映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

窓ぎわのトットちゃん(2023年)

2024-07-18 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81218/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 好奇心旺盛でお話好きな小学1年生のトットちゃんは、落ち着きがないことを理由に小学校を退学になってしまった。

 そんなトットちゃんは、新しく通うことになった東京・自由が丘にあるトモエ学園の校長先生に、「君は、ほんとうは、いい子なんだよ。」と優しく語りかけられる。

 子どもの自主性を大切にする自由でユニークな校風のもと、トットちゃんはのびのびと成長し、たくさんの初めてを経験していく。

=====ここまで。

 黒柳徹子の自伝「窓ぎわのトットちゃん」原作。


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 昨年末に劇場公開された本作。公開中に絶賛コメントがTwitterのTLに流れて来て、へぇー、と思って見ていたのだが、劇場まで見に行く気にもなれないままに気付いたら終映していた、、、。

 先日、早稲田松竹で『君たちはどう生きるか』と2本立てで掛かったので、話題作2本一気に見られるなら見に行くべ、、、と思って、暑い中見に行ったのでした。アニメだからか、お子様連れもちらほら。この映画館でお子様は日頃ほとんど見ないので新鮮な光景でありました。

 で、アニメを2本見たわけだけど、『君たち~』はちょっとアレだったので、別にまたまとめで書こうと思います。


◆徹子の家

 結論から言うと、なかなか良かったです。絵が可愛らしいのとは対照的に、ストーリーはかなりシビアで終盤は悲劇的な展開でもあり、見応え十分。Twitterで絶賛している人たちがいたのも納得である。

 徹子さんはご本人も認めているようだが、明らかなADHDであり、今ならば教育現場での理解も大分広まっているけれども、当時はただの“扱いにくい子”だったのね、、、。でも、私が子供の頃でも発達障害なんてゼンゼン知られていなかった(単語自体見聞きしたことがなかった)し、やはりただの“扱いにくい子”認定されていた子たちはたくさんいたのだろうなぁ、と思われる。

 そんな徹子さんの幸運は、トモエ学園という彼女にとって最適な居場所が見つかったことである。これ、普通の学校をたらい回しにされていたら、もしかするとその後の徹子さんの人生も変わっていたかも知れぬ。

 あと、やはり、徹子さんの場合は、家庭環境も良かったし、何より本人が非常に賢かった。だから、トモエ学園という居場所が出来て、より彼女は伸びやかに成長することができたのではないか。あのように知的水準の高い両親でなく、経済的にも恵まれず、本人の知能も普通、、、であれば、トモエ学園に行っていたからといって、その後の黒柳徹子が出来上がったとは到底思えない。


◆徹子、糞尿まみれになる

 私が一番印象に残ったのは、徹子さんが汲み取り便所に落としてしまった財布を探すために、柄杓で中の汚物を全部掻き出してしまうシーン。まあ、それも十分印象的なんだけど、グッと来たのは、それを見た校長の小林先生が「ちゃんと全部戻しとけよー」と言ったこと。しかも口調がちょっとお怒り気味だった(ように聞こえた)。多分、相当臭っただろうし、不潔極まりない状況だったに違いないのだが、無理に止めさせない(きっと止めても逆効果なのが分かっていたんだろう)ってのが、すごいなー、と。

 私は子育てをしたことがないから実感としては分からないが、周囲の大人にとって「見守る」って一番の苦行ではないだろうか。口や手を出す方が、はるかに楽なはず。だって、子供をコントロール出来るから。コントロールした方が、何かと大人の面倒が減るわけだ。この汲み取り便所のシーンでも、途中で止めさせた方が、臭いだって広がらないし、糞尿まみれになった徹子さんを綺麗にしてやる手間も省ける。でも、そうしないで、本人が納得するまで糞尿を掻き出させる。……いや、恐れ入ります。

 さらにすごいのは、先生に言われたとおり、掻き出した糞尿を全部戻した徹子さん。誰にも助けを求めることもなく、一人でやり切る。結局財布は見つからなかったが「もういいの!」と糞尿まみれになりながら、顔はさっぱりとした表情で言い放つ。すげぇ、、、この子はやはりタダもんじゃない。

 徹子さんと一番仲の良かった泰明ちゃんとの交流シーンは微笑ましいのだが、それだけに、終盤で泰明ちゃんが亡くなるのは涙なしでは見られない。そして戦争。トモエ学園も焼け落ちる。徹子さんの家も取り壊される。

 小林先生が燃え盛るトモエ学園を背に振り返って「今度はどんな学校を作ろうか……」と言うのだが、そのときの小林先生の目が、背後の炎が透けて見えているみたいでやや不気味な絵になっていた。これは、トモエ学園は再建できなかったんだろうな、、、と思わせられた。

 本作を見た後、たまたまNHKの「新・プロジェクトX」でこのトモエ学園の創設者である小林先生を取り上げていたのだが、やはりトモエ学園は再建されなかったらしい。

 それにしても、人生において、教師や指導者の存在というのは、本当に大事だと思い知らされる。その教師らが良いか悪いかで、大げさでなく、人一人の人生が激変しかねないくらいの存在である。教師という職業はもっと大事にされるべきで、もっと人材育成に資源を注ぐべきだと思うが、今の我が国の現状を見ると、先行きが明るいとは到底思えないのが辛い。

 

 

 

 


リトミック、私も幼稚園児のときに通っていたっけ、、、。 

 

 

 

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マエストロ:その音楽と愛と(2023年)

2023-12-30 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv83880/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 ウクライナ系ユダヤ人移民の2世としてマサチューセッツ州ローレンスに生まれたレナード・バーンスタインは、美容器具販売業を営む父の反対にあいながらも、プロの音楽家の道を志す。

 決して恵まれた音楽環境ではなかったものの、ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督に就任するレナード。チリ系アメリカ人の女優フェリシアとパーティーで出会ったのは、そんな希望に満ちた1946年だった。

 レナードとフェリシアは結婚、ジェイミー、ニーナ、アレクサンダーと3人の子どもを授かる。だが、フェリシアは結婚前からレナードが男性と関係を持っていることを知っていた……。

=====ここまで。


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 バーンスタインが亡くなって、もう30年以上経つのか、、、とビックリ。個人的には、指揮者としての彼は、まぁ、、、別に好きでも嫌いでもないのだけど、やはり、作曲家として天才だと思っています。……といって、彼の作品は聴いたことないものの方が多いんだけど、あの『ウエスト・サイド物語』だけ聴けば、その才能が分かるというもの。

 本作は既にネトフリで配信しているけど、演奏シーンもありそうなので、やっぱし劇場で見るでしょ、これは、、、と見に行ってまいりました。

~~以下、本作で感動した方、本作をお好きな方、、、はお読みにならない方が良いです。悪意はありませんが、かなりの悪口になっておりますので。~~


◆なんじゃこりゃ、、、(心の声)。

 正直に言います。この映画は、かなり時代遅れだと思います。

 21世紀のこのご時世に、夫婦愛のキレイごとを描く意味って、どんくらいあるんでしょーか? んで、もひとつ言うと、実在した人物の物語を描くのに、その人物について忠実に模写する意義って、どんくらいあるんでしょーか??

