいと大モテだけれど、自身は女房たちにそうした興味はまったく持てなくて、誰がいいの誰とどうしたのと騒ぐ同僚男性たちの話にもうまくまざれない。そこへ右大臣家の四の姫との縁談が持ち上がり、いろいろあって受け入れざるをえなくなったものの、結婚しても姫とは手をつないで眠るだけです。ペニスがないから性交できない、というより、男として生きていても男として女を好きになることはないとわかった、と言いましょうか。そうこうするうちにこれまたいろいろあって、同僚の石蕗に女と見抜かれ、なかばレイプされてあまつさえ妊娠させられてしまい、行方知れずになるという形で宮廷を去らざるをえなくなる…
 これらの事態と平行して、沙羅双樹の恋心はお仕えする東宮のち帝に敬愛のような形から発動を始めるのですが、それはまさしく「平行して」であって、性交や妊娠を通して体が無理矢理変えられるのとほとんど同時に、という感じに進みます。それまで初潮は迎えていても心は童で性もほぼ未分化だったものが、体が変えられてしまうことで心が育つということなのか…沙羅双樹は女にさせられ、女として生きざるをえなくさせられてしまうのです。
 それを悲しい、虚しい、不当だ、かわいそうだ、と見る向きもあるかもしれません。でもこの物語では主人公はあくまで前向きです。妊娠が死産に終わったのち、いろいろあって、沙羅双樹は弟の睡蓮と入れ替わり、今度は女装して、というかそもそも女性なのだから表現としては本来の性となって、という方が正しいのかもしれませんが、とにかく睡蓮の内侍として再び出仕を始めます。
 一方の睡蓮の方は、そもそもが男性だからか、外部から力尽くで何かをなされ変化を強いられる、ということはありませんでした。けれど女東宮の近くで懸命に働くうちに、けなげでいじらしい女東宮を愛しく思うようになり、抱きしめ、キスをしてしまう…やがて帝から入内を求められ、そもそもが男なので断らざるをえず、となると宮廷にいられない。そしていろいろあって姉の沙羅双樹と入れ替わり、今度は男装し本来の性となって、右大将として再び出仕することになるのです。姉弟ふたりで帝と東宮を守り、ともに仕えるために。
 一連の展開に際し、石蕗というザッツ・男なキャラクターの存在がまた効いています。彼は同僚の沙羅双樹をまず好もしく思い、そっくりだという姉の睡蓮を紹介してくれとねだり、でもいざ睡蓮に近づくと、異性センサーが働かないということなのか心がときめかない。むしろセンサーは沙羅双樹の方に反応し、自分に男色の気があるのかと悩み、悩んだあげくに沙羅双樹の妻である四の姫を寝取ってみたりする。あげく沙羅双樹の胸を触って女とわかると安心して襲う…もうホントーにサイテーのザッツ・男だと思います。これをまたこの作家がさらりと描くからまたちょうどいいと思うのです。愚かだし非道いんだけれど、憎めなくもありしょーもないとも思える、絶妙な匙加減の描写だと思いました。オチも見事。
 しかしこれまた本当に不思議なのだけれど、性指向というものは何故これほど強固なのでしょうね? 異性愛者は同性の友人とどんなに仲良くなってもその相手と性愛関係を持つ発想はまったく抱かないじゃないですか。なんで?と思う。同性愛者も、相手が同性愛者だとなんとなくわかってそれから好きになる、とかいいますよね? 同性でも異性愛者のことは好きにならない、と。でもどうしてなんでしょう? 恋は心のもので性愛は体のものの気がするのに(では脳はどこに?)何故こうも不可分なのでしょうね? やはり何か動物的なセンサーみたいなものが働いているということなのでしょうか…ドリームなんかとしては、性別とは関係なくただその相手だから好きになったんだ、とかいうシチュエーションを支持したいわけですが、実際には相手をまず性別で識別しているところが絶対にあるわけです。そりゃ性別も個性のうちだけれど、それにしても本当に不思議です。
 それはともかく、立場を入れ替えて本来の性で働き始めたふたりはそれでも、沙羅双樹は歩くのは早いわ箏は下手だわ、片や睡蓮は未だ臆病で赤面症で乗馬も弓も下手と、お互いに苦労します。それでも帝のために、女東宮のためにと働き、一身に仕え、帝位を巡る陰謀と戦い、いろいろあって、ついに沙羅双樹は帝の女御となって男の子を産み、睡蓮は東宮を辞した女一の宮と結ばれるハッピーエンドと相成ります。めでたい。本当によくできたお話でした。
 沙羅双樹の娘は活発で、睡蓮の息子を泣かせちゃったりします。でも老関白はもう彼らをとりかえようとはしません。「あれで良い/あのままで」「なりたいようになってゆくもの」…沙羅双樹も睡蓮も、男を愛し女を愛したから、また母になり父となったから、女であり男であるよう強要された、ということではないのでした。未だ沙羅双樹は凜々しく睡蓮は優しい、けれど凜々しい女も優しい男もそれはそれでと認められた、だから彼らはふたりとも無理せず、息苦しさを感じることなく、自然にそのままの姿で生きていけるのでした。
 だからこの物語は厳密に言うと、キャッチ・コピーにあるようなトランスセクシャル・ストーリーではありません。睡蓮より沙羅双樹の方が比重が大きいし、あくまで少女漫画だなとも思います。でもとてもおもしろい一作だったな、と思ったのでした。


