映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

オペレーション・ミンスミート ―ナチを欺いた死体―(2022年)

2022-03-26 | 【お】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75568/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1943年、第二次世界大戦のさなか、連合国軍は劣勢を強いられていた。

 そこで英国諜報部(MI5)はチャーチル首相に、ナチスを倒すため、偽の機密文書を持たせた偽の高級将校の死体を地中海に放出するという奇策を提案する。

 ヒトラーをだますことを目的としたこの作戦は、真実と嘘が表裏一体となった戦時中の世界で、MI5の諜報員やヨーロッパ各国の二重三重スパイたちを巻き込むだまし合い合戦へと発展していく。

=====ここまで。

 実話の映画化。


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 実話モノは、ジャンルによっては見る気がしない(特に難病系)のだけれど、戦争モノは興味を惹かれる作品が多く、本作も見たかったので、先日ようやく劇場に行った次第。

 架空の人物(ビル・マーティン少佐)を創作し、その死体を敵に拾わせて偽情報を掴ませる、、、なんて、奇想天外だ、、、と思ったけれど、偽の死体を敵に拾わせるという諜報作戦は、それまでにもなかったわけじゃないらしい。とはいえ、やっぱし凄いこと考えるな、と思ってしまう。

 その架空の人物の創出過程は、さながら、映画やドラマの人物造形の過程にそっくりで、ちょっと笑ってしまった。脚本を書く際に、登場人物の詳細な履歴書を作れとはよく言われることだが、本作でマーティン少佐という人物の実に細かな履歴を作っていくのも、それと同じ。見合った死体を用意したり、所持品を揃えたり、、、映画の現場と同じで、本作のスタッフたちも面白かっただったろう。

 でも、敵に信じ込ませるには、細部に齟齬があってはならないのだ。これは映画やドラマも同じ。小さなところで矛盾があると見ている者は一気に白ける。

 それにしても、スパイ稼業は本当にストレスフルだ。同じチーム内の仲間同士でも、常に「こいつはもしかしたら二重スパイなんじゃないのか?」とか疑いの眼差しで見なければならない。どこから情報が漏れるか分からず、常に緊張を強いられる。実際のスパイ事件でよく聞くのは、捕まえたスパイが「あまりにも普通の人に見えた」とか「全然スパイに見えない」とかの言であるが、スパイがスパイに見えたらスパイ失格なわけで、誰がスパイか分からないから疑心暗鬼にならざるを得ない。この精神的な負荷は、想像を絶する。

 ……というわけで、スリリングな展開は、最後まで興味を持続させてはくれたのだけど、如何せん、シナリオがイマイチ整理されていない感じで散漫な印象がぬぐえない。

 特に、コリン・ファース演ずるモンタギューと、海軍省で共に働く女性ジーンの間の恋愛感情は、ハッキリ言っていらんと思った。ジーンとモンタギューのそれらのシーンは、見ていても心動かされるシーンになっていなかったし、マシュー・マクファディン演ずるチャムリー大尉と微妙な三角関係っぽい描写とか、正直なところ「どーでもええわ」としか思えなかった。何であんな要素を入れたんだろう、、、。

 で、監督がジョン・マッデンというので、ちょっと納得したのだった。この人の映画は、『恋におちたシェイクスピア』しか見ていないが、『恋に~』を見た後の印象と、本作の鑑賞後感が実によく似ているのだ。内容は盛りだくさんで、扱っているネタは面白いはずなのに、何かピンと来ない。本作の方が『恋に~』よりはマシだけど、エンドロールを見ながら「うぅむ、、、」という感じは同じ。

 あと、字幕もイマイチだった気がする。セリフ劇で情報量が多いので、こちらも理解が追い付かなかった部分もあるのだが、これは、DVD等で見るときは吹替えで見た方が理解しやすい映画かも知れない。セリフが多い作品は、どうしても字幕では厳しいものがあるのは否めない。吹き替えより字幕が良いという暗黙の流儀みたいなものがあるのか、子供向け映画以外は、吹替え版が公開されることは少ないけれど、映画の性質によっては、字幕or吹替えは使い分ければよいと思う。本作も、吹替え版を作っても良い作品の一つだと思う。

 なので、ソフトが出たら、もう一度吹替え版でじっくり見たいと思った次第。

 それにしても、チャーチルという人は、エニグマ解読しても極秘にして自国の損害を敢えて避けなかったとか(『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014))、このような一見無謀に見える作戦にゴーサインを出すとか、何度も映画に描かれるのも納得。

 

 

 

 

 

 


要するに戦争とは情報戦である。

 

 

 

 

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白い牛のバラッド(2020年)

2022-03-24 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75532/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 テヘランの牛乳工場で働きながら耳の聞こえない幼い娘ビタを育てるミナは、1年前に夫のババクを殺人罪で死刑に処せられたシングルマザー。今なお喪失感に囚われている彼女は、裁判所から信じがたい事実を告げられる。

 ババクが告訴された殺人事件を再精査した結果、別の人物が真犯人だったというのだ。賠償金が支払われると聞いても納得できないミナは、担当判事アミニへの謝罪を求めるが門前払いされてしまう。

 理不尽な現実にあえぐミナに救いの手を差し伸べたのは、夫の旧友と称する中年男性レザだった。やがてミナとビタ、レザの3人は家族のように親密な関係を育んでいくが、レザはある重大な秘密を抱えていた。

 やがてその罪深き真実を知ったとき、ミナが最後に下した決断とは……。

=====ここまで。

 イランとフランスの共同制作。


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 イランの映画というと、ここ数年では監督のアスガー・ファルハディの名をよく聞くけれど、私はファルハディ作品は未体験。本作は、新聞か何かで評を読んで、見てみたくなって、劇場まで行ってまいりました。


