映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

チョコレートドーナツ(2012年)

2015-04-30 | 【ち】



 ゲイバーでショーダンサーとして生活しているルディと、地方検事のポールが、ルディの店で出会い、速攻デキちゃう。このカップル、ルディの隣に住んでいるダウン症の男の子マルコを、薬中のその母親が逮捕されたことを機に、保護・監督することに。

 しかし、当時、まだまだ同性愛に世間の偏見が激しかったことから、二人は、ゲイカップルであることを隠し「いとこ同士」としてマルコの保護者となったのだった。案の定、これがアダになるのだが、、、。

 前半のおバカなノリが一転、後半は、心を掻き毟られる法廷劇が展開される。

 そして、思わぬ結末に呆然。

 実話ベースらしいけど、本作の話自体はかなり作られたもののよう。でも、こういう類のハナシは現実には一杯あるのだろうな、と思わせられる作品。


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 基本的に、私は障がい者モノがダメなんで、積極的に見ないのですが、本作は、長々と劇場公開されていてしばしば新聞でも広告が載っていたのと、なんとなくですが、あんまし見るからにダメっぽい感じがしなかったので、DVD鑑賞してみることにしました。

 まあ、ゲイカップルが、障がいのある男の子の保護・監督権を得るために、なりふり構わず闘う訳ですが、、、。世間はそんなに甘くなかった、、、。

 ストーリーの詳細は、別のサイトにお任せするとして、これ『ゴーン・ベイビー・ゴーン』と似ています。そして、もの凄く不条理な結末も同じ。こういう話を見聞きすると、法律って、ゼンゼン人に優しくない、心が通っていない、とつくづく思います。

 仕事柄、法律に多少は関わることがあるんだけれども、なんつーか、木で鼻を括ったような判例って、結構あるんですよ。はぁ~~~? みたいな。判事さんよぉ、アンタ、本当にちゃんと当事者たちの話聞いてんの? みたいな。これじゃ、敗訴した側はハラワタ煮えくり返るだろうな、と。そら、法治国家ですけれども、解釈の仕方でいくらでも法律なんて現実的に運用できるでしょーが、と突っ込みたくなるような(もちろん、人の心にかなり寄り添った判例もありますけどね)。

 本作でも、一審の判事はルディとポールが愛情あふれる保護者であると認識しながら、当時の社会風潮を重視した理由で決定を下しています。法律以前の話だよなぁ、これって。

 ゲイカップルが何でここまでマルコに拘るのかが分からない、という批判を結構目にしたけれど、私は、そこはゼンゼン違和感なかったなぁ。なんか、理屈でなく、どうしてもそうしたい!! と思うことって、人生に一度や二度くらいあっても不思議じゃないでしょ。それが赤の他人の子どもを保護することだとしても、何かその子に感じるものがあった、この子をどうしても手放したくないと思う本能的な感じがあった、と、私はすんなり思えちゃいました。

 男と女のマジョリティの夫婦が、不妊だから養子をとる、っていうのは世間に普通に受け入れられて、ゲイカップルが直感的にこの子を守りたい! と思ってその子の養育に拘るのに、まっとうな理由が必要ってのは、それこそもう、差別そのものという気がするんですが、、、。

 もちろん、人一人、養育するには大変な責任が伴うので、軽い話ではないけれど、そういう意味では、マルコを手放したくないというルディの気持ちに、最初からすんなり寄り添えるポールがスゴイと、私は思っちゃいました。私ならかなり躊躇すると思うので。ポールも、本当に献身的にルディの気持ちを支えるのです。

 あと、マイノリティが「完全善」に描かれている、という批判もちらほら見ました。そーですかねぇ、、、。善悪という色分けは、本作はしていないと思いましたが。差別=悪、とすれば、そら、ゲイカップルに保護・監督権を認めない、あるいは妨害した人々は悪ってことになるでしょう。でも、ゲイカップルも決して善じゃないでしょ。そもそも、マルコの保護・監督権を取得するとき、二人はゲイカップルであることを隠して「いとこ同士」と偽っているのですからね。偽証です。

 私が、障がい者モノがダメという理由も、まあ、上記の批判と被るんですが、誤解を恐れずに書くと、「障がい者=純粋で可哀想な人」みたいな描かれ方をしているからイヤなんだと思います。健常者が当たり前にできることを障がい者ができるようになっただけで、感涙ドラマに仕立て上げる、、、こういう思考回路がね。「感動の!!」とかキャッチフレーズを付けて。もちろん、障がい者の人は、健常者よりはるかに努力したり訓練したりしなければならないことは多々あるでしょう。でも、それを健常者が見て、素晴らしい素晴らしいと滂沱の涙とともに喝采を送るのは、かなり「見世物」的な感じがするのです。その最たるもんは「24時間テレビ」ね。あれこそ偽善臭で失神しそうだゼ。

 まあ、本作も「感動の」だの「涙の」だのの宣伝文句は使っていたと記憶しています。これは配給会社のセンスの悪さですね。でも、作中では、そういった善悪という単純な物差しは感じられませんでした、私には。

