駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ナイロン100℃『カラフルメリィでオハヨ』

2010年01月13日 | 観劇記/タイトルか行
 本多劇場、2006年4月20日ソワレ。

 みのすけ少年(みのすけ)は病院にいる。海がそばにあるらしく、波の音が聞こえる。何故そこにいるのかはわからない。窓のない病室でときどき祖父のことを思い出したりしている。一方とあるごく普通の家庭では、ボケ始めてしまった祖父(山崎一)とその息子夫婦(大倉孝二、峯村リエ)、高校生の娘(馬渕英俚可)、医大を目指す浪人の居候(小松和重)が同居している。祖父の耳にはいつも波の音が聞こえている…作・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ。1988年初演の舞台の四演目にして最終予定公演。作者唯一の私戯曲。

 余命わずかと宣告された父親の病床で書いた戯曲だそうで、当然そういった感情が強く出ているのですが、再演のたびに洗練されてはいっているようで、それが暑苦しいとか乗り切れないとかいうことはありませんでした。
 実際これぞ舞台、という作りになっていますしね。

 でも、感動したかとかおもしろかったかとか何か感じたかとか言われれば、どうだろう…微妙かも…すみません。

 大倉孝二はあいかわらずこういう繊細なというか神経質そうな普通の男性の役がいいなあ、と印象に残りました。
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東京バレエ団『ベジャール・プロ』

2010年01月13日 | 観劇記/タイトルは行
 東京文化会館、2006年4月13日ソワレ。

 モーリス・ベジャール振付の『ペトルーシュカ』は音楽はストラヴィンスキー、1977年初演。民衆の祭り、青春の歓びと踊り、青年(この日は後藤晴雄)はひとりの娘(同じく吉岡美佳)を愛している、そして友人(同じく木村和夫)がいる、三人の仲はうまくいっていた。だがそこに魔術師(高岸直樹)が現れる…

 人形に仮託したフォーキン版とはまたちがって、若者が自らの妄想に取り込まれて破滅していくような、ある種現代的なものになっていてまたものがなしいです。三つの影(高橋竜太、平野玲、中島周)がすばらしかったです。

 ミキス・テオドラキスの音楽に振り付けた『ギリシャの踊り』は1982年初演。
 確かにほとんどなんの舞台装置もなく民族衣装を着るでないのに、何故か地中海ふうの、文明の源のような、「どこにもないギリシャ」を思わせるから不思議。「ハサヒコ」を踊った井脇幸江・木村和夫が好印象でした。テーマとヴァリエーションのソロは首藤康之。

 そしてモーリス・ラヴェルの音楽による1960年初演の『ボレロ』、今回のメロディは上野水香。
 『ボレロ』を実は初めて観たのですが、聞きしに優る…という感じでしたね。
 メロディラインが休む、つなぎの2小節くらい、リズムを刻むだけのあのときが、次は何がくるんだとおそろしくゾクゾクさせられるんですねえ…
 残念だったのが、最後の暗転直後、上野水香がぱっと素に戻って髪をかきあげたのが見えちゃったこと。早すぎるよ~。もっと余韻に浸っていたかった…
 でもなんか、想像していたような変な猥雑さはなくて、ただただ情熱を感じました。確かにいいものを観た気がしました。
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『あずみRETURNS』

2010年01月13日 | 観劇記/タイトルあ行
 明治座、2006年4月11日ソワレ。

 時は慶長20年、戦乱の世。加藤清正(こぐれ修)の陣を風のように襲った刺客の一群があった。小幡月斎(山本亨)に率いられた彼らはまだ幼子の面影を残す少年たち、うきは(生田斗真)、ひゅうが(黒川恭佑)、あまぎ(吉浦陽二)、そして青い目の少女あずみ(黒木メイサ)。彼らは徳川家のため、大義のため、太平の世を築くため、豊臣秀頼(長谷川純)を暗殺せんとしていた…原作/小山ゆう、構成・演出/岡村俊一。昨年4月の初演時にタイトルロールを演じた黒木メイサが明治座座長の最年少記録を更新した舞台の再演版。

 原作漫画を読んでいません。
 初演時になんとなく見送ったのは、やはり若いキャストへの不安感があったから、というのが大きかったと思います。
 でも非常に評判が良く、一年で再演が決まったので、今度はと観てきました。基本的には初演がブラッシュアップされていて大きな改変はないそうです。

