映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ゴッドランド/GODLAND(2022年)

2024-04-20 | 【こ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85163/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 デンマーク人の牧師ルーカスは、植民地アイスランドで布教の旅に出る。任務は、辺境の村に教会を建てること。

 しかし、アイスランドの浜辺から馬に乗り、陸路ではるか遠くの目的地を目指す旅は想像を絶する厳しさだった。

 デンマーク嫌いでアイスランド人の年老いたガイド・ラグナルとは対立し、さらに予期せぬアクシデントに見舞われたルーカスは、やがて狂気の淵に落ちていく。瀕死の状態で村にたどり着くが……

=====ここまで。

 アイスランドが舞台。制作は、デンマーク、アイスランド、フランス、スウェーデン。


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 アイスランド映画、、、というと、『LAMB/ラム』(2021)とか、『隣の影』(2017)とか、よく言えば個性的、ぶっちゃけヘンな映画しか思い浮かばないのだけれども、もちろん、ヘンな映画は誉め言葉です。大・好・物!!

 なので、アイスランド映画と聞くと、とにかく見てみよう!という気になってしまい、本作もチラシを見たときから「ゼッタイ見るぜ!」と思っていたので、公開直後に劇場まで行ってまいりました。予想を超えるヘンっぷりでありました♪


◆ヤなヤツでも聖職者になれる。

 ルーカスがね、、、ゼンゼン応援出来ないんだよね、見ていて。困難続きのアイスランドの道行なんだけど、あんだけ困難続きの主人公だったら、大抵は「頑張れ!」って思うじゃない、観客としては。……思えないんだ、これが。

 いや、ルーカス君は、かなり真面目に使命感に燃えている。死にそうになりながらも、「もう帰りてぇ~」とか神に祈りを捧げつつ弱音を吐きながらも、でも、教会建設をしなければ!という気持ちは伝わって来る。それなのに、どうも“いけ好かない”んである。

 というのも、な~んか感じ悪いんです、ルーカス君。明らかに植民地を見下しているのが端々に感じられ、アイスランド語を覚えようともしないで通訳頼み。んで、やたら大荷物の中に積んであるカメラを時々取り出しては、アイスランドの荒涼とした風景を写真に撮ることを繰り返す。

 が、悪いことに、この頼みの綱の通訳が、ルーカス君自身の無謀な決断により溺れ死んでしまい、彼は現地の人たちとのコミュニケーション手段を失うのだ。色々アホやなー、、、としか、、、。

 いくらガイドのラグナルとはソリが合わないとはいえ、あんな上から目線の人間じゃあ、植民地とか関係なくダメでしょう。

 ルーカス君は通訳を亡くした後も、基本姿勢は変わらないまま、挙句の果てには衰弱して死にかける。いっそ、あのまま死んだ方が彼は幸せだったかも。

 一命をとりとめ、いざ教会を建てよう!!となって、現地の人たちが工事をしていても、ルーカス君、一切手伝おうとしない。傍観者。その間に、彼を敷地内の小屋に寝泊まりさせてくれているデンマーク人(入植者ね)の娘と寝ちゃうし、何だかなぁ、、、である。

 トドメは、ソリが合わなかったガイドのラグナルを殺しちゃうんだよー。おいおい、、、。

 その前にラグナルに執拗に「自分の写真を撮ってくれ」と言われたことにイラついて、ラグナルがデンマーク語を話せないのをいいことに「そんな見苦しい顔は撮りたくない!能無しのブタめ!!」とデンマーク語で暴言を吐いた挙句、実はラグナルがデンマーク語を解していたと知り慄然とする小心者振りをさらけ出す。しかも、ルーカスの馬をラグナルが殺したと知り、カッとなって、、、って感じで、およそ聖職者にあるまじき行動。

 教会は建ったのか? ええ、ええ、建ちましたよ。でもね、、、ルーカス君、自身の行いのツケを払うときがやって来てしまったわけよ。残念!


◆傲慢な人間の末路は、、、

 竣工したばかりの教会でミサを行うルーカス君。しかし、その最中に赤ん坊が泣きだすわ、外では犬が執拗に吠えるわで、まったくミサに集中できない。すると、ルーカス君、なんとミサの祈りを勝手にやめて、犬を追い払おうとしたのか教会の扉を乱暴に開けて外に出る。で、犬を追い払おうと足を踏み出した途端、ぬかるみに足を取られてすっ転ぶルーカス君、、、その顔には、真っ黒な泥がべっとり、、、。

 その泥まみれの顔は、さながら、ルーカスの徳の無さを映しているかのよう、、、なんと皮肉な。

 そんな姿ではミサは続けられないと悟ったのか、ルーカス君、そのままミサをすっぽかして出奔! なんなんだ、コイツ、、、。

 結末は、、、、ここには敢えて書かないけれど、私としては納得でしたね。唐突な感じもあるけれど、彼には似合いの末路だと思った。

 こんな冷徹なシナリオを書いたのは、監督でもあるフリーヌル・パルマソンというお方でアイスランド人。でも、映画製作の勉強はデンマークでしている。本作を撮った動機としては、自身の2国間に股裂き状態となったアイデンティティに根差して、「2つの国を対峙させたときに、それらがどのように姿を現すのか、探りたかったのです」と語っている。なるほどね、、、。

 日本語話者が本作を見ても、デンマーク語とアイスランド語の違いはほとんど分からない。字幕は、区別して表示されている。
 
 そんなわけで、ルーカスという、聖職者としては致命的に想像力を欠いた人間の酷過ぎる話なんだが、アイスランドの風景と相まって胸に迫る。

 

 

 

 

 


アイスランド、一度は行ってみたい。

 

 

 

 

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ゴーストワールド(2001年)

2024-04-14 | 【こ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv32002/


以下、早稲田松竹のHPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

バカなクラスメイト、つまらない大人たち――死んだ町をぶらぶら彷徨い歩く ふたりの少女の分かれ道

 1990年代、アメリカ都市郊外の名もなき町。幼馴染で親友のイーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)は、高校卒業後も進路を決めず、町をぶらついては面白いことを探して過ごしている。

 ある日、二人はモテないレコードマニアの中年男・シーモア(スティーヴ・ブシェミ)に出会う。ダサくても自分の世界を持っているシーモアに興味を持ったイーニドは、アウトサイダーとして生きる彼の“理解者”として交流を深め、奇妙な友情関係を築いていく。

 一方、アパートを借りるために地元のコーヒーショップに就職し、社会と折り合いをつけて自立しようとするレベッカ。同居生活を計画していた二人の間には次第に距離が生まれ…。

=====ここまで。

 原作はコミックらしい。


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 ちょっと前に、リバイバル上映があるとTwitterのタイムラインで流れて来て、見たいな~、と思いつつ結局行けず仕舞い、、、。TSUTAYAでDVDレンタルできるみたいだし、まあいっか、、、と思っていたところ、早稲田で上映してくれたので見に行ってまいりました。


◆誰もが通る道

 映画友も本作を早稲田に見に行ったらしく、感想を長文メールしてきた。そこには「すべてのサブカル女子は“イーニドはわたしだ”と思ったのでは」と書かれていて、彼女の10代の頃の話をイロイロ聞いて来た者としては、「まあそーだろうね」と納得したが、私はどちらかと言うまでもなく、完璧にレベッカタイプの人間なので、映画友ほどイーニドに入り込むことは出来なかったのだった。

 でもね。あの頃の女子独特の冷笑的気質、空虚感、残酷さ、、、等々は、ある意味、誰もが通る道という感じもして、大いに共感する部分でもあった……のだが、私が本作を見て感じたことは別のことであった。んで、上記の映画友のメールを見て、さらにそれを強く感じさせられたのだった。

 つまり、私の10代(大学で家を出るまで)は、なーんにも考えていなかったのだなー、、、ということ。別に親のせいにするわけじゃないが、とにかく、支配されることに慣れてしまっていて、思考停止だったような気がするのだ。

 4歳上の姉がメチャクチャ優秀で、私は足元にも及ばない成績だったんだが、それ故、本人としては頑張ったつもりでも、母親の眼には「まるでダメ子」にしか見えなかったらしく、とにかく勉強机の前に座っていないと怒られた。本を読むのもダメ、当然マンガもダメ、音楽聞くのもダメ、、、。小学生のとき、名古屋まで塾に通わされていたのだが、マリー・ローランサンの展覧会が塾から駅までの帰り道で開催されているから行きたいと言ったら「こんな成績で絵見に行きたいって、あんたアホと違う??」と路上で罵られたんだけど、私が憮然として断固「行きたい!」と訴えたら、ウンザリした顔で辛うじて見に行かせてくれた。が、その帰り道、電車に乗っている間中、家に着くまでずーーーーーーーっと、お説教だった。もう、いつも言われていることで、私にとってはご利益の無い念仏みたいなもんだったから、脳内でさっき見たローランサンの絵を思い浮かべてぼんやりしていたのだった。そういう私の態度がますます母親の癪に触り、家に帰ってから怒鳴り散らされた。

 ある時は、学校で休憩時間中にお絵描きしようと思って、お絵描き帳を出そうとノートに触ったら、やけにノートの厚みがない。はれ??と思ってよく見ると、絵が描いてあったページは全部破り取られていて、残り真っ白な数ページが辛うじて残っていた、、、なんてこともあった。家に帰って「ノート破った?」って母親に聞いたら「もう○年生にもなってあんなくだらん絵描いとったらあかんの!!」と言われて終わりだった。

 ……というようなことが幼少期から日常茶飯事であると、だんだん感性が麻痺するというか、学校へ行っている時間は辛うじて自身を取り戻すのだが、家に帰ると“無”になるしかなかったような気がする。中学で自分の部屋を与えられると、多少、親の目を盗んで、本を読んだり、マンガを読んだり、日記を書いたり、、、していたけど、見つかって激高されると、絶望するんだよね。あーあ、、、って。高校生になっても、机の中を漁られたり、本棚を調べられたりはしょっちゅう、友人との電話を別の電話で聞かれたり、なんてこともあったが、さすがに高校は通学時間という学校でも家でもない空間があり、そこで本を読んだりマンガ読んだり友人と駄弁ったりはできたが、所詮知れている。

 なので、イーニドのように、世間に対し不貞腐れることさえ思いが及ばない、、、というか、ところてんのように押し出されるがまま、、みたいに生きていた10代だった。

 ただ、私の本質的な気質として、イーニドのように思いっ切りレールを外れる勇気もなく、レベッカ同様、世間というものに自ら馴染んでいく常識人なので、イーニドのぶっ飛んだ言動は面白い半面、正直言ってヒヤヒヤするばかり。自分の小心者っぷりを改めて思い知る。

 さらに言えば、拗らせることのできるイーニドがちょっぴり羨ましくもなった。イーニドはイーニドなりに悩み苦しんでいるのだろうが、それは、私のような思考停止少女からみれば、それだけ“余裕”があるのであり、自分らしく居られているのではないか、、、と思えてしまう。……これってヒガミかしらん。


◆あのバスは何処へ、、、。

 ラストシーンが、見方が分かれているらしい。

 前述の映画友は、メールに「哀しいラスト」と書いてあった。ネットを見ると、あのバスに乗ってどこかへ行くのは、自死の暗示だという解釈があるらしく、ビックリ。

 私は、イーニドが拗らせにケリをつけるべく、ここではないどこかへ旅立つ、割と前向きなシーンと捉えたのだけど。

 監督自身はインタビューで、見る人の心に委ねたいと言っているようだけど、若い子たちのモラトリアム映画の結末が自死だなんて、私としては好きじゃないので、その解釈は好きじゃないなぁ、、、という感じだ。

 ただ、ちょっとなぁ、、、と思っちゃったのは、オタクのブシェミとイーニドが、終盤男女の関係になっちゃうこと。ああなっちゃったら、ブシェミはただのキモオタに成り下がってしまうではないか。私はブシェミが好きなので、余計にそれは受け入れがたい(と、飽くまで個人的感情)。

 あと、気に入らなかったのが、あの美術の教師。イーニドが出したあの絵を見抜けない時点で、教師としてマズいんでないの? あの美術の授業シーンは、何がかは自分でもイマイチ言語化できないけど、どうもイヤな感じを受けた。結局、彼女の指導がいい加減だったことで、イーニドは余計にドツボにハマってしまったわけだし。教師である以上、生徒の人生に影響を与えていることに自覚的になって欲しいよなぁ。

 スカヨハはおもったより出番が少なかったけれど、今もあまり変わらないなー、という印象。ソーラ・バーチの拗らせ演技が実に良かった。スカヨハと逆の配役は、、、あり得んなー、と思いながら見ていた。

 

 

 

 

 

 

世間もバカだが、自分はもっとバカ。

 

 

 

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黒蘭の女(1938年)

2023-06-21 | 【こ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv4526/


以下、allcinemaの作品紹介のコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 ジュリー・マースデン(ベティ・デイヴィスは血気盛んな、南部の綿糸工場の経営を継いだ女当主で、心憎からず思っていた許婚者の屈強な若者プレストン・ディラード(ヘンリー・フォンダを、しきたりを煩しく思うあまり遠ざけてしまうが、後に彼が黄熱病に罹ってからというものは、献身的な介護でその罪滅ぼしをする。

 南北戦争直前から最中にかけての時代を背景に、気高い南部美人(サザン・ベル)の意欲的な生き方と恋の葛藤を見つめる、ワイラーの重厚な演出が光る秀作。デイヴィスの当たり役の一つで、その年のオスカー主演賞を得た。

=====ここまで。


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 この邦題、正しくは「こくらんのおんな」と読むのですが、私はいつも頭の中で「くろらんのおんな」と音にしてしまうのですよねぇ。似たようなケースは「白鯨」で、正しくは「はくげい」なのですが、「しろくじら」と脳内で音にしていて、先日、ウチの人の前でつい口にしてしまったら「ハクゲイだろ」と鼻で笑われ、すごいカチンと来て「いやだから、知ってるって、、、」と思わず言ってしまったけど、それだけですごい言訳感満載でそれ以上説明するのもイヤで。でも、何となくムカついたんですよねぇ、、、。何に、、、??

