駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ハムレット』

2009年12月01日 | 観劇記/タイトルは行
 サンシャイン劇場、2002年11月7日ソワレ。
 作/W・シェイクスピア、翻訳/松岡和子、上演台本/岡本おさみ、演出/栗田芳宏、音楽/宮川彬良、振付/館形比呂一。ハムレット・亡霊/安寿ミラ、ホレイショー/旺なつき、クローデイアス/吉田鋼太郎、ポローニアス/栗田芳宏、オフィーリア/植本潤、ローゼンクランツ・座長・墓掘り/間宮啓行、ギルデンスターン・レアティーズ/河内大和、ガートルード/天宮良。ピアノ伴奏/神田晋一郎。
 「ハムレットという題材を通して旅役者達の一生を描くという発想」のミュージカル、なんだそうですが、すみません、私にはその仕組みが全然理解できませんでした…仕事が忙しくて疲れていたこともあるんだけれど、一幕目なんかうつらうつらしてしまうこともあったくらいです。
 俄然おもしろく感じたのは二幕目なのですが、それは別に二幕目オープニングのせいではなくて、単に私が『ハムレット』という物語の筋をわからないでいたので、お話の顛末に興味が湧いたから、というのがその理由です。中学時代くらいに新潮文庫の戯曲を読み、何年か前には今回の主役ヤンさん(私にとって初めてのタカラヅカスターです)の大先輩・麻美れいが退団後初の男役をやって評判だった『ハムレット』も観たというのに…ストーリーをまったく忘れていたのです。いやあ、すごい話ですな。
 という訳で、そもそものストーリー自体がおもしろかったかな。
 ハムレットとホレイショーを元宝塚歌劇団の男役とはいえ女優に、オフィーリアを花組芝居の女形に演じさせるというのもおもしろかったです。
 特にオフィーリアには仰天したなあ。ほっそいヤンさんより本当だったら背も高く肩幅もあって、明らかに体型はゴツいのだけれど、やわらかなニットらしきショール羽織ってなよやかなワンピース着て金髪の鬘被って、何よりその仕草がつくと、これはもう本当に女にしか見えない、しかも美少女に見えてしまうんだからすごすぎます。りりしいヤンさんと似合いのカップルに見えるから不思議。
 しかもその声! 歌舞伎なんかでどんなに女形が本当の女以上に女らしくても、ひとたび台詞をしゃべるとその声の不自然さにげんなりさせられるものなのですが、この植本さんの声は一体なんなの!? 男性が無理に出している裏声ともちがう、でも女性の声とも言い難い、オフィーリアの、声でした。一種不思議な不自然さ、超自然さがシェイクスピア劇にぴったりでしたね。リアル一辺倒でやる芝居ではない訳ですから。
 花組芝居って名は聞きますが未見なので、思わぬ発見があってうれしかったです。あ、パンフレットのデザインも洒落ていました。
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宝塚歌劇宙組『鳳凰伝/ザ・ショー・ストッパー』

2009年12月01日 | 観劇記/タイトルは行
 東京宝塚劇場、2002年10月22日マチネ。
 架空の時代の中国。戦に破れ滅びてしまった国の王子カラフ(和央ようか)は、生き別れた父ティムール王を捜して北京へ赴く。そこでは皇帝のひとり娘トゥーランドット(花総まり)が、その美貌にひかれて求婚してくる異国の王子たちにみっつの謎を出し、解けない者の首を容赦なく刎ねていた…脚本・演出/木村信司、作曲/甲斐正人。プッチーニのオペラ『トゥーランドット』をベースにした作品で、1934年に上演、1952年に再演されたものの21世紀版。
 …筋が通っていたのはアデルマ姫(ふづき美世)だけか? カラフに危ないところを助けられ、恋い慕い、けれど振り向いてもらえず、自害しようとし、それすら冷たくあしらわれ、狂乱のさまを見せる…
 タマル(彩乃かなみ)もよかったのだけれど…この奴隷娘はカラフよりむしろティムール王に惚れていたとしたほうが自然なのでは、とちょっと思ってしまったので。それに、アデルマとトゥーランドットのシーンはあったけれど、タマルとトゥーランドットが関わる場はなかったはずで、なんだってタマルが