 イマドキ、こんな内助の功映画、誰が見たい? こんだけセクシャルな問題が世界的に多々噴出している時代に、妻の忍耐の上に成り立った夫の奔放極まる人生を思いっ切り表層的に描いている作品、、、70年代かよって、ビックリ。時代錯誤とまでは言わないが、機を見るに疎すぎるのでは。

 おまけに、もうさんざんやりつくされた感のある“ソックリさん芸”。ブラッドリー・クーパーの熱演は、まさに“熱演”であり、まったくもってウザいの一言。彼の演技には、高峰秀子様のこの辛辣なお言葉を進呈しよう。

“よく映画評論家に「熱演」などと書かれてウハウハ喜ぶ俳優がいるけれど、熱演に見えるのは、つまり画面からハミ出している、ということで、一言でいえば出しゃばりすぎ、「オマエ、シロートだねぇ」と言われているのと同じこと。俳優にとっては「恥」だと私は思っている。”

 2時間以上ある本作だが、もうほとんどの時間、ドン引きして見ていた。本作関係が、来年のオスカーの主要部門を複数ゲットするようなことがあれば、既に私の中では地に堕ちているアカデミー賞に対する価値は、跡形もなく霧散することになるだろう。それくらい、本作は映画としてお粗末である。


◆敢えて見どころを挙げる。

 本作で見るべきところがあるとすれば、たった1つ。それは、中盤の、イーリー大聖堂での『復活』の演奏シーンだ。ブラッドリー・クーパーの“熱演”が、ではなく、その音楽が、、、である。

 私、あんましマーラーって好きじゃない、、というか、嫌いじゃないけど、シンフォニーだと良さが分からんのが結構ある。特に、歌付きのは、聴いているだけで疲れる曲もあり(8番とか、、、)、CDも全曲は持っていない。2番はその中では聴きやすい方だと思うが、それでもあんまし積極的に聴きたくなる曲ではなかったのだが、今回、このシーンを見て“あら、、、この曲ってこんなにイイ曲だったんだっけ??”と思ったのだった。

 しかも、この音源は、実際にクーパー指揮でのものだという。サントラも、クーパー指揮で出ているらしい。あの『ター』と同じ趣向だ。Amazonで見ると、ネゼ・セガンの名前も並列して書かれているので、全てクーパー指揮の音源ではないのかも? よく分からんが。

 で、このシーンの持つ意義は、“本番の演奏会シーン”であることだ。『ター』でも書いたが、指揮者の真価は、やはり“本番でしか分からない”。そういう意味で、このイーリー大聖堂での本番シーンを入れたのは、稀代の指揮者の映画を撮るという志を強く感じられるものであり、素晴らしい。特に、『ター』を割と近い時期で見ているから、その対比で余計にそう感じたのだと思うが、、、。

 ……マジで、これ以外に、私的には見るべきところがほぼない映画であった。驚いたことに、エンドマークが出た直後に、劇場内でパラパラと拍手が起きたんだが、感動した人もいるんだなぁ、、、と不思議な感じがした。やはり、見る人によって感じ方ってゼンゼン違うのだね、当たり前だけど。

 キャリー・マリガンが出ていなかったら見なかったかも知れないのだが、、、彼女自身は良かったけど、ちょっともったいなかったかな。タイトルが“マエストロ”だから、バーンスタイン自身が主人公かと思うけど、実際には、彼女が演じた妻が主人公の話だよなぁ、これ。タイトルが詐欺やない?

 折角バーンスタインをとりあげるのなら、その天才っぷりが如何なく発揮された作曲家としての人生を主軸に描いてほしかったね。夫婦善哉なんかもういらん。3人の子たちの全面協力があったってことらしいけど、だからこういう映画になったんだろうな、、、としか思えない。ある人物を描くのに、身内の協力を得たら、そら負の側面は絶対に描けないもんね。人間、善だけの存在なんてあり得ないんだから、遺族の協力なんか得るのはクリエイターとしてはちょっと甘いかな、とも思う。

 

 

 

 

 

 

老けメイク、、、リアル過ぎてちょっと気持ち悪かった。

 

 

 

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マルケータ・ラザロヴァー(1967年)

2023-11-23 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77266/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 舞台は13世紀半ば、動乱のボヘミア王国。ロハーチェックの領主コズリークは、勇猛な騎士であると同時に残虐な盗賊でもあった。ある凍てつく冬の日、コズリークの息子ミコラーシュとアダムは遠征中の伯爵一行を襲撃し、伯爵の息子クリスティアンを捕虜として捕らえる。王は捕虜奪還とロハーチェック討伐を試み、元商人のピヴォを指揮官とする精鋭部隊を送る。

 一方オボジシュテェの領主ラザルは、時にコズリーク一門の獲物を横取りしながらも豊かに暮らしていた。彼にはマルケータという、将来修道女になることを約束されている娘がいた。

 ミコラーシュは王に対抗すべく同盟を組むことをラザルに持ちかけるが、ラザルはそれを拒否し王に協力する。ラザル一門に袋叩きにされたミコラーシュは、報復のため娘のマルケータを誘拐し、陵辱する。部族間の争いに巻き込まれ、過酷な状況下におかれたマルケータは次第にミコラーシュを愛し始めるが…

=====ここまで。


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 昨夏だったか、イメージフォーラムで上映していたけれど、暑過ぎて渋谷まで行く気にならず(って言い訳だけど)見逃してしまった。あーあ、残念、、、と思っていたら、先日、早稲田松竹のレイトショーで上映してくれた。ありがとう、早稲田。夜遅くに3時間近く大丈夫かな、、、と心配だったけど、ゼンゼン杞憂だった。

 本作は、“チェコ映画史上最高傑作”なんてキャッチコピーで宣伝されていたんだけど、ん~~、そうなのかぁ。チェコ映画というと、私が思い浮かべるのはシュワンクマイエルなのだが、まあ、ちょっとジャンルが違うので比べようがないかな。『異端の鳥』と雰囲気は似ているか(モノクロだからかな)。

 とはいえ、確かに映像はキレイだし、何より個人的に音楽がとっても気に入った。ポリフォニーみたいな、聖歌みたいな、グォ~~~~ンって感じの唸るようなの。それが要所要所で流れる。宗教色も感じる画と併せて、ちょっと荘厳な感じさえある。

 そもそも、13世紀なんて想像もつかない遠い世界、おまけに東欧、、、世界史に疎い私にとっては、歴史的な背景とかゼンゼン分からないけど、本作は、同名の小説が原作で、設定はまったくのフィクションとのことで、まあ、一種のダーク・ファンタジー映画だと思って見た。

 タイトルでもある少女マルケータ・ラザロヴァーは、重要なポジションの人物ではあるけれど、あんまし出番は多くない。序盤と中盤と終盤にちょこちょこと出て来る、、、という感じ。レイプされた相手を好きになるとか、、、ちょっとねぇ、なところもあるが、それも“中世だからね”ってことで脳内処理(これについてはここでは敢えて言及しないことにします)。

 ストーリーとしては、日本でいえば豪族みたいな土地の有力者同士の仁義なき戦いであり、そこに、土着の宗教とキリスト教が絡んで来て、何だかややこしい。中盤以降は、流浪の修道士が狂言回し的に出てくるんだが、キリスト教の修道士には見えない。

 マルケータは、修道女になるはずだったので、誘拐された後に解放(?)されてから、終盤になって修道院に行くのだけど、修道院では持参金が足りないとか言われて冷たくあしらわれ、マルケータ自身も修道女たちの祈りに懐疑的で、結局、修道院を去ってしまう。……とかいう話の流れも、序盤に突然バーンと現れた修道院の画が、修道院に対して批判的な印象を受けたので、終盤でこのような展開になるのは、やっぱり、、、という感じだった。

