駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『王家に捧ぐ歌』

2009年12月11日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京宝塚劇場、2003年10月17日マチネ。
 今なお現世をさまようエチオピア王家の長兄ウバルド(汐美真帆)の魂が妹の真意を想う。彼女は祖国の裏切り者だったのか、それとも…舞台は今から3500年前のエジプトに溯る。若き戦士ラダメス(湖月わたる)は将軍に選ばれる予感に震えていた。エチオピアとの戦いに勝利したあとは、先の戦いのさいにエジプトの囚人となったエチオピア王女アイーダ(安蘭けい)に求愛しようと考えていたのだ。アイーダもまた祖国の敵とは知りながら、ラダメスに心惹かれていたが、その想いを秘めていた。だが同じくラダメスに恋するエジプト王女アムネリス(檀れい)は、ふたりの仲を疑っていた…脚本・演出/木村信司、作曲・編曲/甲斐正人。ヴェルディのオペラ『アイーダ』を元に壮大に描く、星組新トップコンビお披露目公演。全2幕。

 いやあ、よかったです。
 『エリザベート』や『鳳凰伝』など、台詞が歌になるタイプの作品をいくつか観てきましたが、一番歌詞が聞き取りやすく曲も覚えやすくいいリフレインもたくさんあって二重唱・三重唱もがんばっていて、楽しく観られました。
 銀橋で顔見せに歌うラダメスのすぐあとにアイーダがまず朗々と歌うのですが、これがまずよかった。
 普段男役の生徒が女役を演じ、無理のない地声のキーで非常にクリアに歌うので、なんか宝塚歌劇の娘役の歌離れしていて、一気に世界に引き込まれました。
 そこへ艶然と登場するアムネリスがまた、衣装のせいはあるとはいえもう立っているだけで輝かんばかりの気高い王女ぶり。これまた可愛いだけの典型的娘役とは明らかにちがう美しいプリマドンナで感動。アムネリスは下手をすると憎々しい仇役に落ちかけるキャラクターでしょうが、ダンちゃんは毅然として凛として強く気高く美しくそして悲しい王家の娘を余すところなく演じきっていたと思います。特に前半、アイーダの力強い歌唱力に比べると音が取りきれていず不安定さを感じさせはしましたが…
 一方トウコちゃんのアイーダは歌のすばらしさに比べると演技はやや力ずくだったかもしれません。肌を出して身軽くかつたおやかなエジプト人に対してエチオピア勢がわさわさ着込んでいるせいもあったかもしれませんが、立ち居振舞いがわたわたしていて、ラダメスが惹かれた高貴さがあまり見えませんでした。
「戦いは新たな戦いを生むだけ」
 という彼女の主張、父王や兄に謗られ苦悩する様、ラダメスとの愛に悩み拒む様など、すごくよくわかるしとってもいいのだけれど、もうちょっとキャラクターとしていじらしく静かででも芯が強い、という感じに作ってもらえると、より深く感動できたかなーと思ったのでした。
 こういう魅力的な女性ふたりに愛される男を演じなくてはならないワタルさんは大変でしょう。軍隊での出世や戦場での勇躍を思い奮い立つ様子は下手をすると非常に愚かで男根的な筋肉馬鹿キャラクターに見えてしまいかねないし、愛する人の平和への望みを本当には理解していずただその祖国を救ってやることに酔っているだけの男に見えてしまいかねません。
 ラダメスが踏みとどまったのは、ファラオ(箙かおる)暗殺の際に裏切ったのは自分かもしれないと名乗るところ、そしてそのあとアムネリスの差し伸べた手をきちんと断ってみせるシーンがあったればこそでしょう。もしかしたら作劇的に、ごく前半にラダメスの魅力を描くすごくいいエピソードがもっと必要だったかもしれません。
 ともあれこのトライアングルはほとんど過不足なくがっちりと組み上げられ、ファラオとエチオピア王アモナスロ(一樹千尋)の専科ふたりがまた歌も芝居もすばらしく、出色の出来となった舞台と言えるでしょう。