「あなたさまならわかるはず」
 とまでトゥーランドットを理解し期待しているのか全然わかりませんでした。これはキャラクター設定の問題ではなく、脚本上の筋運びの問題だと思いますが。役者は好演していて、カラフの名を明かさないため、またティムール王に害を及ぼさせないために自刃する場面は、客席の涙を誘っていました。
 同様に元王子・現盗賊の頭バラク(水夏希)も、ナイスガイのいいキャラクターだし、弁慶の立ち往生もかくやという壮絶な絶命シーンは胸うちましたが、そうまでカラフとの間に固い友情・信頼が培われる過程がほとんど描かれていないので、なんだかなあ…という感じでした。
 トゥーランドットも実はおもしろいヒロインです。本当は男として生まれて、父を助け、国を守り、継いでいきたかった。だが女に生まれてしまい、婿を取る身なので、そんじょそこらの男にはなびかない、むしろ隣国の世継ぎを根絶やしにして自国領に取り込んでやる、という意気は良いではありませんか。かつて異国の男たちに蹂躪された先祖の姫の無念を忘れない、というのも、ヒステリックだけどロマンティックで少女魂には感じ入ります。なのに…カラフに惚れる理由がわからん。
 カラフがトゥーランドットに惚れる理由もまたよくわからん。それが私にとってこの芝居の最大のネックでした。
 そもそもカラフという男がよくわからん。戦争に嫌気がさして、国の再興なんて虚しい夢、国がどこだろうと王が誰だろうと民が幸せに生きていければいいじゃない…とすっかりアナーキーになってしまった若者、のように見せたがっていたように見えたのですが…だとしたら彼はトゥーランドットに自分の死に場所を求めたということなのでしょうか?
 でも、続く台詞やパンフレットのあらすじによれば姫の美貌に心奪われただけのようだし、それって馬鹿みたいじゃない? というか、姫の求婚者はみなただ姫の美貌(とその継承財産の巨大さ)にひかれていただけであり、カラフも同じなら、たとえカラフだけが謎を解いたんであろうが、姫がこれまでの求婚者たちとちがってカラフだけを愛するようになる理由がないじゃないですか。無理矢理キスのひとつもしたからなんだっていうの? ずーっとずーっといやがっていたのに、急転直下膝を屈する理由がわからないから感動できなかったんですよね。
 カラフが謎を解くその知恵と勇気に心動かされた、というような演出にするべきだったのではないかしらん? もちろんそれ以前に、カラフのいいところ・かっこよさをもっと上手いこと表現しておいてほしいところですが。タカコさんは確かに素敵なスターだけれど、役者の容姿だけに頼っていたんじゃキャラクターになっていないでしょう。
 トゥーランドットはカラフの知恵と勇気に初めて心動かされた、だけど国は奪われたくない、謎を解いた者に嫁ぐという誓いの言葉を破ろうとする。そこらの求婚者たちとちがって本当にトゥーランドットを愛していたカラフは、条件をゆるめて、今度はこちらから謎を出す。夜明けまでに自分の名を当てること。当てられたら首を差し出す、当てられなかったら結婚する…
 トゥーランドットは必死でカラフの名を探る。バラクも、タマルも、彼の名を明かすくらいならと死を選んでいく。結果的にはバラクもタマルもカラフへの愛故に命を落としているのであり、ここには本当は、愛は奪うばかりのものではなく与え合い豊かに幸せになるものだ、というようなエピソードが入って姫の心を揺さぶらせるべきなのでしょうが…
 姫は嘆き怯え絶望する。見かねたカラフは自ら姫に名を告げてしまう。姫を愛しているから、悲しませたくないから、苦しませたくないから…
 夜明け。姫はみんなの前で王子の名がわかったという。
「その名は愛!」
 そして結ばれるふたり…これなら、愛と葛藤があって、スリルがあって、「おおおお」となったのでは、と思うのだけれど…
 新聞評で、トゥーランドットの台詞が女が男に隷属するもののようで違和感があった、としているものを読みましたが、あれはむしろ人間が愛に服従する、ということを意味していたのではないかな?