 そもそも、あらゆる偏見を全く持たない人って存在するんでしょーか。そんな人、地球上に多分いないでしょう。だから、本作でもゲイカップルが直面する偏見の分厚い壁を、「これが現実」って描いていただけだと思います。

 本作の原題は“Any day now”で、これが、セリフでも出てきます。被差別側が、差別を「今すぐにでも」克服したい、ということですかね。ラストでルディが熱唱する歌の歌詞のワンフレーズです。

 ルディを演じるアラン・カミング、ちょっと髭が濃いけど、イイ味出していました。実生活でも彼はバイセクシャルだそーです。ポール役のギャレット・ディラハントが素晴らしい。社会的ステイタスのある地方検事という職業柄、カミングアウトを躊躇し、世間体を気にして、色々と苦悩する姿を実に巧みに演じていたと思います。二人のラブシーンでエグイのがなかったのもgoo!

 ちなみに、邦題は、マルコの大好物がチョコレートドーナツだから、ってことみたい。かなりイマイチ、、、



子どもの幸せって何なんでしょう?




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やさしい女(1969年)

2015-04-27 | 【や】



 美しく知性も兼ね備えているが貧しい若い女性。本代を手に入れるために質屋に通ってくる彼女に惚れた質屋の主人の中年男。彼女を説得して、結婚。しかし、妻の、隠しようのない美しさと若さ溢れる肉体に、中年夫は次第に嫉妬の塊となっていく。

 あっという間に夫婦仲は冷え切り、しかし、必死に夫婦の関係を維持しようと足掻く夫。彼のそばを離れそうで離れない妻の真意は・・・? そして、妻が出した答えとは。

 1986年の本邦公開以来の貴重なデジタル・リマスター版リバイバル上映。ブレッソンのキレッキレの描写は、本作も健在。


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 若い女性を演じるのは、17歳のドミニク・サンダ。もう、メチャメチャ美しい。これぞヴィーナス、って感じ。しかし、実生活では彼女は既にバツイチだったというのだから、さすがというか、何というか、、、。

 この『やさしい女』というタイトルですが、、、。はて。本作の主な登場人物は、ドミニク・サンダ演じる若妻と、夫、お手伝いの老女の、ほぼ3人ですから、やさしい女とは、それはほとんど若妻のことを指していると考えて間違いないでしょう。

 で、私は、正直、この若妻が「やさしい女」とは思えないのですよ。なぜかって、ここから先、ネタバレバレなんで、悪しからず。

 若妻は、なんと投身自殺しちゃうんです。しかも、夫婦の住まいの窓から。こんなピリオドの打ち方をする人が「やさしい」んでしょーか。

 と、思ったんですが、この作品、徹頭徹尾「夫(=男)の目線」で描かれている訳です。それを考えると、なるほど、彼女こそが「やさしい女」なのか、と。つまり、「男にとってやさしい女」ってこと。

 あれほどの美しさと知性がありながら、貧しさゆえに、あたかも質草のように、質屋の主人である冴えない中年男と結婚し、一緒に暮らしてあげるだけで、それが優しさだろう、って話。ものすごく俗悪な思考でスミマセン。でもまあ、そういう見方もアリかなと。

 なぜなら、本作は幕開けがいきなり、若妻の投身自殺のシーンであり、その後は、ベッドに横たわる若妻の遺体を前に、お手伝いの老女に対して、夫が若妻との思い出を延々と語る、という構成なのです。つまり、若妻が本当は何を考えていたのか、何を思っていたのか、まったく分からないワケ。

 これこそが、この夫の妻に対するありのままの姿だってことでしょ。要するに、妻の内面的なことを、何も理解していなかった、彼は。というか、そもそも理解しようとしていなかったのね。自分目線でばかり彼女を見て、「質屋だからって軽蔑してんのか」「余所に男がいるんだろ」と、そんなことしか彼女に対して考えていないのね、この夫は。

 実際、若妻が夫を軽蔑していたかなんて、分かりません。夫が「貯蓄したい」という言葉に軽く拒絶反応を見せるシーンがあったり、結婚を迫る中年夫に「あなたの望みは愛ではなく結婚だわ」等と突き放すシーンがあったりはしますが、彼女の心を語るセリフはありませんので、実際、彼女が何を考えていたのかは、分からないのです。夫も、もちろん見ている我々も。

 おまけに、若妻にエエカッコしたいのは分かるが、自分の過去を偽る、、、というか隠すのよ、この夫は。何で正直に自分をさらけ出せないのか、と、若いならなおさらガックシ来るわさ、妻としては。

