駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『タカラヅカスペシャル2009 WAY TO GLORY』

2009年12月21日 | 日記
 梅田芸術劇場 2009年12月19日マチネ

 初日を観てきました。
 実はTCA(古ッ!)とか運動会とか、こういうイベントを観るのは初めてなのですが…今年のワタシはやや壊れています。
 というわけで、観劇記というよりは日記として、感想を…

 まずは、日帰り強行軍でしたが(『カサブランカ』初日もそうだったけどネ!)、名古屋の雪にもめげずに10分弱の遅れで新大阪まで走ってくれた東海道新幹線にお礼を言いたいです…ありがとうJR…ホント途中ドキドキしっぱなしでおちつかなくて、ツイッターでつぶやきまくりでしたからね!
 ウザいよ自分!!

 というわけで花組『ミーマイ』以来の梅芸でした。B席でしたがまったく問題ナシでした。
 オケとコーラスは板付き。ステージ中央に中階段くらいのがセットしてある感じでした。

 プロローグは板付きのイシちゃん+トップ三人。学年順なのか組順なのか就任順なのか、並び方や歌い順がバラバラで、ハラハラしつつ探しました。
 ユウヒはグレイッシュなピンクの総スパンの燕尾。

 『風の錦絵』より「春一番」を歌うイシちゃんのバックに、花組から、『相棒』はお稽古クライマックスなのでバウ組から主演の三人が出ます。
 初めてレミレミの可愛さに目覚めました私…! 今まですまん! でもじゅりあとかきらりとか、意地悪そうな美人(笑)顔の方が好みなんだもん~。
 続いて「RIO DE BRAVO!!」で雪組、「シバの祈り~ソウル・オブ・シバ」で星組。
 そして「Apasionado!!」で宙組。歌うスターの紳士Sのユウヒの胸にいきなり手を回すマユ…私の心臓は止まりました(^^)。
 プロローグのシメは「タカラヅカ・グローリー!」でした。

 MCは例によってグダグダです(^^)。
 チエちゃんがユウの、ユウヒがアサコのコメントを報告。ユウはすっかり水谷豊になっているそうです(^^)。
 イシちゃんが『コインブラ物語』より「ああ、イネス」を歌ったあと、各組パロディコーナーへ。意外にどこも短くて残念だったなー。

 雪組は『外伝ベルサイユのばら』で、ユミコのアンドレがプロバンス訛りなのか?でキムのオスカルと今宵一夜になだれこみ、ミナコマリーズが「なんばしよっと」と乱入し、そこに黒い騎士ならぬゾロたちがゾロゾロと登場。
 チカちゃんがZの字にサーベルをふるうのが意外に好きだったので、うれしかったのですが、オチはないままでした(^^)。

 星組+花組は『太王四神記』。カオリ剣のくだりですが、何度刺されても死なないタムドク…
 「痛くない」とはしゃいでいると、ホゲが金のどデカいメガホンでひっぱたくんで「痛い!」となる。父が最後に託したのはこれだったのか…と「チュシンの星のもとに」を熱唱…メガホンじゃなくてハリセンがよかったんじゃないかな(^^)。
 マリモちゃんがカクダンに扮しているようでした。ラブリー!

 宙組はお茶会でも話に出ていた『大江山裁判』。
 まずは洋風メイクにバージョン2の鬘がなんとも言えない茨木童子がせつせつと「人でなし」を歌いますが、背後に法廷が用意され始めるので客席はクスクス笑い…でもユウヒは大まじめ、ってとこが素敵。
 で、いきなり裁判にかけられる茨木。どうやら藤子と滝壺に飛び込んだあと、茨木だけが助かったので、藤子殺害容疑がかけられているらしい。
 私はまったくゲームをやらないので『逆転裁判』を観ていないのですが、みーのディックの怪しい証言、トモのエッジワースの鋭い追求、それをかわすマユのフェニックス・ライト…ってな感じで裁判は進み、決め手は藤子が
「私の茨木!」
 と飛び込んできて、死んでなんかなかったじゃん、って感じ。
 死んでいないどころか、今はカサブランカでリックとイルザとして生きているらしい…と東京公演を宣伝し、「うす紫の恋」をこれまた真面目に歌っておしまい。
 その後の回では、ユウヒが酒呑童子の持つでっかい杯を奪って「君の瞳に乾杯」とキザるようになったそうです…それも観たかった!