 仕事先の知人を同伴したのですが、遅刻されて、私としては初めてのことなのですが初っ端5分を見逃しました。もしかしたらそこでカラフのすっごいいいシーンがあったのかもしれません…だとしたらすみません…

 ショーの作・演出は三木章雄。芝居の時間が長かったため普通より短いショーで、パレードもはしょり気味の、あわただしいショーでした。プロローグが暗いというか、あまり素敵に感じられなくて…やはり宝塚歌劇のショーのプロローグは華やかに主題歌を歌いトップコンビが出て総踊りがあって…という構成が私は好きです。全体にダンス・アクトという趣の意欲あるショーで、それは買うのですが…
 ところでハナちゃん、ちょっと太った…? いや、脚はあいかわらず美しゅうございましたが、なんか胴が…いつも本当にバービー人形のようにほっそくって手足が長く見えて、腕をただ真っ直ぐ下ろしていても肘とウエストの間にすごーく広い空間があるのに感動するのに、今回はそうは見えませんでした…いやあ、ホント私、どこ見てんでしょうね?
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遊◎機械/全自動シアター『クラブ・オブ・アリス』

2009年12月01日 | 観劇記/タイトルか行
 青山円形劇場、2002年10月8日ソワレ。
 ひとり暮らしの中年女性「アタシ」(浅野温子)が誕生日に、ソファの下の穴ぼこにおっこちる。「アタシ」にほっておかれたかつての愛読書『不思議の国のアリス』の中のアリス(高泉淳子)が、ワンダーランドへの道行きをしていく。アリスはアタシの幻想の中に住んでいる少女でもあり、アタシの少女時代の姿でもある…作/高泉淳子、演出/白井晃、舞台装置・衣装デザイン/小竹信節。95年初演の『独りの国のアリス』の大幅改訂版。遊◎機械/全自動シアター最終公演。
 非常に女くさい話だなあ、とずっと思いながら観ていました。2時間の一幕ものにしては長く感じられました。退屈した訳ではありません。ただ、濃かったし、私はこういうテーマのものになるべくシンクロしないようにかまえているので、それがしんどかったんだと思います。
 主人公は、ひとり暮らしの、妙齢の、女性。家族はいない。食うに困らないだけの仕事と、住まえるだけの住居はあるらしい。だが、あるのはそれだけ。誕生日に、ひとりでワインを開けて乾杯する暮らし。お祝いしてくれるのは、前日に自分で留守電に吹き込んだ、昨日の自分の声だけ。友達もいない。恋人もいない。子供もいない。そして、それを楽しんでいない。
 幸いにも…と言っていいのかわかりませんが、私の現況はこうではないのですが、それに近い一時期はあったし(家族がないってことはないが、離れて暮らす状況はありましたし)、そのとき自分がこうまでつらかったかどうかは実はあんまり覚えていないのですが(そうつらくもなかった気もするが…強がっているだけだろうか…)、つらいだろう気持ちはわかります。でも、わかりたくなくもある。私だって今はこうじゃなくてもこの先どうなるかわからないしね(まあでも愛も友情ももともと保証などないものなのだけれど)。だから下手に「そうそう、わかるわ、私もそうなのよ」とかシンクロしたくないんですね。だって、わかっても、しょうがないんだもん。
 だから、結論だけが知りたかったんですね。だから芝居を長く感じたのでしょう。
 でも、オチは、納得のいくものでした。
「絶対とかそういうのって、この世にはないのよ!」
 この先もこのままかもしれない、そうでないかもしれない。それはわからないし、そのときどうしようなんて身構えなくていい、そのとき考えればいい。今までこうしてきたから今度もそうしようとか、今度はちがうふうにしようとか、今から考えることない。今まで十分生きてこられたんだから。それはすごいことなんだから。すべてはただ自分のせいな訳ではないのだから。
 …というようなことかな?