◆取り返しのつかないこと。

 冤罪で死刑、、、これほどの不条理ってあるだろうか。

 しかもシングルマザーとなったミナにとって、イランの社会は日本以上に冷たい。アパートから突然追い出され、新居探しもままならず、、、。そこへ、夫に多額の借金をしていたという男レザがやってきて、ミナに救いの手を差し延べる、、、のだが、このレザという男、どう見ても訳アリ。

 レザが何者なのかは、割と早く明かされて、冤罪の判決を下した判事アミニその人なのだ。レザは、自責の念にかられて、名を偽り、ミナに償いをするつもりか、新居を格安で提供するなど何かと世話を焼く。ミナもレザのことを信頼し、直接的な描写はないが、おそらく男女の関係になる。シーンとしては、ある晩、ミナが鏡を見ながら真っ赤な口紅を塗り、ベールを外して、レザの部屋に入っていく、、、というもの。

 レザ=アミニには息子がいるのだが、息子は家庭を顧みなかった父親を嫌悪しており、兵役に行ってしまい、さらに悪いことに亡くなってしまう。ショックで倒れるレザを献身的に看護するミナ。2人の関係はどんどん深まる。

 けれど、レザの正体が思わぬ形で明かされ、それを知ったミナがどうしたか、、、が終盤へのオチとなる。

~~以下、結末に触れています。~~

 ミナは、レザに毒入りミルクを与え、強引に飲ませて、レザを殺す。いや、本当にレザが死んでしまったかどうかは分からないが、ミルクを飲んだ後、苦しみながら椅子から崩れ落ちて床に倒れ込んだ。

 本作の冒頭、一頭の白い牛が無機質な広場みたいなことろにポツンと立っている。また、ミナが働いているのはミルク工場で、本作では雌牛が象徴的に扱われている。これは、コーランに雌牛の章というのがあることに関係するらしいが、その辺はよく分からないのでスルーするけど、ラストシーンでも再び、白い牛が広場に立っている画が出てきて、要は、この牛は生贄ということのようである。

 つまり、ミナの夫は、犠牲となったということの象徴らしい。確かに、冒頭とラストの白い牛が佇む画は、それだけでもの凄く不穏である。

 さらに言えば、犠牲になったのは、ミナの夫だけでなく、レザもまたそうであったということなのだろう。レザは判事として役割を果たしただけ、なのかもしれず、冤罪はレザのせいというよりは、イランの司法制度に冤罪を産む原因があるのだ、、、と。

 イランでは、イスラム法により罪が裁かれるというが、本作のパンフによれば「イスラームは創造主たる神のご意志によってあらゆる予定があらかじめ定められているという運命論(カダル)を取っている」とのこと。「予定があらかじめ定められている」って日本語としてどーなの??というツッコミはさておき、冤罪となるのも神のご意志、、、と言われても、納得できまへん。だからこそ、ミナは、判事に謝罪を何度も求めに行ったわけよね。

 終盤は、そうなる予感はあったけど、本当にそうするのか、、、と見ていてちょっと絶望的な気持ちに。ミナは娘を連れて、レザが手配してくれた家を出るのだが、今後を考えると、さらに絶望的になる。レザが死んでしまっていれば、当然、殺人罪だろうし、それでミナが拘束されたら、幼い娘はどうなってしまうのだろう? とか、、、。これは映画なんだから、そこまで考えなくても良いんだよね、、、。はい、考えないことにします。

 レザにミルクを飲ませる前、ミナは、また鏡に向かって真っ赤な口紅を塗るのだが、その時の顔つきは、前述の、レザの部屋に行く前のそれとは違っている。また、ミナに「(ミルクを)飲んで!」と強く言われ、ミルクを飲むときのレザの表情から、レザは覚悟してミルクを飲み込んだのだと思われる。そのときのレザの表情が実に雄弁だった。


◆死刑、イラン映画、、、

 死刑、日本では賛成の方が世論では多いらしい。私も以前は、積極的に賛成でないにせよ、極刑としてはアリではないかと思っていた。けれど、大きく考えが変わったのは、裁判員裁判が開始されることになったとき。この制度、イロイロ怖ろしい。被告人が有罪か無罪かの判断だけでなく、有罪の場合はその刑罰まで決めるのだ。しかも、全員一致ではなく、多数決。

 この制度が開始されて以後、私は一貫して死刑には反対だ。その後、裁判官の死刑判決を下すときの精神的な負担の重さを見聞きし、ますます反対の意が強くなった。

 死刑賛成の主な理由は、犯罪の抑止力と遺族感情だそうだ。

 抑止力については、科学的には証明されていないとのこと。皮肉なことに凶悪犯罪を起こした犯人の犯行理由が「死刑になりたかったから」というのはどう考えればよいのか。

 遺族感情は、私は遺族になったことがないから軽々に語れないが、映画『瞳の奥の秘密』(2009)を見て考えさせられた。妻を殺された男が、犯人を死刑にしたくない(死んでしまえば楽になれるから、という理由)がために、犯人を自らの手で監禁し、社会的に抹殺するという荒業に出るのだが、詰まるところ、犯人にとって「死んだ方がマシな罰」を遺族によって課せられたというわけだ。その行為自体を肯定するのではなく、罪に見合った罰とは何なのか、ということを考えさせられた。遺族感情と一口に言っても、遺族も色々で、全員が極刑を望むとは限らない。また、判例から極刑の可能性が低い事件で、「犯人を極刑にして欲しい」と遺族が署名活動をしているといったニュースを見ると、申し訳ないけど法治国家の前提に対するあまりの無知さに、遺族に対する同情の念など吹っ飛んでしまう。刑罰の見直しを求めて署名活動をする、というのなら分かるけど。