 その後は、2009年公演を振り返るメドレーへ。
 思えば初代ルキーニだったイシちゃんの「キッチュ」から始まり、花組三人のミーマイ「愛が世界を回らせる」、続いては各組トップコンビがそれぞれ『ロシアン・ブルー』より「別れの言葉」、『再会』より「モンテカルロの恋」、『カサブランカ』より「世界の果てまでも」。
 一幕ラストは全員でミーマイ「ランベス・ウォーク」、客席降りも。
 下手で並んでノリノリで腕をグルグル回しているネネスミがすっごいラブリー。
 そして上手で縦ノリしているミナコのハジけ方が若い!
 ニヤニヤしているうちに休憩、となったのでした。

 第二部冒頭は95年を振り返る趣向から。
 メドレーはどれも短くてちょっと残念、もっとたっぷり聴きたかったよー。
 トップ三人が「タカラジェンヌに栄光あれ」、トップ娘役三人が「ラ・ベルたからづか」、花組三人が「パレード・タカラヅカ」。
 チカちゃんが『ノバ・ボサ・ノバ』より「アマール・アマール」、雪組子が加わって『ベルサイユのばら』より「愛あればこそ」、続いてキムが『忠臣蔵』より「花に散り雪に散り」、トヨコとマリモで「PARFUM DE PARIS」。優しげなトヨコ、好きだなああ。そして「TAKE OFF」。
 次にマユがなんと『ブラック・ジャック』から「かわらぬ想い」を朗々と…ヤンさんの歌をマユが!
 次にテルが『エールの残照』から「風のシャムロック」を…ユリちゃんの歌をテルが! 懐かしくて泣きそうでした私…
 ユキちゃんの歌声が聴こえてきそうな「サジタリウス」、マリコさんより1000倍力強い(オイ)チエちゃんの「風になりたい」(『国境のない地図』より)。
 そして大好きだったノンちゃんのショー「プレスティージュ」で踊るマサコ、みー、だい!
 宙組フルメンバーになって『エクスカリバー』より「未来へ」になりましたが、キミたちみんないなかったんじゃ…とはちょっと思った(^^;)。
 組子が減った形で「GLORIOUS!!」、みっちゃんが『BLUE・MOON・BLUE』より「ENDLESS DREAM」、そしてユミコが『~夢と孤独の果てに~ルートヴィヒⅡ世』より「夢の果てに」。ここの拍手が長くて大きかったのは、次のユウヒのためではなくて、退団を発表したユミコへのものだったと思います…
 ユウヒが『愛のソナタ』から「初めて見た朝日のように」、星組子が『王家に捧ぐ歌』から「世界に求む」、そして全員で『テンダー・グリーン』より「心の翼」。ナツメさんへの追悼です。

 続く場面はショーメドレー。
 これまたナツメさんの代表作だった『ジャンクション24』より「DANCE WITH ME」をイシちゃん。
 「ル・ポァゾン」をキム、トヨコ、みっちゃんという私好みのメンバーで。
 『アンド・ナウ!』より「そして、今」をテル。またまたナツメさんの「ジタン・デ・ジタン」をマユ。「セ・シャルマン!」をユミコ。
 各組トップコンビ以外の全員で、『シトラスの風』より「明日へのエナジー」。

