駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ピグマリオン』

2013年11月30日 | 観劇記/タイトルは行
 新国立劇場、2013年11月27日マチネ。

 ロンドンの下町に住む花売り娘のイライザ(石原さとみ)は、ひょんなことから言語学者のヒギンズ教授(平岳大)と出会う。音声学の権威で、発音を聞けばどこの出身かわかってしまう天才的な才能を持つヒギンズは、イライザのひどい訛りや粗暴な態度にあきれる一方で、このままでは一生底辺の生活から這い上がれないが、私にかかれば上流階級の夫人のように仕立てて見せると言い出す…
 作/ジョージ・バーナード・ショー、翻訳/小田島恒志、演出/宮田慶子。イプセン『人形の家』に触発されて書かれた1912年の作品。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原案にもなった。全2幕。

 『マイ・フェア~』はこの原作からきちんと台詞を拾っていたんだな、ということがよくわかりました。
 一方で、一幕ラストのヒギンズ夫人(倉野章子)の訪問日の場面をアスコット競馬場での社交シーンにショーアップしたんだな、と思うと、そのアイディアに感心させられます。
 とはいえ芝居としてはここの場面がとてもおもしろくて、フレディ(橋本淳)の母親であるミセス・エインスフォード・ヒル(春風ひとみ。上品ぶった夫人役が素晴らしい)とその娘クララ(高橋幸子)がとてもよかったです。
 クララはフレディのおそらくは姉で、上流階級の娘さんなんだけれど、若いということではイライザの語り口や態度をおもしろがっちゃったりして、なかなかおもしろいポジションとキャラクターの役でした。二幕には出番がなくて残念でした。
 原作では中年男性であるピカリング大佐(綱島郷太郎)を今回はヒギンズと同年代の青年ふうにしていますが、これもなかなかおもしろかったです。
 彼は確かにダンディな紳士で、レディの扱いがなっていないヒギンズとは違います。でも紳士であるということはイコール男性であるということで、本当の意味で女性のことを理解もしていないし尊重もしていない馬鹿者だということです。
 ふたりは独身主義者ということで気軽なホモ・ソーシャルを築いて完結していますが、それはなんの発展もなく死んだと同じものだということに気づいてすらいないのです。
 ミュージカル版と違って、この戯曲はイライザとヒギンズはくっつかない、とは知識として知っていました。
 でもやはり流れとしてはよくわからないところがありました…
 大使館のパーティーでイライザが出自を隠しきる事に成功し、しかし帰宅したヒギンズとピカリングは互いの手腕を褒め称えあったり苦労話をするだけで当のイライザには見向きもしない。褒めもしなければねぎらいもせず、使い終わったおもちゃ同然にほっぽり出して忘れ去ります。それでイライザの自尊心が傷つけられるのはわかるのです。
 でもそのあと「私はどうなるの?」とか言い出すのは、私にもただの泣き言に聞こえて、ヒギンズと同様にちょっとぽかんとしてしまうのでした。成功を認めてもらえなかったのは悔しいが、知識も話し方も習得したのだし、当初の予定どおりこの家を引き払って町の花屋に行って就職すればいいじゃないですか。何が問題なのかさっぱりわかりません。それとも下流階級の娘が上流階級の話し方を身につけると中流階級としてもう働けないってことなの?
 ここでイライザがうだうだ言い出すのが、ヒギンズとの愛情のもつれによる痴話喧嘩ならまだわかりやすいのです。でもそうではないんですよね。だったらイライザが言っていることは理屈に合わない気がしました。
 ヒギンズ夫人の居間での「ディベート」も私には議論になっているようには思えませんでした。イライザはもっときちんと相手に要求を突きつけるべくだし、その上で理解が得られず決裂する、という話なんじゃないのかなあ?
 イライザはフレディと結婚し、ヒギンズのように人に話し方を教えて働いて彼を養う、と宣言します。女だからといって男と結婚して養ってもらうことしかできないわけではない、女にだって男と同じように働いて結婚相手を養うことはできるのだ、と宣言したのです。
 だからこれはイライザがヒギンズではなくフレディを選んだ、というラブストーリーではありません。女は男に並び立った、しかし男はそれを認められず、女は去り男は残り、ひとり虚しく「ハッハッハ」と笑ってみせる、その愚かな姿を描いて終わる、とてもシニカルでドライな物語なのでした。
 ヒギンズに、男に、後悔も反省もさせないまま終わる物語。話し方を習得して階級差は埋まるかもしれないが、男と女の間の溝は埋まることはないのだ、という結論。そんな怖い話なのでした。
 でも今も昔もそんなことは女にとってはあたりまえで「だから?」となりますよね。だからミュージカル版はハッピーエンドのラブストーリーになったのです。あたりまえのことをただ描いてもつまらないからです。
 この時代にやってのけたイライザは確かに偉いが、今や時代は追いつき、そしてあいかわらず男たちは変わらない。だから?
 ピグマリオンは自分が作った彫像ガラテアに恋をした。だからアフロディテがガラテアに魂を与えてやり、ふたりは結婚した。
 でもヒギンズはイライザを愛さなかった。ただ便利に使うことは愛とは違います。イライザの魂はそもそもイライザのものであり、だからイライザは立ち去る。ヒギンズは残り、イライザなしでもおそらくやっていけるのです。だって今まではそうだったのだから。それでもイライザは変わったけれど、ヒギンズは変わらなかった。それだけの話なのでした。
 変わることができた女はあんな世迷言はいわないと思う。だから私はあの議論に引っかかったのかな。
 元の戯曲をきちんと読んだらまた納得できるのかしらん…ううーむ。
 ともあれ作品自体はとても楽しく観たのでした。
 下品な口調、お人形のような口調、上品な言葉とその思想を自分のものにして血が通ってからの口調、それを使って本心を言い当てこすりすら言えるようになるまで…石原さとみは自在に演じていました。素晴らしい。
 平さんは舞台よりはテレビドラマの方が向く声かな、と思わなくもありませんでしたが、鼻持ちならない若くもない男、を体現していてよかったです。
 マダム・ピアスの増子倭文江もよかったな。うるさすぎない舞台装置もよかったです。


