駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『グッドラック、ハリウッド』

2010年01月26日 | 観劇記/タイトルか行
 紀伊国屋サザンシアター、2007年3月7日ソワレ。

 1988年、ハリウッドのとある映画撮影所内に立つバンガローの中のオフィス。初老の男が机の上で、先に輪のついたロープを天上のパイプに結び付けている。そこへひとりの若者が入ってくる。彼は脚本家として売り出し中の青年デニス・プラット(筒井道隆)、この映画界社に雇われたばかりだ。デニスは目の前 で人が自殺しようとしていることに驚くが、その人物が、長年あこがれてきた大監督ボビー・ラッセル(長塚京三)その人であることにさらに驚く…作/リー・ カルチェイム、翻訳/小田島恒志、演出/山田和也。原題は『Slouching toward Hollywood』で、イェイツの詩の一節のもじり。邦題は、ボビーがデニスと共作?しようとした映画のタイトル(と、ボビーの最後のセリフ)が 『Good bye and Good luck(さらば、あとはよろしく)』から来ているものと思われる。全一幕。

 「偉大な映画監督」ビリー・ワイルダーが、後年はハリウッドで仕事を見つけるのに苦労した、ということから着想されたお芝居だそうで、ユダヤ人であるとかコメディーの傑作が多いとか、ボビーはワイルダーを想定して作られたキャラクターだそうです。
 ただしテーマはハリウッドに限ったものではなくて、仕事が好きで仕事にだけ熱中してきて、人生には仕事以外にも大切なことがあるということがわからない でいた人が、時代が変わって仕事ができなくなったときに、何をどう選択し受け入れるか…という話にしたかったんだそうです。

 しかし…私は、なんというか…後味が悪く感じた、というのはちがうな、オチには救いが感じられたので、しかしずっと不愉快だったし不愉快のままだった気がします…

 だって結局これってボビーが負けっぱなしのままの話ってことじゃないの?

 ホビーを優しく見守りときには苦言も呈する、彼への好意と愛情に満ちた秘書メアリー(久世星佳)は、ボビーに映画以外の人生の楽しみの存在を教えようと し続けます。最後にはかなり言葉を荒げて、仕事しか見てなくてあさましく仕事にしがみ続けているボビーを糾弾します。でもそれでボビーは本当に目が覚めた のかな? 私にはそんなふうに見えなかったし、そう見えるように演出されているとも思えなかった。

 そのあとも、ボビーは本当に再度自殺を考えたように見えました。あれは本当に、デニスを脅かすためのジョーク、映画に必要な驚きの表現だったのでしょうか? そうは見えなかったし以下略。

 最後にボビーがメアリーとパリに行く、とデニスに言ったのは、本心とかやっとたどり着いた真実とかいうことではなくて、ただの悔し紛れとか当てつけ、のように見えました。
 だとしたらやっぱりボビーは何もわかっていなくて、映画のことしか考えていなくて、でもそれはもはや単独では仕事にならなくて、だけどデニスを利用して も自分の思ったとおりのものにはならなくて、へんてこな気に入らないものになってしまい、だけど世間ではそれが当たってしまい、ボビーの大ファンで一番の 理解者であるはずのメアリーですら認めてしまい、つまりはそういう時代とか世間とかいうものに敗北して去っていくだけのこと…ということになりはしないで しょうか?

 一方で、デニスは成り上がったりボビーの跡を継いでそれ以上の偉大な映画監督になる、ということでもありません。彼はそもそもそんなことは望んでいない し、そうなろうともしていません。彼は芸術なんか目指していなくて、ある程度の商売ができればよかったんであって、それだけのスキルやテクニックはあっ て、それで成功して、だからそれ以上でもそれ以下でもないのです。

 だからこれは、芸術が商売に負けたとかそういうことを悲しく皮肉に描いているような話でもなく、単に、望んだことをできなくなった者が望んだことを出来 る者に追われた、というだけの話になってしまっているのではないでしょうか。前者の望むものと後者の望むものはちがうのだけれど、その優劣は特に問うていないので、単に勝ち負けだけの話になってしまっている。そして主人公であると思われる者が負けて去る話なのです。なんじゃそら、と思いませんか?
 こんな男相手じゃヒロインの立つ瀬がないっつーの。
 本当にこういう話なの? それをやりたくてやった舞台なの? なら何が言いたいの? 事実というか現実を提示しただけで、理想が敗れる皮肉も皮相な現実への皮肉もないよ? 観客は感動もしないし幸せにもならないし泣けもしないよ?
 …私にはよくわかりません…