 キリスト教といえば、捕虜にされたクリスティアンがその象徴的な存在か。最終的には、クリスティアンと、コズリークの娘アレクサンドラの間に子が出来て、それをマルケータが自分の子と一緒に育てる、、、というオチなのだが、こうしてキリスト教が土着の宗教と混じり合いながら浸透していったってことなのかしらね。私は、このクリスティアンが見ていて一番可哀相だったなぁ。途中から、彼の父親が登場し、クリスティアンを救えとピヴォを顎で使おうとする。クリスティアンは状況を理解して行動できる賢い人の印象だが、その父親はいけ好かないワガママ爺ぃ。クリスティアンはコズリークらとの板挟みになり、結局死んでしまうのだから気の毒すぎる。

 もう一回くらい見れば、もう少し色々分かるかな~。でも、見る機会があるかしらん。パンフの執筆陣が豪華で、迷わずゲット。やはり、こういう映画のパンフには、映画ライターのコラムなんかより、チェコ文学研究者とか、チェコ史研究者とか、そういう方々の論評を載せてもらった方が有難い。

 ポスター(↓と同じメインデザイン)がすごい素敵で、こちらも思わず買っちゃいました。

 

 

 

マルケータを演じたマグダ・ヴァーシャーリオヴァーさんは、現在、外交官・政治家なのだって!

 

 

 

 

 

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マイ・ニューヨーク・ダイアリー(2020年)

2022-05-18 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv76229/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 作家を目指すジョアンナは、老舗出版エージェンシーでJ.D.サリンジャー担当の女上司マーガレットの編集アシスタントとして働いている。

 そんな彼女の仕事は、サリンジャー宛に世界各地から大量に届くファンレターの処理。心揺さぶられる手紙に触れるにつれて、定型文で返事を返すことに気が進まなくなった彼女は、個人的に手紙を返し始めることに。

 偉大な作家の声を借りていくうちに、ジョアンナは、友人や恋人との関係や、自分の将来について見つめ直していく。

=====ここまで。

 
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◆舞台『みんな我が子』の前に時間があったので、、、(言い訳をしたくなる)

 サリンジャー、全然知りませんけど、おまけに、予告編から私とは合わない臭がしたんですけど、同業者が主人公となれば、一応見ておきたいかも、、、と思い劇場まで行ってしまいました。

 ……というのも、その日は午後からアーサー・ミラーの『みんな我が子』を見る予定だったので、午前中が中途半端に時間があるってことで、本作だけが辛うじて時間が合いそうだったのでした。

 『みんな我が子』についての記事を書く予定はないので、サクッと感想を書き留めておきますと、私としては演出に対してものすごく疑問を感じました。堤真一はさすがに上手いけれど、他の役者さんたちの演技は単調に見えたんですよね。感情の盛り上がりをセリフをがなり立てるだけで表現しているというか、、、。

 まあ、私の演劇に対する審美眼など当てになりません。さっき知ったんですけど、関係者にコロナ感染者が出たとかで5月17日(昨日ですね)から22日までの公演が中止になったとのこと、、、。これはファンはさぞやガッカリでしょう。中止にしなきゃいけないのは仕方ないんでしょうが、もう世の中すっかりコロナ前と変わらない状況で、なんだかちぐはぐな感じは否めませんね。もちろん、これは本作関係者の責任では全くありません。役者さんたちも相当ハードな稽古だった様なので、早く再開できるといいですね、、、。

 というわけで、前振りが長くなりましたが、本作の感想です。


◆サリンジャー・ストレンジャー

 「ライ麦畑~」なんて、高校の英語Readerの教材で一部分だけ読まされた記憶があるだけで、内容はほぼ覚えていないんだけど、ゼンゼン面白いと思えなかったのは何となく覚えている、、、。まあ、授業だからねぇ。和訳して文法の説明するくらいのテキトーな授業だったから、、、。サリンジャーがどんな人かなんていう背景の説明も、当然なかった気がする(私が聞いてなかっただけかもだけど)。

 そんなんだから、見ても訳分かんないかもなー、と思って見に行ったけど、サリンジャー関係で分からないということは全くと言っていいくらいなかったです、はい。

 ただ、映画全体としては、イマイチ分かんなかった。

 ストーリー云々以前に、シナリオがマズいと思ったな~。構成がすごく雑というか、ブツ切りで、はぁ?という展開が結構ある。

 主人公のジョアンナは、西海岸に住んでいるんだが、以前住んでいたNYに旅行で来て懐かしくなって居着いてしまい、、、で、仕事を探して、誰もが憧れる名物編集者のアシスタントに収まると、早々に彼氏もできる、、、、とか。

 まあ、それはいいとして、与えられた仕事は、サリンジャー宛に届いたファンレターに定型文章の返事を出すことなんだが、そこから、サリンジャー本人と電話だけの交流が始まったり、上司のプライベートに思わず介入したり、西海岸に置いて来た彼氏が訪ねて来たり、、、、とかエピソードに何の関連性もなく、説明もなく、話がどんどん進み、見ている方は置いてけぼり、、、。

 ジョアンナ自身が作家志望で、結局、書きたい人間は編集者(というか、正確にはエージェントなので、編集者とも違うっぽい)には向いていない、、、とかいう謎の理由で仕事もやめる。

 ……てな具合に、オチまで、え、、、何で??って感じで、着いていけなかった、ごーん、、、、。


◆編集というお仕事

 巷では、『プラダを着た悪魔』の出版業界バージョンだ、、、などとも言われているみたいだが、まあ、全然違いますね。『プラダ~』もさほど好きじゃない(というか、あんまし覚えていない)けど、本作よりは面白かった。バリバリの上司(メリル・ストリープ VS シガニー・ウィーバーでいい勝負のはずなのに)の魅力が段違い。

 シガニー・ウィーバー演ずるマーガレットさまは、確かに厳しい上司ではあるけど、どんくらい有能なのかが描写不足で全く分からん。ジョアンナが少女のころ好きだったという童話作家(だったと思う)が久しぶりに書いた作品を持ち込んで来ても厳しいこと言って追い返す、、、というシーンがあったけど、ああいうのは陳腐っていえば陳腐だしね。まあ、それだけリアルではよくあることだとは思うけど。工夫が感じられない、シナリオに。

 ……とか書いていて思ったのは、編集者(本作はエージェントだけど)の仕事自体が、画にならないのかもなーと。あれはダメ、これもダメ、とか偉そうに言っている人みたいな。

 もちろん、企画力の優れた、本当に素晴らしい編集者も大勢いらっしゃいますが、少なくともマーガレットさまがどれほど素晴らしいのか、本作を見ただけじゃ分からんかった、ということ。

 あと、書きたい人間は出版社は(編集者として)嫌う、みたいなことが言われていたが、そうなの? アメリカでは、ってこと? 編集者上がりの作家は少なくないけど、「自分は(作家としては)書けないから編集者になる」みたいな人も確かにいる。私としては、そっちの方がどうかと思うけど。

