駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚マイ・アワード2010

2010年12月24日 | 日記
 去年は宝塚歌劇熱再燃元年だったので、特に前半はまだまだ手薄でしたが、今年は正月3日から観劇でここまで走り抜けてきたので、ひとつ一年を振り返ってみたいと思います。

 ちなみに、今年の観劇数はトータルで113回。
 8割以上が宝塚、半分は宙組でしょう。
 きちんと数えてみたのは実は今年が初めてなのですが、間違いなく今年が最多、初の100回越えだと思います。
 宝塚にハマり始めた当初はこんなに時間もお金もツテもなかったですからね。
 もっとたくさん通っている方も普通にゴロゴロいるであろう特殊な世界ではありますが…
 まあでも一年楽しかったです(^^)。

●ベスト・ミュージカル
 星組『ロミオとジュリエット』(小池修一郎潤色・演出)
 
 博多座公演は見られず、梅田芸術劇場で2回見られただけですが…
 いや、本来は宝塚歌劇は、新作オリジナル当て書きであるべきだと思っているのですよ私は。
 でもそもそも近年はオリジナルがないじゃん…花組全ツ『メランコリック・ジゴロ』は再演ものだし…となると雪組『はじめて愛した』?ってのもねえ…
 というわけで、輸入ものであることは悔しいし、それは劇団スタッフにも忸怩たる思いを感じてほしいところですが、出来として、この作品を芝居部門では選びたいと思います。
 なんてったって泣いたしねマジで…
 一幕ラストの「エメ」。ふたりの愛はこんなにも美しいのに、この愛が現世ではまっとうされないことを全観客が知っていて見守っているんだ、と思ったらもうなんか泣けて泣けて仕方がなかった…!
 愛と死のダンスの美しさも特筆ものでした。
 来年の雪組版も楽しみです。

●ベスト・ショー
 花組『EXCITER!!』(藤井大介作・演出)

 こちらはあっさり決めました。
 『BORELO』や『ロック・オン!』が大好きだったという方も多いでしょう、私も『ファンキー・サンシャイン』は意外に好きになりました。
 でも本来は、こういうカッコ良くて色っぽいショーが好きなの!
 再演版の方が個人的には好みです。

●ベスト・ニューフェイス

 あきら、たまきち、りんきら、まっかぜー、ひかるん

 あくまで、私にとっての新人さん、という中からの選出です、すみません。

 あきらは『麗しのサブリナ』新公を見られていないのですが…それ以前からもちろん頭角を現していたと思うのですが…ここへきて俄然輝いてきたと思います。主に全ツ(^^)。
 久々に現れた大型花男なのではないでしょうか。大事に育ててほしいなあ。

 たまきちはスカピン新公が見られたので。宝塚歌劇を見始めて18年、初めて見た新公なるものだったので(^^;)。
 ラスプレ新公のきりやん役抜擢あたりから話題でしたが、『HAMLET!!』のレアティーズもよかったし、その後はやはり目がいくようになりました。
 こちらもさらにいろいろと経験を積んで、素敵なスターさんになっていってもらいたいです。

 雪と星はややカバーしきれていなくて、あまり下級生にくわしくないのですが…
 りんきらは『はじ愛』がとにかく良かった。芸達者だった。路線じゃないのかとかそういうこともぜんぜん知らないくらいなのですが、いい役者さんになってほしいです。見守りたいです。

 まっかぜーは…『愛旅』新公見たかったよ~。
 歌が難ということですが、歌のなかった『ロミジュリ』の死はとても良かったし、フォーリーで一皮むけたならこの先が楽しみです。もちろん長身のせいもありますが、華が出てきて、舞台でやはり目立ちます。がんばれー。

 ひかるんはとにかく声が好きなんです好みなんです。これも良かったという『誰鐘』新公見られていません、東宝ではなんとかして見たいです。ジョサイアもジミーも可愛かった…!

●ベスト中堅

 だいもん、トシちゃん、コマ、テル、ちーちゃん

 すみませんすみません、あくまで私にとっての、という話です。

 まずだいもんは、『虞美人』時点では、
「へー男役の子なんだ、で、なんて読むの? ももむすめ??」
 みたいなレベルだったんですよすみません。
 あやねちゃんDSにも行ったんですけど、まっつしか見てませんでしたすみません。
 だけど…そのあとスカステで『太王四神記』新公を観て、
「おおお!」
 と思って、そこからやっと顔の見分けができるようになりましたすみません。
 そうなると、もちろんいい場所が与えられてるし綺麗で見てすぐわかるし…で、『EXCITER!!』なんかはいつでも見つめているくらいでした。
 『CODE HERO』は中身がアレだったんでアレでしたが…今後に期待しています!

 トシちゃんは…『HAMLET!!』か良かったから、そして『ジプシー男爵』新公が観られたから(^^;)。
 でも年末のタカスペも、緊張して上がり気味のまさおとそのかをがっつり支えて、艶やかに笑っているように見えたのですよ!
 絶対に一皮むけたと思います。さらに今後に期待!

 コマは…『冬景色』が、役替わり両パターンを観ましたが、チギよりコマが好きだったので…
 そしてなんといっても『はじめて愛した』が良かったので…(このときのチギも良かったんだけど、でも)
 次回は『ロミジュリ』乳母…斜め上の配役でしたが、期待しています!!

 テルは…すみませんホントいまさらで。
 でも『リラ壁』での素のプレイボーイっぷりがとてもよかったので(^^;)。
 そりゃ星のヨン・ホゲに対しては点が辛くなるに決まってたんですけれど。そんな人が花のヨン・ホゲさまのもとにきてくださることになったなんて、仰天人事なんですけれど。
 今後に期待! いやマジで正念場だと思うよ? 一作で交代させられるトップとかイヤでしょ!!??
 (暴言すみません。でもファン歴長いといろいろイロイロ見てきてるんだよ!!!)

 ちーちゃんは…宙88期(ちなみに私は期の数より入団年の方が把握しやすいのですが…88というとミハルヨシコアヤカの入団年だよねとか思うヤツですが)みーちー大の中なら顔が好み、程度だったのですが、『カサプランカ』で
「ああ、声が好きだな」
 と思い、『シャングリラ』の雹があまりに設け役だったので震え、それからしたら『TRAFALGAR』オーレリーは役に対して物足りなかったかしら、とか思っていて…
 で、『“R”ising!!』で、いつどこにいてもちーちゃんを見つけられる自分に気づいて、
「あっ、私この人の踊りが好きなんだ!」
 と気づきました。
 てなワケで今後に期待です。


 あらためて、100周年どころか150周年まで見守るつもりなので、がんばっていただきたいところですよ歌劇団さま!
 そして全生徒さま、いろいろあるでしょうが、お体に気をつけて、がんばっていっていただきたいものです。
 できる限りの応援はさせていただきます!!


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『タカラヅカスペシャル2010~FOREVER TAKARAZUKA~』

2010年12月22日 | 観劇記/タイトルた行
 梅田芸術劇場、2010年12月18日ソワレ


 2階下手の席でした。

 第一部は今年一年の各組の公演を振り返る趣向、第二幕はこれまで行ってきた海外公演の名場面や主題歌が中心。

 東京公演中の星組は不参加。
 23日がバウ初日の月組も、まさお・そのか・トシちゃんのみの参加でした。

 組順だったり、就任順だったり、年次順だったりと大変なトップスターの扱いでしたが、まあまあおちついて見られましたかね(^^;)。

 プロローグ、キムを迎える雪の紳士の中にまっつがいて、なんかじんときました。
 しかしキムはガチガチだったなー!