 それにしても、この邦題は意味不明ですな。原題からも、作品の内容からも、ほとんど脈絡がない、、、としか思えませぬ。誰がつけたんだろ??

 何となくTSUTAYAのリストに入れておいたら送られて来ました。ベティ・デイヴィス主演だからリストに入れたのだと思うのですが。で、TSUTAYAの紹介にはこう書いてありました。

「自分の裏切った男への復讐心に燃える女を描いたラブストーリー。19世紀半ばのニューオリンズ。自分を捨てて、ほかの女と結婚した男に、さまざまな復讐を企てる毒婦“イザベル”の波乱万丈な人生を描く。ベティ・デイヴィスが悪女役を好演。」

 大嘘やん、、、。TSUTAYA、これ直した方がいいですよ、マジで。


◆イヤな女、その名はジュリー

 何かと、「風と共に去りぬ」と比べられる本作。モノクロ版「風と共に~」などとも言われているらしいのだが、あちらはインターミッション付き4時間の長尺映画であるのに引き換え、こちらは2時間にも満たないコンパクトさで、まあ、見た目的にも「風と~」に比べてお金がかかっていないのは明白。

 ワイラー監督はまあまあ好きだが、本作は、私的にはあんましピンと来なかった。そもそも、ベティ・デイヴィス演ずる主役のジュリーが、どうにも苦手なキャラ。わがままお嬢という設定なんだが、ああいうのは、わがままというより、自己顕示欲が強い人と言った方が良い気がする。わがままというと、育ちが良くて何でも思い通りになると思っている勘違い女(端的に言うとバカ)、、、、だと思うが、ジュリーの場合は、ちゃんと分かっててやっているんだよね。周りが困惑して迷惑かけるのは百も承知でやっている。

 ただ、彼氏プレスが、それで本当に自分に愛想を尽かすとまでは、さすがに彼女も思っていなかった。……って、これは単なる傲慢でしょ。

 というわけで、どこを切ってもイヤな女しか出て来ない金太郎飴なわけですよ。

 白いドレスしか着ちゃいかん、という慣習が悪いとか、そりゃ今の物差しでイロイロ言うことは出来るけど、この場合、そういう話じゃないでしょってことよ。まあ、敢えて言うならTPOなのか。彼女の自己顕示欲を押し通すことで、プレスは恥をかいたわけで、あのパーティが彼女一人で参加するものだったら、むしろ古臭い習慣を打ち破った先進的な女性、、、とかになるんだろうけどさ。

 1年後にプレスと再会するときの、あのウキウキしたジュリーの姿は、見ている方が気恥ずかしい。プレスが一人で戻って来ると思い込んでいるあたりが、もうイタ過ぎる。

 スカーレット・オハラの方が、キャラとしてはまだマシだと思うわ。スカーレットも相当なモンだと思うけど、ジュリーは頭は悪くないけど、性根が悪い。

 なので、後半、プレスが黄熱病で隔離されるのにあたって、命がけで看病に付き添う、、、とかってプレスの妻を説得するシーンも、全然グッと来なかった。ナニ勝手なことを言っているんだ、この人は、、、としか。あんなんで説得されちゃう妻も妻というか。時代なんですかねぇ?

 とにかく、何から何まで、??何でそーなるん???という感じでありました。


◆その他もろもろ

 ヘンリー・フォンダが若い! けど、あんましカッコ良くない。全然イイ男に見えなかったのが辛いとこ。……いや、ルックス的な魅力だけでなく、キャラ的にも、まるで魅力的じゃないのだよなぁ。ジュリーが何であそこまであの男に執着したのか、よく分からん。

 ベティ・デイヴィスは、ジュリーというヘンな女を情熱的に演じていらっしゃいました。彼女が演じると、ヘンな女もとりあえず見られるので、さすが。

 プレスが結婚したエミィという女性は、メラニーと若干被る感じではあるが、正直言って、存在感がほとんどなく、キャラ的にもパッとしない、これまたプレスが彼女の何に惹かれたのか謎な女性である。演じるマーガレット・リンゼイ自身地味な感じではあるのだが、、、。あと、衣装がイマイチだったなぁ。

 それにしても、プレスは黄熱病から回復したとして、隔離先で看病してくれたのが愛する妻でなく、ジュリーだったと知って、嬉しいですかね? ハッキリ言って、私がプレスだったら、めちゃくちゃムカつくと思うんだが。何勝手なことしてんだよ、こいつ、、、と。妻に病気を感染させたくないので、妻が付き添っていないのは構わないが、何でお前がおんねん!!ってなるでしょ、普通。

 ……まあ、致死率も割と高いみたいなので、回復せずに亡くなったとすれば、そんなことはどうでもよいのだが。ジュリーも感染した可能性も高いしねぇ。とにかく、最後が美談ぽくなっているのが解せないんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

黒欄の花言葉は「希望」だそうで、、、

 

 

 

 

 

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こちらあみ子(2022年)

2022-06-26 | 【こ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv73461/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 あみ子はちょっと風変わりな女の子。優しいお父さん、いっしょに遊んでくれるお兄ちゃん、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいるお母さん、憧れの同級生のり君、たくさんの人に見守られながら元気いっぱいに過ごしていた。

 だが、彼女のあまりに純粋無垢な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていくことになる。

 誕生日にもらった電池切れのトランシーバーに話しかけるあみ子。「応答せよ、応答せよ。こちらあみ子」―――。奇妙で滑稽で、でもどこか愛おしい人間たちのありようが生き生きと描かれていく。

=====ここまで。

 今村夏子デビュー作「こちらあみ子」の映画化。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 原作小説は、割と上梓されて間がない頃に一度図書館で借りて読んだのだが、あまりピンと来なかったのか忘れておりました。その後、巷で評判になり、文庫化されたのを機に、どれどれ、、、と思って購入して読んだところ、途中の“お墓のシーン”(後述)で「あれ、、、これ前に読んだのでは?」と思い、読書ノート(を一応つけているのです。忘れっぽいので)をめくったところ、やはり読んでおり、しかもちゃんと感想まで書いていた!! 我ながら茫然、、、。

 で、その2度目に文庫で読んだ際に、ものすごい衝撃を受けたのですよ。私には時々こういうことがあるんです。映画でも本でも、初めて見たり読んだりしたときは右から左にスルーしてしまったのに、2度目に見たり読んだりして、ガーーーン!!!ということが。その際、1度目に見たり読んだりしたことをちゃんと覚えていることもあれば、このあみ子のように全く記憶から消えている場合もあります。

 何で初回でスルーしてしまったのかが不思議なほど、2回目で衝撃を受けるわけですが、ホントに何でなんだろう、、、? 同じ経験がおありの方、いらっしゃいますかね?? こんなの私だけかなぁ? あまり身近な人には聞いていないので分からないのですが。


◆舞台挨拶付きの試写会なんて何年ぶりかしらん??

 映画好きを自任しているけれど、私はあんまし“舞台挨拶”ってのが好きじゃない。理由は、1つは“混む”からで、もう1つは“俳優さんをリアルで見たくない”から。

 やはり俳優さんたちが登壇するとなるとファンが集まって混雑するので、単純にその映画が見たい人にとっては嬉しいことではない。また、映画の中の登場人物が、俳優として別人格で作品を見る直前とか見た直後に目の前に現れてベラベラ喋っているのを見るのは興醒め、、、というふうに感じてしまう私は、舞台挨拶にはほぼ行かない。

 これまで行ったことがあるのは、大昔に仕事がらみで断れずに行った『新・極道の妻たち』(1991)だけかな、多分。岩下志麻さんがおキレイでした、、、くらいしか記憶にないが、あの時もすごい混雑っぷりでウンザリした。映画自体も、あんまし、、、って感じだったし。

 なのに、本作でわざわざ舞台挨拶付きの試写会に行く気になったのは、全席座席指定(ネット予約)だったから。しかも新宿武蔵野館というミニシアターで、混むと言っても知れているし、何より、原作が好きなので早く見てみたい、というのが大きかった。たまたまネット予約のサイトを見に行ったら、まだ空席があったので、だったら行ってみよう!と。

 登壇されたのは、井浦さん、尾野さん、大沢さん、監督の4名。こじんまりと節度のある進行で、良い舞台挨拶でした。本作の舞台となった広島の銘菓「桐葉菓」をいただき(まだ食べていない)、監督さんの本作に対する思い入れも聞けて良かった。……けど、まあ、やはりこれからも舞台挨拶に積極的には(上記理由により)行かないでしょう、、、。


◆本題~映画の感想

 で、ようやく映画の感想なのだが、原作未読の人が見ると、ものすごく不思議な、下手すると訳の分からない映画かも知れない。けれど、原作を知っている人が見ると、割と好感を抱けるのではないか。

 ただ、原作の雰囲気とはちょっと方向性が違うかな。でも、映画は映画で独立したものなので、本作はこれで十分良いと思う。そもそも原作と同じ雰囲気づくりを狙っていたのかは分からないし。あみ子の“悪意なきやらかし”が周囲に(悪い意味で)波及していってしまうところとか、実に上手く描いていると思う。

 原作にない要素としては、過去の偉人(?)たちなどが行進したり、ボートにあみ子と一緒に乗ったり、、、というシーンがあるのだが、これはあみ子の部屋で妙な物音がするようになって、それをあみ子が“おばけ”だと認識し、おばけつながりで出てくる。♪おばけなんてないさ~、の歌が本作のテーマソングのようにもなっていて、それらの“おばけ”さんたちが出てくるシーンでもこの曲が流れる。

 この“おばけ”さんたちが、私にはちょっと??であった。これは、あみ子ワールドを描くものだったのだと思うが、学校の音楽室にある肖像(よくあるベートーベンとかのアレ)から、モーツァルトと思しきゾンビっぽいのがピアノ弾いているとか、ちょっとあみ子の脳内を描いたものとしては違う気がしてしまった。まあ、画的にはシュールで面白いのだが、、、。

 しかも、この“おばけ”さんたちが結構終盤で重要なファクターとなってくるのだ。だから余計に、うぅむ、、、となってしまった。下手に原作を読んでしまっているので、それが映画の世界に没入するのを妨げてしまった。

 あと、前歯がなくなった後の描写がないのは、かなりガッカリだったかな。あれが原作では相当なインパクト……というか、あみ子のキャラを決定づけているシーンともつながっているし。いつ出てくるかな~、と楽しみにしていたが、出て来ないまま終わってしまった。


◆父親が、、、

 原作を読んだときも感じたが、映像化されてますます強く感じたのは、あみ子の父親の最低っぷりである。この父親は、本当にもうどうしようもないくらいにクズである。原作では描写があまりない=影が薄い、、、で済んでいたけど、映像化されると描写が少なくても登場シーンはそれなりにあるので、最低っぷりが際立ってしまう。

 あみ子がああだからということで、父親は諦めているのか、なんのケアもせず放置なのだ。家の中は荒れ放題。一応、家事も最低限はしているのだろうが、あみ子と全く向き合おうとしない。食事を与えたり、怪我をしたら医者に連れて行ったりはするけれど、あみ子の内面は徹底的に無視する。

 あみ子の部屋のベランダで不可解な物音がして、あみ子が父親に「おばけかな?」と言うのだが、「おばけなんかおらん」(セリフ正確じゃありません)とか何とかいって、取り合わない。けれど、あみ子はおばけが怖いから大声で♪おばけなんてないさ~と歌って怖さを紛らわせていると、怖い顔をして部屋の扉を開け「もっと小さい声で歌え! お母さん寝てるんだぞ!」と怒鳴りつけるだけで、パッと扉を閉めて去っていく。これでは、幼いあみ子はどうしようもないではないか、、、。

 あみ子には、昔は優しかったけどグレちゃって、めったに家にも帰ってこなくなったお兄ちゃんがいる。久しぶりに帰って来て、あみ子がベランダにおばけがいると言って怖がっているのを見ると、靴のまま家に上がり、掃き出し窓をバッと開けてベランダへ出ると、ベランダの隅に置いてある物を乱暴にどかすお兄ちゃん。そこには鳩の巣が、、、。お兄ちゃんは言葉も少ないし、やり方も乱暴だけど、ちゃんとあみ子の恐怖感を払拭してくれている。もっと早く父親がこれをすべきなのではないか?

