映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

フィリップ(2022年)

2024-07-01 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85335/


以下、公式HPからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1941年、ポーランド・ワルシャワのゲットーで暮らすポーランド系ユダヤ人フィリップ(エリック・クルム・ジュニア)は、恋人サラとゲットーで開催された舞台でダンスを披露する直前にナチスによる銃撃に遭い、サラと共に家族や親戚を目の前で殺されてしまう。

 2年後、フィリップはフランクフルトにある高級ホテルのレストランでウェイターとして働いていた。そこでは自身をフランス人と名乗り、戦場に夫を送り出し孤独にしているナチス上流階級の女性たちを次々と誘惑することでナチスへの復讐を果たしていた。

 嘘で塗り固めた生活の中、プールサイドで知的な美しいドイツ人のリザ(カロリーネ・ハルティヒ)と出会い本当の愛に目覚めていく。

 連合国軍による空襲が続くなか、勤務するホテルでナチス将校の結婚披露パーティーが開かれる。その日、同僚で親友のピエールが理不尽な理由で銃殺されたフィリップは、自由を求めて大胆な行動に移していく…。

=====ここまで。

 ポーランド映画。


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 予告編を見て、こりゃ劇場行きだな、、、と思って公開を待っていた作品。本当は、公開初日に行きたかったんだけど、翌日、朝早くから予定があったので断念。1週間後のサービスデーに、大雨の中ようやく見に行ってまいりました。

 ポーランド語、ドイツ語、フランス語と、必要な言語が必要な個所で話されており、どんなシーンも英語のブルドーザーでなぎ倒すハリウッド資本映画とは説得力がゼンゼン違います。英語圏の人はさ、言語の持つ重要性ってのをちゃんと考えなさいよ、、、、と、こういう映画を見ると改めて強く感じますな。ま、英語脳の彼らにそんなこと言っても、文字通り、馬耳東風でしょうけどね。


◆そんなのアリ?な復讐劇

 冒頭は、ワルシャワゲットーに始まり、あの『戦場のピアニスト』と同じ舞台である。ゲットーの様子も当然ながらよく似ており、死体が路上にゴロゴロ転がっている脇で、舞踏会に興じている面々もいる、、、という、今から見ればかなりの地獄絵図である。しかし、さらなる地獄絵図が展開される。

 フィリップが殺されずに済んだのは、まさに偶然による一瞬の行動の違い。たまたま物陰に入ったことで、銃弾を浴びずに済んだのだが、あのホロコーストを生き延びたユダヤ人って、シュピルマンもそうだったように、ほとんどこういう“運”による紙一重の差、、、だったんだろう、と改めて感じさせられる。

 生き残ってしまったフィリップは、フランクフルトでフランス人と自称し、かなり投げやりな生き様である。ドイツ人の女をモノにして捨てる、ってのが彼なりの復讐なんだが、、、恋人を殺されたってのが大きいんだろけど、ハッキリ言って感心しない。見つかれば自身も殺されるわけだから、命がけの行動ではあるし、仮に相手の女が妊娠して子が生まれれば、ナチスの目指す純血主義を穢す、しかもユダヤの血で穢すことが出来るわけだから、、、まあ、復讐たり得てはいるのだが。下半身で復讐ってのが、短絡的だな、と。これはまあ、好みの問題だけど。

 それに、人生投げているフィリップにとって、自身の行動が短絡的だろうが何だろうが、どうでも良いわけで。矛盾するようだが、ある意味、復讐は生きるエネルギーになるので、彼は彼なりの行動原理をエネルギーにして、あの状況を生き延びたとも言える。

 で、予告編でそういう復讐劇だというのを知った時点で、まあ、多分そうなるんだろうな、、、と予感はしていたが、ありがちに、本当の恋に出会ってしまい、、、という展開になる。

 そうすると、どういうオチにするのか、、、が気になるのだが、この場合、オチは2つしかない。復讐を完遂するか、本当の恋に生きるか、である。フィリップとリザの恋の様子を見ていて、これがどっちに転ぶのか、なかなか予想が難しくなっているのは、シナリオとしてよく出来ていると思う。

 本当の恋の行方は敢えて書かないが、その後、フィリップは、あることが切っ掛けとなってトンデモな行動に出て、結果的に、こっちの方がナチスへの派手な復讐となる、、、というのが、一応、ラストの見せ場となっている。

 なっているけど、……だったら、それまでの彼の身体を張った一連の復讐と称する言動は何だったんだ??という気もしないでもない。だって、ほとんどあのラストは、偶然の産物、フィリップの出来心によるもので、それで復讐を果たせてしまったんだからね。チマチマ焼いた肉をいざ食べようと摘まみ上げて大口開けた瞬間、横からカラスに搔っさらわれちゃった!みたいな感じかなー。


◆その他もろもろ

 本作の原作小説は、戦後のポーランドで検閲されまくったものの1961年にどうにか上梓に漕ぎつけた、、、と思ったらすぐに発禁処分となり、2022年にようやくオリジナル版が出たという“問題作”らしい。

 本作を見る限り、何が発禁処分の理由となったのか、明確には分からない。ナチス下のドイツで、多数のドイツ人女性と積極的に交わったから、、、か、あるいは、ラストのあの“トンデモな行動”がもっとリアルかつ政治的な背景も含めて詳細に描写されていたから、、、か、うぅむ。戦後のポーランドと言えば、ソ連の衛星国で何でもかんでもダメだった状況下、とりあえずヤバそうなものはダメ、、、みたいな感じだったのかも。

 この原作は、まだ邦訳されていないので日本語では読めないのが残念。読めば、発禁になった理由も分かるかも知れないもんね。

 フィリップを演じたエリック・クルム・ジュニアは、ドイツ語を懸命に学んで身に付け、撮影に臨んだそう。

 エリック君の顔がかなり個性的で、これはイケメンと言って良いのか??とか思いながら、いやしかし、ちょっとなぁ、、、とかいうのも中盤以降の怒涛の展開からは気にならなくなり、いやもう、フィリップ、どーなっちゃうのよ??と手に汗握っていた。リザとの成り行きも、まあ想定内ではあるし、復讐に燃える男が“本当の恋に出会う”だなんて、えらく陳腐な話ではあるが、それをあまり陳腐化させていない監督の手腕はなかなかのものだと感心した。

 その本物の恋のお相手リザを演じている女優さんが、誰かに似ている、、、、と見ている間ずーーーーーっと考えていて思い当たらなかったのだが、劇場を出た途端「あー、ウィノナ!!ウィノナだーー!!」とピンと来て、めっちゃスッキリしました。

 

 

 

 

 


フィリップのその後が気になる。

 

 

 

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FEAST -狂宴-(2022年)

2024-03-23 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv84545/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 息子が起こした死亡交通事故の罪を被り、刑務所に収監される裕福な家庭の父親。やがて刑期を終えると、その帰還を祝う宴の準備が進められる。

 収監されている間、妻と息子は、協力して家族と家計を守り、亡くなった男の妻子を引き取り、使用人として面倒を見ていた。

 しかし、宴の日が近づくにつれ、後ろめたさと悲しみが再び湧き上がり、“失った者”と“失わせた者”の間の平穏はかき乱されていく……。

=====ここまで。

 舞台はフィリピン、制作は香港。監督は「ローサは密告された」のブリランテ・メンドーサ。


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 今月1日から公開されて、角川シネマ有楽町では、先週既に終映。見たいなぁと思いながら、あっという間に終映の告知が。早稲田に来るかも、、、? とも思ったけど、こればっかりは分からない。パンフもないような映画だと早稲田でも上映しないこともあるし。

 というわけで、終映日に滑り込みセーフで見に行きました。最終日なのに、劇場には10人くらいしか入っておらず、、、。


~~以下、ネタバレしておりますのでよろしくお願いします。~~


◆2つ作られたラスト

 「ローサは密告された」も見たかったのに見逃したんだが、見に行った友人はなかなか良かったと言っていた。「ローサ~」は社会派というか、麻薬の密売を扱った問題作だというので、本作も、最初はそれ系の映画なのかと思っていた。

 が、新聞で評が載っていて、どうやらそうじゃないらしい、、、。もちろん、新聞だからネタバレはしていないのだが、「ローサ~」とはちょっと方向性が違うことは確かなようだった。それで、却って見たいと思ったのだ。

 上記のあらすじにもあるとおり、夫を殺された(というかひき逃げされた)女性は、金持ち加害者家族の使用人となるのだが、「帰還を祝う宴」が粛々と進む様子が描かれて、ジ・エンドなのである。

 で、多くの観客は、ええ~~!? と肩透かしを喰らうようなのだが、私は前述のとおり予備情報があったので、やっぱりそうだったか、、、という感じだった。

 監督自身が、本作のテーマを“赦し”であると言っているので(詳しく読みたい方はこちら)、このラストシーンは、夫を亡くした女性(被害者)が淡々と加害者家族に給仕をしながら、その現実と加害者への複雑な思いと向き合いながら、赦しとは何か、、、を見ている者に問いかける、ということなんだろう。

 けれど、私はそのシーンが映るスクリーンを見ながら、これはなかなかにグロテスクな描写だと思っていた。

 実は、本作はラストが2パターン作られ、フィリピンで公開されたのと、日本で公開されたのでは結末が異なるらしい。フィリピン版は、被害者が加害者家族の食べる料理に毒を盛って復讐するのだそう。実際、ネットの感想を拾い読みすると、そういう“凄惨な復讐シーン”がラストで展開されるのを予期していた人も少なくない様で、つまり、それくらい、被害者と加害者が同じテーブルを囲み(被害者家族は食さないが)和やかな一時を過ごすことの“あり得なさ”がそこに展開されているのだ。

 客観的に見ればハラハラするようなシチュエーションを、加害者家族は何も疑問に思わず幸せそうに満喫しているのである。これを禍々しいと言わずして何だと言うのだ。邦題のとおり、まさしく“狂”宴である。

 正直なところ、私は、本作が“赦し”がテーマの映画だとは感じなかったし、今もその印象は変わらない。

 加害者と被害者の圧倒的な経済格差が、その立場を有耶無耶にしてしまう。加害者家族は、自己中ではあるけど根っからの悪人ではなく、札びらで被害者たちを強引に黙らせることはしない。けれども、結果的にはそれと同じことになっている、、、というのがグロテスクなのである。被害者たちにとっては、赦す赦さない以前に、食うか食えないか問題なのだ。食うに困らない生活が約束されることの圧倒的な重みに、映画を見ている私の方が圧し潰される。いっそ、札びらで被害者の顔を撫でるくらいのえげつなさの方が見ている方は救われる。

 ネットには、加害者に雇われる被害者、という構図について「あり得ない!」「考えられない!」と拒絶感を示す感想文も結構あったけれど、人間はそんなに理屈で計れるほど単純な生き物じゃないと思うよ? そんな感想を書いている人の中には、肩書が映画監督という人もいて、そっちの方が「あり得ない!」と私には思えたんですが。


◆加害者目線

 交通事故を起こした本人の身代りに服役する、、、って話で、前に見たトルコの映画「スリー・モンキーズ」(2008)を思い出したけど、だいぶ雰囲気は違う。あちらは、金持ちがお抱えドライバーを金で身代りに仕立てるのだが、本作は、父親が息子の将来を思って自ら身代りになる。

 身代りで出頭って、日本でも交通事故では時々あるらしいが、まあほぼバレるよね。この親子の場合、事故現場で父親が咄嗟に運転を代わって、血の海に倒れている被害者を尻目に走り去った、れっきとしたひき逃げなんだが、この父親の冷静さが見ていて非常に嫌な気持ちになった。しかも、その後、洗車までしていて、店員に「血痕か?」と聞かれると「野良犬にぶつかった」なんて言う。日本だったら、かなりの悪質なひき逃げ犯になると思われる。

 刑務所の中は、めっちゃユルくて、下手すると楽しそうにさえ見える。父親はこれみよがしに聖書の朗読会なんぞを開いて、貧しく学のなさそうな他の囚人たちに上から目線で講義する有様。フィリピンの刑務所がユルいという話はよく聞くし、日本の組織犯罪にも利用されているらしいので、割と実態に近い描写なんだろう。

 本作は、加害者家族目線で描かれている。被害者家族についての描写はあまりなく、加害者家族の事情は、パズルのピースみたいに断片的にあれこれ描かれる。

 この事故を起こした本人である息子・ラファエルには幼い子供がおり、face timeでときどき話していて、ラファエルの母親も嬉しそうに孫とスマホで話しているのだが、どうもその子は外国にいるらしい。この辺りの描写がイマイチ??なのであるが、終盤、実はラファエルは離婚していて、子供は元妻が育てていることが分かる。

 で、そのちょっと前に、被害者の女性・ニタに対して、ラファエルの母親が「実は私はここの従業員だった。バツイチだったあの人と恋愛関係になって結婚しラファエルを授かった」という馴れ初めを話すシーンがある。

