新国立劇場、2013年11月27日マチネ。
ロンドンの下町に住む花売り娘のイライザ(石原さとみ)は、ひょんなことから言語学者のヒギンズ教授(平岳大)と出会う。音声学の権威で、発音を聞けばどこの出身かわかってしまう天才的な才能を持つヒギンズは、イライザのひどい訛りや粗暴な態度にあきれる一方で、このままでは一生底辺の生活から這い上がれないが、私にかかれば上流階級の夫人のように仕立てて見せると言い出す…
作/ジョージ・バーナード・ショー、翻訳/小田島恒志、演出/宮田慶子。イプセン『人形の家』に触発されて書かれた1912年の作品。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原案にもなった。全2幕。
『マイ・フェア~』はこの原作からきちんと台詞を拾っていたんだな、ということがよくわかりました。
一方で、一幕ラストのヒギンズ夫人(倉野章子)の訪問日の場面をアスコット競馬場での社交シーンにショーアップしたんだな、と思うと、そのアイディアに感心させられます。
とはいえ芝居としてはここの場面がとてもおもしろくて、フレディ(橋本淳)の母親であるミセス・エインスフォード・ヒル(春風ひとみ。上品ぶった夫人役が素晴らしい)とその娘クララ(高橋幸子)がとてもよかったです。
クララはフレディのおそらくは姉で、上流階級の娘さんなんだけれど、若いということではイライザの語り口や態度をおもしろがっちゃったりして、なかなかおもしろいポジションとキャラクターの役でした。二幕には出番がなくて残念でした。
原作では中年男性であるピカリング大佐(綱島郷太郎)を今回はヒギンズと同年代の青年ふうにしていますが、これもなかなかおもしろかったです。
彼は確かにダンディな紳士で、レディの扱いがなっていないヒギンズとは違います。でも紳士であるということはイコール男性であるということで、本当の意味で女性のことを理解もしていないし尊重もしていない馬鹿者だということです。
ふたりは独身主義者ということで気軽なホモ・ソーシャルを築いて完結していますが、それはなんの発展もなく死んだと同じものだということに気づいてすらいないのです。
ミュージカル版と違って、この戯曲はイライザとヒギンズはくっつかない、とは知識として知っていました。
でもやはり流れとしてはよくわからないところがありました…
大使館のパーティーでイライザが出自を隠しきる事に成功し、しかし帰宅したヒギンズとピカリングは互いの手腕を褒め称えあったり苦労話をするだけで当のイライザには見向きもしない。褒めもしなければねぎらいもせず、使い終わったおもちゃ同然にほっぽり出して忘れ去ります。それでイライザの自尊心が傷つけられるのはわかるのです。
でもそのあと「私はどうなるの?」とか言い出すのは、私にもただの泣き言に聞こえて、ヒギンズと同様にちょっとぽかんとしてしまうのでした。成功を認めてもらえなかったのは悔しいが、知識も話し方も習得したのだし、当初の予定どおりこの家を引き払って町の花屋に行って就職すればいいじゃないですか。何が問題なのかさっぱりわかりません。それとも下流階級の娘が上流階級の話し方を身につけると中流階級としてもう働けないってことなの?
ここでイライザがうだうだ言い出すのが、ヒギンズとの愛情のもつれによる痴話喧嘩ならまだわかりやすいのです。でもそうではないんですよね。だったらイライザが言っていることは理屈に合わない気がしました。
ヒギンズ夫人の居間での「ディベート」も私には議論になっているようには思えませんでした。イライザはもっときちんと相手に要求を突きつけるべくだし、その上で理解が得られず決裂する、という話なんじゃないのかなあ?