 ただ、何度も夫の店から出ていったり、家から出ていったりするんだけど、結局、夜になると帰ってくるんだなあ、この若妻は。こいういうところも「やさしい女」なのかも。

 とにかく、ほとんどセリフがないので、若妻と中年夫の視線や仕草から、イロイロと想像するしかないんだけど・・・。

 しかし、、、もし、この穿った解釈が当たらずとも遠からじだったとしたら、、、。ある意味、男のロマンを絵に描いたようなハナシなのかも、という気がしてきた訳です。自分には過ぎた若く美しい妻、ちょこっと浮気もしているみたいだけれども、どんなに揉めても必ず自分の下に帰ってきて、夜はお互い欲望を満たし合い、寝ている間に銃を向けられていたこともあった様だが、「あなたを尊敬します」とわざわざ言いに来てくれたではないか、彼女は。しかも、自分の妻として自ら命を絶ったことで、彼女は永遠に私のもの。これ以上、男の独占欲を満たしてくれるオハナシがありましょうか。

 それはさておき、、、、

 やはり、若妻は、夫を「軽蔑」していたんだと思います、実際に。なぜなら、ブレッソンのそれまでの作品『スリ』にしても、『ラルジャン』にしても、「金」で人生を翻弄される話を描いていて、どう見てもブレッソンは金に支配される人を「軽蔑」している節があるからです。、、、いや、軽蔑というよりは、「憐み」を持った視線でしょうか。

 そして、本作の主人公、中年夫の職業は、質屋の主人。しかも、前職は銀行員。どっちも「金」を扱う商売です。

 でもって、ブレッソンは、そういう男の悲しい「性(さが)」を描きたかったのでは、と。「金」などというものに支配され、人の心に寄り添い、いたわり、愛する、という、人としてかなり「鍛えられた」精神を要する営みができない。どこか、欠落した男。妻がいなくなっても、結局、妻の心を推し量ることのできない哀れな男。

 それを、セリフを一杯の雄弁な脚本にしてしまえば、おそろしく通俗的なメロドラマに成り下がるのは目に見えている。だから、こうして、極限までセリフを省いた、映像だけで二人の関係性を見せる作品に仕上げたのだろう、と。

 、、、ま、そうはいっても、現実問題、お金は大事。地獄の沙汰も何とやら、って言いますが、ある意味、真理だと思いますし。ただ、お金は人生を豊かにする「ツール」であって、それを目的にすると、人生どころか自分自身が貧しい人間に成り下がりますよ、ってことを、ブレッソンおじさまはおっしゃりたかった、、、のかも知れません。

 バーカ、そんなありふれた陳腐なところに落とすんじゃねぇ!! ってブレッソンさまに怒られそう、、、。ひぃ~~。

 原作は未読。ちなみに、原作を読んだ映画友は「原作も、よー分からんかった」と言っておりました。





ブレッソンは「お金」がキライなの




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私の、息子(2013年)

2015-04-22 | 【わ】



 ルーマニア、ブカレストで建築デザイナー(?)の富裕層であるコルネリアにとって、可愛い可愛い、でも30過ぎて自立できない息子バルブが悩みの種。息子がああなのは、今付き合っているコブつき女のせいだ、と、のっけから煙草もくもく吹かしながら文句の嵐。

 その息子、ついに、交通事故で人を死なせてしまう。そして、コルネリアは、息子の犯罪を揉み消そうと躍起になるのだが、当の息子には「放っといてくれ!」と罵られ、、、。

 英語のタイトルは「CHILD’S POSE」で、胎児の体勢。はて、このタイトルの指すものは、、、。


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 ううむ、こういう、我が子の自立をとことん阻む親、ってのは、どうしても私は受け入れられません。

 この母と息子は、いわゆる「共依存」ってやつです。「子依存症」な母親とその子の確執問題の場合、重要なのが「子のキャラ」なのよねぇ。もちろん、母親の「子依存度」が一番の要素なんですけれども。

 母親が重度な「子依存症」でも、深刻な確執にならないケースの「子」キャラってのは、多分4つある。①もの凄いバカか、②反対に天才肌か、③あるいは対人関係能力ゼロか、そして④(これが一番クセモノなんだが)自分の頭で考えることを放棄している子。つまり、この①~④のどれにも属さない子――凡人で、凡人ながらも自分の意思で人生を生きたいと思っている子の場合は深刻なケースになると思います。

 なぜなら、①~③の子たちは、人の気持ちを思いやったり想像したりする能力がないので、そもそも依存症の母など眼中にないわけ。ま、この人たちのケースは、言及しません、今回は。

 問題はね、④の子たちなんですよ。④の子たちはねえ、いるんですよ、これが実際に。私の姉がそうでした。母親との関係に苦しむ私に、彼女はこう言い放ちました。「親の言うこと聞いとけば、この先ずっと楽じゃん」、、、。そう、この人たちは、自分の気持ち以前に、自分の考えがないのです。

 いえ、恐らく姉に言わせれば「私だって理想はあるし、嫌だなってのもある」はずなんです。しかし、私が、親が強烈に勧めてくる見合いをどうしても受け入れられずに苦しんでいたら、彼女はシレっとこう言ったのです。「自分がダメだなと思っても、回りのオトナ10人中、7人くらいが良いんじゃない?って言っていたら、私なら考え直して結婚する」と。これが、重度依存症の母親と深刻に決裂せずにいられる子です。

