駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

岡崎京子『くちびるから散弾銃』

2009年12月14日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名あ行
 講談社コミックスデラックス

  バツグンのプロポーションとチセツな思考回路を持つ快楽主義者・サカエ。ロリータな好みとゲンジツの間をフワフワ漂うしっかり者・夏美。カタコリ有のハタラキ者・美夜子。高校時代からのマブダチ三人娘は23歳、今もおしゃべりに花咲かせる日々…

 6ないし8ページのオムニバス連作。
 どのエピソードもただ女のコたちのだらだらした会話を再現しているだけで全然オチてません。でもやっぱりおもしろい。あとがきにあるように、「15歳のときに自殺できなかった女の子たちがヒマツブシに生きて23歳になってもまだ生きてて、たぶんまだ死ぬまで生きそう」な感じがすごくよく現れていると思います。私にも高校時代からの親友ふたりがいますが、建設的なことを話し合っているときを別にすれば、普段の会話はホントこんな感じです。でも、女の子(とあえて言うんですが)にとっては世界って本当にこんなふうだと思うのです。

 この作品は以前にも上下巻本として発行され、再編集して描き下ろし「くちびるから散弾銃'96」を追加して完本とされたものですが、三人娘は「'96」では31歳。今のうちらと同い年なのです。それぞれの境遇も何やら似ています。こんなにファッショナブルじゃないけどさ。あなおそろし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡崎京子『リバーズ・エッジ』

2009年12月14日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名あ行
 宝島社ワンダーランドコミックス

 彼ら(彼女ら)の住んでいる街には河が流れていて、それはもう河口にほど近く、広くゆったりとよどみ、臭い。河原のある地上げされたままの場所にはセイタカアワダチソウがおいしげっていて、よくネコの死体が転がっていたりする。平坦な戦場で生き延びようともがく、少年少女たちの物語。

 本当は、『ジオラマボーイ パノラマガール』とか『pink』とかの方が好きです。この物語は、あまりにもイタいから。
 でも、目をそむけてはいけないのだとも思うのです。
 そういう意味では、最後に安易に希望を呈示したり、下手なハッピーエンドにしたりする凡百の物語と違って、せつないまま、つらいまま終わるこの作品は、やはり名作と呼ばれるにふさわしいものなのかもしれません。
 嵐の中にいる者には嵐は見えない。だから出方もわからない。嵐が過ぎ去って始めて、あれが嵐だったかと知るのでしょう。
「あの人は何でも関係ないんだもん」
 と言われたハルナも、胸が苦しくて涙を流す。そのエネルギーがあれば、大丈夫だとも思うのです。嵐が過ぎ去るその日まで、生き延びることが出きるはずです。いつか彼ら(彼女ら)に、
「ある朝目を覚ますと窓が開いていて自分が長いあいだ待ち望んだものの中にいることに気付くんです」(獣木野生『パーム』より)
 という日が来たらんことを、祈るより他ありません。
 忘れてしまっただけなのか、恵まれていたのか、自分にだってそういうときがあったはずなのですから。嵐は思春期に限らずに、人が生きていく以上、いつでも訪れるものなのかもしれないのですから。(2001.5.22)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レニングラード国立バレエ『バヤデルカ』

2009年12月14日 | 観劇記/タイトルは行
 東京文化会館、2004年1月28日ソワレ。
 寺院の庭で僧侶たちが聖なる火を称える儀式を行っている。巫女で舞姫バヤデルカであるニキヤ(スヴェトラーナ・ザハロワ)が美しい舞を奉納する。大僧正(アンドレイ・ブレグバーゼ)はニキヤに魅了され、聖職者の立場も独身の誓いも忘れて彼女に言い寄るが、拒絶される。彼女は戦士ソロル(ファルフ・ルジマトフ)と恋人同士で、その夜、聖なる火に永遠の愛を誓った。だが藩主ドゥグマンタ(アレクセイ・マラーホフ)は娘のガムザッティ(オクサーナ・シェスタコワ)に、国一番の勇者ソロルと結婚するよう命じる…作曲/L・ミンクス、台本/M・プティパ、S・フデコフ、振付/M・プテイパ、演出・改定振付/N・ボヤルチコフ。1877年ペテルブルク初演。全3幕。西欧でいうところの『ラ・バヤデール』。