 ……という具合に、父親はとにかく現実に背を向け続ける。見ていて本当に憤りを覚える。親がケアしなければ、あみ子は誰がケアするのか。果ては、この父親、自身の母親、あみ子からすればおばあちゃんにあみ子を押し付けてしまうのだ。手に負えないのは分かるが、そこに行きつくまでの過程が無責任過ぎて全く同情できない。

 親も人間なので、放置したくなるだろうが、それが結果的に、あみ子だけでなく、お兄ちゃんをグレさせ、妻を鬱から回復させにくくし、あみ子は学校に行けなくなった。やはり、あの父親の罪は深いと言わざるを得ない。こういう話を見聞きしても、東浩紀は「親は子を選べない」って言うのかね? 言うんだろうな、こういう話があるからこそ、言うんだろう。

 そのムカつく父親を、井浦新が好演。継母は、尾野真千子が演じている。継母が死産した赤ちゃんの墓を、庭先の金魚の墓の隣にあみ子が作って継母に見せるシーンがあるが、そのときの尾野さんの号泣は、ちょっと演出的に違う気がした。いや、あれもアリだと思うけど。あまりにショックが大きいときって、人間、あんな風に声を張り上げる力さえないと思うんだよね、、、。

 あと、あみ子を演じた大沢一菜ちゃんは、原作から私が抱いたあみ子のイメージとは違ったけど、素晴らしかった。中学生の役はちょっと無理があったかもね。とはいえ、中学生時代のあみ子を探すのも難しいだろうし、仕方ないか。

 とりあえず、原作を再読してみようと思っている。公開後の再見は、、、ないかな。

 

 

 


 
 

 

 

 

劇場公開は7月8日。

 

 

 

 

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コレクティブ 国家の嘘(2019年)

2021-10-19 | 【こ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74365/

 
 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 2015年10月、ルーマニア・ブカレストのクラブ“コレクティブ”でライブ中に火災が発生。27名の死者と180名の負傷者を出す大惨事となったが、一命を取り留めたはずの入院患者が複数の病院で次々に死亡、最終的には死者数が64名まで膨れ上がってしまう。

 カメラは事件を不審に思い調査を始めたスポーツ紙「ガゼタ・スポルトゥリロル」の編集長を追い始めるが、彼は内部告発者からの情報提供により衝撃の事実に行き着く。その事件の背景には、莫大な利益を手にする製薬会社と、彼らと黒いつながりを持った病院経営者、そして政府関係者との巨大な癒着が隠されていた。

 真実に近づくたび、増していく命の危険。それでも記者たちは真相を暴こうと進み続ける。

 一方、報道を目にした市民たちの怒りは頂点に達し、内閣はついに辞職へと追いやられ、正義感あふれる大臣が誕生する。彼は、腐敗にまみれたシステムを変えようと奮闘するが……。

=====ここまで。
 

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 緊急事態宣言とやらが解除され、映画館も通常営業に戻りつつあるみたいですね。しかし、劇場へ足が向かなくなって久しくなり、いくら感染状況が落ち着いているとはいえ、何だかもう、、、気分的にどよよ~んですよ、マジで。映画見に行こう、っていう気に、なかなかならない。家でDVD見る方が良いわ、とか思っちゃう。

 ……けれども、先日、思いがけず用事が早く終わって、ぽっかり平日の午前中から時間が出来てしまいまして。あら、じゃあ、映画見に行こうかな、、、と脳が自然に思考しておりました。で、本作を見に行ったわけです。ほかにも見たいのはあったんだけど、どれも絶対DVD化されるだろうと思われるし、これも多分されると思うけど、もしかするとされないかもな、、、という一抹の不安もあり、見ておこうと思った次第。


◆大臣室に入るカメラ。

 本作はルーマニアの映画だが、ルーマニアといえば、私の脳裏にはあのチャウシェスク処刑の映像がこびりついており、また、映画では『4ヶ月、3週と2日』(2007)という怖ろしい作品が真っ先に思い浮かぶ。あのトランシルバニアもルーマニアだしね、、、。だから、とにかく、ルーマニアというと、どうしても暗いイメージなんである。

 余談だけど、何年か前に、岩合さんのネコ歩きのロケ地がルーマニアで、しかもあのブラン城の前でのロケもあって、そこのネコがたしか白に茶のブチだったんだけど、適度に毛がボサボサで、さすがドラキュラのネコ、、、なーんて勝手に思ったんだけど、でも、景色はとても美しく、ゼンゼン暗くなんかなかったのでした。

 それはさておき。

 コトの発端となったライブハウスの火事だが、この実際の映像が本作の序盤で出て来る。今も、You Tube とかで見られるらしい(確認はしていません、念のため)。いや、それが、、、めちゃくちゃ怖ろしい映像で、火の回りが異様に速いんである。もう、ホントにアッと言う間。どうやら、法令違反の建材が使われていたとか何とか、、、(ネット情報なので真偽不明)。でも多分そうでしょう、あの火の回りの速さは、燃えやすい建材でなければあり得ない。まるで藁ぶきの天井が燃えているかのようだった。

 入口が1つしかなかったので、大惨事になったわけだが、さらなる悲劇が火災後に起きる。重傷者は外国の熱傷専門病院に送られ、多くは助かる。ブカレストの熱傷専門病院に運ばれた軽傷者が、バタバタと亡くなって行くのだった。

 本作は、それについてスポーツ紙の記者たちが取材を始めて日が浅い頃から、取材班にカメラが入って撮られたドキュメンタリーで、よくこんなの撮らせてくれたな、、、という映像ばかりで構成されている。

 パンフの監督インタビューによれば、やはりスポーツ紙には最初は数回断られているらしい。中盤以降、新任の保健相の執務室にもカメラが入るが、保健相は割とすんなり許可してくれたみたい。監督は、この新任保健相は「政界の人間ではなかったことが大きい」と言っているが、それにしても官僚たちとの実に生々しい会議の様子とかも撮影されており、驚きの連続だった。

 ちなみに、ナレーションは全くないし、記者や保健相へのインタビューも一切ない。ただただ起きていることを細大漏らさず撮影しよう、、、という意識だけが伝わってくる。


◆権力は腐敗する、、、のではない。腐敗させているのです、民草が。

 なぜ、軽傷者たちは入院してから続々と亡くなって行ったのか、、、。原因は、緑膿菌の院内感染。なぜ、熱傷専門病院でそんな初歩的な医療過誤が起きるのか? ……消毒液を基準以上に希釈していたから。、、、という、実にアナログな話なんだけれども、それを更にたどって行くと、芋づる式に出て来る出て来る、利権の闇。

 もうね、とにかく全てが腐っているので、どこをどうすれば改善するとか、そういうレベルの話ではなくなっているのだ。消毒液を多めに薄めちゃった、、、という素人みたいな話が、どーしてそうなるの??と。いや、利権の絡みとは、そういうものだということは、日本人の私たちだってここ何年も目の当たりにしているのだけどね。

 おまけに、疑惑の中心人物は途中で事故死しちゃうし。蓋を開けてみれば、もっと恐ろしいラスボスが隠れているんだろうけど、どこまで暴けば良いのかさえ分からなくなってくる。

 当時の保健相は辞任に追い込まれて、カメラ撮影を受け入れてくれた新任保健相に交代するものの、まあ、一気にいろいろは進まず、そうこうしているうちに、選挙になる。

 いずこも同じで、選挙で溜飲を下げることにはならず、ものすごく救いのない終わり方をする。けれど、私はまだルーマニアの方がマシだと思った。だって、こんな映画ができる余地があるんだもの。アメリカでもあんな気の狂った大統領が現れても、ちゃんと批判メディアは生きていたし、映画も撮られていた。日本の医療現場では消毒液の希釈はやっていないだろうが、コロナでは医療にかかることすら許されずに放置されて亡くなった方が大勢いる。しかも、メディアも映画も死んでいる。

 ルーマニアの投票率も低いと、本作内で紹介されていた。やっぱり、有権者が選挙に行かない国はおかしくなるのだ。折しも、本日は衆議院議員選挙の公示日だったが、一体、どれだけの有権者が投票に行くのだろうか。投票率が50%とか、もう信じられん。教育しろ、有権者教育を!

 ……というようなことを、本作を見て数日経った今、強く感じているところです。

 
 

 

 

 

 

 


投票に行かないというのは納税者として責任放棄しているのと同じだと思います。 

 

 

 

 

 

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ゴーストランドの惨劇(2018年)

2020-12-14 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67890/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 シングルマザーのポリーン(ミレーヌ・ファルメール)は人里離れた叔母の家を相続し、双子の娘とともに移り住む。姉のヴェラ(テイラー・ヒックソン)は奔放で現代的な少女だが、妹のベス(エミリア・ジョーンズ)はラヴクラフトを崇拝する内向的な少女だった。

 新居に到着した夜、2人の暴漢が家に押し入ってくる。しかし、娘たちを守ろうとするポリーンは、姉妹の目の前で暴漢たちをメッタ刺しにする。

 それから16年後、ベス(クリスタル・リード)は家を離れ、小説家として成功していた。一方ヴェラ(アナスタシア・フィリップス)は精神を病み、今もあの家で母と暮らしていた。ベスが久しぶりに実家を訪れると、母は迎え入れるが、地下室に閉じこもっていたヴェラは衝撃的な言葉を呟く……。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 本作は、公開時に気にはなっていたものの、結構ヤバいという話を耳にして、どうしようか、、、と思っている間に終映してしまったのでした。(お化けとか)怖いだけなら平気なんだけど、スプラッターは苦手で、ドンパチならまだしも、刃物系はちょっとなぁ、、、という人間としては、本作は、その中身がよく分からないので、どうしたもんだか、と思っていたのだけど、怖いもの見たさで見てしまいました。

 カテゴリーとしては、ホラーなんですかね? 見終わってみれば、心理サスペンス、、、かな、と感じました。

 ~~以下ネタバレしていますので、よろしくお願いします。~~


◆見ている方も追い詰められる。

 初っ端から、あんなヘンテコな家に、わざわざ夜着くように行くなんて、おかしいだろ、、、とツッコミ。普通、明るいうちに行くでしょ、あんな辺鄙なところ。

 正直言って、冒頭から15分くらいで、「これ以上見るの止めようかな、、、」と思った。それくらい、精神的に来る展開だったので。こんなんが100分続くのはちょっと耐えられそうにないかも……、と思った矢先に、急に16年後に場面が飛ぶ。

 そこには、もう、おぞましい光景はなくて、ベスがホラー作家として成功し、優しい夫と可愛い息子に恵まれて幸せに暮らしている、というホッと出来るシーンが展開される。ここで、あぁ良かった、、、と思って見続けてしまう。

 しかし、その5分後くらいから不穏な空気になり、ベスが実家に戻ってしばらくしてから、再びおぞましいシーンが繰り広げられるのであった。

 この作りが巧いというか、憎いというか、、、見る者の心理を実に的確に把握した展開。私と同じように、もう止めとこうか、、、と思った瞬間にシーンが切り替わって油断した、、、って人、結構多いと思うなぁ。

 再度、おぞましいシーンになって、あの16年後の幸せなシーンはベスの妄想だったと分かる。現実の恐怖から逃避するため、妄想の世界に逃げ込んでいた、ということらしい。だから、冒頭、あれだけクドクドとベスがラヴクラフトを尊敬していて作家を夢見る少女であるということを描いていたわけだ。……納得。

 で、現実のおぞましい現場をよく見てみると、妄想での夫や息子に似た絵が置かれているなど、小道具にも凝っている。実際には、16年など経過しておらず、あの冒頭のシーンがそのまま続いている、、、という解釈で良いんだろう。妄想シーンで実家に帰った際に、母親のポリーンが、地下室で暴れるヴェラをなだめながら「妹が欲しいのね……」という意味も、それがベスの妄想だと分かれば、分かる。よく考えてるなぁ~、などと感心する余裕が、この辺ではまだある。

 中盤から終盤にかけては、そんなことを考える余裕もなくなり、見ている方も、ベスと同じ心理状態になって、ハッキリ言って非常に心臓に悪い。そんなにグロいシーンが続くわけではないし、というか、私的にダメな残虐シーンは中盤以降はほとんどないんだが、心理的には追い詰められる。

 しかも、本作は、終盤で見る者をホッとさせておいて、再度絶望させるという、、、ここまで来てそれやる??みたいな展開。

 で、こういうジャンルにしては珍しいというか、ハッピーエンド、しかも、ただ無事に生還しました、、、だけではなく、2人の姉妹の明るい未来を感じさせるエンディングになっているところが良い。なんか、精神的にヤラレながら見てきて、ああ、良かったぁ~~、と思える終わり方で救われる。


◆終わってみれば、、、

 見ている間は、ぐぇぇ、、、、って感じだったのに、見終わって冷静になってみると、これはなかなかの秀作なんではないか、という結論に至った。

 小手先ではない良く練られたストーリーは言うに及ばず、演出も良いし、カメラワークも実に上手い。

 なんといっても、世界観が私的にはツボだった。あの、アンティークじゃらじゃらのいかにもな家のインテリアといい、暴漢2人のキャラ造形といい、少女2人の特殊メークといい、どれもこれも、センスが良い。気持ち悪さを醸し出しながら、嫌悪感は催さないギリギリのラインをついてくる感じ。

 で、しばらくすると、もう一度、あれこれと確認したい気になって、最初から見てしまった、、、ハハハ。そういう意味では、二度見では怖さはかなり減ってしまうが、謎解きという面では楽しめるので、本作はホラーというよりは、心理サスペンスじゃないか、と思った次第。あるいは、スリラーの方がジャンルとしては合っているかも。実際、お化けとかは出て来ないしね。まぁ、お化けなんかより、頭のネジが外れた人間の方がよっぽど怖い、ってことだけど。

 本作を見ながら、気持ちは追い詰められながらも、頭の隅っこで考えていたのは、「これは、児童虐待映画だ、、、」ということ。こんな理不尽な設定、、、と思うが、現実世界で起きている児童虐待は、子どもの目から見ればまさにこういうことだろう。

 んで、児童虐待のみならず、時々世間を驚愕させる謎の監禁事件、しかも家族単位でアカの他人に支配されるなんていう事件が実際に起きている。あれらも、本作と同じじゃないか、、、。実際に起きていることを考えると、本作のおぞましいシーンなど、実に可愛いフィクション描写だとさえ思えてくる。

 ……というようなことが、頭をよぎっていた。だから、ラストで本当の意味で救われて、将来に希望を持てそうなエンディングだったことで、本当に、心の底からホッとしたのだった、、、。


◆その他もろもろ

 パスカル・ロジェって、同姓同名のピアニストがいるんだが、最初、だから「え?ロジェ、映画監督までやるようになったの??」と思ったけど、ゼンゼン別人だった。ピアニストの方のロジェは、もう69歳になっていたと知って、それも驚いたが。もうそんな歳か、、、。

 この監督は、とにかく、こういう系の映画ばっかり撮っているらしい。特に『マーターズ』(2007)は彼の出世作らしいが、ネット評を見ると、恐らく私は見ない方が良い映画なのだろうね。『屋敷女』と同じぐらい気持ちワルイらしいので、やめておきます。

 大人になったベスを演じたクリスタル・リードは、ときどきキーラ・ナイトレイに似ているなぁ、、、と感じたけど、キーラより知的で品がある。まぁ、ホントにおぞましいシーンでは彼女の出番は少なかったので、演じるという意味では物足りなかったかも知れないけど。

 序盤で暴漢に果敢に一人立ち向かった母親ポリーンを演じたミレーヌ・ファルメールは、美人というのとは違うけど、とても美しい。本業は歌手らしいが、なかなか闘う母親の演技は素晴らしかった。グサグサ刺されながら、暴漢と取っ組み合うなんて、すげぇー、と思って見入ってしまった。