 




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いのうえシェイクスピア『鉈切り丸』

2013年11月30日 | 観劇記/タイトルな行
 シアターオーブ、2013年11月24日マチネ。

 戦乱絶えない平安末期にひちりの男。名は源範頼(森田剛)、幼名を鉈切り丸。姿は醜く、顔には痣、背には瘤、片足を引きずり馬にも乗れない。しかし頭脳は明晰、人並み以上に野望を抱く…
 脚本/青木豪、演出/いのうえひでのり、音楽/岩代太郎。シェイクスピア『リチャード三世』を鎌倉時代に翻案した戯曲。全2幕。

 『リチャード三世』の演目自体は観たことがなかったのですが、いくつかの有名な台詞は知っていたので、その翻案にはなかなかににやりとさせられました。
 しかしすごい話ではある。ピカレスク・ロマンというのとも違う気がしますね。悪役が成り上がる爽快感とも、悪役が罰せられる勧善懲悪感とも無縁の芝居な気がしました。
 リチャード三世は最後に馬を求めましたが、範頼は空を飛びいつもこちらを眺めているようだったとんびに声をかけ、その翼をくれと訴えます。
 でも翼が得られたからといって飛べるとは限らない。飛んだからといって素晴らしい景色が眺められるとは限らない。彼の魂はねじけていて、そうしたものは手に入れられなかったように思えるのです。
 でも彼がそうなってしまったのは決して彼自身のせいではない。さりとて誰かが悪かったということでもない。それがせつなく、悲しく、やりきれない。
 歴史は勝者の手で書き換えられ、すべての真実がそのままに書き残されることは決してない。それでも何かは必ず残されるのだけれど…
 そんな物語に思えました。

 外来語をしゃべっちゃう頼朝(生瀬勝久)やその強すぎる妻・政子(若村真由美)も素晴らしかった。
 巴御前には初舞台の成海璃子。固い物言いがキャラには合っていたかもしれないけれど、まだまだ修行が必要かな。
 ターコさんの建礼門院(麻実れい)は幽玄でおどろおどろしくてこれまた素敵でした。

 ラップを歌っちゃう大江広元(山内圭哉)が書き付ける公文書『吾妻鏡』が為政者の命令で事実を歪曲して書かれていったり、予言や創作めいたことをするに至るあたりは、ちょっと『月雲の皇子』を思わせておもしろかったです。
 しかし長いけどな!


