駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

AND ENDLESS『桜の森の満開の下』

2009年12月28日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアターX、2005年5月12日ソワレ
 原作/坂口安吾、構成・演出/西田大輔。全1幕。

 原作を未読だからかもしれませんが…ごめん、ワケわからなかった。

 山賊が都から次々女を奪ってきて女房にして、八人目の女をさらったときにはその亭主を殺してしまい、その女が他の女は全部殺してくれと山賊に言い、だけどびっこを引いた女だけは残した、というのは、原作の話なんですかね?
 それに、聖徳太子らしき、ウマヤド(窪寺昭)の物語が重なる構成になるのですが…この男が満開の桜のもとにいくと、桜の精と謎の女(木村智早)がいて、八つの生首で遊んでいて、その話を聞かせてくれとせがむのですが、その八人て誰だろう、とか。ウマヤドの小姓のハヤリ(浜田純司)、妻同然だったナツメ(大森裕子)、幼なじみでのちに夫婦にさせられるトジコ(中川えりか)、政敵モリヤ(佐久間祐人)とその家来カツミ(村田洋二郎)…かな、とはおもうのですが、あとは?
 叔父シシュン(岡崎司)か、親友で後に別れなければならなくなったムツ(加藤靖久)か、親友にして暗殺者、母と通じていたユトラ(村田雅和)か、母アスカ(田中良子)か…多いじゃん…とか。
 ウマヤドが八人の問いを同時に聞いて答えを言うくだりがあるのですが、十人じゃなかったっけ、とか。
 で、ウマヤドと山賊がどう対応してなんだっていうのよ、とか…
 ううむ…
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KERA・MAP『砂の上の植物群』

2009年12月28日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアターアプル、2005年5月11日ソワレ。
 ある日、日本へ帰る途中の旅客機が、とある戦地の海辺に墜落。奇跡的に生き残った10人足らずの男女は、廃虚のような建物に、ジャーナリストのオギソという人物によってかくまわれる。だが事故から2週間近くたっても、日本へ連れてかえってくれるはずのオギソは現れない。やがてオギソの代理と名乗るミマツ(渡辺いっけい)が現れ、日本に大地震が起き、テロが激化し、日本へは帰れそうにないと告げるが…作・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ、全2幕。

 常磐貴子の初舞台というので行ってしまいました。ちょっと猫背っぽく見えるのが気になって、カメラが回っているときだけがんばるドラマや映画と違って、あらゆる方向から見られてしまう舞台の上に立つということはまた大変なことなんだろうなあ、と思いました。でも台詞は明晰だしキャラクターも合っていて、好演だったと思います。

 でもお話はよくわからなかった(^^)。

 こういう閉塞された空間に寄り集まる男女に緊張関係ができ、だんだん歪んだり狂ったり壊れていったりする、というのは全然理解できますし、そういうシーンや会話ややりとりはすごくおもしろかったし怖かったしでスリリングだったのですが、「では結論は?」となると、私には見えなかったんですね。
 異星人は、やはりクニモト(筒井道隆。好き。ぴったり!)の妄想だったのでしょう。マリィ(つぐみ)が未来から来たというのは嘘で、彼女はやはり飛行機の乗客で、別のところで現地人に助けられたのでしょう。ロケットはマリィが乗ってきたものではなくて、やはり現地の学生が昔作ったお遊びのものだったのでしょう。
 クニモトがずっとずっと大切に持っていて、そのために殺人まで犯してしまった何かのキーは、やはりロケットの部品などではなく、たまたま合うかなんかして、結局はただロケットをちょっとだけ震わせただけで、クニモトとマリィの命は奪われたのでしょうか。となると残るはミマツと、不時着のショックで正気と狂気の間を行き来するボウゾノ(池谷のぶえ)と、ケシザキさん(常磐貴子)のみ。
 一番常識的で現実的で前向きで、喧嘩はしても壊れもしなかったケシザキが、
「ロケットに乗りませんか?」
 と言って、幕。それは…どういうこと?

 彼女もまたついに壊れてしまったということ? ロケットが本当に彼らをどこかに運んでくれるということ? でも多分ロケットは本物ではないし、戦争のない平和な故郷なんてきっともうこの地球上にはないのです。三人がロケットに乗ったら、クニモトとマリィの後を追って、死んでしまっただろう、ということ?

 わーかーんーなーいーよーーー。

 …というのが感想です。
 ちなみに、役とはいえ、アカイシ(赤堀雅秋)はホントーにイヤでした。虫唾が走るとはこのこと。うがあ。
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『ルル』

2009年12月28日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 世田谷パブリックシアター、2005年4月14日ソワレ。
 新雑誌のグラビア・モデルに新妻ルル(秋山菜津子)を選んだ編集長ゴル(小田豊)。カメラマンのシュバルツ(みのすけ)が撮影するスタジオには、詩人ゲシュヴィッツ(根岸季衣)の他、雑誌を出す新聞社社長シェーン(古谷一行)、その息子で舞台演出家のアルヴァ(増沢望)が訪れる…原作/F・ヴェデキント(ルル二部作『地霊』『パンドラの箱』)、構成・演出/白井晃、脚本/能祖将夫、音楽・映像/nido。全2幕。