 しかし…しかしひどい話だよ…

 もちろん出来がひどいのではありません。それはすばらしかった。久々に大劇場に似合いの大芝居を堪能しました。

 しかし、なんという、出口のない、しんどいとかせつないとかよりただただ無惨な、悲しい反戦劇を作るんだ小山ゆう!(呼び捨て…)それがこの世のあり方だからというならば、何故こんな世にしたのだ神よ!と言いたいくらいです。

 タイトルロールたるヒロインに
「次は誰を斬ればいいんだ!?」
 と叫ばせて幕引きとなる劇なんて、なんてひどい、なんてつらいことをするのさせるのあなたは…ということです。

 おそらく発想の発端は、美少女が剣豪だったりしてねー、わー萌えるー、みたいな、いかにも男性が考えそうなアイディアに過ぎなかったんだと思うんですよね。
 それが、こんなにも、裏聖母というか逆女神みたいな袋小路にどんどん追いつめられていくキャラクターにならざるをえなくなっていった…なんてひどい。かわいそうすぎて泣けない。
 だって誰も幸せになっていないんだもの。誰もあずみを幸せにしてくれないんだもの。
 あずみはいつでも常にすぐ誰か愛する者を捜す。頼り、守るためだ。なぎ(生田斗真の二役)、うきは、じい、秀頼、勘兵衛(赤坂晃)と、次々と想う相手を変えていく様は、浮かれ女にすら見える。

 だが男たちはみんなあずみを裏切っていく。
 ただ想いに応えないというよりかは、何もかもをあずみに預けてみんな死んでいってしまうのだ。
 死んでしまう彼らはやはり幸せになったとは言い難い。残されたあずみは彼らの想いを胸にまたひとりで次の相手に出会うまで生きていかざるをえない。そして今の世に彼女が生きるということは人を斬るということだ。
「俺はもう誰も斬りたくないんだ!」
 と叫びながらも彼女は、斬らないでは生きられない。

 そうして生き続け、斬り続け、みんなみんな死んでしまったら?
 ひとりあずみだけがこの世に生き残ってしまったら?
 女はひとりでは子供が作れない。幸せな世を作り直すことはできないのだ。
 誰かが残っていてくれなくては幸せになれないのに、それでは困るのに、誰も残っていないのだ。戦いを終わらせるために戦ってきたのに、全部が終わったら誰も何も残っていなかったのだ…なんてひどい無情。

 どんな戦いにも大義などないと、わかっていたのに、始めてしまった。止められなかった。すべてを焼き尽くしてなくしてしまうのでなければ終われないものがこの世にはあるのに、愚かにもそれに手を出した、その罰を、何故あずみがひとり受けなくてはいけないのだ? 彼女はやっと体が女になったばかりの、まだほとんど子供のような存在にすぎないのに。
 人はみな幸せになるために生まれてくるのに。

 あずみの鏡のように、もうひとりの聖母にして女神にして女の中の女、淀の方(涼風真世)が配されているのがまたいかにも男性的なのだ!
 豊臣の名誉のため、我が子のため、狂信的にもなれる残虐非道でかつ童女のように純真な、稀代の美女。家臣をたぶらかし戦わせ食い尽くしていく女郎蜘蛛のような生き方はしかし彼女自身を幸せにしない。何故なら彼女はすでに寡婦なのであり、彼女もまた愛に報われることのない身だからだ。こういうことを女にやらせると、男以上に救いがないというのに!

 同じく涼風真世が二役で演じる剣士・美女丸がその毒々しく刹那的で退廃的で虚無的な生き方であずみに迫るが、こういう「美しいが凶々しい悪役」がほとんど危険なほど輝きを放ってしまっているのは、通常は純粋で健やかな主人公のパワーがこの敵に打ち克つものだとされるのが普通の世界観なのに対し、『あずみ』の世界にはその健全で健康的な論理が通用しそうになく、何より彼に勝ってもここでもまたあずみは幸せになれそうにないと思えてしまうその絶望感に、観客が押し流されてしまいそうになるからだ。

 この世界は間違っている。出口がない。答えがない。しかしそもそもの最初からこうしてしまったのだから仕方がない、そんな悲しい世界なのだ。
 一体これをどうしようというんだ。
 …そういう意味で、ひどくひどいと思うのですよ私は…

