映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

あの日のように抱きしめて(2014年)

2016-03-31 | 【あ】



 ネリー(ニーナ・ホス)は、声楽家だったが、1944年10月に逮捕され収容所送りとなる。

 戦争が終わり、ネリーは強制収容所から奇跡的に生還を果たすが、顔面に大怪我をしており、修復手術を受ける。その際、医者には元の顔とは別の顔を勧められるが、頑なに「元の顔にしてほしい」と訴える。しかし、元通りとは行かなかったのだろう、元の顔に似た顔となる。

 親友ネル(ニーナ・クンツェンドルフ)の協力を得て、少しずつ体力を回復させていくネリー。そこでネルから、ネリーの一族は全滅したこと、非ユダヤ人で生き別れになっていた夫・ジョニーが自分を裏切ったらしいこと、しかしジョニーは無事に生きていること、などを聴かされる。

 手術の痕もまだ痛々しいにもかかわらず、ネリーはジョニーを探しに夜の街を彷徨する。ピアニストだったことを頼りに探した結果、場末の酒場で働いている夫を探し当てるネリー。しかし、愛しい夫は、ネリーを見てもネリーだと分からず、「元妻に似ている女」としか認識しない。そして、こともあろうに、「元妻の一族は全滅したが、元妻だけが生きていることにすれば全財産を相続できる。相続した財産のうち、2万ドルを渡すから協力してくれ」と、ネリーに持ち掛ける。

 衝撃を受けるネリーだが、エスターと名乗り別人を演じつつ、ジョニーの申し出を受けることに。果たして、ネリーとジョニーの関係はどうなるのか。

 ……ジャズの名曲、「スピーク・ロウ」が鍵になります。監督のクリスティアン・ペッツォルトは、ヒッチコックの『めまい』にインスパイアされたと語っているそうです。え゛~~っ。『めまい』なんかよりゼンゼン味わい深く、心に沁みる作品、、、だと思うけどなぁ。

  
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 昨年、公開時に劇場に行きたかったけど行けずに終わった本作。、、、とはいえ、それほど期待していたわけではなかったんです。何となく、ストーリー的にナチものというよりサスペンスっぽい印象だったので、面白そうかな、と思った程度だったので。 

 で、やっとDVDで見ました。……すごく、グッときました。じーん、、、となるといいますか。正直、ツッコミどころはありますが、そんなことはどーでもいいと思っちゃう。

 本作を見て誰もが思うことの一つは、“ジョニーは本当にネリーを愛していたのか、いなかったのか”でしょう。評価が分かれるところのようですが、私なりの解釈は後述するとして、、、。

 ジョンは、エスターを名乗るネリーに、ネリーになりきるためにあれこれ指南します。この辺が『めまい』に通じるところですかね。歩き方、筆跡、髪の色、果ては着るものまで指示します。

 ネリーは、収容所で角材に座らされる拷問を受けていた、と作中語っていましたが、想像を絶する生活で、容貌のみならず、歩き方まですっかり変わってしまっていたのでしょう。ジョニーの求めに応じ、エスターとして、ネリーになるべく歩き方を練習します。しかし、筆跡は、、、練習するまでもなくそのままの文字を書くことが出来ます。ジョニーに筆跡を披露するシーンがありますが、、、。そこで、ネリーと気付いてくれるのではないか、という一縷の望みを抱いて必死で文字を書くネリーの姿がひたすら切ないです。

 どうしてジョニーは気付かないんだ! というツッコミを入れる人もいるでしょうが、私は気付かないのも不思議ではないと思うのです。どうやら、ジョニーは、保身のためにネリーをナチの秘密警察に売ったようなのですが(ハッキリは分からない)、そのことに対する激しい負い目と、あの収容所から生還してくる訳がないという強烈な思い込みが、ジョニーを現実に向き合わせることを遮っていたのでしょう。そういうことってあるんじゃないかしらん。だからむしろ、思い込みのない以前の知り合いは、ネリーを見てすぐにネリーと判別できたりする。一番、ネリーの身近にいたジョニーだけが気付かない、気付けないのです。負い目と思い込みが彼の心の眼を大いに曇らせてしまっていたのです。

 そして、ネリーは、ただひたすらに、ジョニーに気付いてほしかった。それがムリだと悟ってからは、新たな関係でも良いから、ジョニーの側にいて共に人生を歩みたいと切に願ったのでしょう。だから、健気にジョニーの残酷ともいえる要求に従っていたのです。彼女の気持ちも、振る舞いも、理解できてしまう私って、もしかしてドMでしょーか??

 ジョニーは、ネリーを愛していたらナチに売らないだろう、という疑問もあります。でも、それはネリー側から見た言い分。ジョニーはユダヤ人ではなく、ネリーをギリギリまで匿っていたし、追い詰められた状況で、最終的には自己保身に走ったとしても、それがネリーを愛していなかったことの証明にはなりません。究極の自己犠牲を伴わなかったのです、ジョニーのネリーに対する愛は。だからと言って、彼にとって、妻はネリーじゃなくても良かったわけではない。それは、今、孤独に生活していることを見れば察しがつきます。

 こういう人っているでしょう。別に責められることじゃありませんよ。私だって、自分が殺されるかもしれないというギリギリの状況で、それでも自分は死んでも、相手を助けたいと心底思えるかと聞かれれば、怪しいもんです。つい、その場で、相手を売るようなことをしてしまうかも知れない。そして、その直後には死ぬほど後悔するけれど、死ぬ勇気もなく、、、。それが一人の弱い人間の真の姿じゃないでしょうか。わが命と引き換えの究極の自己犠牲を伴ってまで愛する人を守る、というカッコよさだけが真の愛だなんて、愛の解釈が狭すぎると思います。

