駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『グランドホテル』

2010年01月08日 | 観劇記/タイトルか行
 東京国際フォーラム、2006年1月19日ソワレ。

 1928年、ドイツ。第一次大戦での敗戦の傷跡はようやく癒え、しかしやがて訪れる世界大恐慌をかすかに匂わせる時代。だがベルリンではあらゆる文化が華やかに咲き誇り、まばゆいばかりのきらめきが街中にあふれている。中でも歴史と栄華を誇る最高級ホテル「グランドホテル」にはさまざまな人が来ては去り、人生の最も輝かしい瞬間を謳歌していた。今日もまたグランドホテルの回転扉が回り、プリマ・バレリーナ(前田美波里)、若き男爵(この日は岡幸二郎)、美しいタイピスト(紫吹淳)、陰のある実業家(田中健)、そしてユダヤ人会計士(小堺一機)たちが集い、出会う…原作/ヴィッキー・バウム、脚本/ルーサー・デイヴィス、作詞&作曲/ロバート・ライト&ジョージ・フォレスト、追加作詞&作曲/モーリー・イェストン、演出/グレン・ウォルフォード、翻訳・訳詞/菅野こうめい。全1幕。

 原作は1929年に出版、グレタ・ガルボやジョン・バリモア主演で映画化されたのが1932年、トミー・チューンの演出・振付によるブロードウェイ・ミュージカル版初演が1989年。2004年にはアダム・クーパーの振付でロンドン・リバイバル版も上演されている、そんな演目ですが、実は私にとっては1983年の宝塚歌劇団月組による公演、というのがそもそものイメージです。
 そして私はこの公演を観ていない…(笑)
 宝塚を見始めたころ、初めて買った機関誌『歌劇』がカナメさん(涼風真世)のサヨナラ特集号で、その退団公演がトミー・チューンを迎えての『グランドホテル』だったのでした。
 当時、記事で読んだだけでしたが、カナメさんが、もともと主役であるはずの男爵役ではなく、余命少ない会計士であるオットー・クリンゲラインを演じるということで話題になっていたのです。フォン・ガイゲルン男爵を演じたのは当時三番手の久世星佳。二番手の天海祐希が女役になってプリマの付き人ラファエラを演じ、これも話題になっていました。娘役トップの麻乃佳世はフラッパーなタイピストで女優志願のフラムシェン役で、すみれコードぎりぎりでこれまた話題に。その印象がものすごくあるのです。
 ノンちゃんのヒゲの写真がものすごく色っぽくて、きっと素敵な男爵だったろう、ユリちゃんのラファエラも超然としてよかったろう、ヨシコはすばらしくキュートだったろう、そしてカナメさんは繊細に優しく演じたのだろうな…と、もはやライブの舞台は二度と観られないだけに、ずっとずっとそんな素敵なイメージを抱き続けてきました。

 先日テレビで映画版が放映されたのを観ましたが、なかなかおもしろかったです。男爵の犬がどうなったのかが心配だったわ…
 それはともかく、「グランドホテル形式」という言葉を生んだ群像劇とはいえ、やはり男爵の愛と死が軸となっている物語に見えました。ジョン・バリモアのハンサムだったこと! ものすごく素敵でした。

 今回の公演は、知人がものすごく褒めていて、また一階ほぼ正面の席だったのですが、正面扉から入ってすぐ見えるセットが本当に美しく、とてもとても期待してしまっていたのですが…

 ぶっちゃけ男爵が、なあ…

 大澄賢也の男爵はどうだったんでしょうか。というか、何故この役だけダブルキャストなんだ…
 岡幸二郎は私はもしかして初めて観るのかもしれませんが(こんなにちゃんとしたミュージカル役者なのに、何故か縁がなかった…)、歌はまったく問題がなかったです。
 というか楽曲的にも「あるべき人生」「恋なんて起こらない」「ステーションの薔薇」といった男爵のナンバーが一番いい、一番の聴かせどころになっていますし、堪能しました。
 でも、芝居がなあ…若いのはいいと思うんだ。グルーシンスカヤに比べて明らかに彼は若くあるべきだと思うし、そういう意味ではバリモアにはその若さがなかったところは減点材料だと思いますしね。でもとにかく、彼がパンフレットのインタビューで語っている男爵像にはまったく間違いがないし過不足もないのだけれど、そういうふうには演じられていませんでしたよ? 日本人に「貴族」を演じさせるのは無理なのか??