 なので、ラファエルがバツイチと分かったとき、私は、まさか、加害者本人と被害者遺族が再婚するんか?? げげっ、グロすぎ、、、と思ったのだったが、さすがにそういう展開にはならなかった。世界のどこかではそういうこともあるんだろうが、フィクションでもあんまし見たい映像ではないわね。

 加害者家族は、悪人たちではないのだが、どうも好ましい人たちとも言い難い。けれども、そんな人たちを心の底から憎めないニタの境遇や心理を想像すると、辛い。人間、激しく怒ったり憎んだりする方がある意味健全な状況ってあると思う。ニタの置かれた状況はその典型。そういう感情が不完全燃焼の場合、結局、本人が病んでしまうのではないかと心配になる。

 ニタにとっては、あのエンディングの“狂宴”が終わってからが、本当の意味での葛藤の始まりなんではないか。その宴の準備中に、ラファエルから「実は父は身代りで、ダンナさんを轢き殺したのは自分だ」とニタは告白されている。その場では、ラファエルを抱きしめたニタだったけれど、あれで“赦した”ことにはならんだろう、さすがに。

 それでもやっぱり、食えるか食えないか問題に収れんされていくのだろうな、、、という気もするが。

 ……そんなわけで、どうしても私には本作のテーマは“赦し”には思えないのであります。

 

 

 

 

 

 


出て来る料理がどれもとっても美味しそう、、、。

 

 

 

 

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ファースト・カウ(2019年)

2024-01-14 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv84326/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 1820年代、西部開拓時代。

 料理人のクッキーと中国人移民のキング・ルーは、アメリカン・ドリームを求めてオレゴン州にやって来た。共に成功を夢見る彼らはたちまち意気投合し、ある大胆な計画を思いつく。

 その計画とは、この地に初めてやってきた“富の象徴”の牛から盗んだミルクでドーナツを作り、一獲千金をねらうというものだった。

=====ここまで。


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 昨年末の公開時から頻繁に旧twitterのタイムラインに本作の感想やらが流れて来て、あんまし興味なかったのだけど、優しそうな目の牛の画像にちょっと心惹かれて(ほかに見たいものもなかったってのもあるんですが)、元日『枯れ葉』の後にハシゴして見てみました。

 予備知識ナシで見に行ったのだが、旧twitterのタイムラインからの印象で勝手にアート系かと思っていたら、ゼンゼン違った。

 ネットでは割と評判が良いのだが、うぅむ、、、まあ渋くて玄人受けする映画だとは思うが、私にはそこまで響かなかった。最初から最後まで飽きることなく見たんだけどね、、、。

 映画的なことよりも、面白いと思ったのは1820年頃のアメリカ西海岸で、あのような社会があったということ。パンフを読むと、きちんと裏付けある事実らしい。ゴールドラッシュまでは先住民しかいないと思い込んでいたので、、、。

 揚げドーナツが美味しそうなんだが、いかんせん、あまりにも汚い手で、あまりにも汚い道具で作られているので、まあ映画の中の話とはいえ、ちょっとあれを口にするのはなぁ、、、とか思っちゃったんだが、それって現代に生きる人間との単なる時代背景による衛生観念の違いなのかしらん?

 ちょっと前に、西部劇の悪口をさんざん書いた感想文をアップしたんだけど、本作もある意味“西部劇”なんだろうけど、私のこき下ろした西部劇要素はこの映画の中にはなかったなぁ。出てくるのは男ばっかだけれども、見ていてウンザリしなかったもんね。

 監督のケリー・ライカートは、本作の前から注目株だったみたいだが、私は本作で初めてその名を知った。あのA24が配給ってんで、ちょっと斜に構えていたけど、極々真っ当な映画でございました。

 

 

 

 

 


本作の終盤で揺れを感じました。

 

 

 

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ファルコン・レイク(2022年)

2023-10-09 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81516/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 ある夏の日。もうすぐ14歳になるバスティアンは、両親と歳の離れた弟と一緒にフランスからカナダ・ケベックにある湖畔の避暑地へとやってくる。2年ぶりに訪れる湖と森に囲まれたコテージ。母の友人ルイーズと娘のクロエと共に、この場所で数日間を一緒に過ごす。

 久しぶりに再会したクロエは16歳になっていて、以前よりも大人びた雰囲気だ。桟橋に寝転んでいたクロエは服を脱ぎ捨てると、ひとり湖に飛び込む。「湖の幽霊が怖い?」泳ぎたがらないバスティアンをおどかすようにクロエが話す。

 大人の目を盗んで飲むワイン、2人で出かけた夜のパーティー。自分の知らない世界を歩む3つ年上のクロエに惹かれていくバスティアンは、帰りが迫るある夜、彼女を追って湖のほとりへ向かうが——。

=====ここまで。


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 公開直後から気になっていたのだけれど、上映館が少ないし、時間も合わない、、、ので、諦めていたのだけれど、ワーナー100周年とやらで、私の最愛の映画の1つ『ダーティハリー』が35ミリフィルム上映されるということで、こりゃ見逃しちゃならん!!とスケジューリングしたらば、15時半くらいまで空白ができたのでチェックしたら、本作がまだ上映されていた!!のでした。わ~い。

 ……というわけで、初めて渋谷のシネクイントに行ったのだけど、キレイでなかなか良い劇場でした。


◆10代の男女

 上記のあらすじしか知らずに見たのだが、想像していたのとはちょっと違っていて、それがむしろ良かった。上記のあらすじから、私は勝手に、心理サスペンス系かと思っていたのだけれど、蓋を開けてみれば、多感な少年少女の繊細なドラマだった。

 まず、野暮を承知でリアルなツッコミ。バスティアンとクロエは、13歳と16歳という年齢なのに、同じ部屋で寝起きしているのだよね。いくらバスティアンの弟(4歳くらい?)も一緒とは言え、こんな環境を許す親の神経を疑うわ~。私が親なら(どっちの親でも)、部屋が足りないとかいうのであっても、この環境はあり得ないし、親として生理的に嫌だわ。フランス人的には、これはアリなのか? ……分からん。

 で、本題ですが。

 正直なところ、クロエちゃんのことはあんまし好きじゃない。ああいう、人の心を試すようなことをする人はちょっとね、、、。でも、まあまだ16歳だし、もうすぐ14歳男子との危うい感じはよく描かれていたと思う。

 クロエは母親とあんましソリが合わないようで、父親は不在なのか何なのか(見落としたのかも知れない)よく分からんが、あの母娘関係は先々かなり拗れる予感。で、クロエは孤独感を募らせており、「どこへ行っても馴染めない。ずっと一人ぼっち、、、グスン」とかバスティアンに言って、一緒に布団に入って抱き合ったりしているわけよ。クロエは「馴染めない」と言っているけど、パーティシーンなど見ていると、表面的には馴染んでおり、むしろ男を挑発するような仕草もしている。心からの友ができない、という意味なら、オバサンの眼には“クロエちゃんのキャラなら、まあ仕方ないかな”、、、、という感じに映るねぇ。だって、飽くまで表面的かもしれないけど、やはり奔放(ワガママ)に見えるから。

 でも、免疫のない初なバスティアンには、そうは見えない。クロエの言葉をまんま受け止めて、クロエの行動に振り回される。ああ、、、少年よ、違う違う!!とオバサンはスクリーンに向かって心の中で叫んでおりました。

 日常を離れた場所で、日頃接触の無い年上美少女に思わせぶりな態度をとられては、バスティアンがおたおたするのも無理からぬ。で、ついつい見栄を張って出まかせを言ってしまう。「クロエと寝た」……ってね。

 あーあ、、、と思ったら、やっぱりそれがクロエの知るところとなり、クロエを怒らせることに、、、。そして、取り返しのつかない悲劇の終盤となる。

~~以下、結末に触れています。~~


◆幽霊はいるのか、、、?

 悲劇の終盤について、詳細は書かないけれども、“幽霊”の話が伏線になっている。

 バスティアンが泳げない、、、というエピソードが出て来たので、何かイヤ~な予感はしたのだけど、まさかね、、、と思って見ていたら、まさかになってしまった、、、ごーん。ラストシーンは、あれは幽霊なのか??というのが、ネット上では一応の謎解きになっているみたい。

 ……て、見ていない人には訳の分からない文章になっていてすみません。つまり、バスティアンが幽霊になっている、、、ということなんでしょう。

 これで、ただでさえ孤独感を抱えているクロエは、罪悪感まで抱えて生きて行かねばならないことになる。こんな結末にする必要あったのかしらん。途中まで良いなぁ~と思っていたのだが、このオチで、ちょっとなぁ、、、となってしまった。自身の言動が遠因となって、人が一人死んでしまう、なんてことをこの年齢で経験するのは過酷。人を簡単に殺しちゃうシナリオは、あんまし好きじゃない。必然性があると感じられれば良いのだが、本作の場合、それはあまり感じられなかった。

 それもこれも、クロエとバスティアンを同じ部屋に寝泊まりさせている親のせいだ!! ……とかって、まだ言うか、、、なんだけど、でも結構これはあると思うなぁ。16歳とアバウト14歳だよ? マズいよ、やっぱり。

 クロエを演じたサラ・モンプチは、個性的な美少女、、、といったところか。何より、バスティアンを演じたジョゼフ・アンジェルが繊細で実に素晴らしかった。少年というより、ボーイッシュな女の子と言ってもいいような感じで、クロエと並ぶと、どう見たってクロエの方が強そうではある。

 監督のシャルロット・ル・ボンは、『イヴ・サンローラン』(2014)での美しさが際立っていたのをよく覚えているけれど、監督として本作が長編デビューとのこと。最近多いですね、女優→監督パターン。俳優→監督は結構あるが、ようやく女優にも道が開けて来たということかしらん。グレタ・ガーウィグよりは、本作の方が好きかも。次作以降、期待。

 

 

 

 

 

 


終始、不穏な感じです(好き)。

 

 

 

 

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冬の旅(1985年)

2022-12-04 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv15851/


以下、公式HPページよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 冬の寒い日、フランス片田舎の畑の側溝で、凍死体が発見される。遺体は、モナ(サンドリーヌ・ボネール)という18歳の若い女だった。

 モナは、寝袋とリュックだけを背負いヒッチハイクで流浪する日々を送っていて、道中では、同じく放浪中の青年やお屋敷の女中、牧場を営む元学生運動のリーダー、そしてプラタナスの樹を研究する教授などに出会っていた。

 警察は、モナのことを誤って転落した自然死として身元不明のまま葬ってしまうが、カメラは、モナが死に至るまでの数週間の足取りを、この彼女が路上で出会った人々の語りから辿っていく。

 人々はモナの死を知らぬまま、思い思いに彼女について語りだす。

=====ここまで。

 
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 ジャック・ドゥミの監督作品は、ロシュフォールとかシェルブールとかベルサイユとかロバとか見ているのだけれど、アニエス・ヴァルダ監督の作品は、実は1本も見たことがないのです。ただ、本作のことは前からちらほらと情報を目にしており、見たいなぁ、、、と思っていたのでした。サンドリーヌ・ボネール、結構好きだし。

 で、この度、デジタル修復版が劇場公開されたので、見に行ってまいりました。……見てよかったです。


◆楽して生きたい!