 そしてシャッフル・デュエットのお時間です。
 トップバッターはユヒネネ。月組時代にショーで組んだこともあるそうですが私は記憶がないのですが、映りがいい! 歌は「ジュテーム」、ネネちゃんにだけ歌がありましたね。
 あとはどのコンビも男役が歌って娘役はダンスのみ、絡みもわりと少なめ。
 とはいえ「セ・マニフィーク」のチエミナは若さいっぱいで、巷では雄ライオンと雌タイガーのバトルとも…!
 チカスミも収まりが良くて、歌は『ザ・レビュー』より「夢人」。まあたいていそうだけど、ここでもチカちゃんはなんかすごくニコニコしていて、ユウヒの代わりにジェラっときました。「あげないよ!」ってなもんで。
 でもトップはみんな「うーん、この子も可愛いなー、あの子も可愛いなー、でもやっぱりうちの嫁が一番」とか思ってるんだろうなー、とか思ってしまいました。

 次はなぜか『風と共に去りぬ』メドレーで、これまたイシちゃんのバトラー懐かしい…と思いました。「愛のフェニックス」「君はマグのリアの花の如く」「さよならは夕映えの中で」。イシちゃんを囲む可愛子ちゃんズの中ではもちろんレミレミとアリスが目を惹きました。でもミミちゃんもいたんだよね、すまん…サユは私はパスなので(ヒドい)。

 クリスマス抽選会は、列まではきたんだけど当たりませんでした…
 回替わりのクリスマスカードはユウヒ分。ニューヨークの雪景色かと思って選んだら道頓堀だったらしい…

 そしてフィナーレへ。
 『パリゼット』の「すみれの花咲く頃」、そして黒燕尾の男役のボレロになり、センターはユミコ。各組混じっているのにビシッと決まって圧巻、感涙。
 パレードは「タカラヅカ・グローリー!」と『ザ・レビューⅡ』より「この愛よ永遠に-TAKARAZUKA FOREVER-」でした。

 正直、慌ただしいスターの顔見世興行で、練られたショーではないし、ファンサービスと言えど料金的にもやや割高だと思いますし、だったらちゃんと芝居やショーの公演を観るかな、とも思うけれど、ま、年に一回のお祭りだからいいか、とも思った贅沢者の私なのでした。
 おしまい。
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KOKAMI@network『リンダリンダ』

2009年12月21日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアターアプル、2004年11月17日ソワレ。
 大手レコード会社にメインボーカル・カズト(根田淳弘)を引き抜かれ、ドラムのヨシオ(田鍋謙一郎)は失意のうちに故郷に帰り、バンド「ハラハラ時計」は壊れかけていた。ベースのマサオ(松岡充)はバンドに未来がないなら解散しようと言う。マネージャーのミキ(馬渕英里何)はそれでは自分がなんのためにOLをやめたのかわからないと言う。リーダーのヒロシ(山本耕史)の恋人アキコ(SILVA)は、音楽は趣味にして次のステップへ踏みだそうと言う。そしてヒロシは、「ロックは永遠の反抗、連続する抗議だ」と言い、その場のでまかせである物騒な提案をする…作・演出/鴻上尚史、全2幕。

 鴻上氏は3年前にブロードウェイで『マンマ・ミーア!』を観て、日本で、自分が、こういう舞台を作るとしたら…ということで、ブルーハーツを選んだそうな。その意気やよし!
 先週仕事が忙しかったことが悔やまれます。ブルーハーツのベスト版を買って予習しておこうと思っていたのにそんな暇がなく、知っている曲しか知らなかった…多分私は最初のころのファンで、捜せば最初の1、2枚のアルバムのカセットテープが出てくると思うんですよね…やっぱり知っている曲が物語に合わせて始まるときのゾクゾク感、ドキドキ感は独特だったので、全部押さえておきたかったです。悔しい…
 でも、ABBAもそうですが、ブルーハーツもバンド自体はすでに解散している訳で、これからその楽曲を知らない観客も増えていくことでしょう。それでもこの舞台は、というか戯曲は、いい。この先も再演が重ねられるにちがいない、と思いました。

