駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『CABARET』

2009年12月18日 | 観劇記/タイトルか行
 東京グローブ座、2004年10月14日ソワレ。
 1929年、ナチスが勢力を拡大しているベルリンに、キャバレー「キット・カット・クラブ」はあった。セクシーなMC(錦織一清)が今宵もショーの幕開けを告げる。売れないアメリカ人の小説家クリフ(岡本健一)はベルリンに着いたその夜、クラブでイギリス人の歌姫サリー(真矢みき)の目に止まり、同棲生活に。一方、クリフの下宿の女主人シュナイダー(今陽子)は心優しいユダヤ人シュルツ(上条恒彦)のプロポーズに応じるが、ナチスの軍靴は…作/ジョー・マスターオフ、原作/クリストファー・イシャーウッド、戯曲/ジョン・ヴァン・ドルーテン、音楽/ジョン・カンダー、作詞/フレッド・エップ、演出/グレン・ウォルフォード、翻訳・訳詞/勝田安彦、1966年初演。

 メンデス=マーシャル版の再来日公演が今夏ありましたが、字幕が嫌だったので、翻訳版を観ることにしました。ライザ・ミネリの映画も見たことがなく、作品としてまったくの初見です。
 グローブ座はこじんまりしていて見やすくて、好きな舞台のひとつです。今回のカンパニーにぴったりだったのではないでしょうか。

 …でも、なんか、ちょっと、退屈だった…印象的な曲がなかったのかもしれません、と言うか、訳詞があまりよくない気がしました。
 でも、ラストはやはりせつなくてキュンとしました。どちらかと言うとライトに描かれた恋物語でしたが、でも、クリフとサリーが別れざるをえなかったのはわかる気がするのです。
 英語に飢えていて、アメリカ人のクリフに飛びついたサリーでしたが、それでもこれまでずっとベルリンで生きてきたのだし、ベルリンから逃げ出さないでいたのだから、やはりベルリンを愛していた、ベルリンに捕らわれていたのだと思うのです。だから、
「政治なんてものがなんであたしたちに関係あるの?」
 ってなもんで、そんなことくらいでベルリンを去ることができなかったのだと思います。ここでいうベルリンとは、街そのもののことでもあり、クラブのことでもあり、キャバレー文化のことでもあるのですが。

 そう、そもそも政治なんてその程度のものなのでしょう。だけどシュルツさんはおそらく殺されたことでしょう。ナチスが冗談ごとじゃなかったことを、後の世の私たちは知っています。そしてまた、フロイライン・コストのような一般市民もまた多かったであろうことも、わかる気もするのです…それが、悲しい、物語でした。
 このコストは元宝塚歌劇団星組娘役トップの星奈優里が演じていました。このキャスティングを知らなかったのでうれしかったなー。
 ただ、「もっとパワフルに! もっと下品に」と演出家に要求されて作った役は、なんかいかにもステロタイプで、別に娼婦がみんながみんなこうじゃなくてもいいのでは…とはちょっと思ってしまいました。せっかくのナンバーは、あの美しい声で聴きたかったです…しくしく。
 ミキちゃんは脚がきれいだったなー…←ほめるところがまちがっています。
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宝塚歌劇宙組『ファントム』

2009年12月18日 | 観劇記/タイトルは行
 東京宝塚劇場、2004年7月23日マチネ。
 19世紀後半、パリ。オペラ座通りで無邪気な美しい娘クリスティーヌ(花総まり)が歌いながら新曲の楽譜を売っているのを、オペラ座のパトロンのひとりフィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵(安蘭けい)が見初め、彼女がオペラ座で歌のレッスンを受けられるよう、支配人のキャリエール(樹里咲穂)に紹介状を書く。だがキャリエールは解任の憂き目に遭っていた。彼は新支配人に、オペラ座の地下の沼に住むという怪人ファントム(和央ようか)について警告するが、聞き入れられない…脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、潤色・演出/中村一徳、翻訳/青鹿宏二。1911年に出版されたガストン・ルルーの怪奇小説『オペラ座の怪人』のブロードウェイ・ミュージカル。1991年初演、日本初演。

 アンドリュー・ロイド・ウェーバーによるミュージカルが有名で、私もオリジナル・ロンドン・キャスト版のCDは愛聴していますし、劇団四季での公演もキャストを変えて二、三度観たことがあります。今回は私よりずっともっとディープな「怪人」ファン、そして宝塚歌劇は初観劇という知人とご一緒しました。

