駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

青年団『ソウル市民』『ソウル市民1919』『ソウル市民昭和望郷編』

2010年01月22日 | 観劇記/タイトルさ行
 吉祥寺シアター、2006年12月6日ソワレ、7日ソワレ、15日ソワレ。

 1989年初演の『ソウル市民』の舞台は、1909年夏。日本による朝鮮半島の植民地化、いわゆる「韓国併合」を翌年に控えたソウル(当時の現地名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日を淡々と描く。今回はキャストを一新しての6年ぶりの再演。2000年初演の『ソウル市民1919』はその10年後の篠崎家の一日を描く(ソウルの当時の呼び名は京城)。とりとめのない会話の背後に、日本の植民地支配に抵抗する三・一独立運動が見えてくる。2004年には韓国を代表する演出家イ・ユンテクによりソウルでも上演された。ソウル市民三部作の完結編『昭和望郷編』は今回が初演、舞台は昭和4年・1929年の秋のソウルの篠崎家。日本国内は関東大震災から断続的に続く不景気から抜け出しきれず、一方で植民地支配化のソウルは相次ぐ大型百貨店の開店などで本格的な大衆消費時代が始まっていた…作・演出/平田オリザ。

 青年団の舞台を初めて観ましたが、平田オリザは「現代口語演劇理論」なるものを展開しているんだそうで、『ソウル市民』でそれは確立された、とされているんだそうです。この作品は韓国語・英語・フランス語・ロシア語に翻訳されて海外でも公演され、高い評価を受けているそうです。

 幕はなく、舞台は篠崎家の食堂というかなんというか、大テーブルに七、八脚の椅子という洋式なんだけれど本質的にはお茶の間、という空間だけで、会場時から舞台は明るく、開演前からときおり登場人物が出入りしたりしてナチュラルさを演出します。なんとなく話が始まり、客席が暗くなってスタート、というわけ。で、120分、家族やら客やらが出たり入ったりしてくっちゃべっているうちになんとなく暗転しておしまい、という形式?です。

 三作見ても、基本的には同工異曲なんですが、だんだんと登場人物の、というか篠崎家のメンバー構成が若くなっていき、やわくなっていく感じはわかるので、それが現代化の駄目さ加減を表しているんだろうな、と思いました。
 それよりも眼目は、要するに「篠崎家」というソウルに暮らすごく普通の日本人一家であったであろう彼らたちが、ごく普通に、彼らにとってはごく自然に、朝鮮人差別をし植民地支配をしている、その恐ろしさを観客に見せること、です。もしかしたら彼らはリベラルな方か(当時「リベラル」という言葉があったかどうかは知らないんですが)、少なくとも自分たちをリベラルだと思っているフシがある、それでもこうだった、ということですね。実際そうだったのでしょう。
 自分たちはリベラルだ、朝鮮人を差別したりいじめたり嫌ったりなんかしていない、お手伝いさんたちとは友達のように接しているし…みたいなくせして、結局は彼らを使役しているのだし、「朝鮮人だけのときは朝鮮語で話しなよ」と親切として言ったり、朝鮮人との結婚なんて考えられなかったり、朝鮮人より貧しい日本人を見るとむやみと怒ったり、する。この感覚には、彼らが普通で自然でほとんどいい人たちと言ってもいいだけに、肌が粟立つ思いがしました。

 イ・ユンテクは「この作品は韓国人作家によって書かれなければならない内容だった」と言ったそうですが、日本人の作家が(ところで平田オリザって日本人なんでしょうか)日本人自身の醜さを客観視できてこの作品を書きえたことそのものを、日本の、日本人の、反省と後悔だと捉えてもらえればと、日本人のひとりとして思ってしまいました。

