駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『BAT BOY THE MUSICAL』

2009年12月25日 | 観劇記/タイトルは行
 THEATRE1010、2005年3月3日ソワレ。
 町から離れた、誰もいない洞窟で、三人の少年少女がコウモリ少年…バットボーイ(森山未来)を発見した。エドガーと名づけられた少年は、言葉も心も通じなかったが、パーカー獣医(福井貫一)の家でメレディス夫人(杜けあき)と娘のシェリー(シュー)に優しくされるうち、徐々に人間の温かさを知るようになる。しかし村人たちは「人や家畜に危害を与えるかもしれない」とバットボーイを一向に受け入れようとしない。ちょうどそのころ、町では牛が次々と死ぬ伝染病が流行していた…作/ス・ファーレイ、ブライアン・フレミング、作詞・作曲/ローレンス・オキーツ、翻訳・演出/吉川徹。
 「B級ホラー・テイストのストーリーに古典的ゴチック・ロマンの骨格を与え、ロックンロール・スピリッツで肉付け」した、『ロッキー・ホラー・ショー』や『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』を彷彿とさせるオフ・ブロードウェイ・ミュージカル。

 隣の席のアベック(古い言葉だけどそれがぴったりのカップルだったんだもん)がずっとしゃべっててうるさかったのと、前夜出張であまり寝ていなかったのと(私は普段から寝付きが悪く、まして旅先では完徹もざらなのでした)、冒頭のシーンが見づらくてわかりづらくて歌が聴きづらく、途中で席を立つことも考えましたが、我慢してよかったですよ。その名のとおりバッド・エンディング、と言うか悲劇なのだけれど、単純な二元論とか変な救いのオチになる物語じゃなくて、よかったです。悲しいけれど、人間の妄執による悲劇を描いた物語でした。死んで終わりパターン物語はやりようによっては本当にしょうもなかったり鼻についたりしますが、死ぬしかない、死んでもそれがあまり救いになっていない、出口のない、本当にどうしようもない状況になってしまった出来事を描いた物語なので、よかったのだと思うのです。

 途中までは、ロック・ミュージカルったって結局はキリスト教的発想で、人と獣、聖と邪、善と悪、文明と野性…みたいな対比かよ、とうんざりしないでもなかったのですね。大和民族としては、というか少なくとも私は、西洋人よりずっとずっと獣というものに親和性を持っているし、獣の神聖さというものも感じているので、「獣に魂はないわ」とかいう台詞があったり、悪人に対して逆説的に「このケダモノ!」と叫ばれる台詞が出たりすると、またそのパターンか…と思わないではいられなかったのです。

 で、バットボーイは人間の世界を知って愛も死って、だけど野性からは逃れられなくて、一方で人間は依然として偏狭で獣よりよっぽど凶悪だったりして、で、どういうオチが?と身構えてしまった私ですが、よもやここで『冬ソナ』ネタに巡り会うとは思いませんでしたよ! 隣の男もさすがに息を飲んで黙りました。メレディスが豹変した理由がわからなかった私もこれには納得。エドガーに聖母のように愛を注いでも娘の夫となると受け入れられないただの高慢な女だったということなのか、はたまたエドガーを自分の夫に迎えたがっていたただの女だったということなのか、と思っていたら…
 パーカー獣医の実験云々はリアリティとしてなっていないとしても、所詮バットボーイの獣性というのはある種の暗喩なのだからそれは問うまい。とにかく望まれない子供だったと。だから捨てられたと。そして人間は人間に育てられないと人間に育たないので、人間になりきれず行き詰ってしまったエドガーは、死ぬしかなかったわけです。夜の森の誘いが一瞬あったけれど、それはやはり今の世では幻でしかないようなものなので。そこで生きることは愛するシェリーに大きな負担を強いることになるので。
 そうは言っても一番悪いのはパーカーだろという気がしたので、息子が愛故に父に殺されて満足して終わるなんて許さんぞと思っていたら、物語はちゃんとやってくれました。残されたシェリーはもちろんかわいそうなんだけれど、命は残った、もしかしたら愛も。だからよしとするしかない、その悲劇。
「僕は人間じゃない、ケダモノだ」
 とエドガーが最後に言ったのは、自分の心を守るためでもあり、シェリーを守るためでもあったのだと思います。