 最後に脱線。みりおエドガーにれいちゃんアランでこそ『ポーの一族』の宝塚歌劇化がなったのだと考えると、この作品も今の花組でならできるんじゃないの…?
 みりおの沙羅双樹にれいちゃんの睡蓮、ちなつの帝にマイティーの石蕗。ゆきちゃんは四の姫と三の姫の二役ができるし、吉野の宮はあきらで女東宮は華ちゃんかな。どうよ!?(どうよと言われても)



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ガブリエル・ゼヴィン『書店員フィクリーのものがたり』(ハヤカワepi文庫)

2018年04月26日 | 乱読記/書名さ行
 島に一軒だけある小さな書店を、偏屈な店主フィクリーは妻を亡くして以来ずっとひとりで営んできた。ある夜、所蔵していた稀覯本が盗まれてしまい、傷心の日々を過ごす中、今度は小さな子供が捨てられているのを発見し…2016年本屋大賞翻訳小説部門第1位。

 よくある、書店を舞台にした、本を巡る一話完結の人情話…みたいなものかと思って読み始めたのですが、ちょっと趣が違いました。おもしろかったです。時間の流れ方もとてもよかった。ウェットすぎず、でもセンチメンタルなのもよかったです。
 ただ、本屋大賞を取るような作品には思えませんでしたけれどね…本屋ものに甘いということなのか…(^^;)




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薬丸岳『友罪』(集英社文庫)

2018年04月25日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 埼玉の小さな町工場に就職した益田は、同日に入社した鈴木と出会う。無口で陰のある鈴木だったが、同い歳のふたりは次第に打ち解けていく。しかしあるとき益田は、鈴木が十四年前に連続児童殺傷で日本中を震え上がらせた「黒蛇神事件」の犯人ではないかと疑惑を抱くようになり…

 映画になるそうですが、おそらく映画の方がいい出来になるのではないかと思います。生身の役者が苦悩の表情とかを映像で見せれば保つ話だと思う。
 小説としては、すごく浅いなと思いました。頭の中で設定として思いついただけの話で、それ以上のことが描けていない印象なのです。「あなたはその過去を知っても友達でいられますか?」みたいなキャッチが帯についていますが、その問題について、真実とか葛藤とかのドラマが描けているようには私には思えませんでした。この設定はこんな簡単な話では終わらない気がするのです。そこがちょっと期待外れだったのでした。

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『天河』ル・サンクつっこみ

2018年04月21日 | 観劇記/タイトルさ行
 原作予習初日その後、さらに新公などいろいろ書いてきたので今さらアレではありますが、さらにしつこく細々書かせていただきます…