 本作の舞台であるイランも死刑が残る国で、執行される件数は日本よりはるかに多い。さらに、日本よりも怖ろしいのは、拷問による自白の強要や結論ありきの公判が珍しくないということ。日本でも自白の強要は起きているが、拷問は憲法で絶対に禁止されている。

 そんな状況で冤罪が発生しない方がおかしいわけで、それでいて死刑制度がしっかり機能しているなんて怖ろし過ぎる。本作内では、冤罪だったから賠償金あげる、でも間違いは認めないし謝罪もしない、全て神の思し召し、、、とされてしまうのだから、冤罪で殺された者は永遠に浮かばれない。

 本作はイランでは上映禁止になっているというが、まあ、それはそうだろう。また、ファルハディの影響が随所に見られるらしいが、私はファルハディ映画を見ていないので分からない。

 イラン映画というと、キアロスタミの名前くらいしか出てこない(あと、マルジャン・サトラピもイランだったな、そういえば)が、小粒でピリリ系と勝手に思っている。本作もそうだと言って良いと思う。『亀も空を飛ぶ』『 ペルシャ猫を誰も知らない』とか、前から見たかったので、近々見ようと思う。

 

 

 

 

 

イスラム法には「同害報復刑(キサース)」が制定されている、、、らしい。

 

 

 

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『キャンディ・キャンディ』に思う[6]

2022-03-20 | 映画雑感

絶望を生きる男 ~テリィとニューランド~ ②

関連映画:『エイジ・オブ・イノセンス』(1993)

 

 この記事では、マンガ『キャンディ・キャンディ』についての勝手な思いを書いています。『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』の“あのひと”が誰かを考察する趣旨では全くありません。


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>>>>[5]からの続き


 そもそも、あんな重量のある照明が落ちてくるのをかばうなど、身の危険どころか、下手すりゃ即死。テリィをゲットするための策だとしても、自分が死んでしまったら意味がない。あの瞬間、スザナに、打算や下心などがあったと考えるのは悪意に過ぎる。

 死の危険など頭になく、とっさに身体が反応するほど、テリィはスザナにとって大切な人だったということ。そりゃ、テリィじゃなきゃスザナはあんなことしませんよ、当然です。愛していたからこその脊髄反射だったということ。

 自殺未遂騒動にしたって、もう精神状態が普通じゃなかったんだと思うのだが。あの時、キャンディがスザナを見つけなければ、多分、本当に彼女は飛び降りて死んでいたに違いない。自殺を行動に移してしまうときの精神状態は、やはりちょっと尋常ではないと思う。

 しかし、それでもアンチ・スザナ派の理屈はシビア極まる。本当にテリィを愛しているのなら、たとえ脚を切断しようが、テリィを解放してあげる(そしてキャンディと幸せになるよう送り出す)のが筋であると。それが本当の愛だと。てめぇが勝手にかばっただけで、それを切り札に狂言自殺までしてテリィを縛り付けるとは、トンデモ女だと。

 そういうことを言っている人たちに聞いてみたい。自分が片脚を失い、女優の仕事を失い、その上、テリィを笑顔でキャンディの下へと送り出せるのか、と。

 私がスザナだったら、やっぱりノーではないかと思う。そこまで過酷な現実は、少なくともあの時点(テリィとキャンディが別離を選択した時)ではムリだ、私には。

 あの時のスザナにとっては、現実にテリィの身体が自分の目に見えるところ、手の届くところに居てくれることが何よりも大事だったのでは。現実の生活では、実体は観念に勝るということ、、、、だろう。身体的な喪失をしていることで、より、身体的な実在を求めたんだと思う。そらそうでしょう、舞台女優になるのが夢だった人が、脚を失って舞台に立てなくなったのだから。テリィの身体がそこにあれば、心ここにあらずでも良い、と思っても不思議ではない。それくらい、テリィの実体・実在は自身の存在に不可欠だったのだ。

 でも、テリィは、スザナの病室の窓から、去っていくキャンディの後姿をひたすら見送っていて、それを傍らでスザナは目の当たりにしている。いくらテリィの存在が不可欠とはいえ、私がスザナだったら、その状況はかなりツラい。だって、目の前で最愛の人は、別の最愛の人の後姿を胸が張り裂けそうになるのを隠して涙をこらえて、ただただ見送っているのだ。スザナはテリィに「いまからでもまだまにあってよ。おってらしても……いいのよ」と言うが、そう言わざるを得ないほどにテリィの姿は悲壮感に包まれていたのでしょ。

 アンチ・スザナ派の神経を逆撫でするのは、さらに続くスザナのセリフ「あたし……あたしのわがままであなたをくるしめたくない」ってやつかもね。これが、あざといと。そんな気ないくせに、物分かり良さそうなことポーズで言いやがって、、、と。まあでも、これくらい言うでしょ。そんな悲壮感漂わせているテリィの姿をまざまざと見せつけられたら。私だって言うよ、たとえポーズだと自覚していてもね。

 そうして、テリィに「おれはえらんだんだ……きみを」と言わせているのがさらに彼らには気に入らないのだ。言質取ったと。小賢しいと。こうテリィに言わせた後のスザナは、涙を流しながら微笑みを浮かべているし。その笑みは何だよ、と。