 なので、私は、ジョニーなりにネリーをちゃんと愛していたのだと思いました。ネリーの望む愛し方ではなかったかもしれないが、愛していたと思います。

 ジョンがネリーに指南する場面で、実にネリーのことをよく見ていたことが分かるのです。歩き方、喋り方、彼女の好み、、、。そして、ネリーの書いたメモや雑誌の切り抜きまでとってある。何より、彼には新しい女がいない。ネリーと生き別れてそれなりに時間が経っているのに、まるで女っ気のない粗末な部屋で孤独に暮らしている。あのルックスでピアノが上手ければ、女に不自由するとは思えない。

 それもこれも、こうなることを見越して、いざとなったらネリーの一族の財産をせしめようという魂胆からの行動、、、と捉えようと思えばそれもアリでしょうが、彼はそこまでの悪党ではないように思います。エスターを名乗るネリーにも極めて紳士的だしね。

 ここから、ネタバレになります。

 果たして、ジョニーの企みは成功するのか。、、、もちろん、しません。ジョニーの知り合いたちの前で、感動の再会を演じた後の食事会。ジョニーは、エスターがネリーだと遂に気付くのです。気付かせたのは、ネリーがその場で歌った「スピーク・ロウ」と、ジョニーが着せた赤いドレスの袖口から見えたネリーの腕に刻印された収容所での囚人番号。

 ピアノで伴奏していたジョニーの手が止まります。そして、ネリーは独唱する。その光景に、呆然としているジョニーの知り合いたち(おそらく彼らはジョニーの企みを知っている)。

 「スピーク・ロウ」の歌詞が、なんとも2人の関係を微妙に映していて、ニクい演出です。ご興味のある方は歌詞を検索なさってください。

 ネリーは、“I wait...”の部分で歌うのを止めて、静かに立ち去ります。果たしてこれをどう解釈するか。私は、ネリーは、結局、ジョニーの下を去る決断をしたのだと解釈しました。なぜなら、、、
 
 歌詞は、この後「愛していると囁いて」と続くのにその前で止めていること。去る時の映像が激しく焦点がぼけて光の中に赤いドレスが消えていくこと。彼女は振り向きもせず、ジョニーに視線を送りもせず去って行ったこと。、、、等々からそう感じました。何より、その直前で、親友のネルが自殺してしまっています。そして、ジョニーが、ネリーの逮捕直前に離婚届を出していたことを証明する書類を遺書代わりに残していたのです。この出来事に接して、ネリーの心は決まったのだと思います。

 ラストシーンが、あまりに悲しく、胸に迫ります。あのバッサリとした幕切れ。もちろん、解釈は人それぞれですが。私がネリーでも、やっぱり、ジョニーとはもう一緒にいられない、、、と思うのではないかな。愛していても、何か、足下から崩れていく感覚だったのだと思います。

 「スピーク・ロウ」、、、良い曲です。いろんな人が歌っているようなので、聴き比べて、本作の余韻に浸りたいと思います。





駅のシーン、ニーナ・ホスの真っ赤な口紅が印象的。




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美しい人(2005年)

2016-03-28 | 【う】



 1話につき1人の女性のある断片を描いた全9話のオムニバス映画。1話が大体10分程度。監督は、『彼女を見ればわかること』のロドリゴ・ガルシア。

 いろんな年代のいろんな境遇の女性のある断片を描いている、ということらしい。相変わらずヘンな邦題の作品て多いなぁ。

  
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 『彼女を見ればわかること』は、かつて見た記憶があるのですが、あんましグッと来なかったのか、内容を覚えていないのですよね、、、。正直、オムニバス映画って、あんまし得意じゃないかも。

 9人の女性は、まあ年齢層は10代~60代くらいまでと幅広いけれども、皆それぞれにイロイロ抱えているのでして、それは生きてれば当たり前な訳です。で、ほとんどがほぼ1カットで撮られていて、つまり彼女たちの人生のうちの、ほんの10分程度を切り取っただけなんだけれども、まあ、彼女たちの置かれた境遇がうっすら(あるいはかなりハッキリ)見えてくるのですから、これは監督+俳優たちの力のなせる業ってことで、素晴らしいと思います。

 ……ということは前提で言うのですが、なんというか、あんまし見て良かったと思えるエピソードが1個もないんだよね。どれもこれも暗いというか、過去に囚われた話ばかりで、この先への希望が感じられるエビソードが少ない(ないわけじゃない)。一応、希望がある話も、いわゆる鑑賞後感が良いというわけではなく、心は重いまま、、、。

 一つ一つのエピソードについて書く気にはならないんだけど、印象に残ったのをいくつか。

 2話(ダイアナ)と、6話(ローナ)は、昔の男絡みの話で、どっちの昔の男も「君が忘れられない、君がオレの運命の人だ」的なことを言うわけね、彼女たちに。そして、女たちは揺れる、、、。これって、男のロマンチシズムを凝縮した話じゃないか? ロドリゴ・ガルシアは、こういう願望があるのではないかと勘繰っちゃう。現実を共に生きるパートナーより、過去の女の方が良い、、、。はぁ、、、(嘆息)。分からんでもないし、女でも過去の男を忘れられないということはもちろんあるけれども、私はあんましこういう話は好きじゃないのよねぇ。かつての恋人との過去ってのは、濾過された思い出でできているものだと思うのです。だから美しく思えて当然。イイ大人だったら、それを弁えて、現実と闘って生きる方が素敵だと思う。過去の恋人と偶然再会しても、私の理想は、視線をかわすだけですれ違える2人。仮に言葉を交わしても挨拶だけ、そして「元気でね」と笑顔で去れる2人。そこで愁嘆話を展開させる2人だけには決してなりたくないのです。だから、ダイアナもローナも、私にはゼンゼン魅力的には見えないのでした。ましてやあんなこと言ってくる男はサイテー。、、、そんな風に思っちゃう私はロマンス度ゼロなんでしょうかね。別にいいけど、ゼロでも。