 さてさてそんな訳で私にとっても久々の宝塚だったのですが、いやあよかった私は大満足。毎回これくらいの舞台をオリジナル脚本演出でやってもらいたいものだとはこの際言いますまい。

 最近映画づいていたのが、このところ仕事が忙しくて行けていず、そのフラストレーションが見事に噴出してしまいました。
 どうも私はときどきガス抜きというか、日常の生活には過剰で余分な感情をある程度定期的にフィクションに仮託して発散させないと窒息しそうな人間のようです。
 今回その機会が久々にやってきたもんだから、なんとビストロのシーンで号泣しそうになってしまいました…人知れずレッスンを積んできたヒロインが、オーディションのチャンスを与えられ、だけど緊張して声が震えて弱々しくしか歌えず、けれどどこからかヒロインだけに聞こえてくる、師の支え励ますような声に導かれるようにやがて朗々と歌い出し、一同もつられて歌って盛り上がって大喝采!というくだりに、なんかもう、クリスティーヌよかったねええ、とうるうるしてしまったのです。壊れていますね私…

 そんな訳でやや「感動」に飢えていた状態の私の感想なので、甘いかもしれませんが、以下少し。ネタバレも含みますのでご注意を。

 まず音楽ですが、新聞評などではウェーバー版に比べて楽曲が地味だとも批評されていましたが、私は気に入りました。「夜のために着替え」「私の夢が叶う場所」「君は音楽」「私の真の愛」…どれも素敵でした。
「狂人っぽい怪人より紳士的な怪人の方が好き」
 と言う知人が「歴代でもっとも繊細な怪人だったのでは」と評したタカコさんのファントム。宝塚のトップスターが演じるんだから野卑にはしない、ということもありますが、ナイーヴな少年のような造型で、成功していたと思います。新支配人ショレ(鈴鹿照)とその妻のプリマドンナ・カルロッタ(出雲綾)の傍若無人ぶりにあきれ怒り、キャリエールに愚痴ったり拗ねたりするくだりは本当に愛らしいくらいでした。もちろんファントムがキャリエールにだけは心を許し甘えていた、ということもあるのでしょうが。クリスティーヌに対するアプローチもちょっと及び腰な気配があって、またいじらしかったです。だいだい一人称が「僕」だもんね、ラブリー。
 ちょっとだけ気になったのが、仮面で頬か口が圧迫されでもするのか、やや発声がこもり気味だったことです。

 宝塚歌劇のひとつの見方として、共に本当は女性である、トップ男役と二番手男役(今回のジュリちゃんは専科からの特別出演ですが)の絡みを倒錯的に楽しむ、というものがあると私は思っているのですが(笑)、今回それは第4場のあたりに集約されていたかもしれません。ましてや、あるいはしかし、このふたりは…以下後述。

 知人は私同様女好きなので(笑)、ヒロインであり作品のプリマであるべきところのクリスティーヌの出番がやや少なく思えたところがご不満だったようですが、男役偏重が宝塚歌劇の宿命でもあるので、勘弁してやってください。
 でも私はハナちゃんのクリスティーヌには感心しました。なんといっても美しかった。
 それに、キャリアのあるトップ娘役さんですし、もっと色の濃いヒロインもたくさん演じてきたし、だからやろうと思えばもっといろいろ芝居ができたはずなんですよね。でも、あえて何もしないでいたように見えました。
 何もせず、ただそこに、クリスティーヌとして、在った。清らかで純真で、ファントムの母と同じ美声の、愛の化身のような、地上に舞い降りた天使そのものといった女性に、なりきってみせていた。
 これは、あまり経験のない娘役がただ自身の持ち味だけでそういう役をやっているのとは、格段にレベルのちがうことだと思うのですよ。まだまだフレッシュだし、すごいよなあ。「先生」という声のたおやかで可愛らしいこと!
 クリスティーヌが「決して恐れない」から素顔を見せて、と言っておきながら(この歌もすばらしかったのですが、客席から拍手がぴくりとも起きなかったのは、逆にこのシーンの緊迫感のものすごさを語るものでしょう)、悲鳴を上げて逃げ出したことは、私はそんなにひどいとは思いませんでした。これは女の浅薄さとか臆病さを表すエピソードではなく、人間の単純な弱さを表現しているのだと思うのです。覚悟していても、理解しているつもりでいても、動揺してしまう、弱さ・脆さが人間にはあるのですよ。だけどすぐ「ひどいことをしてしまった、謝らなければ。そんなつもりじゃなかったと伝えなければ」と反省できる潔さ・正しさも持っている。そして、それが遅きに失することもある、という悲劇…