 放浪のモナが時々口にするのが「楽して生きたい」なんだが、どう見ても、「楽じゃないでしょ、その生活」、、、というのが私の目に映る彼女。だって、食べ物にもありつけない、寒くて眠れない、ヘンな男に絡まれる、、、そんなことの連続だもんね。

 気が向いたら、時々、軽めの肉体労働をして小銭を稼ぎつつ、基本は放浪生活である。これ、あの『ノマドランド』と同じだなぁ、、、と思って見ていた。あの主人公は、キャンピングカーで生活しているから、モナよりはまだ雨風を凌げる生活かも知れないが、、、。

 とにかく、モナがどうしてああいう生き方を選んでいるのかは、結局、最後まで分からない。「何で?」を解決しようとして本作を見ても、本作は何もその答えになりそうなものは見せてくれない。だから、「何で?」をモナの生き様に問うのは、恐らくあまり意味がない。

 詰まるところ、何をもって“楽”と感じるかは、その人にしか分からない、ってこと。

 このブログでも以前書いたが、私は自分の気持ちを抑えてまで親の言うことを聞いて生きるのは苦痛でしかないが、私の姉は、自分の気持ちを押し通すよりも親の言うことを聞いて生きる方が“楽”だと言っていた。だから、姉から見ると、私の生き様は、自ら苦しみを選択している、、、と見えるらしい。「親の言うこと聞いときゃいいじゃん」「親と対立したって消耗するだけじゃん」「親の言うとおりにしておけば何か困ったことがあっても助けてくれるじゃん」、、、とこともなげによく言っていた。

 私の目には、モナの生き様が「狭くても屋根と壁のある部屋の方が雨風凌げるし寒くないじゃん」「みみっちくてもある程度安定した生活の方が安心じゃん」、、、という理屈で、自ら苦しみを選択しているように見えてしまうけれど、彼女にしてみれば、私みたいに社会の歯車にちんまり組み込まれて生きている人間の方が、よっぽど自ら苦しみを選択しているように見えるに違いない。

 モナが途中で出会う人たちの中には、彼女と良い関係が成立しそうな人もいるのだが、結局、モナはその関係から去って行く。一方で、彼女の生き方を非難して「真っ当に生きろ」みたいな説教する人もいて、まあ、やっぱりああいう人はどこにでもいるよなぁ、、、と妙なリアリティを感じて苦笑してしまった。

 またしても姉の話で恐縮だが、私が、母親が勧める見合いを拒絶していた頃、既に2人の子持ちになっていた姉に「人は、ある程度の年齢になったら、きちんと社会的な役割を担って生きるべきだ」と説教されたことがある。つまり、親の勧める相手と文句言わずに結婚して子を産んで家族を作って真面目に働いて社会に貢献しろと。姉から見ると、私はいい歳して身勝手なことばかり言って幼稚でわがままで許しがたいということの様だった。

 本作でモナに説教していた男や、私の姉みたいに“真っ当”に生きていると自負している人にとって、モナや私のように“自己中”に見える生き方をしている人は我慢ならん存在なんだろうなぁ、、、と思う。

 けれど、説教したくなるほどその人のことを我慢ならんと感じるってことは、裏を返せば、それだけ自分が抑圧されていることの証なのでは?という意地悪な見方もできちゃうのだよね。

 モナを理解しようとする必要はなく、理解できないけど、まあ、彼女にとってはそれが生き易い生き方なんだろうね、、、と思えばよいのである。


◆放浪と野垂れ死に

 とはいえ、やっぱりモナのような生活は、私にはどう頑張ったってムリだし、そういう生活をしてみようとか、もちろん考えられない。

 最近“FIRE”ってのが、特に若い人の間で流行っているらしい。“Financial Independence, Retire Early”の頭文字をとって、ファイアー(早期経済的自立)と言うらしい。で、30代とかで、勤め仕事なんかさっさと辞めて、自分のペースで、仕事をしたいときにほどほどにしつつ、自由時間を満喫して生きることを選択している人が結構いるらしい。

 私も、YouTubeでFIREした若い女性の動画を見たことがあるが、その方は、30代でウン千万(億に近い)貯めて、人生充実!!って感じの生活ぶりでした。お金をいかにして賢く貯めて、上手に使うか、、、ということを語っていて、決して、怠惰に生きているとか、金亡者の如く吝嗇に励んでいるとかでは、全くない。自分の30代と比べて、あまりの違いに唖然となり、今の若い人はしっかりしてるなぁ、、、などと思ったが、恐らく、私と同世代でもしっかりしている人はしっかりしていたはずであり、私がムダに時間を過ごしていただけなんだろう、、、多分。

 で、最近見たネット記事に、FIREしたけれど、また就職して勤め仕事に戻って行く人が増えている、、、というのがあって、どうやら、あまりにも自由な時間があり過ぎて、逆に将来不安を感じたり、自身の生き方に対する疑問が湧いたりしてしまうらしい。こんなんでいいのか、、、ということのようだ。

 ただ、モナの場合は、あそこで野垂れ死にしてしまわずに生き続けたとしても、FIREを止める人たちとは違って、放浪生活を止めずに死ぬまで続けたんじゃないか、という気がする。

 モナは、凍死する直前に訪れた村で行われていた「ワインの収穫祭で……ワインの澱を投げ合う」(byパンフ)という行事に巻き込まれ、逃げ惑う中で茶色いドロドロしたものを身体中に塗りたくられる。その村に訪れる前は、寝起きしていた空き家が火事になって、恐怖の中を辛うじて脱出している。

 ……こんだけ、怖ろしい思いを何度もしたら、もう放浪生活は止めよう、、、には、しかし、モナの場合はならないような気がする。凍死する直前、溝に落ちたモナは泣いていたのだが、、、あの涙は、どういう涙だったのか。単に身体的な苦痛に対する涙なのか、それとも、精神的な苦痛を感じての涙なのか、、、。そこが見ていて分からなかった。まあ、分かる必要はないのだけど、泣きながら、そのまま還らぬ人になってしまったのが気になった。

 そして、それは一般的には憐れな最期になるのだろうが、私の目には、あのようにどこかで野垂れ死ぬというのは理想的な死に方に見えてしまった。私自身は、野垂れ死に上等!なのだけど、まあ、現代日本では難しいよね、、、。樹海にでも行けばいいのかもだけど、別に積極的に死にたいわけじゃないし。実際野垂れ死にしたら、やはりイロイロ迷惑が掛かるわけで、、、。でも、野垂れ死にって理想的な人生の幕の降ろし方だと思えてしまうなぁ。

 モナを演じたサンドリーヌ・ボネールは、当時18歳くらい。いやぁ、、、こんな難しい役、18歳でよく演じきったものだと圧倒される。ヴァルダとは結構、心理戦だったらしいけれど、、、。その後の彼女の活躍を考えると、まあ、本作の演技もさほど驚くことでもないか。これまた、自分の18歳の頃を考えると、、、(以下略)。

 

 

 

 

 

 

 

何日も風呂に入れないのは辛過ぎる。

 

 

 

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フォロー・ミー(1972年)

2022-05-03 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv7718/


以下、TUTAYAの紹介ページよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 会計士のチャールズは、妻のベリンダの行動に疑問を抱いていた。彼は私立探偵のクリストフォローに、妻の行動を探るように依頼する。ベリンダはただ単に、日常の倦怠を散歩によって紛らわせていただけだったのだが、クリストフォローの尾行に気づいて以来、次第に探偵自身に好意を抱いていく……。

=====ここまで。 

 
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 本作は、長らくレンタルできない状態(TSUTAYAだけかもだが)で(DVD化されたのも遅かったみたい?)、かと言って、DVDを購入するほどでもなく、今頃になってようやく見ました。

 ミア・ファローというだけで、何となくサスペンスっぽいのかと勝手に思っていたけど、全然違いました、ハハハ。


◆怖くないストーカー?

 会計士でそこそこ裕福そうなチャールズは長らく独身貴族(死語?)であったけれど、ミア・ファロー演ずるヒッピーのベリンダに出会って人生観が一転、家族の反対も顧みずに結婚する。

 けれども、結婚したら水と油の二人は合うはずもなく、あっという間に隙間風、、、。

 と、ここまでは割とありがちな話なんだが、探偵を名乗るクリストフォローが現れてから、急に雰囲気が変わる。

 このクリストフォローをトポルが演じているのだけれども、今回初めて知ったトポル。彼の一見人を喰った様な演技が、お堅いチャールズと好対照で実に良い。登場の仕方もユニーク。全身白ずくめの衣装も、却って目立つ探偵とは思えぬいで立ちで笑える。

 ベリンダは、クリストフォローにつけられていることを気付いた当初から彼のことを「なぜか怖くなかった」と言っていたけど、私がベリンダだったら、やっぱしかなり不気味に感じたと思うなぁ。悪そうな人には見えないけど、だから余計に、ちょっと頭のネジの外れちゃった人なんじゃないか、とか。

 ……というか、書いていて思い出した!

 新卒で入社するに当たり、会社の用意したマンションに引っ越すことになり、会社指定の入居日に新居へ向かう途中の電車の中で(平日の昼間だったから空いていた)、20代後半くらいの悪そうには全然見えないお兄さんにニコニコ笑い掛けられ、無視していたら私の隣に座って来たのだよね。こっちを見ながら、やはりニコニコ笑ってくる。無視し続けていたけど、ベリンダと一緒で怖さは感じなかったし、いきなり席を変わるのも憚られて、しばらくそのままでいたら、「今何時か分かります?」と聞いて来た。

 何時だったか覚えていないけど、腕時計を見て「〇時〇分ですけど、これ2分進んでるんで」と無愛想に答えたら「え、何で2分進めてるの? 人より2分先を生きる主義とか?」等と、あんまりにも突飛なことを言うので思わず、プッと笑ってしまったら、お兄さんは私が気を許したと思ったのか、やたら話し掛けて来た。「電話番号教えて」「まだ電話引いてないから」、「じゃあ、住所教えて」「新住所なんか覚えてない」、、、みたいな会話が続いた。

 電車は空いているとはいえ、都内だから人はそれなりにいるので怖さは感じなかったけど、ウザくなってきた。時間を聞かれてから5分くらいだったと思うが、やっと降りる駅に着いたので「じゃ、さいなら~」と降りようとしたら、そのお兄さんも一緒に降りて来たのだ! これでさすがに怖いと感じた私。安易に新居の最寄り駅で降りたことを後悔した。

 お兄さんは何か話し掛けながら駅の改札を出て着いてくる。さすがにこのまま新居に行くのはマズいと、いくらアホな私でも分かったので、駅前のコンビニに入った。お兄さんはコンビニの外でしばらく待っていた。このまま待ち続けられたら「交番へ行こう」と考えていたら、私が警戒しているのを悟ったのか、お兄さんはようやく姿を消してくれた。10分くらいだったと思うけど、えらく長く感じた。コンビニを出てからも、しばらく付けられていないか、後ろを気にしぃしぃ、新居まで歩いたのを覚えている。

 これで済んだから良かったけど、あそこで粘られていたらもっとメンドクサいことになっていたんだろうなぁ。

 という具合に、悪そうじゃないだけに「この人ちょっとネジ外れてる……??」と思って気味悪く感じたのだよね。だから、ベリンダが簡単にクリストフォローに尾行を許してしまうのが、ちょっとなぁ、、、と思ってしまった。リアルだったら、やっぱし警戒すると思うよ、あれは。

 まあでも、これは映画だからね。それに、確かにトポルの持つ雰囲気はコミカルで、人に警戒心を抱かせないオーラがある。顔もファニーフェイスというか。赤ら顔っぽくて、いつもちょっと笑っているみたいな感じ。ヴェネチアに行ったときに出会ったサラミ臭ぷんぷんのオジサンに似ていて懐かしく見ていた。

 このクリストフォローのキャラが実に面白くてユニークで、本作を素晴らしい映画にしているのだ。


◆夫婦になったら恋人ではなくなる、、、のか。

 ベリンダは、夫婦になった途端、チャールズが夫の役割を演じるようになり、自分には妻の振る舞いを求めて来て、結婚式を境に、実に無機質な関係になってしまって息苦しくなっていたのだね。

 そこへ、とにかく自分のことを見つめ続けて、自分のやることなすこと受け入れてくれるクリストフォローが現れたというわけだ。

 考えてみれば、それで心に潤いを感じる、、、ってのもちょっと変だと思うが、精神的に弱っているときというのは思いがけないハプニングが救いになることはあると思う。また、クリストフォロー自身も、最初はお仕事だったのが、だんだんベリンダの孤独を理解するようになり、お仕事を超えて“癒しのストーカー”に自らなっていくのだよね。

 2人が一切会話を交わさない、というのがミソだと思う。もし、2人があれこれ喋っていたら全然違う展開になっていただろう。

 ベリンダの浮気(?)相手がクリストフォローその人だと知ったチャールズが憤ってクリストフォロー宅に殴り込みに行くシーンが可笑しい。ベリンダもやって来て、クリストフォローを見ると、チャールズに「この人よ!」と言うときのミア・ファローの顔が可愛い。ただでさえ大きな目が、それこそ眼球がこぼれ落ちそうなくらい、驚いて見開かれる。

 クリストフォローが探偵で、しかもチャールズが雇ったと知ったベリンダは怒って、チャールズとも破局か、、、と思われるが、ここでもクリストフォローが良い動きをする。

 結末はハッピーエンディングなんだけど、チャールズにクリストフォロー同様ストーカーをさせる、、、ってのが微笑ましいというか。クリストフォローが一生懸命チャールズを説得するシーンが、割と感動する。ちょっと涙が出ちゃいました。

 ベリンダは、夫婦になっても恋人同士みたいにしていたい!って言うわけだけど、これを、男と女の結婚観の相違、みたいに捉えているネット上の感想を見た。まあ、ありがちな受け止め方だと思うけど、念のため、野暮は承知で、一応それは違うと言っておこう。男と女の相違ではなく、個人の価値観の相違です。

 男でも恋人時代の延長をしたいと言う人もいる。女でも、結婚前から落ち着いちゃっている人もいる。

 結婚は日々の生活だからね、、、。ベリンダも、そのうち分かるでしょう。そして、彼女自身、恋人同士みたいなやりとりが面倒臭いと感じる日が必ず来るでしょう。結婚生活の真価が問われるのは、それからだと思うね。