 音楽そのものも、私は音楽は本当に疎いのですが、ロックってやっぱ永遠なんじゃないんスか?(笑)
 ちなみにタイトルでありおそらくこのバンドの最も有名なヒット曲である歌は、劇中では使われませんでした。「(マッチの)凛だ」というセリフがあっただけ。あ、でももしかしたらアンコールで歌われたのかしらん、カーテンコール一回観ただけで出てきてしまったので…

 『マンマ・ミーア!』の向こうを十分に張っている作品だと思います。向こうが母と娘の、女の物語なら、こちらは男の子たちの物語。加えて国の無茶な公共事業による自然破壊という社会問題まで扱った、実に日本的な、でも普遍性のある物語だと思います。

 それから、久しぶりに、ジェンダー・フリーのものを観た、という気がしました。「男くさい芝居だよね。男はそれぞれの確信しているものをそのままやっていけばいいけど、そこに女性がどう食い込んでいくかっていうのはむずかしい」とバンドの新ドラム・大場役の北村有起哉がパンフレットの対談で語っていますが、でも女の子たちの描かれ方もすごくいいんです。ミキと、アキコと、サチエ(浅川稚広)の三人のヒロインがそれぞれに失意のときを迎えたときに、『キスして欲しい』の前奏が始まって、私は泣きそうになりましたよ…
 男も女も気持ちよく観られそうな舞台だったと思います。

 さて、で、メインの「男の子」ふたり。
 10歳でガブローシュ役で初舞台を踏んだキャリアを持っている人に失礼ですが、山本くんの歌が上手いのに仰天しました。あと、歌声に味がある! ドーランがなんか白すぎて血の気がなく見えて気持ち悪かったのは改善してほしいですけど。
 パンフレットの対談によれば、いつも「フルキャパでな」く「人生ナメて」て、「そうする方が、みんな楽しそうだから」「やんちゃ」ぶる、というような人柄の山本くん。なんかわかる気がするなー。性格的に「この場所で自分はこういうキャラだ」ということを常に意識してやってしまうようなところがある人が、でも実際の舞台ではちゃんとプロの役者としてさらに役を演じていて、でもそれがちゃんとナチュラルなキャラクターに見えて、いいな、上手いな、と思いました。

 対するこれが初舞台の松岡くんは、とにかく顔がちっちゃくてめちゃくちゃ美形で、にっこり笑うとあややもかくやという女顔のキュートさで、眼福。こちらは演技のタイプがまたちがくて、というかまだ「ニン」で役をやっているだけなんだけれど、でも、前のバンドではリーダーだったし今回だってホントはリーダーになりたかったけどじゃんけんで負けてずっとくやしくて、ホントはリードヴォーカルやりたいんだけど上がり症なんで子供向けのミュージカル劇団で度胸つける練習していたりして、すごくモテるのに真面目でカタくてミキにずっと告白できないでいて…というマサオに、なんかぴったりなんですよね。ミキにやっとやっと告白できたシーン、小細工がない感じで、よかった。ああいうふうにいい感じのヘタレさ加減を出すのって、すごく演技が上手い人でも難しいと思うのですよ。なるべく素に近いところでやっていて、正解だったんじゃないでしょうか。
 まだ初日から二日目だったしぎくしゃくしているところはありました。もっと練り上げられるとさらにいい舞台になるでしょう。