 、、、でも、これを書いていて思い出したのですが、今では没交渉の旧親友が、若い頃言っていました。「別れた後、(相手に)思いっ切り後悔させたい」と。誰と付き合っても、別れた後には、「あんなイイ女と別れるなんて、なんてもったいないことをしたんだ、オレは!」と思わせたいのだそうです。そう思わない? と彼女に聞かれたので、私は「ゼンゼンそんなこと思わない。なんであんな女に惚れてたんだ、と思われるくらいの方が良い」と答えました。これは今も変わらないです。旧親友的感覚だと、ダイアナやローナみたいに、揺れるんでしょうか、、、。

 あと、男がサイテーだと思ったのは、4話のソニアの夫ですかね。あれはもう、論外。どう論外かは、見ていただければ分かると思います。

 逆に、イイ男だと思ったのは、8話のカミールの夫。乳がんで乳房摘出前にナーバスになって荒れる妻を穏やかに見守る夫。あれは、できそうで結構難しいと思う。私も、あの夫の立場になったとき、あんな風にいられたら、、、と思うけれど。

 7話のルースを演じていたのが、シシー・スペイセクとは! 最初、分かりませんでした。よく見たら、確かに面影はありますが。いや~、隔世の感があります。相手役のエイダン・クインもすごくイイ味出していました。鈍い男を鋭く演じていて上手いなぁ、と感嘆。

 ロドリゴ・ガルシアは、あのガルシア・マルケスの息子だそうで。ガルシア・マルケスの「物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室」という本を読んだことがあって(完読はしていないけど)、映画学校での生徒とのディスカッションを採録したものなんだけれど、息子が映像の方に進んだのもむべなるかな、という感じです。でも、ガルシア・マルケスの小説とは、大分、趣が異なるように感じました。非常にリアリティのあるエピソードばかりでしたもんね。

 でもまあ、正直、エビソードによっては女にロマンスを抱き過ぎなのが感じられるのは、父親譲りかも。女は概して、計算高くて、たくましいわよ、しぶといし。



 
 


ラストのグレン・クローズが素晴らしい。




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偉大なるマルグリット(2015年)

2016-03-23 | 【い】



 1920年代のパリ。男爵家で大資産家の夫人、マルグリット・デュモン(カトリーヌ・フロ)は、音楽を、中でもオペラをこよなく愛する女性。彼女は、その資力にモノを言わせて、自宅で本格的なサロンコンサートを頻繁に開いていた。コンサートのトリは決まってマルグリット。ゲストに招いたプロ歌手に激励の言葉を掛けながら悠然と舞台に立つ彼女。

 ……が、彼女は、、、なんと、絶望的な音痴さんなのでした。しかも、そのことに本人だけが気付いていないという悲劇。音楽を理解する耳を持っているのに、自分の声を聞き分けることが出来ないという皮肉。

 夫は彼女の資産で爵位を維持しているようなものだから、本当のことを彼女に言えず……。周囲も、彼女の資産目当てで付き合っている貴族ばかり。誰も彼女に真実を教えられないし、教えようとしない。でもそれは、彼女の資力だけでなく、彼女の人としての魅力も作用していたからなのだけど。

 そんな状況で、マルグリットは、辛口評の新聞記者にも絶賛され、ますますオペラへの情熱は高まり、高名な歌手を家庭教師として、遂には、一流ホールでリサイタルを開催することを決意する。夫は何とか止めさせようとするが、彼女はリサイタルを決行する。

 果たして、彼女の運命は、、、。

  
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 ちょっと考えさせられました、、、。何を考えたかは後述するとして、まずは鑑賞しての感想を(ネタバレしていますのであしからず)。

 本作は、オペラ仕立てで構成されていて、第1幕から5くらいまであったんじゃないでしょうか。正直なところ、第2幕くらいまではいささか退屈でした。マルグリットが初めて歌うシーンは度肝を抜かれましたけれども。そして、最終幕のタイトルは、「真実」。これで大体ラストは想像できると思うのですが、、、。そう、蓄音機に録音された自分の歌声を聞いて、彼女は真実を知り、ショックのあまり床に倒れます。

 彼女があそこまで歌にのめり込んでしまったのは、ひとえに、「夫の愛情不足」によるものです。

 そして、その夫がね、、、。ヤなヤツなんですよ。というか、少なくとも私は嫌いな男です。マルグリットがサロンコンサートを開く日は、必ず車で出かけて、途中で車を止め、コンサートが終わるころを見計らって帰ってくる。つまり、車が故障して間に合わなかった、ということにしている。でも、妻はお見通しで、帰って来た夫に「また車が故障したのね?」とカマす。、、、セコいおっさんだ。

 しかも、この夫、妻の友人と不倫までしているのです。不倫はともかく、相手が悪い。でもって、その不倫相手に「妻はモンスターだ」とかって愚痴る。うー、サイテーな男だ。せめて、妻の友人じゃない女にしなさいよ、不倫相手は。当時の上流階級じゃ、まあ、何でもアリだったんだろうとは想像しますが、、、。

 妻の資力が頼りの夫は、妻が絶望的な音痴であることを告げられない。それは、妻への思いやりなんかじゃなく、そんなことを言ったら、妻との関係が破綻しかねないことを恐れているから。、、、まあこの辺は、後半で微妙に変わってくるんですけれども。

 本作は良い映画だと思うのですが、今一つグッと来なかったのは、この夫の描写が理由だと思います。ヤなヤツだから、ではありません。それはいいのです、そういうキャラ設定なのですから。何が気に入らないかというと、終盤、この夫が妻への愛情を見せるようになるところです。妻への愛情を見せること自体は良いのですが、いかんせん、夫の心境が変化した理由が見ている方には伝わってこないのです。

