駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『星の王子さま』

2010年01月06日 | 観劇記/タイトルは行
 新国立劇場、2005年8月18日ソワレ。

 何もかもが闇に溶け込んでしまいそうな深い夜、飛行機が一機、砂漠の真ん中に墜落した。翌朝、壊れた飛行機の側で目を覚ました飛行士(岡田浩暉)は、ひとりの少年(宮崎あおい)と出会う。「ね…ヒツジの絵をかいて」彼は星から来たのだと言う…原作/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、脚本・作詞/能祖将夫、演出/白井晃、作曲・音楽監督/宮川彬良。初演は2003年。

 ヘビの森山開次がホントにヘビでよかった。
 花の安寿ミラがホントに花でよかった(しかしこの「花」が女性の象徴だったとは、今回のパンフを読んで初めて知りました…そりゃ確かに美しいけれどわがままで気まぐれで意地っ張りで、みたいなところは「女」そのものなのだけれど、私は本当に単に美しいもの、宝物のようなものってみんなそうなんじゃないか、と思っていたので…)。
 そして緑の上下にオレンジのスカーフ、麦畑の色の髪の宮崎あおいがホントに「ぼっちゃん」のようでよかった。歌は点燈夫の宮川浩が一番よかった。さすがミュージカル役者。
 だけど。

 だけど、やっぱり、小説で読むのがいい作品だと思う。舞台は、観客の目の前で実際の人間が演じて見せるくせに妙にファンタジックな部分があったりするものだけれど、だけど何かを具現化してしまうことに変わりはないし、それがやはりあの作品世界の幻想性を壊してしまっていると思うのです。
 装置などを上手く使って、たとえば飛行士が描くうわばみの絵を見せたりはしているのですが、王子さまがいなくなったあとの砂漠の絵は見せてくれなかったし、その淋しさもあれではわかりません。それに何より、王子さまは立ち去るんじゃないよ、倒れるんだよ!
 この舞台では、泣けなかった…残念ながら、それが証拠。売店でキツネのぬいぐるみ、買っちゃいましたけれどね…
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『もとの黙阿弥』

2010年01月06日 | 観劇記/タイトルま行
 新橋演舞場、2005年8月9日ソワレ。

 時は明治。浅草七軒町界隈の劇場・大和屋は、新富座にかかる黙阿弥の新作のまがいものを新作と称して上演し、興行停止の処分を食らっていた。座頭の坂東飛鶴(高畑淳子)と番頭格の坂東飛太郎(村田雄浩)は仕方なく「よろず稽古指南所」の看板を出して日々の食い扶持を稼いでいた。そこへ、以前は大和座の狂言作者部屋で暮らしていて、今は河辺男爵家の書生になっている久松菊雄(柳家花緑)がやってきて、続いてその男爵家跡取りの隆次(筒井道隆)もやってきた。隆次は姉の賀津子(池端慎之介)が勝手に決めてきた縁談の相手と鹿鳴館の舞踏会で踊らなければならず、飛鶴に西洋舞踏を習うことにする。これと入れ違いに今度は長崎屋新五郎(辻萬長)がやってきて、娘のお琴(田畑智子)に良縁が舞い込み、舞踏会で相手と会うので西洋舞踏を仕込んでほしいと言ってくる…作/井上ひさし、演出/木村光一。全三幕。井上ひさしが初めて大劇場用に書いた作品の、22年ぶりの再演。

 「ナンノダレソレ、実はナンノナニガシ」が「演劇の本来の姿だ」と喝破した作者は実に正しいと思います。
 お芝居というのは役者が役を演じるものなわけですが、だからこそその構造そのものが、劇中劇を生みやすいというか、何か別の役を演じる役、というものを生み出しやすいわけですね。だから、誰かが正体を隠して別人物になりすまそうとしたり、誰かと誰かが入れ替わるような種類のお話が、実に多く生まれる。その悲喜劇を演劇は常に描いてきた、というわけです。

 特にネタバレではないとは思いますが、この物語では、男爵家の坊ちゃんと豪商のお嬢様が、縁談相手の真の人柄を見極めようと、坊ちゃんは書生と、お嬢様はお付きの女中(横山めぐみ)と入れ替わって見合いの場に出向こうとします。で、なのにやっぱりお互いに惚れちゃって身悶えし、一方で坊ちゃんになりすました書生とお嬢様になりすました女中も恋に落ちて身悶えし、その喜劇っぶりを観客が笑う、という構造になっています。実によくわかる、よくあるパターンですね(笑)。