 役者さんは入れ替わり立ち代わりしていて、同じ役を同じ役者さんがやっているとも限らないのですが、印象的だったのは『ソウル市民』で現実逃避ばかりしている優等生の総領息子・謙一を演じ、『ソウル市民昭和望郷編』では精神を病んで入退院を繰り返している、あるいは精神を病んだふりをしているやはり総領息子の真一(謙一の長男)を演じた松井周。まあこういうほにゃららした優男がもともと好みだっていうのもあるんですが。それから『望郷編』で長女の寿美子を演じた、普通にしていてもニコニコしているよう(イヤそういう芝居なんだけど)井上三奈子、『ソウル市民』で朝鮮人女中・淑子を演じた角館玲奈が可愛かったです。

 この女中さんたちがどんなふうに育ったものなのかよく知らないのですが、日本語をしゃべって日本人家庭のお手伝いをして、それでも朝鮮語の歌を聴けば朝鮮語で歌って朝鮮風の舞を踊ってしまうその美しさと悲しさには胸つかれました。愛国心がどうとか政治家が何やらやっていますが(それからすると日本はやっぱりまだ愚かで悪いままなのかもしれません)、故郷に自然に息づくものを取り上げられ禁じられたことがない幸せすぎる身としては、そのつらさがほんとうのところわかるようでわからないものだと思いますが、そんなことがあってはならないものなのだということだけはわかっているつもりです。

 最後に、この茶の間は家族の団欒の場にもなれば客の応対にも使い、女中たちの休憩にも使われ、主従仲良く入り乱れてお茶を飲んだりまた下げたりされるのですが、それでも目上の者が現れると自然に上座を譲ったり、許されてくだけてお茶を飲んでいても出入りのときにはきちんと深々とお辞儀をしたりする、そのお行儀の美しさは感動ものでした。こういうものはもう、失われてしまっているかもしれませんねえ…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『トーチソングトリロジー』

2010年01月22日 | 乱読記/書名た行
 パルコ劇場、2006年12月5日ソワレ。

 ニューヨークのナイトクラブで働くアーノルド(篠井英介)は、女装し、メイクの仕上げをしながら語る。「誰も一度たりとも本気で、『アーノルド、愛してるよ』とは言ってくれなかった。だから自分に問いかける。『あなたは本当に愛してるの?』正直な答えはたったひとつ、イエスよ。だって…とても愛してるもの。でも充分じゃない」。アーノルドはゲイ・バーで出会ったブルックリンの教師エド(橋本さとし)に誘われるが…作/ハーヴェイ・ファイアステイン、上演台本・演出/鈴木勝秀、オリジナル翻訳/青井陽治、美術/ニール・パテル。1983年トニー賞最優秀作品賞・主演男優賞受賞作。1986年日本初演(88年再演、アーノルド/鹿賀丈史、エド/西岡徳馬、ローレル/佐藤オリエ)の舞台の三演版。

 少し前まで、「今年のマイ・ベスト・プレイは『レインマン』かな…」と思っていました(しまった、これも鈴木勝秀だ。くそう、やるなあ)。が、ここに来て、「生涯のベスト」と言ってもいいかもしれない舞台にぶち当たってしまいました。

 「ベスト」というには語弊があるかもしれません。この言葉には最高の、とか最優秀な、という響きがあるような気がするので、もっと美しく完成されて万人に受ける普遍的な作品は別にあるかもしれません(そういう意味では『レインマン』の方が「ベスト」という語感にはふさわしい作品かもしれない)。しかし私はこの舞台が好きだ。だから言うなれば「マイ・モスト・フェイバリット・プレイ」とでも表現すべきところでしょうか。英語あってますかね?