 長塚京三は舞台では初めて観るかと思いますが、テレビでのイメージはもっとクレバーでスマートなのがニンなのかと思っていましたが、意外に野卑ギリギリの暑苦しいおっさんが似合って、これも演技力のうちなんでしょうね。
 筒井道隆はニンである素朴なんだかとっちゃん坊やなんだか、という青年が徐々に狡猾になる感じで芝居をしているのかなあ? でもなんか中途半端に見えた し、多分演出が不明瞭なんじゃないのかなあ。それと芝居のトーンというかテンションというかナチュラルさ加減が長塚京三のものと合っていなくて観ていて気 持ちが悪かったです。
 やや垢抜けない中年女性、という感じに作ったノンちゃんはさすがに十分役をこなしていたと思いますが、結局このキャラクターのボビーへの情愛もちゃんと は届いていない形で終わる話になっちゃっていると思うので、女性観客の感情移入も誘いきれない役所になってしまっています。
 こんな芝居巧者を揃えた三人きりの舞台だというのに…なんなんだこのフラストレーションは…
 これが現実ですよ、みたいな投げ出しは、知らないけど多分ワイルダーが最も嫌いそうなあたりじゃないでしょうかね…?
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『フール フォア ラブ』

2010年01月26日 | 観劇記/タイトルは行
 パルコ劇場、2007年2月21日ソワレ。

 モハーヴェ砂漠のはずれの、さびれた安モーテルの一室で、男と女が対峙している。男の名はエディ(香川照之)、カウボーイ崩れの風貌だ。対する女はメイ(寺島しのぶ)、男をかたくなに拒んでいる。もうひとり、静かなる存在がいる。その老人(大谷亮介)はかつて、どっちつかずのままふたりの女を長らく愛 し、息子と娘をもうけていた…作/サム・シェパード、演出/行定勲、翻訳/伊藤美代子。1983年初演。

 90分弱、全一幕の舞台でしたが、話がなかなか始まらない印象で、おもしろかったのは最後の10分、いや5分だけだったかなー。
「ほとんどは、冴えない 男女の痴話ゲンカ」なのは別にいいんだけれど、もうちょっと状況なりキャラクターなりが早く見えてこないと、ただわあわあわめき合っているだけの他人に長く興味を持っていられる観客って少ないと思うのですよね。

 エディとメイは、15年前、高校時代に、お互いの体を知った。異母兄妹だと知ったときにはもうどっぷりとお互いの体になじんでいた。エディは放浪し、メ イだってエディを待っていたりはしない。なのにエディはいつもメイのところに帰ってくる。何千マイルも、ピックアップトラックを走らせて。
 幻のように、おそらくはエディとメイが一緒にいるときにだけ現れる存在としてあるふたりの父親「老人」は、ふたりに離れろと叫ぶ。けれどふたりは抱き合う。
 誰に何をなじられようと、禁忌だと蔑まれようと、こういう形でしか成立しない愛もある。それを描いて終わる物語なのかな、と一瞬思わせて、次の瞬間、エ ディは「伯爵夫人」のところに行かなくちゃ、と言い出す。エディはモーテルを出て行き、今度はメイもエディを呼び叫んだりしない。まとめてあった荷物を手にしてモーテルを出て行く。これはそういう戯曲である。

 サム・シェパードは自分と実父との関係をもとに、父と息子の物語を多く書いた劇作家だそうで、それは観劇前にざっと読んだパンフレットの解説でもあちこ ちたびたび言及されていたけれど、私は観ていて「老人」にそんなに父性を、というか重要性を感じられませんでした。
 もちろん彼が父であることは息子である エディにとってより重要なのであって、娘であるメイが彼との間に持つ距離感とは全然別物なのでしょうけれど、そんなに父と息子の間に何かの撞着があるよう には私には観ていて感じられなかったし、私個人は女だから当然目線がメイに近くなり、メイにとっては父よりむしろ男、つまりエディのことこそが問題なの だ、というスタンスで舞台を観ていました。
 だから、ふたりが父の制止にもかかわらず抱き合うことは、男と女の愛の勝利ということなのかな、と思ったのですが、次の瞬間、男、つまりエディはただの 「息子」に戻り、もうひとりの女のところへ逃げることを始めてしまうわけですね。つまり男としてひとりの女と愛を貫くことができず、息子として、ふたりの 女の間を行き来した父の真似をして生きていくことを選んでしまうわけです。だったら、メイは、女は、父を捜したり父の前で自分の頭を打ち抜いた母たちのよ うにではなく、男の前から立ち去ります。待っていたりはしない、逃げ去る訳ではない、ただいなくなる。いずれまた男に探し出されるのだとしても。
 父と娘の距離感ゆえか、娘は女として生きていけそうなのに、男が息子であることに縛られて女を振り回すので、そうさせてくれない。だからただの男と女になって愛をまっとうすることができない。これはそんな悲劇を描いた作品なのだと思いました。
 そんなにまで、「父親」というものに支配されてしまう、「男」という生き物…鈴木勝秀が、「男って……」と、諦観でも絶望でも説教でも意見でもなくただ 嘆息させる、事実としての提示、とサム・シェパードのすばらしさを表現しているけれど、そういうことなんだと思います。