 おもしろかったです。コンクールなどでよく見るガムザッティのヴァリエーションやガラでよく見るニキヤとソロルのアダージョなどがきちんとした形で観られて、大満足。
 第二幕のディベルティスマンなんかも私は大好きで(『白鳥』の第三幕なんか大好きだ!)楽しかったです。ラストの寺院崩壊のスペクタクルは紗幕に描かれていただけとは思えない効果ですごかったです。

 バレエ漫画などでよく取り上げられる、著名な演目のひとつですが、私は今まで今ひとつ物語の筋道がよくわからないでいました。いろいろな演出や解釈があるのでしょうが、今回の舞台では、ソロルはガムザッティに心変わりした訳ではなくて、最初から最後までずっとニキヤを愛しているのだけれど、国王から命じられた結婚にNOと言いづらいままでいるうちにこんなことになってしまって…という感じに見えました。だから納得しやすかったです。でも、最後の最後でガムザッティがソロルをはねのけたのはなんでなんだろう? そこにニキヤの亡霊を見たのかしらん…
 というわけで舞台は大変おもしろかったのですが、しかしガムザッティはいいな! パキパキと元気でイケイケの王女さまで、見ていて本当に気持ちが良かったです。婚約式の場面でロマンチック・チュチュと白タイツになると、意外や脚があまり美しくなかったのが残念でしたが。
 ニキヤ役の方が技巧も確かで演技も繊細で巧みだったのかもしれませんが、これはもう好みの問題で、私にはどうしても辛気臭いキャラクターに思えてしまったので。すまん。でも第三幕のパ・ド・トロワなんか緊迫していてすばらしかったと思います。
 あと、大僧正がなんかいかにも生臭坊主っぽくて、老いらくの恋に身を焼く中年男性の悲哀もあって、妙に印象的でした。
 しかし、ほとんど舞台の本質とは関係ないところで考えてしまったことが二点ほど。
 苦行僧といい太鼓の踊りといい…これはいつのどこの話なんだとつっこんでも仕方のない、つまり当時の西欧諸国に顕著だった東洋趣味・異国趣味丸出しの作りで、夢のインド、幻想のバヤデルカであり、これがエキゾチックでファンタジックだったんでしょうけれど、『ちび黒サンボ』が摘発される現代でこの差別・蔑視をひしひし感じる舞台がこんなに堂々と演じられていていいのかしらん…とちょっとドキドキしてしまいました。まあ芸術だからかもしらんけど。