イライザはフレディと結婚し、ヒギンズのように人に話し方を教えて働いて彼を養う、と宣言します。女だからといって男と結婚して養ってもらうことしかできないわけではない、女にだって男と同じように働いて結婚相手を養うことはできるのだ、と宣言したのです。
だからこれはイライザがヒギンズではなくフレディを選んだ、というラブストーリーではありません。女は男に並び立った、しかし男はそれを認められず、女は去り男は残り、ひとり虚しく「ハッハッハ」と笑ってみせる、その愚かな姿を描いて終わる、とてもシニカルでドライな物語なのでした。
ヒギンズに、男に、後悔も反省もさせないまま終わる物語。話し方を習得して階級差は埋まるかもしれないが、男と女の間の溝は埋まることはないのだ、という結論。そんな怖い話なのでした。
でも今も昔もそんなことは女にとってはあたりまえで「だから?」となりますよね。だからミュージカル版はハッピーエンドのラブストーリーになったのです。あたりまえのことをただ描いてもつまらないからです。
この時代にやってのけたイライザは確かに偉いが、今や時代は追いつき、そしてあいかわらず男たちは変わらない。だから?
ピグマリオンは自分が作った彫像ガラテアに恋をした。だからアフロディテがガラテアに魂を与えてやり、ふたりは結婚した。
でもヒギンズはイライザを愛さなかった。ただ便利に使うことは愛とは違います。イライザの魂はそもそもイライザのものであり、だからイライザは立ち去る。ヒギンズは残り、イライザなしでもおそらくやっていけるのです。だって今まではそうだったのだから。それでもイライザは変わったけれど、ヒギンズは変わらなかった。それだけの話なのでした。
変わることができた女はあんな世迷言はいわないと思う。だから私はあの議論に引っかかったのかな。
元の戯曲をきちんと読んだらまた納得できるのかしらん…ううーむ。
ともあれ作品自体はとても楽しく観たのでした。
下品な口調、お人形のような口調、上品な言葉とその思想を自分のものにして血が通ってからの口調、それを使って本心を言い当てこすりすら言えるようになるまで…石原さとみは自在に演じていました。素晴らしい。
平さんは舞台よりはテレビドラマの方が向く声かな、と思わなくもありませんでしたが、鼻持ちならない若くもない男、を体現していてよかったです。
マダム・ピアスの増子倭文江もよかったな。うるさすぎない舞台装置もよかったです。
ロンドンの下町に住む花売り娘のイライザ(石原さとみ)は、ひょんなことから言語学者のヒギンズ教授(平岳大)と出会う。音声学の権威で、発音を聞けばどこの出身かわかってしまう天才的な才能を持つヒギンズは、イライザのひどい訛りや粗暴な態度にあきれる一方で、このままでは一生底辺の生活から這い上がれないが、私にかかれば上流階級の夫人のように仕立てて見せると言い出す…
作/ジョージ・バーナード・ショー、翻訳/小田島恒志、演出/宮田慶子。イプセン『人形の家』に触発されて書かれた1912年の作品。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原案にもなった。全2幕。
『マイ・フェア~』はこの原作からきちんと台詞を拾っていたんだな、ということがよくわかりました。
一方で、一幕ラストのヒギンズ夫人(倉野章子)の訪問日の場面をアスコット競馬場での社交シーンにショーアップしたんだな、と思うと、そのアイディアに感心させられます。
とはいえ芝居としてはここの場面がとてもおもしろくて、フレディ(橋本淳)の母親であるミセス・エインスフォード・ヒル(春風ひとみ。上品ぶった夫人役が素晴らしい)とその娘クララ(高橋幸子)がとてもよかったです。
クララはフレディのおそらくは姉で、上流階級の娘さんなんだけれど、若いということではイライザの語り口や態度をおもしろがっちゃったりして、なかなかおもしろいポジションとキャラクターの役でした。二幕には出番がなくて残念でした。
原作では中年男性であるピカリング大佐(綱島郷太郎)を今回はヒギンズと同年代の青年ふうにしていますが、これもなかなかおもしろかったです。
彼は確かにダンディな紳士で、レディの扱いがなっていないヒギンズとは違います。でも紳士であるということはイコール男性であるということで、本当の意味で女性のことを理解もしていないし尊重もしていない馬鹿者だということです。
ふたりは独身主義者ということで気軽なホモ・ソーシャルを築いて完結していますが、それはなんの発展もなく死んだと同じものだということに気づいてすらいないのです。
ミュージカル版と違って、この戯曲はイライザとヒギンズはくっつかない、とは知識として知っていました。
でもやはり流れとしてはよくわからないところがありました…
大使館のパーティーでイライザが出自を隠しきる事に成功し、しかし帰宅したヒギンズとピカリングは互いの手腕を褒め称えあったり苦労話をするだけで当のイライザには見向きもしない。褒めもしなければねぎらいもせず、使い終わったおもちゃ同然にほっぽり出して忘れ去ります。それでイライザの自尊心が傷つけられるのはわかるのです。
でもそのあと「私はどうなるの?」とか言い出すのは、私にもただの泣き言に聞こえて、ヒギンズと同様にちょっとぽかんとしてしまうのでした。成功を認めてもらえなかったのは悔しいが、知識も話し方も習得したのだし、当初の予定どおりこの家を引き払って町の花屋に行って就職すればいいじゃないですか。何が問題なのかさっぱりわかりません。それとも下流階級の娘が上流階級の話し方を身につけると中流階級としてもう働けないってことなの?