 そう、私はずっと老人の存在を、幻想というか、過去の回想というか、亡霊というか、要するにこの父はすでに死んでいるものと思っていたのですが、どうも 彼は生きているか死んでいるかわからないまま、今もどこかで何人かの女の間を渡り歩いているのかもしれない、というようなことにされているようですね。つ まりメイはもう父を死んだものと思ってしまっている、思えてしまえるのでしょうけれど、エディはそうではない、ということですね。たとえ死体を見せられて も死んだと信じられるかどうか、まして行方不明程度では、彼にとっては父は常に身近に生き続けている存在なのでしょう。だから父を思うことをやめられな い、息子として生きられることをやめられないのですね。
 この母の不在はなんなんだ。彼らの母親は父とにとっての女としてだけあって、母としてはあまり役立っていなかったのでしょうか。だから息子はただただ父を求めてしまうのでしょうか。

 だとしたら、もうちょっと、香川照之と大谷亮介は、その「父と息子」のねっとりした空気感を表現するべきだったんでしょうけれどね。新聞評で香川・寺島 ともに「清潔感がありすぎる」と書かれているものを読みましたが、私はそんな印象は受けなくて、ふたりとも十分猥雑で色気があっと思いましたけれど、父と 息子の粘着性は感じられませんでした。

 あと、ホント言うと、エディとメイは恋人で兄妹なので本当に肉体的に近しい関係なので、喧嘩はもっと乱暴だと思う。本当に体に痕がつくくらいきつく相手 をつかんだり壁に押し付けたりするべきだと思う。お芝居としての遠慮が見えましたが、客席との距離が近い小さな舞台なのでその不思議な遠慮は伝わってし まったと思います。
 あと、カーテンコール、頼むから暗転に間に一度板付きの役者は袖にはけてくれ! そのまま役を降りて素に戻り挨拶をするのはやめてくれ!!
 これだけは本当に頼みたいんだけどなあ…
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『スウィーニー・トッド』

2010年01月26日 | 観劇記/タイトルさ行
 日生劇場、2007年1月23日ソワレ。

 18世紀末、産業革命期のロンドン。好色なターピン判事(立川三貴)に妻を横恋慕され、無実の罪を被って流刑にされていた理髪師ベンジャミン・バーカー (市村正親)は、船乗りアンソニー(城田優)に命を救われて15年ぶりに街へ帰ってくる。かつての自分の店跡を訪ねると、階下では陽気なラヴェット夫人(大竹しのぶ)があいかわらずロンドン一まずいことで有名なパイ屋を開いており、ベンジャミンが残していった商売道具のかみそりを保管していて、彼に返し てくれた。娘ジョアンナ(ソニン)がターピンに養育されていることを知ったベンジャミンは、「スウィーニー・トッド」と名を変え、復讐を期して新たに理髪 店を開くが…原作/クリストファー・ボンド、脚本/ヒュー・ホィーラー、作詞・作曲/スティーヴン・ソンドハイム、演出・振付/宮本亜門、翻訳・訳詞/橋 本邦彦。1979年ブロードウェイ初演、1981年日本初演(トッドは市川染五郎現松本幸四郎、演出は鈴木忠志)。

 モーリー・イェストンもちょっとどうかと思ったけれど、それ以上に難しいというか耳なじみの良くない楽曲・難曲ぞろいで、オペラふうと言えば聞こえはいいかもしれませんがとにかくあまり美しく聴こえないのはいかがなものかという感じがしました。
 お話としても、虚しく皮肉に終わる復讐ものということで、好きか嫌いかで言えば全然好きになれないものでした。

 とはいえ圧巻・抜群のさすがの大竹しのぶがやはり良かった。タイトルロールは実のところしどころのない役であり、危険にズレていてよく考えると恐ろしい んだけど妙に愛敬のあるラヴェット夫人は場をさらい観客の笑いを誘って大活躍。私は彼女のボーカルCDを持っていますが、本格的なミュージカルは初挑戦と いうことでしたがものすごく達者でした。テナルディエ夫人なんかもできるのでは?