 暴漢は二人組で、一人は巨漢というか肥満男、もう一人はズラの男。ズラの男は、終盤でズラが外れると、スキンヘッドが現れる、、、。この二人の関係はよく分からんが、兄弟か親子か、って感じみたいだった。ズラの男が肥満男の面倒を見ている風。

 でも、何と言ってもこの気味の悪い暴漢二人組と闘った少女二人が、偉い! 二人とも、暴漢に暴力を振るわれて、スゴい顔になっている。特殊メイクなのは分かっていても、どんどん酷くなっていく顔を見ていると、痛ましいしおぞましい。彼女たちの実年齢は10代後半、といったところだろうけど、こんな映画の撮影を経験して、トラウマにならないのか、若干心配ではある。ネット情報では、どちらかが実際に怪我をして訴訟沙汰になったとか、、、。本当かどうか分からないけど、もしそうだとしたら、やっぱり心配だなぁ。

 まあ、あんまり「是非ご覧ください!」とは言いにくいけど、なかなか面白いよく出来た映画だと思います。

 

 

 

 

 

 

 


やめておこうと思ってはいるけど、でも『マーターズ』、ちょっと気になるなぁ。


 

 

 



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この世の果て、数多の終焉(2018年)

2020-09-15 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv70805/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1945年3月のフランス領インドシナで、現地に進駐していた日本軍がクーデターを起こし、協力関係にあったフランス軍に一斉攻撃を仕かける。

 ただ一人生き延びたフランス人兵士のロベールは、兄を殺害したベトナム解放軍の将校ヴォー・ビン・イェンへの復讐を胸に秘め部隊へ復帰。悪夢のような日々のなか、マイというベトナム人娼婦と出会ったロベールは、しだいに彼女への想いを募らせていく。

=====ここまで。


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  4連休を前に、劇場の満員容認となるそうですが……。これ、どーなんでしょうか。一席置きでなくなったら、正直、私は見に行くのイヤですね。まだ終息していないのに、どんどん緩和していくのはおかしいのでは。検査体制や医療体制がきちんと整ったというのならまだしも。

 劇場のためにも、一席置きの措置をとる間は、鑑賞料金を高く設定して、サービスデーをなくすとかしても良いと思います。映画館の存亡に関わるのだから、日頃お世話になっている映画ファンとしては、それくらいは貢献したいのであって、、、。料金変更するのって、そう簡単なことじゃないのだろうけど、、、。

 19日以降に公開予定の作品にも見たいものがいくつかあるけど、劇場の方針を確認して、一気に緩和するようであれば見に行くのは止めておくかな、、、。無策のお上を戴いて、自衛するしかないもんね。

 さて、本作ですが。チラシを見て、ギャスパー・ウリエルとギョーム・グイの共演と知り、何となく見てみよっかな、、、と思い劇場まで行ってまいりました。


◆明号作戦を生き延びた主人公は、、、

 仏領インドシナ、、、と言えば、映画『インドシナ』が真っ先に思い浮かぶくらい、私は東南アジアの植民地について無知なわけですが、第二次大戦が終わった後、各国が独立を宣言してもなお、フランスは植民地支配を諦めていなかったということを、本作を見て初めて知った次第、、、。

 本作は、大戦末期の話らしい。1945年3月に起きた明号作戦で幕が上がる。冒頭から、いきなり死体の山に向かって銃をぶっ放す日本兵、、、という描写(……ちなみに、本作は結構グロいシーンが所々であります)。で、その日本兵がオイル(死体の山に火を放つため)を取りに戻った隙に、死体の山から這い出てくるのが、ウリ坊演ずるロベール・タッセン。いやぁ、もうこれだけでお腹一杯って感じになってしまう。

 とにかく、このロベール、虐殺を実行した日本兵ではなく、それを側で見ていて止めなかったという理由でベトナム軍の中尉ヴォー・ビン・イェンという人を激しく恨んで復讐に燃えているんだが、この辺がよく分からない。実行者よりも、傍観者が憎いと。私なら、どっちも憎いけどなぁ、、、。この辺は、フランスとベトナムの宗主国と属国の関係性によるものだろうか。

 ……まぁ、それはとりあえず置いておくとしても、本作は、終始一貫して描写がモヤモヤしている(画面がぼやけているという意味ではありません)んだよなぁ。それが狙いなんだとは思うけど、ロベールがヴォー・ビンを執拗に追い掛ける、というのが本作のメインストーリーなんだが、肝心のヴォー・ビンは出て来ないので、ロベールが追い掛けているのは誰なのか、、、いや、何なのか、というのが分からなくなってくる。ホントにヴォー・ビンはまだ存命しているのか? とか。もう近くにはいないんじゃないの? とか。

 そんなヴォー・ビン追跡という縦糸に、現地のマイという娼婦とのあれこれが横糸として絡んでくる。この関係性も、まあ外国人兵士と現地女性だから、こういう不安定なおぼつかない感じになるのは分かるんだが、、、うぅむ。他にも、横糸であるサイドストーリーはいくつか描かれるんだが、いずれもあまりに散文的過ぎて、本作全体が非常に散漫な印象になっている気がする。

 監督のインタビューを読むと、復讐は成否は最早どうでも良くて、復讐をロベールが決意することでマイとの愛が終わる、ロベールがマイとの愛を諦めるということが重要なんだ、、、みたいなことを言っていて、ううむ、そういう映画だったのか、、、??と、正直言って何となく腑に落ちない感じがする。

 監督曰く「愛を維持する最良の方法は、最も愛が激しいときに諦めることなのです」だって……。え゛ーーーーー、そんなぁ、、、。がーーーん。

 だったら、あのグロい映像の数々は何だったんだ、、、とか。まあ、戦争映画だからなぁ。……などと、見終わって何日も経っているのに、いまだにストレスを感じるというか、喉につっかえるものがあるみたいな、消化不良感が尾を引いている。


◆その他もろもろ

 ロベールを演じたウリ坊は、今回も体当たりというか、全裸でイチモツも惜しげもなくご披露するという思い切りの良さ。かなり長いシーンでモザイクもかからず、却って目のやり場に困る。ハッキリ言って男性器なんか、もう見たくないです。オバサンにはグロ過ぎる。

 マイを演じていたのは、ベトナムの女優さんのよう。出演者紹介にも何の紹介文もないから、まったく分からない。これ、もう少し何とかならなかったのかしらん。とても綺麗な人だった。ちょっと壇蜜に似ているかなぁ、、、と思ったのは私だけ?

 ロベールと親しい兵士カヴァニャを演じていたのがギョーム・グイ。『ぼくを探しに』のときより、かなりオッサンになっていて、しばらく分からなかった。終盤、ロベールとジャングルに分け入っていこうとしたその矢先に、ビックリする展開に、、、。数々のグロいシーンよりも、この終盤のシーンの方がよほど衝撃的だったかも。

 あと、ジェラール・ドパルデューが、現地に住む作家の役でご出演だったんだが、彼は年齢を重ねると共にどんどんデカくなっている気がするぞ。こないだ見た、『ファヒム パリが見た奇跡』でも感じたけれども、、、。あんなにデカくなっちゃうと、健康が心配だよなぁ。大丈夫かしらん。

 もう少しまともな感想を書くには、あと2回くらい見た方が良いと思うのだが、とてもじゃないがもう一度見る気にはなれない作品。それより、仏印のことをもう少し色々ちゃんと知りたいと思った。映画を見ると、その作品自体にはピンとこなくても、その背景などを調べることでまた世界が広がるので、どちらにしても良いことだと思うわ。

 
 

 

 

 

 


高温多湿なジャングルの光景が暑い、、、。

 

 

 


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コリーニ事件(2019年)

2020-07-14 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv70932/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 新米弁護士のカスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)は、ある殺人事件の国選弁護人に任命される。

 30年以上もの間、ドイツで模範的な市民として働いてきた67歳のイタリア人コリーニ(フランコ・ネロ)が、経済界の大物実業家をベルリンのホテルで殺害したのだ。ライネンにとっては、これが被告側弁護士として初めて手掛ける大きな事件。

 ところが、被害者は少年時代からの恩人だった。事件について一切口を閉ざすコリーニ。

 だが、ライネンは事件を深く調べていくうち、自分の過去、ドイツ史上最大の司法スキャンダル、そして想像を超える衝撃の真実に向き合うこととなる……。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 何度も予告編を見せられたせいか、それとも大げさなコピーに煽られたせいか、興味が湧いて見に行きました。ドイツ映画で、しかもフランコ・ネロが出ているってのもソソられたかも。

 本作は、一応サスペンスもので、これからご覧になる予定の方は、この先ネタバレしていますのでよろしくお願いします。


◆裁きを免れた犯罪者の最期は、、、。

 それにしても、ナチもの映画って、あとどんくらいの期間、作られるんでしょうねぇ。来世紀もまだ作っているかもね……。ネタが尽きないのか尽きてんのか、それすら分からん。

 本作も、蓋を開けてみればやっぱりナチものだった。まあ、それは承知で見に行ったから良いのだが、本作のキモは、その先にあったのであります。

 どなたかがネットの感想で、“中盤で犯人(コリーニ)の殺人の動機が分かっちゃってオチが早すぎ。だから後半はダレて間延びしている”みたいなことを書いておられましたが、おいおい、、、オチはそこじゃねーだろ、とビックリ。本作のオチは、コリーニの動機じゃなくて、、、当然ながら、終盤にカスパーによって法廷で暴露されるんだが、、、。

 コリーニの動機は、殺した相手ハンス・マイヤーに、かつて実父を目の前で虐殺された、という非常に分かりやすいもの。殺し方も、実父が殺されたのと同様、拳銃を3発頭に撃ち込んだ後、さらに脚でマイヤーの頭部を何度も蹴りつけるという残忍な手法で。しかし、マイヤーとコリーニの違いは、マイヤーは戦争犯罪人として裁かれることなく何食わぬ顔をして暮らしてきたのに対し、コリーニはマイヤー殺害直後に殺人犯として捕えられて(逃げなかったからだが)法廷に座らされているということ。