 本作は、そんな辛辣なリアリティなど棚に上げたラブコメなのだから、これはこれで良いのです。後味の良い逸品でした。

 

 

 

 

 

 

 

 


ベリンダが見ていたホラー映画を見たい。

 

 

 

 

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プロミシング・ヤング・ウーマン(2020年)

2021-08-01 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72951/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。

 ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。

=====ここまで。


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 無症状感染者が、きっと街中にたくさんいるんだろうなぁ、、、と、映画を劇場に見に行くのも気が引ける昨今。とりあえず、新宿・渋谷は行く気がしないけれども、平日の銀座や日本橋なら、まあいいか、、、と、根拠のない予測に基づき、本作と、午前十時の『シャイニング』をハシゴで見て参りました。

 『シャイニング』はまた後日感想を書くとして、まずは本作の感想から。


~~以下ネタバレバレなので、よろしくお願いします。~~


◆キャシーの行動について

 キャリー・マリガンが割と好きなのと、彼女のヘンテコなコスプレ画像に惹かれて見に行った次第。予備知識はほぼなく、彼女が何やら復讐する話らしい、、、程度。

 で、見終わった直後は、正直なところ、頭の中が混沌とした感じだった。内容がかなりヘヴィなのに、語り口は軽やか、色合いもポップ。実際、笑えるシーンも多く、思わず“ぷっ”となってしまったのは1度や2度ではなかった。この内容と見た目のギャップについて、私の場合、脳内補正するのにかなり時間を要したのだと思う。

 上記あらすじにある「ある事件」とは、キャリー・マリガン演ずるキャシーの大親友ニーナが泥酔してしまい周囲の男子学生たちに暴行された事件のことで、ニーナは事件後の学校の対応やら周囲の反応やらに絶望し、自殺してしまい、キャシーは10年経ってもそれらのことを引きずっている。それ故、キャシーは、夜な夜な泥酔した振りをして、下心の塊と化した男を釣り、男がいざコトを起こそうという段になって、素面になって男を萎えさせる、という実に危険かつみみっちい復讐劇に身を投じているのだ。

 私が一番引っ掛かったのは、キャシーのこの行動。いくら大親友を亡くしたとはいえ、自身を危険にさらしてまで10年経ってもそんなことをするなんて、、、と思ったのだよ。

 でも、見終わって時間が経つにつれ、私がキャシーでも、大親友がそんな目に遭い、社会から二次被害を受け、自死してしまったとしたら、その後、平然と事件以前の環境に戻っていくのは難しいかも知れないと思うに至った。ニーナに乱暴した男たちは、同じ大学の学生たちで、ニーナを絶望させたのはその大学のお偉方や同級生たちなのだ。加害者たちがウヨウヨしている環境に、被害者の大親友であった自分の身を置くことの難しさは、想像を絶する。

 本作を見ているときから感じたが、キャシーは復讐をしている自覚はあったろうが、それと同時に、釣った男にまかり間違って殺されても仕方がない=最悪死んでもイイ、、、くらいに思っていたのではないか。危険でみみっちい復讐の真似事を繰り返すことで、10年前にニーナを救えなかった自分に継続的に制裁を加えていたんじゃないかね。だから、死という結果を恐れていなかったのではないか。

 けれど、ライアンという存在が現れたことで、キャシーは生きることに意味が出来てしまう。だから、ライアンときちんと付き合い始めると、復讐の真似事はしなくなる。その代わり、もっと直截的な、真の復讐行為に出るのだ。

 真の復讐とは、ニーナを直截的に傷つけた人々をちょっと脅して抗議し、「忘れてないぞ」と印象づけることと、キャシー自身の気持ちに区切りをつけることだった。一人、また一人と復讐を成し遂げ(といっても、まあ実害はほぼないものばかりなんだが)、第三の復讐まで終えたところで、キャシー自身は「もう終わりにしてもいいか、、、」と思った様子だった。

~~以下、結末に触れています~~

 が、キャシーに生きる意味を与えてくれたライアン自身が、ニーナを男たちが乱暴した現場にいたことが分かり、再び、死んでもイイに思考回路が戻ってしまったのだ、多分。でなければ、終盤の怒濤の展開はちょっとあり得ない。

 そして、そのように(キャシーが死んでもイイと思っていたこと)考えれば、本作は非常に腑に落ちるものとなる。これをシリアス一辺倒で描いたら、重すぎて見ていられないが、ポップな見た目にすることで、エンタメとして仕上がっているし、多くの人が見ることとなる映画になった。

 監督のエメラルド・フェネルは、長編は初めてというが、デビュー作でこれだけの意欲作を撮ったというのは驚き。脚本でオスカーをゲットしたというのも納得。次作が期待されるが、プレッシャーも大きくなりそう。まあ、そんなものを軽々と超えちゃいそうな感じもあるけれど。


◆キーワードは“朦朧”

 で。本作の大事な主旨だけれども、「泥酔した女をヤッてイイ」or「泥酔した女はヤラれてもしょーがない」という万国共通(?)の不文律である。

 日本でも、デートレイプドラッグによる性犯罪が問題になっているが、クスリだろうが酒だろうが、それで意識が朦朧としている女性を犯して、犯す方は気持ちイイんですかね?? って前から疑問に思っていたんだが、本作を見て少し分かった気がする。朦朧としているからこそヤリ甲斐があるんだな、と。完全に意識がないのではなく、“朦朧”がミソなんだと。

 完全に意識がなければ人形とヤッているのと同じでつまらんし、素面では激しく抵抗されるからメンドクサイけど、“朦朧”だとフニャフニャしてるけど動いているし抵抗もむしろ合意と受け取れるくらいの「イヤよイヤよも好きのうち」と脳内変換できるレベルであるから、断然ヤリ甲斐があるのだね。 

 それが証拠に、キャシーが突然素面に戻ると、釣られた男たちの顔には一様に恐怖が浮かぶのだ。「酔ってなかったの??」「酔ってたんじゃないの??」と言って。

 ネットの感想を拾い読みすると、案の定「大人の女性が泥酔すればレイプされるかもと想像するのは大人として当然。それができないで被害女性には問題がないと決め付けるのはおかしい」とか、これに似た感想を書いている人はいるんだよね。

 まあ、これについては書き出すと長くなるからやめておくけど、極端な話、裸同然の格好で泥酔してそこに寝ている女性がいても、レイプしちゃあかんのですよ。人権侵害で犯罪なんです、それは。レイプした方が悪いんです、100%。どんな格好で泥酔していようと、レイプされてもしょうがない人間なんていないんですよ、ってこと。分からないのかな、ホントに。


◆ラストとかもろもろ、、、

 また、本作は、傍観者を厳しく批判する映画でもある。ライアンは実行者ではなく、傍観者だった。キャシーにその証拠を突き付けられたとき、ライアンは奇しくも「僕は何もやってない!」と言う。それを聞いたキャシーの絶望感は察するに余りある。だからこその、あのラストの展開になるのだよね。

 結局、あのラストは、キャシーの「死んでもイイ」が、「もう死んでやる」になった、ってことなんじゃないか。ライアンの件が致命的だったのだと思う。これからの人生に希望を見出しかけたところでの奈落。そりゃ、生きていたくなくなるだろう、という気がする。あのラストには賛否あるようで、否定派は「死んじゃった、、、」という受け止めなんだが、「死んでやった」んだよ、キャシーの真意は。

 キャリー・マリガンは、人生を半分放棄したやつれた感じがよく出ていて、それでいて可愛いという、不思議な雰囲気をうまく出していた。途中、ライアンとラブラブな感じになるところはまたガラッと雰囲気が変わり、そして、ラストへ向けて、、、、と、コロコロと変わるのが演じるのも大変だったろう。

 ライアンも、ずーーっと面白くてイイ人で素敵だったのに、傍観者であったとバレた後は豹変、まったくの卑劣漢に見えるという、演じたボー・バーナムが素晴らしい。コメディ出身と聞いて納得。

 何かの感想で「復讐劇は嫌い」と書いたが、やっぱり、復讐は虚しいよ。キャシーが事件のことを引きずって、忘れないのは、自分の意思でもあるし、忘れようとする必要はない。けれど、陳腐なのは百も承知だが、ニーナの母親が言っていたように、キャシーには彼女自身の人生を生きて欲しかった。キャシーの両親の気持ちを思うと、いたたまれない。

 最後の最後でちゃぶ台返しなことを書いてしまいましたが、まあ、偽らざる本音です。

 

 

 

 

 

 

 

タイトルは、プロミシング・ヤング・マンとして無罪放免された加害者に対するアンチテーゼです。
  

 

 

 

 

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ブータン 山の教室(2019年)

2021-05-15 | 【ふ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv71638/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 現代のブータン。教師のウゲン(シェラップ・ドルジ)は、歌手になりオーストラリアに行くことを密かに夢見ている。だがある日、上司から呼び出され、標高4,800メートルの地に位置するルナナの学校に赴任するよう告げられる。

 一週間以上かけ、険しい山道を登り村に到着したウゲンは、電気も通っていない村で、現代的な暮らしから完全に切り離されたことを痛感する。学校には、黒板もなければノートもない。

 そんな状況でも、村の人々は新しい先生となる彼を温かく迎えてくれた。ある子どもは、「先生は未来に触れることができるから、将来は先生になることが夢」と口にする。すぐにでもルナナを離れ、街の空気に触れたいと考えていたウゲンだったが、キラキラと輝く子どもたちの瞳、そして荘厳な自然とともにたくましく生きる姿を見て、少しずつ自分のなかの“変化”を感じるようになる。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 予告編を見て、これこそスクリーンで見るべき映画だろう、、、と思って、久々の岩波ホールへ。緊急事態宣言下で、座席は1席開け。確か、つい最近改装工事をしたはずだが、受付の位置が変わったこと以外、パッと見ではどこが変わったのか分からなかったです。座席を総入れ替えしたとTwitterには出ていたような、、、。

 それはともかく、GW中だったせいか、思ったより人が入っていて驚き。そして、やっぱりスクリーンで見て正解の映画でした。


◆アクセス:徒歩6日

 ウゲンがルナナに辿りつくまでに、映画開始から多分、20分以上経っていたんじゃないかしらん。普通、こういう甘ったれ若者成長譚の場合、開始して間もなく目的地に主人公はいるはずなんだが、ルナナはそんな甘い場所ではなかった。

 電車で最寄りの駅まで行き、そこからバスで延々山道を行く。着いたのかと思うと、そこに村から迎えの男性が来ていて「ここから6日間かかります」とか言う。そして、実際、6日間、道なき道を徒歩でルナナまで行くのである。

 この道行が既にもう物語になっているのだよね~。ウゲンは、早々に弱音を吐き、道中はず~~~っとヘッドフォンを着け、地元で「ブラピもアメリカで履いている」という宣伝文句につられて買った完全防水のはずの高級ブーツがびしょ濡れになり、、、と、いくら渋々赴任するとはいえ、これから僻地で教師を務めようという人には到底見えず、ヤワな旅行者って感じ。最初は可笑しかったけど、ず~~~っとそんな調子だから、だんだん見ていてイラッとなった。

 村に着くちょっと手前で村長始め村人総出で新任の先生をお出迎え。ここで、少しはウゲン君も教師をやる気になるかな~、、、と思って見ていたら、村に着くなりウゲン君、村長さんに言った。「正直に言います。私にはムリです。帰りたいです」……ホント、正直ね。

 ウゲン君、そらねーだろ、、、と思ったら、村長さんはさすが村長だけのことはある。「……そうですか、では迎えの者たちとロバを休ませて、1週間後に町まで送らせます」と、少し残念そうだけど、非難がましいところは一切なく、穏やかに言うのだ。私が村長だったら「えーー、、、そんなこと言わないで頑張ってよ、せっかく歓迎したのに、、、、」と思いっ切りガッカリ感を出して言ってしまうわ。この辺が人間の器の差ですね。

 しかし、この「ロバたちを休ませる」時間というのがミソ。一晩寝た翌朝、戸を叩く音が。寝起き丸出しの体でウゲン君が戸を開けると、そこには、……何ということでしょう! 可愛い女の子が。「授業は8時半からです。今、9時半です。なので先生をお迎えに来ました」と礼儀正しくその女の子は言う。こんな状況になったら、教室に教師として行かざるを得ないわね。

 こうして、ウゲン君を送りに出る準備が整うまでの1週間で、ウゲン君の気持ちが変化するのでありました、、、。


◆子供はやっぱり最強。

 その女の子は、本名と同じペム・ザムという名で、学級委員だけあって賢そうでしっかりしている。が、彼女の両親は離婚しており、母親は遠方にいるらしく、父親はアル中という厳しい家庭環境だとか。お父さんが泥酔して道端で転がっているシーンもある。