 MCは、もうちょっと事前に打ち合わせがあってもいいんじゃないのというくらいぐだぐだで、段取りどおり運ぼうとする大空さんのけなげさに泣かされました(贔屓目ではなく!)。
 でもキムに
「一回目は緊張しすぎてバタバタしていたから、二回目はスッとしていくって言ってたのに、もう噛んじゃったね」
 と嬉しそーにつっこんだり、まとぶんに右京さんをおねだりしてウケまくったりと、自由でもありました(^^;)。

 各組コーナーは、トップバッターの月組はメドレー。これまたまさおが上がっているのか音程が怪しげで、そのかもダンスになれば鮮やかなんだけどさあ…というところを、すっごいおちついて堂々としていたトシちゃんががっつり支えているように見えました。
 新公主演を果たして、一皮むけたかな?

 専科コーナーは『オネーギン』より、歌うイシちゃんと踊るミミちゃん(そういえば開演アナウンスもミミちゃんでした)。
 タチヤーナのあの青いドレスがまた見られて、楽しかったです。

 ランちゃんの「蘭ちゃん」とれーれの「麗麗」による双子MCを挟んで(せっかくなのに短すぎだよ! もったいないよ!! 可愛かったよ! やっぱり似てたけど並ぶとわかるよね、でも声がちょっと違うよね、でもとにかく可愛かったよ!!!)パロディコーナーへ。

 花組は『EXCITER!!・虞美人』。
 みわっちの韓信とみつるの張良(! まあ役名だけですけれどね。ふたりとも衣装は『EXCITER!!』仕様で、『虞美人』からの台詞をしゃべるのが妙におかしい)が、えりたん劉邦に、まとぶん項羽を裏切って、チェンジボックスに入れてしまえとそそのかします。
 項羽さまを誘う赤いけしの女、イチカとあまちゃき、そして偽虞美人のランちゃん。
 ついに項羽さまがチェンジボックスに入ってしまうと、現れたドリームガールズはなんと四人、しかもデカい…! めお・まぁ・だいもん・まよ!! お衣装は『Apassionado!!』の中詰めラテンお花ちゃんです。
 いやみんな美人だったよ?(真顔)
 めお綺麗だったってマジで!
 で、項羽さまはMr.YUのメガネと前髪つけてパンダ持ってボックスから登場…劉邦勝利!と思いきや、メガネ外して前髪取ってパンダ隠してエキサイターに! みんなで主題歌を歌って踊ってシメてくれました(^^)。
 おもろかった(^^)。

 雪組は『ロジェの夜明け』。去年同様、ネタとしては苦しい。キムには『はじ愛』バードをさせてもよかったんじゃないのかなー。
 リオンが椅子に手錠で結びつけられたままキザって歌うと(キムの相手役は椅子なのかそうなのかこの椅子取りゲームをみみあゆあみにやらせるということなのか)、現れたのは看護婦たち。キタロウがデカさと異様さで笑いを持っていく(^^;)。まっつは女声でしゃべるし、コマは可愛いし、カオスのまま、「ソルフェリーノの夜明け」を熱唱…
 そのままロミジュリの宣伝をしてシメ。

 宙組は『誰がためにTRAFALGAR in 銀ちゃん』というタイトルが示すとおり、ネタに恵まれすぎている(^^)。
 特に前半の脚本は神懸かり的におもしろく、公演に通った組ファンなら
「あの台詞がこのキャラでこんなふうに!」
 と驚き笑いまくりでしょう。
 残念ながら、銀ちゃんが出たあたりから…というか小夏が出たあたりから、ややぐだぐだと間延びしたかな。エマかイルザにしてもよかったのかもしれません。『シャングリラ』がスルーされていたけれど、専務が氷でもよかったわ(*^^*)。
 みっちゃんがとにかく芸達者で、役名はアンドレスなんだけど何役もやっていたこと、まゆたんナポレオンが
「イギリスさん、ロバート・ジョーダンか…」
 とかまじめにつぶやくのがおかしかったこと、そのナポレオンのグルーピーがみー・大・ちー・カチャでフツーに可愛かったこと(マジで!)、れーれのルチアも朋子がかっておかしかったこと…が印象的でした(^^)。
 最後は「ファンキー・サンシャイン」を歌って踊ってシメ。

 そのあとは今年亡くなった小林公平氏特集。
 「青い星の上で」を歌うユウヒにまゆみちが絡み、この並びももうすぐ見納めと涙を誘います。みっちゃんの歌でゆひまゆが踊った方がよかったんじゃないのとか思ったのはナイショ。まゆみちも歌に加わってくれると俄然厚みと確かさが出たよと思ったのもナイショ。でもここのユウヒの黒と金の衣装は素敵でした。
 『コインブラ物語』を歌うイシちゃんには、スミカがイネスに扮して踊り、綺麗でした。
 そのまま黒燕尾の男役総踊りになって幕…だったのですが、一番いいところでソロのトランペットがやらかしました…あああ…

 ところで「小林校長先生」ではなく「小林公平先生」とかでよかったんじゃないの?とちょっと聞いていて思いました。
 タカラジェンヌはすべて宝塚音楽学校の卒業生であり、劇団に入団してなお「生徒」と呼ばれる存在ではありますが、我々観客はやはりPTAではなくお金を出して舞台を観る相手ではあり、観客相手には彼女たちはプロの舞台人として当たるべきなのですから…


 第二部は海外公演メドレー。
「Welcome to Takarazuka」はラン・スミカを先頭に娘役オンリーでスーパーデレデレタイム。
 ただしランちゃんの英語はかなり破壊的だったように聞こえたんですが…!?
 まゆたんの「ポゴシプタ」…濃かったよ…
 まゆえりが並ぶところもありましたが、そんなに絡みはなかったかな。

 そして「CARIOKA」総踊り。
 センターはトップ3人の持ち回りですが、中詰めはユウヒセンターだったので泣けました。カッコよかったよ…! ランちゃんとスミカの鬘もとても可愛かった!

 抽選会、お手伝いはコーラスのモンチとみなとくん。私の席からはコーラスのみなとくんが見切れていたので、顔が見られてよかった(^^)。
 汗拭き&水出し下級生は回替わりのようで、この回はみー・大・キタロウ。
 大空さん、
「もっと可愛い子がよかった、もっと可愛い子が来ると思ってたのに」
 言いすぎです(^^;)。
 大ちゃんは大汗かいていて、逆にまとぶんに拭いてもらっていましたよ…
 当選者は三階席ばかりでした。こういうのってなぜか固まる…

 フィナーレはパリ、ロンドン、ニューヨークの歌をトップ3人が。ひとりのみで客席降りして舞台が空だと、二階席・三階席の観客は見るものがラブ一郎先生の指揮しかなくなるんですけれど…再考してほしい。
 パレード、シメは「夜明けの序曲」でした。


 遠征する身としては梅田はやはり近くて楽なので、大劇場の方が絶対にいい、とは言いませんが、東京公演を数日休んででも、やはり5組揃えたイベントにしてほしいなあ、とは思います。
 あと、生でタカスペを見たのは去年が最初なのですが、今スカステで過去のTMP、TCAスペシャルを放送しているせいもあって、とんどん手抜き化されているのが見て取れてしまう…
 トップコンビが2組しか出ていないからシャッフルもできないし…
 男役2番手は4人揃ったんだから、もっとじっくり見せる場面があってもよかっただろうし…
 トップを休ませるためにも、3番手以下くらいで何場面か作っても、ぜんぜん保つと思うんですよね。もう少し考えてくれてもいいんじゃないかなあ…とは思いました。

 ともあれ生徒さんはお疲れさまでした、私はこれが去年に引き続き一年最後の遠征、観劇納めでした。
 お取り次ぎいただけてうれしかったです。

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『COCO』

2010年12月21日 | 観劇記/タイトルか行
 ル テアトル銀座、2010年12月8日マチネ。

 1953年秋、パリのカンボン通りのメゾン・シャネルが、久々に活気づこうとしていた。ファッション業界を引退して15年たっていたが、ココ(鳳蘭)は再起を決意していたのだ…
 脚本・作詞/アラン・ジェイ・ラーナー、作曲/アンドレ・プレヴィン、翻訳・訳詞・演出/G2。
 1969年にキャサリン・ヘップバーン主演でブロードウェイ初演、2009年に40年ぶりに日本で蘇った、その再演版。