 私は、姉に言い返しこそしなかったけれど(メンドクサかったから)、腹の中ではこう思っていました。「周りのオトナ10人中10人が良いと言っても、自分がダメだと思ったらダメなんだよ」と。

 ④の子自身は問題じゃないのよ。④みたいな子がいると、重度依存症の母親は、凡人の子のことを「悪い子」とレッテルを貼っちゃうことになるから、問題なのね。フツーの子が、④の子たちの存在のせいで、余計に苦しむことになっちゃうのです。

 、、、しかし、姉が恐ろしいというか不気味なのは、何か歯車が狂って物事が上手くいかなくなったらそれは「親のせい」にできる、と考えているところです。実際、彼女は、高校生くらいの頃から、「自分の成績が下がったのは通学に時間がかかるところに引っ越しをした親のせいだ」とか、「自分の理想とする見合い相手に断わられたのはこんな家(と親)のせいだ」とか、「家(と親)がもっと立派だったらどんな男でも連れてくる自信がある」とか、「私が若い頃色々やりたいこともやれなかったのはこんな家(と親)のせいだ」とか、何か自尊心が満たされないことがあると全部親のせいしていたんだよね。私はこれを聞くと、無性に腹が立って、「人のせいにすんじゃねぇー!」って喰ってかかって大喧嘩になったこともよくありましたが・・・。

 そんな姉は、私が母親と疎遠になってまだ日が浅い頃、独特な感じで接してきました。多分、彼女なりに母親と私の間に立ってあげよう、というのもあったんでしょう。私の反応が鈍いせいもあって、母親と同じくらいに姉とも疎遠になりましたが、私には分かります、姉が母親の意向の下に動いているのが。この10年の、彼女のメールの文面や、頻度、その後の母親からの妙な手紙など、ぜ~んぶ繋がります。そう、50も過ぎた姉は、いまだに、母親の指示の通りに動いているのです。母親が死ぬまでやるつもりなんでしょうーか。ま、彼女にとっては、それは苦痛ではないのですから構いませんけれど。

 、、、と異様に長い前置きになってしまった! いかんいかん。

 本作のバルブも、まあ、残念ながら①~④のどれにも当てはまらないのよね~。凡才で金持ちの甘ちゃん息子で根性ナシだが、一応、自立心もないわけじゃない。・・・んだけれど、何せ凡才の根性ナシだから、何やっても上手くいかないし、上手くいかせようという気力もない。でも女とヤることだけは人並みにヤる能力を発揮している、、、。あ゛ーー。

 コルネリアが、私の母親みたいに一度も社会に出たことのない専業主婦で、子にしか目が行かない母親だったら、まだこの話は分かる。でも、コルネリアは、社会でも建築デザイナーとして成功していて、バルブの母親でしかないわけじゃないのに。

 そうそう、重度依存症の母親で、もう一つ、重要なファクターがあったんだ。それは父親。母親からすれば夫だわね。もう、こういうケースでは、父親は例外なく「存在感ゼロ」なんだよね~。私の父親もそうだったけど、本作でも、バルブの父親はものすごーーーく存在感が薄い。母親と口論しているバルブを一応諌める場面もあるが、バルブに逆襲されるの。「うるせー!何でもこの女の言いなりになりやがって、この腰ヌケ!!」ってね。もう、まったくその通りで、私は苦笑してしまいました。

 私の父親と同い年のある先生が、私の家庭の話を聞いて言いました。「お父さんが頼りない? そうではありません、お父さんが頑張ったらきっと家庭は破滅ですよ。分かっていらっしゃるのです」とね。そうかも知れないけど、家庭は破滅しなくても、子どもは母親の放つ毒に侵され続けて精神が破滅しちゃうんだよ。救えるのは父親だけなのに。

 本作で、コルネリアは必死にバルブに前科がつかないように奔走します。本作は、結果がどうなるかまでは描かれていないけれども、私は、きちんとバルブは刑に服して制裁を受けるべきだと思います。もし、コルネリアの念願かなって、バルブに前科がつくことなく社会に戻れたとしても、バルブ自身は前よりさらに精神的に病んでしまうの間違いない。なぜなら、ますます母親の支配が強くなり、ますます自分のダメさ加減を見せつけられるから。結局、自力で何一つ乗り越えられない人間のままの自分と、30過ぎても向き合わないといけないのは、拷問ですよ。

 バルブが一念発起してコルネリアを突き放せば良い、と思う方も多いでしょうし、私も、彼を見ていてイライラしました。しかし、ああいう重度依存症の母親に背後霊のようにのしかかられると、本当に、子は手も足も縛られて自分の心も押しつぶされて身動きが取れないのです。

 だから、今回の事故は、彼が母親と物理的に離れられる、そして、精神的に自立する絶好の機会なのです。

 なのに、本作のラストシーンは、どうやら母親の願いが通じてしまいそうな予感のする描写のような気がします。いえ、どっちに転ぶかは分かりません。見る人の想像次第ですが、、、。

 でも、私は、どーしてもバルブはダメな気がするのよぉ。だって、タイトルが「胎児の体勢」ですよ? あ゛ー、もう、この母親はこの世に生み落さず、一生腹の中に息子を抱えておけば良かったんだよ。


 



お母さん、あなたの息子は、窒息で死にかけてますよ!