 本作がイマイチだった一番の理由は、ヒロインのジョアンナが全然魅力的じゃないってこと。彼氏がいるのに、気ままに居着いたNYでさっさと作家志望の男ドン(ダグラス・ブース)と同棲し、その男も自己チューで自意識ばっかり高いガキんちょなヤツだし。結局、彼女はマーガレットの下でろくに仕事もしていない。サリンジャーにちょっと気に入られたのと、自分が気に入った作家の原稿の出版がマーガレットに許可されたことくらいか。なんかその辺もイマイチよく分からんかった。

 ダグラス・ブース、『メアリーの総て』のパーシーもなかなかのゲスっぷりだったけど、本作でのドンもキャラがサイテーだった。

 とにかく、編集者の端くれとして、編集の仕事の魅力がまっっっっっっっっっったく描かれていなかったことに、私はちょっと自虐的な気分になっている。そんなもんねぇんだよ、と言われた気がしてね、、、がーん。

 

 

 


 

 

 


『ワーキング・ガール』のシガニーねえさんの方がカッコよかったなぁ。

 

 

 

 

 

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魔術師(1958年)

2021-12-01 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv12490/


 
 以下、映画.comよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンが、魔術師の旅芸人一座と彼らのトリックを暴こうとする役人たちが繰り広げる騒動を描き、ベルイマン初期の到達点とされる傑作喜劇。

 19世紀スウェーデン。魔術師フォーグラー率いる旅芸人一座が、ある町にたどり着く。暇を持て余していた領事エガーマンは彼らを屋敷に拘束し、警察署長や医師らの前で芸を披露させてそのトリックを見破ろうとするが……。

=====ここまで。
 

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 ベルイマンというと、どうも難解というイメージがあるのだけれど、映画友が言うには、初期の頃のは結構面白いのだそうな。初期っていつ頃のことまでをいうのか分からないけど、本作は、初期になるのか? まあともかく、見終わって、これはコメディだな、と思いました。

 のっけから、シドー演ずるフォーグラー博士と名乗る魔術師は“口がきけない”とかってことになっていて声一つ発しない。マックス・フォン・シドー、めっちゃ怪しい風体をしていて、これだけで、この博士とやらはイカサマとバレバレ。

 この博士を含む魔術師一団は馬車に乗って移動中なんだが、そこでの会話がなんとも可笑しい。通りすがりに死にかけている自称役者の男を拾って、死にそうとか言っている割によく話すその男を交えて、「未来になんて過去同様興味がない」とか「真実が存在すると思っているのか」とかいう会話をしている。これはベルイマンの宗教観の表れなのかもしれないけど、単純にやりとりがヘンで笑える。

 とある街で領事館に招かれて、領事は口のきけないフォーグラー博士に向かって「魔術を見せろ」と言う。この領事は、本当に魔術が存在するのか、知り合いの医師と賭けをしている、、、とか、もう話がヘンすぎて……。死にかけの自称役者も本当に死んじゃうし。

 もちろん、魔術もインチキなんだが、その領事館にいる人たちも変人ばかり。中でも、領事の妻は、「夫とはもう冷めた関係で一人で寝ているから、夜中の2時に寝室に来て」とか言ってフォーグラー博士を誘惑しに来る。で、待っている妻の部屋に現れたのは、フォーグラーではなくて夫の領事だった、、、とか。

 フォーグラーには、一座の中に妻がいるのよね。その妻は男装しているから、領事の妻には分からなかったのです、お気の毒に。

 領事館には当地の警察署長夫婦もいて、一座がインチキ魔術を披露している場に冷やかしに来ていたんだが、フォーグラーが催眠術をこの署長の妻にかけると、なぜか署長妻は夫の悪口をペラペラと喋りだす。しかも催眠が解けると本人は自分が何を言っていたかケロッと忘れている。インチキ魔術やなかったんかい! と、そらみんな思うわね。署長の面目も丸つぶれ。

 で、催眠術が本物かどうか、領事館の夜警の大男に催眠をかけさせるんだが、大男は見事に催眠にかかって身動きがとれなくなる。どうやらインチキではないらしい。しかもこの大男、催眠が解けた瞬間にフォーグラーに飛び掛かって、フォーグラーを絞め殺してしまうのだ! 賭けをしていた医者が死亡を確認する。

 この医者は、医師という職業に懸けてこの魔術師の遺体を解剖する。すると、その解剖の部屋に、フォーグラーの幽霊が現れるんである!!

 ……というのも、もちろんトリックありで、医者が解剖していたのは、途中で死んだ自称役者の男で、フォーグラーは死んだと見せかけてこの自称役者の男と入れ替わっていたのでした。

 この、フォーグラーの幽霊が医者を追い回すシーンも、なかなかシュール。医者は本気で怖がっていて、それを見てフォーグラーは留飲を下げるのだ。映像的にもなかなか凝っていて面白い。

 口のきけないはずだったフォーグラーは、領事館の連中にインチキのネタバレをぶちまけ、領事や医者に金を無心するものの失敗に終わり、一座の人々もちりぢりになって、無一文で再び放浪の旅に出ることとなる。

 失意のうちに旅立とうとするフォーグラーとその妻だったが、何とここで、、、というラストのどんでん返しで終わる。ラストのオチは、大したオチじゃないけど、書くのはやめておきます。……は?? みたいなオチです。ベルイマンの宗教に対する批判的な視線の表れなんでしょうかね。

 あれほどフォーグラーに色目を使っていた領事妻、フォーグラーが正体を露わにしたとたん、冷めた関係のはずの夫にしがみついてフォーグラーを化け物を見るみたいに見ていたのが、これまた可笑しい。とにかく、ベルイマンのアイロニカルな視線があちこちに感じられます。

 宗教に詳しい人が見れば、もっと知的な楽しみ方ができるのかもしれないけど、単純に映画としても十分面白いです。テイストはシリアスそうだけど、実はゼンゼン、、、という。『第七の封印』と、そういう意味では似ているなー、と思いました。あれもブラックコメディだもんね。本作よりキリスト教観が強いけど。

 マックス・フォン・シドーのインチキ博士っぷりがなかなかサマになっていて良かった。男装の妻を演じていたのは、イングリッド・チューリン。『地獄に堕ちた勇者ども』での彼女とあまりにも違いすぎてビックリ。
 
 

 

 

 

 

 


未見のベルイマン作品を見てみます。

 

 

 

 

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マイ・ブックショップ(2017年)

2021-10-09 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv66905/

 

 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1959 年のイギリス。夫を戦争で亡くした未亡人のフローレンス(エミリー・モーティマー)は、書店のない保守的な地方の町に、周囲の反発を受けながらも書店を開店する。

 やがて彼女は、40 年以上も邸宅に引きこもり、ただ本を読むだけの日々を過ごしていた老紳士ブランディッシュ(ビル・ナイ)と出会う。読書に対する情熱を共有するブランディッシュに支えられ、書店を軌道に乗せるフローレンス。

 だが、彼女を快く思わない地元の有力者ガマート夫人(パトリシア・クラークソン)が、彼女の書店を閉店に追い込もうと画策していた……。

=====ここまで。
 

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 7日の夜の地震、久しぶりにびっくりしました。揺れが来る前に、変な地鳴り音がしたので、「これはヤバい、、、」と思った瞬間、強い突き上げが来ました。地鳴り音を聞いたのは、あの阪神大震災以来かも知れません。最大震度5強で、大きな被害はなかったですが、翌日は案の定、交通機関に影響が出て大混乱になっていました。この「何が何でも出勤!!」っていう日本の悪癖、何とかならんものでしょうか。私の利用している交通機関は平常と変わらなかったので良かったけれど、2時間遅れで出勤してきた人もいて、何だかなぁ、、、という感じでした。