●第3場

 姫「カイル様、明日こそ、私の純潔を奪ってくださいませね」
 続く場面でナキアに対するカイルの台詞を引っ張るためだとしても、やはりこの時代の「純潔」の定義がわからないというかこの作品内での「純潔」の辞書がわからないうちに聞かされるので、私は引っかかるんだよなー…なんかもっと違う言い回しができないかなー…

 カイル「やれやれ、積極的な姫様方だ」
 そしてそれを「積極的」と表現すると、カイルが対照に「消極的」みたいで、これまた個人的には引っかかります(ホント細かくてすんません)。カイルは消極的だから地位目当てで言い寄ってくる女たちに手を出さないんじゃないじゃん、自分の立場や将来とその妻の座の意味を重く考えているからこそ慎重になっているんでしょ? まあまあチャラいし(笑)モテることに対してはまんざらではないが、こういうタイプの女たちにはうんざりしていて食傷気味なのである…ということを表すもっといい表現がないかなあ、と考えては、います。
 カイル「娘ならこのハットゥサに星の数ほどいるが?」
 ところで私は原作漫画を読んだときに脳内で普通に「ハットゥサ」という音をそのまま想像していましたが、今回みんなわりと「ハットゥーサ」って発音していますよね…「ゥ」にはそんな要素はないと思うのだけれど…

 カイル「そうでしょう、ウルヒ殿」
 芝居の台詞としてよくあるんだけれど、「神官ウルヒ殿」としてもよかったかな、と思いました。実際にはそんなふうに言うことはないんだけれど、芝居ではよくあるでしょ? ウルヒの立場というか役職の説明がここではないままなので、上手く入れられたらいいのにな、と思っただけなのですが。


●第4場

 カッシュ「殿下も早く側室を娶るべきです。気が滅入りますよ」
 言い方のニュアンスもあるでしょうけれど、今は「今のままだとここは女っ気がなくて気が滅入ります」という意味には私には聞こえなくて、いつも混乱します。「側室がいれば気が晴れますよ」という未来への提言として言っているように聞こえるので。

 カイル「ほう…なかなか凜々しいな」
 これはどういう意味なのかしら…ユーリに女物の服を着てこいと言ったにもかかわらず、この時代の風俗からしたらあまり女性っぽくない裾の短い服で現れたな、という意味? でもこれ誰が選んだ服ってことになってるのかな? ユーリが長い裾を嫌って短いものを選んだのだとしたら、上着の丈の短さもそのときわかりそうなものだし、ここでうだうだ言うのはヘンな気がします。「凜々しい」というのが男っぽいという意味なのか勇ましげだとということなのか、要するに褒め言葉なのかどうなのか、辞書がわからなくて私は引っかかるのでした。

 ユーリ「ちょっと、ごまかすな!」
 カイルはユーリを同伴する意味をちゃんと説明しているので、何もごまかしてはいないと思うんですよね…むしろ今まどかちゃんがアドリブとして言っている「1年後!?」とかの返しにした方がいいんじゃないかなあ…


●第6場

 ナキア「ジュダを皇位に付けるためなら、私はネルガルとも手を結ぼう」
 正しくは「就ける」ですよね。あと、私はオタクなのでバビロニア神話のイシュタル、まではマイ事典辞書にありましたが、ネルガルは知らなくて聞き取れなかったしあとでググりました。一般的にはイシュタルですら「???」なようですし、さすがにマイナーなのではないかしら…「悪魔とも手を結ぼう」でいいのでは?


●第7場

 ザナンザ「二人で宮殿を逃げ出して町を駆け回って」
 「抜け出して」の方がいいと思いました。カイルやザナンザにとって宮廷は逃げ出したいほど嫌な場所ではなかったと思うんですよね。多少の窮屈さは感じていただろうけれど、そこが家なんだしさ。わりと皇子として、未来の王として前向きなんだし、そんなに忌避したい場所扱いしなくてもよくない?