 私は舞台が好きで多く観ている方だとは思うのですが、実は戯曲を読むのはけっこう苦手にしています。
 しかしこの舞台は脚本が読みたいと思いました。
 別に舞台がわかりづらかったからとか台詞が聴き取りにくかったからとかそういうことでは全然なくて、とにかく台詞がすばらしくて、ウィットと洞察力に富んでいてキラキラしていて、いちいちうなずいたり自分なりにつっこみ入れたりしたいんだけど舞台はどんどん進んでいってしまうので、自分のスピードで読める読書の形でこの世界に関わりたいと思ったからです。台本にねちねち解釈つけた脚注コラムが私には書けるね! てか書きたい。脚本、出版されていないんでしょうか。終演後にカウンターで台本が買えないか、失礼ながら譲ってもらえないか(!)聞いてしまったのですが、バイトの兄ちゃんからははかばかしい返事がもらえませんでしたよ…くうう。

 まあ、最初に心揺さぶられたときはそんなことも考えていたのですが、だんだん舞台に本当に没頭させられてしまって、余計なことがあまり考えられなくなっていました。変な言い方かもしれませんが、
「演技ってすごいなあ、役者ってすごいなあ」
 と初めて思わせられたかもしれません。
 というのは、アーノルドも、エドも、ローレル(奥貫薫。声が横山めぐみそっくりで好き…というのは余計なことか)も、アラン(長谷川博己。激賞するね! ローレルが農場に誘う電話に割り込む「僕、行きたい」という第一声がもう本っ当にすばらしかった!! 色っぽくて…ラブ!!!)も、デイビッド(黒田勇樹。ひところヘンなアイドル人気がありましたが最近テレビで観ないなと思っていたら、舞台でがんばっていたのですね)も、ベッコフ夫人(木内みどり)も、みんな、役者がその人として、そこにいるのですよ。
 「演じる」って、その役っぽい振りをするとかその役の芝居を表現するとかそういうことではなくて、その役として舞台に生きる、その役として「ただそこに在る」ことを言うのだな、と思わせられました。

 テレビや映画とちがって舞台は生の役者の立ち姿がもろに観客の目にさらされるので、役者自身がまず人として本当にしゃんと立てていないと見苦しくて成立しないものなんだ、というようなことは何度か感じたことがあるのですが、本当の演劇とはもうそんなレベルではなくて、役者自身なんかなくて、というかあるのが当然で、その上で役そのものになって、役を生きて、舞台の上で息をすることを指すのですねえ。
 だって本当にみんな、ちょっと前のアメリカ人のゲイに見えますよ、というかそうとしか見えない。容貌的にも全員あんま「ド日本人・東洋人」って風貌じゃないしさ(笑。しかしそれで言うと唯一違和感があったのはローレルかもしれません。彼女のヘアスタイル、衣装はあれでいいのでしょうか。あれは何を表現していたのでしょうか。篠井氏はアーノルドを「頑固者」と言っているけれど、私からすると、というか多くの女性には彼はいたって普通の「女の子らしい」キャラクターに見えたと思う。比べるとローレルは「女」っぽくて、女性の嫌な面もいっぱい持っているキャラクターです。ゲイと既婚者ばかりと恋愛してしまう彼女は確かにどこかが壊れていて不幸だが、こういう「幸せになりかたが下手」なところも非常に女性っぽいと思う。「女の子」は幸せになるのがもっと上手だ。すべてを捨てて全世界に媚びることができる一方で、自分ひとりで「ある」こともできる生き物だからだ。「必要とあらば自分の背中を叩くのも、全部自力で学習した。だから人に頼む必要がないの。人からもらう必要があるのは、愛と尊敬だけ。そのふたつをあたしにくれない人は、あたしの人生から出ていってもらう」と言えるアーノルドはまさしく「女の子」である。だがローレルは「女の子」ではない女だ。もしかしたらここが、このローレルの外見の演出のあいまいさが、唯一のこの作品の弱点なのかもしれない。ゲイであるファイアステイン、男性である鈴木氏に「女性」はやはり唯一の鬼門であり不可知地帯なのか? パンフレットに戸塚成が書いているように、観客は本来「愛」の物語を求めているのに実際には宝塚歌劇を別にすれば「『愛』そのものを真っ直ぐテーマに据えた作品は、世間で思われているほど多くはな」く(こういう形で宝塚歌劇を正当に評価してくれる人がいることはヅカファンとしてまことにうれしかった)、ホモセクシャルをモチーフにした作品ほどかえって性差を描け広く深く異性愛も含めた愛を描けるというなんというか逆転現象に、ことに女性観客はちょっとした口惜しさを感じていると思うのだけれど(というのは男性同性愛者に比べて女性同性愛者は数としても少なく、ゲイカルチャーの担い手はもっぱら男性だから、ということもある)、それでさらに結局ゲイであっても所詮男性には女性は理解してはもらえないんだということになったら私たちはどうしたらいいんだってことになっちゃって、ものすごく悲しい)。