 初演は観ていないのですが、いろいろな賞を取ったと聞いていたし、好評のようだったので、期待していたのですが…
 私には、なんとなく、ピンときませんでした…
 ううーん…

 役者は芸達者揃いで、なんの問題もなかったですよね。
 ツレちゃんは正直悪声だと思うんですが、それが完全なる個性とスター性に結びついている希有な舞台女優さんで、すばらしい。
 ココっぽい、というのもいかにもそのとおりだと思います。
 ユミコも岡さんも綜馬さんも賢也くんもみんな上手い、素敵。

 楽曲も、ものすごく覚えやすいとか印象的だとかきれいでいいとかいうことはなかったけれど、よかったと思います。
 セットはとても素敵でした。演出がよかったんだと思います。

 なので、私がぴんとこなかったのは、劇そのものに対して、なのでしょう。
 脚本、というか、ストーリーそのもの、というか…

 初演と唯一キャストが変わっているのがノエル(彩吹真央)のようですが、私にはどうもこのキャラクターがよくわからなかったんだと思います。
 というか、このお芝居の作者が、彼女をどういう人間として描こうとしていたのかが、よく見えなかった、というか。

 そもそもこのお芝居は、仕事に生きるココと、愛を選んだノエルの対比の物語なんでしょうかねえ?
 いや物語ってそんな単純なものじゃないよ、ってのは私だってわかっているのです。
 ただテーマとして、モチーフとして、そういう形で切り取る意志が作者にあったのか、ということです。
 でも、仕事と愛の対立ってモチーフは、古いよね。
 そりゃこの作品が作られたのはかなり昔かもしれない。久々に再演されたのだってちょっと前かもしれない。
 でも、今回上演するのは、今、ナウ、現代の、21世紀の、2010年の日本なんだから(東京なんだから、というのは言い過ぎだとしても。関西でも公演しますし)、それに合わせるべきだし、その意味を考えるべきですよね。
 今や、仕事と愛は対立なんかしません。問題はすでにそういうところにはない、というところが現代の問題なのですよ。

 ま、それはともかく。
 そもそも、この作品の中のノエルって本当によくわからない。
 田舎からパリに出てきた、それはいい。でも何しに出てきたの?
 田舎に生まれた女の子が、みんながみんなパリに出たがるわけじゃないよ、実際に出てくるわけじゃないよ?
 じゃ彼女はふつうの田舎の女の子たちと、何がちがったの? そこがまず全然描かれていません。だからまずよくわからないわけ。田舎はダメで都会が一番、という考え方がすでに現代では古いからです。現代で上演する以上、「当時はそれが良しとされていたんだよ」というような解説は必要だと思います。
 ではノエルは、都会でやりたいことがあって、やれると信じて出てきたのだったら、何故それをしなかったのでしょうか?
 ジョルジュ(大澄賢也)に出会ったから? 彼に何を見たの? それも描かれていません。
 ジョルジュが一方的にノエルを閉じこめ束縛していたようなことは語られます。ノエルはそれが不満だったらしい。でもずっと彼に言えないで、諾々と従ってきた。それがついに、ココのモデル・オーディションに応募する形で、ジョージの元を飛び出した。何故?
 もともとファッションに興味があったの? それにしてはオーディションにおけるノエルの素人っぽさはひどすぎる。こんな演出にするべきではない。
 何かきっかけが欲しかっただけでファッションにはずぶの素人なの、というのはちょっと説得力がない。だったら別のきっかけでもよかったはずで、お話のためとは言えあまりにご都合主義です。しかもココがノエルをモデルに選ぶ理由がない。本人も知らなかった、秘められた才能が発見された? それは何? 全然わかりません。
 ココはノエルにかつての自分を見たのでしょうか? だとしたらそれは、それこそが、ココの老いを表しているのではないでしょうかね?
 ノエルだってある程度はジョルジュとの生活を楽しんできたはずなんですよ。愛され、守られて。だけどなんか不満だから飛び出してきたの、なんてわがままな女にも見えるようじゃ、キャラクターの描き方として失敗していますよね?
 ノエルがココの真の理解者になれているのかどうかとか、ココがノエルのことを本当のところどう思っているのかとか、なんかよくわからないんですよね。特に描かれているとは思えない。

 で、さらにラストですよ。
 ジョルジュが迎えに来てくれた。それくらい、やっぱり、本当に、彼はノエルが好きだったのです。ノエルが変わったように、彼もまた変わったのでしょう。人は誰でも変われるのですから。頭の固い、保守的な男だろうと、変わることはあるのです。ジョルジュが具体的にどう変わったのかは描かれてはいませんけれどね。でも迎えに来る、という行動を起こすようになっただけで十分だ、とも言える。
 で、ノエルはうれしくて、やっぱり彼が忘れられなくて、彼に抱きつく。いいじゃないですか。
 それこそ時代性もあって、働きながら家庭を持つことは女性にとっては難しいのかもしれません。だからノエルはココのモデルをやめてジョルジュと結婚して幸せになる。いいじゃないですか。人は幸せになるために生きているのです。何もかもを手に入れるために生きているわけじゃない、何もかも手に入れても幸せになれるとは限らないからです。
 ノエルがいなくなろうと、ココには仕事があります。奇跡のカムバックを果たし、アメリカで今まで以上の成功を収めそうでもある。まったく問題はありません。それでココは幸せなはずです。
 ココは別にノエルに自分のようになってもらいたかったわけではないはずですから。そんな描写はありませんでしたから。
 ココだってかつて愛し愛されもし、その喜びを知っている人間です。今はたまたまいい相手がいないだけで、それを仕事が忙しいせいにしたり年齢のせいにしたりするような、そんなさもしい人間じゃないはずですよココは。
 人にはそれぞれの個性も生き方もあって、それぞれの生き方をすればいいし、それぞれ自分なりの幸せを見つけていけばいい、それが人生だ、私もそうして生きてきたし悔いはない…くらいのことは思っている人間ですよココは。人生の心理がちゃんとわかっている人なのです。

 なのに、このお芝居は、ジョルジュの胸に飛び込んだノエルを見て、ココに寂しそうな顔をさせる。裏切られたような気持ちになっているような表情をココにさせる。
 皆目意味がわかりません。

 ココは仕事に生きたから、仕事を選んだから、だから愛が得られず、今はひとりでただ仕事があるだけで寂しくてでも仕事があるからいいのだ、と言いたいの?
 ノエルは仕事の才能はなくて仕事ができずでも愛を得られたのだからいいのだ、と言いたいの?
 そんなはずあるかい。
 そんな仕事と愛の対立をこの作品は描いていないし、最初に言ったようにそもそもそのふたつは別に対立しないんだってば。ついに両方手に入れられる豊かな時代が来た、とも言えるし、両立できてしまうほど特に愛が薄まった悲しい時代になってしまったのだ、とも言える、新たな現代の問題があるのですよ。
 
 いやいいんですよ、古い時代の、両方は手に入れがたかった時代の、仕事と愛の対立を描きたかったのなら、そう描けばいい。描いてくださいよ。でも私にはこの作品はそう描いているようにも描けているようにも見えなかった。だから何を言いたい作品なのかわからず、中途半端で宙ぶらりんで、感動も何もなく、不愉快とまでは言わないまでも、全然すとんと心に落ちずに、半ば呆然として見終わってしまったわけです。

 ノエル、幸せそうでよかったじゃん。何が問題なの?
 ココ、別にやっかむようなことじゃないよ。なんでそんな悲しそうな顔するの? させられなきゃなんないの? あなたはそんな人じゃないよ?