 そう、薬のせいだかなんだか知らないが、パーカーは恋人をレイプした。だけどエドガーは、シェリーと寄り添うだけで初めて満ち足りるということを知ったのです。その清らかさ! 何が獣性でしょう? なのに、自分の体に銃弾を呼び込むために、あえて、近親相姦かつ獣姦を犯したのだと嘯いて見せるエドガーの悲しさ。あのときシェリーはどんなに胸引き裂かれる思いがしたことでしょうね。いっそ事実だったらよかった、それでも決してそれを悔いなかった自信がある、なのに、今となっては、もう遅い…

 もしかしたら子供を三人とも亡くしたテイラー夫人(高谷あゆみ。芸達者!)が一番かわいそうだったのかな? でも、あの子供たちが洞窟探検なんかしなければ、エドガーが暴かれることもなかったのだ…好奇心は罪、なのだろうか。それもまた人間ゆえのもののような気がするけれど…

 というわけで物語としては満足。それから何と言っても森山未来がよかったわっ。『ウォーターボーイズ』と『世界の中心で、愛をさけぶ』くらいしか知りませんでしたが、もたもたは舞台畑の人だとは知っていたので。一階席最後方だったので(加えて通路側で扉がすぐで劇場係員がバタバタ出入りして大迷惑)顔がよく見えなかったのが残念だったし、三分の一くらい刈り上げのヘアスタイルは微妙な気もしましたが、舞台栄えしていて、申し分ありませんでした。歌も歌えていました。
 あとは何故か声が高橋ひとみに聞こえて仕方がなかった杜けあきにしても、歌には苦戦していた気がします。難しい歌が多かったし、それにこういういろんなジャンルの曲が入ったロック・ミュージカルというのは結局は日本の舞台ではしんどいというのが本当のところではないでしょうか。神父のゴスペルのところなんか、本場ニューヨークでは大盛り上がりだったろうと想像できるのだけれど、日本でやってもソウルがこもらないと思うんですよねー。一応手拍子は起きていましたが。
 他に良かったのはマギー役の伽代子と、その秘書の小此木麻里。まあ女性キャストには甘いんだけどさ…
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『SHAKESPEARE'S R&J』

2009年12月25日 | 観劇記/タイトルさ行
 パルコ劇場、2005年2月17日ソワレ。
 舞台は厳格なカソリック系の全寮制男子校。勉強、懺悔、夕べの祈り…生徒は行動のすべてを厳しい規則でがんじがらめにされており、道徳を乱すものはいっさい禁止されている。シェイクスピアの戯曲さえ、ここでは禁止項目のひとつだった。だが、4人の生徒たちが、消灯後、密かに『ロミオとジュリエット』のリーディングを始める。彼らはすぐに読むだけでは飽き足らなくなり、寮を抜け出して実際に演じ始めるが…脚色・演出/ジョー・カラルコ、翻訳/松岡和子、美術/マイケル・フェイギン。1998年オフ・ブロードウェイ初演。

 キャストは、主にロミオの台詞を担当する学生1が首藤康之、ジュリエットとベンヴォーリオを演じる学生2が佐藤隆太、マキューシオとロレンス神父とキャピュレット夫人を演じる学生3が小林高鹿、乳母とティボルトとバルサザールの学生4が浦井健治。この4人だけ。そしてゲイの物語ではない。
 つい先日、藤原竜也や鈴木杏が口にしていたセリフを、今度はまたちがった形で男性4人の口から語られるのを聞くのは、なかなかにおもしろかったです。

 ただ、やはりちょっと、企画倒れなのではないかとも感じました。というか、やはり、シェイクスピアの戯曲や台詞が教養としてほぼ暗記されている文化の土壌に育つ環境にないと、この舞台は完全に楽しめないのではないかしらん、と思ってしまうのです。少なくとも私はこれでもけっこうシェイクスピア劇は読んだり観たりしているつもりだしそれこそロミジュリは先日観たばかりなわけですが、それでもしんどく感じました。
 それから、学生4人に特にキャラクターの描き分けが感じられなかったのは、そういう演出意図なんでしょうか。私だったら4人に真面目だとかお調子者だとかいろいろと類型的なパターンを振って、そういう男の子が役の台詞を読んでいるうちに変化していって…というドラマを作ろうとするだろうので。ある程度役者のキャラクターに任されていたのかな? あるいは単に弱くて読み取れなかっただけか、私に読み取る力がなかったか…

 だってキャピュレット夫人と乳母のシーンがものすごくおもしろかったんですよ。それまではロミオとその友人たちのシーンだったので、彼らもほぼ素で台詞を読めていたのが、女役をやらなければならないとなって、思春期の男の子たち特有の恥ずかしがりやテレの裏返しで、ハイになってオカマ言葉の感じで始めるんですね。胸だのお尻だのを強調しようとするポーズもそういうセクシャルヒステリーというか。それが、ふと真顔になって、人間としての役の捉え方をし始め、ジュリエットが加わって…というところが、本当に何かの化学反応を見ているように鮮やかだったのです。
 そんな感じで、「こういう男の子がこんなふうに変化しました」というのを、もっといろいろと観たかったかな、と思ってしまいました。