 ルナナには電気もないので、テレビもなければネット環境もなく、まさに陸の孤島みたいな現代社会からは隔絶された場所である。ブータンは英語で授業をするのが普通だそうなので、子どもたちは英語を理解するが、carという単語は分からない。なぜなら、村には車がないから、、、。

 で、村長さんが「先生を送る準備が出来ました」と知らせに来るんだが、ウゲン君は冬が来るまで仕事をする気になったのだった。子供たちとも親しくなって、歌声のキレイな女性ともちょっとイイ雰囲気になって、ウゲン君は僻地での教育もまんざらではない様子。けれども、やはり本格的な冬になって山が雪で閉ざされる前に、ウゲン君は山を下りることに。

 子供たちには「また来てね」と言われ、歌う女性にも名残惜しがられるが、ウゲン君のオーストラリアへの夢は消えていなかったのだね。終盤は、ウゲン君が実際にオーストラリアに渡り、どこかのバーみたいなところでアルバイトでギター片手に歌っているシーンになる。けれど、ウゲン君、何を思ったのか、突然、ブータンで女性が歌っていた「ヤクに捧げる歌」を歌いだす、、、みたいな感じで終わる。

 まあ、割と終始想定内の展開で、ラストに至っても意外性はないものの、ルナナの素晴らしい景色を大スクリーンで見れば、心洗われ、東京の片隅でちまちましたことに右往左往している自分がアホらしく感じてくる。

 そして、可愛い子供たちの様子には思わず頬が緩む。ペム・ザムちゃんはウゲンに自己紹介するときに「大きくなったら歌手になりたい」と言う。ウゲンが「じゃあ、何か歌ってみて」と言って、ペム・ザムちゃんが歌った歌と彼女の可愛らしさのギャップが笑える。彼を見ると胸がざわざわ、わたしとつきあっちゃえば?!(正確じゃありません)みたいな恋の歌。

 教室には大きなヤクがいて、ヤクをバックに子供たちが暗唱している画は、とにもかくにも微笑ましい。ウゲン君が、ルナナへの道行きでの仏頂面がウソのような笑顔になっているのも面白い。

 こういう映画は、これで良いのだ。ヘンに捻っていないところが却って良い。


◆あなたはヤクです。

 それは良いんだが、冬になったら先生は村から町へ降りてしまうので、当然学校も閉鎖となるんだろう。このルナナでの教育は、パンフによれば3学年までの“不完全な学校”しかないとのこと(ブータンは小学校は7年制)。ウゲン君の話としては成長物語だが、ルナナの子供たちの目線で見れば、教える内容もかなり初歩的なものばかりだし(子供たちは皆素直で賢そうだから、あんな授業内容で本当に満足しているのか?という疑問が湧いた)、やはり、あの教育環境はあまり良いとは言えないかも知れない。

 学を得て、山から下りてサバイバルすることだけが良い生き方ではないので、不完全な学校でも、そこで幸せに暮らせていればそれでいいじゃないか、という理屈もそのとおりだと思う一方で、やはり、教育は大事だろうとも思う。パンフを読むと、このような村の子供たちは、3学年まで学んだあとは、県庁所在地等にある学校に転入し、寮生活を送りながら勉強するんだとか。しかも、自動で進級できないので、落第も容赦ないらしい。なるほど、ある意味、日本の義務教育よりシビアだね。

 本作を見終わって思い出したのが、大昔に読んだ篠田節子氏の小説(別にこの小説が気に入った、というわけじゃないんですが)。タイトルが思い出せなかったので調べたんだけど、『長女たち』所収の「ミッション」。ある中年の女性医師が、辺境の地(インドのヒマラヤ地方らしい)に赴任して、様々な不可思議な出来事に遭遇するという話。本作とはゼンゼン内容もテーマも違うんだけど、その村は村で完結していたのに、先進国から西洋医学を持ち込もうとすることで生じる村人との微妙な軋轢を描いているオハナシだった。けど、たしかその小説の結末も、だから、辺境の地は自己完結させておけばよい、というのではなかった気がする。もう一度読んでみようかな。

 ルナナ=Lunanaとは、「闇の谷」「暗黒の谷」を意味するのだとか。現在も電気は通っておらず、本作の撮影で初めて「映画」というものを知った村の人々も多かったとか。

 ウゲンが山を下りる前に、村長がウゲンに言う。「ブータンは世界で一番幸せな国と言われているそうです。それなのに、先生のような国の未来を担う人たちは幸せを求めて外国へ行くのですね」……このシーン、泣いてしまった。いや、感動してではなくて、何かこう、、、胸が痛んだというかね。人として、根本的な問を突き付けられている感じがして。村長の抑えた話し方や振る舞いが、より一層、説得力を感じさせられた。

 そのときの会話で、ウゲンが村長に「私の前世はヤク飼いだったのかも知れません」と笑って言うと、村長は大真面目に「いいえ、先生はヤクでした」と答える。劇場でも笑いが起きたが、これはもちろん、村長のウゲンに対する最大の賛辞。ヤクはルナナの人にとって、命と同じくらい、神と崇めるほど大切な存在なのだ。ユーモアのあるシーンに見えるが、きっとブータンの人にとっては感動のシーンなのかも知れない。

 

 

 

 

 

 


ブータン、、、また行きたい国が増えました。

 

 

 

 


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ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972年)

2020-11-24 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12392/

 

 まあまあリッチな男女6人が、なかなか食事にありつけない、ようやく食事を始めたかと思うと邪魔が入る。そして、6人は田舎の一本道をひたすら歩き続ける、、、。

 ブルジョワを虚仮にしまくる……ブニュエルさまならではの作品。


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 あらすじを書こうにも、書きようがないのでヘンな紹介文になってしまい、すみません。

 本作は『皆殺しの天使』(1962)のコメディ版とも言われているらしいのだが、言われてみればそうなのかな、、、という気もする。不条理度で言えば、確かにイイ勝負。

 この映画は、あれこれ小難しいことを考えるよりも、はぁ? という感じの笑いを素直に受け止めて、ブニュエル節に流されるがままに見ていた方が楽しいと思う。それくらい、ストーリーを追うことに意味がない。

 『皆殺しの天使』では、色々考えさせられたけれど、本作の場合、あまりにもバカバカしすぎて、むしろ、ブニュエルがよくこんなヘンテコなシナリオを書いたもんだと、呆れるような感心するような、、、。

 で、この脚本をブニュエルと共同で書いているのがジャン=クロード・カリエールなんだが、この人は、いろんな監督の脚本を書いている(しかも共同で)。ハネケの『白いリボン』から、ミロス・フォアマンの『宮廷画家ゴヤは見た』まで、実に守備範囲が広い。『存在の耐えられない軽さ』も、監督と書いている。そして、その大半が傑作・名作なんだから、スゴいとしか言い様がない。戯曲も書いているようで、なるほど、、、という感じ。

 主役カップルの夫・セネシャルを演じたジャン=ピエール・カッセルが若くて、ヴァンサン・カッセルとそっくり。いや、ヴァンサン・カッセルがそっくり、、、なんだが。そして、セネシャルの妻を演じたステファーヌ・オードランが非常に魅力的。このカップルが素敵だったなぁ。テブノ夫人の デルフィーヌ・セイリグも美人。

 密かに別の相手と浮気していたり、客を待たせてセックスしていたり、、、と、食欲と性欲がメインだけど、終盤はなぜかテロリストとかも出て来て、不条理な暴力も描かれる。そういえば、『皆殺しの天使』でもそうだった、、、。

 ブニュエル作品は、本作を始め、メキシコから戻ってからの作品に話題作が多いみたいだけど、私が衝撃を受けたのは何と言っても『忘れられた人々』。ショックで見た後1週間くらい、引きずったというか、立ち直れなかった、、、。かと思うと、変態映画『小間使の日記』もあるし、『愛なき女』なんていう安っぽいメロドラマも撮っているし、かなり振れ幅があるのが面白い。ジェラール・フィリップの『熱狂はエル・パオに達す』、昔BSで放映していたのをVHSに録画したんだけど、そのビデオが行方不明になってしまって今に至るまで見られずじまい、、、。どこ行ったんだ、、、。

 ……と、感想を書きようがない作品だったんで、余計なことを書いてしまいましたが、本作は面白いので見て損はないと思います。
 

 

 

 

 

 


ブニュエル版『嵐が丘』が見たい。

 

 


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ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(2019年)

2020-09-21 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71332/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 成績優秀な優等生で親友同士のエイミー(ケイトリン・デヴァー)とモリー(ビーニー・フェルドスタイン)。ところが、高校の卒業前夜、遊んでばかりいたはずの同級生がハイレベルな進路を歩むことを知り、2人は自信喪失してしまう。

 失った時間を取り戻そうと、卒業パーティーに乗り込むことを決意するエイミーとモリー。だがそんな彼女たちに待ち受けていたのは、怒涛の一夜だった……。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 予告編を何度か見たときは、「あー、アメリカのハイスクールもんね、はいはい……」って感じで、ゼンゼン見たいと思っていなかったんだが、精神科医の斎藤環氏がTwitterで絶賛しているのを見て、そこまで言われると見たくなるなぁ、、、と思いつつ、斎藤先生の絶賛する映画は私的にはそれほど、、、ってのがパターンなので、これもそうかも知れないから、やっぱ見に行くのやめとこっかなぁ~、などとウダウダ迷いつつ、結局見に行った次第です。


◆イジメとスクールカーストが全く出て来ない。

 見た後知ったんだが、本作はプロの批評家が軒並み高評価をしているみたい。斎藤先生と評価ポイントは大体同じ。まあ、そこを好意的に捉えられるか否かは、好みでしょうな。好意的に捉えられないことを批判しているネットの反応などをいくつか見たけど、それはちょっと違うだろ、と思う。

 つまり、本作は、アメリカのハイスクールもの(『25年目のキス』とか『ウォールフラワー』とか)のお約束であるクルマ、プロム(本作ではパーティだけど)、セックスは出てくるが、必須要素であるスクールカーストとそれに伴うイジメが一切出て来ないんである。

 で、好意的に捉えられない派の言い分としては「こんな良いヤツばっかの学校があるか!」ってこと。逆に、好意的に捉える派は、「イジメやらスクールカーストなんかでリアリティや共感を求めるのは安易だ! 大体、そんなん手垢つきまくりで、もう古い!!」って感じかな。

 どちらの言い分も分からなくはない。私自身、本作について面白いと思ったけれども、正直なところ、そこまでグッとくるものはなかった。斎藤先生が絶賛するほどには、私には刺さらなかった。

 イジメやスクールカーストを描いていなくてもリアリティのある面白い映画だから「志が高い」(by斎藤先生)とまでは思えない。イジメやスクールカーストで深刻に悩んでいる高校生たちは大勢いるだろうから、古かろうか手垢つきまくりだろうが、それを描くこと自体が問題だとは思わない。

 また、本作の舞台となる高校は、多分、学力的にかなりハイレベルの学校と思われ、ということはつまり、それなりの家庭の子たちが通う学校なわけだ。これは、アメリカに限らず万国共通、日本でもそうだと思うが、そこそこのレベルの進学校では、あまりスクールカーストやそれにまつわるイジメってのは見られないだろうと思う。残念ながら、子の学力と家庭の経済力には相関関係があることは実証されている。私が高校生だった30年以上前でも、今ほど分断が露呈していなかった社会だったが、そういう傾向はあったのだから。勉強が出来ても性格の悪い人間はゴマンといるが、スクールカーストで見栄を張り合ったり、組織だってイジメたりする必要がそもそもないのだ。イヤな言い方をすれば、ある程度のカースト上位の子たちの集まりだ、ということ(もちろん、それでもそういう学校に陰湿なイジメが全くないとは思わないが)。

 だから、良いヤツばっかであり得ん!というのも、本作の場合はちょっとズレている気はする。そもそもそういう環境なんだよ、ってことなわけで。


◆青春するぞ!