 それから台本としても言葉が足りないところはある気がしました。一番はミキちゃんの立ち位置。カズトの恋人だったんだけど本当はずっとヒロシが好きででもアキコさんとは友達だしだからカズトとつきあっていた? そしてマサオの気持ちにはまったく気づいていない?という設定が、わりとあとになってからじゃないとちゃんと明らかにされず、まあ類推できはするんですが、マサオがミキを好きなのかどうかも何しろマサオの芝居がアレなもんで最初のうち不確かなんですよ。でも、それをきちんと示してからの方が、あの「ギュ? ギュ~」のシーンは意味があると思う。ヒロシとマサオの間にも本当はもっと緊張感があるはずなんですよ。ヒロシは全然意識していないんですけれどね。
 ヒロシはどうやらやんちゃな下半身を持っているようですが、ミキにだけは向けられなかったのでしょう。そこがまたせつなかったりしてひとつのドラマになったはずなんですけれどね。ちなみに、そんなヒロシの在り方とか、それでもヒロシを許してしまうアキコというのは男性原理だと思うのですが、まあそこは男のファンタジーとして許しましょう。女のファンタジーである少女漫画だったらアキコは絶対にそんなことを許さないし、そもそもヒロシがどんなにモテてどんなにやんちゃでも一線だけは越えないでいるワケですよ。ファンタジーだと言うのは、そもそも普通の男はそこまでモテないからですね。
 爆弾は爆発しても、堤防は壊れなかったし、海は戻らなかったし、ムツゴロウは帰ってこなかった。カズトもヨシオも戻ってこなかった。だけどバンドはふたりの新メンバーを迎え、事件はもみ消されてみんなは罪を問われなかった。拘置所の前でやったコンサートの観客にはきっとアキコがいただろう。ヒロシとアキコの長い春がどこでどう決着するのかはわからない、マサオのミキへの想いが報われるのかはわからない、バンドがメジャーデビューできるのかはわからない、自然破壊が収まった訳では決してない。でも、人生は続いていく。終わらない歌を歌いながら…そんな、いい物語でした。

 そうだ、一点だけ。役名は、ヒロシ、マサオ、カズト、ヨシオとわざと記号的に三文字名前ばかりにしたのでしょうが、私はこれはよくないと思います。誰がなんて名前だかつかみづらくて、わかりづらいから。ケン、アキラ、ヨシヒコとか、音数を変えていくべきだと思います。
「ヒロシ! ちがう、ヒロシはオレだ」
 って山本くんのすごいポカとフォローがあったのがその証拠です。
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『溺れた世界』

2009年12月21日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタートラム、2004年10月21日ソワレ。
 そこは人々が、市民と非市民のふたつに分断された世界。市民は醜く、非市民は輝くように美しい。美しい非市民たちが放つ輝きを恐れて、市民は非市民を迫害・抹殺し、世界を支配していた。青年ダレン(岡田義徳)は市民側の人間でありながら、市民の世界を嫌い、いつか「天使」が自分を救いに来ることを願って、ひとり部屋に閉じこもって暮らしていた。そこに、市民に追われた美しいターラ(上原さくら)と、怪我を負ったその恋人ジュリアン(田中哲司)が逃げ込んでくる…作/ゲイリー・オーウェン、翻訳/小宮山智津子、演出/白井晃。全一幕。

 登場人物は四人だけ、セットはなし、セリフは会話よりモノローグの方が多い…こういう言っちゃなんですが前衛的っぽいとか実験的っぽい舞台って大ハズレの場合もままあるのですが、この作品は良かったです。寄せては返す波のようなセリフがイマジネーションを膨らませ、胸が締め付けられるようでした。

 非市民と市民は、美醜、善悪、聖俗、白黒…というようなものを象徴します。そこにさらに、男女、という区分がある。四人の登場人物は、それぞれの区分を代表します。
 舞台にはオチはありません。と言うか、絶望だけが横たわって終わります。
 邪なる女と聖なる男は死してのち初めて行動を共にし、「宝」を手に入れたように見えますが、それは殺されたときに手のひらに開けられた穴から見る月にすぎません。邪なる男と聖なる女は市民の世界に加わって、男は女を救った気になりまた彼女によって自分が救われた気でいますが、男が差し伸べる手に女は決して手を伸ばしません。世界がここまで極端だったら、きっとそこにはなんの救いも解決もなく、ただこうして終わるのでしょう。よかった、世界がここまで極端ではなくて。でも、市民、非市民、迫害、抹殺というものは、形を変えて、今の世界にある。きな臭くなりつつあるくらいです。絶望だけの極端な世界にしないよう、できるだけのことをしなければならない…そういうことを考えさせられる舞台でした。