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Q/東日本大震災のあった日(2011年3月11日)、どうしていましたか?

2013年11月30日 | 日記
Q/東日本大震災のあった日(2011年3月11日)、どうしていましたか?

A/

 九段下のホテルグランドパレス、まとぶんDSランチ会、最後の1曲を聴いていました。

 客席の方が先に揺れに気づきましたが、舞台ではまとぶんが気づかずにそのまま歌っていたので、みんなして固唾をのみつつ見守る…みたいな感じでした。
 そのうちシャンデリアが揺れ出して、さすがに地震に気づいたまとぶんが、
「ちょーっとストップしましょうかねえ!」
 と明るく言ったとき、大きくぐらりとずしんと揺れまして…
 携帯だけ引っつかんでテーブルの下に潜り込みました。

 最初にメールしたのは接待ゴルフに出ていた彼氏。
 このころはまだつながって、すぐ「池の水がヘンな波紋を描いて怖かったけど無事」みたいな返事が来ました。

 ホテルマンはさすがにおちついていて、火の元を確かめたこと、ホテルの建物には破損がないこと、シャンデリアはそんなに簡単に落ちないようになっていること、地下鉄など交通機関が止まっているようなのでしばらく会場に待機していてほしいこと、などをしっかりと簡潔にアナウンスしてくれていて、客席はわりとおちついていたと思います。
 余震は怖かったけれど楽屋のまとぶんたちだって怖かろう、と思えたし、それが支えになりました。
 というか、ショーの再開をフツーに待っていました(^^;)。

 1時間ほどして、ショーの中止が発表され、まとぶんたちがステージに再び現れました。
 まとぶんはすごくおちついていて、あくまで明るく挨拶してくれて、本当にその温かな人柄が表れていました。
 まとぶんは阪神大震災の年に初舞台だったんじゃなかったっけ?と思うと、こちらが泣けてきました。
 あきらが青い顔して泣きそうになっていたのがなんともかわいそうだったなあ…

 外に出て歩き出したら通りの向かいでは九段会館が大変なことになっていたわけですが…
 15分ほど歩いて会社に戻り、テレビを見て初めて事態を知りました。
 携帯はすでにつながらなくなっていましたが、会社の電話で実家の家電につながり、両親の無事は確かめられました。
 この日は仕事にならず、結局20時ごろ会社を出て、1時間ほど歩いて帰宅しました。
 近くに越していてよかったと思いましたよ…
 マンションはつっぱり書棚がつっぱりきれず斜めに動いていたりしていましたが、割れたり壊れたりしていたものはまったくありませんでした。
 父親が心配性というか防災マニアなため、マンションにも避難グッズは用意してありましたし、不精なため普段から水でも食品でも買い置きしておくことが多かったため、そんなに不安は感じませんでした。いつでも避難できるようパジャマでなくジャージで寝たくらいかな。

 ただ、その週末はお茶会合わせで『ヴァレンチノ』遠征予定だったのをさすがに断念したのがただただ残念でした…

 週明けからも仕事があったのでわりとフツーに働いていました。
 放射能がどうのと言われても、そんなこと言ったら地球上に安全な場所なんてないよと思えたし、なるべくフツーにしていたいと思っていました。東宝雪組公演も再開されてフツーに観劇に行きました。
 でも、やっぱりいろいろと普通ではなかったのだと、今は思います。
 改めて、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。


(2011.10.26)



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Q/乗馬をするようになったきっかけは何ですか? 障害とかもやるのでしょうか?

2013年11月30日 | 日記
Q/乗馬をするようになったきっかけは何ですか? 障害とかもやるのでしょうか?


A/
 質問ありがとうございます! またまた語りますよ長いですよ!!(^^;)

 えーと、簡単に言うときっかけは競馬でした(^^;)。

 世の中がまだバブルで、JRA(日本中央競馬会)が女性客を競馬場に呼ぼうと大キャンペーンを張っていた時代がありまして、
「じゃ、試しに一度行ってみようか」
 と高校時代からの親友ふたりとのこのこ出かけて行ったのが最初です。
1989年の府中、東京競馬場。オークスの日のことでした。

 そこから競馬にハマるまでにはまたいろいろあるのですが、それはまたの機会に質問がいただけたらまた長々語らせていただくことにして、ともかくその翌年が明けるころには、毎週末は朝からラジオで競馬中継を聞きながら創作同人の原稿を描き進める、というオタク女子大生ライフを送るようになっていました。