 一点だけ。ビストロに着ていった、ファントムが見立てたドレスといい、地下で着せられていたドレスといい、クリスティーヌのイメージカラーはあくまで「白」だと思うのですよ。だからパレードでピンクのドレスを着てきたときには私は違和感を感じました。イヤここの役名は正式には「パレードの淑女S」なんですけどね。でもね。それとも今回の顛末を経てクリスティーヌがひとつ大人になってしまった、何かを知ってしまった、あるいは失ってしまったことを象徴しているのだろうか…

 次にトウコちゃんの伯爵、いい人だけど報われない感じが、知人とご一緒しているだけに『冬ソナ』サンヒョクとダブり…くうう。
 この人の歌だけがアメリカンな匂いの明るいもので、それもまた泣かせます。
 ニンにあったいい役で好演でしたが、ファントム亡き後のクリスティーヌの心を射止められたとはとても思えませんしね、哀れだわ。でも私はこういう人のいいお坊ちゃまは、ソレリ(彩乃かなみ)みたいな女の子に尻に敷かれ気味に生きていった方が絶対に幸せになれると思うので、がんばれ~(笑)。
 ちなみにソレリは、オペラ座の団員と設定するよりは、伯爵の取り巻きの男爵令嬢とかの方がキャラとしてはそれっぽかったのではないでしょうか。まあ、カルメンのシーンに出したりする必要があったんだろうから、仕方なかったのかもしれませんが。
 まったく過不足ないショレとカルロッタはさすがの一言。
「あの役、いい!」
 とすぐ思った楽屋番ジャン・クロードが美郷真也で、もちろんさすがなんだけれど、いつのまにかこんなベテランの域に…と感慨。

 そして、ジュリちゃんです。すばらしかったね!
 クリスティーヌに「エリックの物語」を語るくだりですが、最初に「私はあの子の父親なんだ」と言ってしまわず、語りの最後に明らかにする、という演出は、たとえばどうでしょうね。
「かつて支配人見習いとしてオペラ座に赴任した青年がいた、彼はそこで美しい団員と出会った…」
 と、三人称の形で語っていって、最後にクリスティーヌが、
「その女性が…ペラドーヴァ? そしてその青年が…まさか…」
「そう、私だ。私がエリックの父親なんだ」
 とか、さ。
 その方がインパクトはあるだろうけれど、過去の話を聞かされている間退屈になるというか、わかりづらくなるかなー。
 そもそも私は、キャリエールがファントムの父であるという設定は事前に『歌劇』などを読んで知っていたのですが、そのことはキャリエールとファントムが父子名乗りをするシーンまで明らかにされないものと勝手に思っていたので、わりと早々にこのシーンでこの事実が明らかにされたのでちょっととまどったのでした。

 あと、この流れの中でキャリエールが
「いつかはあの子をを見捨てなければならないのもわかっている」
 と言っているのは意味がよくわからない…自分の方が先に死ぬから、という意味だとすればそれは道理でしょうが、どうもそういうニュアンスではないようなので。異形のものは闇に葬り去るべきだという「常識」がやがて自分の中でも勝つだろうということ? だったら今まで陰ながら世話してきたことはなんなんじゃい。

 父子名乗りのシーンはふたりのすばらしい演技と歌とで拍手の鳴り止まない、「ザ・ショーストップ状態」になりましたが、実は私は、ファントムはキャリエールが自分の父親らしいと感じてはいて、でも向こうがそう言ってこないもんだからこちらも意地になって知らんぷりしている、のかと思っていました。
 そういうのもあって、冒頭で「なんであんな奴らに好き勝手やらせるんだよー」みたいなワガママ・八つ当たりモードをキャリエールに発揮していたのかなー、と。
 だからファントムがキャリエールを「おまえ」と呼ぶのにもすごく違和感がありました。年齢的なことから言っても「あんた」とかの方がいいのでは…それはともかく、ここで初めて、ファントムはずっと自分をかばってきてくれて、オペラ座の片隅に住まわせてくれていた人物が自分の父親であることを知ったのでしたね。

 ここで、ラストへの伏線として、
「いつか僕をあなたの手で安らかに眠らせてくれ」
「おまえの望みはきっと叶えよう」
 と歌われるのですが、私はこれにはもっとエクスキューズが必要だと思います。
 どんな場合でも自ら死を選ぶようなことは本来はあってはならないとされているべきだと思うから。なべて物語は死んで花実が咲くものか、と訴え続けていかなければいけないと思うから。それでもそうはいかない悲劇がドラマなのだと思うから。
 だからたとえば、ファントムの顔の傷は、ベラドーヴァが堕胎のために飲んだ毒薬の影響だと思うのですが、それだけじゃなくて体にも影響があってあちこちしんどいのを騙し騙し今日まで来ているのであって、どうも先は長くなさそうである、とするとかさ(もともとの『怪人』にはもしかしたらそういうニュアンスがあったかと思いますが…つまり不具者というか。でも宝塚歌劇のトップスターの役にはそれはさせられないからなあ)。
  でも、今のままでは、大詰めのシーンでキャリエールがファントムを射殺したことが「父親だからこそできた、最高の愛情の証」だとは観客には見えないんじゃないかなー、と心配なのです。事実私は引っかかった。

 クライマックスであるこのシーンへの不満は他にもいくつかあって(全然「甘い」感想じゃないぞ自分…)、たとえば単純に、警官たちから捕物の獲物として縄引っかけられているファントムの姿がかっちょ悪くてみっともなくて情けないのがイヤ。
 そして、前述の理屈がしっかりしていないことから来る、ファントムがキャリエールに「撃ってくれ」という流れ、キャリエールが銃を取るくだりがやや納得しづらいこと。
 クリスティーヌに
「キャリエールさん、駄目!」
 と叫ばせたりするとよかったのかもしれません。
 本人が望み、みんなが仕方がないかもと思い、肉親だからこそそれを叶えてあげてしまう「死」を、唯一よしとしないのは、彼を真実の愛で愛している人だけだと思うんですよね。それはたとえば彼の顔を本当に美しいと思っていた母親であり、そしてクリステイーヌなのです。もちろんキャリエールもファントムを真実愛しているのですが…そこが母性愛と夫性愛のちがいというかで、この愛情のあり方のちがいはおもしろい問題です。そして私はやはり女の愛を支持したい。そして、だが、その制止があったにもかかわらず銃は発射されてしまう…そこにこそドラマがあるのではないでしょうか。
 それと、このシーンにクリスティーヌの
「やめて、あの人を撃たないで、あの人の話を聞いてください!」
 というセリフがあるのですが、これはもっとちゃんと聞かせなければいけないセリフだと思います。騒ぎの中に埋没してしまっていましたが、これは冒頭のファントムの「僕の悲劇を聴いてくれ」という歌(歌詞は「僕の叫びを聴いてくれ」)に対応している、この物語のテーマだからです(こんなに重要なものであるにもかかわらず、なんとこの曲はブロードウェイ版にはない、今回の宝塚公演のために書き下ろされた新曲なのです!)。
 怪人の顔の傷というのは、人が自分自身ではどうしようもないところであらかじめ負わされてしまったもの、の象徴です。性別とか、人種とか、家柄とか、そういうもの全部の象徴です。それは当人にはなんの責任もないし、どうすることもできないし、当人の本質とはいっさい関係のないものです。しかし他人は、世間はそれをもってその人を計ろうとし、遠ざけ、蔑むことすらする。当人ですらそれが自分の非であるように考えてしまう。それは本当は不当で理不尽なことなのです。それは不当だ、やめてくれ、と怪人は心底では訴え、恋人も支持します。世間から隠れて暮らす怪人も、隔離してあげたりする父親の行動も本当は正しくないのです。まして葬ろうとすることなどはなおさら本当はいけないことなのです。だけど、恋人の制止は届かなかった。そこにこそ悲劇があるのです。愛は、あった。しかし命は失われた。愛は残り、命は戻らない…