 はて、どうしてSSの将校だった若きマイヤーは、コリーニの実父を始めとしたイタリアのとある村の住人多数を虐殺したという戦争犯罪を裁かれずに済んだのか? この“裁かれなかったこと”が、コリーニの私刑を生む原因となったのだが。

~~~以下、ネタバレです~~~

 マイヤーは何も、逃げ隠れして裁きを逃れたわけではない。れっきとした法律によって、罪に問われることがなくなったのだ。その過程が、コリーニの動機が判明した後で描かれるんだが、まあ、ちょっと分かりにくいかも。だから、前述のように、後半はダラダラ小難しい法律の話に終始して間延びしている、って感想が出てくるのかなぁ。しかし、本作は後半が緊迫度が増して展開も早くなる。

 1968年にできた通称“ドレーアー法”によって、ナチスの多くの戦争犯罪は、同じ殺人でも、動機に悪質性がない“故殺”とされることになった。つまり、より悪質な“謀殺”は、ヒトラーを始めとしたナチスの首脳部のみであり、組織の大部分の人間は首脳部の指示に従った“だけ”の「幇助犯」だから故殺に当たるという解釈によるもの。

 この法改正の抜け穴に、当時の国会議員もほとんど気付かなかったというのだから、実に巧妙な手法だったといえるらしい。本作のパンフの解説にも「裏口恩赦」だと書いてある。

 この説明が若干分かりにくいとはいえ、これらが解明される終盤の緊迫度は高く、これのどこがダレて見えたのか、不思議なくらい。正直なところ、序盤は退屈でハズレかなぁ、、、と思ったくらいだったが、コリーニが「どうして彼らは裁かれなかったんだ!」と泣き崩れるところから、俄然面白くなる。コリーニは、私刑に及ぶ前に、かつて、ちゃんと法的な手続を踏んでマイヤーを告訴したのにもかかわらず、却下されていたのである。そりゃ、だったらこの手で、、、、と思うのも分からなくはないというもの。


◆サスペンスにあるまじき結末。

 カスパーは、この「裏口恩赦」を法廷で明らかにし、コリーニの刑を少しでも軽くしようと奮闘するんだけれども、さて、裁判官はどう判断したかというと、、、。

 これは敢えてここには書かないけれど、ハッキリ言ってヒジョーに興醒めな結末だった。……というより、ズルいなぁ、と。原作もそうなんだろうけど、こんな結末、サスペンスとしてはかなり禁じ手だろう。私が担当編集者だったら、この結末は絶対ダメだと著者に言うねぇ。逃げるんじゃねぇよ、と。だったら、最初からこんなテーマで書くなとね。

 ちなみに、本作は、フィクションです。実話と思われている節もある様だが、通称“ドレーアー法”が施行され、その背景などは史実だけれども、物語自体は完全なフィクションなのであって、著者であるシーラッハはその手できちんと結着を付けるのが、私は物書きの使命だと思う。

 何でも、この原作本がドイツでベストセラーになったことでドレーアー法が注目され、原作本の邦訳版には「本書が出版されて数か月後の2012年1月、ドイツ連邦共和国法務大臣は法務省内に『ナチの過去再検討委員会』を設置した」との説明がされているとのこと。でも、その検討委員会がその後どんな「検討」をしたのかは、ネットで調べてみたけれども分からない。

 そもそも、戦後すぐの西ドイツでは、司法省の高級官僚の8割はナチ党員やSSのOBだったそうだし、このドレーアー法のおかげでその大部分はそのまま大手を振って生活していたということだ。本作の原作本は、戦後初めて、そこにメスを入れた画期的な著書なのに、作者として判断を避けるというのは、いかにも残念。祖父がナチの高官だった、というのは関係ないだろうけど、さしものベストセラー作家も腰が引けたのだろうか。


◆その他もろもろ

 ドイツといえば、日本と違って、きちんと自国の黒歴史と向き合っているとアジア圏では言われているけれど、こんな「裏口恩赦」があったというのだから、それもちょっと割り引いて見ておいた方が良いように思う。でも、祖父がナチ党幹部だった作家がこういう原作小説を書いた、ってことに意味があるよなぁ、とは思う。ネオナチ等は、どう原作本を読み、この映画を見たんだろうか。
 
 原作者は、弁護士でもあり、名前からも分かる様に、貴族の血筋を引いているとのこと。ナチスに貴族の血を引く幹部は珍しかったらしい。……まぁ、そーだよね。

 トルコ系の設定になっているカスパーを演じたのは、エリアス・ムバレク。……あんまし好みではないのでピンとこなかった。すんません。

 カスパーと一緒にマイヤーに育てられた、マイヤーの実の孫娘ヨハナなんだが、なんとカスパーと男女の関係なんだよね。で、コリーニの裁判中も、この2人は寝てるんだけど、これってどーなの??と思ってしまった。せめて裁判中は自重しろよ、、、と思ったんだが、ドイツではそういう弁護士倫理ってのは希薄なのか?

 しかも、このヨハナを演じたアレクサンドラ・マリア・ララという女優さん、美人といえば美人なんだけど、あんまし魅力的には思えず。カスパーがコリーニのためにマイヤーの過去を法廷で明らかにしようとすると、このヨハナは豹変して、彼に「お祖父さん(マイヤー)がいなかったら弁護士になれなかったくせに! 今頃、アンタなんかケバブの店員だろ!!」等と罵声を浴びせる辺り、すげぇ性悪、、、という感じだが、なおさら、カスパーが彼女と何度も寝るのが、イマイチ解せない。

 コリーニを演じていたのは、あのフランコ・ネロ。爺になってもカッコイイ。

 マイヤーの若い頃を演じたヤニス・ニーヴーナーくんがなかなか美男子だった。作中ではSSの将校らしく金髪碧眼だったが、ネットで検索すると、金髪じゃないみたい。ついこないだ見た『ディリリとパリの時間旅行』のオレルを実写したらこんな感じじゃないかしらん、、、と思ってしまった。オレルはボー・ギャルソンだけど。

 あと、本作のラストシーンが、ちょっとね、、、。感傷的すぎるというか、情緒的すぎるというか、なんだかなぁ、、、という感じだった。裁判の幕切れといい、ラストシーンといい、なんか締まりが悪い作品。なので、は少なめです。 


   

 

 

 

原作者の他の小説も読んでみたい。

 

 



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ゴッズ・オウン・カントリー(2017年)

2020-05-01 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66274/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 イギリスのヨークシャー。祖母(ジェマ・ジョーンズ)や病気の父(イアン・ハート)に代わり、寂れた牧場を管理する青年ジョニー(ジョシュ・オコナー)は、孤独でやり甲斐のない日々を、酒と行きずりの不毛なセックスで紛らわせていた。

 そんなある日、羊の出産シーズンを迎えて、季節労働者のゲオルゲが牧場に雇われる。初めは衝突する2人だったが、羊に優しく接するゲオルゲ(アレックス・セカレアヌ)の姿を目の当たりにしたジョニーの中に、今まで感じたことのない恋心が芽生える。次第にその思いに突き動かされていくジョニーだったが……。

=====ここまで。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 ゲイのラブストーリーものは好んでは見ない方なんだけど、本作は、今、NHKでオンエアしている海外ドラマ「レ・ミゼラブル」でマリウスを演じているジョシュ・オコナーくんが主演を務めていると知り、本作がちょっと前に話題にもなっていたこともあって、見てみようかな、と思った次第。ちなみに、ジョシュ・オコナーくんは好みのタイプというわけでは全くありません。


◆同じゲイ映画でも、、、
 
 本作の設定からして、いやでも、あの映画と比べざるを得ない。あの映画とは、もちろん『ブロークバック・マウンテン』(以下「ブロマ」)ですよ。私は、ブロマが好きではなく(というより、むしろ嫌い)、本作もまあ、多分同じような感想を抱くのだろうなぁ、、、と予想していたんだが、見終わってみればそれは意外にも違っていた。

 ブロマが嫌いな理由は『キャロル』でも書いたが、2人の男があまりにも自己憐憫に浸っていてウザかったからだが、本作の場合、もちろん時代背景が違うことが一番大きいとはいえ、ゲオルゲはかなりイイ男(中身がね)でタフなのだ。ゲオルゲのキャラが、ジョニーと同じようなウジウジ系だったら、多分ブロマと同じ印象になっていたような気がする。

 ゲオルゲは1週間という期間限定の助っ人としてジョニーの牧場にやってくるわけだが、羊の扱いはジョニーよりも上手く、恐らく牧畜関係の仕事を渡り歩いている移民なのだろう。最初は、パキだのジプシーだのと差別感丸出しでゲオルゲのことを小馬鹿にしていたジョニーだったが、毅然とそういうジョニーの態度にNoと言い、仕事の手際も良いゲオルゲに、逆に腰が引けてしまう辺りは、ジョニーのショボさが上手く描かれている。

 で、やはり本作でも、“それ”は唐突に起きる。またかよ、、、とちょっと苦笑してしまった。ゲイのロマンスの始まりってのは、ああいうことが珍しくないんですかね? ヘテロであれやったら、まぁ、100%強姦なんだけど。本作でもやっぱりそこは気になる。

 ……が、とりあえずそこはスルーするとして、その一線を越えてからのジョニーの変わり様が、なんというかカワイイのだ。オバハンになった私から見ると、「嗚呼、若いって良いな~」と微笑ましくなる。実際、あれくらい劇的な変化をもたらすパワーが恋愛にはあるし、それこそが恋愛の醍醐味でもあり、ブロマには描かれていなかったもののように思う。その違いは、時代の違いそのものとも言えるだろうが、それだけじゃない。やっぱり、ブロマに欠落していたのは、ゲイであろうとなかろうと、恋愛に対する“本気度”だと思うのだ。

 ジョニーは、ゲオルゲが去った後、必死で後を追う。そして、帰ってきて欲しいとなりふり構わず懇願する。こういう“なりふり構わず”な行動が、やっぱり見ている者の胸に迫るものがあるかないかの違いになるんじゃないのか、、、。ゲイじゃなくても、ヘテロでも不倫とか格差恋愛とか、枷のある恋愛ってのはあるわけよ。その枷をいかになりふり構わず外していくか、ってのがドラマツルギーでもあるわけで。ゲイという枷を何か外しがたい特別感を持った恋愛モノにしちゃうと、ブロマみたいな「環境が悪い」という自己憐憫に帰結する話で終わっちゃう。

 とか書いてきたけど、よく考えてみると、ブロマももう大分内容を忘れているので、もしかしたら、もっと良い映画なのかも知れない。私の中でどんどん作品への記憶の上書きがされている可能性は高い。今度、もう一度見直してみよう、、、。


◆寒々しく暗い風景とカワイイ子羊

 ブロマは、2人の男の心象風景をネガにしたかのように、背景の自然はとても明るく美しかったが、本作は、やはり背景はとても美しいのだが、全編にわたってとても暗い。しかし、結末に希望があるのは本作の方であるところが面白い。

 また、羊の出産シーンのリアルさは本作の見どころの一つ。生まれた子羊が息をしていないのだが、ゲオルゲは根気よく子羊をさすってやる。隣でジョニーが「ムダだよ」と投げやりな態度で居てもさらにさすり続けていると、子羊がぴくんと動いて立ち上がる。かと思うと、死んだ子羊を手際良くその皮を剥ぎ、生きている別の子羊に被せてやる。こういう、まさに“生と死”が目の前でリアルに展開される仕事を誰かと一緒にしていると、その相手と理屈抜きで“生”を分かち合いたくなるのも、何となく分かる気がしてくる。

 おまけに、その子羊たちが実にカワイイのだ。その子羊を世話することは、ジョニーとゲオルゲの子を世話しているみたいな感覚になるのかも知れない。こういう時間を、たとえ1週間という短い間でも共有することは、そら特別な感情を抱くことになるのも不思議じゃない。

 2人の関係に気付くジョニーの父や祖母も、まぁ、手放しでは喜べないものの、あからさまな拒絶はしていないところも、ブロマとは時代が違うことを如実に物語る。

 きっと、2人は良きパートナーになって、あの牧場を運営していくことになるのだろう、、、と思えるラストで良かった。


◆その他もろもろ

 で、ジョシュ・オコナーくんだが、、、。レミゼのマリウスのジョシュくんは、正直言ってイマイチなんだけど、本作のジョニーはなかなか良かった。マリウスは、飽くまでも私のイメージでは、上品で美形の優男なんだよね。でも、このジョシュくんは特別美形ではないし、下品ではないけど、ハッキリ言ってモロ庶民のイメージ。だから、ちょっとマリウスには合っていない気がするんだけど、本作ではゲイのラブシーンも、まあ見られるものになっていた。

 ゲイのラブシーンは、やはり美男同士でないと、ちょっと見ていてキツいのだが、本作で見られるラブシーンになっていたのは、ゲオルゲ役のアレックス・セカレアヌの持つ雰囲気に負うところが大きいと思う。彼も美形とは違うが、彫りの深い目鼻のハッキリした顔立ちで、キレイなんだよね。

 それにしても、2人とも素っ裸になって大熱演だった。昨今、ゲイの映画も珍しくなく、当然、ラブシーンも描かれることが多いわけで、俳優さんたちも仕事とは言えタイヘンだ。私だったら、仕事で裸になることはできても、女性とベッドシーンを演じるのはムリ。もう、生理的にダメだと思う。まあ、そもそも役者になる素質もなければ、そんな願望を持ったこともないのだけど。

 レミゼでは極めてなよっちい男を演じているジョシュくん。次の日曜日がレミゼの最終回なんだが、ラスト、どんなマリウスを見せてくれるでしょーか。
 

 

 

 

 

もうトレーラーハウスはいらない。

 

 

 

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コーカサスの虜(1996年)

2020-01-31 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv29912/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 チェチェン紛争下のロシア。ロシア軍に徴兵されたワーニャ(セルゲイ・ボドロフ・ジュニア)は初めての戦闘で、チェチェン側の待ち伏せに遭い、同行していた皮肉屋の准尉サーシャ(オレーグ・メンシコフ)と共に捕虜となった。

 ロシア軍の捕虜になった息子と交換するため、彼らを買ったのがアブドゥル・ムラット(ドジュマール・シハルリジェ)。足枷を除けば待遇もいい二人は、暇にまかせて戦争や人生について語り合い、見張り役のハッサン(アレクサンドル・ブレエフ)やアブドゥルの娘ジーナ(スザンナ・マフラリエワ)とも打ち解け、ワーニャと彼女の間には淡い恋心さえ生まれる。

 だが村人の中には二人に反感を持つ者もいて、二人は銃撃される。自分の息子のことしか頭にないと村人に非難されたアブドゥルは焦ってロシア軍駐屯地へ赴くが、すでに多くの死者や行方不明者を出している司令部は梨のつぶてだ。アブドゥルは二人に母親宛ての手紙を書かせる。手紙を受け取ったワーニャの母(ヴァレンチナ・フェドトヴァ)はロシア軍の大佐(アレクサンドル・ジャルコフ)に掛け合うが埒があかない。

 二人は脱走を企て、サーシャは途中でハッサンと羊飼いを殺す。だが脱走は失敗、サーシャは殺され、ワーニャは穴倉の中へ放り込まれる。