 元のオペラを私は観たことがないのですが、パンフレットの解説によれば、三者三様の愛の悲劇を中心に描いた大いなる祝祭劇、のようですね。しかし今回の舞台は、一昨年の9.11米国同時多発テロとそれに続く対イラク戦争(この戦争は「ベトナム戦争」とか「湾岸戦争」とかのようなきちんとした名前がついていないように思うのですが、それはこの争いがまだ終結していないからなのでしょうか)の影響を色濃く受け、非常にダイレクトに戦争反対のテーマを掲げたものになっていると思います。オペラでは未遂に終わるファラオ暗殺計画がこの作品では遂行されることにしたのはそのせいだと作者自身も言っていますし、「エジプトはすごい、強い」「金と力でなんでも手に入る」と歌い踊る笑っちゃうほどあさましい大衆の姿が何を揶揄しているかはすぐにわかるところです。
 冒頭でウバルドが、自分はアイーダの考えを何もわかっていなかった、もしかしたら今も…と悔やむ「アイーダの信念」とは、
「誰がどう言おうと私は嘘をつけない/ひたすらこの真実を世界に向けて叫び続ける/戦いは新たな戦いを生むだけ!」
 というものでした。エンディングでアムネリスが力強く宣言し歌うのは、
「戦いに終わりを…!この地上に喜びを/人みなひとしく認めあっておたがいを許せるように!/たとえ今は夢のように思えてもこの身を捧げてそんな世界をいつかきっと!」
 という「王家に捧ぐ歌」でした。

 もちろん、ラダメスが言う「エチオピアの解放」ってなんだろう、とは思っちゃうのです。王族を人質にとって主権を与えないならそれは隷属させることなのでは? 自治権は与えるってこと? 私、国際政治とかよくわかんないけどなんか釈然としないわ、とか。
 アムネリスにしたって自分が生きている間はエジプトは二度と戦争しないと宣言するのはいいけど、その前にエチオピアを攻めて滅亡させているんだよね、とか。
 国はなくなっても大地はなくならない、残った命はまた花咲いていく、とでもファトマ(万里柚美。しかし歌はつらかったなー)やカマンテ(真飛聖)あたりに歌わせればよかったのかもしれません。
 祈って死んでいくアイーダもラダメスも、愛を得られず国を背負って生きていくアムネリスも、三人が三人とも幸せな結末とは言い切れない、しかし希望を感じさせないではない不思議なハッピーエンドのような、そうでないような…そういう意味で、非常に現代的な物語なのかもしれません。
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『WEST SIDE STORY』ミラノ・スカラ座バージョン

2009年12月11日 | 観劇記/タイトルあ行
 オーチャードホール、2003年9月3日ソワレ。
 ニューヨークのウエストサイド。ポーランド系移民のジェット団と、プエルトリコ系移民のシャーク団との間には争いが絶えない。ジェット団のリーダー・リフ(カール・ウォール)はかつてのリーダーで今はグループを抜けてドラッグストアで働くトニー(この日はマイケル・ソメーゼ)を誘い、ダンスパーティーへ赴く。トニーはそこでひとりの少女と出会い、恋に落ちるが、彼女はシャーク団のリーダー・ベルナルド(ホアン・ベタンクール)の妹・マリア(この日はエカテリーナ・ソロヴィエワ)だった…オリジナル演出・振付/ジェローム・ロビンス、音楽/レナード・バーンスタイン、脚本/アーサー・ロレンツ、作詞/スティーブン・ソンドハイム、演出・振付/ジョーイ・マクニーリー。1957年の初演以来数々のプロダクションで上演されてきた傑作ミュージカルが2000年にオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座で公演され、2003年7月に再演。そのオリジナル・プロダクションの来日公演。

 やっぱり「マンボ」が楽しい、「アメリカ」が大好き、「サムウェア」が美しい…

 しかし彼らはいくつなんだろう…マリアはデビュタントなんだし、このダンスパーティーの会場はハイスクールの体育館なんでしたっけ? だから彼らはハイティーン、青春、思春期、若者なんですよね…
 外人さんのキャストだから仕方がないんだけれど、ものすごくおっさん、おばはんに見えてしまいました…いやでももちろん俳優さんたちがいい歳であることは間違いがないのだけれど、実際の本物の向こうのハイティーンってのもきっとみんなこんな感じで、ゴツくてがっしりしていて、日本人が考えるような繊細な青瓢箪なんてのはお門違いなんでしょうね。いい歳した日本人がそれでも向こうでは子供に間違えられるのも道理です。
 ベルナルドやリフがごつすぎることを別にすればイメージぴったりで、トニーもおっさん臭いぎりぎりだけれど愚連隊を卒業して大人になりかけていてちゃんと働いているやや朴訥な青年、きっと現役時代?も拳の力ではなく人望でみんなを治めていたんだろうな、と想像される青年のイメージぴったりでした。
 だからなあ、マリアがなあ…プリマドンナは仕方がないのでしょうが、これまたガタイ良すぎ…ブライダルショップの場でスリップ姿で登場して、ドレスの襟が浅いの丈が長いのと乙女の不満を並べるのがファーストシーンなわけですが、そのスリップ姿のあまりに立派な上半身はいっそ犯罪では…いかにもロシア人っぽい鼻の高さがまたなんとも…