 好きな馬や観たいレースがあれば札幌でも小倉でもバンバン出かけましたし(宝塚歌劇にハマる以前は、私にとって関西と言えば淀と仁川のことでした。
 全国に10ある中央競馬の競馬場のうち、福島競馬場にのみ行けていないことが心残りです)、大学卒業の春休みにはクラスメイトがヨーロッパだアメリカだと卒業旅行に出かけるのを尻目に静内の生産牧場で泊り込みのバイトを2週間していました。
 東京から来た女子ってだけでモテたなー、あんなに「嫁に来い」と言われたことはその後もない人生最大のモテ期であった…東京で就職が決まっていたのでお断りさせていただきましたが(^^;)。

 就職すると週末の休みが貴重になり、そうそう競馬だけに時間もさけず、応援していた馬がどんどん引退していって代替わりしていくのにつれて心が離れ始め(ここらへん宝塚と似ている気がします。よく歌舞伎にたとえられるけれど大相撲とか競走馬に似ていると思う。横綱にまで上りつめたらあとは自分で引退決めなきゃならないし、馬もGⅠレースをバンバン勝ってもいつかは体力の限界が来るので必ず引退します。定年もあるし)、きちんと観ていたのは92年いっぱいくらいまででしょうか。
 その後も2年ほど大レースは追いかけていましたし、仕事でフランス出張に行って凱旋門賞を観戦したりもしたのですが、今は全然観ていなくて、今年のダービー馬が何かも知りません…


 競馬を見始めて1年ほどしたころ、家から歩いて5分のところに乗馬クラブがあるのに唐突に気づきました。その3年ほど前に開業していたようなのですが全然気づかなかった…
 で、試しに体験レッスンとかやってみて、すぐ会員になって通い始めました。

 私は逆上がりもできなきゃ二重飛びもできない、運動神経というものがまるでない人間で、体育の授業も苦手で嫌いでしたし、乗馬を始めて初めて汗をかく爽快さ、運動の喜びを知りました、二十歳すぎて…(^^;)
 ま、運動するのは主に馬、というのが正しい馬術のあり方ですが、初心者のうちはどうしても乗り手が運動させられてしまうものですからね。

 ライセンスを取るために初歩の馬場馬術もやりましたが、もっぱら障害飛越をやっていました。
 といってもサンデーライダーでしたし、ときどきローカル試合に出ては三反抗失権ですごすご帰ってくるような選手で、バリバリ学生馬術をやっているような人とはレベルが違いましたが…馬事公苑で落馬失権したこともあります(^^;)。

 自馬も持っていました。三頭乗り換えました。
 最初は地方競馬の競走馬あがりの牝馬。次はアメリカ生まれのペイントホースの牝馬、性格が悪くて可愛かった…!
 最後がオーストラリア生まれのサラブレットの?馬で、おっとりしたとっちゃん坊やでした。

 就職して都内でひとり暮らしを始めても、週末は実家に帰るウイークエンド・パラサイト生活をしていたので、週末は実家で12時間睡眠を取って母親の手料理を上げ膳据え膳で食べ乗馬クラブにレッスンに行って汗をかき父親を差し置いて一番風呂に入るという極道な暮らしを20年近く続けていました。

 40歳になったのを機に「そうだマンション買おう!」と思い立ち、さくっと買っちゃいました。
 なので毎週実家に帰るのはやめて、乗馬クラブもやめ、自馬も手放しました。預託料をローンに回しています。
 今は年に二、三度、軽井沢や帯広へ日帰りか一泊程度で外乗に出かけて乗るくらいになってしまいました。
 行けばアラブや道産子を借りて野山を2~30kmくらい駆け回ってきて、その後一週間くらい筋肉痛になります。腹筋も背筋もすっかり衰えました…


 ロケーションの問題もあってホビーとしてはハードルが高く感じられるでしょうが、もっともっと楽しむ人が増えてくれるといいのになーと思います、乗馬。
 馬、可愛いですよ。癒されますよ。
 そして馬術競技は、日本ではまだまだ競技人口の少ないスポーツですが、唯一動物を使うものでありかつ男女が一緒に試合する唯一のスポーツです。
 選手の男女も馬の牡牝も問われません。能力に差がないとされているのです。
 すごいことだと思います。実際そうですしね。

 今でも馬具モチーフのアクセサリーとかには目がなく、さんざん貢いでいます。
 またオーストラリアにファームステイとか行きたいです。
 武豊のことも愛し続けています(^^)。てへへ。


(2011.10.1)

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Q/宝塚歌劇で「このセリフ(歌詞でも)が好き!」というのがありましたら、を大いに語ってください!