 唯一私が後悔していることは、第三幕の幕切れ、スクリーンが降りて暗転したときにすぐ拍手ができなかったことです。自分がどうしようもなく感動させられたことを舞台の向こうの人々(役者、スタッフ含めて)にどうしても強く表現したかったのだけれど、できなかった。
 というのは、第一幕の幕切れでも私は本当に感動して拍手をしたかったのだけれど、一幕と二幕の間の休憩が短くて観客をあまり席から離れさせたくなかったためか客席もあまり明るくはならなかったし、最初なのでなんかあいまいな幕引きの形に思えて、本当にこれで一度終わりなのか、拍手をしていいタイミングなのか恥ずかしながらつかめず、上げた手をそのまま握り締めてしまったことがあったからです。
 結局二幕もその形で幕が降り、誰も拍手はしないままでした。だから三幕ラストでも私はすぐ拍手ができなかった。

 だけど私は、それこそ『レインマン』の評でも書いていますが、役者が役を降りる瞬間を見せられるカーテンコールが大嫌いなんです。本当に夢破らされるというか、幻滅させられてしまう…この舞台でも、明転したら役者はまだ板付きのままいて、そのままふっと笑って立ち上がってお辞儀をしました。せめて暗転中に一度ハケてもらって、再度出てきてから役者としてお辞儀してもらいたかった…がっくし。
 これを見せられてから叩いた私の拍手は、当初の感動によるものとはもう微妙にちがうものにさせられてしまったわけですよ…ふう…

 以下、雑感を細々と。

 アーノルドが男性とかゲイとか「女装のオカマ」とかなんとかより何よりまず私には「女の子」に見えたのに比べると、エドはほとんどマッチョと言っていいくらいに男性っぽいと思う。そもそもカミングアウトしていない、自分をゲイだと認められずにせいぜいがバイだとか言ってかつ実際に女性ともつきあえる男というのは、要するにほぼ普通の「男」だってことですよ(笑)。女性以上に、男性にはどんな異性愛者にも同性愛気質があるものですからね。

 教師という職業、田舎に住む裕福で保守的な両親、というなかなかに裏切りがたいものを持たされてしまっているからこそ、ということもあるけれど、それにしてもエドの潔くないゲイっぷりはすなわち男の駄目っぷりにただただ通じるものであり、女性観客の多くはニヤニヤさせられたんじゃないかなー。
 だけどだからこそ、アーノルドがエドをつっぱねきれないのと同じで、女も男を結局はつっぱねきれない。エドの、アーノルドもローレルも両方欲しがるところ、どちらかひとつでは満足できないところ、自分を許す甘さ、アランへの嫉妬、彼と寝ることでそれを解消しようとするやり方、みんなみんなホントに典型的に男性っぽい。憎い。憎々しい。でも憎みきれない。うう。それをまたひょうひょうと、テレもなく大柄な橋本さとしが演じて見せるんでまったく本当にキュートでした。

 個人的に、これが以前の職場の先輩に単純に見た目が似ていて、ものすごくおかしかった…
 その人は職場の先輩と結婚して一人娘にめろめろの、嫌味なマッチョっぽさはまったくない、むしろ女性的な、というかDT系の、優しい、女性心理を解する(そういう職種だということもあるんだけれど)フラットな男性なんですが、やっぱり男性である以上「男」の部分はあるし十分垣間見えるわけで、それがこのエドとあいまってなんかもう本当におかしいやら微笑ましいやら、でした。