 変わったジョルジュをノエルがそれでも拒否すべきだったという気なら、それこそどうかしています。仕事のために愛を捨てるなんて。対立しているものじゃないのに。どちらか一方しか取れないなんて決まっているわけじゃないのに。
 それとも、そういう幸せのなり方(変な日本語ですみません)を知らなかった悲しい女性として、ココを描きたいの?
 最近の若い女性にはできるようになったけれど、昔の人間の、老いたココには無理だったとしたいの?
 だとしたらホント、ココをバカにしないでよって話なんですけど…?

 ココと女秘書とのやりとりで終わる、オチともつかない終わり方は、フランスふうエスプリというか(^^;)で、なんかちょっと粋でした。
 でもだからこそなんか、
「え? これで終わり? で、だから???」
 という気が、私には、してしまったのでした…おしまい。


 ちなみにカーテンコールでユミコをツレちやん賢也くんが取り合ったりするのも、お芝居の延長のようで寝なおさら意味不明に感じました。
 ホントにそういう話にしたかったの?って感じで…
 ううーむ…

 ハイ、ホントにおしまい。
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『誰鐘』マリア私論

2010年12月13日 | 日記
 『誰がために鐘は鳴る』の再演をすると聞いたときに、思ったこととしては…

 映画は大昔に観たことがあったと思う、原作小説も読んだことはあったと思う。
 けれど細かいことは覚えていなくて、とにかくスペインの内戦にアメリカ人の主人公が首を突っ込む話で、ヒロインはベリーショートで、でもそれはお洒落なものなんかでは全然なくて、戦争の際に髪を刈られたゆえのもので、レイプ被害にあっていて、でも主人公とのキスで鼻がぶつからないかどうかを気にするっていうエピソードがあるんだよね…

 と、いうものでした。


 ま、それでほぼ要点は網羅していましたな(^^)。
 四日間の恋物語だ、とかいうこととか、主人公がラストに死ぬ、とかいうことは忘れていたわけですが、まあいいと言っていいでしょう(^^)(いいのか)。


 で、その、ヒロインのレイプ被害についてどんなふうに言及されるのか、が、密かに心配だったのです。

 未だに宝塚歌劇の初演版を観られていませんが、私は柴田作品スキーなので、ある程度は信じていました。
 ただ、今回は演出がキムシンなので、その点を心配していたのですよ。
 キムシンは当たり外れがデカいというかいつも心の準備を強いられるというか…変にマッチョなところも右翼っぽい思想のところもあると私は思っていて、宝塚歌劇のロマンスにハマるときとそうでないときの差が大きいと感じているので、ぶっちゃけとてもとても心配だったわけです。


 でも、大劇場で三度観て、とりあえずそれは杞憂に終わったので、よかったな、と単純に思っています。

 もちろん、マリアの過去の扱いは、しつこいのギリギリです。

 三度繰り返して語られるのですが、二度でもよかったかもしれない、と思わなくはない。でもこれはもともとの柴田先生の脚本がそうなのかもしれなくて、キムシンのせいだけとも言えず、また主人公たちふたりが愛と理解を深めていくために必要な過程にも思えるので、私は不快感とかはまったく感じなかったのです。
 ただ、こういうことの感じ方は個人差も大きく、ネットなどでもいろいろな感想を目にしますし、またキムシンのインタビューや間接的にスミカが語っていたらしいこと、また新人公演でマリアを演じたれーれのインタビューなどからいろいろ考えることがあったので、ひとつまとめたおこうと思いました。
 とりえあず、私はスミカのマリアに好感を抱いているんですね。
 けれど、
「あんな目にあったのにまだ男性に懐けるマリアがわからない」
 とか、
「男性に媚びを売っている女性に見える」
 という感想も目にするので、いろいろと考えてみたのです。
 ヒロインに感情移入できるかどうか、共感できるかどうか、好感が持てるかどうかは、ロマンスを観る上で最重要と言っていいポイントだと思うからです。


 さて、まず、マリアって黒塗りですかね?
 ロバートはアメリカ人、アングロサクソン系の白人ということで、いわゆる白塗りです。
 それに対してゲリラのみなさん(^^)は黒塗りなワケですね。
 私は西洋の歴史とかにまったくくわしくありませんが、一口にヨーロッパと言っても人種はまちまちで、そして南方への差別が確かにあるんですよね?(ということをちなみに私は萩尾望都『トーマの心臓』で学んだのですけれどね)ゲルマン系の民族との区別、ということなのでしょうか? そしてスペイン人はその範疇に入るということなのでしょうか?
 そしてヨーロッパの階級社会において、貴族階級があろうとなかろうと、社会的身分と人種は確かに結びついていたりする。それで言うとマリアは、小さな田舎町とはいえ町長の娘であり、インテリ上流階級出身と言ってもいいようなもので、人種的にもゲリラ戦線に身を投じるような一般のスペイン人とはちょっとちがう…のかなあ?
 きちんとした白塗りに作ってあるのかどうか、ちょっと私には判別がつかないのですが。

 つまりマリアが町長の娘であったこと、上流階級出身であったこと、北欧系とは言わないまでも肌の色が白かったこと、このことが、ファシストの蜂起があったときに糾弾の対象になり、ゲリラのメンバーに救出されたときに庇護の対象になった、ということです。

 おそらくこの時代の女性にとって、髪が長いことは、日本の平安時代の貴族の女性もかくやというくらいに必要な絶対条件だったのでしょう。
 それを、まず、切られた。女性に対する最大の侮蔑、尊厳の侵害です。
 ファシストたちはそれだけでは飽き足らず、マリアを輪姦した。彼女が町長の娘だったからです。
 おそらくファシストたちもある程度インテリだったでしょうから、この時点では彼女が上流階級の出であるとか肌の色が白い方だということはあまり問題にされなかったでしょう。それよりも町長の娘であること、共和派の父親を持っていたことの方が問題視された。それを辱めるために、彼女に性暴力をふるったのです。おそらくは、まだほとんど子供だった彼女に。普通の状態でいたら、女性として見られるにはまだ数年ほど早かった彼女に。
 戦争の暴力、狂気とはそういうものです。

 その後、マリアは収容所に送られるために列車に乗せられ、それがゲリラの襲撃を受けて、パブロ隊に助けられるというか、拾われます。
 そのくわしい経緯は語られませんが、とにかくピラールがそれこそ傷ついた子供を庇う雌狼のようになって、マリアを助け出し、守り、慈しんだのでしょう。
 そのとき、ゲリラの男たちはどう思ったか。
 まず、髪が切られて短かったので、彼らにとってはマリアは女ではなかったのでしょう。それくらい、髪の長さというのは問題だったのだと思うのです。
 加えて、年恰好がどう見ても子供だった。これまた、子供と大人の区別がわりに厳しいヨーロッパではわかりやすい感覚だと思います。女は幼くて可愛い方がいい、なんてのは東洋の一部の歪んだ感覚で、一般にヨーロッパでは成熟した女性の方が好まれます。その意味でも、マリアは彼らにとって女ではなかった。
 しかも、肌の色が白い。ということは、自分たちの仲間ではない、男女の仲になったり何かしらの関係を持つような間柄ではない、ということです。もはやこんな状態になってしまったので、階級が上とか下とかはないかもしれないが、とにかく自分たちと同じではない、別の世界の生き物だ、と思えたのだと思います。
 その上で、どうも傷物らしい、ということがある。そのことに対するこだわりは実は彼らにはあまりないかもしれませんが、とにかくピラールが歯を剥き出しにして守りたてているので、ちょっかい程度のふざけた真似もできそうにないし、なんとなくオマケとして隊で抱えているだけで、無視半分に遠巻きにしている…というのが、現実的なところではなかったろうかと思うのです。