 あまりほめていない新聞評を読んだのですが、非常に緊密で緊迫した、おもしろい舞台だったと思いました。
 ファム・ファタールであるルルと、彼女に関わって転落していく男たちの物語である、とか、社会規範を体現する男たちと自由の象徴である女ルルとの物語である、とか、「女はわからない、魔性だ、罰せられるべきだ」というお話である、とか、いろいろな見方ができるかと思いますが、私は、ごく普通の女と男の物語かなあ、と感じました。そしてだからこそそのすれ違いが悲しく、せつないなあ、と。
 確かにルルはつきあう相手を次々と替えていくかもしれないけれど、それは男の側のせいでも彼女のせいでもなく、ただたまたまの流れ、というふうに見えるとも思うのです。そして彼女が本当に愛していたのは、というか執着していたのは、と言ってもいいけれど、とにかく一番こだわっていたのは、養い親で初めての男であるジゴルヒ(浅野和之)の次に出会った男、つまり心理的には彼こそが「初めての男」であるシェーンだったのではないでしょうか。
 これは彼女のシェーンへのある種の「純愛」の物語だと言えると思うのです。だけどシェーンはルルとの結婚をずっとずっと避けてきた。別の男をあてがうような真似までした。そして結局ゴルとシュバルツの次にルルの夫となったのだけれど、ルルはもはやこれまでの生き方を変えられず、シェーンは幸せにはなれず、そして愁嘆場が訪れる。
 第二幕に入って、ルルは輝きを失います。本当の愛を失った彼女に残された道はただ墜ちていくことだけだから。ルルが、シェーンと二役で演じる古谷一行の切り裂きジャックに殺される幕切れには、男性である原作者の悪意を感じなくはないですが、エピローグでの、下手にシェーンが、上手にその他の全員が立ち、その間を歩いて来るルルが結局はシェーンとすれ違って終わるシーンが、なんとも言えず心に残りました。テーマはここに集約されているのではないでしょうか。

 また、男性作者の一方的な見方と言い切りづらいのがゲシュヴィッツのおもしろい立ち位置です。ルルを本名で呼んだのはジゴルヒと彼女だけで、他の男たちはすべて自分の呼びたいように彼女を呼んだ、というのは象徴的です。ゲシュヴィッツはレズビアン的な友情をルルに捧げるのだけれど、女友達が究極的に男性に対抗するにはそれしかないかもしれないからです。オープニングの時点では、私は彼女はたとえば古谷一行の役の妻でルルに嫉妬するような役なのかと思ったのですが、もっと根深かったのでした。
 場と場の間を不思議なダンスと映像が心象風景を描いてつなぐ構成で、素敵でした。舞台装置も良かったです。

 決して単純でない掛け合いの多いセリフがどれも明晰に語られて聞きやすかったのも良かったです。それからなんと言っても配役がいいというか、どの役者もその役に見えました。すばらしい!
 育ちがいい好青年のアルヴァ、脂ぎった駄目中年っぽいゴル、大人になりきれていないようなシュバルツ、ヤクザなロドリーゴ(石橋祐)、いやらしげな貴族エスツェルニー(岸博之。二役でルルが溺れるジゴロのカスティ・ピアーニも演じていてこれまた別の感じでいやらしくて秀逸)、周りが全然見えていないお坊ちゃんのフーゲンベルク(まるの保)…
 そして、ルル。とりたてて小悪魔ふうでも、悪女ふうでもなくて、生い立ちにひねることなく、けっこう屈託なくのびのびと生きていて、ただ思ったような愛が手に入らなくて焦れているだけの、ごく普通の生きのいい女性に見えて、好感が持てました。それこそがルルの真実の姿だったのではないでしょうか。細くてしなやかでだけどぴちぴちの若い娘というわけでは決してない秋山菜津子の肢体の感じが本当にそれっぽくて、見惚れました私。助平ですみません…
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ジンガロ『ルンタ』

2009年12月28日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 ジンガロ特設シアター、2005年4月1日ソワレ、4月9日ソワレ。
 出生不祥、年齢不祥の主催者バルタバス率いる、45人の団員と25頭の馬、ガチョウ、楽士たちがヨーロッパ各地を移動しながら公演する「スペクタクル」。

 「騎馬オペラ」と称されていますが、今回の演目に関しては、音楽はチベットの声明やら祈りの歌で、またストーリーらしきものがある訳ではなく、ちょっとその言葉は当たらないかなーと思います。ではなんと呼ぶかというと、さてちょっと思いつかないのですが。サーカスとはちがうし。
 ともあれ人と馬とがおりなす不思議な場面がいくつも連なって舞台に幻想的に立ち現れる、そんなショーなのです。
 馬術的に考えても、本当に魔法のような幻のようなで、心踊る経験でした。
 残念なことにチケットの売れ行きがあまりよくないようで、週末はさすがに満席に近かったですが、平日夜の回は六分の入りでしたでしょうか。でも公演のコンディション自体は、私が二回見たうちでは最初のときの方が良かったです。このときは乗り手の声や舌鼓がほとんど聞かれず、本当に魔法のように馬を操って見えたので。二回目の観劇ではチャカチャカ動いてしまっている馬がいたり、乗り手同士の駆け声や囁き話が聞こえてしまっていました。残念。
 それにしても不思議なショーではあるし、とにかく高価だし、人に薦めづらくはある公演です…
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