 とはいえ、こういうことが起きても淡々と日常にすぐ戻れるのは、地震国日本ならではでしょうね。大分前に、震度5か4くらいの地震がNYだったかであったときに、この世の終わりみたいな反応をしている現地の人たちをTVで見たことがあるけど、やはり慣れていない人にとってはもの凄い恐怖なんでしょうね。慣れていたって、震度5ともなれば怖いです。

 さて、本作ですが。公開時に見に行こうかな~、と思いつつ、結局行かずじまいに。2019年公開だったのですね。昨年かと思っていましたが。時の経つのは早いものですねぇ。


◆本だってジャケ買いする。

 本作中、なにより私が目を奪われたのは、フローレンスのお店に並べられた書物の装丁の美しさ。この映画のために作られたものばかりだそうだが、こんな書店が現実にあったら、しょっちゅう通ってしまって、読めもしないのにあれもこれもと買ってしまいそうだ。

 レコードやCDにジャケ買いがあるように、本にもジャケ買いがある。表紙のデザインが素敵過ぎて、中身はあんましよく知らんけど買ってしまった、という本、いっぱい積読してある、、、。もちろん、絵本じゃなくてね。あ、絵本でもありますが。

 ……で、それをいうなら、映画だって、ジャケ買いならぬ、ポスター惚れ、ってのがあるよなぁ。監督やら出演者やらゼンゼン知らないけど、このポスター素敵、、、っていう理由だけで劇場まで行ってしまう。最近だと、『マーティン・エデン』(2019)『異端の鳥』(2018)とかかな。ちょっと前になるが『ブランカニエベス』(2012)もチラシを一目見ただけで、絶対劇場で見たい!と思ったのだった、、、。そういう映画は、意外にハズレが少ない気がするなぁ。やっぱり、イメージ画像って、その映画の象徴だから(まぁ、外国映画の場合、日本の配給会社でゼンゼン違うのになっちゃったりもするが)、それで惹きつけられるってことは、作品にも相応の引力があると思われる。

 だから、本も同じで、装丁がステキな本は、中身も良い、、、かというと、意外にこれがそうでもなかったりする。いや、中身が悪いという意味ではなくて、期待していた方向性じゃないとか、よく分からんかった、、、とかそんな感じ。でも、本の場合は、書棚に並べておくだけで目の保養になるから、ジャケ買いしたことはほぼ後悔しない。というか、買って後悔するような本は、多分、そもそも買わない。センサーが働かないから。

 とにかく、本作の見どころの一つは、フローレンスのお店に並ぶ本そのものであります。


◆個人書店の悲哀

  愛する亡き夫が読書家で本が好きだった、、、という動機で、書店のない田舎町に書店を開こうとするフローレンスの、しなやかでしたたかなところが良い。金儲けが好きなガマート(すごい名前!)夫人の陰に陽にの嫌がらせも、風に揺れる柳のようにやり過ごす。これが余計にガマート夫人の癪に障る。

 ガマート夫人は容赦ない。カネとコネにモノを言わせて、“芸術センター設立”という自分の欲求を実現すべくブルドーザーの如くフローレンスの店に襲いかかってくる。さすがの柳フローレンスも太刀打ちできずに、あえなく撤退となる。

 ここに至るまでに、ビル・ナイ演ずるブランディッシュ氏とフローレンスの間に切ないやりとりがある。ブランディッシュ氏の求めに応じて、フローレンスが何冊か本を送り、、、で2人の間には信頼関係が築かれ、ブランディッシュ氏がフローレンスを自身の屋敷に招待するなどして、互いに信頼感以上の感情を抱くようになる。ガマート夫人の悪辣ぶりも知っているブランディッシュは、いよいよ崖っぷちに追いやられたフローレンスを助けようと、ガマート夫人宅へ乗り込むが決裂、その帰り道で倒れて帰らぬ人となってしまう。

 私は、ブランディッシュ氏がウルトラCを繰り出して、ガマート夫人を粉砕し、フローレンスの店を守る、、、のかな? 等とチラッと思ったが、そうではなかった。ブランディッシュ氏も実は資産家のようだし、何十年も引きこもって本ばかり読んでいるくらいの読書好きなんだから、せっかく出来たステキな書店を守るべく一肌脱ぐ、、、っていうのもアリかと思ったが、オハナシは極めて現実路線だった。

 あと、実は、ガマート夫人は昔ブランディッシュ氏のことが好きだったが、ブランディッシュ氏に相手にされなかった過去がある、、、とかかな、ともチラッと思ったがそれも違ったみたい。ブランディッシュがガマート夫人と直接対決するシーンで、そういうセリフが出て来るかと思って見ていたけど、出てこなかったもんね。まあ、そういうのがあると、ちょっと俗っぽくなって、本作の趣旨から外れちゃうか、、、と、一応納得はしたけど。そういう展開があっても面白いじゃん、と思ったり。だって、若い頃のブランディッシュ、相当ステキな青年だったはずだもんね。

 まあ、結局、ブランディッシュの行動も功を奏さず、フローレンスの店は差し押さえられてしまう。今の現実と同じで、個人の書店はやっぱり非力でした、映画の中でも。

~~以下、結末に触れています。~~

 

◆本で知るその人となり。

 ブランディッシュ氏のフローレンスへの注文は、「ノンフィクションは善人について、フィクションは悪人について書かれたものが読みたい」というもので、これに対してフローレンスが送る本のうちの一冊がブラッドベリの『華氏451』。このタイトルを見て、何となく結末を予感してしまったら、ラストは本当にフローレンスの店が燃えるシーンで終わる。それ以外にも、フローレンスと、お店を手伝いに来てくれる少女クリスティーンが、ストーブの取り扱いについて会話しているシーンがあり、これで、展開はほぼ確信した。……というか、本作を見た人誰もが予感しただろうと思う。

 ブランディッシュは『華氏451』をたいそう気に入って、ブラッドベリの本だけ送ってくれ、などと言うようになる。

 ブランディッシュ氏とフローレンスの間に、本を介して信頼関係が出来ていくという展開がとっても良いな~、と思って見ていた。何を読むか、どんな本を好むか、ってのは、かなりその人となりを現すもので、あまりハズレがないと言って良いと思うから。読んで感動する本を送ってくれた人を好きになっちゃうのって、すごく自然だと思うわ。んで、自分が選んだ本を気に入ってくれた人を好きになっちゃうのも、これまたすごく自然だと思う。

 大昔に、ちょっとイイな、と思っていた男性が村上春樹を愛読していると知って、一気に興味がなくなった記憶があるけど、そういうもんじゃない? 読書とか文学とかって。どうでもいいけど、毎年、ノーベルウィークになるとハルキーのことで騒ぐの、やめて欲しいわ。あれ、本人も嫌だと思うよ。

 とにかく、本作ではビル・ナイが最高にステキだった。ブランディッシュが亡くなった後、彼が次に読みたいと言っていた『たんぽぽのお酒』を胸にフローレンスが号泣するシーンが、とてもとても切なく、私も泣けてきた。書物を通じて生まれた大人の優しい愛情、、、なんて素敵なんだ。