 そんな中で、最初はアタマが真っ白で、というかとにかく死にたい、両親のあとを追いたい、こんな目にあわされてもう生きていけない…みたいなことしか考えられないでいたマリアは、ピラールの庇護のもと、ゆっくりとゆっくりと、傷をふさいでいく、あるいは少なくとも傷から目をそらすように、なっていったのではないかと思うのです。
 とりあえず、なかったことにする。考えない。今は大丈夫なんだから。もう怖いことはないんだから。
 妙齢の男性には、もしかしたらまだ怯えてしまうのかもしれない。
 けれどパコとか、ホアキンとかの、年が下だったり近かったりする、友達のような少年たちは、平気。それからアンセルモのおじいさんも。年寄りだから。優しいから。
 もしかしたらラファエルに対してもやや平気なのは、今度は彼がジプシーで、白人でもスペイン人でもなくて、さらに下の階層の人間だと考えられているから、なのかもしれません。ひどいようですが、現実の認識なんてそんなものだと思います。ラファエルは青年というか立派な大人の男で、だけど自分を襲ってきた男たちと同列に考えられないのは、彼がジプシーで、自分とは社会的階層が違う存在だから。そしてラファエルがマリアを慈しむのも、白人への憧れのようなものがあったからで、自分がどうこうできる女性として彼女を見るなんて発想がそもそもないせいかもしれないのです。
 (それでいうとアグスティンがマリアを好きだったというのはなんなんだ、という問題は、実は、ある。これは原作小説にも映画にもない設定で、宝塚オリジナルで、言うなれば二番手男役のポジションのために作られた後付けの設定であり、だからこそやや問題なのかもしれません。それで言うとアグスティンは、普通の成人男性が異性として見ない対象であるはずのマリアを愛してしまったロリコン、ということになってしまうからです。しかしこれは後付けの設定なので、ここでは考察対象外とします)

 そんな状態で、ちょっと別格の存在として、マリアは誰の女にもならず、しいて言えば「ピラールの小僧」みたいな立場で、パブロ隊の中で働いていたのだと思います。
 そこへ、ロバートが現れた。

 木村先生は(と、一応急に先生呼びしておきますが)、マリア役の野々すみ花と、こんな経験をした女性が一目惚れに落ちることがありえるのか、ということを論じ、スミカがマリアはロバートに神々しいものを見たのだと思う、と言ったと語っていましたが、はたしてその解釈は正しいのか。

 私は、ここでは神とかなんとかとかはあまり関係ないんじゃないかなと思いました。

 小さな閉ざされがちなコミュニティにおいて、まれびと、客人、ストレンジャーというものは常にアイドルでありまた異物ですが、ロバートの存在って結局そういうことですよね。
 (たとえばローサがカシュキンやロバートに惚れた理由はまさにこれでしょう)
 そしてパブロ隊の中でのマリアの位置もまたそうだったのです。
 つまりマリアにとっては、やっと自分と同じ範疇の人が現れたということです。端的に言えば、白い肌の人が現れたということです。

 もちろんそれは、悪くすれば自分を襲った男たちを想起させたかもしれない。しかしマリアはピラールの治療の甲斐あっていい感じにそれを半分かた忘れていたのだろうし、またロバートは、いかめしい軍服を着ているわけでもないし、とても自然にソフトに現れ、彼女にナチュラルに対してくれたのだと思うのです。
 彼女が注いだコーヒーに、礼を言ってくれた。そして、名前を尋ねたくれた。
 「町長の娘」とか「白人の子供」とかではなく、一個人として扱おうとしてくれた…と、マリアには思えたのではないでしょうか。

 そして、彼があまりにてらいなく、まっすぐに自分を見つめてくるので、急に自分の姿が意識されて、
「短いでしょう、そんなに見ないで」
 と切られた髪を気にしてあわてる。そして、
「君は誰の女だ」
 なんて聞かれて、憤慨する。だって誰の女でもないから。何故なら、それは…そう思い至って、いろいろ封印していたことを思い出してしまって、そうしてマリアはピラールのところに飛んでいって、何もかも打ち明けて、相談したのではないでしょうか。

 一目惚れ云々ということよりも、どんなにつらくひどい目にあっても、人間とは生きていくものだし、生きていけるように心は働くものだし、そうしたらまたふいに恋に落ちることはあるのだ、ということなんじゃないかな、と私は思うのです。
 たとえそれが両親を目の前で殺され、自身が輪姦された少女であろうと、です。


 だから本当のことを言うと、ロバートの方がやや難があるかもしれません。
 酒も女も大好きで、でも溺れることはなかった、それは本当のことでしょう。任務が一番で、こんな山奥まで来て、よもやこんな女の子と出会おうとは、ましてこんなに心を揺さぶられようとは…というのはどんな心理なのか、ちょっと類推しづらい。
 もしかしたら文化的に、ゲリラの男たちよりは断髪の女性に許容があったのかもしれない(^^;)。でも女とは言っても子供かギリギリ少女で、今まで自分が相手にしてきたような成熟した女たちとは明らかにちがう、ちがいすぎる。単にコーヒーを給仕してくれた、可愛らしい、純真な存在。彼はそこに何を見たのでしょうか。
 ここが死に場所かもしれないと思っていた、そこに聖母の名前を持つ女がいた、そんなこと?
 マリアは自分が傷つけられていたことを半ば忘れていたような状態だったろうから、彼に救われたいとすがるような目を向けてきた、ということもなかったと思うんですよね。ロバートはこのときのマリアに何を見たのだろう…
 こちらの方がよくわからない…私には。
 ただ、任務のことしか考えていなかったところに、ふいに美しく可愛らしいものを見たから、いつも以上に心揺さぶられてしまった、ということなのかな…それはあると思いますけれどね。
 その後は、話してみるにつれて、だんだん…ということは、もちろん納得できるのです。

「君の髪に触ってもいいかい」
「ずっとあなたにこうしてもらいたいと思っていたの」
「君が好きになってしまったようだ」
 みたいなやりとりで、一足飛びに進む愛。でもそれも納得できます。
 そうして最初の夜。
 原作小説では最初の夜からマリアがロバートの寝袋に入ってきてしまうので、私は読んでいて仰天したものでしたが、映画では逆にロマンチックに、最後の夜に最後だからと同衾することになっていました。
 舞台では映画に倣ったのだと思います。ここではキスシーンから暗転しますし、翌朝ふたりは一緒に現れますが、朝の散歩か何かから戻っただけのようにも見える。
「もう兎さんになったのかい」
 と冷やかされますが、それは何もイタしてしまったということではなくて、単に両想いになったことを意味しているようにも取れます。
 何より最後の夜、ロバートはマリアの首筋にキスして、マリアは背をそらせて、場面は暗転します。これこそが柴田イズムでのセックス表現だと思うワケ(^^)。そしてこれが私はいいなあと思うのです。


 そこに至るまでの話はなかなか複雑で、たとえば原作では二日目あたりにマリアが痛がってできなくてロバートがいらつく、みたいな、それこそ女の読者をいらつかせる展開があるわけですよ。
 ぶっちゃけこの話そのものが、このモチーフそのものが、輪姦された、もっというと処女でない女を男が愛せるかどうか、みたいな極めてマッチョなところから出発しているわけでさ。たとえば女は男が童貞であるかどうかとかだからどうだとかいうことを真剣に論じてわざわざ文学作品に仕立てたりはそもそもしないわけで、つまり要するにそれは男の方が断然器が小さいということですかそれはともかく。とにかくヘミングウェイはそういうことを問題にしたかったわけですよね。
 しかしロバートさんはすばらしいので、大きな男なので、もっと言えば宝塚のロバートはとても素敵なので、柴田先生が描く、ユウヒが演じるロバートはちゃんとしているので、問題はそこにはないのですよ。
 むしろマリアの立ち直りにこそ焦点は当てられる。