 ラスト、倒れたマルグリットに駆け寄る夫。そして夫はマルグリットを抱き起そうとしたカットで、ジ・エンド。この後の彼女はどうなったのか、、、。オペラ的に言えば、まあ、ヒロインの死で終わる、ってことで、マルグリットは真実を知ってショックのあまり死んでしまった、、、。解釈は色々あり得ますけど。

 本作に通底していたのは、マルグリットの“孤独”じゃないかな。人としては魅力的なので、関わる人は皆、最初こそ奇異の目で彼女を見ますが、次第に彼女に好意的になって行きます。だからこそ、真実を誰も彼女に言えなかった、という側面もあるのですが。、、、でも、彼女が欲しかったのは、夫の愛情だったのだよねぇ。あんな男でも、彼女には愛しい夫だったのですよ。

 なんか、見ていて、マルグリットが可哀想になってしまいました。あんまり、誰かを可哀想と言うのは好きじゃないのですが、本作のマルグリットに対しては他に言葉が見当たらない。それは、自分が音痴であるという真実を知らずにいるからではありません。この世で大好きなたった2つのもの~夫と音楽~に、死ぬまで片思いを続け、しかも、夫に裏切られただけじゃなく、最後は頼みの綱の音楽にまで裏切られてしまった、、、。

 で、何を考えさせられたかと言いますと、、、。

 本作中でのマルグリットの歌は、確かに下手だけれども、別に不快ではない。むしろ、私は楽しく聴きました。……そして、彼女は何と言ってもアマチュアで、趣味で歌っているのです。オペラのヒロインになり切って。この、“アマチュア”ってのがクセモノなんですよねぇ。私も学生時代にオケにいたので、アマの音楽がどういうものかは一応知っています。アマは実に幅が広い。もの凄く上手なアマもいますし、もの凄く下手なアマもいますが、所詮はアマであり、もの凄く上手なアマも、どう頑張ってもプロにはなれない程度でしかないのです。

 なので、私は、社会人2年目での演奏会を最後に、“音楽とは私にとっては聴くものである”とハッキリ認識し、音楽をプレイすることからは一切足を洗いました。そして、聴くのは、必ず“プロ”の音楽で、“それなりの対価を払って”と決めています。アマの音楽は(ほぼ)絶対に聴きません。アマの音楽とは、プレイする人が楽しむためのものであり、聴衆を喜ばせるものではないからです。私も一時期はどっぷりハマっていたアマの世界でしたが、ある時ふと、そういう“所詮アマの世界”であるにもかかわらず上手いだ下手だと批評し合う仲間の奏者たちに辟易しましたし、自分たちの奏でる音楽のド下手ぶりにもウンザリしてしまったのです。自分たちさえ楽しきゃいいのか、ということを突き詰めて考えてしまったのです。

 もちろん、これは私の定義であり、人によってはアマの演奏会に好んで行く人もいますし、アマの音楽で感動する人もいます。そういう楽しみ方を否定するのではありません。ただし、アマの音楽を敢えて聴くからには厳然とした約束事があって、それは「絶対に彼らの演奏を批判しない」ということです。

 だから、本作でもマルグリットには罪はなく、聴衆が悪いと思うわけです。きちんとアマの音楽であることを弁えて聴けば良いのです。そして、夫も、マルグリットに真実をきちんと早い段階で伝えるべきなのです。本当に愛情があるのならば。ま、なかったんですけどね、マルグリットの夫には。

 とはいっても、演奏経験のない全くの素人の聴衆というのは、もの凄く下手なのは聴き分けられちゃうのですよ。上手いについては、どの程度上手いかは聴き分けられなくても。そこが、マルグリットの悲劇を生んだ要因の一つでもあると思います。
 
 カトリーヌ・フロは、割と好きな女優さんの一人ですが、さすがに彼女も歳をとりましたね。大分ふくよかになられたような、、、。もちろんお美しいですが。マルグリットを実に魅力的に演じておられました。序盤に出てくるプロを目指す歌手アゼル役のクリスタ・テレがとっても美しくて素敵でした。彼女が狂言回しかと思っていたら、中盤以降ほとんど出て来なくて拍子抜けでしたが、、、。男性陣の出演者にイマイチ魅力がなかったのが残念。強いて言えば、マルグリットの歌の家庭教師役を務めたミシェル・フォーがイイ味出していたかな。

 カトリーヌ・フロが、本作でセザール賞を受賞されたそうで。見れば納得の受賞です。




衣装・美術が圧巻です




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キャロル(2015年)

2016-03-18 | 【き】



 クリスマス前、デパガとして働くテレーズ(ルーニー・マーラ)の前に、娘へのクリスマスプレゼントを買いに現れた貴婦人キャロル・エアード(ケイト・ブランシェット)。二人にはお互い恋人or夫がいたが、一瞬で惹かれ合う。

 1950年代のニューヨークを舞台に繰り広げられる女性たちの恋愛物語。

  
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 もう、あちこちで大勢の方々がイロイロ書かれているので、今さら感が強いですが、思ったことなどをいくつか。

 一言で言うと、美しい映画、です。主役2人の女優が美しい、映像も美しい、美術も美しい、衣装も美しい、50年代のニューヨークの冬の風景も美しい、、、などなど。美しかったものを挙げれば、いっぱい。

 惜しむらくは、男性の描かれ方が非常に杜撰だったことですかね。女性2人の目線から描くとああならざるを得ないのかも知れませんが、あまりにもヒドい。もう少し、彼らを人間としてきちんと描いてほしかったです。あれじゃあ、女性2人がああなるためだけにご都合的に登場させられたとしか見えません。俳優さんたちも演じていて辛かったのでは。

 “女性同士”の恋愛、ってのが本作の主眼に、巷の宣伝のせいで(?)なっているような気がしますが、これ、男と女の話だったら、ゼンゼン世間での受け止められ方が違っていたでしょうね。“ただの不倫モノやん”で一蹴されていてもおかしくないかも。でも、同性同士だとそれがオブラートに包まれる。

 同じ意味合いを持っていた映画としては『ブロークバック・マウンテン』(以下、「ブロマ」)が思い浮かびます。あれは、男性同士版『マディソン郡の橋』だと私は思うんですけど、本作同様、異性間での物語なら“ただの不倫モノやん”なわけですが、男性の同性愛だと、なぜか高尚な文学作品ぽくなる。

 ブロマは、私は、正直なところ嫌いな映画で「みんシネ」でも酷評してしまったんですが、同じ意味合いを持つ本作は、さほど嫌悪感を覚えなかったんですよね。、、、なぜでしょうか?