 本作ではナレーションが入るんだけど、そのナレーションが、大人になったクリスティーンという設定。しかも、それはラストシーンで分かるという仕掛けになっている。老いたクリスティーンは書店を経営している様子。フローレンスの思いは、クリスティーンがしっかり受け継いでいたのね。このナレーションを担当していたのは、トリュフォーの映画『華氏451』に出演していたジュリー・クリスティー。もちろん、これは監督が意図したものだそうです。
 

 

 

 

 

 

 

 

映画“Dandelion Wine”見たいぞ~~。 

 

 

 

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マスターズ&スレイブス 支配された家(2018年)

2021-10-01 | 【ま】

作品情報⇒https://eiga.com/movie/95125/

 
 以下、wikiよりあらすじ等のコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 造園家のエヴィ・ミュラー・トッド(カッチャ・リーマン)と整形外科医の夫クラウス(オリバー・マスッチ)は、立派な家で優雅な暮らしをしている。

 ある日、クラウスは酔っぱらってネットの求人広告に“奴隷募集中”と記載し、妻に相談もなく新しいお手伝いを募集してしまう。その翌日、なんと家の前には大勢の“奴隷希望者”が…!

 すぐさま追い出したが、夜になってバルトス(サミュエル・フィンジ)という一人の男がミュラー夫妻を訪ねてきた。彼は様々な資格を持ち、「信頼関係に基づいたやりがいのある奉仕がしたい」と申し出た彼を戸惑いながらも受け入れることに。

 バルトスの極上のサービスはミュラー夫妻の生活をたちまち豊かにしたのだが、バルトスの若い妻や、庭にプールを建てる為にブルガリア人の奴隷も加わり、優雅な暮らしが次第に変化していく。

=====ここまで。

 ドイツ版『パラサイト 半地下の家族』と一部では言われてます、、、が。


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 もう10月。今年もこのままコロナに明け暮れて過ぎて行くのでしょうねぇ。緊急事態宣言は解除されたけれど、きっと次なる波はまた来るのでしょう。何かもう、どーでもいいや、、、的な気分になっております。

 さて、本作をリストに入れた経緯は記憶にありませんが、多分、オリバー・マスッチご出演なのでポチったのだと思われます。日本未公開みたいですね、これ。


◆終盤でガックシ。

 格差社会をドイツらしくアイロニカルに描いている、、、という一般的な評なんだが、“ドイツらしく”ってのが私にはよく分からんが、格差はメインテーマではないと感じた。背景ではあるけどね。

 だから、本作をドイツ版『パラサイト 半地下の家族』というのにはちょっと???である。毒のベクトルの大きさは同じくらいだけど、向きがゼンゼン違う。

 突然現れた、とにかく何でもできる使用人バルトスが、どう見ても怪し過ぎる。誰もが、こいつには何かあるに違いないと思うはず。そして、実際あるんだよ。しかも、それが途中で読めちゃうという、、、。

 多分これ、見る人の大半が読めちゃうんじゃないかと思うが、作り手の意図がイマイチ分からないのよね。見る者に推察されてもいいと思っているのか、どんでん返しを狙っているのか、、、。終盤の盛り上がりからして、恐らく後者だと思うんだけど、その割にはちょっとなぁ……という感じもするしね。

~~以下ネタバレですのでよろしくお願いします。~~

 つまり、バルトスは、クラウスの前のオーナーだったってことね、この豪邸の。私がどこでそうだろうと思ったかというと、クラウスがこの豪邸の前のインテリアについて「センスが悪い」と盛大に腐していて、バルトスがそれをじっと聞いているシーン。バルトスの表情は変わらないけど、カット割りがネタバレのようなそれだったので。

 エヴィは、だんだんバルトスの過剰な“おもてなし”が苦痛になり、クラウスもエヴィの気持ちを尊重して、バルトスをクビにするんだが、ここから壮絶なバルトスの復讐劇が始まる。復讐、つったって、自分の家を盗られた、自分の家のインテリアを貶された、という、全くの理不尽な恨みを抱いてのことなんだが。

 バルトスが家を手放した理由がイマイチ分からなかったんだが、別に、クラウスが不法に家を手に入れたとかではなかったはず。

 で、バルトスはあることをネタにクラウスを脅迫して家を取り戻そうとし、クラウス、絶体絶命!!みたいになるんだが、何と、土壇場でクラウスは脅迫から救われる。この救われ方がね、、、、もうズッコケもいいとこで。つまり、クラウスの予想もしない強力な助っ人が現れて、バルトスとその妻を拉致・監禁してくれちゃったわけ。

 ……ただまあ、その後、バルトスとの最終的な決着のつけ方がエグ過ぎて、私は見てられなかった(もちろん、エグいシーンは寸前で映りませんが。ヒントは“生きたままチェーンソー”です。ウゲゲ、、、)。

 正直、そんなのアリ? って感じやった。クラウスに自力で対決させなきゃ面白くないやん、、、とか。

 最終的に、クラウスはその強力な助っ人によって、家もステータスも失わずに済んだわけだが、この先、この強力な助っ人がクラウスの人生に何らか悪い影響を及ぼすことになるだろうね、、、。何せ、この助っ人は、世界を震撼させるテロリストの親玉なのだから。


◆誰かにかしずかれる生活をするということ。

 他人にかしずかれ、あれこれと気の利いた世話をされることが日常化してしまうと、やはり、人間、勘違いするものなんだろうな、、、と見ていて思った。自分はそれだけのことをされる価値がある人間なのだ、と。世話をする方は“仕事”だからやっているだけなんだけど。

 あと、クラウスの妻エヴィが鬱っぽいというのもミソ。最初は、痒い所に手が届く(かのような)バルトスの仕事ぶりに気をよくしている彼女も、次第に、それが上辺だけであることに気付き、さらに、庭にプールを作るために雇った貧しい外国人労働者たちの日常を目の当たりにすることで、また鬱がぶり返すという、、、。

 精神的に豊かな暮らしとは何か、ってことですかね。……ま、そんなに哲学的な映画じゃないですが。

 ある種のブラックコメディではあるかも知れないが、ラストのオチが悪過ぎるのと、途中からアイロニカルよりはソフトバイオレンス寄りになってしまったのが残念かなぁ。

 マスッチ氏は、ぶっ飛んだキャラを楽しそうに演じておられて、見ている方も楽しかった。『帰ってきたヒトラー』(2015)とはゼンゼン別人のようだった。ほんのちょっと、マッツ・ミケルセンに似ているかなぁと感じたのだけど、、、、違う? バルトスを演じたサミュエル・フィンジが怪しさ全開で良い味出していました。

 まあ、日本で公開されなかったのも致し方ないですね。あまり一般ウケはしないでしょう、これは。悪くないんだけどね。
 

 

 

 

 

 

 

 

自分の世話は自分でした方が良いと思う。 

 

 

 

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マンディンゴ(1975年)

2021-04-06 | 【ま】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv8624/


以下、公式サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 19世紀半ば、ルイジアナ州の広大な土地を所有するマクスウェルは、そこで黒人奴隷を育てて売買する“奴隷牧場”を経営していた。