 もう一点。ニキヤ-ソロル-ガムザッテイという構図は、たとえば『ジゼル』のジゼル-アルブレヒト-バチルド、オペラだけれど『アイーダ』のアイーダ-ラダメス-アムネリスという構図とまったく同じですよね。
 ヒロインと、その恋人と、権力者の娘で恋敵という女と。
 ヒロインは平民ないし貧乏な出で、恋敵は王族、間に立つ男はふたりのやや中間の身分、という構図なわけです(アイーダは世が世なら王女だけれど現状では奴隷娘だし。アルブレヒトとバチルドは同じ階級の出でバチルドの方が身分が高いということはないかもしれないが。『白鳥の湖』のオデット-ジークフリード-オディールもこの形に近いのかもしれない。オディールの「権力者の娘」の側面は弱いが)。ヒロインと恋仲である男が王なり上司なりに命じられてその娘との結婚を承諾せざるをえなくなり悩む、というパターンですね。
 人は昔から愛と富の間で揺れていたということでしょうか。しかし現代女性の視点からすると、三角関係で楽しいのは、自分が今『冬のソナタ』にハマっているからでは断じてなく、女1男2の形のはずです。このパターンの物語なんて見たことないぞ。古典的ヒロイン像というものがふたりの男性の間で揺れたりせず一途であるのが定番だからでしょうか?(強いて言えば『マノン』でヒロインは貧乏学生の恋人とパトロンの愛人との間で揺れている…かな? そしてそのマノンはやや「悪い女」として描かれがちではないか? あ、あと『カルメン』があるが、あれなんか殺されちゃうじゃん)でもそれって男性が女性に求めている姿にすぎませんよね? バレエにしろオペラにしろ、どんなにバレリーナやプリマドンナが中心に据えられもてはやされようと、それを演出し振り付けるのは男性であり、それを鑑賞し楽しむののもまた男性であったのだ、ということなのでしょうか…いや、別にあえてここでフェミニズムを振りかざそうというつもりはないんだけれど、今や劇場に足を運ぶ人間の八割がたは女性だろうから、そろそろもうこういうのってどうなんだろう、と思わないではなかった、ということです。
 たとえば、私にはガムザッティがすごく素敵な女の子に見えましたが、古典的なパターンの中では彼女が物語のヒロインになることはありえないのでしょう。古典的な男性からすれば、自分との愛によって身分の低いヒロインを社会的に引き上げてやれることは快感なんでしょうが、誰だって選べるものならお金持ちの家に生まれたいと思うのですよ。どっちかって言われたら貧乏よりは裕福な方がいいでしょう? つまりこの三者の構図の物語を見せられるとき、女性は二重の意味で不快に感じるのではないだろうか、と思ったのです。ヒロインが低い身分の出であるとされていることと、お金持ちの娘が敵役とされていることと、です。つまり誰だって、お金持ちの家に生まれた性格のいい娘として生きられたら楽だし楽しそう、と思うのが自然だから、二重の意味で否定されたように感じて不愉快になるんじゃないかなあ、ということです(私はだから、お金持ちのヒロインが愛も手に入れる…恋人は死んではしまうけれど…『タイタニック』は、そこがいちばんウケる理由だったのではないかと思っているのですが)。
 もっとも、欲望・願望・妄想のままに突っ走るとそれはそれでろくなことにならないというのは、現代の社会風俗情勢にまた如実に表われている訳ですが…たださ、ちょうどいい、物語として美しく楽しく、それが世の中のあるべき理想の形で生きる指針となるような、そんなドラマの形がどこかにあってもいいのではないだろうか、それを求めてやまないのだが私は…ということです。
 ううむ、ただの繰り言になってしまったか…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ベント』

2009年12月14日 | 観劇記/タイトルは行
 パルコ劇場、2004年1月15日ソワレ。
 1934年、ベルリン。文化が爛熟した「黄金の20年代」が過ぎ去り、街全体にアドルフ・ヒトラーの弁説が鳴り響く、狂気への疾走と崩壊を予感する時代。欲望に身を任せて刹那的な生活を送るやくざな男・マックス(椎名桔平)は、ゲイ・クラブのダンサー・ルディ(高岡蒼佑)と暮らしているが、ある晩クラブで乱痴気騒ぎを起こし、そこで出会った男・ウルフ(永島克)を部屋に引っ張り込む。だが翌朝、部屋にナチス親衛隊が乗り込んできてウルフを惨殺する。ヒトラーが自らの右腕で同性愛者でもあったレームを粛正し、同性愛者狩りを始めたのだった…78年に朗読形式で初演、79年にロンドンで初演、86年日本初演の戯曲。作/マーティン・シャーマン、訳/青井陽治、演出/鈴木勝秀。

 どっしりとして、緊密な、いい舞台でした。私はじんわりしただけでしたけど、号泣している観客が多かったです。私はちょうどヴェトナム戦争をモチーフにした小説を読んでいたところで、人間がいかに戦争下において非人間的になれるか、みたいなことがテーマのひとつだったのですが、それに通じるものを感じました。今また世の中はきな臭くなりつつあり、人間は何ひとつ学ばず、いつもいつも愛を忘れて生きていくのかと思うと、その愚かな人間のひとりである自分が恥ずかしく感じられてなりません。