 やっぱり幕開きってむずかしいのか、冒頭の岡田くんのモノローグがずいぶんと危なっかしくて、観ていてこっちが緊張しました。でも、モノローグのラストで一気に作品世界に引き込まれました。
 彼は街の中で天使に出会い、見失い、探し回りますが、自分を救ってくれる天使なのだから彼女の方から自分のところへ来るはずだ、と考えて、自分の家に閉じこもることにしてしまうのです。なんかその思考回路がすごくわかる気がして…そして現れた上原さくらの口舌が実に美しく、とても初舞台とは思えない堂々たる存在感で。
 そしてもともと好きだったけど最近テレビで見ないので寂しかったつみきみほ(役名はケリー。だけど彼女の名だけ呼ばれなかったような…そこにまた意味を感じてしまう。それは彼女が「邪なる女」だったからなのか?)のまた味のある声が美しく、本当に作品世界を堪能しました。

 だから一番わからないのはジュリアンでした。彼は聖なる女が現実を説いているときにただ理想を詠い、あとは怪我に倒れてほとんど寝ているだけだったからなー。そして最後だけ自棄のように飛び出して玉砕するという、天使のようにマッチョで役立たずな男の権化です。女である私はターラもケリーもわかるし、俗な人間である私はダレンのこともわかる。でも「聖なる男」であるジュリアンのことは理解できない。だけどこういう男を「聖なる人間」とすることは、所詮は男である作者の奢りではないのか?とすら思ったのだが、しかし。
 そもそも何故彼は美しくないのでしょうか。もっとハンサムな俳優にさせるべきだ、というよりも、たとえば金髪にするとか白い服を着るとかが「輝くように美しい若者」の役なのでは?
 だけどジュリアンはそうなっていません。普通に黒い髪で、ダレンの服ほどではないけれど、灰色のくすんで汚れて見える服を着ている。偽装ということも考えられますが、でもターラは金色の長く美しい髪をし、白く美しい服を着ています。何故ジュリアンはこうなのでしょう? 「聖なる男」なんて、存在しえないから? でもターラはジュリアンを愛していたのです。まあターラは「聖なる女」だから、相手が誰であれそこにいる者を愛したかもしれませんが、しかしジュリアンにはケリーも惹かれているのです。ケリーは自分が「邪なる女」だからこそ「聖なる男」を求めたはずなので、彼女を魅了したジュリアンの瞳には確かに輝きがなければいけないはずなのでした。私にはそれは感じられませんでしたが…ということは、そういうふうにしか「聖なる男」を描けなかった、男である作者のテレとか自虐とか限界とか現実がそこにはあったのかもしれません(演じた田中が「実際に居たら嫌いなタイプだと思う」というのはだから、正しい)。

 なんでもかんでもフェミニズムを持ち込んで論じるつもりはありません。でもこの世界には、確かに、聖邪の区別とは別にもう一種類、男女の区別がありました。ターラとケリーには女として通じるところが絶対にある。そしてこの作品は邪の聖への愛(ないし執着)を描いていますが、一方で男女の愛も確かに描いているのです。
 聖なる女が俗の世界で生きていくために売るのはまず、金色の美しい髪。そして真珠のような歯。そして…女が最後に売るものといったら決まっています。ひとかけらの愛もないままにその行為がなされた場合、そこには何も生まれません。なのに邪なる男は舞い上がり、聖なる男は何もわかっていないくせに何かが変わったということには感づき、聖なる女は俗の世界の人間だと認められしまう。本当に空しいです。
 こんなにギリギリの、不毛な世界を現出させてはいけないのだ…作者はこの戯曲を「自分だけのために書い」たそうで、その後「楽しませるために書こうか、悩ませるために書こうか」「人に好かれるものを書こうか、怒らせるものを書こうか」「世界を癒すために書くか、それとも救うためか?」なとど悩んだそうですが、この作品でそれはすべてきれいに達成させられている、と思いました。
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『ミス・サイゴン』