 1988年にファイアステインの脚本・主演で映画化された映画版では、ラストでエドはカミングアウトしていて、アーノルドと夫婦としてデイビッドを養子に引き取るハッピーエンドなんだそうです。それはできすぎかもしれないけれど、確かにその方が美しいラストシーン、ハッピーエンドだったかもしれません。
 今回の舞台ではエドは、カミングアウトどころか別居しているローレルに未練がなくもないくせしてアーノルドのところに転がり込んでいる、そしてレフェリーをやるとか言いながらも結局はブッコフ夫人から逃げまわっている、ホントに最初からまんまのヘタレ男です。ただ、もちろん彼としても、たとえばそれまではバーで一夜の(というかバックコーナーでの一瞬の)つきあいしかしなかったようだったのが、アーノルドとステディな関係を紡ぐことを覚えたわけだし(タイプにもよりますが、こういうことは稀だし長続きしないことも多いそうな)、そういう意味では進歩というか成長しているのかもしれないし、だからこれからも成長し変化することはあるのかもしれない。だからアーノルドがエドをやっぱり受け入れてデイビッドとひとつの家族として生きていく未来はありえるのかもしれない。ただしこの舞台では、このラストでは、とりあえず今は保留…という感じで、ぼんやりともの想うアーノルドで幕、となります。
 私はこのラストも好きだな。ハッピーエンドで安心させてはもらえなくても、希望はある気がして、でももちろん不安なこともいっぱいで、何よりアランのことは忘れられるものでもないし、母親も結局のところわかってくれたんだかくれないんだか…ということでホントは問題はいろいろ山積みなんだけれど、でも、まあ、ねえ…みたいな(笑)。豊かで素敵なラストシーンだと思いました。

 エドから比べると、アランは結局のところ「王子さま」なのかもしれません。「女の子」であるアーノルドの相手であったわけですし。私もう、本当に本当にアランが愛しいんですけれど!!
 年下攻めなんてツボじゃないはずなのに、彼は確かに「理想の男の子」なんだなー(ところで今回のパンフレットはキャスとインタビューも非常に秀逸なものでしたが、黒田くんの欄でおもしろいと思ったことがあって、母親と暮らしてきて理解もし合っていたし喧嘩もしてきたけれど、自分に彼女ができて初めて母親もまた「女の子」なのだというふうに見ることができてそれでわかったこともある、というくだりです彼が自分のことを言う「男の子」というのと、アランのエドとはちがう形のある種の男っぽさとはまたちがうとは思うんですが)。

 二幕と三幕の間にどれくらいの時間がたったのか、何故アランがここにいないのかは徐々にしか明かされていかないので、心配して心配して泣きそうでしたよ私…別れたの? え、死んだの? なんで? エイズ? 自殺? 交通事故? やだやだやだ…ってね。
 映画ではアランが通りでチンピラに撲殺(かどうかは知らないんだけど))されるシーンもあったそうなので、それは見なくてすんでよかったわ、とか思っちゃいました。

 アーノルドが言うように、アランは完璧だったと思うんです。早くに亡くしたから理想化されているだけであって、長く暮らしていたら喧嘩もしたかもしれないよ、齟齬ができたり傷つけ合って別れることだってあったかもしれないよ、というのはちがうと思う。アランは本当に完璧だったんだと思う。だからこそ神様に取り上げられたんだと思う。世の中ってそういうものでしょ?