 その頃ロシア軍駐屯地では、息子がロシア側に寝返った老人が司令部に乱入、息子を射殺し、捕虜だったアブドゥルの息子までロシア側の流れ弾で命を落とす。もはや捕虜交換は成立しない。

 ジーナはワーニャの哀願に負けて父には内緒で足枷の鍵を外した。だが脱走直前でアブドゥルは異常に気づく。彼はワーニャを殺しに山へ連れていくが、わざと弾丸をよそに撃って立ち去った。自由になり山を降りて自軍に向かうワーニャの頭上を、爆撃の装備を固めたロシア軍のヘリが通り過ぎた……。

=====ここまで。

 トルストイの小説『コーカサスの虜』の設定を、現代のチェチェン紛争に置き換えて映画化。ロシアとカザフスタンの制作。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 コーカサスってどこだか正確にご存じですか? 私は、何となくあの辺、、、くらいにしか認識しておらず、今回、ネットの地図で初めてきちんとその場所を確かめました。それに、チェチェン紛争など、ニュースで見聞きするくらいで背景も実態もほとんど無知に等しいのだけれども、本作は、チェチェンでの撮影が出来ず(紛争中につき)、隣接するダゲスタンの山岳地で撮影されたんだとか。

 ……という予備知識の乏しさで見たけれど、それでも十分に堪能できる、素朴で味わい深い映画でした。


◆スクリーンで見たい!

 本作は、静かなる反戦映画である。戦闘シーンはなく、銃撃や爆撃シーンもない。どちらかというと、戦争を背景にしているのに牧歌的でさえある。しかし、見終わってみると、じわじわとそのシビアさが沁みてくるのである。こんな映画、あんまりないだろう。

 捕虜になった2人と、村人たちは、決して仲良くなりはしない。飽くまでも、ロシア人VS村人の構造は崩さないけれども、触れ合いつつ、触れ合いすぎず。この辺の描写が、朴訥とした語り口なんだけれど、非常に魅せられるのだ。背景の荒涼とした山岳地帯とか、荷を負わされ尻を叩かれ働かされているロバとか、民族衣装を着た村の人たちとか、、、それらを2人の捕虜たちの視線で捉えている映像が、下手なセリフよりよぼと説得力がある。

 アブドゥルも、2人の捕虜を息子を奪還するための道具にしているんだが、ドライになりきれない。その娘のジーナは、2人の世話をしているうちに、ワーニャと何となく心を通わせるようになる。

 そうはいっても、捕虜は捕虜で、一つ間違えば命の保証はない。だから、2人は逃げ出すことをしょっちゅう考えるし、逃げおおせたらどうするかなど話している。ある晩などは、捉えられている小屋の壁を蹴破って脱走しようとするが、壁の向こうが酒蔵だったため、脱走は中止して飲んだくれる2人。そこに、見張りのハッサンもやって来て、皆で酒盛り、、、なんていうシーンもある。

 しかし、2人の見張り番であるハッサンが何故しゃべらないか、、、という理由が分かるシーンなどは、淡々としているが非常に恐ろしい背景があってゾッとなる。この地域とロシアの対立の根深さを改めて知らされる。

 ……という具合に、戦争と人々の暮らしや心情が縦糸と横糸になって丁寧に紡がれており、実に色彩豊かな作品になっている。公開時にスクリーンで見たかったなぁ。ロシア映画特集とかの企画で上映してくれないかな。


◆セルゲイ・ボドロフ・ジュニア

 ワーニャを演じる若い兵士のセルゲイ・ボドロフ・ジュニア、どっかで見た顔だなぁ、、、と思いながらずーっと見ていた。サーシャのオレグ・メンシコフは、どっかで聞いた名前だなぁ、、、と思って、途中で、『イースト/ウエスト 遥かなる祖国』でサンドリーヌ・ボネールの夫だった人だ!と気付いた。

 で、セルゲイ・ボドロフ・ジュニアも、『イースト/ウエスト~』に出ていたのだと後で調べて分かり、ああ、あの海を泳いで渡った青年か!!と思い出した。……というか、何で気付かなかったのか、私。あの映画、大好きなのに。

 しかも、その後、2002年に北オセチア共和国のコバン渓谷で起きた氷河崩壊に巻き込まれて亡くなっているという。遺体は見つからずに、捜索が打ち切られたとのこと。ゼンゼン知らなかった。何ということ……。氷河が崩壊するなんてことがあるとは。しかも、この地域では何度も氷河崩壊が起きているらしい。氷河はゆっくり、しかし突然崩壊するのだそうだ。恐ろしい、、、。

 オレグ・メンシコフはやはり素晴らしい役者だ。前述の飲んだくれて脱走未遂に終わったシーンでは、その後、見張りのハッサンに罰ゲーム(?)でワーニャと一緒に踊らされているんだが、そのシーンがとてもイイ。サーシャはボリショイ劇場にも出演する自称「才能ある俳優」なんだが、まあ、確かにオレグが演じると説得力がある。酔っ払いの踊りなんだけど、サマになっている。一緒に足枷をはめられているから、一緒に踊らざるを得ないワーニャのぎこちない動きもご愛敬だ。

 終盤、村人のおじ(い)さんが、ロシア人の駐屯地を訪れると、自分の息子をいきなり銃で撃ち殺すシーンがあって、心臓が止まりそうになるくらい驚いた。このおじいさんには3人の息子がいたんだが、2人はロシアとの戦争で死んでおり、三男は何とロシア方に付いてしまった。それに耐えられなくなったおじいさんは、みずから三男を殺したのだ。

 本作全体を覆っていた牧歌的な雰囲気は終盤で一変し、見ている者の緊張が一気に高まる。結局、サーシャも終盤に命を落とし、ワーニャだけが生還する。けれども、そのワーニャが見た光景と、生還して後に知ったことがラストで描かれ、見ている者の心にトドメを刺される。

 セルゲイ・ボドロフ・ジュニアの実人生でのその後と、このラストシーンが共鳴し、胸が苦しくなる。そして、戦争映画は、やはり見終わって苦しくあるべきだ、と思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

コーカサス、行ってみたくなった(けど、多分ムリだろう、、、)。

 

 

 

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ゴールデン・リバー(2018年)

2019-07-14 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67479/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1851年、ゴールドラッシュに沸くアメリカ、オレゴンのとある町。普通の平穏な暮らしに憧れる兄イーライ(ジョン・C・ライリー)と裏社会でのし上がりたい弟チャーリー(ホアキン・フェニックス)は、最強と呼ばれる凄腕の殺し屋“シスターズ兄弟”だった。

 あるとき、彼らの雇い主である提督から、連絡係モリス(ジェイク・ギレンホール)が捜し出すウォーム(リズ・アーメッド)という男を始末するよう依頼される。

 兄弟がサンフランシスコに南下しているころ、モリスは数キロ先のマートル・クリークでウォームを見つける。2日後、次の町ウルフ・クリークで、モリスはウォームから声をかけられる。うまい具合に話が進み、モリスはウォームと一緒にジャクソンビルへ砂金を採りに行くことになる。ウォームはモリスに、黄金を見分ける化学式を発見したと打ち明ける。だがジャクソンビルに到着すると、モリスの正体がばれてしまう。

 雇い主の目的は化学式を奪うことだと知ったモリスは、翌朝、ウォームと連れ立って逃げ出す。道中、ウォームは手に入れた黄金で理想の社会を創る計画を語る。その話に心酔したモリスは、父の遺産を資金に、その夢に加わることにする。メイフィールドまで来た兄弟は、その町に自分の名前をつけた権力者がウォームの化学式を奪おうと部下を放ったと聞き、モリスの裏切りに気づく。

 サンフランシスコで兄弟は二人の居場所を突き止めるが、二人に捕えられる。しかしメイフィールドの部下も現れ、兄弟の力を借りて彼らを撃退する。ウォームからの提案で、4人は手を組んで黄金を採ることに。だが、4人の思惑が交錯し……。

=====ここまで。

 リンクのあらすじ、兄と弟の名前が入れ違ってますけど、、、(コピペ内では直しちゃってありますが。青字のとこ)。人物名間違えるのはちょっとマズイだろ。

 

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 監督が『ディーパンの闘い』ジャック・オーディアールで、ジェイク(特別好きなわけじゃないけど)が出ているというので、一応見ておくべき? みたいな感じで見に行って参りました。

 

◆凸凹兄弟が行く、、、

 話が動き出すのが中盤からなので、前半はちょっと退屈だった。でも、モリスとウォームが手を組む辺りから面白くなる。

 ウォームが見付けたというのは「黄金を見分ける“予言者の薬”を作る化学式」なんだけど、まあ、錬金術だよね。人類の見果てぬ夢。みんなチャレンジしては敗れ去っていったのだから、あんな薬、実際あったらタイヘンだ。当然、容赦ない殺し合いになる。

 本作は、この殺し屋兄弟の凄腕ぶりと、裏腹なトボケた人物像を描くことに終始した映画、と言っちゃっても良いだろう。デコとボコの兄弟が繰り広げる珍道中は、ハラハラドキドキで面白いけど、正直言って、あまり深みもないし、見終わって余韻が残るという感じでもない。パンフを買う気にもならなかった。

 『ディーパンの闘い』よりは、思いっきりエンタメ作品になっていて、分かりやすい。人物描写もちゃんとされているし、これといって文句をつける気にもならないけど、何かを語りたくなる映画ではなかった、私には。

 

◆豪華出演陣なんだけど、、、

 ジョン・C・ライリーは、本当に良い役者だなぁ、、、と改めて思った。強面、、、と言って良いのか、でも一見殺し屋って感じにも見えなくて、弟のチャーリーとのやりとり見ていると、ホント、人のイイおっさんでしかないのに、銃を手にした途端、ちゃんと人殺しの顔に見える。目つきが変わるというか。

 野宿していて、口開けて寝ている間に、タランチュラ(だと思う)が口の中に入っちゃうから、え゛、、、どーすんのあれ??と思って見ていたら、なんとそのまま口を閉じちゃって、むにゃむにゃ、、、多分、噛んで飲み込んじゃったんだろうけど、そのせいで翌朝起きたら顔はパンパンに腫れているし、気持ち悪くなっているしで、可哀想なんだけど、かなり可笑しいシーンだった。

 チャーリーはいかにも弟ってキャラで、お調子者なんだが、兄さんがタランチュラ食べちゃって苦しんでいるときはちゃんと看病したりと、まあ憎めないキャラになっている。ホアキン・フェニックスって、実はあんまり出演作を見ていない気がするけど、チャーリー役ははまっていた感じだった。

 ジェイクは、意外にもあんまし見どころのないキャラで、ちょっともったいない。ジェイクには多面的な役が合うと思うんだけど、モリスは割と良いヤツで、裏がないので、ジェイクの持ち味発揮って感じじゃなかったのが残念。

 リズ・アーメッドとジェイクといえば、『ナイトクローラー』だけど、あれからリズ・アーメッドもかなり出世したのぉ。顔つきもちょっと変わったような。まぁ、ウォームの役もイマイチ捉えどころのない感じで、その辺を巧く演じていたと思う。

 ……というわけで、主要4役者は皆良かったし、そこそこ面白かったので、見て損はないと思うけど、私的にはDVDで十分だったかな、という感じでした。

 

 

 

 

“予言者の薬”よりも“金のなる木”の方が欲しいな~♪

 

 

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COLD WAR あの歌、2つの心(2018年)

2019-07-11 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67161/

 

 冷戦下のポーランド。民族音楽舞踊団「マズレク」に所属するズーラは、ピアニストのヴィクトルと瞬時に恋に落ちる。

 愛し合う2人だが、舞踊団にソ連が介入してきて、本意ではない音楽を強いられ、ヴィクトルは自由を求めるようになる。そんな中で、東ベルリンに演奏旅行で訪れた舞踊団。ヴィクトルは、公演後に西側へ逃げようとズーラに言う。ズーラも西への脱出を約束する。……しかし、約束の時間にズーラは来なかった。仕方なく、ヴィクトルは1人で西へと向かう。

 その後、パリやユーゴで再会する2人だが、2人の時間を共有することは出来ぬまま。

 そして、東ベルリンで別れて5年後のパリ。ズーラはイタリア人の男と、ポーランドから合法的に出国するために結婚し、パリにいるヴィクトルの下へやってくる。ようやく共に時間を過ごせるようになった2人だが、共に過ごす時間が長くなるにつれ、2人の間には小さな亀裂が生じ始め、それはある日突然、ズーラのポーランドへの帰国という決裂となる。

 ズーラを失って彼女の存在の重みを思い知るヴィクトルは、彼女を追ってポーランドへと戻るが、国家を裏切った罪で投獄される。そこへ再びズーラが面会にやって来るのだが、、、。

 

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 ここ2~3年ポーランドにハマっている身としては、あくまでも個人的にだけれど、最近では公開前のワクワク度が一番高かったんじゃないだろうか、、、。とにかく、1か月前から公開を指折り数えていたし、見る前には本作のためのレクチャーまで聞きに行ってしまったくらい。でも、聞いておいて良かった! というのも、本作は、その舞台となった時代背景や、文化的な背景を知っておいた方が断然楽しめるから。知らずに見るのはもったいない。これから本作を見る予定のある方は、是非予習をなさってからご覧あれ。

 ……と言っても、予習というのは簡単で、少し早めに劇場へ行き、パンフを買ってp.09~13までを本作上映開始までに読めば良いのです。その原稿を執筆されたのが、レクチャーで講師をしてくださったポーランド広報文化センターの久山宏一氏で、ほぼレクチャーで配られたレジュメの内容と被っていますので。

 あと、できれば同監督の『イーダ』を見ておくと、さらに本作に気持ち的に入りやすいかも。

 

◆これぞ“スルメ映画”

 楽しみにしている映画の前評判は、高ければ高いほど怖ろしい。見終わった後に落胆する可能性が高くなるから。そんな作品はいっぱいある。逆に、見終わった後に期待を上回る感慨を覚える作品は、まあ、数少ない。少ないからこそ、稀少であり、自分にとって価値ある映画として胸に刻まれるのだ。

 ……そして、本作もそんな数少ない作品の一つになりそうだ。「なった」と断言しないのは、これは、何度も見て味わうべき“スルメ映画”だから。見てみれば、これがスルメ映画だと分かる。

 実際、私は今んとこ本作を劇場で2回見た。感動して憑かれたように2度目を見に行ったのではなく、いろいろともう一度見て確かめたいことがあったから。そして、2度目に見て1度目には感じなかった“痛み”と“哀しみ”がじんわり胸に来た。

 もう一度見て確かめたいと思ったというのは、本作は、非常に寡黙な映画だからだ。文字通りセリフが少ないということもあるが、とにかく省略が多く、見る者に想像力を要求される。シーンとシーンの隙間を想像力で埋める必要がある。それを見ている間にしていると、ちょっとした人物の動きや仕草を見逃してしまったり、見ていても見えていなかったりするからだ。だから、1度目を見終わって、あれ、、、あのシーンは何だったんだろう??みたいな箇所が結構出てくるのだ。