 本作のモリーも、お勉強は出来るが性格は悪いという、進学校にいる典型的な秀才ちゃん。嫌われてはいるが、いじめられてはいない。これは、モリーが勉強一筋で、周囲を見下してはいても、実害を与えるようなことはしていなかったってことだろう。そう、勉強一筋さんは、イヤなヤツでも周りに迷惑を掛けるわけじゃないので、別にターゲットにはならない。

 しかし、モリーは、自分が見下していたヤツらが、軒並み名門大学に進学すると分かって、愕然となる、というところから本作のストーリーは展開する。確かに、これは衝撃だよなぁ。私は、大学に入ってからだったが、自分より遙かにお勉強も出来たであろう方々が、自分より遙かにいろんなことに詳しくて視野も広いということに、プチ・カルチャーショックを受けたもんねぇ。私は、モリーと違って、勉強すらしていなかったが、それでも「私は18年間何をしていたんだろう、、、がーん!!!」となったものだ。

 モリーのすごいところは、そこで、「じゃあ、今から取り返すぞ! 青春するぞ!!」となれるところ。私は、プチ・カルチャーショックを受けたまま、何もせず漫然と過ごしていた(怠惰ってことなんだが)けれど、彼女のあの切り替えの速さはスゴいというか、面白い。

 監督のオリヴィア・ワイルドは、本作について、女子高生2人の冒険譚だと言っている。確かに、冒険だろう、これまで見向きもしなかった世界に飛び込んでいくのだから。

 冒険譚は確かに面白いが、私が良いなー、と素直に感動したのは、モリーとエイミーの関係だ。終盤、この2人にとって恐らく初めてであろう大喧嘩をするんだが、ここで、2人の関係がいろいろ微妙な要素を含んでいたことが明らかになる。仕切りたがりでお節介なモリー、マイペースでおおらかなエイミー、に見えたけど実際は……、という2人の積年の思いをぶつけ合うところはジーンとなる。

 大喧嘩の後、翌日の卒業式のラストシーンまでの展開は、これぞザ・青春映画という感じで、この辺りで感動できるか否かで本作に対する印象が変わってくるだろう。

 結局、モリーもエイミーも、この冒険で苦い思いをすることになるのだが、この辺は割とよくある話かな。そうして、それぞれに決めた道へと進んでいきます、、、というラスト。鑑賞後感は非常に爽やかです。

 監督は、「高校時代は人生において特別な最も重要な時期」みたいなことも言っている。これは、ちょっと首肯しかねるが、まぁアメリカ映画見ているとそうだろうなぁ、とは思う。5年後、10年後のモリーとエイミーがどうなっているか、見てみたい。


◆その他もろもろ

 本作の高評価の要素としてさらに指摘されているのが、下ネタ満載なのにPCにまったく引っ掛からない、というところ。コンドームに水を入れて水風船みたいにして飛ばし合いしたり、ポルノ映像を大音量で見たり、、、と、色々あるのだが、確かにお下劣にはなっていないどころか、面白く笑えるようになっている。

 また、エイミーは同性愛者で、両親にもカミングアウトしているし、当然モリーも承知の上だ。ごく当たり前のこととして周囲がそれを受け止めているという点でも、本作は評価が高い。監督は、ステレオタイプな悪役を置かないことに配意したと言っているが、まあ、確かに分かりやすい嫌なキャラ、ってのは出て来ないし、いわゆる“多様性”が具現化された世界を描いているところも今の時流を捉えたものだろう。

 モリーを演じたビーニー・フェルドスタインが、圧倒的な印象の見た目で、このキャスティングで本作は半分成功しているみたいなもんでしょ。あの『レディ・バード』にも重要な役どころで出演しているのだとか。『レディ・バード』、、、ちょっと敬遠しているんだけど、見てみようかな。ちなみに、某新聞の評では、オリヴィア・ワイルド監督は、グレタ・ガーウィグに続く、女優出身の将来が楽しみな映画監督だと書いてあった。

 エイミーのケイトリン・デヴァーがスゴく可愛かった。密かに思いを寄せている女の子に、これまた密かに失恋してしまうところのシーンは素晴らしい。プールの中で、、、っていうシチュエーションが抜群だと感じた。

 一番可笑しかったのは、ピザ屋の親切なおじさんが、実は殺人鬼で指名手配犯だった、、、ってところ。あの似顔絵が出て来たシーンで噴き出した。脚本もよく出来ているな~、と感心してしまった。

 ストーリー的にも、ちゃんと伏線回収されており、笑えるオチもある。安易な予定調和に陥ることなくラストまで突っ走るのは、そう簡単にできることではないと思う。だから確かに良い映画なんだと思うが、良い映画でも大してグッと来ない割に、世間の評価が高くて、ちょっと気持ち的に引いてしまっている。ほとぼりが冷めて、DVD化された頃に、もう一度見てみようかな。

 

 

 

 

 

 

パンダのぬいぐるみが、、、、

 

 

 


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ぶあいそうな手紙(2019年)

2020-09-20 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71203/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ブラジル南部にあるポルトアレグレの街。46年前に隣国ウルグアイからやって来た78歳のエルネスト(ホルヘ・ボラーニ)は、頑固で融通がきかず、本とうんちくが好きな独り暮らしの老人。

 ところが、老境を迎えた今は、視力をほとんど失っていた。後はこのまま人生が終わるだけ……。

 そう思っていた彼の元にある日、一通の手紙が届く。差出人はウルグアイ時代の友人の妻。視力の低下により、手紙を読むことができないエルネストは、偶然知り合った若い女性ビア(ガブリエラ・ポエステル)に代読を依頼する。その代読と返事の代筆を通して、エルネストの部屋にビアが出入りするようになるが……。

=====ここまで。


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 予告編を何度か見て、まあまあ面白そうかもとは思ったけれど、何となく展開は想像つくし、劇場に見に行くまでもないな、という感じだった。けれど、平日の午前中にぽっかり時間ができてしまい、上映時間がちょうどぴったんこだったので、それならばと見ることに。

 まぁ、想像の範囲を大きく超える展開ではなかったけれど、思っていたよりは味わいのある逸品だった。良い映画だとは思うのだが、何かこう、、、見てから1週間以上経つんだけど、特に感想として書きたいことが浮かんでこない。

 ただ、ちょっと思うところもいくつかあったので、書き留めておこうと思う。

 本作の紹介で、エルネストのことを、頑固爺みたいに書いているものがあったけど、息子に「そんな身体で一人じゃムリだ」と言われて「はいはい、仰せの通りにいたします」とすんなり言う親がいるだろうか? いるかも知らんが、少数派だろう。老いて身体が思い通り動かせなくなり「一人じゃムリかも」とは薄々自覚していても、住み慣れた家を離れたくないだとか、子の世話になんぞなりたくないだとか、そりゃあ親にだって色々思うことがあるのは当たり前だろう。それで頑固爺ってのは、ちょっと違う気がするゾ。

 むしろ、このエルネスト爺さんは、思考は柔軟で、若者の無謀さを安易にたしなめることなく容認できる人だ。ビアが嘘をついても、金をくすねても、顔にアザを作ってきても、男を連れ込んでも、頭ごなしに叱ったり責めたりしない。もちろん、ビアが訳ありだと勘づいていたからだろうが、それにしたって、嘘をつかれたら追及するし、金を盗られたら普通は糾弾するよなぁ。ビアが宿無しだと分かると、息子の部屋に泊めてあげ、「いつでもおいで」と言って送り出す。こんな親切な爺さん友達、いたら有り難いかも。でも、現実には、こんな下心のない親切な爺さんはいない(断言)。

 ビアも、最初こそエルネストを利用しようとしていたが、彼の見返りを求めない親切に心を動かされたのだろう。やはり、見返りを期待する好意なんてのは、相手に見透かされる。所詮知れているってことだ。

 エルネストは、ビアに手紙を代読してもらうだけでなく、返事を代筆もしてもらう。友人の妻宛だけでなく、ラストは、息子に対する手紙をビアに代筆してもらう。その、息子への手紙の内容が、結構泣ける。こんな手紙を親からもらったら、嬉しいというより、ちょっと辛いだろうなぁ。こんな手紙を親からもらう息子は幸せだ。

 最終的にエルネストがどういう選択をしたか、、、は、ここには書かないけれど、微笑ましい結末になっている。今やコロナで大変なブラジルの映画だが、エルネストの暮らすアパートもなかなか素敵だし、アパートのある地区も趣があって美しい。wikiによれば、「ヨーロッパからの移民が多く、ヨーロッパ風の建物が多い」とのことで、納得。

 心温まるほんわか系とはちょっと違う、苦みのある、暖かい映画。見た後の感覚と、感想で書くことが具体的に浮かばない、というギャップが、自分でもちょっと珍しいと感じる。何故かは分からないけど、、、。

 

 

   

 

 

 

エルネストの書斎が素敵。

 

 

 


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ファヒム パリが見た奇跡(2019年)

2020-08-21 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71141/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 天才チェス少年として有名な8歳のファヒム(アサド・アーメッド)と父親は、母国バングラデシュを追われ、家族を残してフランス・パリへとやって来る。だが到着してすぐ、強制送還の可能性に怯えながら、亡命者として政治的保護を求める戦いが始まった。

 そんななか、ファヒムはチェスのトップコーチであるシルヴァン(ジェラール・ドパルデュー)と出会う。独特な指導をするかつての天才チェスプレーヤーでもあるシルヴァンと、明晰な頭脳を持ち口達者なファヒムはぶつかり合いながらも、次第に信頼関係を築いていき、チェスのトーナメントを目指すのだった。

 だが、移民局から政治難民としての申請を拒否されたファヒムの父親は、身の置き所が無くなり姿を消してしまう。

 ファヒムの強制送還が迫るなか、チェスのフランス国内大会が開催。解決策はただ一つ。ファヒムがチェスのフランス王者になることであった……。

=====ここまで。

 

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 本来、あまりソソられるジャンルではないのだけれど、某新聞での映画評がやたら褒めちぎっていたので、何だかそこまで言われたら見ないといけないみたいな気になってしまって、見に行った次第。ドパルデュー(以下ドパ)が善い人役で出ているってのも興味を引かれた理由の一つかな。ドパのことは別に好きじゃないんだけど、、、。


◆『リトル・ダンサー』と同じではないか。

 うぅむ、、、確かに良い映画だと思うし、新聞の評は決して“盛って”いないと思う。けれども、私としては、今一つグッとは来なかったのでした……。

 貧しい家庭の少年が、その才能を見出しで延ばしてくれるユニークな大人に出会い才能を開花させて、逆境から這い上がる足掛かりを得るサクセスストーリー、、、と言えば、あの『リトル・ダンサー』と同じなんだよね。しかも、母親不在で、父と息子の物語であるところも同じ。

 少年も、才能を伸ばしてくれるユニークな大人も、どちらも魅力的なキャラで、映画としての作りも奇をてらわずに王道を行っている。彼らの周囲の人間たちも、基本的には善人で、心温まる作品になっている。

 なのに、どーして本作は『リトル・ダンサー』ほどグッと来なかったんだろう……、と考えた。


◆難民・移民問題

 そして行き着いた結論として、大きな理由は2つかな。

 1つは、多分、本作は、背景に“難民・移民問題”があるから、という気がする。『リトル・ダンサー』の炭鉱閉山も深刻なんだが、やはり、命の危険を感じて故国を棄て亡命を目指して外国(フランス)へ渡るというのとは、同じ深刻でも意味が違う。しかも、フランスに来ればもう大丈夫!ってわけではゼンゼンない。というより、フランスに来てからも苦難続き。

 ファヒムは子どもで柔軟性に富んでいる上、チェスで鍛えられているその抜群の記憶力を背景に、どんどんとフランス語を吸収し、チェススクールの仲間とも親しくなり、パリでの居場所を着実に作っていく一方で、父親は仕事にも恵まれず、パリで自分の居場所を見付けられないが故に、現地の人間との交流も全くなくフランス語をいつまで経っても理解できないでいるので、父親の孤立が際立つ。

 役所で、亡命申請する際も、インド人に通訳をしてもらうが、この通訳はインド人の申請を優先したいがために、ファヒムの父親にデタラメな通訳をするのである。アッと言う間にフランス語を理解するようになったファヒムが、通訳がインチキだと見抜いたが、結果的に申請は却下され、ファヒム親子は不法移民となる。

 こういう、境遇の厳しさが、どうしても見ている者に暗さを感じさせるのは否めない。

 だから、ラストも、ファヒムがチャンピオンになって一転、申請が認められることになった(強制送還を免れたというだけだが)という展開も、あまりカタルシスを得られない。ファヒム親子が特別扱いで辛うじて救われただけであり、その他大勢の同様の境遇にある難民たちは、依然として不法移民のままである。

 もちろん、『リトル・ダンサー』でも、ビリーだけがバレエの才能であの寂れた炭鉱街から羽ばたき、残された父親や兄は再び炭鉱の縦坑を降りていく、、、というシーンが描かれているので、同じなんだけれど。

 でも、『リトル・ダンサー』では見ている人の多くがカタルシスを得られたのではないか。そして、本作では得られない人が多いのではないか。その違いは、やはり、これが“難民・移民問題”という、国際問題であり、人権問題に直結しているからではないか、、、。

 監督自身、観客にカタルシスを感じさせたいとは思っていないだろうし、“カタルシス=グッとくる”ではないのだから、むしろこれはそういう映画なんだと受け止める方が良いのだよね。