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ウォールフラワー(2012年)

2015-04-19 | 【う】



  ハイスクールで馴染めなかったチャーリーが、アメフト観戦に行った際、思い切って声を掛けた青年とその妹の風変わり兄妹と出会ったことで、世界が広がっていく・・・、という青春もの。  

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 アメリカの、高校生を主人公にした青春絵巻ってのは、必ずと言っていいくらい「スクールカースト」に悩む話ね。古くは『キャリー』しかり、こないだ見た『25年目のキス』しかり。お決まりの、クルマ、プロム、セックス、、、って、やっぱし文化の違いを感じます。

 しかし、アメリカ人にとって、ハイスクール時代ってのは、そんなに重要なポイントを握る時代なんでしょーか。原作が大ベストセラーになった、ってとこを見ると、やっぱそうなのかなぁ。他にも同ジャンルの作品が一杯あるのを見ると、なんか、人生における重大な岐路、みたいな時代に思えるんですけど。私の高校時代なんて、振り返ってもただの通過点ですけど。

 まあ、今の日本でも「スクールカースト」という言葉があるくらいだからなぁ。私が高校生だったのは30年も前だし、何しろ田舎のフツーの学校で、階層も何も、どいつもこいつも芋ばっか、みたいな感じだったから、こういう映画を見ると、どうもしっくりこないというか、異世界のハナシにしか思えないのよねぇ。

 もちろん、なんとなく人の輪に入れない、馴染めない、という人はいたと思うし、さすがにイジメはなかったと思うけれども、からかい・いじりレベルのことなら、日常茶飯事だったんだろうな、きっと。そういうものの延長として見れば良いのよね、こういう映画は。

 本作は、結構いろんなところで高評価されていたみたいで、劇場に行こうかとも思ったけれども、どうもイマイチその気になれず、結局、DVD鑑賞ということに。ま、結果的に、その選択は正解でした。

 チャーリーの救世主となった兄妹、パトリック(エズラ・ミラー)とサム(エマ・ワトソン)は、2人ともすごくイイ子たちです。3人が車に乗って、サムがその荷台で両手を広げて風を受けるシーンは、あの『タイタニック』の、あのシーンみたいで、イマイチ。いや、明らかにオマージュってのなら良いんですけど、どうもそうじゃなさそうで。これ、チャーリーがサムに惚れてしまうシーンなので、重要なんですが、、、。あのポーズにする必要あるのかね、あんなパクリみたいな。もったいない。もうちょっと考えてほしかった。

 あと、お約束みたいに、パトリックはゲイだったり、チャーリーが抱えているトラウマが叔母さんによる性的虐待が原因だったり、パトリックとサムは実は義理の兄妹でステップファミリーだったり、サムはかつて売春まがいのことをしていたり、と、なんつーか、とりあえず、現代を象徴するテーマをあれこれやたらに入れ込んだごった煮的な感じがしたのも、イマイチだなぁ。

 そんなに色々詰め込まなくても、チャーリーの成長物語は描けたと思うのですが。ダメなのかね、そういう刺激のある題材を入れないと。

 まあ、原作が、あの『RENT レント』の脚本家、と言われて納得ですが。私、あの作品、まったくダメだったんで、、、。本作は、『RENT レント』ほどじゃないけれども、やっぱりどうにも入り込めない何かを感じました。

 それは、「生きづらい世の中」に対する恨み節炸裂、みたいな感じです。究極の、他力本願思考。

 このスティーブン・チョボスキーという原作者は、1970年生まれだそうで、ほぼ私と同年代。今の高校生ならともかく、アメリカじゃ、あの頃から高校生はこんなだったのか・・・。ま、10代後半なんて、そんなもんかも知れませんが。なんでもかんでも自分は悪くないんだ、人のせい!! みたいなね。生きづらいから世の中変わってくんないかな~、というグチ垂れ流し的描写は、レントの方がひどかったし。本作ではまだ自力で人生切り開こうという雰囲気はあっただけマシです。

 パトリックを演じていたエズラ・ミュラーが良かった! 彼は『少年は残酷な弓を射る』で初めて見て、なかなか魅力的だったけど、あの役と、パトリックは、あまりにも違い過ぎて、彼の無邪気な笑顔、結構可愛いのねぇ、と思いました。何しろ、『少年は~』では、ほとんどまともに笑わない役だったんで、、、。エマ・ワトソンはやっぱりカワイイ。ステキな大人の女優に脱皮できると良いんですが。チャーリーのローガン・ラーマンは、まあ、カワイイけど、あんましそそられない感じで、この辺も、本作がイマイチと感じた原因かも。

 



生きづらいですか、そーですか。ま、頑張って。




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華麗なるアリバイ(2008年)

2015-04-15 | 【か】



 フランスの上院議員のお屋敷で、女グセの悪い医者が殺された。真っ先に疑われたのが、遺体の横にいた被害者の妻。でも、ある理由から無罪放免。、、、じゃ、一体犯人はだれよ? と皆が思っている最中、第2の殺人。今度の被害者は、殺された医者の愛人だった女。、、、はて、妻、やっぱ怪しくない?