 二幕の八百屋舞台のベッドの場は本当にすばらしかったと思うのだけれど、四人が四人ともイロイロ(笑)あるのでアランに愛と視線を注ぎきれなかったのが悔やまれるわ。
 ここではアーノルドとエドのいちゃいちゃがホントにおもしろくて、元カレ・元カノで今は同性の友達ってすごい最強!とか思っちゃったりしていたんだけれど、アーノルドの今カレとしてのアランも本当に素敵でした。ああ、当日券とかでまだ観られたりするのかな!?
 もう一度この幕だけでも観たくなってきた!!!

 長谷川博己は03年の『BENT』に出演していたそうなんですが、私が観たヤツか? 記憶ないぞと調べたら、彼のはアッカーマン演出で、私は04年の鈴木勝秀(またしても!)演出の『ベント』を観ていました…くうう。
 パンフレットのモノクロ写真はハイコントラストで美形の写りなんですが、舞台の彼はもう少しファニーフェイス(というのは男性には使わない表現だろうか)っぽくて、でもものすごく色気があって、そこが本当に本当によかったなああ。
 男娼あがりの、というか今もまあ似たような、売れっ子モデル、という感じがものすごーくした。パンフレットの42ページの写真は本当に本当に素敵なカップルの写真だと思います。

 そしてお母さま。身につまされましたよ…

 というのは私は今ぶっちゃけいわゆる不倫をしているのですが、それを親には言っていないので、アランの死に方とかデイビッドがただのルームメイトでないことなど細かいことは言っていなくても自分がゲイであるという肝心なことに関しては母親に嘘をついていないアーノルドより、私は親に誠実でないということなのでしょう。
 でも親を愛してるし、うちの両親は本当に仲が良くて理想だし、そういう夫婦関係をいつか私も誰かと(というかもちろん今の恋人と)作りたいしそうすることで親に恩返ししたいと思っている。でも今現在親に正直でないことは確かなわけです。アーノルドの方が誠意があるし、勇気がある、と思う。そう思うけれど、それが必ずしも受け入れられるとは限らないことも知っている。

 ブッコフ夫人も最終的にはゲイ云々を理解して去ったわけではないと思います。でも、デイビッドがいい子であること、デイビッドがアーノルドを愛しアーノルドもデイビッドを愛していること、ひとつのある種の親子関係がちゃんとできていることは確認できて、それで満足して去っていったんじゃないでしょうか。息子がゲイになるなんて私は教育を間違えた、とか言って悩む親は多いでしょうが、そういうことではないのです。誰かをきちんと愛し、誰かにきちんと愛されるひとりの人間を育て上げられたのだから、あなたの育て方は確かに正しかったのです、と言いたいです。というかそういうことなのです。

 デイビッドもまたゲイだけれど、彼は別にアーノルドのお稚児さんなのではなくて、彼らは本当に純粋に母として息子として養子縁組をしようとしています。それもまたすばらしいことです。そして彼はエドのことを決して嫌っていなくて、アーノルドとの仲を取り持つようなことさえ言ってみせる…素敵だなあ。黒田くんは最初声が細くて、舞台式の腹式呼吸ができていないのか?とひやりとさせられましたが、後半は油が回ってきた感じだったでしょうか。

 映画版では、舞台版でデイビッドを演じたマシュー・ブロデリックがアラン役を演じたんだそうな。いいなあ、素敵だなあ!(舞台から映画化された『トンマッコルへようこそ』でも同様のケースがありましたね)

 最後に、私はジャズが実のところ全然わからないんだけれど、エミ・エレオノーラのピアノはなんか変じゃなかったですかね、とか言うのは失礼でしょうか…なんか私にはあまり美しく聞こえない音が多々あったのだけれど、あれがジャズというものなのでしょうか…ちなみに「トーチソング」とは「感傷的な失恋の歌」のことだそうです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『FLAMENCO 曾根崎心中』