◆やっぱりジェイミーは凄かった、、、ということ。

 2つ目は(こっちが最大の理由だと思うが)、やっぱり、ジェイミー・ベルが可愛すぎた、ってことかなと。あと、ジェイミーの躍動感溢れるダンスシーンがあまりにも素晴らしすぎたってこと。ファヒムを演じたアサド・アーメッドくんも可愛いんだけどねぇ。あと、題材がチェスってのも、ダンスに比べると動きが少ないからちょっと地味目よね。

 チェスの試合の描写では、あまりドキドキ感もなく、一応ライバルとの一騎打ちは描かれるけれど、割とアッサリとチャンピオンになるのね。

 ファヒム自身が、一人でチェスに強くなるために葛藤する、というシーンもほとんどない。良きコーチであるシルヴァンとも、終始良い関係で、こちらの2人の間にも葛藤がほとんどない。時間を守るという概念がなくて遅刻ばかりするファヒムに怒るくらい。

 強面の見掛けによらず、シルヴァンはバングラデシュのことを勉強してみたりと、善人そのもの。

 この辺りも、やはり『リトル・ダンサー』の方が、構成としては一枚上かな、という気はする。

 とはいっても、もちろん、本作は真摯に作られた良作に違いない。少年の才能を開花させるシルヴァンを演ずるドパも、さすが名優、ハマっていた。前述の新聞評では、以下のように書かれていた。

変わり者のコーチのドパルデューが実にいい。渋くて、艶があって。/この作品で重要なのは、監督の登場人物に対する眼差しがそれは優しいことだ。観客の心を蕩かす。/監督の心根が泣かせる。/「私は、おとぎ話を固く信じ続けている」

 確かに、本作は、一種のおとぎ話。でも、実際にあったおとぎ話なんである。

 

 

 

 

 


天才・藤井聡太君で注目の将棋と、チェスは、

同じ古代インドのチャドランガというボードゲームが起源だそうな。

 

 



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袋小路(1966年)

2020-07-25 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12146/

 

以下、TSUTAYAのHPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 外界と遮断される孤島の古城に、再婚した若い妻・テレサと住んでいた初老男・ジョージ。ある日、島に強盗をしくじって負傷したふたり組の悪党・リチャードとアルバートが逃げて来て…。

=====ここまで。

 初老男・ジョージをドナルド・プレザンス、若い妻・テレサをフランソワーズ・ドルレアック、悪党・リチャードをライオネル・スタンダーと個性派がズラリ、しかも監督はポランスキー。


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 不覚にも、ドナルド・プレザンスがポランスキーの映画に出ていたとは知りませんでした。しかもドルレアックと夫婦役とな?? とにかく、ドナルド・プレザンス+フランソワーズ・ドルレアック+ポランスキーの映画なんて見ないわけにはいかんでしょう、、、と、見てみました。


◆アンバランスな夫婦と闖入者

 冒頭から、なんかもう色々とヘンで、一体何が起きるのやら、、、、と興味津々になる。

 ゼンゼン雰囲気も展開も違うけれども、見ていてハネケの『ファニーゲーム』を思い出してしまっていた。いや、ジャンルとしては同じでしょ。突然、見ず知らずの怪しい男たちに侵入されて生活をメチャメチャにされる、、、っていう。ただ、本作は、ゲームではなくて、あくまでもリアルという話で。しかも、本作はサスペンスにカテゴライズされているけど、見終わってみれば、ブラックコメディでしょ、これ。

 プレザンスとドルレアックという、実に巧みな配役で、このカップリングの違和感が十分出ているのがミソ。実際、ドルレアック演ずるテレサは、近所の青年とヨロシクやっている。そしてまた、夫であるジョージにも破天荒な妻そのまんまで、ジョージにネグリジェ(死語?)を着せた上に口紅まで塗るというおふざけをして、さらにその異様な姿になった夫を見てゲラゲラ笑っている。これだけで、この夫婦の関係性が何となく分かってしまう。

 そこへ闖入してきたのがリチャードという、これまたアクの強いキャラ。乱暴者なんだか、意外に物わかりが良いのか、イマイチよく分からん。

 勝手に人んチの電話を使って首領にSOSの連絡をした後、電話線をぶった切ったかと思うと、テレサの浮気現場をバッチリ目撃していたにもかかわらず、夫に薄笑いを浮かべながらも「お前の女房、浮気してるゼ」などという野暮なことはチクったりしない。

 かと思うと、大怪我して動かせないからってんで相棒を車に残したまま、夫婦の城にある鶏小屋で堂々と昼寝なんぞしてしまう。その間に、車を置いてあった所は潮が満ちてきて、相棒が溺れそうになるとか、もう訳分からん展開、、、。その後、思い出したリチャードが、夫婦を引き連れて助けに行くんだけどサ。

 ドヌーヴ主演の『反撥』でもそうだけど、こういう訳分からん不穏な感じで話がどんどん進んでいくっていうの、ポランスキーは天才的に上手いなぁ~と改めて感動。まあ、本作の方が『反撥』よりは大分笑えるけど。

 結局、救出した相棒は死んでしまうし、死んだら死んだで、リチャードは夫に墓穴を掘らせるとか。首領が差し向けた助っ人が来たかと、白い車がこちらへ向かってくるのを見てぬか喜びするリチャードだが、それは助っ人ではなく夫の友人家族だったとか。とにかく、あれやこれやと話が進む。

 で、結局どうなるか、、、。まぁ、それは敢えてココには書かないけれど、ただでさえ危うい夫婦が、ただで済むとは到底思えないわけで、その通りの展開になるのであります。


◆ポランスキーの映画

 この映画が制作されたのは1966年。ポランスキーは、この前年に『反撥』を撮っている。コメディタッチとシリアスとで、映画としての趣は違うけれど、この2作に限らず初期~中期のポランスキーの映画って不条理モノが多い気がする。

 『反撥』にしても、(モノクロだからかも知れないが)不条理モノのポランスキー映画は、何というか、、、何かに追われているような、不安げである。

 本作も、テレサの視点から見ればそうでもないが、夫・ジョージから見れば不安だらけだ。終盤に明らかになるが、ジョージはテレサが近所の若者と浮気していることは知っていて、それだけでなく、途中でやって来た友人家族と一緒に居た中年の色男とやたら親しげにするなど、ジョージにしてみれば、テレサは一番痛いところを突いてくる。この古城を全財産はたいて手に入れたのと同じくらい、この若くて美しい妻はシンボリックな存在なはず。しかも、実はジョージは前妻に逃げられているということも判明し、また同じ轍を踏むことになるのではないかという不安が、ジョージには常にある。

 そして、それがポランスキー映画に通底するものであるということ。この人は、常に不安を描いているのだ。『ローズマリーの赤ちゃん』だってそう。『水の中のナイフ』だって、夫婦のバカンスに突然若い男が闖入してくる話で、夫婦のバランスが崩れていく。夫にとっては不安でしかない。

 こういう作風を、彼の生い立ちに見出す評者も多い。確かに、それはあるだろうなぁ、、、と思う。でも、それを確実に映像化してしまうことができる、ってのが凄いなぁ、、、と感心させられる。しかも、前面に押し出すのではなく、何となく不安げ、、、という極めて曖昧だけれども確実にじわりと感じる、、、という演出。不安と笑いってのは、実は相性が良いのだと、本作などを見るとよく分かる。


◆その他もろもろ

 とにかく、ドナルド・プレザンスが素晴らしい。やっぱり、この人はすごい俳優だ。情けない男を、実に巧みに演じている。その風貌から、どうしたって、ヒーローではないが、一筋縄ではいかない悪役や、ジョージみたいなワケありの劣等感に苛まれた男は、実にハマる。

 ドルレアックは、やはり美しい。この翌年に亡くなるのかと思うと、見ていて複雑な気分になる。ぶっ飛んだ若妻を、奔放に演じているように見えるが、きっとポランスキーの計算された演出なんだろう。

 闖入者のリチャードを演じたライオネル・スタンダーも実にイイ味出している。声がもの凄いハスキーで、それがイイ。夫の友人家族がやって来たときは、夫婦の下男をやむなく演じることになるのだが、およそ下男とは思えない風貌と粗野な言動で、実に笑える。

 ラストシーン、プレザンス演ずるジョージが、しょんぼりと膝を抱えて体育座りしている図が、何とも寂しく哀しい。しかも、ここで口にする女性の名前は、テレサではないのだ。嗚呼、、、。

 
  

 

 

 

 

 


ポランスキーの人間不信が現れた映画かも。

 



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復讐するは我にあり(1979年)

2020-04-16 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv18777/

 

 榎津巌(緒形拳)は、金欲しさから2人の男を殺し、そのことで指名手配をされたと知ると、逃亡中のフェリーから投身自殺を偽装する。さらに、詐欺を働きながら逃亡を続ける途中で、3人の男女を殺した挙げ句に逮捕され、当然のごとく死刑を宣告される。

 5人を殺害した西口彰事件を題材にした佐木隆三の同名小説の映画化。

 

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◆緒形拳の主演映画を見たくて、、、

 見ている最中から、もうとにかく、濃くて熱くて、酔っ払いそうだった。緒形拳は言うに及ばず、出ている役者さんは漏れなく印象的で存在感を発揮し、最初から最後まで画面にエネルギーが満ちあふれ、その熱気に当てられて、我を忘れて見入ってしまう。 

 今村昌平監督作は、『赤い橋の下のぬるい水』『うなぎ』の2本しか見ていないが、正直なところ、あんまり好きじゃない。まとわりつく空気感というか、登場人物たちがみんなじっとり汗をかいている(実際汗をかいているという意味じゃなく)ようで、見ていて息苦しくなってくる感じがする。だから、積極的に見ようと思わなかった。

 でも、『おろしや国酔夢譚』『火宅の人』といった緒形拳の映画を最近見て、他の緒形拳出演映画が見たくなった。本作は、TVで見ていると思っていたのだが、ちょっと記憶と違う気がしたのでネットで検索してみたら、NHKのドラマ「破獄」と混同しているっぽい。ドラマでは、何度も脱獄する囚人を緒形拳が演じているが、そのときのオレンジ色の囚人服がかなり記憶に残っていて、今回、本作を見てそんなシーンは全くなかったので、ハレ、、、?と思ったのだった。西口彰事件は何度もドラマ化されているし、そういうのと記憶がごちゃ混ぜになっていたのかも知れませぬ。

 本作は、私が抱いている西口彰事件のイメージとはかなり違っていて、それもそのはず、私の事件に対するイメージは西口彰がどうやって掴まったかに焦点を当てたドラマによって形成されており、本作とはそもそも切り口が全く異なっているのだから。巌が犯した罪を描きながら、巌を取り巻く人々を始めとした背景をねっとりと描いている本作は、事件の再現ドラマよりも遙かに陰惨で恐ろしかった。


◆巌と鎮雄の父子関係

 巌は、本作の中でも5人の男女を殺害しているが、男3人の殺害動機は単純で金欲しさか口封じ(というか存在が邪魔になったから)であり、女2人に関しては恐らく、成り行きだろう。殺された女2人というのが、小川真由美演ずる連れ込み旅館の女将・ハルと、清川虹子演ずる殺人の前科があるひさ乃。ハルを何となく殺したくなって絞め殺した結果、ひさ乃も殺さざるを得なくなったというところではないか。

 殺された方からすれば、こんな理由で命を奪われちゃたまらんのだが、巌は警察に対する供述にもあるとおり「結局、殺す方が面倒じゃない」っていう程度の認識でしかない。

 実際、最初の2人の男性を殺すときの巌の様子は、確かに必死で凄まじいのだが、何というか、、、例えが悪いのは承知だが、部屋に現れたG(夏場に現れる黒光りする虫)を私が殺すときのそれに近いというか、、、。とにかく今ここでこいつを亡きものにしなければダメなんだ!という信念めいたものに突き動かされていて、必死でどうにかGを仕留めた後、ゼイゼイしているのも同じ。

 当然、そこには殺生をしていることの罪悪感など微塵もない。むしろ、仕留めた後は、「あー、やれやれ。これでGが部屋をウロウロしないから枕高くして寝られるゼ!」という達成感すらある。そして、男たちの殺害を果たした後の巌にも、その達成感に似たものを見て取れる気がした。何しろ、殺害するときに手に着いた被害者の血を、自分の小便で洗い落とすのである。あまりにも衝撃的なシーンで、唖然となった。

 巌がこういうことをするに至った背景の一つに、父親・鎮雄(三國連太郎)との確執があるという描かれ方がされているが、どうしてここまで拗れたのかは、正直なところ今一つ分からない。ただ、鎮雄が中盤、巌に言う「お前のようなクズには父親は殺せん。そんなことは端から分かってる」の言葉に2人の関係性は集約されている。つまり、男ならば誰もが通る“精神的な父殺し”が出来ないまま、巌は大人になってしまったってことだ。