 あんなことがあって、死んでしまいたいと思っていたマリア。もうロバートに愛されないと思うと死にたいと言ったマリア。それが、死なないでよかった、だって今こんなふうに愛し愛されていられるんだもの、と思えるようになった…これは本当に大きなことだと思うのです。

 ピラールの庇護のもと、正対するにはあまりに大きすぎる傷跡を、ちょっと棚上げしてこの数か月を送っていたのであろうマリア。
 ロバートに会って、そして自分の身を振り返ったときに、事件を思い出さざるをえなくなって、ピラールに相談して。
 ピラールは、ロバートにすべて、何もかも打ち明けろと言った。隠し事はなしにしろと。それでひるむ男になんかマリアはやらないと思ったのだろうし、ロバートはそんな男ではないと信じたのだろうし。
 だからマリアはすべてを打ち明けた。話はいったりきたりするものなので、いっぺんにはいかずに、三度に分けて話す形になってしまったけれど。
 でも他人に話せるようになるということは、あらかた消化され浄化されたということなのです。
 もちろんそれは聞かされた方の人間に重みを預けるということでもある。相手に転嫁するので、場合によっては卑怯かもしれない。
 でもロバートはそれに耐えうる人間でした。マリアを苛んだ男たちに憎しみを抱きながらも、それとマリアへの愛情をごっちゃにすることなく、ただただマリアを大きく、慈しみ、いとおしんだ。彼にしてもやはり初めて、ここまで純真でまっすぐで清らかな女性に会ったことがなかったのでしょう。全身でぶつかってこられたら、全身で受け止めて向かっていくしかない。
 もちろん爆破作戦の前後で死ぬかもしれないという緊迫した状態だったから、という要素はあったかもしれません。
 でも、それとは別に、やはり彼らは全身全霊で恋をした。そういうことじゃないのかな、と思うのです。


 そんな真摯な恋を、ユウヒとスミカはきちんと演じてくれているように、私には思えたのですが、どうでしょうか。


 と言うのは、やはりマリアの過去の描写が重すぎるとかあるいは軽すぎるとか、ふたりの恋が簡単すぎるとか、マリアがぶりっ子に見えるとかいう意見を、見なくもないからです。

 たとえば、ローサについてマリアがロバートに言う
「構ってあげなくていいの」
 という台詞。引っかかる人も多いようです。でも私は、台詞の言い回しも実際の言われ方もとても秀逸だと思う。
 かまってあげたら?でもないしかまってあげて、でもない。かまう、という以外の言い方でもない。
 私には別にここでマリアが偉そうだとかおごっているとかいうふうには全然思えない。本当に単純に気使いしているだけのように見える。かまう、という表現はとても子供っぽくて、とてもマリアらしいと思うのです。

 あるいはホアキンと手をつないで、エル・ソルド隊の陣地を見に走り出すくだり。ホアキンはマリアを憎からず思っているのだけれど、ホアキン自体がそもそもまだまだ子供だし、マリアもホアキンのことをそんなふうにはまったく意識していなくて、同年代の友達か弟分くらいに思っていて、だから自然に手がつなげる。それはロバートとの愛情を確かめあったあとでも変化がない。そういうこととは同列には考えられない。それくらい単純で純真で子供。八方美人の悪女の萌芽とかそんなことでは全然ないと思うのです。ロバートも微笑ましく見守っていてまったく嫉妬のシの字もない。それって自然じゃないですか?

 私には、マリアが嫌な女の子に見える、というのがどうもよくわからないのです。
 スミカが好きすぎて、前のめりに良く見ようとしすぎているのかもしれませんが、しかし、それでも。
 スミカのマリアはそれに十二分に、十分以上に応えてくれていると、私には思えるので。


 宝塚歌劇において、ヒロインの好感度はとても大事です。
 観客の多くは女性で、ヒロインに感情移入して物語を追い、男役トップスターが演じる主人公との恋に身を焦がすからです。
 私は、スミカがトップ娘役として大劇場で演じてきたヒロイン、イルザやエマに比べて、マリアはキャラクターとして格段に演じやすい役でありまた上手く演じられた役だと思っています。
 そもそもイルザもエマも難しいキャラクターで、おそらくどうやっても正解のなさそうな役なんですよ。でもマリアはそうではないと思う。それは単に二股ではないからとかそういうことではなくて。
 だからもっとマリアが観客に愛されるキャラクターとして届くといいなと思い、それでこうして長々と擁護論みたいなものを書いてしまったのです。

 公演というものは長くなると煮詰まって濃くなりがちです。
 濃く、くどくなっていることは心配しています。それさえなければ、スミカが演じるマリアというひとりの人間の生き方は、心の動きは、普通にすとんと、観客の心の中に落ちると思うのだけれどなあ。
 悲しい経験があろうとなかろうと。今生きている人には。
 そういう普遍性があるキャラクターだと、ドラマだと、物語だと、思うのです。戦争とか、そういったこともひっくるめて。


 
 朝になれば、大劇場千秋楽ですね。
 東宝初日で再会できるのを、楽しみにしています!

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宝塚歌劇星組『宝塚花の踊り絵巻-秋の踊り-/愛と青春の旅だち』

2010年12月06日 | 観劇記/タイトルた行
 東京宝塚劇場、2010年11月30日マチネ、12月3日マチネ。

 母を亡くし、軍人としてフィリピンに駐在する父(英真なおき)に引き取られたザック(柚希礼音)は、劣悪な環境の中で少年時代を送った。やがてアメリカへ帰国したザックは、大学を卒業し、海軍士官養成学校に入学するが…
 原作/ダグラス・デイ・スチュワート、脚本・演出/石田昌也、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。リチャード・ギア主演で1982年に公開された同名映画の世界初ミュージカル化。
 日本物レビューは作・演出/酒井澄夫、作曲・編曲/吉田優子。

 まず、個人的にものすごく久しぶりの日本物ショーが、なかなか楽しかったです。
 チョンパはわかっていてもやはり感動的でした。
 綺麗! 華やか!!
 初見はS席最前列(つまり8列目)ほぼどセンターで、トヨコや柚長とよく目が合ったよ! 柚長が初々しくて仰天したなー。もちろんテル、レミあたりも美しかったです。
 日舞向きではないのではと言われていたチエネネも綺麗で可愛くて素敵でした。
 ただ私には教養というか日舞を鑑賞する芸術的素養がないので、菊慈童の場面の長さに閉口したり(歌手の音花ゆりはよかった)、麦や節の単調さに疲れたり(トヨコの端整な踊りはすばらしい。そして私はともみんは好みではないのか、常にやりすぎて見えた)はしました。あと、毛槍をドリフみたいと思ったり、娘役さんたちの猫耳は何を表したものなのかわからなかったり(ご教示お待ちしています)。
 それでも楽しく観ました、華やかでした。雪の場面が短くて残念だったかなー。波の場面の総踊りは素敵だったなー。
 大劇場開いてすぐはしゃべ化粧が大変なことになっていたそうですが、こちらではそんな問題は感じませんでした。でもみんないい勉強になっているのではないでしょうか。よかったよかった、また雪組さんあたりでやるといいよね、あとはまゆたんが行く花組とか?