 本作の女性2人は、周囲と闘って(?)、自分たちの人生を歩む選択をします。そして、それまでの過程においても、自分たちの運命(つまり同性を愛したこと)を悲観したり隠したりすることなく、当然、自己憐憫に浸ることもなく、現実を見据えて、しかもきちんと自立して生きています。片や、ブロマの男性2人は、関係を持った切っ掛けもイマイチ謎(衝動的にヤッちゃった、みたいにしか見えなかった、私には)だし、その後も隠れてこそこそこそこそ、めそめそめそめそ、自己憐憫に浸りまくった挙句に、最終的に片方が死亡、、、。

 この違いが多分キモです。

 まあ、ブロマは、“ゲイが虐殺される場面を目撃したことによるトラウマ”という、ゲイに対する(本人たちの)精神的抑圧が本作より大分強かったので、仕方がないという気もしますが、それでも、あの自己憐憫ぶりは、正直見ていてウンザリしたのを今もよく覚えています。しかも、確か片方の男は、ゲイを隠して普通の生活をする前提(つまり自分を偽ることに葛藤がない)で、相手と逢瀬を重ねていたはず。この辺の、割り切り方とかも、凄くイヤだったような。妻だけじゃ物足りない男が若いおねーちゃんを性欲の捌け口に愛人にしているのと同じじゃん?

 片や、本作の女2人は、完全に開き直っています。同性同士であることにはほとんど葛藤がない。異性間の恋愛描写と同じなんですよね、テレーズが帰りの電車で一人涙するところとか、キャロルが通りを歩くテレーズの姿を車の後部座席で目で追っているところとか、、、。しかも、異性の恋人or夫との関係は清算することが前提です。自分を偽らないための選択。ブロマの男2人との違いは歴然、、、という気がするのですが。

 とはいえ「開き直れ」なんて、まあ、言うのは簡単です。今でこそ世間の認知も進んできたところですが、ブロマは60年代ですからね。そら、おいそれとカミングアウトはできないでしょう。だからこそ、50年代を生きる、本作の女性2人はアッパレだとも思うわけです。

 私が一番感動したシーンは、キャロルが、夫と双方の弁護士を交えた交渉の場で、涙ながらに、共同親権を諦め面会権だけを求めたところ。そこでのキャロルのセリフ「自分を偽って生きるなんて、人生の意味がない!」(セリフ正確じゃありません)が、もの凄くグサリと刺さります。本当にその通りだと。

 終盤、リッツで再会する2人。テレーズに一緒に住もうというキャロル。断るテレーズ。そこへテレーズの友人男性がジャマに入る。キャロルは席を立ち去り際、テレーズの肩にそっと手を置く。そっと、、、でも、離し難いというように。この一瞬でテレーズの心は氷解するのです。

 そして、あの意味深なラスト。キャロルの視線と、テレーズの視線。あれは、もちろんハッピーエンディングであるはずです。キャロルのあの複雑な視線を演じるケイト・ブランシェットに、座布団100枚!!って感じです。

 衣装が素敵でした、どのシーンでも。キャロルはもちろん、テレーズの衣装がとてもとても素敵。いろんな意味で見応えのある作品です。





音楽も良かったです




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月下の恋(1995年)

2016-03-14 | 【け】



 大学で心理学を教えるデイヴィッド(エイダン・クイン)は、幼い頃に双子の妹ジュリエットを自らの過ちによる事故で溺死させており、そのことがトラウマとなって心理学を専攻したという過去があるのだが、霊だの超常現象だのを一切信じていない人間だった。

 そんなデイヴィッドの下に、エドブルック邸の老女ミス・ウェッブから幽霊にまつわる相談の手紙が度々届いていた。スルーしていたが、エドブルックという地名にふと目が留まる。自分の故郷に近いその場所での出来事に興味をひかれたデイヴィッドは、ミス・ウェッブを訪ねることにする。

 エドブルック駅に着いたデイヴィッドを迎えに来ていたのは、邸に住む若き令嬢クリスティーナ(ケイト・ベッキンセイル)。彼女の運転する車で邸に案内されたデイヴィッドは、その屋敷の素晴らしさや、クリスティーナの兄たちロバートとサイモンの歓待、何よりクリスティーナの美しさに魅了される。ミス・ウェッブの怯えた様子を除いては……。

 が、屋敷に滞在するようになったデイヴィッドの身の回りに不可思議な出来事が次々と起こるようになる。超常現象を信じないデイヴィッドは、謎を解明しようとするが、そんなある日、屋敷の庭を歩くジュリエットの姿をハッキリと目撃し驚愕する。だんだんデイヴィッドは何が起きているのか分からなくなってくるが、クリスティーナにもどんどん惹かれて行き……。

 原題は『Haunted』。原題の方が、まあ内容的には合っているかも。邦題も風情はあるけれど、うーん、、、。

  
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 またしても記憶にないDVDが送られてきましたよ。というか、間違いなく自分がリストに入れたからなんですが、どうして入れたのかまったく思い出せない、、、。当然、予備知識なく見ました。