 思えば、数年前に公演した宝塚歌劇版は良かったなあ。ユウコちゃん(風花舞)のほっそりして可憐なマリアは愛らしかった…くっすん。
 私はどうもこのマリアとは合わないらしく、オペラふうの歌い方は上滑りして聞こえ、クインテットの「トゥナイト」では悪目立ちしていて美しく聴こえず、ううううむ…でした。すみません。
 お気に入りのアニタ(ソランジェ・サンディ)はかっこ良かったです。しかしシェイクスピア『ロミオとジュリエット』にはアニタにあたるキャラクターがいなかった訳で(強いて言えばジュリエットの乳母ですが)、これは新設された役な訳ですが、アニタのレイプシーンは本当にいつもいつも見るのがつらくて、でも絶対自然な流れだし、この役とこのお話の流れが作られた意味をいつもいつも考えてしまいます。

 そういえば映画や舞台で『WSS』は何度か観ていますが、今回ほど
「トニー、おまえが悪いんじゃ!」
 と思えたことはなかったかもしれません。タイミングの問題か、トニーがリフを止めたからリフがベルナルドに刺されたのであり、トニーにベルナルドを刺す権利なんかないぞオイ、と思えたのです。この根本的なしょうもなさはしかし、ロミオのキャラクターを踏襲しているのだから正しい訳ですよね。うむう。
 そしてラストは、こんなに暗いお話だったっけ…と思いました。私の印象では、最後は、何ものにも侵されない威厳を示して未亡人然としたマリアが(ショールをかぶりませんでしたっけ?)、許すとも許さないともつかずただ静かに去っていく…というもののような気でいたのですが、今回のラストではマリアは打ちひしがれた感じで去っていき、チノ(デイヴィッド・リーザー)は逮捕されて号泣しながら引っ立てられ、アニタは祈りの言葉を呟き、ドック(ヘルマン・ペトラス)はかっくりうなだける…という感じで、救いのない絶望感漂うものだったので…
 このご時勢だけに、もう少しだけ光明が見えるものを観たかった気がしました。
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『阿修羅城の瞳』

2009年12月11日 | 観劇記/タイトルあ行
 新橋演舞場、2003年8月26日ソワレ。
 京の都で鬼が棲むと噂される一条戻橋が江戸・佃島に移され、江戸は闇に覆われた。人を襲う鬼を鬼御門の頭領・十三代目安倍晴明(近藤芳正)たちが退治してまわっている。かつて鬼御門の一員だった病葉出門(市川染五郎)は今は江戸劇界の大作者・四世鶴屋南北(小市慢太郎)の弟子となっているが、鬼御門に追われるつばき(天海祐希)と出会い…作/中島かずき、演出/いのうえひでのり。2000年初演(87年に劇団☆新感線で初演)の、染五郎以外のキャストを一新しての再演。

 入場するときに、終演時間がほぼ4時間後だったのに仰天しましたが、思えば歌舞伎とは昼間にけっこうだらだら見たりするものだったりするのでした。うーん、やっぱり好きだなあ、いのうえ歌舞伎。

 初演は「商業演劇の拠点で小劇場演劇の劇団☆新感線の公演が行われ、歌舞伎界の花形が主演する。ちょっとした驚きで迎えられた」そうですが、その主演が「これが今の歌舞伎です」とパンフレット(超豪華写真集ははっきり言って余計で高価すぎたが、パンフレットそのものはよくできていた)で語っている舞台に、これはなっていたと思います。
 いやあ、テレビドラマ『大奥』の魅力を知人と語り合っていたときに出た結論のひとつなのですが、「ベタって気持ちいい」んですよ。
 登場するときにはセリあがる、音楽が鳴る、あるいは決め台詞を言うときにはチョンと鳴ってライトが当たって見栄きって流し目して、退場するときには花道走る。どうしたって気持ちよくって、そりゃ拍手したくなりますよ。鬼の美惨役の夏木マリが登場したときに「夏木!」と飛んだ声援のかあっこよかったこと!! 私もひとりで観に行ってたらラストは「ユリちゃ―ん!」と叫んでいたなあ絶対…