 でも本当に企画としてはこの翻案は見事で、若者たちの恋のエネルギーほとばしるロミジュリの物語は思春期の少年たちの衝動に通じるものがあって、ものすごくシンプルなセットと最小限の小道具、ものすごく印象的な赤い布の使い方も美しい舞台で、よかったです。
 で、終盤に近づくにつれ、
「で、オチはどうするんだろう」
 と心配になった私です。学校の抑圧から逃れる喜びを知って少年たちが学校を飛び出すというようなハッピーエンディングなのか、また灰色の日々に戻っていくだけというようなエンディングなのか、はたまた…と。
 生活としてたまたいつもと変わらない日常が戻って来るけれど、だけど心は物語の喜びを知った、みたいなラストはパターンのひとつかと思いますが、今回のそれは、「だからいいじゃん」とも「だけどむなしい」ともつかない、不思議な余韻を持たせて終わる、ちょっと特異なもので、私は好もしく感じました。
 本当にどちらとも言えない口調で、学生1が「夢を見た…」とつぶやくのが何度かリフレインされる…というものなのです。ううーん、なんか心に残りました。

 口舌と演技が一番よかったのは、やはりナイロン100℃出身の小林高鹿。ビジュアル的にも惚れてしまった私なのでした。
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『危険な関係』

2009年12月25日 | 観劇記/タイトルか行
 青山劇場、2005年2月10日ソワレ。
 亡者の霊魂さながらの仮面の人物がさ迷う中、互いの存在に気づいて仮面を外すふたりがいた。ヴァルモン(アダム・クーパー)とメルトイユ(この日はサラ・バロン)である。メルトイユはジェルクール(リシャール・キュルト)に目をつけるが、ジェルクールは一時だけで離れていく。メルトイユがヴァルモンに合図して、ゲームの火蓋は切って落とされた…演出・振付/アダム・クーパー、共同演出・美術デザイン/レズ・ブラザーストン、作曲/フィリップ・フィーニ。ラクロの書簡体小説を原作にした全2幕。初演。

 おもしろかったです。よくできていると思いました。だいたいのお話の流れを知らないとつらいかもしれませんが、でも、まったくの初見でも、ちゃんとキャラクターの説明ができているし、感情も伝わって来るし、理解できるのではないでしょうか。
 クーパー本人は「この舞台をバレエと呼んでほしくない」と言っているそうですが、ではなんと言ったらいいものか。歌は出て来るけどロズモンド夫人(マリリン・カッツ)が歌うだけだし、意味がわからなくてもほとんど問題ないので、ミュージカルとは言い難いしねえ。とにかくいい舞台だったと思います。原作のパワーなんだけれど、ずっと緊迫した状況が観ていてしんどいとか、音楽がやや微妙という気がしないでもない、という点はもしかしたら指摘できてしまうかもしれません。

 トゥールヴェル夫人が、サラ・ヴィルドーのはずが何故かナターシャ・ダドンというダンサーでした。でも額と前髪と眉が美しくて、すごくよかったです。明朗で快活で清潔で正直な感じが特に良かった。ただ繊細なだけだったり、病的に神経質なだけだったり信仰心が篤いだけだったり、という感じではなくて、喪服を着た未亡人なんだけれど、人生や世界を愛している感じが良かったのです。だからこそヴァルモンも真実の愛に目覚めてしまったのでしょうから。すごく説得力がありました。
 押し出しが良くてヴァルモンに負けていないメルトイユもよかったです。
 そしてやっぱりヴァルモン、迫力がありました。メルトイユもトゥールヴェルも着たきりで第二幕に寝間着になるだけだというのに、ヴァルモンだけお衣装替えをしていくゴージャスぶりがイイ。長髪が美しく、かつらを取ると猛々しく、脱いでもすごくてさすがは「あの」白鳥です。
 最初はヴォランジュ夫人(ヨランダ・エドジェル)をセシルかと思ってしまいましたよ。思っていたより若い感じだったので。でもあとは、セシル、ダンスニー、プレヴァン、神父とすぐわかって、各キャラクターがちゃんと立っていてよかったです。

 ただ、第一幕の幕切れが、ヴァルモンがセシルを襲うシーンなのですが、完全レイプなのですね。誘惑の形を取っていないし、セシルは本当に嫌がっていてほんの少しもヴァルモンにそそられていないので、これは観ていてしんどかったです。『ウエストサイドストーリー』のアニタの輪姦シーンと同じ理屈ですね。それからここへ至る流れがややはしょられていてつながりが悪く感じられたのも気になりました。
 メルトイユはジェルクールへの復讐のため、セシルを誘惑するようヴァルモンをけしかけるのですが、彼はあんな小娘という感じでからかいはしても基本的には興味がなく、ダンスニーをあてがってすませようとして、自分はトゥールベルにアピールするのに夢中なんですよね。このトゥールヴェルへのアクションがのちに真実に変化して大きなドラマを生むのだから、ヴァルモンのセシルへの寄り道にはそれらしい理由が必要なのだと思うのすよ。原作どおり、ヴォランジュ夫人がロズモンド夫人を通してヴァルモンの悪口をトゥールヴェルに吹き込んだので怒って、というのは確かにバレエではやりりづらいのかもしれませんが…
 同様に、トゥールヴェルと心を通わせ合ってからすぐ、メルトイユの幻影から逃げ出すようにヴァルモンが暴れて壊れていく様も、もう少していねいに時間をかけてやってもよかったかもしれない、と思いました。ダンスニーがメルトイユに誘惑されてしまう感じやセシルがヴァルモンを慰めようとする感じが、どうしても唐突に見えてしまったと思うので。
 でも、揺れて透ける窓ガラスのセットが効果的で、スリリングな舞台で、踊りが激しく美しく、すばらしくて満足な舞台でした。
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劇団四季ミュージカル『コーラスライン』

2009年12月25日 | 観劇記/タイトルか行
 自由劇場、2005年1月27日ソワレ。
 演出家兼振付家のザック(この日は飯野おさみ)の前で、大勢のダンサーが踊っている。ここは、近くオープンするショーのダンス・アンサンブル、いわゆるコーラスを選ぶためのオーディション会場だ。ザックが必要としているダンサーは男4人、女4人。この8つの役のために、男8人、女9人が最終選考に残された。舞台上には一本の白いライン、コーラスライン。並んだ17人にザックは問う。「履歴書に書いていないことを離してもらおう、君たちがどんな人間なのか」…原案・振付・演出/マイケル・ベネット、音楽/マーヴィン・ハムリッシュ、作詞/エドワード・クレバン、日本語台本/浅利慶太、翻訳/新庄哲夫。1975年ブロードウェイ初演。76年トニー賞受賞。全一幕。

 ウォーターゲイト事件をきっかけに、あの時代の虚無と無気力への反発として作られた舞台だということですが、さもありなん、という感じ。終演後に後ろの席の女の子同士の観客が「ロンドンミュージカルとは全然ちがうね」と言っていたのが印象的で、まさしく、良くも悪くも「ザッツ・アメリカ」という感じ。ぶっちゃけて言えば古い、しんどいとも思いました。
 みんながみんな、人種差別だの貧困だの家庭不和だのいじめだの美醜だのゲイだのとコンプレックスを抱えている設定。ううーん…どうだろう…もういいんじゃないか、と私はちょっと思ってしまったんですねえ…
 オーディションをそのまま舞台にした作品なんだけれど、もちろんこの舞台・この役のためのオーディションがあったはずで、役者さんたちは身につまされつつも挑んだのでしょうねえ。しかしダンスは文句のつけようがないほどすばらしかったですが、歌はもう少しなんとかしてほしかったなああ…
 一番しっかり歌えていたのはディアナ(吉沢梨絵)。歌手デビューもしているし、『マンマ・ミーア!』でソフィもやっている人です。私好みだったのはマギー(上田亜希子)。こういう顔も声も好きなんだ~。
 反対に本当につらかったのがキャシー(高久舞)。ローザンヌも取っているバレリーナで、一度はスターになって今さらアンサンブルに戻れないダンサー、という風格は十分で踊りは本当に申し分なかったけれど、歌はもっと聴かせてくれないと、ヒロインと言っていい役なんだから、しんどいと思います。

 男性キャラクターではマーク、ボビー、ポールの繊細さが好きでした。お話の始まり方、終わり方も好きです。
 エンディングで客席が手拍子したんですけれど、どう考えたって音楽に身を任せたらリズムは裏打ちするべきだったと思うんですけれど! 気持ち悪かったな~!! やはり日本人にリズム感はないのか? ミュージカルを愛する観客にしてからがこうでは…がっくり。
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