 以下、ネタバレバレです。

 一応、ジャンルとしてはホラーものらしいのですが、そういう意味では怖くはないです、ゼンゼン。途中で、何となく展開が読めますし。ネット上では『シックス・センス』と同じだとかあちこちで書かれていますが、本作の方が制作は早いわけで。まあ、あちらの方がメジャーなんで仕方ないですけれど。当時としては結構オドロキのあるお話だったのではないでしょうか。今見ても、ダサさは感じません。

 とはいえ、あんまし内容的に感想を書きたくなることはなく、、、。正直、私、こういう“お化けオチ”ってあんまし好きじゃないんですよねぇ。夢オチに近い虚しさを感じるというか、、、。本作は、デイヴィッドが心理学者ということもあって、きちんと、ロジカルに謎が解明されることを期待して見ていたんですけれども、途中、、、3きょうだいがパーティーに行く辺りから、「もしやこれは、、、」と嫌な予感がしていたら当たってしまいました。ごーん、、、。

 というわけで、本筋とは関係ないことで思うところをいくつか。

 まず、デイヴィッド役のエイダン・クインですが、その吸い込まれそうな青い瞳と、端正な顔立ちは、なんだか昔の少女マンガに出てきそうな感じでした。つーか、たまたま先日、今オンエアしているEテレの「漫勉」という番組で、萩尾望都さんの回を見て、彼女の描いていたマルゴの夫・アンリ4世(?)の顔に似ているな~、なんて思っちゃったんです。「王妃マルゴ」は読んでいませんが、、、。それはともかく、まあ、学者と言われても違和感のない知的な雰囲気も湛えており、主役として素晴らしい引力だったと思います。

 そして、ヒロインのケイト・ベッキンセイルですが、、、。彼女、今の彼女の顔と、イメージが大分違うと思っちゃうのは私だけ?? 何と言っても違うのは“口元”。駅にデイヴィッドを迎えに来た彼女を見て、口元が残念な人だなぁ、と思ったら、ケイト・ベッキンセイルだった! という、、、。顔の全体のイメージが違うんですよねぇ。別に整形だなんだと騒ぐ気もないし、整形なんてしたって別に構わないと思うけれども、ここまでイメージが違うとビックリします。本作での彼女も、確かに美しいですが、やはりなんというか、口元に目が行っちゃうんだよなぁ、、、。

 そして、何より一番イロイロ考えちゃったのは、ケイト・ベッキンセイルのヌードがボディ・ダブルだということです。デイヴィッドとクリスティーナのベッドシーンなんて、2人とも替え玉なんです。スローモーションで確認しちゃいましたよ。お2人さん、全然別人やん。おまけに、ケイト・ベッキンセイルのバストトップには前貼り(?)が、、、。すんごい興醒めなんですけど。もうちょっと上手く撮れなかったのかしらん。つーか、そこまで脱ぐのが嫌なら、別にキスシーンだけで、あとはそれを匂わせる演出にすれば良かったんじゃないの?

 アクションのスタントマンは、その意味が分かるんですけれども、裸の替え玉は意味が分からないのです、私。裸なんて、別に誰だってなれるのだし、特別な技術が必要な訳ではない。スッポンポンになるのも俳優の仕事な訳で。俳優になるってことは、そーゆーことなんじゃないのかしらん。

 裸のシーンで替え玉を使う、ってことは、つまり「脱ぐ=格落ち」とその俳優が認識していることを公言しているのと同じだと思うわけです。もちろん、仕事を選ぶ権利は万人にあるのだから、脱ぐか脱がないかを選ぶ権利もある、という理屈も考えられます。しかし、一つの役を演じる際に、その役には脱ぐシーンがあって、でも脱ぐのは嫌だけどその役は演じたい、ってのは、どーなんだろうか、、、と。それって、例えば、「資料のコピー取りは嫌だけど、編集の仕事はやりたい」とか言っている人とどう違うんでしょうか。コピー取りも編集の仕事のうちなんですけど? だってもの凄くメンドクサイから、それは誰かやってよ、って言っているのとは違うのでしょうか。

 裸を晒すのと、コピー取りを同じ次元で語るな、と言われるかもしれないけれど、どう違うのかがどんだけ考えても分からないのですよねぇ。編集の仕事をしたいってことは、それにまつわる面倒なこと、キツいこと、屈辱的なこと、全部ひっくるめて引き受けなければならないはずです。それが嫌なら辞めれば? って言われますよね。なのに、俳優の裸の替え玉は許される。なんなの、これ。

 本人が脱ぎたくないのか、回りが脱がせないのか、それは分かりません。どっちにしても、俳優の仕事を舐めているように思えて仕方がないのです。そんなに脱ぐのがNGなら、脱がない役だけやってろ、ということです。ある意味、観客を裏切っているということでもあると思うのですが。もの書きの世界でいえば、ゴーストライターみたいな。

 本作の本質とは全然関係のないことを、長々と書いてしまいました。

 ベッドシーンの撮影には文句を付けましたが、本作の映像は、全般にとても美しいです。もちろん、美術や衣装も素敵ということもあるのですが、どのシーンもとても画面が美しい。よく見たら、撮影はあの『眺めのいい部屋』のトニー・ピアース=ロバーツとのこと。なるほどなー、と納得。屋外の光とか、豪華な部屋の絶妙な明るさとか、技術的なことはゼンゼン分からないけど、とても美しかったです。まあ、ホラー映画にしてはちょっと明るいかな、という気はしますけれど。でも、素晴らしい映像です。





終盤、亡き幼い妹ジュリエットとデイヴィッドのシーンがウルッときました




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仮面/ペルソナ(1967年)

2016-03-08 | 【か】



 ある日突然、言葉が喋れなくなった(口から言葉を発することができなくなった)女優エリーザベット。精神科(?)病棟に入院し、アルマという看護師が担当に着く。何も喋らないエリーザベットにアルマは「看護する自信がない」と不安をもらしつつも世話をする。