 許してあげてよ、それくらい。スザナの失ったものの大きさを考えてあげてほしい。


◆現実を生きる。

 それに引き換えると、メイは、具体的には何も失っていないのだ。それどころか、確実に欲しいものを手に入れていく。

 メイは、ありとあらゆる策を巡らせてニューランドの動きを封じたけど、もし、メイがスザナの立場に置かれたら、スザナがテリィをかばったようには、メイはニューランドを捨て身で助けることはしなかっただろうと思う。メイの場合、ニューランドのことを確かに愛していただろうが、むしろ、恋敵であるエレンに対する意地とプライドがかなり作用していた印象を受ける。メイとエレンの関係(従姉妹同士)は、スザナとキャンディよりよほど近いし親密だ。

 スザナに比べれば、メイの方がよほど人間としては怖いと思う。ニューランドがメイから逃げようとしても逃げられなかったのは、やっぱり道理だ。

 考えてみれば、“物理的に一緒に暮らす”ってのは最強なんである。相手によっては、それで自分に愛情を抱いてくれることだってあり得るのだ。離れている方が思いが募る、、、というのも一理あるが、去る者日々に疎しともいい、こっちの方が現実的には多いんじゃないかしらん。

 いや、別に自分に愛情を抱いてくれなくたって良いのよね、メイは。

 現実を生きることの重み、これだよね、メイがこだわったのは。どんなに熱烈に思ったって、離れ離れでいるのなら、それって空想や妄想とどう違うの? 会えない相手は死んでいるのも同じこと、、、と。たとえ、相手の気持ちが自分になくても、自分との日々の生活の積み重ねは確実に存在し、それが、現実の相手の人生を形成し、自分は相手の人生の一部に確実になる、ということ。

 これって、究極的には「そんなに愛って大事?」と問われているような気がするのよね。大体、愛って何? 近くにいることで湧く情だって、愛じゃないのか? ってね。

 実際、メイとニューランドの間には子供もできて、家族愛はあったわけだし。これぞまさに、現実を生きた証ではないか。


◆愛する、ということ。

 それにしても、体は自分の隣にはいるけれど、心は別の女性のところに完全に行っちゃっている状態の人と一緒にいる精神状態って、どーなのかねぇ? 

 スザナはともかく、メイは、ちょっと私には理解できん。私がメイなら、その状況はしんど過ぎる。いくら、側にいてくれさえすれば良い、と思ったって、時には空しくなることもあるだろう。

 メイの場合、ニューランドとの間に子供が2人いたから、子供の世話で紛れる、、、というものかしら。NYの社交界のお付き合いも忙しそうだしねぇ。四六時中、100%ニューランドに目も心も向いていたわけではないのだろうが。

 テリィもニューランドも、本当に愛する女性と一緒になっていたら幸せな人生が続いていた、、、という保証はどこにもないし、そうならない可能性だって十分ある。

 以前の記事で書いた『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』の影響で、『キャンディ・キャンディ』の二次創作がネットには溢れているけれど、私はテリィ派のものしか目にしていないが、大抵は、テリィがいつまでも“キャンディ一筋”という展開になっているのよね。まあ、テリィのキャラから言って、器用に浮気とかできるタイプではないとは思うが、浮気しなくたって、夫婦で一緒に何年も過ごしていたら、互いの感情に波があるのはアタリマエなわけで、、、。

 ニューランドの場合は、エレンの事情が複雑すぎるので、かなり難しい状況かも知れぬ。

 愛していても、一緒に暮らすには合わない2人、、、ってのもあるだろうし。そういう意味では、メイとニューランドは、どうにかこうにか一緒に暮らし続けたわけで、メイはきっと色々ニューランドに気を使っていたに違いない。テリィとスザナは、、、、全く合わなさそうではあるな、確かに。だからと言って、キャンディと合うかというと、それもちょっとビミョーな気もするが。テリィは誰とであれ、一緒に暮らすのはかなり難しい性格だと思うわ。

 テリィやニューランドの身になってみると、自分の人生を、自分が愛せない人間に絡め取られるなんて、絶望でしかない。2人の美しい男たちは、そうして絶望を生きていたのだなぁ、、、としみじみと思うのでありました。

 愛する、って何なのかねぇ、、、。エーリッヒ・フロムでも久々に読んでみるか。

 

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青い鳥(2008年)

2022-03-19 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv37577/


以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 一見平穏な新学期を迎えた東ヶ丘中学校。しかし、その内面は前の学期に起こった、いじめ自殺未遂事件に大きく揺れていた。

 新学期初日、当該学級である2年1組に、極度の吃音症である村内(阿部寛)が臨時教師として赴任してくる。彼が初めて生徒達に命じた事は、事件を起こし既に転校している生徒・野口哲也(山崎和也)の机を教室に戻す事だった。

 毎日「野口君、おはよう」と無人のその机に向かい声をかける村内の行為に、生徒・教師・保護者の間には波紋が広がるが村内は止めようとしない。

 そんなある日、野口へのいじめに加担したと苦しむ園部真一(本郷奏多)は、その思いを村内にぶつけるのだった。

=====ここまで。

 重松清の短編小説を映画化。


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 邦画をあんまし見ない私が、わざわざDVDをレンタル(いまだに動画配信を利用していない)してまで見たのは、あべちゃんが好きだからでは、もちろんありません。本郷奏多くんが出ているからです。

 というのも、今期の朝ドラ、久しぶりに毎日見ておりまして、これに2月くらいから本郷君が登場したのです。ヒロインひなたと恋仲になる五十嵐文四郎役を本郷君が演じていたのですが、この“文ちゃん”のキャラがツボだったんです。正直なところ、本郷君自身は線が細過ぎてちょっと、、、なんだけど、文ちゃんのキャラには実にピッタリで。文ちゃん、いわゆるツンデレなんですよ。私、リアルでもバーチャルでも、男も犬も、基本“ツンデレ”に弱いのです、、、ごーん。

 朝ドラでは、7年も付き合ったひなたを振って(?)お別れ、退場してしまい、現在激しい“文ちゃんロス”なんですが、それよりも、番宣も兼ねて出演した「あさイチ」での本郷君を見たら、文ちゃんとゼンゼン顔が違う!! 同じ人なのに、ここまで違うものか、、、と愕然となりました。ドラマ内でも表情がコロコロ変わり、役者としても引き出しが多そうだな、とは思って見ていたのですが。しかも、私、本郷くんを今まで結構目にしていたはずなのに、名前と顔が一致していなかったのだと分かり、他の作品での本郷くんを見てみたくなったのでした。

 ……というわけで、映画の感想です。


◆落ち着いた良い映画

 “いじめ”がファクターとなる学校モノ。あべちゃん演ずる村内先生は説教臭くなく、映画自体も説教臭くなく、邦画では珍しく静かな小粒でピリリ系の良作だった。

 村内先生が吃音である必要性を疑問視する感想をネット上で見かけたけれど、重松氏自身が吃音であったこともあるだろうが、彼が吃音であることで、生徒たちは彼の発する言葉にイヤでも注意を向けさせられ、先生の言葉の重みが増す効果があるのだなぁ、、、とホームルームシーンを見ていて感じた。

 主なシーンは、中学2年生の教室内でのもの。中2病とか言われるけど、中学生は一番心身ともに変化が大きい時期だから、先生も生徒も大変だよね。本作では被害者の自殺“未遂”となっているけど、現実には未遂ではないケースも起きている。

 本作では、いじめがいかに良くないか、などという陳腐なお題目は見事にスルーし、“他者の痛み”にいかに思いを致すか、その難しさを描いている点が秀逸だ。道徳的な正しさとか、泣きへの誘導とかがないところもgoo。いじめの現実はそんな安易な着地点には収まらないってことを、きちんと描いていると思う。

 本郷くん演ずる園部が、村内先生に、何で野口の机を戻したり、ここにはいない野口に挨拶したりするのかと聞いた時の、村内先生の答えがグッとくる。「それは責任だ」ってね。「いじめの加害者になってしまったことを忘れない責任」「被害者は一生忘れない。だから、加害者も忘れてはいけない」ということだけど、これは本当に大事なことだと思ったわ。加害者は忘れるからね、大抵の場合。

 あと、バスの中のシーンも良かった。子どもたちが、ぶつかってお婆さんの荷物をふっとばしたのに知らん顔していたら、村内先生、子どもの腕をつかんで「お婆さんに謝るんだ」と一言。威圧するでなく、それでいてたった一言で子どもたちの心に届くように言葉を発するのは、なかなか難しいシーンだったろうな、と。

 村内先生が、何で校舎の屋上に度々上がって物思いにふけっているのか、とか、時々取り出して眺めているあの写真は何なのか、とか意味深なままで終わってしまった描写もあるけれど、とにかく村内先生のバックグラウンドが全く描かれないので、それは敢えてそういう描写にしたんだろう。私がちょっとイヤだな、と思ったのは、あの目安箱みたいな箱に「青い鳥」と名付けていること。青い鳥って、、、ねぇ。

 でもまあ、全体的には好感の持てる良作でした。


◆本郷くんとか、文ちゃんとか、、

 本郷くん演ずる園部は、割と優等生っぽい位置付けかな。野口とも対等に話せる仲だったけど、野口をからかっている連中のノリに一度だけ乗ってしまった。それを、園部はとても悔いていて、葛藤している。

 結構、難しい役どころだと思うが、本郷くん、繊細そうなルックスで好演でした。

 朝ドラの文ちゃんは、一見無愛想ながら、ひなたの家族にすんなり馴染むところとか、実はひねくれていない性格なのが本郷くんの雰囲気に合っていた(本郷くん自身は、自分のことを“子役からキャリアが長いせいか、うまく立ち回ることのできるひねくれ者”と言っているみたいだが)。ひなたと別れるシーンは、見ているこっちまで号泣しちゃったよ。

 ひなたは、文ちゃんに振られたと言っていたけど、文ちゃんはひなたに「東京に一緒に帰ってほしい」「自分にとって一番大事なのは、叶わない夢なんかじゃなくひなたなんだ」とその前に言っており、それを蹴ったのはひなたやろ、、、と思うんだが。若いから、文ちゃんが夢を諦めることをひなたは受け入れられなかったんだろうなぁ。

 私がひなただったら、絶対一緒に東京行くね。夢を食っては生きていけないし、何より好きな人をそう簡単に手放すなんて、私は絶対したくないので。相手が一緒に来てくれと言っていて、物理的な障害がなければ、行くしかないでしょ。それで結果的に上手くいかなくなったとしても、だ。文ちゃんが最初から「別れたい、一人で東京帰る」と言ったのなら、そりゃ振られたことになるし、それでも着いていくとは言いにくいけどさ。一緒に来てくれ、、、って言ってるのよ、好きな人が。行かない理由がないわ、私なら。

 なんか朝ドラの話ばっかになってしまったが、文ちゃんはこの後また登場すると私は思っている。理由は、2つあって、1つは、来週(25日)、本郷くんが「チコちゃん」に川栄ちゃんと一緒に出演するから。朝ドラは4月8日までで、3月25日の後2週間もあるわけで、これっきりの人が、ヒロインと一緒に番宣兼ねてラストに向けて盛り上がる時期に別番組に出てこないだろ、、、という勘ぐりから。

 もう1つの理由は、ひなた編になってから、すぐに文ちゃんは登場しており、ひなたと7~8年付き合っていた設定になっている。実際にドラマに登場していた時間は長い。現実にはどんだけ長く付き合おうが、ただの通過人であることは珍しくないが、これはドラマである。ひなたにとってただの通過人に過ぎない男のことを、これだけの尺を割いて描写するはずはない。藤本さんが書く脚本で、そんな意味のない構成になることは考えにくい。ひなたとハッピーエンディングになるかどうかはともかく、文ちゃんのその後は必ず描かれ、それはひなたと何らかの関わりがあるものになっているはず。

 チコちゃんに叱られている本郷くんには興味ないけど、文ちゃんのその後には興味津々なのだ。


 

 

 

 

 

 

人間の集まるところ、いじめアリ。

 

 

 

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エミール・クストリッツァ監督のこと

2022-03-15 | 映画雑感

 ロシアが(というか、プーチンが)ウクライナ侵攻に踏み切った。今日までの状況を見ると、これは長引くのかも、、、という嫌な予感がしている。

 西側があれこれ制裁をしていて、それはもちろん、当然の策だと思うが、芸術の分野も煽りを喰らっており、ゲルギエフはあちこちからポストを解任されてロシアに凱旋(半ば英雄扱いされているらしい)、ソヒエフも複数ポストを辞任した。バレエにも影響が及んでいるというし、、、、というか、影響を受けていないジャンルはないだろう。

 そんな中で、私が個人的に結構ショックだったのが、映画監督のクストリッツァがあちら側に行ってしまったことだった。

 村山章氏という映画ライターの方(私は今回のニュースを見るまで存じ上げなかったが)のツイートが流れてきて知ったのだが、映画監督のエミール・クストリッツァがロシア陸軍劇場のディレクターに就任したという。

 ドイツ語の記事なので、翻訳機能で読んだからイマイチ把握しにくいが、どうやらガセネタではないようだ。

 私にとっては、彼が95年に発表した映画『アンダーグラウンド』マイ・ベスト5である。初めて劇場で見たときの衝撃と感動は、今でも到底忘れられない。その後、DVDも買って何度も見たし、リバイバル上映にも2度行った。そして、何度見ても、やはり感動するし、心を揺さぶられる。こんな映画を撮る人、というだけで“凄い人”認定をしていた。

 実際、彼のほかの映画も(好みが分かれるとは思うが)秀作が多く、何より、その全てに貫かれているのは「人生賛歌」である。どんなに悲惨な現実であれ、生きること、その時間の積み重ねである人生は素晴らしい! という、その作風が私は好きだった。

 彼の作品は好きだったが、彼自身の追っ掛けはしていなかったのだが、私の映画友は彼の熱心なファンで、彼女が言うには、クストリッツァは、数年前から露骨に「プーチン大好き」と公言するようになっていたらしく、彼女は「でも、プーチンの強烈なキャラに惹かれているだけだと思っていた」のだそうだ。

 そうとはつゆ知らず、私は今回のこの記事にかなりの衝撃を受けた。映画友もショックを受けていた。クリミア併合でもロシアを支持していたとこの記事で知り、これはただのプーチンファンではないのだと、今さらながら思い知った。

 私が見た彼の映画は、いずれも“反戦映画”だった。けれど、それは私の誤解だったのかも知れない。

 思えば、『アンダーグラウンド』のラストシーンも、決して平和を願っている象徴的なシーンとは言えないのではないか。今までそうだと思い込んで見ていたから反戦映画に見えたけれど、あれは、彼の歪んだ祖国愛の表れだったのかも知れない。クロの最後のセリフ「許す、でも忘れない」に、それは象徴されているということか、、、。

 前述の村山氏のTwitter(リンクは貼りませんので、ご興味ある方は検索してください)で、関連のスレッドを拝読すると、「クストリッツァにはセルビア人としてコソボ紛争で空爆を行ったNATOへの怒りがあり、実際NATOの出した条件はユーゴのNATO軍の駐留と治外法権という主権国家を蹂躙するもので、NATOとロシアがウクライナにやってることのどこが違うのかという考え方」だそうで、「セルビアと協調するのはロシアしかないという過去の経緯があった」というのが、クストリッツァの立ち位置らしい。

 『アンダーグラウンド』などの映画を撮っているからといって、クストリッツァ=反戦論者=ヒューマニスト=非暴力主義、などという公式は、日本人の勝手な連想ゲームに過ぎなかったということなのだろう。村山氏も「そもそも武力行使を否定してる国や民族は少ない」と書いているとおり、この辺はやはり日本人だからこその誤解だったのかも知れないと思うに至っている。

 私の部屋には、『アンダーグラウンド』のポスターが目立つところに飾ってある。そのポスターにはクストリッツァの名前もデカデカと書いてある。正直なところ、今はこのポスターを外す気にはならないが、今後のウクライナ情勢やロシア(というかプーチン)の出方、もちろん、クストリッツァ自身の動向次第では、私の中では封印する映画になるのかも知れない、、、という気もしないではない。

 それとこれは別。そうも思う。『アンダーグラウンド』から30年近く経っており、人ひとりの思考が丸ごと変わってしまうのには十分な年月であることを思えば、映画は映画として愛し続けても良いと思いたい。

 今は、自分でもまだ結論が出ないが、少なくとも、今までと同じ気持ちで彼の映画に向き合えなくなることだけは確かである。

 

 

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『キャンディ・キャンディ』に思う[5]

2022-03-13 | 映画雑感

絶望を生きる男 ~テリィとニューランド~ ①

関連映画:『エイジ・オブ・イノセンス』(1993)

 

 この記事では、マンガ『キャンディ・キャンディ』についての勝手な思いを書いています。『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』の“あのひと”が誰かを考察する趣旨では全くありません。


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**映画『エイジ・オブ・イノセンス』のあらすじ**

 1870年代のニューヨーク。上流階級の弁護士ニューランド(ダニエル・デイ=ルイス)は幼なじみのエレン(ミシェル・ファイファー)と再会し、次第に心惹かれていく。しかしニューランドには婚約者メイ(ウィノナ・ライダー)が、エレンには離婚を承知してくれない夫がいた…。

 
 映画『エイジ・オブ・イノセンス』を何度か見るうちに、DDL演ずるニューランドが、テリィと私の中で被るようになりました。キャラは違うんですけどね。

 余談ですが、このブログにも時々書いているように、私はDDLの(ファンではなく)信者なんですが、信者になったきっかけが、この映画でのニューランドなんです。私の中ではDDL=ニューランド、と言ってもよいくらい。ニューランド自身は正直それほど好きじゃないんですけれど。ニューランドを演じるDDLが美し過ぎました、、、嘆息。

 ま、DDLのことはおいといて……。テリィとニューランドについてです。

 この2人の男性は、どちらも同じ境遇に置かれております。つまり、愛する女性がいながら、その人とはどうしようもなく一緒になることはかなわなかった。そして、別の女性と生きざるを得ない、、、ということ。

 ニューランドは、映画の中で妻メイとの生活で「もう自分(の心)はとっくに死んでいる」とまで言っています。テリィはキャンディとの別離後、深い絶望感に襲われて、あれほど情熱を注いでいた役者業から逃避しズタボロになってしまいます。

 テリィもニューランドも、本当にどうしようもなかったのだろうか、、、ということについて、ちょっと考えてみました。

 

◆あなたを誰にも渡さない!

 ニューランドが愛するエレンとの人生を諦めたのは、周りの無言の圧力と陰湿な根回しに屈したからだが、以前は、“ニューランドが全てを捨てる覚悟があれば、エレンが離婚できなくても、事実婚状態でヨーロッパで一緒に暮らすこともあり得たのではないか”と思っていた。つまり、ニューランドは、リスクを取る勇気がなかったのではないか……と。

 けれど、何度か見るうちに、メイから逃れるのは、まずムリだったろうと思うに至った。

 なぜなら、メイにとってはニューランドが自分のそばにいることが何よりも重要なのであり、ニューランドが自分を愛しているかどうかは二の次三の次だからである。だから、ニューランドが物理的に自分から離れないためなら何でもするわけだ。

 彼女は、ニューランドの本心などとっくにお見通しだった。エレンと相思相愛なのも分かっていた。メイとしては「エレンと幸せになどさせてなるものか、、、」というよりは、「ニューランドは絶対に誰にも渡さない!」だったのだろう。

 で、このメイの気持ちと同じことをテリィに言った人が、スザナなのよ。メイは言葉に出しては言わなかったけど、スザナは、ハッキリ言う

 ある日、稽古場でキャンディからテリィ宛の手紙を拾ったスザナは、テリィにそれを渡す際に、自分の思いを告白する。そして「ききたいの! あなたの気持ちを!」と言って、テリィの本心を聞くんだが、テリィが「……おれは昔からあいつ(キャンディ)のことを……」と言い掛けたところで、スザナは「いわないで! いやよ テリィ あたし あなたのこと愛してる! ぜったいわたさないわ! キャンディにだってだれにだって!」と泣き叫ぶ。

 自分以外に愛する人がいる、しかも相思相愛の人がいる相手に向かって「あなたを誰にも渡さない!」って、私だったらそんなこと、とても言えまへん、、、。

 しかも、その直前には、キャンディをシカゴのホテルで追い返したときの言い訳を「ごめんなさい…… あたし とてもわるいと思ってた でも……あなたをだれにもとられたくなかったの」と言っている。

 「誰にもとられたくない」って、別にスザナとテリィは付き合っていたわけでも何でもないのに、これも私だったら絶対言えないセリフだな、、、。こういうところも、テリィ派の方々に毛嫌いされる一因かもね(ちなみに、私はテリィ派ですが、スザナのことは嫌いではないです)。 

 しかも、このシーンが、スザナがテリィをかばって片足を切断することになる大怪我をする直前にあるのがミソ。テリィはスザナの思いを知らされてしまうからね。そこまで自分を好きでいる女性が、捨て身で自分をかばって、女優生命を絶たれるような大怪我を負うわけだから、テリィは人情として「そんなん知ったことか!」と言えない状況に追い込まれる。


◆スザナがテリィに執着するのは仕方がない。

 ネットでは、スザナは異常なまでに悪者にされている。相思相愛のテリィとキャンディを引き裂いた極悪人扱い。悪人というより、イヤらしい女、というところか。

 あれがテリィでなければあんなふうに身を挺してテリィを助けなかったはず、、、だから、スザナは身の危険を承知でテリィに貸しを作った、、、と。おまけに、テリィの舞台初日に当てこすりのような自殺未遂騒動まで起こし、どこまでテリィを苦しめるのか、と。

 しかし、それは違うと声を大にして言いたいのです……。

 

 

>>>>[6]に続く

 

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金の糸(2019年)