2009年12月21日 | 観劇記/タイトルま行
 帝国劇場、2004年10月15日ソワレ。
 1975年4月、陥落直前のサイゴン。通称エンジニア(この日は筧利夫)はアメリカのGIたちをキャバレーに呼び込んで「ミス・サイゴン」選びの乱痴気騒ぎ。17歳のキム(松たか子)は故郷の村を爆撃で焼かれ、両親は惨殺され、生き抜くためにこの夜初めて店に出る。引き合わされたのは若いGIクリス(坂元健児)だった…プロデューサー/キャメロン・マッキントッシュ、音楽/クロード・ミッシェル・シェーンベルク、詞/リチャード・モルトビーJr.、アラン・ブーブリル、オリジナルフランス語版テキスト/アラン・ブーブリル、翻訳/信子アルベリー、訳詞/岩谷時子、演出/ニコラス・ハイトナー。1989年初演、1992年日本初演の現代版『マダム・バタフライ』、12年ぶりの日本好演。

 『ミス・サイゴン』と『レ・ミゼ』は帝劇か日生でしょっちゅうやっている、と私は思い込んでいて、今回の公演は前売り初日にたまたま出遅れただけで
「まあいいや、そのうちまた機会あるだろうし」
 などとそっぽ向いていたのですが、ふいに知人が誘ってくれました。初演以来12年ぶりの公演だったとは知りませんでした。またいつやるかわからないもんね、観ておけてよかったです。ありがとう。

 で。マツタカ絶品でした!!!

 舞台俳優さんは顔が大きい方がいいと思うのですが、そんな周囲に囲まれてひとり頭が小さく頭身が高いマツタカのキムは本当にベトナムの小娘に見えて、可憐でひたむきで美しく、まさに蓮の花のよう。初演時のオリジナル・キャストに「(アジアの響きのある)西洋の音楽を歌いこなすアジアの声」を捜して十数カ国をまわったという、難しくも魅力的な数々のアリアを歌いこなし、「キムとして生きて、クリスを愛し、タムを守」っていました。私は子供嫌いなのですが、一幕ラストの「命をあげよう」には、自分の母親を重ねてではなく、ただただキムのことを想って、ボロ泣きしてしまいました。この私をして「母としてのヒロイン」に泣かせるとは!

 だからこそ、ドラマとしては納得できない!
 日本初演を観ている知人からは「え?っていう終わり方だから」と警告を受けていたのですが、二幕も進むと「どうすんのよ、どうなるのよ」と心配で心配で。というわけで「アメリカン・ドリーム」があの位置にあるのが解せません。
「ブロードウェイの過去のミュージカル名作は俗にショー・ストッパーと呼ばれる、観客は大拍手して喜ぶが、お陰でドラマの進行はそこで急停止してしまうヒット曲で評価されて来た。反対に英国製のミュージカルで最も大切なのはドラマ。いかなる名曲でも、劇中の歌は決してストーリーのダイナミックな進展を停止させてはならない」
 というマッキントッシュの考え方には大賛成で、私は閉幕時にしか拍手しない主義なんですが、この作品もいくつか例外的な場面を除いては歌が終わっても緊迫したドラマの続く緊密な構成で(節の付いていないセリフがほとんどない、オペラ形式のミュージカルだから、でもありますが)、私は本当に好みなのですが、「アメリカン・ドリーム」があそこに入って、キムとクリスとエレン(高橋由美子)の三角関係のドラマは分断される訳で、せっかくの楽しいショーアップ場面が、「それはいいから早く先を!」と感じてしまったんですもん。ストーリーを知っていて見ていたらまたちがうのかもしれませんが。

 それから有名なヘリコプターのシーンも、実は回想だったんですね。時系列順にやって、これを一幕ラストに持って来た方がいいのでは…二幕が盛り沢山になりすぎるかな?
 ただ個人的には、「世界が終わる夜のように」と大きく愛を歌っておきながら、一転して三年がたって、という展開になっているため、
「ふたりはどうして別れたんだろう、まあ何か事情があったんだろうけれど」
 と適当に脳内補完してからストーリーに付いていくので、あとから「実はこうだったんだよ」と説明されても「それで?」っていう気がして、せっかくヘリコプターを見ても
「行かないで! 愛する人をおいていかないで、連れていかないで!」
 という盛り上がった気持ちにはなれなかったのですよ。