 男爵はとにかく「貴族」なのです。それがアイデンティティ、いやメンタリティなのです。貴族の生まれ。品格。鷹揚さ、人の好さ。それが男爵です。
 貧乏でギャングまがいに借金を作ってしまい、ホテル泥棒をするはめになってしまうことは、彼の中では、なんというか水面下のことというか、別人格でやっているようなことなのですよ。バリモアの男爵にはその二面性というかなんというかが確かにあってそこがよかったのです(それとはホントは関係ないけど、グルーシンスカヤの恋に夢中で自分から誘ったフレムシェンに冷たくなっちゃうところがよかったなあ。というか、まだそんなに本気になってはいなかったけどそんな態度の急変に傷つくフレムシェンがよかった。今回の舞台の、はしゃいでフレムシェンにもより親切になる男爵というのはちがうと思うのだがどうか)。
 でも今回の男爵には品格がない、貴族性がない。ただの若いお坊ちゃんに見えました。高貴な生まれ育ちゆえの鷹揚さからどんな人をも見下さずエリック(パク・トンハ)やオットーにも優しい…のではなく、気まぐれで優しい言葉をかけただけの軽薄な若造に見えました。それじゃ駄目なんだって!
 そんなだからグルーシンスカヤとの恋もわからない。この恋がわからないとその死も悲劇になりきれないんだよなああ。そしてその悲劇があってこそのオットーとフレムシェンの旅立ちだからなああ。あああ。

 グルーシンスカヤやプライジングは映画よりよかった気がしました。本来の正しい位置にいる感じを受けました。
 ドクター・オッテルンシュラーグ(藤木孝)を立てることにしたのはトミー・チューンのアイデアなのでしょうか。作品本来の退廃が足りないのではないか、ドクターのメフィストフェレス性が生かしきれていないのではないか、といった劇評を読んだことがあり、そういう面はあるかな、と思って観ていたのですが、しかし幕切れの彼の「もう一晩泊まることにしよう」という台詞に、思わず泣きそうになってしまいました。

 そう、これこそがテーマだったのです。私は彼は医者のくせにヤク中なのかと思ってしまいましたがあれは痛み止めのモルヒネだったんだそうですが、ともあれ先の大戦で軍医として前線に出て負った傷で今なお足を引きずり、死を待つように生きてホテルにいる日々なのですが、オットーに対しフレムシェンは金目当てなのだからやめろというような忠告をするような考え方の人なのですが、でも、その彼は「もう一晩泊まることにしよう」と言うのです。ホテルに泊まることがやめられない、生きることがやめられない、愛することがやめられない、それが人間。そういうことだと私は感じました。退廃や絶望や不条理を描いているわけではないのだ、と。希望や理想を描いているわけでもないですが、しかし生を、生とは愛あるものだと、している。そこに感動して、泣きそうになってしまい、全部許せる気になってしまった…そんな舞台でした。

 ちなみにリカちゃん(紫吹淳)はのちに月組トップスターになりましたが、「グランドホテル」公演時はまだ花組っ子でまだまだ新人。ちゃんと女優さん声ができていて、映画より若い19歳の夢見る夢子ちゃんを好演していたと思いますが、一点だけ。細いんだけど、ボディラインが砂時計型になっていなくて可愛くない。これは『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』の彩輝直なんかもそうで、男役さんはスーツ体型にすべくウェストを絞ってこなかったんだろうなーと、仕方ないとはいえ寂しく思いました。
 あと、ドレスアップしていたオーケストラが素敵でした。それからラストのボレロも!(西島鉱治、向高明日美)プロのボールルームダンスを初めて見ましたが、ダンスって本当にリーダーが作るんだ、リーダーがすごいんだ…と感動しました。すばらしかったです。
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Kバレエカンパニー『くるみ割り人形』

2010年01月08日 | 観劇記/タイトルか行
 オーチャードホール、2005年11月17日ソワレ。

 19世紀始め、人形の国。ドロッセルマイヤー(スチュアート・キャシディ)が人間界との通路である時計を修理していると、人形王国の王様からお呼びがかかる。王国ではかねてよりねずみたちとの領地争いが起きていたが、ねずみの王様は結婚を控えて喜びにあふれるマリー姫(荒井祐子)を襲ってねずみに変えてしまい、その呪いによって婚約者である近衛兵隊長(熊川哲也)もまたくるみ割り人形に姿を変えられてしまった。王妃は、この呪いを解くには世界一固いクラカトゥウク胡桃を割らなければならないと嘆く。だがそれができるのは、純粋無垢な心を持った人間だけ。ドロッセルマイヤーはくるみ割り人形を手に、人間界へと出かけていくが…演出・再振付/熊川哲也、原振付/レフ・イワーノフ、オリジナル台本/マリウス・プティパ、音楽/ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。全2幕。

 熊川哲也の新演出がいつもいいなと思うところは、とにかく「アップデート」されていることです。古典が今日的にきちんと書き換えられている。スピードアップされシャープになり、矛盾がなくなり、現代的な解釈がされている。そして音楽はきちんと捉え直されて、観やすい舞台となって息を吹き返しているのでした。

 『くるみ』は下敷きとなっているホフマンの小説が幻想的というか捉えどころがない作品のせいもあって、さまざまな解釈やらバージョンがあるそうです。確かにヒロインの名前だけでもクララだったりマーシャだったりマリーだったりするし、バレエの主役もクララだったりコンペイトウの精だったり、です。私はコンペイトウとはナニゴトか、とか常々思っていたので、今回の熊川バージョンは実にすっきりして見えて、おもしろかったです。ちょうど『白鳥の湖』でオデットとオディールを別キャストによって躍らせたがごとく、クララとマリー姫は別の人物として扱われるのです。ただしこれはすっきりはしてもちょっと引っ掛かりもしました。

 フリッツはクララの兄でした。王子がコンペイトウの精とバレエの主役を踊る場合、子役のクララには最後にドロッセルマイヤーの甥というような形で王子の代わりとなる男の子が紹介されて終わるバージョンもあるそうで、要するにこの物語は少女のイニシエーションのお話だとされていることが多いようなのですね。胡桃を割るナイフは男根の象徴だし、胡桃が割れるのは破瓜だというわけです。少女が一夜の夢を経て、大人の世界に足を踏み入れる物語、といいましょうか。
 でも今回のバージョンでは、バレエのメインを踊るのは王子でありマリー姫なのですが、彼らをねずみの呪いから救い出すのはクララの力の賜物なのです。彼らは基本的には何もせず、ただクララに救われるのを待っていただけなんですね。クララとマリーが踊るシーンでは、ひとりの女性の少女時代と未来の成人の姿との踊りのようにも見えましたが、マリーは成人して王子を持ったかもしれないけれど他には何も持っていず、逆にクララにはまだ相手は与えられていないけれど人としての純粋な力を持っている、強く大きな存在に見えました。女は男を持つと弱くなり駄目になるのだ、というようなことを言いたがっているのだ、とは思いませんでしたが(何故なら男=王子もまた何もしていないから(^^))、さりとて子供の純粋無垢な力の勝利を詠ったもの、とも思えませんでした。ううーむ。今回のラストは、一夜の夢が明けて寝室で目覚めたクララの手元には、王子とお姫様のお人形が残されていた、というものです。これをどう捉えたらいいものか…
 というのも、クララを演じた神戸里奈が実にみずみずしく光り輝いていてよかったからなんですね。でもドロッセルマイヤーと踊るくらいで、パ・ド・ドゥのようなものはない。残念。だけど物語の主役は、というかこの世界を救う働きをするのは明らかに彼女ひとりなんですよ。むむむ…
 彼女がマリーを踊る公演ではどう見えたのかも、知りたいところです。

 あと、私は民族舞踊が大好きで、『白鳥の湖』の第三幕なんか大好物。冗長だとカットされたりすると泣いてしまうんですが『くるみ』のこのくだりは有名な曲も多く、たっぷりやってくれてうれしかったです。アラビア人形のパ・ド・トロワを踊った康村和恵が脚がめちゃくちゃ上がって曲がってしなって、気持ち悪いくらいに人形めいていてすばらしかったのが印象的でした。
 ああ、早く山岸涼子『テレプシコーラ』の続きが読みたいな…
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KARA COMPLEX『調教師』

2010年01月08日 | 観劇記/タイトルた行
 シアターコクーン、2005年11月15日ソワレ。

 作/唐十郎、演出/内藤裕敬。配役、辻/椎名桔平、モモ/黒木メイサ、マサヤ/窪塚俊介、モモ似/峯村リエ、白川/木野花、田口/萩原聖人。全2幕。

 初「唐」でした。覚悟はしていましたが、幕開き、意味がワケわかんないし、モブはうるさいし、上田役の新谷清水の声がこもっちゃって台詞が全然聞き取れないしで(第二幕はそんなことはなかったのですが)、仕事もあったし途中で帰ろうかな、とか思ってしまいました。
 それでも居残る気になったのは意外と第一幕が短かったのと(笑)、やはり椎名桔平と萩原聖人の熱演あったればこそでした。私はこのふたりが舞台役者としてけっこう好きなのです。そして今回初めて観た窪塚俊介もとても良かったです。

 で、最後まで観て、ほろりとさせられてしまいました。感動したと言ってもいい。短気を起こさず最後まで観ていってよかったです。

 ここにあらすじを上げていないのは、パンフレットにあらすじが書いていなかったこともあるし、筋とか設定なんてあるようなないような、な舞台だったからです。
 そういう、通常の、普通の、キャラクターとかストーリーとかテーマとかドラマとかは、追い求めていない舞台なんですね。だけど、そこには確かに、なんというか、感情というか感動というものがあって、そしてそれは幕が降りると本当にはかなくなくなってしまいます。つまり、お話がこうでこうでこうだったからこう感動したの、というようには人に語れるものではなく、ただただその舞台のその瞬間にだけは確かにそこにあって人の胸を打つ、という種類の感情、感動だったからです。

 それでも、しいて言うとすれば、それは、犬の調教師であった父の服を着ることで父にとりつかれたようになってしまい、側に置く女を犬の名で呼ぶことでしか愛せなかった男と、犬の名で呼ばれることで初めて愛する男の側にいられた女、を描いたもの…ということでしょうか。そんな愛の形も確かにあるのではないかな、と思わせられました。

 だから、カーテンコールでは、舞台の中央にはモモが立つべきだったと思います。確かにこの舞台の主演者は辻であり、座長は椎名桔平なのかもしれないけれど、彼と萩原聖人が黒木メイサを挟んで立った方がバランスもいいでしょ? そしてこの作品は『透明人間』だの『水中花』だのと何度かタイトルを変えたそうですが、私はこの作品のタイトルロールはモモだと思う。私だったら『モモと呼ばれた女』とか『モモと呼ばれた犬』とか『黒い犬』(モモの衣装は白と赤だったので)とかにするけれどな。だって辻はモモもモモ似も調教なんかしていないし、田口もまたしかりなのでは?
 でもまあとにかく、特異な体験をさせていただきました。
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宝塚歌劇団宙組『炎にくちづけを/ネオ・ヴォヤージュ』

2010年01月08日 | 観劇記/タイトルは行
 東京宝塚劇場、2005年11月10日マチネ。

 15世紀のスペイン。アリアフェリア宮殿に住むルーナ伯爵(初風緑)は女官のレオノーラ(花総まり)に恋焦がれている。しかしレオノーラは、馬上試合に白馬に乗って現れた吟遊詩人のマンリーコ(和央ようか)に想いを寄せていた…脚本・演出/木村信司、作曲・編曲/甲斐正人。ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』を下敷きに脚色。

 ガイチのサヨナラ公演だったので、知人に誘っていただいたものに飛びついたのですが…いやあ、久々にこんなにひどい芝居を見ましたよ…これで泣いている観客がいるんだから、宝塚歌劇ってホント特殊ですよね。
 ああ、でも、ホント、ガイチのサヨナラがこんなんで残念…しくしく。そういう意味では実に泣けました。情けなや…

 箸にも棒にも…ということではなくて、有吉京子『SWAN』に、基礎をおろそかにして間違ったスタートのところに少しずつずらして箱を重ねていってもいつか崩れるだけ…みたいな台詞が出てくるのですが、そういう感じです。スタートが間違っていて、方向が確信を持って間違えられているので、観ていていっそ潔いほどにあきれるのです。