 ……想像力というと語弊があるかしらん、、、。感性の方が近いかな。感性で隙間を埋めていかないと、主人公の女性・ズーラの行動が支離滅裂に見えてしまうかも。そうすると本作の良さがかき消されてしまう。

 1度目は補いきれなかったものを、2度目で何とか補えた。補いきれなかったのに1度目を見て“つまらん映画”と思わなかったのが、きっとこの映画の持つ魅力なんだと思う。それは、本作の映像の美しさと、音楽、そして、ズーラの美しさと歌。あと、個人的なポーランド愛と、『イーダ』の魅力もあったから。

 1度目を見終わって“分かんないとこもあるけど、惹かれる”と感じれば、2度目を見たくなるでしょ? 2度目を見て腑に落ち、それがグッとくれば、また見たくなるでしょ? 本作はだから、私にとってスルメ映画なのです。そして、『イーダ』もそういう映画だったんだよねぇ。

 

◆好きなの、どーしようもなく。

 ネット上での本作の感想をチラッと見たけど、ズーラのことを「小悪魔」とか「男を振り回す女」とか書いてあるのがあったけれど、私はそれは違うと思うのよね。

 ズーラとヴィクトルは、アッと言う間に恋に落ちるし、くっついたり離れたりがブツ切りに描かれているので、ただ発情しているだけのカップルで、ズーラの言動が“気まぐれ”に見えがちだけど、そうじゃない。この2人は、理屈じゃなくお互いにひたすら好きなのよ。

 何故か分からないけど、どうにもこうにも好きでしょうがない人、、、、っているでしょ? てか、いても不思議じゃないでしょ? あんなんのどこがええの??と周りに言われて、自分でもそう思うけど、でも好き!! ってこと、あるでしょ? あってもいいでしょ? ズーラとヴィクトルはそれなのよ。だから、決定的な別れに見えても続きが起こる。

 世間ではそれを“腐れ縁”とも言うけど、本作ではもう“運命”みたいな描かれ方をしている。他の相手と一緒に暮らしたり結婚したりしても、そんなことは些末なこと。お互いが彼・彼女でなければダメだと分かっている。……そいういう関係って、確かにあるんじゃないかな、、、と思う。

 だから、私はズーラのことを、小悪魔だとも、男を振り回す女だとも思わない。ズーラはただただヴィクトルが好きなのよ。じゃぁ何でヴィクトルと一緒に西へ行かなかったのか? ……なんてのは愚問です。強いて理由を挙げれば、恐らくは祖国を捨てられなかったから。けれども、ヴィクトルと離れること=別れではないのよ、彼らにとっては。離れているだけ。常識や理屈でぶった切ることなど出来ない感情、だから厄介なのよ。

 物理的に距離がどれだけあろうが、法的に他の人の配偶者になろうが、2人の気持ちは変わらない。それを縦糸にし、音楽を横糸にして、本作は編まれているのです。

 

◆2つの心、4つの瞳。

 本作は、ヴィクトルとイレーナという女性が土着の音楽を収集しているシーンから始まる。この土着の音楽=ポーランドの民族音楽=マズルカが、本作では重要なファクターである。舞踊団の名称「マズレク」は、もちろんマズルカのこと。ショパンが数多く作曲したマズルカはこれにインスパイアされたもの。

 実際、ヴィクトルは途中でショパンを弾いている。マズルカじゃないけど。ポーランド音楽とショパンは、まあ、切っても切り離せないわね。ましてやヴィクトルはピアニストなんだし。

 で、ズーラが披露する民族音楽の歌で、本作のテーマ曲ともいえる「2つの心、4つの瞳」が実に実に印象的。マズレクで民族音楽として歌うとき、パリのジャズバー“エクリプス”でポーランド語で歌うとき、パリでアルバム制作のためにフランス語で歌うとき、どれも同じメロディなのにゼンゼン違う曲に聞こえる。フランス語で歌う「2つの心~」は、ズーラにとってはもう別の曲になってしまっていることが、後の彼女の行動から分かるシーンがとても哀しい。ヴィクトルとも不協和音マックスになる。

 ちょっと??と思ったのはエンディングで流れるバッハ。しかもグールドの曰く付きの録音盤。何でバッハなのか、、、分からない。ある意味、最後の最後で監督に謎かけされた気分。パンフで映画評論家の河原晶子氏という方は「ヴィクトルとズーラの魂を浄化するように深い余韻を残している」と書いているが、そうなのか??

 これには、本作のラストシーンをどう解釈するかが関わってくる。ラストは十字路が舞台となるが、『イーダ』でも重要なシーンで十字路が使われていた。この十字路はかなりこの監督にとって重要なファクターのようで、まあ、普通に考えれば宗教的な意味合いが大きいと思われる。実際、ヴィクトルとズーラはその前に廃墟となった教会で2人だけの結婚式を挙げるわけだが、、、。このラストシーンを、本作を見た者たちはどう解釈すれば良いのか。

 普通に考えて、この2人は、、、、と思われるけれど、それを書いちゃうとアレなので、ここではやめておきます。でもまあ、……それしかないよね、この2人には。

 ちなみに、最後に「両親に捧ぐ」という献辞が出ますが、このズーラとヴィクトルの物語は、監督の両親がモデルと言われています。実際に、亡くなったのも(詳細は語られていないものの)同じ年だったとのこと。んでもって、監督はかなりイケメン(というかシュッとしたオジサン)です。

 

 

 

 

 

 

オヨヨ~ィ♪

 

 

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告白小説、その結末(2017年)

2019-03-16 | 【こ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 心の病から自殺した母親との生活を綴った私小説がベストセラーとなった後、スランプに陥っている作家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。そんな彼女の前に、熱狂的なファンだと称する聡明で美しい女性エル(エヴァ・グリーン)が現れる。

 差出人不明の脅迫状にも苦しめられているデルフィーヌは、献身的に彼女を支えてくれ、本音で語り合えるエルに信頼を寄せていく。やがて、ふたりは共同生活を始めるが、時折ヒステリックになり不可解な言動を発するエルに、デルフィーヌは困惑する。

 はたしてエルは何者なのか、なぜデルフィーヌに接近してきたのか……。

 ある日、エルの身の上話に衝撃を受けたデルフィーヌは、彼女の壮絶な人生を小説にしようとするが、その先には想像を絶する悪夢が待ち受けていた……。
 
=====ここまで。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 この映画、昨年公開時に劇場に見に行ったんです。が、見終わって自分なりに腑に落ちていたのだけど、後からパンフを読んで???となってしまい、感想を書くのを躊躇する部分もあり、お預けになっておりました。この度、DVDで再見し、まあ納得したので、感想を書くことにしました。


◆本作は恐怖映画か?

 小説家&熱狂的なファン、あるいは、小説家&ゴーストライター、という2人の小説やら映画はよくある設定だと思うが、本作もその1つだと思って見ていると、最後の最後で、はぁ??となる。……というか、そういう風に作っているからなんだけど。

 で、どういうことだろう? と考えるというか、まぁ、そんなに考えなくても、“……多分、そういうことだろう”と腑に落ちる。で、腑に落ちたつもりでパンフを買って帰ってきて、家で読んでみて、“ハレ……??”となった。というのもパンフにこんなことが書いてあったから。

 「アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの映画『悪魔のような女』を思わせるサスペンスと恐怖を織り込んで観客を得体の知れない暗闇に誘い込んでゆく。この映画を究極の恐怖映画と呼んでみてもいいくらいだ」(映画評論家/河原晶子氏の寄稿の一部)

 「オープニングのシーンとラストのシーンは、いずれも主人公のサイン会の様子を主観アングルで撮っていて見事に相似形をなし、いわば円環構造になっているのだが(中略)、最後の最後にゾッとすること請け合い」(幻想文学研究家・翻訳家/風間賢二氏の寄稿の一部)

 ……ええ?? 恐怖映画? ゾッとする? そんな映画だったか? と、私は自分がこの目で見て頭で納得したことが信じられなくなってしまった。何か重大なものを見落としていたのか? と。かといって、もう一度劇場に行く気にもならなかったので、DVDが出たら見てみようと思っていた。

 で、今回DVDで再見し、劇場で見たときと、やっぱり同じ印象だった。私にとっては、恐怖映画でもゾッとする映画でもなかった。はて、上記のお二人は、どうして本作をそんな風に評したのかしらん?

~~以下ネタバレです(本作を見るつもりの方はお読みにならない方が良いです)~~

 恐らく、本作は、風間氏が指摘しているように、ポランスキーの『反撥』『テナント/恐怖を借りた男』とテーマが同じだから、それで、“怖い”というキーワードが出て来て、ああいう評になったのかなぁ、と。テーマってのは、「妄想に取り憑かれる人」を描いているということ。でも、本作は、確かにテーマはそうかもしれないけど、前2作とは見せ方がゼンゼン違うし、『テナント~』はそもそも怖いというよりブラックコメデイの要素の方が強いから、ちょっと恐怖映画のカテゴリーに入れるのも違う気がする。まぁ、これは見る人の感覚の違いかもだけど。

 つまり、本作でのエルは、デルフィーヌの裏キャラである、ということ。エルは実在しない女、なんだと思う。これはおそらく多くの人が分かることで、分かる様に仕掛けがされているので、このこと自体は、実はネタバレというほどのことでもないのだけど、知らずに見た方がゼッタイに面白いはず。察しの良い人は途中で気付くだろうけど、まぁ、ラストでジャジャ~ン、という風にしたかったのだろうということは分かる。

 妄想といっても、『テナント~』のような多重人格というほどのものではなく、デルフィーヌが追い詰められた精神状態で、ちょっとイッちゃってたってことかなと思う。だから、やっぱり『反撥』に通じるものはあると思う。ただ、『反撥』ほどサイコタッチな描写ではないし、ヤバさもあそこまでではない。というのも、デルフィーヌは『反撥』のドヌーヴ演ずるキャロルみたいに精神が崩壊しちゃっているという感じではないのよね。というか、そういう演出の仕方をしていない。飽くまでも、サスペンスの範疇であり、『反撥』のオカルトっぽさはない。だから、別に見ていて、得体の知れない怖さは感じなかったんだよね、私は。

 とはいえ、見方によっては、デルフィーヌという小説家は、基本的に私小説を書く人として、そのモデルにした人物に憑依される=多重人格になる、という風にも解釈は可能かも。そうすると、やはり『テナント~』にも通じるものがあるとも言える。

 ただ、本作は何となく不安な空気は本作全体を最初から最後まで支配していて、その理由を知りたくて最後まで見せられてしまう、という感じの映画。だから、まあ、正直言ってあまり深みのある映画ではない。


◆2度目以降の楽しみ方

 深みがないと書いたけど、結末を知った上でもう一度見ると、イロイロ面白い発見が2度目以降はあるのは確か。

 中盤以降、デルフィーヌとエルは化粧や髪型、服装がよく似てくる。そっくりではないのだけど、デルフィーヌが髪を一つにまとめているときは、エルもそうだし、着ている服も、似たような色合い・材質のものになっている。これは、この2人が同一人物の裏表であることのメタファーなんだろうね、多分。

 あと、不可思議なことがイロイロと起きるが、これも、エルがデルフィーヌの裏キャラだと考えて矛盾があまりない。そもそも、エルは、デルフィーヌとしか接していない。デルフィーヌ以外の人は、誰もエルを見ていないし、認識していない。こういうことも、最初は気付きにくいかもだけど、2度目以降はよく分かる。

 エルがデルフィーヌに話した身の上話はどう解釈するのか、、、。これは分からないけど、身の上話自体は大して面白い話じゃなかったし、それをメモしたり録音したりしたものは途中で全部破棄されているから、本筋にはあまり関係のないことなのかも。だから、デルフィーヌがラストに上梓した小説には反映されていないと見た。

 前述の“モデルにした人物に憑依される”ってのも、再見してみて思い至ったこと。本作には冒頭とラストで2度サイン会のシーンが出てくるんだけど、冒頭のデルフィーヌと、ラストのデルフィーヌが別人みたいなルックスになっているのね。特に、ラストシーンのデルフィーヌは、一瞬フラッシュバックで現れるエルと同じ髪型とメイクをしている。冒頭のサイン会の身なりは、表紙になっている亡きお母さんの感じに似ているようにも見えるし。

 ……とかいう具合に、制作者の意図を勝手にあーでもない、こーでもない、と思いながら見るには面白い映画かも。でも何度も言うけど、ポランスキー作品にしては、あんまし味わい深い映画とは言い難い。


◆その他もろもろ

 エマニュエル・セニエは、本当にイイ役者さんだと、改めて思った。『毛皮のヴィーナス』を見たときも思ったけど、演じる役によってゼンゼン見え方が違う役者さんってのは、やっぱり素晴らしいと思う。本作でも、かなりヤバい女性を、ヤバくなさそうに演じていて非常に上手いと思った。

 エヴァ・グリーンは大作りな顔が印象的。エマニュエル・セニエとはゼンゼン違う容貌なのに、だんだん2人の雰囲気が近付いてくる感じとかは非常に面白い。これは2人とも良い役者の証拠だろう。

 デルフィーヌの夫役が、なんとヴァンサン・ペレーズでビックリ。なんかただのオッサンになってしまったのね、、、と、ちょっと哀しくもあり。『インドシナ』では凜々しかったのになぁ。いい歳の取り方って難しいのね。……とはいえ、彼は決して小汚いオッサンになっているわけではなく、十分ステキなおじ様だと思いますが。

 ポランスキーも80代後半。創作意欲が枯れていないことは、映画ファンとしては有り難い限り。守備範囲の広い人だから、きっとまた毛色の違う作品を出してくれるに違いない。……というか、期待している。本格的なホラーとか撮って欲しいなぁ。
 










デルフィーヌの部屋が素敵、、、。




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子供たちは見ている(1943年)

2019-01-16 | 【こ】



 少年プリコの母親ニーナ(イザ・ポーラ)は、真面目な夫アンドレア(エミリオ・チゴーリ)がいながらロベルトという男と不倫している。ロベルトは、ニーナに駆け落ちを迫り、ニーナはプリコを思いながらも、ある晩、家を出て行く。

 しかし、プリコは母親が突然いなくなり、祖母宅へ預けられるなどして環境が変わったストレスからか高熱を出し、それを聞かされたのか、ニーナは再びプリコと夫の下に戻ってくる。夫は、プリコのためにもニーナとやり直すことを受け容れ、再び3人の平穏な生活が戻るかに思えた。が、ロベルトは執拗にニーナを口説きに現れ、プリコと夫の3人でバカンスに行ったリゾート地まで追って来る。