2022-03-10 | 【き】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75624/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ジョージア・トビリシの旧市街の片隅。作家のエレネ(ナナ・ジョルジャゼ)は、生まれた時からの古い家で娘夫婦と暮らしている。今日は彼女の79歳の誕生日だが、家族の誰もが忘れていた。

 そんななか、娘婿の母ミランダ(グランダ・ガブニア)にアルツハイマーの症状が出始めたので、この家に引っ越しさせると娘が言う。ミランダはソヴィエト時代、政府の高官だった。

 そこへエレネのかつての恋人アルチル(ズラ・キプシゼ)から数十年ぶりに電話がかかってくる。やがて彼らの過去が明らかになり、ミランダは姿を消す……。

=====ここまで。

 ちなみに本作のタイトルは、日本の伝統的な技術“金継ぎ”から着想を得たそう。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

 閉館が決まった岩波ホール。閉館までなるべく見に行こう、、、と思っていたのに、前回のジョージア映画祭は行けずじまい。

 本作もジョージア映画。老いて、身体の自由も利かなくなり、死を嫌でも意識する日々を送る人々を描いているんだけど、暗くなく淡々とした映画でした。

 79歳の自分の誕生日を誰も覚えていない、、、というのは、そんなに寂しいものなのか。一緒に暮らしている人がいるのに忘れられているのは、やっぱり寂しいのかな。寂しがっていたところへ、かつての恋人から久しぶりに電話がかかってきて、寂しさも吹っ飛んでいたエレナさん。どういう経緯で別れたのかは詳しく分からないけど、いがみ合って別れたのではない様子。

 でも、私はこのエレナさんの反応が、あんましピンと来なかった。私も、似たような経験があるので……。エレナさんが嬉しそうだったので、別に良いのだけど。それに、それこそ死を身近に感じる歳になると、愛憎も浄化されて、たとえ修羅場を経て別れた男でも昔懐かしい人に昇華され、枯れた会話がしたくなるものなのかもなぁ、、、なんて思いながら見ていました。

 ストーリー自体は特にどうということもないのだけど、やはりこれは旧ソ連の国の映画だ、、、と思ったのが、エレナの娘婿の母ミランダの存在。

 この方は、今はアルツハイマーで記憶も怪しいけど、昔はソ連の政府高官だったという設定で、何となくそんな感じがする役者さんなのよね。背筋がピンとしているというか。ソ連じゃないけど、『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2018)に出てきた旧東独シュタージの女性・ケスラーと、雰囲気がちょっと似ている。ミランダさんは現役じゃないから大分丸くなっていらっしゃるが、きっと現役時代は、ケスラーみたいだったんじゃないかな、、、。

 しかも、エレナがソ連時代に著した小説を発禁処分にする判断をしたのが、ミランダその人だったのだ。エレナはその後20年、著作物を発表することができなかったわけだから、ものすごい因縁。ちょっと出来過ぎではないかという気がするが、いや、ソ連時代なら十分あり得るのかもしれないとも思う。

 このミランダは、とにかくソ連時代は良かった、、、とノスタルジーに浸っており、認知症の症状も相まってか、現在とソ連時代が交錯している様子。終盤では徘徊に出て、今は廃墟となったソ連時代のものと思われる建物の中を雨傘を差してさまよう姿は、何とも痛々しい。

 エレナにしても、アルチルにしても、話すことは過去の思い出ばかり。現在は外出もしないで家の中で全てが完結している人生だから、そうなるのかも知れないが、これが歳をとるということだ、と言われると、これから歳をとっていく者としてみれば、あまり楽しい気持ちにはならないよなぁ。ただご本人たちは、まったく別々の人生を生きてきたけれど、それぞれが自分の来し方にそれなりに納得している(というか、納得させているのかもだが)様なので、こういうのはその境地に達してみないと分からないことなのだろうね。

 ジョージアも、ソ連時代からロシアには何かと介入されている国だから、今のウクライナ情勢をどう見ているのだろう。今日の新聞を見ていたら、アフリカやアラブ諸国は、かなり冷ややからしい。アメリカがアフリカから距離を置いたところへ、抜け目なく中国・ロシアが食い込み、今や中国の食い物にされている現状で、ウクライナが侵攻されようがどうしようが知ったこっちゃない、というのも、背景を聞かされれば無理もないとも思う次第。

 ロシアも中国も、あまりにも国土が広すぎると統治が難しいから、ああいう独裁体制にしたがるのかな。抑え込んでいないと、あちこちで独立騒動になって収集つかないもんね、、、。だとしても、プーチンは今回のことで無傷ではいられまい。終結後も、侵攻以前と何も変わらなければ、それは地球の未来の敗北だ。

 話を本作に戻すと、エレナの部屋がとても素敵だった。古い集合住宅で、外観はかなりボロっちいけど、部屋の中はキレイで心地よさそうだった。本作は、ほぼエレナの部屋だけで話が進むし、展開もゆったりで、序盤はちょっと退屈だったけど、ミランダが登場してからは緊迫感があって面白かった。

 先日までのジョージア映画祭では、ゴゴベリゼ監督の若い頃の作品もかかっていたらしい。彼女の両親はスターリンに粛清されており、父親はそれで亡くなっているとのこと。母親は映画監督の芸術家だったが、強制収容所から生還した後は映画を撮らなかったという。監督自身は、ソ連時代に製作した映画が、ソ連映画祭で賞を何度かとっている。

 

 

 

 

 

 

 

 


いつの時代もどこの国でも、プロパガンダに真っ先に利用されるのが、メディアと芸術。

 

 

 

 

 

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