 観劇前に、ネタバレしない程度にパンフレットを斜め読みしたのですが、ルディの運命を先に知ってしまってちょっと残念でした。
 私にとってこの人は映画『青い春』で覚えた若手俳優さんですが(でも連ドラ『東京ラブ・シネマ』でのメガネのバイトくんも好きでした)、舞台でもがんばってくれていてうれしかったです。
「僕自身は彼と違って」とルディには距離を感じていたようなのに、マックスのことが好きで好きで、ひたむきで真面目でいじらしい青年、という姿を、ちゃんと舞台に現出させていました。冒頭のシーンがあまりに早口なのは、ウルフのことを怒っているという演出かもしれないけどちょっと早すぎ…と思いましたが。

 同様に、パンフレットでは聖人のように崇め奉られているホルスト(遠藤憲一)でしたが、彼は確かに辛抱強いし懐も大きい人だしいい人だけれど、別にごく普通の、ただまっとうな人だったんじゃないかなあ、とパンフレットにちょっと違和感。もちろんこの時代、この境遇において単なるまっとうさを貫くことがどれだけ大変なことだったか、それを成し遂げた彼がどんなに偉大だったか、ということについては認めるのにやぶさかではないのですけれど。パンフレットの裏表紙に掲げられたホルストの台詞こそ、この作品のテーマなのですからね。役者のパンフレットの写真はすごく精悍ですが、舞台ではほわわわんと温かい雰囲気を醸し出していて、それがまたホルストっぽくてよかったです。最後の、最後だけの、抱擁、泣きました。

 そしてそして、こういうちゃらんぽらんでいいかげんなあんちゃんをやらせるのにどうしてこうぴったりなんだろうという椎名桔平。マックスってもうちょっと悪い感じでもいいのかな?ともちょっと思いましたが、いややはりこの人はワルなんじゃなくてただいいかげんだっただけなんだな、と今では思います。そういう、何をするにもいいかげんで、ただ自分だけが生き延びられればいい、そのとき楽しければそれでいい、というようだった人間が、ピンクの逆三角形を胸に抱いて、石運びを続ける、という結論に意味があるのです。それは、同性愛者である自分を認めた、なんてことよりもっとずっと広く深い意味を持つことだと思います。それは、自分が人を愛したことの宣言です。自分が愛を知っている人間だという宣言です。人間らしさを失ってしまった収容所の看守たちに見せつける、人間の尊厳の証です。…泣きました。
 悲しいけど、後追い自殺なんて駄目、駄目、でもじゃあ彼はどうしたらいいの?とおろおろしていた私に、彼は、作者は、こんなにすばらしい答えを見せてくれたのでした。

 印象的だったのが、ウルフ役の永島克が言っちゃなんだけどホントにいかにもな下卑た色気がある容貌でぴったりだと思ったこと。もうひとつ、マックスの叔父・フレディ役の佐藤誓がまた最初は「マックスの昔の恋人?」とか思わせられるくらい訳あり感たっぷりで、監視の目を恐れつつもつい周囲のその気がある子を目で探しちゃうダメダメぶりがいかにもで、すごくよかったこと。
 それからナチス親衛隊の大尉とゲイ・クラブのオーナー・グレタの二役を演じた篠井英介について一言。グレタが店のショーの練習をするシーンで、ガーターベルトのついた黒のロングブラジャー(ボディスかな?)にずり落ち気味の黒のストッキング、といういでたちだったのですが、のぞく尻や太股が女性のやわらかなそれとちがっていて、また筋肉しっかりのマッチョ男性のものともちがっていて、妙にドキドキしてしまいました。異性装の男性に目覚めてしまったのかしら私…いや、もちろん演技もすばらしかったです。

 タイトルは、英語の「傾向」とかいう意味なんでしょうか…? お詳しい方いらしたら、教えてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする