紀伊国屋サザンシアター、2007年3月7日ソワレ。
1988年、ハリウッドのとある映画撮影所内に立つバンガローの中のオフィス。初老の男が机の上で、先に輪のついたロープを天上のパイプに結び付けている。そこへひとりの若者が入ってくる。彼は脚本家として売り出し中の青年デニス・プラット(筒井道隆)、この映画界社に雇われたばかりだ。デニスは目の前 で人が自殺しようとしていることに驚くが、その人物が、長年あこがれてきた大監督ボビー・ラッセル(長塚京三)その人であることにさらに驚く…作/リー・ カルチェイム、翻訳/小田島恒志、演出/山田和也。原題は『Slouching toward Hollywood』で、イェイツの詩の一節のもじり。邦題は、ボビーがデニスと共作?しようとした映画のタイトル(と、ボビーの最後のセリフ)が 『Good bye and Good luck(さらば、あとはよろしく)』から来ているものと思われる。全一幕。
「偉大な映画監督」ビリー・ワイルダーが、後年はハリウッドで仕事を見つけるのに苦労した、ということから着想されたお芝居だそうで、ユダヤ人であるとかコメディーの傑作が多いとか、ボビーはワイルダーを想定して作られたキャラクターだそうです。
ただしテーマはハリウッドに限ったものではなくて、仕事が好きで仕事にだけ熱中してきて、人生には仕事以外にも大切なことがあるということがわからない でいた人が、時代が変わって仕事ができなくなったときに、何をどう選択し受け入れるか…という話にしたかったんだそうです。
しかし…私は、なんというか…後味が悪く感じた、というのはちがうな、オチには救いが感じられたので、しかしずっと不愉快だったし不愉快のままだった気がします…
だって結局これってボビーが負けっぱなしのままの話ってことじゃないの?
ホビーを優しく見守りときには苦言も呈する、彼への好意と愛情に満ちた秘書メアリー(久世星佳)は、ボビーに映画以外の人生の楽しみの存在を教えようと し続けます。最後にはかなり言葉を荒げて、仕事しか見てなくてあさましく仕事にしがみ続けているボビーを糾弾します。でもそれでボビーは本当に目が覚めた のかな? 私にはそんなふうに見えなかったし、そう見えるように演出されているとも思えなかった。
そのあとも、ボビーは本当に再度自殺を考えたように見えました。あれは本当に、デニスを脅かすためのジョーク、映画に必要な驚きの表現だったのでしょうか? そうは見えなかったし以下略。
最後にボビーがメアリーとパリに行く、とデニスに言ったのは、本心とかやっとたどり着いた真実とかいうことではなくて、ただの悔し紛れとか当てつけ、のように見えました。
だとしたらやっぱりボビーは何もわかっていなくて、映画のことしか考えていなくて、でもそれはもはや単独では仕事にならなくて、だけどデニスを利用して も自分の思ったとおりのものにはならなくて、へんてこな気に入らないものになってしまい、だけど世間ではそれが当たってしまい、ボビーの大ファンで一番の 理解者であるはずのメアリーですら認めてしまい、つまりはそういう時代とか世間とかいうものに敗北して去っていくだけのこと…ということになりはしないで しょうか?
一方で、デニスは成り上がったりボビーの跡を継いでそれ以上の偉大な映画監督になる、ということでもありません。彼はそもそもそんなことは望んでいない し、そうなろうともしていません。彼は芸術なんか目指していなくて、ある程度の商売ができればよかったんであって、それだけのスキルやテクニックはあっ て、それで成功して、だからそれ以上でもそれ以下でもないのです。
だからこれは、芸術が商売に負けたとかそういうことを悲しく皮肉に描いているような話でもなく、単に、望んだことをできなくなった者が望んだことを出来 る者に追われた、というだけの話になってしまっているのではないでしょうか。前者の望むものと後者の望むものはちがうのだけれど、その優劣は特に問うていないので、単に勝ち負けだけの話になってしまっている。そして主人公であると思われる者が負けて去る話なのです。なんじゃそら、と思いませんか?
こんな男相手じゃヒロインの立つ瀬がないっつーの。
本当にこういう話なの? それをやりたくてやった舞台なの? なら何が言いたいの? 事実というか現実を提示しただけで、理想が敗れる皮肉も皮相な現実への皮肉もないよ? 観客は感動もしないし幸せにもならないし泣けもしないよ?
…私にはよくわかりません…
長塚京三は舞台では初めて観るかと思いますが、テレビでのイメージはもっとクレバーでスマートなのがニンなのかと思っていましたが、意外に野卑ギリギリの暑苦しいおっさんが似合って、これも演技力のうちなんでしょうね。
筒井道隆はニンである素朴なんだかとっちゃん坊やなんだか、という青年が徐々に狡猾になる感じで芝居をしているのかなあ? でもなんか中途半端に見えた し、多分演出が不明瞭なんじゃないのかなあ。それと芝居のトーンというかテンションというかナチュラルさ加減が長塚京三のものと合っていなくて観ていて気 持ちが悪かったです。
やや垢抜けない中年女性、という感じに作ったノンちゃんはさすがに十分役をこなしていたと思いますが、結局このキャラクターのボビーへの情愛もちゃんと は届いていない形で終わる話になっちゃっていると思うので、女性観客の感情移入も誘いきれない役所になってしまっています。
こんな芝居巧者を揃えた三人きりの舞台だというのに…なんなんだこのフラストレーションは…
これが現実ですよ、みたいな投げ出しは、知らないけど多分ワイルダーが最も嫌いそうなあたりじゃないでしょうかね…?