 宝塚歌劇ファンである知人はこの作品が「ラブ要素が薄い」という点で不満だったそうですが、恋愛とはよく言ったもので、確かに「恋」の要素は薄かったかもしれません。クリスティーヌはレッスンの時点では「先生」に恋心を抱いていたとは言い難いだろうしなー。伯爵の求愛に対する返事と一緒で、歌える喜びに酔っていた部分が大きかっただろうし。捕物シーンで、ファントムが伯爵と一緒にいるクリスティーヌを見て逆上気味になるところが、もっとも「恋」のニュアンスがあるあたりかもしれません。
 でも「愛」は確かにありました。天使の神の母のと歌われたわりには、マザコン男がヒロインに母性愛を求めるだけの話(たいていの女性がそうだと思いますが、私はこーいうの大っ嫌い!)に見えず、私としては好感を持ちましたし、満足です。ヘタレに見せないタカコさん、カマトトに見せないハナちゃん、歌唱力があり達者な芝居ができる訳者が脇を固め、アンサンブルがこなれている…長身の美男美女がトップで初心者向けの組、なんて思っていましたがなかなかどうして、宙組は今最も鍛え練り上げられている組だったのでした。立派な舞台だったと思います。
 あ、さんざんやり尽くしてパターンがもうないのかもしれないけれど、デュエットダンスがえらく平凡だったのは不満だったかも…
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モーリス・ベジャール・バレエ団『魔笛』

2009年12月18日 | 観劇記/タイトルま行
 ゆうぽうと簡易保険ホール、2004年6月25日ソワレ。
 若き王子タミーノ(ドメニコ・レヴレ他。当日キャスト表をもらい損ねました)は夜の女王(エリザベット・ロス他)の王国へ入り込む。女王の娘パミーナ(クリスティーヌ・ブラン他)の肖像に恋をしたタミーノは、ザラストロ(ジュリアン・ファヴロー他)に囚われているパミーナを救い出すよう女王に命じられ、鳥刺し男パパゲーノ(ヴィクトル・ヒメネス他)とともに旅立つが…シカネーダー台本のモーツァルトの2幕のオペラをバレエ化、「二十世紀バレエ団」として1981年に初演したものの再演版。振付・演出/モーリス・ベジャール。使用音源はカール・ベーム指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の『魔笛』、ザラストロはフランツ・クラス、夜の女王にロバータ・ピータース。

 教養がないのならせめて予習をしていくべきでした…オペラのCDを聴いておいて物語のあらすじだけでも押さえておく、とかさ。せめて開演前にパンフレットを読む時間を作るんだったわ。
 なんの予備知識もないまま、普通のバレエを想定してボーッと舞台を見ていたので、最初のうちはバレエ音楽にしてはメリハリ具合や長さが奇妙だし、そのうちセリフが入ったり歌が入ったりし出すし(オペラ作品が元ネタでもオペラの歌曲がそのまま使われるのだとは思っていなかったので)、あげく字幕が出て舞台を見るのが疎かになるしであわあわしてしまいました。舞台の構成が読めないままに、モーツァルトのα波に飲まれそうになり、コクリコクリしたりする一瞬も…
 ルールがわかった第二幕の方は俄然おもしろく観ました。うーむ。

 たとえば西欧人ならたとえ物語を知らなくても歌詞を聞けば意味はわかるわけで、そういうハンデはやっぱり大きいですよねえ。そういうことをちゃんと学習で埋めてから見れば、もっと楽しめたはずでした。やあ失敗失敗。
 でも舞台としてはおもしろかったです、本当に。第一幕と第二幕で善悪が逆転する感じなんかもおもしろかった。有名な夜の女王のアリアだけは私も知っていましたし。オペラの歌曲をきれいにバレエ化していました。
 また、舞台装置などもシンボリックでシンメトリーを生かした作りで、今回二階席だったのですが、全体がよく見渡せて美しく、なかなか感銘を受けました。
 女好きな私と友人としては、女性舞踊手があまり美しく見えない衣装・振付だったのが不満でしたが、まあベジャールだからねえ…という感じ?
 クラシックなバレエ・ブランが好きな私ではありますが、こういうのもおもしろいな、と堪能したことでございました。
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南Q太『ゆらゆら』

2009年12月18日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名ま行
 宝島社ワンダーランドコミックス

 短編集。表題作は、彼氏にフラれてさびしくてバイト先の店長と不倫してしまう女の子のお話。そんなうまいこといかないでしょ、と言いたくなりつつも、おちつくところにおちつく、好きなお話です。
 巻頭の『猫』というお話も、この猫の扱い方とか、並々ならぬものを感じます。才能ある作家だよなあ。

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