 新橋演舞場というのは独特の劇場で、たとえば私がよく行く青山劇場とか帝劇とかはたまたパルコやコクーンなんかとは客層からしてちがいます。年配の方が多いし、男性も多い。食堂や幕の内弁当が発達していて、休憩時間はたっぷり、二幕三幕あたりまえの今時優雅な時間と空間の使い方をしている場所です。若い人にはタルいギリギリでしょうが、ゆっくり括舌良く語られるセリフ、そこここに散りばめられるお笑い、歌舞伎や新劇のもじりなど、豊かで贅沢なものがあって、私は嫌いじゃありません。そしてこのお芝居はこの劇場にぴったりで、正体を隠している作中人物たちがさらにお芝居の役を演じる劇中劇がたっぷり三度(笑)、サービス満点の構成になっているのでした。
 でも、では、ドラマとしてはどう正体がバレるのかだけが眼目なのか、そしてバレて単なる大団円でいいのか、とは思うところです。で、パンフレットによれば、何やら大きなオチがあるようでした。
 貧しい出で、でも政治なんかに興味があるらしい書生をマークしている刑事さん(なのかな?)みたいな役があるので、時代もあるし、彼が捕まったりしちゃうような展開なのだろうか…などと思っていたのですが…なんとなんと。ここからはネタバレですが…私、幕が降りるとき、泣きそうになりました。ひとりで観ていたら号泣していたかもしれません。
 ハキハキしていてしっかり者でよく気がついて愛敬のある、「女中の鑑」と主人の信頼も篤お繁が、実は一番の貧乏の出で食うや食わずで学校にも行けない弟妹をたくさん田舎に残してきていて年老いた両親も心配で、という苦労人だということ。だからこそ、戻ってこられなくなってしまったのだということ。それくらい彼女は本当は大変な思いで今まで生きてきたのだということ。そしてそれに対して周りができることは実はほとんどなくて、そのままに幕がただ降りてしまうこと…なんとせつなくて、悲しくて、悲惨で、だけど真実なんでしょう。こんな芝居を書いてしまう作者はやっぱりすごい人なのでしょう…
 ちなみに役者陣はみんな本当にすばらしかったと思うのですが(特に高畑淳子のあの特徴ある声が私は大好きなのだ~踊りのお師匠さんそのものですよホント!)、唯一横山めぐみの歌だけはややしんどかった。初演は水谷現八重子だったというので、その劇中劇シーンはさぞすばらしかったことでしょう。ちなみに坊ちゃんとお嬢様は片岡現仁左衛門と大竹しのぶで、当時の写真の二枚目っぷりと美少女っぷりったらありません! このアテ書きは確かに大成功だったのでしょう。でも筒井道隆も田畑智子もよかった。満足。
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音楽座ミュージカル『21C:マドモアゼル モーツァルト』

2010年01月06日 | 観劇記/タイトルま行
 パルコ劇場、2005年8月3日ソワレ。

 モーツァルト(新妻聖子)の死後、35年を経た19世紀のウィーン。かつて宮廷楽長を務めたアントニオ・サリエリ(広田勇二)は自らの人生を振り返っていた。そこに時空を超えて未来の瓦礫の世界・21世紀の光景が浮かび上がる。「パパ!」と悲痛な叫び声をあげてうずくまる少女の姿は、18世紀を生きたひとりの少女、エリーザに重なって見える…原作/福山庸治、脚本・演出/ワームホールプロジェクト、音楽/高田浩・八幡茂、井上ヨシマサ。音楽座カンパニー解散から10年、新たに結成されたRカンパニーを創造母体にする新生音楽座ミュージカル第一回公演。91年初演版から舞台装置・美術を除き台本・音楽とも全面改訂。

 なんといっても主演の新妻聖子がめちゃくちゃ良かったです(少女時代のエリーザを演じた高塚恵里子も可愛らしかった…)。地声がのびやかで声量豊かでよく響いて音程が確かで歌詞がはっきり聴き取れて。ちっちゃくて元気でやんちゃで。男物の衣装を着ていても、張った腿のあたりから色気が漂う、まさしくエリーザベト・モーツァルトその人でした。
 対するサリエリ役の広田勇二も、原作の漫画から抜け出してきたようなビジュアルでしたねー。これまた歌唱力があってよかったです。聴き惚れました。
 コンスタンツェ(中村桃花)も愛らしかった。それからフランツ(丹宗立峰)がすごく好青年で誠実そうで朴訥で、なんかツボでした。

 では何が不満だったかというと、初演版を知らないので比べられませんが、「21世紀」の取り入れ方、かな。父親の庇護を得られず銃弾に倒れて死ぬ戦地の少女のあり方と、18世紀に天才に生まれたがために男装して生涯を生きなければならなかったエリーザのあり方、というのは、重なるところなんて実はなんにもないのでは? どうにもこのシーンは唐突でしたし、別に戦争の悲惨さを訴えるでもなく反戦を謳うでもなく、爆撃音がうるさいばかりでほとんど不愉快でした。パンフレットにも4ページにもわたって出演者に戦争について対談させているところを見ると、もともとそういう志向のある団体なんでしょうか。モーツァルト生誕の年は確かにまた七年戦争勃発の年でもあるのですが、原作漫画にも特に戦争の色はなかったと思うし、この趣向が私にはどうしても解せませんでした。
 そうそう、展開がかなりスピーディーだったのも、もしかして原作漫画を読んでいない人にはややわかりづらいのではないかと、ちょっとヒヤヒヤしてしまいました。
 あと、父親が死んでエリーザがやっと男装を捨てたときの、ドレスがしょぼくて泣けました。ここは演出的にも絶世の美女になる必要があったと思うので、もっと粋なデザインのドレスを着せてほしかったです。あと胸をもっと強調するべき! ここで女装の少年に見えてしまっては意味がないのですから。そういえば新妻聖子は素顔の写真の方が美人で、どうもお化粧があまり良くなかった気がします。男装していても美少年に見えた方がモーツァルトっぽいと思うので、もう一工夫してほしかったなあ。もったいない…
 なんだってこうネチネチ語るかと言いますと、原作の漫画は青年漫画で、今、舞台でこの作品をやるとしたら、もっと少女漫画的な、もっとフェミニズム的なもっていき方があったのではないかなーと、思ってしまったからです。終演後、「もっとサリエリとからんでほしかった」との声がロビーで聞かれましたが、端的に言ってそういうことです。サリエリはホント、思っていたより出番が少なく、あまりこのふたりのラブストーリーの構造になっていなかったのが、これまたなんだかすごくもったいなく思えたのです。
 父にも姉にもない天才を与えられてしまった少女。時は18世紀、女にはその才能を生かす場所が与えられていない時代(そしてそれは21世紀においてもほとんどまだそうだと言っていい)。男装し、喝采を浴び、居場所を得る「天才」。父を愛し尊敬し、だけど反発して故郷から大都会へ出た「少年」。それがエリーザベト・モーツァルトの姿で、才能はともかく何がしかの志がある現代女性が実に仮託しやすい存在です。原作の彼女は、乳房がついているだけで中身はほとんど男性同然でした。それは原作が青年漫画だったからかもしれないし、天才とはそういうある種性別を超越した存在だと作者が考えていたのかもしれません。けれど舞台のエリーザは女優によって演じられますし、舞台の観客は主に女性です。女性性がより強くなって当然なのではないでしょうか。それでこそ、モーツァルトの真実の姿により近づくことになるのではないかと思うのです。
 だいたい原作では、何故エリーザがコンスタンツェと結婚するのか、少なくとも私にはよくわかりませんでした。とっても気の合う女友達だったから? 多少は歌も歌うコンスタンツェがミューズだった? 本来なら自分がそうなっているであろう「娘」の姿をしたコンスタンツェへの愛憎? そういったものを、より深く考えて演出してみる手だってあるのではないでしょうか。この女同士の友情、共闘には実に興味深いものがあるはずです。
 それから、サリエリへの慕情。父に反発してウィーンに出てきたエリーザが出会った年上の男性、それがサリエリで、彼女は彼を「パパ」と呼びます。そこには明らかにファーザー・コンプレックスがある。恋愛以前です。そして彼女は父親が死ぬまでは男装を止めなかった。父親が死んで初めて、彼女はドレスを着、「ヴォルフガングの従姉妹」としてサリエリに会い、求愛されます。何故彼女はそれに応えなかったのか? 作曲にふたたび専心するようになった理由は? ホント言うとここらへんも原作では未消化だと思います。ここに恋は在ったのかどうか? つっこみ所だと思うのですが。
 そしてもうひとつ、ナンネルです。『モーツァルト!』でも、「神童」として同じようなスタートを切ったのに、真に天才でかつ男であった弟はどんどんと脚光を浴びていき、自分は「20歳すぎたらただの人」になってしまい、家族の世話に精一杯で婚期にも遅れて落ち込むようなナンネルの姿に、私はずいぶんと胸つかれました。まして同性の妹だったら!!
 モーツァルトは困窮のうちに若死にし、死んで初めてサリエリにお姫様抱っこされて舞台を去る。これはかなり女性観客の涙と感動を誘う作りになると思うんだけどなー。女が天才に恵まれるとろくなことにならない、天才は幸せになれない、とかいうことを言いたいんじゃないですよ? 彼女はたまたまこうとしか生きられなかった、というように見せたいですね。時代ゆえか、あまりにも偉大なる天分ゆえか。彼女ほど天分に恵まれてはいない我々であっても、まだまだ生きにくいことは確かなこの世の中で、私たちはどうしたらいいのだろう…というような想いが漂う中に、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が流れる…というのは、せつないと思うのですが、いかがでしょうか…
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獣木野生『THE WORLD』

2010年01月06日 | 愛蔵コミック・コラム/続巻中
徳間書店CharaCOMICS

 この世に人間が生まれる遙か昔から、すべての動物の頂点に立って世界を見守ってきたふたりの神、「白き牙のあるものの王」ホワイト・ワイルドと、「黒き牙のあるものの王」ブラック・ワイルド…人と動物とが織りなす壮大な物語。

 おそらく5巻までが刊行中で、作者は現在『パーム』本編の連載にかかりきりなのだと思います。
 『2821コカコーラ』同様、スターシステムというかなんというか、『パーム』のキャラクターとビジュアルデザインが同じキャラクターたちが登場しています。
 描かれているのは、どこの時代のどこの国ともつかない世界のお話で、大人の寓話というかなんというか…すべて組みあがると、エコロジカルなというかなんというか、何か尊いものになるのだと思うのですが、今のところはなんとも…
 とりあえず本編をきちんと完結させてからでいいので、ちゃんと続きを描いてほしいと念じています。
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