2010年01月22日 | 観劇記/タイトルは行
 ル テアトル銀座、2006年12月1日ソワレ。

 醤油屋平野屋の手代・徳兵衛(佐藤浩希)と天満屋の女郎・お初(鎌田真由美)は将来を誓い合った恋仲。だが平野屋の主人は徳兵衛と姪の結婚話を、徳兵衛の継母に二貫目の金を渡してつけてしまう。継母から金を取り返した徳兵衛だが、帰り道に出会った親友の九平次(矢野吉峰)に金を貸してくれとせがまれて…プロデュース・作詞/阿木燿子、演出・構成・振付/鎌田真由美・佐藤浩希、音楽監修・作曲/宇崎竜童。フラメンコ発祥の地と言われるヘレスのフェスティバル・デ・ヘレスに海外から初の参加作品として公演されたこともある演目の、四度目の再演。

 フラメンコはそんなにたくさんは観ていませんが(セビリアで観たことはあります)、この情念の世界に確かに近松心中物はよく似合うのだなあ…と、その着想にいたく感心しました。
 睡眠不足気味の状態で観に行ったせいもあって、スローなパートはやや眠気を誘われましたが、やはりフラメンコは手拍子足拍子が出てからのダイナミックなパートが鮮やかです。日本語のカンテというのは不思議な感じがしましたが、すぐに慣れました。

 歌い手カンタオールやギタリストたちは、ずっと舞台の奥に歌舞伎の奏者たちのように光を当てられずにいて、最後に心中したふたりがセリ下がったあと、初めてライトを当てられ、それぞれに工夫を凝らした衣装を着て佇んでいたのがなんとも絵になっていました。土佐琵琶の黒田月水のすばらしかったこと!
 また、九平次を歌った「今、日本で最も人気のある若手実力派」石塚隆充がメガネでロンゲでいかにもアーティスティックな青年で素敵でした(^^)。また、アンコールで主題歌を歌った宇崎竜童のギターがすばらしかったです。

 主演のふたりはもちろんすごかったんだけれど、関係ないようですがお初に比べて徳兵衛がずいぶん若く見えた(というかお初が老けて見えた)のはやや気になったかな…実際にこのおふたりは夫婦だそうですが、絶対姉さん女房なんだろうなあ。
  佐藤浩希がクラシックバレエのダンスールノーブルもやれそうな、頭が小さくて背の高い甘いマスクの優男なのに対し、鎌田真由美は非常にクラシカルな日本女性の面差しなので…もちろん心中にビビるところもある徳兵衛よりお初の方がいくらか年上でもあったろう、という気はするのですが、ぶっちゃけ親子に見えなくもないとなると、なあ…
 席が近くてよく見えすぎたせいでしょうか。しかしハムレットとガートルートが似合いそうなカップルではありました。でももちろん踊りはすばらしかったです。

 本当を言えば心中というのは現代となってはなかなかに共感しづらいモチーフだと思うのですが、フラメンコの力技で上手く持っていった感はあります。スリリングでおもしろい舞台でした。

 余談ですが…映画館とか劇場は周りの客が選べないので仕方ないのですが、今回は久々に最悪でした…隣のマダムふたり組が、開演前のおしゃべりからすると映画やお芝居をたくさん観ている方のようで素敵だったのですが、舞台が始まってもいちいち感想をささやきあうので(ある年齢層の女性は、自分の感想を口に出したり反応を示したりして周りにアピールすることで自分の感覚を確認しないではいられない、そういう手段でしか自分の感覚に自信が持てない人がいるものですが、本当にうっとうしいです)、いつ「黙ってくれ」と言ってやろうかと思っていたら、本筋が始まったらひとりが見事に船漕ぎ出したのでもうひとりも黙るようになり、よかったと思っていたら大詰めのドライアイスの臭いに飛び起きて「臭い!」と騒ぎ、アンコールの間はやたらとハイに拍手も手拍子もして「よかったわねえ!」とのたまいましたよ…
 よっぽど
「寝てて観てないじゃないですか」
 と言ってやろうかと思いましたよ。勘弁してください…
 携帯鳴らしたバカもいたしなー…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする