赤坂ACTシアター、2010年1月14日マチネ。
第一次大戦前後、ヴォードビルの舞台やラジオで活躍した伝説のコメディエンヌ、ファニー・ブライスの物語。器量が悪い、ガリガリと揶揄されても、ファニー(春野寿美礼)は自分の才能をあきらめず、親友の振付家エディ(橋本じゅん)の友情と母(剣幸)の愛情に支えられ、オーディションに励む。そんなある日、彼女の楽屋を賭博師ニック(綱島郷太郎)が訪れた…作曲/ジュール・スタイン、作詞/ボブ・メリル、台本/イソベル・レナート、上演台本・演出/正塚晴彦、原訳/名和由理、音楽監督/太田健。1964年にバーブラ・ストライサンド主演でブロードウェイ初演、1968年には映画化、1980年に鳳蘭主演で日本初演された作品の30年ぶりの再演。
休憩含めて全2幕たっぷり3時間でしたが、まったく長さを感じさせません。
そして格差婚というテーマがとても今日的。
再演がこんなに久々だなんてもったいない作品ではないでしょうか。
とても楽しく観ました。
なんてったってファニーが可愛い、エディが可愛い、ファニー・ママが可愛い。
ニックはうさんくさくてすばらしい。
「今まで何人の女の子とつきあってきたの? 何百人?」
「何千人さ。…それは冗談、本当はほんの何十人かさ」
というのが、本当に女に不自由しないできた嫌味なモテ男のセリフって感じで感心しました。
上着の脱ぎ着がまた、上品かつ色気たっぷりだったリックとちがってすばらしくイヤらしい。イヤ役として正しいです。
私にとってはテナルディエ夫人、の田中利花のストラコシュ夫人始め、アンサンブルも芸達者ですばらしく、ショーシーンも楽しかったです。
ファニーが男装の軍服姿で歌い踊るシーンには、男役の名残も感じられたりして…堪能しました。
実は私はオサが苦手で、トップ時代の作品をほとんど観ていませんし(ミドリのエリザは観たかったんだけれど、チケットが取れなかったんだよなー)、卒業後すぐに主演した『マルグリット』もなんとなく「つまんなそう…」と思って観に行かなかったので、本当に久々に彼女の舞台を観たのですが、とてもいいミュージカル女優さんになっていて、本当に感動しました。
歌唱力は圧巻だし、一幕のファニーのおたおたした動き、立ち方とかホントに絶品。ニ幕になってすきっと立つのがまた見事、時間の経ち方を思わせる芝居もすばらしかったです。
正塚先生の演出も過不足がありませんでした。
オリジナル脚本だと言葉足らずになる癖を、ぜひこういう外部演出で勉強して修正していただきたいんですけれど。いやファンだからこそ言うんですけれど。
考えさせられたことは、格差婚というモチーフよりも、もっと普遍的な男女のあり方について。
女の子は、実際の容姿がどうであれ、どんなに親に愛情豊かに育てられたとしても、それでも、ちゃんとして見える異性に一度はきちんと愛されることが必要な生き物なのかもしれないな、と思ったのです。
「ちゃんとして見える」というのがポイントね。ファニーにとってはそれがニックだった。
ニックはただちゃんとして「見える」だけで、実際はあんまりちゃんとしていなかったし、それで言うならエディの方がよっぽどちゃんとしていたわけですが、でもファニーにはエディではダメだったのです。
面食いだから、と言ってしまうのは簡単ですが、要するにちゃんとして「見える」ことが大事だから、ってことです。
そういう異性に、「綺麗だ、好きだ」と言ってもらえて初めて手に入れられる自信ってものがあるってことです。
多分、男性はそういうことを必要としない。
それは、女が弱くて愚かだということではありません。
むしろ、そういうことを必要としない男というものこそが愚かなのだと思う。
そういう経験も根拠も何もなくても、最初から平気で自信というものを持っていられる男のあり方こそが問題なんだと思う。
女はそうではない。そこが悲しい。そこが正しい。
でも、ファニーはニックとの結婚を通してやっと女性としての自信が得られ、だからニックと別れたあとも、これからは自分で自分をきちんと愛してあげながら、強く楽しく生きていけるんじゃないかなあ。
この先また誰かと恋をするかもしれない、しないかもしれない。
でもとにかく一度の恋を経て、やっとまったきヒトとなって、そうして彼女は生きていくのでした…という、これはそんな物語なのではないかな、と。
だからラストはかわいそうではなかったし、悲壮感が漂っているものでもなかったし、私にはショーがあればいいわなんてものでもなかったかなと思うのです。
愛する人を失っても、愛は残り、全人生が彼女の手の内にあるのです。
この日の夜の回にアサコとミドリがご観劇だったとか。会いたかった~!
第一次大戦前後、ヴォードビルの舞台やラジオで活躍した伝説のコメディエンヌ、ファニー・ブライスの物語。器量が悪い、ガリガリと揶揄されても、ファニー(春野寿美礼)は自分の才能をあきらめず、親友の振付家エディ(橋本じゅん)の友情と母(剣幸)の愛情に支えられ、オーディションに励む。そんなある日、彼女の楽屋を賭博師ニック(綱島郷太郎)が訪れた…作曲/ジュール・スタイン、作詞/ボブ・メリル、台本/イソベル・レナート、上演台本・演出/正塚晴彦、原訳/名和由理、音楽監督/太田健。1964年にバーブラ・ストライサンド主演でブロードウェイ初演、1968年には映画化、1980年に鳳蘭主演で日本初演された作品の30年ぶりの再演。
休憩含めて全2幕たっぷり3時間でしたが、まったく長さを感じさせません。
そして格差婚というテーマがとても今日的。
再演がこんなに久々だなんてもったいない作品ではないでしょうか。
とても楽しく観ました。
なんてったってファニーが可愛い、エディが可愛い、ファニー・ママが可愛い。
ニックはうさんくさくてすばらしい。
「今まで何人の女の子とつきあってきたの? 何百人?」
「何千人さ。…それは冗談、本当はほんの何十人かさ」
というのが、本当に女に不自由しないできた嫌味なモテ男のセリフって感じで感心しました。
上着の脱ぎ着がまた、上品かつ色気たっぷりだったリックとちがってすばらしくイヤらしい。イヤ役として正しいです。
私にとってはテナルディエ夫人、の田中利花のストラコシュ夫人始め、アンサンブルも芸達者ですばらしく、ショーシーンも楽しかったです。
ファニーが男装の軍服姿で歌い踊るシーンには、男役の名残も感じられたりして…堪能しました。
実は私はオサが苦手で、トップ時代の作品をほとんど観ていませんし(ミドリのエリザは観たかったんだけれど、チケットが取れなかったんだよなー)、卒業後すぐに主演した『マルグリット』もなんとなく「つまんなそう…」と思って観に行かなかったので、本当に久々に彼女の舞台を観たのですが、とてもいいミュージカル女優さんになっていて、本当に感動しました。
歌唱力は圧巻だし、一幕のファニーのおたおたした動き、立ち方とかホントに絶品。ニ幕になってすきっと立つのがまた見事、時間の経ち方を思わせる芝居もすばらしかったです。
正塚先生の演出も過不足がありませんでした。
オリジナル脚本だと言葉足らずになる癖を、ぜひこういう外部演出で勉強して修正していただきたいんですけれど。いやファンだからこそ言うんですけれど。
考えさせられたことは、格差婚というモチーフよりも、もっと普遍的な男女のあり方について。
女の子は、実際の容姿がどうであれ、どんなに親に愛情豊かに育てられたとしても、それでも、ちゃんとして見える異性に一度はきちんと愛されることが必要な生き物なのかもしれないな、と思ったのです。
「ちゃんとして見える」というのがポイントね。ファニーにとってはそれがニックだった。
ニックはただちゃんとして「見える」だけで、実際はあんまりちゃんとしていなかったし、それで言うならエディの方がよっぽどちゃんとしていたわけですが、でもファニーにはエディではダメだったのです。
面食いだから、と言ってしまうのは簡単ですが、要するにちゃんとして「見える」ことが大事だから、ってことです。
そういう異性に、「綺麗だ、好きだ」と言ってもらえて初めて手に入れられる自信ってものがあるってことです。
多分、男性はそういうことを必要としない。
それは、女が弱くて愚かだということではありません。
むしろ、そういうことを必要としない男というものこそが愚かなのだと思う。
そういう経験も根拠も何もなくても、最初から平気で自信というものを持っていられる男のあり方こそが問題なんだと思う。
女はそうではない。そこが悲しい。そこが正しい。
でも、ファニーはニックとの結婚を通してやっと女性としての自信が得られ、だからニックと別れたあとも、これからは自分で自分をきちんと愛してあげながら、強く楽しく生きていけるんじゃないかなあ。
この先また誰かと恋をするかもしれない、しないかもしれない。
でもとにかく一度の恋を経て、やっとまったきヒトとなって、そうして彼女は生きていくのでした…という、これはそんな物語なのではないかな、と。
だからラストはかわいそうではなかったし、悲壮感が漂っているものでもなかったし、私にはショーがあればいいわなんてものでもなかったかなと思うのです。
愛する人を失っても、愛は残り、全人生が彼女の手の内にあるのです。
この日の夜の回にアサコとミドリがご観劇だったとか。会いたかった~!