 私は染五郎の顔も声も(役者としてはどちらかといえばむしろ悪声だと思う。なんかアニメの声優のようだ)そんなに好みではないのだがこの人の舞台は好きなんだ、と今回初めて認識しまた。見ていて本当に気持ちよかったしすがすがしいし、もちろんうまくてかっこよかった。何より明るいのがいいんです。登場のセリ上がりの田村正和もかくやという美剣士っぷりときたら!
 しかも当然っちゃ当然なんだけど姿勢がよくて着物の着こなしが決まっていて、すそさばきも鮮やかな殺陣のまた見事なこと!! これが男性版パンチラなのだなと感心した、割れたすそからちらちら見える褌の白さ・美しさにクラクラしました、色っぽくて…
 ヒロインのユリちゃんもよかった。上背があって、実際そうなんだから仕方ないんだけれど主役よりやや年上に見えてしまうきらいがいかんともしがたかったですが、美人でいなせなことは文句ナシ。
 久々に歌も聴けたし、後半の阿修羅としてのスケール感はさすがは宝塚歌劇トップスター出身、そこいらのただの美人女優にはなかなかできないものでしょう。
 ただし阿修羅の衣装は私には疑問でした。異形のものをあらわしているのでしょうがなぜあんな洋装なんだ、「ネフェルティ?」とか思ってしまいましたよ…途中に出てきた花嫁衣裳とかラストの白装束とかの方がよかったのに…
 新感線版初演ではいのうえ氏が演じたという安倍邪空は伊原剛志、こちらも男っぽくてかっこよかった。殺陣もお見事、さすがJAC出身。

 新聞評によれば、「物語を動かす幹の部分が格段に太くなった。だが、それと反比例して、脇役陣の印象は薄くなった。/隅々まで個性的で、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさがあった前回と、物語性を強調し、雄大なエンターテインメントとなった今回」(この「反比例」という言葉は数学的にはちがうのではなかろうか…)とのことなのですが、確かに脇は甘かったと思いました。
 だって南北も晴明も花柱多香蔵(河野まさと)も桜姫(高田聖子)も、やたら暴れまくって場をさらっていた抜刀斎(橋本じゅん)ですらも、カットしようと思えばカットできちゃうんじゃないのかな、と一瞬思いましたもん。
 おもしろいけど、でもこういうことやってるからこんな長いんじゃないのかな、とね。でもこういうの全部取っちゃったら新感線じゃないしな、とも思っていたわけですが、この新聞評を読んで納得しましたよ、私。

 初演のキャストは加納幸和、平田満、森奈みはる他ということですが、その配役は!? 平田満も好きだけど、ミハルちゃんは私の最愛のタカラジェンヌなんですよ~桜姫? ともあれ確かにバランスは悪かったんじゃないかなー。
 全体的に早口でせりふがやや聞き取りづらいのは、テンションゆえ仕方ないのかもしれないし、こっちの集中力も高める効果があるのかもしれませんが、さてどうでしょう。
 とにかく全体に楽しく観られたのですが、なんだかんだ言ってもっと本物の、というか古典的な歌舞伎に関する教養がある人が観たらもっとおもしろい舞台なのかもしれない、とちょっと思ったりしました。くやしいけど。お、これはあれのパロディでは、とか、あれを踏まえてこうなのね、というにやりとさせられる箇所がいくつかありましたが、だとしたらもっとあるってことだもん。くうう、無知な自分が悔しいです。
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牧阿佐美バレエ団『ノートルダム・ド・パリ』

2009年12月11日 | 観劇記/タイトルな行
 オーチャードホール、2003年8月23日マチネ。
 舞台は中世のパリ、ノートルダム寺院。ジプシーの美少女エスメラルダ(この日は上野水香)に一目惚れした司教代理のフロロ(この日は小嶋直也)は、鐘突き男カジモド(ジェレミー・ベランガール)に彼女をさらってくるよう命じる。しかしこれは騎士長フェビュス(アルタンフヤグ・ドゥガラー)によって阻まれ、エスメラルダとフェビュスは恋に落ちる。しかしカジモドもまたエスメラルダに献身的な想いを抱き…
 振り付け・台本/ローラン・プティ、原作/ヴィクトル・ユーゴー、音楽/モーリス・ジャール、装置/ルネ・アリオ、衣装/イヴ・サンローラン。1965年初演、1998年本バレエ団による日本初演の再演。