 これのどこが「華麗なる」なんだよ、と、溜息の出る駄作。 
  

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 なんというか、あまりにもバカバカしいので内容については書く気がしません~~。

 華麗なるどころか、そもそもアリバイなんかねーじゃん、というお粗末ぶり。なんじゃ、これは。サスペンス映画として上梓したのかねえ? 分からん。

 というわけで、登場人物を演じた役者さんについて、勝手な感想を書きます。

 まず、最初に殺された医者のピエールを演じたランベール・ウィルソン。ふむ、まあまあイイ男です。これで医者なら、そらモテるでしょう。中年なのにお腹も出てないし。まあでも、あまり引力を感じないなあ。

 ピエールの今の愛人エステルを演じたヴァレリア・ブルーニ・テデスキ。本作では、「私が彼の一番なのよ!!」と必死でアピールしている女なのですが、確かに美しいです。ちょっとがっしりしていて私の好みじゃないですが。ああいう、女にだらしのない男に必死になる女、ってのが、私には理解できませんので、演じている彼女自身には何の罪もないのですが、ハッキリ言っちゃうと「バカ」にしか見えなくて、それがツラいとこ。作品中では芸術家という設定なんですが、そっち方面もイマイチっぽかった。実際のヴァレリア女史はなかなか才気溢れる女性のようです。『明日へのチケット』の第1幕で秘書を演じていた方ですね。あの役も、私的にはイマイチ好きじゃない設定でしたが・・・。役者さんて、役のイメージで見られることも多々あるでしょうから、良し悪しですねぇ。

 ピエールの妻クレールを演じていたのは、 アンヌ・コンシニ。私は未見ですが、『潜水服は蝶の夢を見る』にも出ているそーです。本作ではちょっと病的な気弱そうな妻を演じておられます。こういう「プライドを踏み躙られながら耐える女」ってのが、私は嫌いなんで、正直、クレールには1ミリも同情できませんでした。挙句、積年の恨みで夫を殺すだなんて。2人の娘の気持ち、ゼーンゼン考えない暴走母。あーあ、ヤダヤダ。

 事件現場となったお屋敷のご主人(上院議員)の奥様、エリアーヌ・パジェスを演じていたのは、ミュウ=ミュウさま。ハッキリ言って、彼女ともあろう人が、どーしてこんなおかしな役を演じているのか理解に苦しみます。ほとんど意味のある出番がありません。ただ、ミュウ=ミュウが出てるなー、と思うだけ。もったいない。監督はアホですね。

 で、このエリアーヌの遠縁の作家フィリップ・レジェを演じていたのが、マチュー・ドゥミとかいう暑苦しい感じの俳優です。なんか、暑苦しいルックスの割に、存在感が希薄で、、、。結構、重要な役どころなんですが、イマイチ、何やってるんだか分からない。明らかに演出が悪いです。

 ピエールのかつての愛人レアを演じていたのはカテリーナ・ムリーノ。イタリア人なのね、彼女。ちょっとニューハーフっぽい感じの、大づくりな顔。セクシーと言えばセクシーだけど、ううむ、、、。本作では女優ということになっており、タカビー女を演じておられましたが、ピエールの女の趣味の悪さというか、節操のなさというか、それを決定づける感じの存在でした。

 ・・・というわけで、つまるところ、私は登場人物の誰にも魅力を感じられなかった、ってことが書いていて自分でもよく分かりました。おまけに、(一応)ミステリーなのに穴だらけの杜撰極まりないシナリオ、というダメ押し。こんな作品を1年近く前に録画して、ずーっと消さずに残していたなんて、メモリの無駄遣いしていたのだわ~。

 アガサ・クリスティも草葉の陰で泣いているよ、きっと。



本作のタイトルは大嘘です。




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REPULSION/反撥(1965年)

2015-04-09 | 【は】



 異国の地ロンドンのエステサロンで働くキャロルは、若く美しい娘だが、どこか暗く人を寄せ付けない。そんなキャロルは、姉と2人でアパート暮らしをしているのだが、この姉がキャロルとは正反対のイケイケ姉さん。妻子ある男を引っ張り込んで夜な夜な喘ぎ声を響き渡らせているのであった。

 おまけに朝、トイレに行こうとしたら、なんとバスルームでは、その男が半裸で髭をそっているではないか! 男に免疫のないキャロルにとっては、衝撃の連続。キャロルはそんな状況に心落ち着かず、姉にそれとなく意見するが、姉は逆上し、10倍になって返ってくると、キャロルは言葉を呑み込んでしまう。

 そして、そうやって呑み込んだあんなこと、こんなことが溜まりに溜まった頃、姉は、キャロルの不安を顧みず、男と2週間近くの不倫旅行へ出掛けてしまう。その間に、キャロルがどうなるかも予期することなく、、、、。

 ぎゃ~~っ!!  
  