 次のチャンスは逃しちゃ駄目、とか言われるのも腹立つし、このまま変わらずにいけばいいのよ、とか言われるのもホントかよと思っちゃうし。この結論は妥当だと思います。でもそれも、アタシがアリスとともにワンダーランドをめぐって、自分の来し方を振り返ったからこそ導かれた結論なのです。そこが素敵。
 少女から老婆?まであいかわらず変幻自在の高泉淳子、声のハスキーさが似ていてなかなかナイスキャストだった浅野温子(しっかし細かったな!)、難役をもこなし歌い踊る白井晃以下6人の俳優陣、みなすばらしかったです。三層になったセットも素敵。シュールな衣装も素敵でした。
 ただ、家族をモチーフとしている部分では、『食卓の木の下で』などとやっていることがまったく同じところもあって、ちょっと興ざめな思いをしました。偽善的な親戚夫婦とか、本当のことをずばりと言っちゃう子供とか、意地悪な従姉妹とか、白井晃の女装とか(笑)。まあこのテーマを掘り下げてきた劇団で、その最終公演、集大成だからこそ、の部分もあるのでしょうが。
 ところで、
「ヤダヤダ、私はちがうわよ」
 とか言いつつ私が一番リアルだなあと感じてしまった点をひとつ。それは、好きになった人がみんな遠くに行ってしまうアタシが、向こうから好かれることもあった、という事例が、二件だった、ということ…
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くらもちふさこ『天然コケッコー』

2009年12月01日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名か行
 集英社ヤングユーコミックスコーラスシリーズ全13巻
 そよの村の学校は小・中学生あわせて6人。そこへ東京から転校生の大沢くんがやってくる。そよにとっては初めての同級生で、ぜひとも村を気に入ってほしいのだが…著者の最長編になる、リリカルでハストラルな思春期讃歌。
 遠目に眺めていたときは、絵が荒れてしまったのかと思ったものでしたが、どうしてどうしてやっぱり上手いです。でもあの枠線の処理は個人的には好きではありませんが。
 お話もよくて、青春というよりまさに思春期、第二次成長期のとまどいや痛みや甘やかさを実に実に上手く描いています。
 それから方言の美しさ。私は街っ子なので、方言には本当にあこがれます。
 そしてそして巻末の描き下ろし。作中のキャラクターである漫画家志望のあっちゃんが描いた作品ということになっている『そよ風のあいつ』の絶品ぶり。自分の体験をすぐ都合よく美化して作品にしてしまうところなんざ、かつて漫画家を目指したことがある元少女ならば誰でもこの感じがわかるでしょう。下手さ加減も上手すぎます。本人が描いたのかなあ。
 集英社文庫版『海の天辺』の秀逸な解説にあったように、この作品でもこの作者の不親切ぶりは発揮されています。そよの父親と大沢くんのお母さんとの焼けぼっくいが本当のところどうだったのか、浩太朗は本当にあっちゃんに惚れちゃったのか、遠山さんの真意はなんだったのか、宇佐美くんのそよへの思いとは、といったことがみんな宙ぶらりんなままお話が完結してしまうからです。本当は、全部決着をつけたほうが読者としては安心できます。その方が落ち着くからです。でもこの作者は往々にしてそうしません。実際には何もかも明らかになるなんてことの方が少ないし、これはそんな中のそよと大沢くんの部分だけを切り取ったお話だからこれでいいのだ、というスタンスなのでしょう。それもありだと思います。でも、ラストシーンは、私はちょっと絵で見たかったなあ。つまり、喜ぶそよの顔なり、てれる大沢くんの顔なり、抱きつきあうふたりなり、という絵を、ね。ここを描かないというのも演出のひとつの手法だとは思うんですけどね。
 ある掲示板で、この作者のことを、『いつもポケットにショパン』の台詞になぞらえて、「少女漫画に愛されている」と評しているものがありました。本当にそうだと思います。
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