 まず第一場が無意味に長い。お話を始める前に、アバンとして総踊りの場面を作ることはよくありますが、その場合はスターが加わって顔見せするのが当然です。宝塚歌劇はスター興行なんだしね。
 なのにその他大勢の兵士たちがただ踊るだけでは、いかに群舞が壮観でも
「早く始めてよ」
 と言いたくなります。
 なのにまた家臣が昔話をだらだらと始める…まったく構成がなっていません。
 そしてここで
「20年前の話をしよう、実は伯爵には弟がいた」
 と語られた日には、観客のほぼ全員に、「ああ、それが主人公のことなのね」とわかられてしまいますが、はたしてそれでいいのだろうか…

 まあいいや、やっと場面が変わってまずヒロインが現れる。宮廷の女官だというが、なんか知らないけどさらに侍女がついている。女官というからには奉公人で庶民なんじゃないの? 侍女がつくのは貴族の子女では?
 そこへ伯爵が現れてヒロインをかき口説くが、ヒロインはその求愛を拒む。貴族の求愛を使用人が断れるものなのか? 手込めにされて終わりなのでは? 伯爵は求婚するつもりがあるのか? そんな身分違いの結婚は許されるものなのか? ハテナマークが飛び交います。

 ヒロインが伯爵の求愛に答えないのは、先日の馬上試合で見た吟遊詩人に恋をしているからだという。だが彼女は彼の名前も知らない。彼は彼女の愛を試すかのように名も教えずに去ったのだという。ということはただの片想いってことですよね? なのにヒロインが伯爵に無理強いされかかると、彼は突然現れて偉そうに伯爵を糾弾する。好き合ってたんですかい?とさらにハテナマークが積み重なる…

 しかもこれが、歌劇を下敷きにしているからという理由なのか、台詞ではなくほぼ歌の形で表現されるので、必然的に言葉数が減り情報量が落ちるので、ホントになんだかワケわからないんです。伯爵はただの火病の人でヒロインは浮かれた夢見る夢子ちゃんで主人公はカッコつけのナンパ野郎に見えてしまう、という…
 そうしてキャラクターの誰も好きになれないというか理解できないままに、主人公の出生の秘密はバレバレなのにいつまでたっても明かされず、キリスト教徒とジプシーの民族闘争というか宗教紛争の話になっていくのです。キターーーー!!!

 同じ脚本家の、『王家に捧ぐ歌』はまだギリギリ成立していたと思うのですが、日本古代史をモチーフにした続く『スサノオ』では、観てはいませんが今回同様のことをやっていて、要するにイラク戦争におけるアメリカの態度を批判・糾弾しているつもりになっているわけですね。
 ホント、バッカじゃなかろうか、という気がする。神を持たない我々日本人に(あるいは一神教を信奉していない日本人に、と言ってもいいけれど)他の宗教の教徒の批判なんかできるわけないっつーの。だって立っている位置がちがうんだから。
 偉そうに高みに立ったつもりで、「他の宗派も認めればみんな仲良く平和になれるんだよ」みたいなことを言ってんじゃないっつーの。この問題に関して日本人が問題とすべきなのは、日本が日本としてすべきことをしていない点です。己の行動をまず正すべきなんだよ。このままいったらまず戦争に行かされるのはこんな本書いているあんた、あんたたち男性なんだけどそれでいいのか? そういうことを考えろよ。

 それからこういう問題を宝塚歌劇に持ち込むんじゃない。世界平和や国際政治は高尚なネタでそれを宝塚歌劇に持ち込んだボクちんってエラい、とか思ってんじゃねえ。宝塚歌劇は愛至上主義のジャンルであり、政治とかなんとかいうものは下の下に見る分野なのだ。低きに流れてどーする。

 オチはどうかと見守れば、主人公が火あぶりにされてやっと伯爵の弟だと知らされる。伯爵は主人公を救い、ジプシーと和解していい領主になる、とか? 主人公は犠牲になっても伯爵が改心して以下略、とか?
 そういうことはいっさい描かれず、ただジプシーとして育てられた主人公の死が奇しくもキリストのようだった、とだけ表現されて終わりなんです、これが。
 伯爵もヒロインも放り出しっぱなし。もちろん主人公も死にっぱなしで、その死は無念だったろうにノー・フォロー。韓ドラよりひどいっつーの。

 ショーは作・演出/三木章雄。平凡。エトワールをガイチに与えたことのみ評価しよう。あーあ。
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