 私はもちろん原作を未読なのですが(いばって言うことじゃないですね)、細かい筋が整理されているかもしれないとはいえ大筋は変わらないわけですよね こういうアンハッピーエンドの悲劇をディズニーがアニメ映画にしたんですねえ…そちらも見てみたいものです。
 最初は場ごとに暗転するのが気に障ったのですが、これがプティの手法らしく、「ドラマの筋を追うのではなく、作中の印象的な場面を抜き出して、それを独創的なアイディアによって単独の抽象バレエとして完結させる。そしてそれらを組曲のように並べて全幕とするのである」ということなのだそうなので納得しました。
 ただ、そういうことが理解できていないと、たとえばフロロの心をしつこく捉えるタンバリンの音色の描写がエスメラルダ登場の前にされたりするので、これがエスメラルダへの執着を表すものだと私にはわかりづらかったのですが…西洋文明においてはタンバリンといえばイコールロマニーという自明なものなのでしょうか。私にそういう教養がないだけか…

 とにかくものすごい悲劇ですよね。フェビュスはほとんど意味なく殺されるし、エスメラルダもただ美しかったというだけで死に追いやられたようなものなわけですよね。
 しいて言えばカジモドがこの事件を通して真の人の愛(フロロから得ていたまやかしの保護や恩とはちがった)を知ったかもしれませんが、知っただけで何か確たるものを得たわけではないし、もしかしたらそれを知ってしまったことで彼のこの先の生は(それがあるとしたら)ますますつらいものになってしまったのかもしれない愛も美も聖もものすごく死に近いところにあるものなのだ、という哲学的テーマ…
 そのものすごい悲劇の象徴であると私に思えたのがまさにラストシーンで、不具のカジモドは歩くたびに大きく揺れ、ために彼に担がれたエスメラルダの死体もまた大きく揺れるのですが、その人形のような揺れっぷり、完全にただの物と化してしまったことを表すぶらんぶらんっぷりが本当に痛ましく、またその動きが命ある者としてはこうした訓練された一流のバレリーナにしかできないであろう動きで、それがまたこの作品をバレエでやることの意義のようにも思えて、せつなくて、悲しくて…泣けました。

 先日はオデットを観た上野水香でしたが、やはり彼女はエスメラルダのような、どちらかというとモダンできっぱりした踊りのほうがより輝くのでしょうか。色っぽくて元気で生意気そうで実に素敵でした。
 左耳だけのフープイヤリング、右の二の腕のひじに近いところと右手首の黒い腕輪(パンフレットの写真では左二の腕にも腕輪が見えますが、今回は左腕はむき出しでした。それがまたセクシー)。ルージュをほとんど塗っていなくて、代わりにシャドウとマスカラぴっちりの目力(少しは唇塗ってもよかったのに…処女性をあらわすものなのでしょうか? それと、ジプシーなのにあの白塗りはこれいかに…)。がんがん上がる脚。
 いつもなんかくねくねくたくた動いていて、それがいじらしかったり愛らしかったり色っぽかったり。
 11場のカジモトとのパ・ド・ドゥは本当に素敵で(一箇所ミスがあったのが惜しまれました)、なかなか途中に拍手が入れがたい作りにもかかわらず拍手と歓声が上がっていました。でもカーテンコールは死してザンバラのエスメラルダのままでなく、髪をとかして出てきてもよかったのではと個人的には思いました。

 ベランガールも素敵でした。カジモドのいわゆるせむしを表すのに変に着ぐるみを着ることなく、かしいだ右肩や歩き方で示し、頭の傷は表情や態度で見せて。でも頭が小さくてすごく綺麗な体で、うっとり。
 それで行くとフロロはジャンプなどすごくすばらしかったんだけれど、見場として年長者・権力者と見えるべく、もう少し大柄というかおっさんっぽいとよかったのでしょう。でもすばらしかったと思いました。
 フェビュスはどうなんでしょう、どうしてもディズニー『美女と野獣』でいうところのガストンを思い起こしてしまったのですが、こちらはエスメラルダの恋人となる二枚目なんですよね(でもジプシーの娼婦?と戯れたりする)。同じ東洋人として身体的ハンデは否めないのか、このモンゴルのダンサーは何しろ頭がでかく、鬘なのか染めたのか嘘っぽい金髪がまたイタかった…技術的には申し分なかったと思うのですが。エスメラルダとのパ・ド・ドゥは恋の喜びにあふれていて素敵でした。

 しかし一番素敵だったのはカーテンコールに登場したローラン・プティその人かしらん…上背があって、白いシャツとブルーのチノパン(ジーンズではなかったように見えた)を着た、イカしたおじさんでした。オーラが出ていて…初演のカジモドはこの人自らが演じたのでした。

 追記。後日ディズニーアニメ版を観ました。ハッピーエンディングになっとる…『Ⅱ』にいたってはなんだかちがうものになっとる…はああ。
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