 ザナンザ「そんな私をヒンティ様はわけへだてなく育ててくださったのです」
 これまた細かくてすみませんが、個人的には「兄上とわけへだてなく」としたいなと思いました。

 ユーリ「あなたには自分の生きる意味があるんだね」
 トートツすぎます。それ以前にユーリが、自分の生きる意味がわからなくて悩んでいる、というような描写があるならともかく…尺があればユーリの元の世界に戻りたい、平和な世界に戻りたいという訴えと、でもそこではなんとなく漫然と生きていただけだったな…みたいな述懐場面が入れられたのかもしれませんが。

 ユーリ「急にそんなこと言われても信じられないよ」
 何が信じられないのか判然としなくて私は引っかかります。ふたりが出会ったことに意味がある、ということが信じられないのか? それはユーリがカイルの妃になるための出会いだった、ということが信じられないということなのか? でもその後の流れからすると「カイルが自分を妃として迎えたいと思うほど、自分に愛情を持っていてくれているということが信じられない。まず愛情を告白してほしい」っていうことなんですよね? 一足飛びすぎると思う…ラブコメパートとしては重要なステップなので、雑にやってほしくないところです。


●第8場

 ハディ「ユーリ様、ご用意整いました」
 「ご用意」ではなく「お支度」の方が作品の世界観に合う気がします。


●第9場

 ナキア「勝手にするがよい」
 ここのイル・バーニはこの一連の事件がナキアの策略であろうと思ってはいつつも、証拠がないのでとりあえずタワナアンナの専横を防ぐために元老院との協議を持ち出しているんですよね。ナキアにもそれはわかっているはずで、かつ元老院だけで審議するとは言っていないんだから、「それでかまわぬ」とかの方が正しい返しなんじゃないかなあ…


●第11場

 ラムセス「残念だがカイル殿の消息はつかめないままだ」
 「残念だが、まだだ」で十分だと思いました。ユーリの直近の台詞を繰り返して、ただでさえ長いここのラムセスの台詞を長くすることはありません。
 その後の赤い獅子討伐に関してエジプトとヒッタイトが協力し合うのはおかしい、内通だ、とするのは無理がある理屈なんだけれど(敵対する二国が第三の勢力に対しては団結して対処することはよくあることでしょう)、直しようがないので目をつぶりましょう。ただ「赤い獅子を消す」という言い回しはわかりづらいなーと思います。


●第12場

 トトメス「肖像の表情も険しくなってしまいます」
 肖像、と言われるとどうしても肖像画を想像しませんかね? のちの場面では「胸像」と言っているし、こちらに統一したら? ところでこれは粘土? それとも石を彫っているの? なら彫像の方がいい?

 ユーリ「人間は政治の道具じゃない!」
 ネフェルティティは政治の道具になる気がないからエジプトの王太后であってもエジプトなんかどうでもいい、捨てるのだと言っているのです。だから返しとしておかしい。続くユーリの台詞は、王家に生まれた者として政治の道具となって祖国を離れこの国に来たときの覚悟を思い出せ、となっているんだからなおさらおかしい。こういう論旨不鮮明な会話が大嫌いなんだよね私たとえば『カンパニー』とか『カンパニー』とか『カンパニー』のことですけど。


●第14場

 ウルヒ(少年)「私はあなたに御子も、女性としての幸せもさしあげられません」
 この台詞に、子供を産むことだけが女の幸せだと決めつけられたくない、みたいに噛みついているツイートを見たことがあるのですが、この時代のある程度高位の女性なら政略結婚も当然と教えられて育つだろうしそこで跡継ぎを産んでナンボと洗脳されているでしょう。でも一方で好きな人と沿う幸せも見聞きしていたりあこがれていたりするのだろうし、だからナキアはウルヒとの出奔とその先の結婚、子供、家庭という幸せを夢見ていたのだろうし、ここでウルヒにこう言われてショックを受けるのは正しい反応だと思うんですよね。ウルヒは男だから性的に不能なことがイコール人間として無価値であると思い込みがちである、とか、女の幸せなるものを一方的に決めつけすぎである、ということはもちろんあるだろうけれど、ここではそこまで深く描いていない、というのもあるかな。そしてのちにこのふたりは、肉体関係がなくてもそばにい続け共に歩むことを選んだわけですしね。
 ちなみに宦官が何かわからないという意見もわりと多くて驚いたなあ…歴史小説とかファンタジーとか読むとわりと知る知識じゃないですかね? ちなみに以前もここで尋ねて回答が得られなかったのですが、人間の男性の去勢ってどうやるんですかね? 馬みたく睾丸を取るだけでペニスは残すの? でも勃起はしなくなるから性交はできないってことなのかなあ?