 主治医に、退院し、アルマを専属看護師にして海辺の別荘での療養を勧められたエリーザベット。アルマと2人の、俗世から隔絶された療養生活が始まり、次第にアルマは自らの内面をエリーザベットに晒すようになる。しかし、変わらず言葉を発しないエリーザベット。

 2人の関係が次第に不穏なものになってゆく、、、。

  
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 アルトマンが『三人の女』を撮るきっかけとなった作品だというので、見てみました。

 見終わった直後は、、、つまり、アルマはエリーザベットの内なる存在を体現する存在だったということか、、、? と思ったんですが、何だか時間が経つうちに、そんな単純な話じゃないのかな、、、という気がしてきました。

 世間では、本作のモチーフはドッペルゲンガーとか妄想とか言われておりますが、、、。妄想ではなく、エリーザベットもアルマも別個の人間として実存するのではないかと感じます。

 物理的に近過ぎる距離にいる同性同士2人、しかも顔形が非常によく似ている2人が、身体接触を含む濃密過ぎる接触を長時間にわたり遮る者なく続けた場合、果たして2人はどうなるのでしょうか・・・?

 ということを考えました。すると、『戦慄の絆』というクローネンバーグの映画を思い出してしまいました。あっちは、双子の男の話ですけれども。一心同体になっちゃった双子メンズは、そろって滅びるわけですが、果たして本作ではどうかというと、、、。

 エリーザベットとアルマは次第に、互いに同化しつつ、、、いや、アルマがエリーザベットに取り込まれつつあったんでしょう。ポイントは、エリーザベットが何も喋らない、ということ。こういう場合、喋る方が立場的には弱くなる。2人とも黙っちゃえばそれはそれで違う展開があると思うけれど、2人のうち1人がダンマリの場合、もう1人はどういうわけか、何とか場を持たせようと喋りまくることがママあるように思います(これは同性同士に限らずですが)。

 そうすると、喋る方が知らず知らずのうちに自らの手の内を晒してしまって、相手に把握されてしまう(ような感じになるだけかも。実際に把握し切るなんて困難だし)。精神的に、だんだんダンマリに対して勝手に従属的な感じになって行くのではないかしらん。いつの間にか支配されているような感じになって、被害妄想が出てきたりして、、、。

 アルマは、いつまでたっても喋らないエリーザベットに業を煮やす場面があるんだけれども、あれもリアルなシーンだと思います。自分だけがどんどん剥き出しになって行くことに対するイライラ感。対等じゃなくなって行く関係に苛立つというか。

 片やエリーザベットは、優位に立っているという自覚はなく、ただただ、ダンマリのままが許され、身の回りの世話を焼いてくれ、こんなに心地良いことないわ~、って能天気に思っていたら、アルマにキレられ初めて、2人の関係の危うさに気付いたんではないかしら。

 一方的にアルマがエリーザベットに同化しちゃいそうになったところで、エリーザベットの夫が現れ、夫はアルマをエリーザベットだと思い込んでセックスまでしちゃう。、、、これを目の当たりにしたことで、エリーザベットはようやくアルマを自分が取り込んでしまっていたことを自覚したのか、ここで、アルマが初めて優位に立ったのかも知れません。

 ……というようなことをつらつらと考えてしまいました。というのも、タイトルにある「仮面」とは何なのか、というのが分からなかったからです。仮面て、、、? 何の? みたいな。人はみんな仮面をつけている、、、メタファーである、、、と、そういえば、確かジム・キャリー主演の『マスク』の中で、精神科医だか民俗学者だかがもっともらしいことを言っていたっけ。まあ、あれはコメディ映画で、そのお説自体も、はぁ? という感じだけど、なぜ仮面というタイトルなのかがナゾです。ペルソナは、調べたら、仮面のラテン語で、パーソナルの語源らしいのですが。パーソナル=人格、といわれれば、、、ふ~んという感じかなぁ。

 まあ、タイトルに囚われるのもなんだけれども、言われているように“ドッペルゲンガー”だとすれば、つまるところ、『戦慄の絆』と同じで、一心同体化しそうになったところを、アルマが自らを取り戻してそれぞれの人格を取り戻した、ってことで、一番、私としては腑に落ちる気がしますかねぇ、、、。『戦慄の絆』では同化しちゃった2人は、2人ともに死んでしまいますから、、、。エリーザベットとアルマも、あのまま同化しちゃったら、やはり互いに自滅の道でしょうし。

 なーんて、あんまし理屈っぽく考える必要はないのかも。

 ただ、あまりにもオーラがあって影響力のある人と親密すぎる関係になると、取り込まれちゃう、ってことはあり得るので、そこはやはりあらゆる対人関係において節度を保たなければいけないな、と思いました。

 アルトマンの『三人の女』では、ピンキーという田舎娘が、ミリーという勘違い女を勝手に崇拝して慕って、ピンキーが自ら積極的にミリーに取り込まれたかに見えるんだけど、、、。まあ、その後、二転三転しますけれど、あれも、影響力のある者とそうでない者が過剰に親密になるうちに、、、っていう話でした。

 でも、現実では、それが高じて一歩誤ると、怪しい新興宗教とか、マルチ商法とかに取り込まれることになっちゃう、、、いや、もっと卑近な例があったんだ! 超支配的な親に洗脳される子ども、という図式が、、、!! 完全に取り込まれていたんだった、私も。あのモンスターな母親に。

 ……と、俗なオチがついたところで、感想文終了です。





冒頭のサブリミナル映像が怖い、、、。




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シークレット・サンシャイン(2007年)

2016-03-02 | 【し】



 夫を事故で亡くしたイ・シネ(チョン・ドヨン)は、息子のジュンと2人で亡き夫の故郷である密陽に移住した。そこで、ピアノ教室を開き、ジュンは塾に通わせ、何とか生活が軌道に乗って来た。