 ふう。
 しかしこれを、だったらこうすればよかった、という答えはないのだ。それには前提から、スタートからちがうものにせざるをえないからだ。それは『あずみ』ではないのだ。
 ふう。
 こんなものを初めて観ましたよ。
 しかし舞台は本当にシャープでおそらくは長い原作をよくまとめてあり、キャストがとにかく熱演で、私の嫌いなギャグや客席くすぐりもそれでも効果を上げていたと思うし、フライングも良かったし、後半の全キャストに見せ場を与えてこれでもかとクライマックスをつなぐ大芝居っぷりがまた本当にすごかったです。

 あんなに大きな舞台をひとりでセリフだけでもたせることって、普通絶対なかなかできないことですよ。それをあんなに若いキャストたちがやってのけたのには本当に感動しました。
 まず生田斗真。大ラスにあずみの場が来るまでは、これはほとんどうきはのための物語なのではないかと思ってしまいましたよ。それは彼がジャニーズJr.というアイドルでだから彼の役が大きくされたのだとかそういうことではなくて、彼は本当に一役者として役をまっとうしていたということであり、うきはという役がそれだけのものだったということです。彼がなぎとの演じ分けを特別意識せず、「二人の共通点"あずみが好きになった男"というのを手がかりに」逆にほとんど同じように演じて見せたのは正しいと私は思う。舞台上では確かにそこは回想の形となり、応えるあずみが時間を溯って幼い口調で応じていたので、逆になぎはのちのうきはとほとんど同じでもいいのです。逆に意味が出てくるのです。すばらしい。なぎの死に際に早変わりのため代役が出たのがバレバレだったのだけが惜しまれるわ(^^)。
 とにかく大ラスになるまでのあずみは、どちらというと、いつも猫背気味で膝をゆるめて内股気味に立つ、腕は確かに立つんだろうけれど魂の寄る辺のない子供、といった風情なので、彼女を一番に守り支え愛すうきはがとにかくカッコイイのです。すばらしかった!

 そしてもうひとりのジャニーズJr.の長谷川純によって演じられる秀頼。私はこういうお坊ちゃん役が本当に大好き!(^^)
 たまたま豊臣家に生まれただけの、天下にも権力にも戦争にも興味がない、花や虫を愛でていられれば幸せな、心優しく純真で、わがままで臆病でほとんど愚鈍な少年。でもそんな彼ですらも最後には名を選び死していく、その悲惨。他の人々とちがってデニム地か革のベストとショートパンツというある種浮かれたいでたちのあずみと好対照に、彼だけがまた浮かれた純白のモーニングのような衣装で現れる、その象徴。彼もまた確かにうきはとはちがう形でだが同じくらい深くあずみと関わる男なのです。初めて徳川を疑わせた男なのですからね。
 喉がつぶれて声が枯れてしまっていて、せっかくラブバラードを歌うシーンがあったのにだいなしだったのは残念でした。これは要精進かな。というかあそこまでひどかったのなら録音流して口パクでもよかったと思う…

 脇を固めるのはさすがに剛の者が多く観ていて安心できましたが、みんな「ただやっている」感が一切なかったのが本当にすばらしかったと思います。これは若く熱いメインキャストにひっぱられた効果かもしれません。
 懐が深そうで人情がありそうな加藤清正、素敵でした。その忠実な家臣で勇猛で知略もあって礼儀正しい井上勘兵衛、これがまた良くて! 赤坂くんは私は舞台で何度か観ていると思うのですが、初時代劇がはまり過ぎ! というかこんなに声のいい人でしたっけ? この役のみ初演が的場浩司だったなんてもう信じられない!!

 特別出演の形で狂言回しのような役を務めた飛猿は山崎銀之丞。チョンパの幕開きに感動しましたよ私。

 そして当て書き? 普通このふたりを二役に組もうとしないよね、でもできちゃうのがカナメさんのカナメさんらしいところ、という絶品の涼風真世。
 この人は宝塚歌劇団在団中はフェアリータイプの男役トップスターと言われたものでしたが、要するに女優転向後もフツーの女よりはいっそ人間でない異形のものに扮した方がぴたりとくるというタイプの人であったのです。女の化け物みたいなのとイッちゃってる刺客、どちらも本当にすばらしかったです。

 泣かせたひゅうがとあまぎもとても良かった。殺陣もとてもすばらしかった。音楽だけが、小屋が大きいので仕方がないんだけど、セリフの入りに合わせて音量を上げ下げする感じが私は嫌いでなじめませんでしたがまあ仕方がない。