●第15場

 ユーリ「私、元の世界では毎日、平凡だけど楽しく生きていて」
 この一連の台詞も超トートツ。ユーリが元の世界でどんなふうに生きていてそれをどう思っていたかなんて観客には初耳です。事前にちゃんとその描写があって、だけどこの世界でカイルがやろうとしていることの意義を認めて、それに何よりカイルのこととを愛しているし、だから帰らない、残る、ってなれば感動的だったのになあ…残念です。

 ユーリ「どこまでもお供します。我が王」
 ここで跪くのは、原作漫画でユーリがタワナアンナになる前にまず近衛長官になってみせることを踏まえての仕草なんだろうけれど、ノー説明なので今こうして観るとフェミ的にどうよという話は以前しましたが、だんだんまあこういう時代だからな…と流せるように個人的にはなってきました。もちろんハナから引っかからない人の方が多いかと思いますが。でもゆりかちゃんカイルがマッチョ男に見えかねないように描くのはあまり良くないことだと思うんですよねえ…


●第16場

 ラムセス「久しぶりだな。ムルシリ二世」
 このときカイルはまだ即位しておらず、なのでムルシリ二世ではないはずなのですが…モンチのアルヌワンダ陛下に謝ってくれなーこたん。ところで彼の病没も描かれていないのですが、まさかラストにカイルが兄を追い落として即位したと思っている人はいませんよね…!?

 カイル「じゃじゃ馬で面倒をかけたろう」
 お転婆娘、の慣用表現としてのじゃじゃ馬、までは容認できます。でも女を馬に男を乗り手に喩えるのは下品だからやめてくれ、女性差別だし宝塚歌劇ではやめてくれ頼む。


●第17場

 ユーリ「この世界に呼び寄せてくれたこと、今となっては感謝しています」
 なーこたんの主眼がユーリ、ナキア、ネフェルティティの三者三様の生き方を描くことに置かれているのでまず無理だろうと思いますが、そしてこのくだりは原作漫画でも名場面かつクライマックスのひとつでもありますが、それでも私はこれをカイルに言わせるよう変更した方がいいと思いますけれどね。自分を廃そうとずっと策略を仕掛けてきた、ずっと対立してきた義母を最後に許しむしろ礼を言うカイルは、大きな男としてさらに観客の好感を呼んだと思うんですよねー。

 カイル「どうか、私の妻になってほしい。ユーリ・イシュタル姫」
 「姫」という呼びかけにはときめきますが、やはりここでは再度「愛している」という言葉が欲しかったです。オロンテス河畔で再会したときに言っているけれど(ちなみにあそこも「お前がどこの世界にいようと、私はお前を愛している」という順番ではなくて、「お前を愛している、たとえお前がどこの世界にいようとも」とかの言い方の方が良かったと思っています)改めて、また何度でも言ってもらいたいものですし、その上で他に妻は持たない側室は持たない、ということの言質も取りたいです(笑)。宝塚歌劇的少女漫画的一夫一婦制ロマンチック・ラブ・イデオロギーはデリケートなのです。私はこのプロポーズでは安心できません。
 でもおたおたして応えないユーリに対して、ちゃんと自信があっておどけてみせるカイルは素敵ですよね。そういうト書きはないから、本当に不安で心配でおどおどと「返事はもらえないのか?」と尋ねる芝居にすることもできると思うんだけれど、こういうのは役者の演技なのかなあ演出家の指示なのかなあ? こういうところが舞台のわからないところです。漫画は漫画家さん自身が役者かつ演出家みたいなものですからね…(編集者が演出家になって漫画家の演技を修正する、という場合もあります)