 ロベルトが来ているとも知らずに、一人先に帰った夫アンドレアだったが、アンドレアがいなくなった途端、ニーナの前にロベルトは現れ、執拗に口説く。最初は拒むニーナだが、次第に大胆になり、よりを戻してしまう。

 そんなニーナを見て、プリコは、また母親がいなくなってしまうのではないかと不安に駆られたのか、父アンドレアのいるローマに一人で線路伝いに帰ろうとする。プリコが行方不明になり大騒ぎになるが、無事プリコが保護された後、母親はやはりロベルトの下へと去って行く。そして、たった一人でアンドレアの待つ家に帰るプリコだったが、、、。

 ……『自転車泥棒』『ひまわり』ビットリオ・デ・シーカが監督。かなり初期の頃の作品。
 
 
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◆愚かすぎる大人たち

 デシーカ作品は、『自転車泥棒』『ひまわり』しか(多分)見ていないが、『ひまわり』は好きではないが非常に印象に残る良い映画だと思うけれど、『自転車泥棒』は見ていて非常にストレスが溜まる映画だった。なぜなら、あまりにも子供の親が愚かだから。そして本作、、、。

 『自転車泥棒』といい、本作といい、子供の親たちがあまりにも愚かで泣けてくる。

 子供の母親が夫以外の男と不倫なんて、、、という意味で愚かと言っているのではない。まあ、確かに賢い行動とは思えないが、人を好きになるのは理屈じゃないから仕方がない。夫アンドレアは真面目で誠実で一応優しいが、威圧的な感じで気難しそうだし、そもそも雰囲気が暗い。ああいう男と一緒に暮らしていると、ちょっとストレス溜まりそう。だから、かなり強引で男臭いロベルトが、ニーナの目に魅力的に映るのは分からないでもないのだ。

 何が愚かって、出たり入ったりを繰り返すところ。そして、子供の前で夫以外の男との情事を繰り広げるところ。これはさすがにダメだろう。

 子供がいようがいまいが、夫と愛人の下を行ったり来たりするのは節操がなさ過ぎる。そして、我が子の前で、その子の父親以外の男とイチャイチャしている神経が理解できない。もう、このダブルパンチの愚かな行動により、私はニーナを“おクズさま認定”いたしました(ちなみに、「おクズさま」とは、先日見ていたTV番組「ねほりんぱほりん」で山ちゃんとYOUがヒモ男のことをこう称していました)。

 というか、ニーナという女、あまりにも主体性がなくて、中盤以降バカ女に見えてくる。序盤はまだ、“主婦のよろめき”だろうと許容できていたけれど……。なんでこんなに彼女は主体性がない人間なのか。自分がどう生きたいのか、ということを“自分の頭で考える”という描写が一切ないのが見ていて辛い。ただただ愛人や現状に流されるだけ。下半身の緩い女という感じでもなく、緩いのは何よりも彼女のオツムであることが哀しい。

 それにしても『自転車泥棒』の父親といい、ニーナといい、デシーカはどうしてこうも愚かな大人を、主人公の子供の親として設定するのだろう。『自転車泥棒』の場合は、貧しさゆえ、、、という尤もらしい説もアリだが、本作の家族は中流階級で決して貧しくはない。上記リンクの本作の説明では「子供の眼を通して大人の世界を批判したものである」とあるが、批判するのなら、もう少しマシな大人を設定してほしいものだ。こんな、万人に愚か者の烙印を押されそうな大人、批判にさえなりゃしない。

 『自転車泥棒』は名作として名高いのだけれど、私は、どうしてもあの父親がダメで、名画とは思えないのであります、、、ごーん。

 本作について、ネットで検索してみたのだけど、ほとんど感想やらレビューやらがヒットしなかった。これ、最近DVD化されたんですかね? だからかな?? 実は、私自身、本作をなぜリストに入れたのか、まるで記憶にないのだけれど、、、。もしかして、新作の中にあったのかしら。

 本作について、wikiでは「ルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、アレッサンドロ・ブラゼッティの『雲の中の散歩(英語版)』と並んでネオレアリズモの嚆矢と見なされている」とあるけど、本作もやはり名作と言われているのかしらね?


◆唖然呆然な終盤の展開

 以下、結末に触れています。

 ちなみに、ニーナが再度夫アンドレアを捨てたことで、アンドレアは絶望し、プリコを修道院(?)に入れ、院長と思しき人に「あの子を我が子のように愛してください」というようなことを言い、プリコには今生の別れを言い、去って行く。そして、自ら命を絶ってしまうのである。

 え゛~~~!! と思ったのは私だけ???

 もうね、ここまで来ると、アンドレアも愚か者と言いたくなる。一人息子を残して、妻に逃げられたからと言って絶望して自殺。それは、確かに生きているのも辛いことかも知れないけれど、残されたプリコの気持ちを考えない父親ってのはどーなのか??

 それを聞いたニーナは、プリコのいる修道院に来て、涙ながらにプリコと再会するんだけど、プリコはニーナに駆け寄ることはなく、泣きながら立ち去っていく。……当たり前だろ。

 まったく……、子は親を選べないとはいえ、こんな両親の下に産み落とされたプリコこそ、絶望したくなる人生ではないか。

 こういう批判をして欲しかったのかしら、デシーカは。これほど究極の愚かな大人を用意してまで糾弾したかったことって何なのだろう。

 プリコのその後を思うと、もう涙も出ませんよ、マジで。ニーナが修道院に来たシーン、私は、ドン引きで見ていました。何なんだこいつら、、、みたいな。アンドレアにも、最後の最後で裏切られた思いで、全然同情できないし。せめて、アンドレアには父子2人でたくましく生きて欲しかった。そういうラストにしてくれても良かったんじゃないのかな。ここまでプリコをどん底に突き落とす話にする意味が分からない。

 今んとこ、デシーカ作品で良いと思えるのは『ひまわり』だけだ、、、。後は、映画として云々以前に、内容が到底、私の感性では着いていけない。『自転車泥棒』は、それでもまだ、ラストにちょこっと救いがあったように思うけれど。
 






これぞ究極の“絶望映画”




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哭声/コクソン(2016年)

2018-08-04 | 【こ】



 以下、wikiよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 何の変哲もない田舎の村、谷城(コクソン)。その村の中で、村人が家族を惨殺する事件が立て続けて発生する。容疑者にいずれも動機はなく、幻覚性の植物を摂取して錯乱したための犯行と発表されたが、謎の発疹を発症するなど説明しきれない不可解な点が多く残っていたことから、いつしか、村人たちの中では山中で暮らす謎の日本人(國村隼)が関わっているのではないかとささやかれはじめる。

 捜査にあたる警察官のジョング(クァク・ドウォン)は、オカルトじみたその意見を当初まともに取り合わなかったが、実際にその目で数々の異常事態を目撃したことにより、徐々に疑念を抱き、一度は断念した男の家への訪問を決める。そして通訳らとともに男の家を訪れたジョングは、得体の知れない祭壇や事件の現場を写した写真などとともに、娘ヒョジンの靴を見つけ、疑いを決定的にする。

 ジョングが男と関わってから高熱を発していたヒョジンはすぐに回復したものの、苦手な食べ物を食らい、ジョングに対しても普段は親思いの彼女からは想像できない罵詈雑言を吐くなど奇行を繰り返し、その体には一連の容疑者と同じ発疹が現れていた。そして、家族が目を離した隙に、怖れていた事件を起こしてしまう。

 事態を収拾するため家族が呼んだ祈祷師のイルグァン(ファン・ジョンミン)は、男をこの世のものではない悪霊だと断じ、抹殺のための儀式を行う。しかし、その最中に儀式の中止を訴え、苦しむヒョジンを見かねたジョングはイルグァンを追い出してしまう。一方、同じ時間に男も山中で儀式を行っていた。

 その後ヒョジンの容態はさらに悪化し、発疹も全身に広がっていく。娘を案じる一心で仲間とともに山中の家に押しかけたジョングは、ついに男を追い詰めるが…

=====ここまで。

 う~~む、この訳分からん感じのあらすじのとおり、作品も訳分からん度が高いオカルト・ホラー・コメディ(そんなジャンルあるのか?)でござんした。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 面白い、スゴい、、、という噂の本作なので、韓国映画はあんまし見ない方だけど見てみることに。……いやはや、聞きしに勝るぶっ飛び映画で、度肝を抜かれるとはまさにこのこと。韓国、すごいわ、、、。こんな映画、日本じゃ絶対出てこないね、間違いなく。
 

◆グロいしエグいけど、面白い!

 序盤の展開から言って、ミステリーかと思って見ていたら、あらあら、ららら、、、へ??何コレ、ホラー?? いや、オカルト??となり、途中、ホラー調なのにメチャメチャ笑えるシーンも多々あり、もう、ぐぢゃぐぢゃ、、、グロもゲロも何でもアリ!!!みたいな展開に唖然となり、アッと言う間の2時間半が過ぎ去っていった、、、ひょ~~~。

 ……と、まるで説明になっていないけれども、まあ、でも仕方がない。そういう映画なんだから。

 一応、真面目なことを少しだけ書いておくと、本作は、きちんと謎解きがされないまま終わる。見た者は、「え、、あれ何だったん?」「何それ、どーゆーこと??」となる。でも、別に謎を解く必要はないし、そこに思考エネルギーを使ってももちろん構わないけど、本作は、この訳分からなさを堪能する映画だと、私は思った。

 つまり、制作側が、敢えて見る者を惑わせるように作っているのだから、それに乗っかれば良い、と思った次第。

 こういう“惑わせる”映画ってのは、やり過ぎるというか、やり方を間違えると、ヒジョーにムカつく映画に成り下がる(『ヴィレッジ』とか『サード・パーソン』とかね)んだけれども、本作は、そんな下手を打つことなく、実に巧妙に観客を誘導し、裏切り、煙に巻いており、その手管にまんまとハマるのが、むしろ心地良い。とにかく先が読めないし、何より(コレが一番大事だが)面白いのである、文句なしに。だから、ムカつかない。見ていて楽しいのだ(グロいけど)。

 本作の面白さは、やはり、韓国の因習に根差したおどろおどろしい呪いとか罰当たりとか狂気とか、そういうものが渾然一体となって、現代の文明社会に取り残されたようなド田舎の庶民の暮らしが根本から脅かされるという、その、リアリティがあるようなないような、、、“虚実皮膜”でありながら、結果的にはまるでリアリティのないトンデモ映画になっちゃっているところにある。身近に感じつつ(だから怖い)も、あまりのぶっ飛びぶり(だから笑える)に、何とも言えない違和感を覚えるのだ。そして、そこが本作の魅力であり、2時間半という長尺にもかかわらず、最初から最後まで一瞬たりとも観客を飽きさせることなく引きつける力を持っている所以だ、、、と感じた。

 ???な部分は多いけれど、決してグダグダの脚本ではなく、実によく計算された構成だとも感じた。中でも、國村隼の使い方が絶妙で、彼が一体何者なのか、というのが本作の一貫した謎の一つである。そして、その答えは明解ではない(見る者によって変わってくるだろう)。本作の、真の主役は國村隼だといっても過言じゃないのでは?

 上手に観客をミスリードしながら、怖がらせ、かつ面白がらせる。これは、相当の手練れによる脚本だ。素晴らしい。

  
◆笑っちゃったシーン

 と、ここからはネタバレです。

 私が笑いが止まらなかったシーンは2つ。最初は、ファン・ジョンミン演じる祈祷師の祈祷シーン。これ、もちろんファン・ジョンミンご本人はもの凄い真剣にやっているんだけど、面白すぎなんだよねぇ。いわゆる“トランス状態”ってやつだと思うけど、その雄叫びとか、踊りとか、もう圧倒されるくらいに凄い。でも、だからこそ、可笑しい。人間、大真面目に何かをやると、却って見いてる者には可笑しく見える、ってことがよくあるけれど、これもそんな感じ。

 祈祷シーンは2度あるけど、2度目のは最初のに比べると、さらにイッちゃってるので、もうヤバいなんてもんじゃない。笑うしかないでしょ、あそこは。時折、娘ヒョジンの苦しみのたうつ姿がフラッシュで挟まれるのがキツいけれども、ジョングを演じるクァク・ドウォンのただでさえコミカルなルックスが、恐れおののいて喚き散らすところに至っては、もう、ほとんどコントかよ、というくらいに振り切れてしまっている感じ。しかも2度目の祈祷シーンは、カットバックで國村隼がやはり祈祷するシーンが挟まるので、見ている方は混乱するのである。しかも、國村隼の演技もまた振り切れているので、唖然呆然、、、。

 あんな狂った状態を、あんな風に演じられたら、スクリーンに映るのは、ある意味究極のシーンになるわけで、見ている者の理性を破壊する。だから、笑っちゃうのである。

 もう1つは、ジョングが村の仲間達を引き連れて、國村隼演ずる日本人をやっつけに行ったら、謎のゾンビ男に遭遇した、、、というシーン。ジョングたち(5名くらいだったかな)と、ゾンビ男1人のグダグダな格闘シーンがあるんだけれど、もうこれがね、、、笑えるんですよ、マジで。このゾンビ、脳天に鍬をぶち込まれても死なない! ジョングの仲間の顔に食らいついて、その人の顔の皮がビヨ~ンて伸びたり、皆でゾンビ男と取っ組み合いになったり、もう、ほとんど意味不明なシーンなんだけど、あまりのグダグダぶりに笑っちゃう、、、んだよね。しかも、このゾンビ男の存在が、本作ではほとんどストーリーに何の意味も持っていないところがまたミソ。でも、このゾンビ男との格闘シーン、結構長かったゾ。まあ、このゾンビ男を、國村隼が祈祷によって世に産み出した、ということの様で、これがラストの國村隼のデビル化するシーンの伏線なのかも、、、だけれど。

 特筆事項は、狂ってしまった娘ヒョジンを演じた女の子。もう、あの『エクソシスト』リンダ・ブレアも真っ青な、すごい迫力! こんな演技、よく出来るなぁ、、、と感心してしまったよ、オバサンは。

 あと、どーでもよいけど、祈祷師を演じたファン・ジョンミンが、すごいセクシーだった! 私、韓国人の俳優さんの名前、ゼンッゼン覚えられない人なんだけど、ファン・ジョンミンの名前は一発で頭に入ったわ。それくらい、すごく渋くて素敵だった。カッコ良いと言えばカッコ良いけど、なんかこう、、、もっと内面的な魅力だよなぁ。本作を見て初めて知った俳優さんだけど、ファンになってしまったわ! 調べてみれば、私、同年代だし。あんな素敵な同年代の男性が身近にいたら、毎日楽しいだろうなぁ、、、と妄想。

 ちなみに、鑑賞後に町山氏のムダ話を聞いたところによると、あの謎の白装束の女性が、GODだそーです(と、監督自身が語っているらしい)。そして、冒頭の字幕にあるように、本作はキリスト教を背景にしており、國村隼はキリストでありデビルである、、、ということらしい。まあ、でも、私にはそんなことは、あまり大したことではないけどネ。








ファン・ジョンミンに祈祷されたい!!




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