 それからソニンがすばらしかったのが大発見でした!
 若手女優さんですが、テレビドラマで中途半端な役をやっているくらいだったら舞台に進んだ方が絶対いいですよ彼女は。美しくパンチとインパクトがあって歌もすばらしかったです。
 ジョアンナというのはお姫様役ではあるんだけれど、どこかエキセントリック な少女でもあって、その不安定さや狂気をすごくよく出していたと思いました。わかっていて技術的にやっているのか天然でたまたまなのかは今後の舞台を観て みないとわかりませんけれど(^^;)。

 ところで今回ターピンを演じた立川氏は初演でアンソニーを演じているんだそうな。ううーむ、すごい。
 トバイアス役は武田真治。期待していたんだけど私にはなんとなくそれなりにしか見えなくて残念でした。
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『タイタニック』

2010年01月26日 | 観劇記/タイトルた行
 東京国際フォーラム、2007年1月16日ソワレ。

 1912年4月10日、イギリスはサウザンプトン港から、汽船会社ホワイト・スター・ライン社が誇る巨大豪華客船タイタニック号がニューヨークを目指し て華々しく出航した。9つのデッキからなるこの船は、当時の階級社会の現実を如実に反映し、乗客は優雅な一等船客から貧しい三等船客まで、乗員も誉れ高き 航海士から船底で汗を流すボイラー係まで、身分の異なる彼らの人生が交錯することは決してなかった。船の行く手に氷山が発見されるまでは…脚本・原案/ピーター・ストーン、作曲・作詞/モーリー・イェストン、演出/グレン・ウィルホード、翻訳・訳詞・演出補/寺崎秀臣。1997年ブロードウェイ初演。

 イェストンのミュージカルは『ナイン』『グランドホテル』『ファントム』そ してこの作品と日本上演率10割だそうですが、何故かそのすべてを一応観ている私です。決してそう耳なじみのいい曲を書くタイプではないと思うのですが…
でも見張り番フリート(松原剛志)の歌う、氷山衝突直前のもの悲しくも美しいワルツ調の歌「NoMoon」(「濃霧」と歌っているのかと思ってしまった が)の素敵さにブロードウェイ版サントラを買ってしまったことも事実です。

 J・キャメロンの映画『タイタニック』はフィクションのラブストーリーであり、無関係です。
 この舞台は、タイタニックに乗り合わせた人々の群像劇で、格 別の主人公もストーリーもある訳ではなく、そういう意味ではややパラパラした印象を持たれるものになってしまっていたと思いました。
 キャスト筆頭はタイタ ニックの設計士アンドリュースを演じた松岡充となっており、カーテンコールの挨拶でもスミス船長役の宝田明をさしおいて最後でしたが、そうなのだとしたら力不足なのでは…という気がしました。
 アンドリュースは確かに狂言回しでありキーパーソンでした。船の実力を一番知っていて、売名したがるオーナー(大澄 賢也。ぴったりだったし抜群!)と記録を作りたがる船長に挟まれて、危惧を感じつつも強く言い出せないでいた、結果船と共に沈んだ男。だからもう少し出番 を多くしてもよかったと思うし、だからそれは演出の不備と言えると思いますが、それにしても最初の歌「いつの時代にも」の妙に声を張り上げる下手な歌い方 はなんなんだ。最初は野心にあふれていた若者で終盤は変化している、という意図も感じられなかったぞ。私は彼の初舞台『リンダリンダ』が、脚本の良さも彼の歌唱力も高評価だったので期待していたのですが…残念。

 女性キャストでは、健康的な上昇志向を持つ二等船客アリスを演じた森口博子、救命ボートを優先されたにもかかわらず夫とともに船に残ることを選んだ一等 船客イーダを演じた諏訪マリーがさすがの存在感。逆に三等船客のアイルランド娘ケイト役の紫吹淳は役不足でもったいかたったかもね。でも「ケイトの夢」は 決して上手くなかったから仕方ないか。三人のケイトの池谷京子、白木原忍はよかったです。

 男性客では場をさらった通信士ブライトの鈴木綜馬(ボイラー係バレットの恋人の写真にどっきりさせられる芝居に観客がわっと受け、一気に客席が温まりました。それまで焦点のない舞台に見えたので)、一等客室係エッチズの藤木孝なんかが印象的でした。バレットの岡幸二郎や三等船客ジムの浦井健治は役不足。

 でも一番の儲け役はベルボーイのエドワードだったと思う。ダンサーのダ・ミコスも演じた原田優一は6月の『レ・ミゼ』でアンジョルラスが決まっているんだそうな。似合いそう!

 それにしても改めて、こんな大きな船が2時間足らずで沈んだ恐ろしさがしみます。乗客のその後を観客の誰もが知っているだけに、カンパニーが出航時に晴れがましく歌う「ゴッドスピード・タイタニック」が逆におそろしくも悲しく聞こえて胸が震えたものでした。
 ただしこの舞台は、そういう神の御業に挑戦し続けかつ破れ続ける人間の愚かさを主張し嘲笑うものではありません。どんなに悲劇にまみえても、こりずにと いうかなんというか、それでも人は夢を見続け、その夢は美しい。必ず敗れるからこそ美しいのだとしても…その美しさ、蛮勇という言い方もできるかもしれないけれどその勇気、その挑戦をある種称えて場は再び出航シーンのリプライズになって終幕する、そういう舞台です。それは素敵でした。
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