 終盤にも、刑務所の面会室で父子の壮絶なやりとりがある。

巌 「あんたはおいを許さんか知れんが、おいもあんたを許さん。どうせ殺すなら、あんたを殺しゃよかったと思うたい」
鎮雄 「ぬしはわしば、殺せんたい。親殺しのでくる男じゃなか」
巌 「それほどの男じゃなかっちゅう訳か」
鎮雄 「恨みもなか人しか、殺せん種類たい(巌の顔面に向けて唾を吐く)」
巌「ちきしょう。殺したか。あんたを!」 

 結局、巌は5人も殺しておきながら、父親を精神的に殺すことさえ出来ない、かなり気弱で小心な男なのだ。このシーンとは別に、中盤でも父子が巌の妻・加津子(倍賞美津子)の前で言い争いになる。このときに、鎮雄に言われたのが「お前のようなクズには父親は殺せん」であり、殺せるものなら殺してみろと、巌は鎮雄から斧を手渡されるのだが、その際の緒形拳演ずる巌は明らかに鎮雄に気圧されており、斧を手にして怯んでいるのが隠せないほど性根が据わっていない。まあ、親にそんな風に出られたら、大抵の子は怯むだろうが、、、。しかし、大抵の子は人を5人も、どころか1人だって殺さない。……ようやく気を取り直して斧を鎮雄に振り上げようとしたものの、それを自分より非力なはずの加津子に制される。このシーンは、象徴的である。

 こういう巌の性質を見抜いていたのが、最後は巌に殺されてしまうひさ乃だ。ひさ乃自身、人を殺したことがあるから、、、だろうが、「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね?……意気地なしだに、あんた。そんじゃ、死刑ずら」と、巌に言っている。自身は、殺したいヤツを殺したから悔いはないとまで言っている。恐ろしい会話だが、このシーンは、本作でも印象的なシーンの一つ。

 巌が“精神的な父殺し”を出来なかったのは何故なのか、それは知る由もないが、この父子の関係は、一般的な男親と息子の関係よりも、女親と娘の関係に似ている気がした。娘はどんなに母親を“精神的に”棄てたいと思っても、なかなか棄てられないものなのは、私自身が経験しているからよく分かる。精神科医の斎藤環氏によれば、息子は父でも母でも案外あっさり“精神的に”棄てられるものらしい。

 まあ、それが真実かどうかはさておき、鎮雄と巌の父子に関しては、クリスチャンという信仰も大きく影を落としている。鎮雄は敬虔なクリスチャンで、巌は信仰に生理的な拒絶感があったか、あるいは父親ほどの信仰心を持てないことで劣等感を植え付けられたか、、、あるいは、鎮雄の信心と言動の矛盾(加津子に抱く欲望)を目の当たりにして信仰の欺瞞に耐えられなかったか、、、まあ、そのどれもあるのかも知れないが、信仰のない父子関係よりかなり屈折しているのは間違いない。

 巌が東大の教授を騙ったり、弁護士を騙ったりするところを見ると、相当のコンプレックスも感じられる。そういう肩書きを身に纏うことで、かりそめに承認欲求を満たし、自己愛を慰めていたのだろうか。巌には、何人殺しを重ねても、決して自暴自棄な感じは見受けられないのも、何とも薄ら寒いものを感じる。実際、死刑になることを「不公平だ」と巌は言っており、生への執着もかなり強いのだ。

 緒形拳の演技が凄すぎて、見ているときは納得させられた気になるが、後から考えると、色々と分からないことだらけである。


◆その他もろもろ

 緒形拳が凄いことについては、繰り返しになるから書かないが、やっぱり凄い。

 鎮雄を演じた三國連太郎が、正直言って、気持ちワルイと感じた。それくらい三國も凄かったということなんだけれど、何考えているか分からない感じがして、非常に不気味でキモい爺さんにしか見えなかった。加津子が鎮雄に惹かれる理由が、私にはゼンゼン理解できなかった。いくら夫がああだからって、、、そういう気持ちになるもんだろうか??

 フランキー堺とか、北村和夫、火野正平、河原崎長一郎といった、アクの強い俳優陣も大勢ご出演。

 小川真由美も倍賞美津子もアッパレな脱ぎっぷりで、さすがだと感動した。もちろん、脱いだシーンだけでなく、2人ともかなり厳しい環境に置かれている女性なんだが、小川真由美演ずるハルと、倍賞美津子演ずる加津子は対照的なキャラで、流されるままのハルと強い意志で生きる加津子のキャラの違いが、巌との関係性の違いに繋がっている。

 それにしても、このお2人を始め、若尾文子、岡田茉莉子、加藤治子、加賀まりこ、梶芽衣子、大原麗子、松坂慶子、、、挙げればキリがないけど、昭和の女優さんたちには、ホントに素晴らしく魅力的な人が多かったなぁ、、、。最近の女優さんとは、もう顔つきも雰囲気もゼンゼン違うもんねぇ。最近の女優さん(の多く)は、女優というよりタレントだもんね。顔はキレイだけど、どうも似たような顔つきのような。小川真由美と倍賞美津子なんて、ルックスも雰囲気もまるで違って、似ても似つかぬけれど。

 でも、私が一番印象に残ったのは、何といっても、清川虹子とミヤコ蝶々のお2人。清川虹子は前述のとおり、殺人の前科持ちで、娘を旅館のオーナーの妾にして、その娘に寄生して生きているという、凄まじいオバサンを、凄まじい演技で見せてくれる。いやぁ、、、もう、圧倒されます。緒形拳も真っ青な存在感。ミヤコ蝶々は、嫁に気もそぞろな夫に対し、密かに嫉妬心を燃やすという複雑な役どころ。一方では、息子の巌を溺愛していて、女としても母親としても満たされない老女を実に巧みに演じておられました。出番は少ないのに、存在感たっぷり。

 その後、何度かドラマ化されたのも見たが、やっぱり迫力不足なのは否めないが、この俳優陣を見れば、そりゃしょうがないよね、と思った次第。

 

 

 

 

 

 小川真由美と清川虹子の浜松弁がイイ。「~だに」って自然に言ってるのが味わい深い

 

 

 

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ブルース・ブラザース(1980年)

2019-07-20 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv7951/

 

以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ジョリエット・ジェイクは強盗を働き、3年の刑期を終えてシカゴ郊外の刑務所(ジョリエット刑務所)を出所し(仮出所;判決は懲役5年)、弟のエルウッドが彼を迎えに来た。兄弟はかつて育ててくれたカトリック系の孤児院に出所の挨拶に行くが、そこで、孤児院が5,000ドルの固定資産税を払えないため立ち退きの瀬戸際にあることを知る。孤児院の危機を救うため援助を申し出る二人だが、犯罪で得た汚れた金は要らないと逆に女性院長に追い払われてしまう。

 何とか孤児院を救いたい二人はかつて孤児院で世話を焼いてくれたカーティスに相談すると、ジェイムズ・クリオウファス牧師の移動礼拝に出席することを勧められる。気乗りのしないジェイクをエルウッドがプロテスタント教会での礼拝に無理矢理連れてくると、クリオウファス牧師の説話を聞いていたジェイクは突然神の啓示を受ける。「汝 光を見たか?」「そうだ!バンドだ!」

 こうしてふたりは、昔のバンド仲間を探し出しあの手この手でバンドに引き入れ、音楽で金を稼いで孤児院を救う「神からの任務」に立ち上がったのだが、行く手にはイリノイやシカゴの警官、州兵、マッチョなカントリー・ミュージック・バンド、ネオナチ極右団体、そしてジェイクの命を付けねらう謎の女が待ち受ける。

 あらゆる伝手を使い、満席となった会場で“凱旋コンサート”を催し、舞台裏でレコード会社の契約を受けた二人はレコーディングの前払金として現金10,000ドルを受け取る。孤児院存続に十分な資金を得た二人はブルース・モービルに乗って追手を振り切りシカゴ市本庁舎に到着、クック郡を担当する窓口で期限前に納税を済ませるも、州警察や軍隊の総動員によって身柄を拘束され刑務所に収監される。

 刑務所の食堂施設でエルヴィス・プレスリーの“監獄ロック”を演奏するバンド一同とブルース兄弟。

=====ここまで。

 今回は、movie walkerのあらすじよりも、wikiの方がスッキリまとまっていたので。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

   午前十時の映画祭10にて鑑賞。今年で最後と言われれば、まあ、普段なら足を運びそうもない作品でも“見ておかないと損”みたいな気持ちになるのと、本作が大好きだという映画友の熱心なお誘いもあって、見に行って参りました。

 本作は時々TV放映していたのをながら見したことがあるくらいで、ハッキリ言ってただの“おバカ映画”くらいの印象しかなく、今回初めて最初から最後までちゃんと見た。……結果、食わず嫌いだったと反省。確かにおバカ映画ではあるけど、気の利いたコメディで、すごく面白かった!

 

◆黒いスーツに黒い帽子に黒いサングラス

 話の中身は、、、まぁ、どーってことない。本作の見どころは、やはり音楽(歌)と踊りのミュージカル的な部分と、ハチャメチャな展開に尽きる。

 とにかく、主演2人ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが、実に良い。出所した兄を、弟がパトカーの中古車で迎えに来るっていう出だしで、ぷぷっ、、、って感じ。

 そもそもあの出で立ちが効いている。全身黒ずくめで、風呂に入っているときも、あの黒い帽子と黒いサングラスは外さない(でも、ベルーシが最後の方でちょっとだけサングラスを外す場面があるんだけど、、、意外なパッチリお目々がカワイイ!)。おまけに2人は終始ほとんど笑わないのに、見ているこっちは何か笑っちゃう。ベルーシの小太り(失礼!)な体型な割に動きが俊敏(バック転繰り返すシーンはお見事!)で、弟役のダンとの凸凹コンビっぷりが面白さを演出しているのよね~。

 同じ笑いでも、無理して観客を笑わせようと必死なイタさが感じられるのは見ていて辛いが、本作は、そういうイタさがない。もう、あの2人がスクリーンに映っているだけで可笑しいくらい。ヘンなギャグとかもないし、受け狙いな過剰演技もなく、おバカに徹した洗練されたエンタメ・コメディに仕上がっているのが素晴らしい。1980年制作で、確かに車や街並みはそれなりに時代を感じるが、映画としてはゼンゼン今でもOK。

 謎の女に、バズーカぶっ放されて建物ごと生き埋めになったり、機関銃乱射されて撃たれたりするんだけど、この兄弟は死なない。平然と立ち上がって、次の行動へと移る。このリアリティのなさが逆に笑いの要素になってしまっているのがスゴい。

 まあ、あとは有名な終盤のカーチェイスシーン。一体何台のパトカーをムダにしたんだよ? てなくらいに、もの凄い数のパトカーに、兄弟たちが乗るオンボロ中古パトカーを追跡させ、ことごとくクラッシュしていくザマは、皮肉なんだろうね。他にも宗教やら政治やら警察やらを皮肉るシーンがあちこちに出て来て、本作を“気の利いたコメディ”と思った所以。やっぱり、コメディはこうでなくっちゃね。

 

◆スゴい出演陣に圧倒される。

 出演者たちがもの凄い豪華で、ビックリ。ジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズ等々、まあ、音楽が重要な映画だってことを差し引いても、これらのメンツを揃えているのはスゴい。実際、彼らは作中でその素晴らしい歌声を披露してくれていて、これだけでもスクリーンで見る価値があるってもの。

 ほかにも、ちょい役で、ツイッギー、チャカ・カーン、キャリー・フィッシャーなどがズラリ。ジョン・キャンディまで出ている!! いやぁ、、、こんな豪華キャストだったとは。

 バンドを無事に再結成させた後に、どこかの居酒屋で演奏するシーンで、ステージ前には金網が張ってあって「何だコレ、鳥カゴかよ!?」みたいなセリフを(確か)弟が吐き捨てるように言うんだが、金網のある理由がその後の演奏シーンで分かる。客たちは演奏に不満があると、容赦なくカップやら食べ物やら酒瓶をステージに向かって投げつけてくるのだ。もう、このシーンも、ほとんどお笑い。

 ラストの、シカゴの市庁舎でのシーンも、カーチェイス同様、過剰な警察官の数をあちこちに溢れさせて、警察を小バカにしている。やり過ぎなんだけど、でもイヤミじゃないというか、ただただおバカね、、、と笑えるのが良い。

 イタいコメディと、イタくないコメディの差って何なんだろうか? イタくないコメディだって、絶対に笑わせてやろうと思って作っているはず。まあ、見る人の感性にもよるから、私から見てイタくないコメディを、イタいと思う人もいるだろうし、逆もあるんだろうけれど、、、。でも、本作みたいに長く名画として多くの人に評価されているコメディは、やっぱりそれなりに洗練されたコメディと言っても良いのでは。

 久しぶりに良質なコメディ映画を見た気がします。 

 

 

 

 

 

ジョン・ベルーシはこの数年後に亡くなっている、、、。

 

 

 

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