2013年11月30日 | 日記
Q/宝塚歌劇で「このセリフ(歌詞でも)が好き!」というのがありましたら、を大いに語ってください! (ザ・インタビューズより)


A/
 難しい質問で、悩みました…

 通っている公演がある間は、そのすべての台詞が言えるくらいになっているのですが、あくまでお芝居の流れの中にあるものであり、一言だけ抜き出して
 これがどうとか語るものではないのかもしれない、私にとって…
 とかいろいろ考えちゃいました。

 たとえば小説とか漫画とかの台詞なら、気に入ったものは書き出してマイ箴言集を作っているようなオタクでもある私なのですが、宝塚歌劇ではやってないな…でもシェイクスピアはあるな、差別だな(^^;)。

 というワケでいろいろ考えてみたのですが、ひとつひらめきました。
 観劇当時も、お芝居の流れとは別に「おっ」と思ったんだった。

『悲しみのコルドバ』(作・演出/柴田侑宏)より、フェリーペの台詞。

     「悲しみが深い時は心をからにして漂うのが一番だと思います。私のところには、あなたが漂える風や林があります」

 …言わないよね、実際の男性は、というか現実の人間は言わないよね。
 でもいい台詞ですよね。口説きとも限らない。同性にだって言えるし。
 こんなふうに誰かを慰める、というか気遣える人間でありたいものです。
 まず土地持ちにならないとダメか…(^^;)

 もうひとつ柴田作品から、『仮面のロマネスク』より。
 これは言葉の問題というより、やはりその場面について、なのですが。

     メルトゥイユ「そうっとしていて、私たちの時間よ」
     ヴァルモン「もうしばらくで、僕もお暇するよ」

 出立を急がせる執事(だったかな?)に対して、女主人はややぞんざいな口を利く。
 一方で「私たち」の片割れでもある男は、客人だからということもあるけれど、ちゃんとていねいに応対するわけです。「お暇」…うっとり。しかも一人称が「僕」!
 とてもせつない場面なのですが、でも、すごく豊かで、美しいのでした。
 ああ、再演が今から楽しみです。

 歌詞で言うと、『太王四神記』(作・演出/小池修一郎)のホゲに関するものは何もかも好きすぎました。

     「私は生まれた同じ星の下に」

 一幕の幕切れ、ドラマチックで大好きなんですけれど、ホゲのこの歌は泣かせますよね。一人称は「俺」で統一したいところだけれど、神様とか天に向かって言っているものだろうから、まあママで。
 韓ドラはたいていザルなものですが(オイ)、ホゲだって同じ日に生まれているのにチュシンの王になれないのは何故?ってのはスルーですからね。
 ホゲが神器をすべて集めたってダメだったんでしょうね。でもホント何故よ?

     「教えてくれ何故俺ではいけないのか」

 この「何故」の三重唱もすばらしいけれど(『コルドバ』の「エル・アモール」を髣髴とさせて私は大好き)、この歌詞も悲痛ですよね。でもまあこれは仕方ないんだ、愛情は理屈じゃないし、タムドクの方が先にキハに出会っていたというのもあるし(^^;)。
 でも問わずにはいられないのが人というものです。

     「美しい巫女よ 俺の心に光を与えてくれ」
     「俺が愛したのは炎の巫女 俺を王だと言った女」

 母親の期待はちょっと筋違いかなとは気づいていたホゲにとって、キハの言葉は唯一の心のよりどころだったのですけれどね…
 婚約式の場面も大好きだったなああぁ。
 冷たくキスするところもいいんだけれど、キハがスジニと話をしたあと席に戻ってくるのを見ている視線もいいんだよね。
 将軍たちと談笑している一方で、常にキハの気配を感じていて、ちょっと遠のくと探すの。ああ愛しい。

 …こんなところでしょうか。
 結局いつものように長々と語ってしまいました、すみません。


(2011.9.27)



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