 そして、あずみ。
 最初に仰天したのはやはり眩しい太股でした。
 でも原作者があの太さにこだわったのはわかる気がしますよ。そしてとても足が長い。なんでも似合いすぎちゃうので逆に綺麗なものを着せたくないという演出家の意見もわかりますよ。タイトルを出すときのマント姿は確かに美しい!
 ちょっとハスキーでドスの効いた声をよく腹から出して、ほぼ出ずっぱりといってもいいくらいの舞台を縦横無尽。
 そして彼女が最後の最後に葵の旗を相手にする独り舞台が圧巻だったのは、何もその旗が日の丸にも星条旗にも見えてその反戦の叫びに胸うたれたからというだけではありません。黒木メイサは何も答えを持たない身ひとつのあずみとして確かにそこにいて、全身全霊を賭けて旗に喧嘩を売っていました。それが美しかった。なんの小細工もなくただ役として、芝居のすべてを体現すること。そんなことができる瞬間は誰にでもどこにでもあるものではないと私は思っています。す・ご・い!

 泣けない。答えがない、救いがない。虚しいというのともちがう、心は重く、しかし確かに震えた。そして舞台は、役者は熱かった、感動した。
 こんな芝居はちょっとない…という、経験でした。
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東京バレエ団『ディアギレフ・プロ』

2010年01月13日 | 観劇記/タイトルた行
 ゆうぽうと簡易保険ホール、2006年4月10日ソワレ。

 20世紀バレエ史を語る上で欠かせない二大巨星の業績を称える「ベジャール=ディアギレフ」プログラムのディアギレフ版。
 『牧神の午後』は振付/ヴァツラフ・ニジンスキー、音楽/クロード・ドビュッシー、装置・衣装/レオン・バクスト。1912年初演。夏の午後、寝そべる牧神(首藤康之)は水浴びに来たニンフ(井脇幸江)を見る…

 初めて観ました。
 音楽と、ニジンスキーのあのポーズの写真と、最後がマスターベーションらしきもので終わるらしい、ということしか知りませんでした(笑)。すみません。
 元となったマラルメの詩を知らないのですが、夢のようにたゆたう音楽に乗せて、不思議な動きで演じられる神話劇が、やっぱり妙にマッチして見えて、存分に味わえました。

 『薔薇の精』は振付/ミハイル・フォーキン、音楽/カール・マリア・フォン・ウェーバー(編曲/ベルリオーズ)、1911年初演。初めての舞踏会の高揚感に包まれてまどろむ少女(この日は高村順子)の寝室の開け放たれた窓から、少女がドレスにつけた薔薇の精(同じく大嶋正樹)が飛び込んでくる…

 私の席は7列目最上手だったのですが、そこからは薔薇の精が最後に夜の闇に跳んで消えていく上手側の窓がまったく見えませんでした。
 これはひどいと思う。改善してくれ。
 『くるみ~』もそうですが、少女が見る夢というモチーフは、来たるべき大人の世界へのあこがれなどを映してその前哨戦?のような色っぽさが漂うことが多く、この作品もそれを意図して作られていると思うのですが、以前ガラ・コンで観たときと比べると少女がものすごく健康的で、情熱や交歓という艶っぽさはあまり感じられなかったのが残念でした。

 『ペトルーシュカ』は振付/ミハイル・フォーキン、音楽/イーゴリ・ストラヴィンスキー、台本/アレクサンドル・ブノワ、イーゴリ・ストラヴィンスキー。一幕四場。1911年初演。
 謝肉祭で賑わうサンクト・ペテルブルクの広場。見世物小屋から親方の笛に合わせて三体の人形、すなわち道化のペトルーシュカ(首藤康之)、バレリーナ(この日は長谷川智佳子)、ムーア人(同じく平野玲)が踊り出す。そして人形には魂があった…

 ストラヴィンスキーの原曲を知らないのですが、各場のつなぎはもう少しスムーズにできないものなのかしらん。それはともかくある種の人々が非常に好みそうな、人形に仮託された人間の悲哀の物語でした。
 後ろの席の母娘が幕間のおしゃべりがやかましかったのですが、幕が降りたときに
「これで終わり!?」
 と口走ったのには閉口しました。
 そう感じたなら仕方ない。勉強してこいなんて言わない。でもこの公演でそれを言うってことは音楽家や演出家に喧嘩を売るってことであり、周囲の温度を下げる行為だと思うのだが如何。
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