 ミュージカルのほうは…まず映画は大昔にテレビで見ていた気はしますが、大筋しか覚えていない状態で観に行きました。
 ミュージカル化は成功しているとは思いましたが、場面がブツ切りで、キャラクターの性格が破綻して見えるというか、感情の流れが一貫して見えないという点がどうにも気になりました。そこはかとなくどころか漂いまくる女性蔑視視点は、時代性と脚本家の性とでまあ仕方ないかと目をつぶることにしたのですが。

 二度目の観劇の前に映画のDVDが知人から借りられて、見てみて仰天。石田先生ごめんなさい、ほぼそのままだったのね、もともとの作品のせいだったのね…
 ただ、だからこそ、たとえば小池先生だったらもっと上手く舞台化したと思うよ、とはもちろん思いました。

 家庭環境のせいで、他人に馴染めず心が開けない青年になってしまった主人公が、士官学校での共感からのしごきや仲間とのふれあい、工場で働く少女との出会いによって変化し、他者と友情や愛情が育める人間になっていく…これはそういう物語です。
 もちろん人間はそんなに単純じゃないので、その変化は直線的ではなく、いったりきたりするものです。しかしその過程は観客にはごく自然に追えなくてはいけない。そこにテクニックが必要なものですよ。

 序盤の流れはすばらしい。映画のままでありながら、舞台の特性を生かし、ミュージカル要素も盛り込んで、すばらしい立ち上がりです。
 しかしまず第7場が問題。
 6場までで主人公、ヒロインが顔見せし、出会っているわけで、ここから本格的な芝居、ドラマの展開を観客は普通は期待するわけですよ。なのにその本筋がなかなか始まらず、格納庫でのダンスシーンが始まってしまう。
 ちなみのここのダンスシーンは、日本物ショーの鬱憤を晴らすかのようなはちきれんばかりの勢いと鮮やかさ、躍動感がすばらしく、その意味では本当に出色のシーンです。
 しかしここでザックはすでに仲間たちと
「フォーリー(鳳稀かなめ)を倒そう!」
 とかなんとか言って一致団結してしまっている。
 でもそれじゃダメなんですよ。
 このあとの障害物訓練で、ザックはひとり先頭切ってさっさとゴールし、みんながシーガー(音波みのり)を応援しているにもかかわらず、知らんふり、という演出があるのですから。さらにそれを踏まえて、そのあといろいろあったのちに、ついに仲間を認めるようになり、第19場で自分の記録更新をなげうってでもシーガーの応援に回る、という感動的な展開があるのですから。
 なのにここですでに仲間と仲良くしちゃってちゃ、そのあとの冷酷さはなんなワケ?って観ていて観客は混乱しちゃうでしょ?

 そのあとの第9場のパーティーシーンは、これは脚本に繊細さがないせいのミスです。
 映画は、私はもちろん日本語字幕で見ているので、原文台詞やそのニュアンスまではわかりませんが、ポーラ(夢咲ねね。ちなみに苗字からポーランド移民とうかがえるが、舞台ではその要素は外されています。まあこれは目くじら立てても仕方あるまい)は確かに旅行が趣味だと言っていますが、実際には趣味と言えるほど金銭的にも時間的にも余裕があるはずもなく、むしろ夢として語っているわけですね。ここではないどこかへ出かけて、いろんな人と会っていろんなものを見てみたい、いろんなことを知りたい…とポーラは語っているのです。これは彼女の向上心とか向学心、興味、好奇心を表現したものです。それはリネット(白華れみ)の、「ここではないどこかへ行きたい、たとえばエリート士官と結婚してハワイに住みたい」というような単なる上昇志向とは違う、とされているのです。
 その要素が落ちてしまっているのはミスです。
「貯金して、旅行する」
 その「貯金して」が貧乏臭い、とザックにあざ笑われるだけで流してしまっている。それではダメなのですよ。
 さらにその後が悪い。ザックはそんなポーラを
「犬なら雑種だ」
 とこき下ろし、ポーラも
「雑種って何よ」
 とかなんとか怒ります。そりゃ当然だよね。しかし何故その後も彼らはいちゃつくのか。そこまで悪く言った女にザックは何故かまうのか。そこまでポーラは美人でナイスバディということなのか、しかしそんな表現はない。ポーラもなぜこんなことを言われてなおその男についていくのか。他に行けばいいではないか、そんなにエリートとお近づきになりたいということなのか、しかし彼女はリネットとは違って最初から真面目なつきあいをしたいと考えている女性、ということになっている(その表現はやや弱くてこれも問題だが)。
 なんなの??と再び観客の頭にハテナが飛んでしまっても仕方ないと思うのですよ。でもそんなふうに観客を混乱させてしまってはダメなワケ、重ねて言いますが。
 せっかくポーラかザックにいいこと言っていて、それがザックの心に何かしら響いたのかもしれない…という一瞬があるだけに、なおさら残念。

 主役カップルの場面としては第12場のコテージでのやりとりも台詞の流れが悪くて気持ちが悪い。
 ザックは喧嘩しちゃって退学を恐れて不機嫌になっている。それをフォローするようにポーラが語る。しかしザックはその意を汲まず、彼女をただベッドに連れ込もうとして、ポーラに
「娼婦扱いしないでよ」
 と怒られる。当然の展開です。
 しかしここで何故ザックがポーラを引き止めるのか皆目わかりません。そんなにやりたかったのか。なんだって急に
「誰にも真剣に愛されたことがないから、愛し方がわからないんだ」
 なんて語り出すんだ。
 それにほだされたポーラがザックを受け入れるのはわかる。しかし翌朝になって何故ザックはまた「本気じゃなかったんだ、真剣なつきあいをする気はない」みたいなことを言い出すんだ(実際には言葉にする前に先回りしたポーラにフォローされてしまうのですが、大意はこうです)、真剣に愛し出したから寝たんじゃないのか、それとも寝たら気がすんで気が変わったということなのか、確かに男にはそうしたところがあるとはいうがしかしこれは宝塚歌劇なんだぞオイ。
 それで言うと同時進行のリネットとシド(紅ゆずる)の下ネタ台詞も脚本家はお洒落な艶笑ネタだと思っているのだろうが下品だし不必要だしもっといいことはいくらでも出来るぞ。反省してくれ。
 ポーラの気持ちや行動は理解できます。こちらはある程度真剣に考えているとはいえ、相手にも同じことを望んだり押し付けたりするのは重いし無理だし、時間をかけよう、最初は仕方ない、と思ってこういう言い方をするのは、自然だし利口でもあると思う。しかし前後の流れから、少年漫画のヒロインにありがちな、男に都合がいいばかりのヒロイン像に見えてしまっているのがこれまた残念なのです。ポーラはそういう意味で
「都合のいい女になってあげる」
 と言っているのではないのですよ。

 続く抜き打ち検査の場面で、何故かザックはペリマン(涼紫央)にバックルとブーツを与えています。かつては売ろうとしていたのに、突然、何故? ポーラによって愛を知ったから? それにしてはポーラに対してクールな関係でいようみたいなことを言っていましたが?? この流れが意味不明になってしまうわけですよ。

 
 さらにシゴキシーン、仲間たちが励ましに来たりして、ザックが友情というものを知りつつあることが表現される。なのにポーラには電話一本よこさない、ということが続いて語られるのです。おかしいでしょ?
 ザックは戦死した兄の婚約者と結婚することになっているシドを心配することは出来るようになっているくらい、人間性が回復したことになっている(^^;)のに、ポーラのことは
「ポーラは、切った」
 とか非人間的な表現をする。この矛盾はつらいです。

 ところでこのあたりでポーラがソロで歌う「執着し過ぎると、遠ざかる幸せ」という歌は、観念的で感傷的なだけでまったく意味不明です。
 この時点での問題はそんなところにはないはずなのです。
 ザックは他人に対して心を閉じている、それは彼の生まれ育ちのせいで、彼は本来はそんな人間ではないはずだ、私にはわかる、彼がかわいそうでいとおしい、だから彼を愛している、彼が心を開くのを待ちたい、でもそうそう上手くいかないこともわかっている、どうしたらいいの…というようなことを歌わせるべきでしょう。ふたりの間の何が障害になっているのかを示すいいチャンスなのに、ああもったいない。
「真剣に人を愛すると、別れる時に傷つく。傷つく覚悟があるか? 真剣に人を愛することができるか?」
 というくだりの追加はとてもいいだけに、残念。
 自分から連絡を絶っておきながら、カウボーイとつき合い出したポーラを見て、確かにザックは傷ついたのですから。それは嫉妬とか、プライドを傷つけられたのと紙一重。それでもその喪失感は、本当にどうでもいいものには感じないはずだったのですから。それが感じられたからこそ、彼は最後の最後に彼女を迎えに行ったのでしょうから。