ここでイライザがうだうだ言い出すのが、ヒギンズとの愛情のもつれによる痴話喧嘩ならまだわかりやすいのです。でもそうではないんですよね。だったらイライザが言っていることは理屈に合わない気がしました。
ヒギンズ夫人の居間での「ディベート」も私には議論になっているようには思えませんでした。イライザはもっときちんと相手に要求を突きつけるべくだし、その上で理解が得られず決裂する、という話なんじゃないのかなあ?
イライザはフレディと結婚し、ヒギンズのように人に話し方を教えて働いて彼を養う、と宣言します。女だからといって男と結婚して養ってもらうことしかできないわけではない、女にだって男と同じように働いて結婚相手を養うことはできるのだ、と宣言したのです。
だからこれはイライザがヒギンズではなくフレディを選んだ、というラブストーリーではありません。女は男に並び立った、しかし男はそれを認められず、女は去り男は残り、ひとり虚しく「ハッハッハ」と笑ってみせる、その愚かな姿を描いて終わる、とてもシニカルでドライな物語なのでした。
ヒギンズに、男に、後悔も反省もさせないまま終わる物語。話し方を習得して階級差は埋まるかもしれないが、男と女の間の溝は埋まることはないのだ、という結論。そんな怖い話なのでした。
でも今も昔もそんなことは女にとってはあたりまえで「だから?」となりますよね。だからミュージカル版はハッピーエンドのラブストーリーになったのです。あたりまえのことをただ描いてもつまらないからです。
この時代にやってのけたイライザは確かに偉いが、今や時代は追いつき、そしてあいかわらず男たちは変わらない。だから?
ピグマリオンは自分が作った彫像ガラテアに恋をした。だからアフロディテがガラテアに魂を与えてやり、ふたりは結婚した。
でもヒギンズはイライザを愛さなかった。ただ便利に使うことは愛とは違います。イライザの魂はそもそもイライザのものであり、だからイライザは立ち去る。ヒギンズは残り、イライザなしでもおそらくやっていけるのです。だって今まではそうだったのだから。それでもイライザは変わったけれど、ヒギンズは変わらなかった。それだけの話なのでした。
変わることができた女はあんな世迷言はいわないと思う。だから私はあの議論に引っかかったのかな。
元の戯曲をきちんと読んだらまた納得できるのかしらん…ううーむ。
ともあれ作品自体はとても楽しく観たのでした。
下品な口調、お人形のような口調、上品な言葉とその思想を自分のものにして血が通ってからの口調、それを使って本心を言い当てこすりすら言えるようになるまで…石原さとみは自在に演じていました。素晴らしい。
平さんは舞台よりはテレビドラマの方が向く声かな、と思わなくもありませんでしたが、鼻持ちならない若くもない男、を体現していてよかったです。
マダム・ピアスの増子倭文江もよかったな。うるさすぎない舞台装置もよかったです。