 クリスがキムに会ったのは二度目のベトナム参戦のときであるとか、サイゴン陥落時のアメリカの撤退具合とか、帰国してからのクリスのPTSDとかは、もしかしたら初演時には、つまりベトナム戦争が遠くなかったころにはわりと自明のことだったのかもしれませんが、戦争が遠い今となっては(本当のところはそれもけっこう怪しいんだけれど)もう少し説明してほしいところかもしれません。

 だいたいPTSDだなんて甘えんなっつーの。
 だってキムはそんなものにかからなかったじゃない。必死で生きて、タムを守って、クリスを愛して待ち続けたじゃない。クリスだけが、「あれは一瞬の悪夢の中の出来事で、今ではもう向こうは向こうで別の男を見つけているかもしれないし」とかなんとか考えてエレンに甘えた訳でしょう?
 しかも最初にエレンに説明した時点では(そしてそれは結婚前ではなく、子供がいると知らされてのちにやっと告白するのだが)
「一緒に暮らしたが愛ではなかった」
 と言ったんでしょう? どの口が言うんだよ、キムに「36回」キスした口でか? この部分はエレンの口から語られるのと回想シーンになってしまっていますが、私はクリスがなんと言うか、クリスの言葉で聞きたかった。
「クリスが直接来て、自分の口で言うべきよ!」
 というキムのセリフはまったく正しい。
 ラストシーン、私は、ひとりで観劇していたら、立ち上がって叫んでいたかもしれません。
「クリス、おまえが死ね!」
 と…
 キムは20歳でした。だからこそ死を選んでしまったのかもしれない。幼かったから、愚かだったから。あるいは純粋だったから。愛していたから。絶望したから。
「何も死ななくても…」
 というのは、現代的な視点かもしれない。キムが死んでみせて、エレンは初めてタムを抱けたのだろうし、キムはまさに「命をあげた」だけなのかもしれない。タムはアメリカ人として幸せに育つかもしれない。エレンはクリスと離婚して、クリスは報いを受けるかもしれない。でも、でも、とにかくキムはかえらないのだ。命は取り返しがつかない。

 だから戦争が嫌なのだ。戦争があったからこういう悲劇があった、からではなく、単純に戦争は人の命を奪うから、嫌だ。命は取り返しがつかない。死ぬより悪いことはない、とにかく命あっての物種、生きてさえいればたいがいのことはなんとかなる、と思いたいのだ。
 この作品に反戦色があるかと聞かれれば特にそういう観点はないというのが答えだろうけれど、ややきな臭くなって来た今、余計にそう思う。人が死ぬのは嫌だ。殺すのも殺されるのも嫌だ。だから戦争が嫌だ。
 だからもちろん本当はクリスが死ねばよかったんだなんて思っていない。誰にも死んでもらいたくない。だけど死んだのはキムだけだった。それはひどいことではないですか?

 現実にこういう三角関係ってありそうです。そして打開策はない。
 もしかしたら誰かが死を選んでいなくなってしまうことで解決とすることもありがちかもしれない。そういうことを、そのまま物語にして、「悲劇ですね」と言って観客に出すのは、間違っていませんか? いや、『マダム・バタフライ』がそもそもそういうお話で、とか、ヒロインは死んで名を残すものでしょ、とか、そういう話じゃないと思う。キムかわいそう、ですむ話ではない。だってエレンだってかわいそうなんだもん。どう責任とってくれるんだよ、クリス!

 だから、なんというか、せめて物語では、もうちょっと落とし所のあるドラマを語るべきなんじゃないでしょうか…別にすっきりしたいだけではなくて、なんか…もう少し誠意というか…希望…は無理でも…ううーむ。
「よかった。でも嫌いだ。でもどうすればよかったのかわからない」
 というのが、結論かもしれません…
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