1988年、ハリウッドのとある映画撮影所内に立つバンガローの中のオフィス。初老の男が机の上で、先に輪のついたロープを天上のパイプに結び付けている。そこへひとりの若者が入ってくる。彼は脚本家として売り出し中の青年デニス・プラット(筒井道隆)、この映画界社に雇われたばかりだ。デニスは目の前 で人が自殺しようとしていることに驚くが、その人物が、長年あこがれてきた大監督ボビー・ラッセル(長塚京三)その人であることにさらに驚く…作/リー・ カルチェイム、翻訳/小田島恒志、演出/山田和也。原題は『Slouching toward Hollywood』で、イェイツの詩の一節のもじり。邦題は、ボビーがデニスと共作?しようとした映画のタイトル(と、ボビーの最後のセリフ)が 『Good bye and Good luck(さらば、あとはよろしく)』から来ているものと思われる。全一幕。
「偉大な映画監督」ビリー・ワイルダーが、後年はハリウッドで仕事を見つけるのに苦労した、ということから着想されたお芝居だそうで、ユダヤ人であるとかコメディーの傑作が多いとか、ボビーはワイルダーを想定して作られたキャラクターだそうです。
ただしテーマはハリウッドに限ったものではなくて、仕事が好きで仕事にだけ熱中してきて、人生には仕事以外にも大切なことがあるということがわからない でいた人が、時代が変わって仕事ができなくなったときに、何をどう選択し受け入れるか…という話にしたかったんだそうです。
しかし…私は、なんというか…後味が悪く感じた、というのはちがうな、オチには救いが感じられたので、しかしずっと不愉快だったし不愉快のままだった気がします…
だって結局これってボビーが負けっぱなしのままの話ってことじゃないの?
ホビーを優しく見守りときには苦言も呈する、彼への好意と愛情に満ちた秘書メアリー(久世星佳)は、ボビーに映画以外の人生の楽しみの存在を教えようと し続けます。最後にはかなり言葉を荒げて、仕事しか見てなくてあさましく仕事にしがみ続けているボビーを糾弾します。でもそれでボビーは本当に目が覚めた のかな? 私にはそんなふうに見えなかったし、そう見えるように演出されているとも思えなかった。
そのあとも、ボビーは本当に再度自殺を考えたように見えました。あれは本当に、デニスを脅かすためのジョーク、映画に必要な驚きの表現だったのでしょうか? そうは見えなかったし以下略。
最後にボビーがメアリーとパリに行く、とデニスに言ったのは、本心とかやっとたどり着いた真実とかいうことではなくて、ただの悔し紛れとか当てつけ、のように見えました。
だとしたらやっぱりボビーは何もわかっていなくて、映画のことしか考えていなくて、でもそれはもはや単独では仕事にならなくて、だけどデニスを利用して も自分の思ったとおりのものにはならなくて、へんてこな気に入らないものになってしまい、だけど世間ではそれが当たってしまい、ボビーの大ファンで一番の 理解者であるはずのメアリーですら認めてしまい、つまりはそういう時代とか世間とかいうものに敗北して去っていくだけのこと…ということになりはしないで しょうか?
一方で、デニスは成り上がったりボビーの跡を継いでそれ以上の偉大な映画監督になる、ということでもありません。彼はそもそもそんなことは望んでいない し、そうなろうともしていません。彼は芸術なんか目指していなくて、ある程度の商売ができればよかったんであって、それだけのスキルやテクニックはあっ て、それで成功して、だからそれ以上でもそれ以下でもないのです。
だからこれは、芸術が商売に負けたとかそういうことを悲しく皮肉に描いているような話でもなく、単に、望んだことをできなくなった者が望んだことを出来 る者に追われた、というだけの話になってしまっているのではないでしょうか。前者の望むものと後者の望むものはちがうのだけれど、その優劣は特に問うていないので、単に勝ち負けだけの話になってしまっている。そして主人公であると思われる者が負けて去る話なのです。なんじゃそら、と思いませんか?
こんな男相手じゃヒロインの立つ瀬がないっつーの。
本当にこういう話なの? それをやりたくてやった舞台なの? なら何が言いたいの? 事実というか現実を提示しただけで、理想が敗れる皮肉も皮相な現実への皮肉もないよ? 観客は感動もしないし幸せにもならないし泣けもしないよ?
…私にはよくわかりません…
長塚京三は舞台では初めて観るかと思いますが、テレビでのイメージはもっとクレバーでスマートなのがニンなのかと思っていましたが、意外に野卑ギリギリの暑苦しいおっさんが似合って、これも演技力のうちなんでしょうね。
筒井道隆はニンである素朴なんだかとっちゃん坊やなんだか、という青年が徐々に狡猾になる感じで芝居をしているのかなあ? でもなんか中途半端に見えた し、多分演出が不明瞭なんじゃないのかなあ。それと芝居のトーンというかテンションというかナチュラルさ加減が長塚京三のものと合っていなくて観ていて気 持ちが悪かったです。
やや垢抜けない中年女性、という感じに作ったノンちゃんはさすがに十分役をこなしていたと思いますが、結局このキャラクターのボビーへの情愛もちゃんと は届いていない形で終わる話になっちゃっていると思うので、女性観客の感情移入も誘いきれない役所になってしまっています。
こんな芝居巧者を揃えた三人きりの舞台だというのに…なんなんだこのフラストレーションは…
これが現実ですよ、みたいな投げ出しは、知らないけど多分ワイルダーが最も嫌いそうなあたりじゃないでしょうかね…?