●第18場

 (ト書き)遠くに亡くなった者、離れている者たちも浮かぶ。
 亡くなった者とはシュッピルリウマ王やザナンザ、シュバス、ゾラ、ティトで、離れている者とは氷室教授や詠美たちのことかな。もしかしたら両セリにナキアとネフェルティティがいてセリ下がる…とかのプランもあったのかもしれない、とも思いました。


 ところでまどかちゃんが第8場の王宮や最終場の戴冠式で髪型を変えるようにしたのですが(鬘の手配は愛ちゃん、さすが原作ファンのアドバイザーいい仕事します)、残念ながらル・サンクの写真は古いものですね。ネフェルティティも今はもっと指輪をしているから、舞台稽古とかのものなのかも?
 作品の構造としては、何度も言うようですがネフェルティティに尺を取るよりマッティワザやザナンザを描くべきだと思うんだけれど、東京公演のお稽古も二日間だけだと聞くから大きな改変はないということなのでしょうね。台湾公演にかかりきりなのかななーこたん…「金色の都リプライズ」場面には立ってるだけでいいから無理矢理参加しちゃってよ愛ちゃん…(ToT)
 とはいえ、馬鹿みたいに回数観ていることでもありますし、キャラクターものとしてこれはこれで、と思えてきて、楽しく通ってはいます。
 東京では知人をたくさん同伴する予定なので、その反応も楽しみです。
 でもまずは明日の大劇場公演前楽から、また遠征してきますね。バレンタイン事件(笑)に関するお茶会雑記というか毎度の澄輝日記も書きたいのでした!(^o~)






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『ヘッダ・ガブラー』

2018年04月18日 | 観劇記/タイトルは行
 シアターコクーン、2018年4月18日18時半。

 高名なガブラー将軍の娘ヘッダ(寺島しのぶ)は社交界でいつも男たちに崇められる存在だった。その父が世を去り、ヘッダは将来を嘱望される学者イェルゲン・テスマン(小日向文世)と結婚する。半年に及ぶ長い新婚旅行から帰ったふたりがおちついたのはヘッダの強い希望でイェルゲンに購入させた新居だった。イェルゲンの叔母ミス・テスマン(佐藤直子)とメイドのベルテ(福井裕子)がふたりを迎えるが、ヘッダは新居への不満や、早くも子の結婚に退屈している様子を隠そうともしない…
 作/ヘンリック・イプセン、翻訳/徐賀世子、演出/栗山民也、美術/二村周作、照明/勝柴次朗、衣装/前田文子。1890年初演、全二幕。

 イプセンと言えば『人形の家』で、これは6月に大空さんが出るのでまた観るわけですが、こちらはタイトルしか知らないので出かけてきてみました。1907年ニューヨーク公演ではアラ・ナジモヴァがヘッダを演じているそうですね。
 ストーリーとかキャラクターの設定とか戯曲に描かれているドラマの意味、はもちろんわかったつもりなのですが、個人的にはピンときませんでした。共感できない、というのともまたちょっと違うかな、とは思うのですが…
 むしろ、こういう形ではなくとも、いろいろ不本意なことが重なって追い詰められてしんどい思いをしている人、というものには心当たりはあるので、今の日本は身近に拳銃がこんなにナチュラルにある社会でなくてそこは良かったな、とか思ったりはしました。でも、私自身は、いろいろ不本意なことは日々そりゃ多少あったとしても、総じて能動的に自主選択的に生きていられているしそれをある程度周りからも認められているとも思うので、こんなふうにまで追い詰められていたり投げやりになったりはならないですんできているので、そういう身の今の私が観たいお話ではなかった、ということなのかな、と思いました。もっとなんかすごく仕事がしんどいときとかに観ると、わかるよ逃げたくなるよでもさあ…みたいにすごくシンクロしていろいろ考えさせられて心震わせられたのかもしれません。そういう意味ではいい観客ではありませんでした、すみません。
 役者はみんな達者で適材適所で素晴らしかったです。寺島しのぶのなんてことないドレス姿がまた素敵でした。セットも端整で、でも窓から入る光とかがとても効いていて、いい舞台でした。




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