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 うーむ、ポランスキー、やっぱし天才だ。淫行歴があるのはいかんともしがたい汚点だが、この才能は、賞賛されてしかるべし。

 女子ってのは、女性になるまでの一時期、ある種の「男性拒絶期」みたいなのがあるんですよね。、、、って一般論化しちゃったけれど、多分そうなんだと思う。私は完璧にそうでした。私の場合は、いつからいつまで、みたいなのではなく、中学生から二十歳頃までの間に、間欠的にそういう「期」があったなぁ。父親を汚いだの臭いだの、というのは(多少あったが)ほとんど瞬間的なもので、むしろ、同年代の男子がキモかったり、世のお兄さん&おじさんたちがキモかったり、まあ、対象は男性全般でしたかね。

 その一方で、好きな男の子もちゃんといる訳です。ただ、そういう「期」の間は、好きな男子に対しても、なんつーか、汚らわし!っとか思っちゃって罪悪感にかられたり、でもスキンシップを妄想してウゲゲッとなったり、という、、、なんとも入り乱れた感覚でした。ハイ。

 これって、でも、そんだけ男性に興味津々だったことの裏返しなのよね、後から思えば。興味があったからこそ、そういう自分を拒絶していたんじゃないかな。まぁ、私も、人並みに、か、それ以上にかなり、か分かりませんが、男子に好奇心の塊であったわけです。

 で、恐らく、本作でのキャロルもそういう「期」にあったのだと思います。この「期」の正しいやり過ごし方を、私は存じませんが、それに、当人の性格も大いに関係あると思いますが、少なくとも、こういう期に、夜な夜な実のお姉さんの喘ぎ声を聴かされるのは、かなりヤバイと思います。実のお姉さん、ってのがミソです。これが、赤の他人の隣人のオバサンとかだったら、キャロルもここまで精神的に来なかったと思うのです。血のつながった姉が「あんなことしてるのか!?」と思うだけでウゲゲとなるのは想像に難くありません。母親が早世しているであろうキャロルにとって、姉は母親代わりだったはず。母親が「女全開」にしている際の声なんて、娘は聞きたくないですよ、ハッキリ言って。それを毎晩聴かされてりゃ、誰だっておかしくなりそうなもんです。

 キャロルのように内気で神経質な人は、恐らく妄想力も相当なモン(実際、本作でも妄想シーンが一杯出てきますが)なので、自分で自分を追い詰めちゃったところも大きいのでしょう。

 でも、最悪なのは、なんつってもあのお姉さんと、無神経な妻子持ち不倫男だね。ったく、妹と一つ屋根の下でようやるよ、と思うが、こういう男だからヘーキで不倫なんかするんだろうな、多分。

 本作で秀逸なのは、キャロルのセリフはほとんどないのに、どんどんキャロルがおかしくなっていく様が、実に不気味に描かれているところです。例えば、ウサギの肉。姉が料理し損ねたウサギの生肉を冷蔵庫から出してきて、偶然出しっぱなしになって、その肉がどんどん腐っていってハエがたかって、もうとんでもない臭気がこっちにまで漂って来そうな描写とか。途中から、そのウサギの首が切り落とされていて、、、(首はキャロルのバッグの中に、、、)。

 あとは、姉の愛人が脱ぎ捨てて行ったランニング。それを恐る恐る拾って臭いを嗅ごうとしてウゲゲとなったのに、別の日にはアイロンを当てている。しかも、そのアイロンはコンセントが外れている、、、。

 妄想シーンも怖い。姉を嫌悪しながらも姉を慕うキャロルは、姉が旅行に出掛けた後、姉のクローゼットから姉の服を当てて鏡を見ようとしたその鏡には・・・!!ギョッ、っとなりました。そして、壁のひび割れ。電気のスイッチを入れただけで壁が音を立ててひび割れる。挙句の果てには壁から手がいくつも出てきて彼女の体をまさぐろうとする。怖いよ~~!

 これ、モノクロなので、余計に怖いのです。そして、際立つカトリーヌ・ドヌーブの美しさ! 美女は狂っても美しいのだね。

 しかし、これ、ポランスキーにとっては長編2作目です。す、すごい。これに比べたら、『ローズマリーの赤ちゃん』なんてもの凄く直球勝負の素直なオカルト映画じゃありませんか。本作は、まさしく、ホラー映画。

 大人への過渡期の女性なら、誰もが陥り得るブラックホールに、キャロルは見事にハマってしまいました。もう、可哀想で仕方ないです。特に、ラスト、ベッドの下から出てくるキャロルの姿、、、。

 強いて難癖をつけるとすればラストショットですかね。キャロルがああなってしまったことの暗示なのだと思いますが、あれはちょっと蛇足かもです。途中に、しっかり映しているシーンがあるし、大家との会話でも話題に出てきますので、あれで十分だったかも、という気がします。あの辺が、ポランスキーの若さかも知れません。

 オープニングがイケてます。このオープニングからドキドキして惹き込まれます。あとはラストまでまっしぐら!! こぇぇ~~~っ!!




これぞ良質なホラー映画だ!!




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愛して飲んで歌って(2014年)

2015-04-03 | 【あ】



 ジョルジュが癌だって・・・。

 と、かつてジョルジュと何かしら縁があった女たち3人は分かると、何かと彼に関わろうとする。でも、当のモテ男ジョルジュは一度も顔をスクリーンには出さないから、どんだけイイ男なんだよ、って分かんない。

 が、3人の女たちの話を聞いていると、イイ男かも知らんが、トンデモな男でもあることが分かって来る、、、。3人の女全員を(もちろん別々に)旅行に誘っていることが判明し、あまつさえ、そのうちの1人の女の娘(16歳)にまで誘いを掛けていたんである。

 そうやって女たちがわーわーやっている横で、その夫たちはオロオロするばかり。
  
 アラン・レネの遺作。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 結局、おしまいまでジョルジュは出てこないんです。分かってましたけど、一体、どんな男なのかと、却って興味を掻き立てられますよねぇ。ま、一見しちゃえば、なーんだ、こんなんかよ、ってなるのが分かっているので、敢えて出さないのは正解ですが。

 もともと戯曲だったものを映画化した作品ということで、映像も、ハリボテセットをバックにした、舞台そのものです。途中、暗転代わりに、車窓からの実写風景に登場人物たちのそれぞれの家の書割イラストがオーバーラップする、という感じです。

 まあ、私は、映画は好きだけど、演劇ってあんまし興味ないんですよね。舞台とか観劇に行ったことも数えるほどだし。なんていうか、見ていて入り込めない、というか、、、。もちろん、映画だって作り物には違いないんだけれども、やっぱり舞台は箱庭的というか、、、(「というか」ばっかだなぁ)。

 でも、本作は、何となく興味をそそられて、仕事帰りに見てきました。

 で、まあ、感想は、一言でいうと、やっぱし舞台劇だよね、ってことでした。どうして、こういう舞台劇をまんま映像化するのか、その意図が、私には分からないのです。折角「映像」というツールを使うのですから、そのツールの持つ可能性を最大限使わない理由が分からない、というか、、、(また「というか」を使ってしまった)。

 話の筋はそのままでも、別に、もっと違う手法はあったろうになぁ、と。どうせならそっちを見たかったかな。

 まあ、でも、この場合、観客をこの劇に集中させるために、こういう形を選んだんでしょうから、そこをとやかく言っても仕方ないのよね。

 話自体は面白いと言えば面白いけど、「女vs男」みたいな感じがして、ちょっとイヤだったかな~。「こういうとき女ってやつは・・・」とか、「こういうとき男って・・・」とか、そういう声が聞こえてきそうな。「女と男の違い」という切り口で描き分けるのって、ちょっと陳腐な気がする。これは、大分前に見たキアロスタミの『トスカーナの贋作』でも感じたことだけど・・・。巨匠と言われる人々が敢えて陳腐に手を出す、、、うーん、何故だろう。

 そりゃ、違いますけどね、女と男は、明らかに。でも、それは肉体的、生理的なモンであって、こういう陳腐感を抱いてしまうのって、つまり「男脳・女脳」みたいな、トンデモ系の似非科学の匂いのする、もっと言っちゃうと「バカ」っぽいんですよね。巨匠に対して、とんだ暴言、失礼。

 私は女だけれども、登場人物の女3人誰にも共感できませんでした。正直、まあ、劇だから面白いとは思うし見ていられるけど、アホらしい、と思っちゃいました。どうせ、男だ女だ、とやるんなら、むしろ、ジョルジュは女にすべきで、それを知ったかつて関係のあった3人の男たちがその女に関わろうとして鞘当てする、って方が、まだアホらしくなかったかも。だって、それこそ、男の人の方がロマンチストなんでしょ? ま、癌で死にそうなシワシワの婆さんじゃ、オハナシにならないってぇなら、50歳を前にあんまりヤツレない病気で若死にしちゃいそうな美魔女にするとかサ。手はいくらでもあるじゃん。どうせ姿は見せないんだし。

 ラスト、ジョルジュと本当に旅行に行ったのは、16歳の娘でした。でもって、ジョルジュは旅先で死ぬみたいなんですが、本当の最後の最後に、この娘がチラッと登場し、ちょっと謎めいたシーンが用意されています。これをどう解釈するか。

 はて、、、。私、正直言って分かりません、今も。見てから1週間近く経つんですけど。まあ、ホントにブラックにするんなら、16歳の娘がジョルジュを葬った、ってことかなぁ、という気もするんですが。でも、まあ、あんまし深く考えることでもないような。

 アラン・レネ作品は難解難解と言われてばかりで、ついつい手が出ずじまいで、今まで見たことないんですが、映画友がもの凄く好きだそうなので、これを機に、ちょいちょい見てみようかな、と思っております。
  





アラン・レネの遺作。初めて、アラン・レネ作品を見た私。




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