 ちにみに映画ではポーラの母親はリネットと立場が近く、エリート士官候補生と恋に落ちてポーラを妊娠し、結婚したものの、夫は退学して士官にはなれず今は貧乏暮らし、愛は醒めて家庭は冷えたまま…とされています。何故この設定を改変したのかナゾ。こういう母親を見ているからこそ、ポーラはリネットのような作戦に出ることを望めなかったはずなのでは? 母親を士官に弄ばれて捨てられたシングルマザーにしてしまっては、かえって「私は捨てられないわ、結婚までこぎつけて見せるわ」となりそうでしょ? なのにリネットに対して批判的なポーラを見ていると、観客はこの子なんでこんないい子ぶってんの?となってしまって、ポーラのキャラクターも崩壊してしまうんです。ここも残念でした。

 逆にシドの自殺の改変は良かった。裸でバスルームで首つってんのを舞台で見せられるわけはないから、ってのもあるけど、岬から飛び降りる、という方がロマンチックですしね。
 続くフォーリーとの決闘シーンも、急所蹴られて決着、ってのができないってのもあるけど、フォーリーが左目をベトナムで負傷していてそちら側がほぼ見えないのに、ザックがそちらからは決して攻撃せず、あげく負けたのだ…とした改変はとてもよかったと思います。どうやってザックがその事実を知ったんだよ、ということはさておき(^^;)。

 卒業式で、晴れて士官になったザックに対してフォーリーが初めて敬語を使うやりとりは、日本語の力もあって映画よりずっと感動的。さらに続くフォーリーのテレ隠しのやりとりは本当にすばらしく、温かい気持ちになれました。
 次の新人たちに対しても同じことを言うフォーリー、というのも映画のままなんだけれど、これは本当にテルの好演もあってすがすがしく微笑ましく、いいシーンになりました。

 しかし本当はここでやはり何かきっかけがあって、やっぱりポーラのことが気にかかる、愛している、会いに行こう、迎えに行こう…ってなるべきなんですけれどねー。
 工場に白い制服のザックが現れる掃き溜めに鶴っぷりは舞台の方が格段に上で、鮮やかなハッピーエンドになりました。お姫様抱っこと帽子のくだりは映画のままで、そこもすばらしい。
 だからこそ、全体の流れがもっと滑らかで、気持ち良く「ああ、よかったね」ってなれたら、もっともっとすばらしかったのになあ…と思わないではいられなかったのでした。

 私はこういうところが気になるたちなのです。たとえ贔屓組でも、何度もリピートしていたとしても、きっとそうだったと思う。了見の狭いファンですみません。しかしファンだからスターが出ていればなんでも喜んでくれるでしょ、という考えで舞台を作るべきではない、と私は思うぞ。よもやそんな甘えた考えで舞台を作ってはいないと信じたいがしかしあえて言う。


 さて、しかし、役者は脚本とはまた別問題です。
 なんだろうなあ、たとえば『麗しのサブリナ』でも『ジプシー男爵』でもこんな感じは受けなかったんだけれど…
 雪組は本公演をしばらく観ていないからまたわからないんだけれど…
 つまり贔屓のせいですっかり最近の私は宙組がホームグラウンドで、リピート率はこの組の公演だけがハンパないことになっているのですが、そもそもはヤンさんやユリちゃんが好きでファンを始めたこともあり、心のふるさとは花とか月で、馴染んだ感じとか好みの下級生の多さとかも断然そうで、逆に雪や星にはやや距離を感じたままここまできていて…
 だからなのか、今回の観劇はなんかすごく新鮮に感じて、感動的で、ものめずらしくて、笑っちゃうくらいで、なんかすごく楽しかったのです。これってナニ?

 チエちゃんって多分上背はそんなにないし、頭身もユウヒとかみたいに高くない。でもきりやんだとちっちゃいな、残念、と感じるのに、チエちゃんは、大柄、というのとも違うんだけれど、大きく華やかに圧倒的に見えて、とても輝きを感じるんですよね。
 特に冒頭のザックのセリ上がりのジーンズ姿はすごかった、うちのはあんなジーンズの穿き方はしない、着こなしがもううちでは見たことない!でもすげーカッコいい!現代的!キラッキラした若者って感じ!! ともう衝撃的でした。
 作業着も素敵、制服姿も素敵。
 ダンスはもう本当に素敵。
 さらにフィナーレの士官の燕尾の踊り。
 確かに『ファンキー・サンシャイン』だって石田先生だし変わり燕尾の三角形隊形の大階段男役群舞があったわけですが、振り付けの差じゃなくて、味がちがう。うちのはもっと端整で美麗でゴージャスと言うかすかしているんだけど、星組はもう若くてきらきらでオラオラでエネルギッシュで、スターでアイドルでかっこよくて笑っちゃう。この、まったく悪い意味ではないのですが「笑っちゃう」感じがとにかく新鮮だったなあ。単純に楽しかった。

 ってことでチエちゃんはザックにぴったりで演技もダンスもよかったです。喧嘩シーンの回し蹴りの鮮やかだったことよ!
 ネネちゃんもでかいなあ、ってことを除けばとにかく可愛いのでオーケー(^^)。
 そしてテルが本当に大健闘大好演ですばらしいフォーリーでした。そしてこの人はすらりと背が高く頭身が高く、確かに宙組向きだし加わってもなんの遜色もないでしょう。ユウヒとの並びが楽しみだよ! フィナーレでのアイドルスターっぷりもハンパない。しかしパレードは確かに大劇場どおり髭で降りてきてくれた方がよかったかもね。
 レミちゃんはね…役として損だったよね。ある種の敵役だったもんね。あとこの人は声がよくないんだなあ…私は嘘くさいぶりっ子ふうの娘役声は嫌いで、アルトの方が好きなくらいなんですが、『リラ壁』のときには気にならなかったのに、ロミジュリの乳母で芸に磨きがかかってしまったのか、憎々しいリネットを演じるためか、声が低すぎドスが利きすぎていて高感度が低かった気がします。フィナーレやショーでのテルとの並びは本当に美しかったのですが。
 トヨコは好きなんですが今回はちょっと精彩を欠いたかな? 特別な輝きがなかった気がしました。
 アラレちゃんメガネで優等生デラセラを演じたともみんはショーではクサく踊っていましたが、私は好みではないと判定。
 逆に押したいベニーですが、『リラ壁』が良すぎてシド単体ではどうとも…だったかなあ。
 みやるりやしーらんを抜かしてまっかぜーがフィナーレに入っていますが、さすがの上背で確かに目立つし、ダンスも端整でよかったです。
 はるこシーガーももうちょっと期待していたんだけどな、群像のひとりだったかな…

 ああでもホントにチエちゃんは大型スターで魅力がわかりやすくて、いい演目もらって初心者ファンを増やす広告塔になってくれるといいと思いますよ。
 公演プログラムに入っているDVD&CDの広告ページが象徴的だと思うんだけれど、たとえばこの間の宙組版では『TRAFALGAR』で、やはり軍服のユウヒなのですが、フィギュアのような美しさですっくと立っているショットなんだよね。
 でも今回のチエちゃんは『愛旅』のフィナーレ軍服で踊っている笑顔のショットなの。その躍動感、輝き。そういうことなんだと思うのです。
 そろそろいい当て書きして、傑作を作ってあげてくださいね歌劇団さん!!


 蛇足。宝塚歌劇でフランス国歌は何回も聞いたが、アメリカ国歌は珍しいなと思いました。

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