 そんなある日、ジュンの塾でスピーチの発表会があり、その後は保護者の親睦会、さらに夜になっても二次会のカラオケと続き、シネはジュンを一人自宅に残したまま、他の母親たちと一緒にカラオケに興じる。そして、帰宅してみると、ジュンがいない。かかってくる脅迫電話。親睦会でシネがはったりで言った「不動産投資しようと思っている」という言葉を真に受けた塾の教師による身代金目的の誘拐事件だったのだ。

 しかし、事件はあっけなく悲劇で終わり、ジュンは水死体で発見される。悲しみのあまり、シネはそれまで見向きもしなかったキリスト教に帰依し、どうにか精神のバランスを保っていた。そして、教えに従い、誘拐犯を許そうと思い至り、刑務所まで会いに行く。

 犯人はしかし、思いもよらないことに服役後にキリスト教に入信したと言って大変に穏やかな顔をしており、シネに許されるまでもなく、とっくに「神により許しを得ました」と言い放ったのであった。この犯人の一言で、シネの心は崩壊していく、、、。

  
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 日頃から、神様とか、教祖様とか、胡散臭いと思っている不敬な輩である私にとって、本作の宗教の描き方は好感を抱きました。

 信仰って、確かに人の心を救うことがあると思います。私の知り合いにも、とても悲しい出来事に遭遇しながらも、信仰が支えてくれた、と言ってきちんと生きている人がいます。これこそ信仰が、宗教が廃れない大きな理由の一つでしょう。

 そして神様は、大罪人にも、罪なき人にも、等しく許しを与えて救うのですね。なんて御心の広いことでしょう。でもね、神様、あなたのやっていることは、大変に残酷なことでもあるのです。

 、、、ってことを、本作は描いています。

 シネは、ジュンを失う前は、宗教なんて信じていませんでした。今の私と同じです。しかし、ジュンを失い、何かにすがりたかったのですかね、、、キリスト教に一筋の光明を見出してしまいます。どんどんのめり込んで行きます。

 大切な人を失ったことはありますが、私は、その時は宗教には走りませんでした。つーか、ますます神なんかクソくらえ、と思いましたね。何でこんな理不尽なことが起きるんだよと。試練を超える力のない人の下には試練はやってこない、なんていうけど、まやかしでしょーが。そう思わないと生きていけないから、ただそれだけでしょ。

 要は、人の弱みにつけ込んでいるだけじゃないの、と、今でも思っています。見てごらんなさいよ、世界中で起きている宗教戦争を、宗教界の腐敗を。

 私の母親は、人を平気で傷付けるような罵詈雑言を吐きまくるくせに、迷信深く、よく「罰が当たる」とか「神さんは見とるでなぁ」ということを言う人でした。○○の会みたいな宗教の集まりに通っていたこともあるし、般若心経を毎日唱えていた時期もありました。そんな母親ですが、私が前述の大切な人を亡くした時、私に「(親の言うことを聞かないから)罰が当たったんやわ」と言いました。娘が哀しみに暮れている様を見て、そういう言葉を吐ける人が、罰が当たるだの、神さんが見とるだの、ちゃんちゃらオカシイってんですよ。信じる者の言動はどうあれ、そいつだけが救われるんなら、それは神なんぞではなく、そいつ自身だってことです。そいつが勝手に自分に都合の良い思考回路で自分が楽になるように現実を歪曲して解釈しているだけの話です。それが神の思し召しだとか、寝言は寝て言え、ってやつです。ちゃんとした信仰と、迷信をごっちゃにするなとお叱りを受けるかもですが。

 つまり、本作では、誘拐犯は神に許されたのではなく、自分が自分を勝手に許しただけなのです。シネは、それに気付いて、目からうろこが落ち、一気にキリスト教への信仰心が怒りに変わったのでしょう。

 結局、信仰なんて、自分の心の持ちようであって、それを神という名前を借りてもっともらしく正当化している、心の作用だと思います。良くも悪くも、ご都合主義。それで、苦しみが軽くなるのならその人にとっては意味のあることなのでしょうが、それによってさらに苦しむ人がいる、ってことにどう説明をつけるんですかね。それが神のご意思とか言うんですかね。

 何かのレビューで書いたんですが、私がかつて宗教に関する話で、唯一得心できたのは、ブッダの「心理のことば」ですね。今の仏教は???ですが、ブッダの教えに関しては、非常に心に響きました。自分の心を救えるのは自分だけだ、とブッダは言っています。その通りだと思うのです。

 シネは、神を挑発します。これでもか、これでもか、と大罪と言われることをしでかします。挙句、自殺未遂。死ぬ気はなかったんじゃないかな。神よ、これを見ろ! みたいな、当てつけ。そう、当てつけです。

 考えてみれば、シネは無意識だったかも知れないけれど、亡き夫の故郷に移住したのも、死ぬ前に浮気していたらしい夫への当てつけかも。

 当てつけしているあいだは、彼女には本当の平穏な日々、幸せな日々は来ないだろうね。だってそのことに囚われている裏返しだもの。

 ラストシーンは、シネが自ら自分のボサボサに伸びた髪を切るシーンなんだけれど、当てつけしていた自分への訣別なのかな、、、とちょっと思いました。そして、地面に当たる薄日の映像、、、シークレット・サンシャインでしょうか。

 ソン・ガンホ演じる、自動車修理会社の社長が、ことあるごとに何気にシネをサポートしています。ストーカーみたいな感じもあるけれど、神なんかより、身近にいる卑俗な男の方がよっぼと頼るに値すると言わんばかりの本作の描写に、ちょっと溜飲の下がる思いでした。







神様じゃなくて、自分を信じていますけれど、何か?




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