 息子のハモンドは名家の娘ブランチと結婚するものの彼女が処女でなかったことに失望、黒人女エレンとの情事に溺れ、従順な奴隷ミードを鍛えることに没頭する。

 一方のブランチもミードと関係を結んで妊娠、権力者として振る舞っていた一家は破滅の道を歩む・・・。

=====ここまで。 

 フライシャー監督が『風と共に去りぬ』のアンチテーゼとして撮った傑作。


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 新宿の武蔵野館は、時々こういう不思議なリバイバル上映をするので侮れない。なぜ今本作を再上映するのか? というのは、武蔵野館のHPを見てもよく分からない。デジタルリマスターされたから、ということだろうけど、TSUTAYAにはレンタルがあるしねぇ、、、。DVDはリマスター前の画像なのかな? よく分からないけど、スクリーンで見られる機会はそうそうないだろうと思って、これまた平日の昼間に仕事をサボって見に行きました。

 いやぁ、、、聞きしに勝る、おぞましい映画でございました。でも、一見の価値はあります。というか、見ないと損、、、レベルかな。


◆“悍ましい”とはこのこと。

 奴隷制度は、アメリカの黒歴史だそうだが、昨年からBLM運動が起きて現在も続いているところを見ると、制度こそなくなったものの、その精神は過去の遺物にはなっていない模様。本作は、その奴隷制度の核をなしていたであろう「奴隷牧場」が舞台。“奴隷”の“牧場”ですよ? 酪農感覚で奴隷を“生産”している場所です。そして、その描写が出てきます、本作では、バッチリ。

 そういう映画だと知っていて見に行ったわけだけど、それでもかなりの衝撃的な映像。奴隷を生産するってのは、つまり、牧場主(やその一族の男たち)が黒人女性を端からレイプして子どもを産ませ、その子どもたちを商品として売り飛ばす、ってことなんだけど、子どもはもちろん奴隷同士から生まれる場合もあるんだけれども、とにかく肌の色が白くない者は、「人間じゃない」のだよ、牧場主や白人たちにとっては。セリフにもバンバンそういうのが出てくる。大体、奴隷を診察するのは“獣医”なんだからね、、、唖然。

 で、タイトルのマンディンゴなんだけど、マンディンゴって何? と思っていたら、どうやら、奴隷にもいわゆる“血統の良し悪し”があるとかで、マンディンゴというのは血統の良い黒人のこと。ネットで調べたら、実際に「マンディンカ族」という種族がアフリカにいるらしい。それはともかく、本作内では、「マンディンゴだよ! 前から欲しいって言ってただろ!」などというセリフと共に、マンディンゴの男性ミードが競りにかけられるシーンが出てくる。

 まあ、とにかくもう、唖然呆然の描写がこれでもかこれでもかと続き、眉間にずーーっと皺が寄りっぱなしだった気がする。唖然呆然の内容を詳しく書いても、あんまし意味がないような気がするので、ご興味おありの方は、まだ武蔵野館で上映しているので見に行かれるか、TSUTAYAでDVD借りて実際に見ていただきたい。

 特筆すべきは、内容に反して音楽が陽気で美しいこと。当然、ここにフライシャーの意図を感じるんだが、その音楽を担当しているのは『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』等、数々の名曲を残したモーリス・ジャール。本作でも、おぞましい画に不釣り合いな耳に心地良い音楽を披露してくれている。

 眉間に皺を寄せながらもどうにか終盤まで見ていたが、ラストにかけて、何かこう、、、トドメを刺された気分になった。もう、とにかく本作の終盤からラストにかけては狂気そのもので、正視に耐えない。いやしかし、きっとこういうことは現実にもあったに相違ない。このまんまのことがあった、というのではなく。これ以上におぞましく、常軌を逸した狂気の沙汰が繰り広げられていたのは想像に難くない。

 そうしてみると、『風と共に去りぬ』(は、私はあんまし好きじゃないんだが)が南部をいかに表層的に描いた物語かということが分かる。もちろん『風と共に去りぬ』は、あれはあれで名画なんだろうが、フライシャーが本作を撮ってやろうと思った気持ちは分かる気がするわ。


◆ジェームズ・メイソン、スーザン・ジョージ、ケン・ノートン

 牧場主のマクスウェル家の当主ウォーレンを演じているのはジェームズ・メイソン。いつも座るときには奴隷の子供を寝かせた上に自分の足を乗せている(理由を知りたい方は本作をご覧ください)。ジェームズ・メイソンといえば、こないだ見た『評決』での憎たらしい弁護士役が素晴らしかったんだけど、本作でもその才能をいかんなく発揮されております。とにかく、トンデモ爺なんだけど、それが彼にとってはあまりにも“当然”過ぎて、何の疑問も罪悪感も感じていないのがスクリーンからジンジンと伝わってくるのが恐ろしい。

 ウォーレンの息子ハモンド(ペリー・キング)は、ミードやお気に入りの奴隷女性は大事に扱い、父親とはちょっと感じが違う風でありながらも、他の奴隷女性を気まぐれにレイプしたり、ミードを野蛮な格闘技で闘わせたりと、根本的にはオヤジさんと同種の人間。おそらく、フライシャー監督は、ちょっとこのハモンドを優男っぽく描くことで、父親のトンデモ振りとあのラストを際立たせる狙いがあったと思われる。

 ハモンドは、自分は斯様に女をセックスの相手としか見ていないくせに、妻になる女性には貞淑を求めるという、笑っちゃうような男でもある(現代でもこういう男は一杯いると思うけど)。彼と結婚したブランチは、一見可愛らしくウブということになっているんだが、演じているのがスーザン・ジョージで、ウブにはゼンゼン見えないところが面白すぎる。スーザン・ジョージと言えば、『わらの犬』でもセックス・シンボル的な役回りだったが、こういう役が実にハマっている。

 で、当然のことながら、ブランチは処女ではなかったので、初夜を終えたハモンドは怒り狂う。いや、ホントに、その怒り狂い方が凄まじくて、怒りの大きさと、怒りの原因のみみっちさとのギャップにドン引き。ハモンドはブランチに興味がなくなって、お気に入りの奴隷女性の下に通う。ブランチは寂しくて、マンディンゴのミードを誘惑して関係を持ち、ミードの子を妊娠する。んでもって、ブランチが肌の色が黒い赤ん坊を出産すると、ハモンドは再び怒り狂って、、、という、こうやって文字にするとアホみたいな展開なんだが、ゼンゼン笑えない。何なの、このハモンド。あまりにもバカ過ぎ、勝手過ぎて、もう、、、ボー然。こんなんなら、まだオヤジさんの方が筋が通っていてマシに見えてくる。

 マンディンゴのミードを演じたのは、ヘビー級ボクサーのケン・ノートン。実にカッコイイ。そら、ブランチが誘惑したくなるのも分かる。てか、ハモンドなんかよりゼンゼン魅力的だろう。中盤の奴隷同士の格闘シーンも凄惨だった。あんなのを見て喜ぶなんて、(自分も含めて)人間ってホント、野蛮な生き物なんだな、、、とイヤになった。さらにイヤになるのが、ミードの凄惨極まる最期である。


◆黒人に攻撃されるアジア系

 今、アメリカ(ヨーロッパでもかな?)ではアジア系に対する暴力事件が頻発しているらしい。こないだ、TVのニュースで流れていた映像では、その犯人は黒人男性だった。BLMが叫ばれている中でそれ。もう、滅茶苦茶だ。

 人間が社会的な生物である限り、残念ながら差別はなくならない。きちんと子どもの頃から教育しないと、とんでもないレイシストが育つという実証データもあるらしい。それくらい、人間は本質的に差別をする動物だってこと。

 だから、国のリーダーが差別的発言をするってのは、ホントに罪が深い。やっぱし、キレイごとでも、リーダーはそのキレイごとをきちんと口にしないと、下々の者たちは「ああいうことを公言していいんだ」と思ってしまうからね。内心でどう思っていようと、やはり、口にしてはいけないことなんだ、という心理的なブレーキがあるかないか、ってのは非常に大きい。差別的な言葉を誰かにぶつけても、結局、そういうのは巡り巡って還って来る。

 アジア人を攻撃していた黒人男性も、別の所では差別される側な訳で、、、。

 子どものころ、「ルーツ」という、やはり奴隷制度を描いたドラマシリーズがTVで放映されていたが、内容はほとんど記憶にないけれど、かなり話題になっていたのは憶えている。ドラマだから、本作よりは大分マイルドな描写だったろう。アメリカがトンデモな国ではあっても、こういう映画やドラマがちゃんと作れるところは、やっぱしスゴイと思うし、正直言って羨ましい。日本人の蛮行を映画にしてほしいという意味ではなく、こういう映画を制作できる土壌があるということがね、、、。ま、羨んでもせんないことだけど。

 

 

 


 

 


本作のポスターは、あの名作のパロディ。“悍ましい”シーンも描かれています。

 

 


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マーティン・エデン(2019年)

2020-10-15 | 【ま】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71497/

 

 イタリア・ナポリの貧しい船乗りマーティン・エデン。ある日、住む世界の違うブルジョワ家庭の美少女エレナと出会ったことで人生観が180度変わり、文学を志すことに。必死の努力が実って作家デビューを果たし、小説も売れるようになるのだが……。


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 チラシを一目見て、これは是非見たい、、、と思う映画って、1年で数本……いや、そんなにないかもね。本作の場合は、まさにそれ。公開の翌週に、ようやく見に行くことができました。


◆格差恋愛

 前回の『ある画家の数奇な運命』と同じで、格差恋愛(いずれも女性がアッパー)が描かれている映画。……だけれども、本作の方が圧倒的に悲劇である。『ある画家~』のクルトは、成功後も名声を高めて、彼のモデルとなったゲルハルト・リヒターは88歳になった今も生きているけれど、本作の原作者ジャック・ロンドンが投影されたといわれる主人公マーティンは、ロンドン同様、ラストは自死してしまうのだから。ロンドンが亡くなったのは40歳。

 原作は、アメリカが舞台だが、映画ではイタリア・ナポリに舞台を移し、現代に近い時代設定にしている様だ(時代については曖昧)。

 序盤のマーティンがエレナに一目で心奪われるシーンから、小説家としてデビューを果たす中盤過ぎまでは見ている方も希望を感じて見ていられるのだが、終盤はもう、マーティンの心と同様、見ている方も坂を転げ落ちるように気持ちがドヨヨ~ンとなっていく。

 エレナの棲むブルジョアな上流社会に這い上がりたいと必死に努力していた頃のマーティンは、小説家になって成功して金持ちになれば、バラ色の人生が待っている、と素直に信じていられたのだけれど、いざ、小説家になってみれば、そんな単純な話じゃなかったんだと痛感させられたんだろうねぇ。

 どんなに小説家として教養を身に付けたところで、金を得たところで、自分は絶対にブルジョアにはなれないし、なりたくもなくなった。“教養のある人間=ブルジョア”ではないと気付いてしまったんだわね。独学で、しかも短期間で教養を身に付けたマーティンの目に、ブルジョア社会に棲む人々は、差別主義で通り一遍の教養しか持っていなくて、現実社会に向き合おうとしない軽薄な集団に見えたんだと思う。

 エレナが、マーティンの書く小説に「生々しすぎる」と根本的に拒絶反応を示すのが、その象徴的なシーン。結局、エレナは、自分の棲む世界以外の世界を見ようとはしないのだ。マーティンには「教育が必要だ」などと言っていたくせに、自分は未知の世界を知ろうとしない。しかも、その未知の世界は、自分が愛している男が育ってきた環境なのにもかかわらず、だ。

 そりゃマーティンが苛立つのもムリはない。エレナを自分が暮らす地域へ引っ張っていき、その劣悪な環境をこれでもかと見せつける。それでも、エレナは直視しようとしない。それどころか、マーティンが政治集会で演説したことで、社会主義者だと決め付けて決別の言葉を口にする。

 マーティンは、社会主義者どころか、社会主義者を批判する演説をしたのだ。いっそ、社会主義者になれればまだマシだったかも。社会主義者の思想にも、マーティンは賛同できなかったのよね。自分の居場所がないわけ。

 それでも、小説家として我が道を行く、、、と開き直れれば良かったのだけれど、切っ掛けがエレナへの憧れだったから、足下がぐらついて、根無し草みたいな感じになっちゃったのかな、、、と。成功を手にしたけれど満たされないのは、エレナに対する幻滅だけが理由ではないでしょう。これは、私の勝手な想像だが、社会の断絶に対し、自らの教養と小説だけでは太刀打ちできない、圧倒的な無力感みたいなものに押し潰されたんじゃないかしらね。超えられない壁に絶望した、というか。

 生きる意味とか、人生とは……とかから脱却できれば、さらに小説家として良い作品が書けたかも知れないけれど。そうなるには、マーティンは情熱があり過ぎたし、真面目過ぎたんだろうな、、、。

 荒れるマーティンの下に、エレナが「やり直したい」とすがってくるが、追い返す。マーティンとしては、半分はやり直した気持ちがあったんじゃないか、、、と感じた。けれど、やり直したところで上手く行かないのは分かるし、昔のようには彼女を愛せないのよね。そうして、泣きながら去って行く彼女を窓から見るマーティンの目に、若かりし頃……小説家を目指していた頃……の自分が颯爽と歩いている姿が映る、、、というシーンはラストへ向けての暗示。ここからはもう、悲劇しか待っていないと分かる、、、けど、分かるからこそ切ないし、見ていて辛くなる。

 エンドマークで、頭を抱えてしまった映画は久しぶり。


◆エレナ、ドビュッシー、マリア、、、。

 エレナがマーティンの前に初めて現れたときのシーンが印象的。マーティンにとって生まれて初めて見るような、高価な調度品や多くの書物が並ぶ手入れの行き届いた部屋に通され、その奥から出て来たのが、これまた生まれて初めて見るような上品で美しい少女のエレナ。しかもエレナはマーティンの前でピアノを弾くのだが、その姿を見ているマーティンはもう、すっかり魂を奪われた、、、という顔。

 本作では、ドビュッシーの音楽がよく使われているのが意外。イタリアが舞台なのに、、、。あと、所々でマーティンの心象風景っぽいイメージ映像が挿入されるんだが、終盤の転げ落ちていくところで出てくる映像が、大きな帆船が沈没していくシーン。……これ、あまりにも直截的過ぎて、ちょっと引いたわ。

 マーティンが、ナポリの義姉の家を追い出された後、郊外のある家に間借りすることになるんだけれど、その家の主である未亡人マリアがとても素敵な女性。貧しいが、子ども2人を育てながら、心豊かに生きている。マーティンの夢にも理解があって、彼が小説家として成功後に荒れているときも、彼女だけは彼の良き理解者であり続けた。

 あとは、彼の才能を早くから見抜く老紳士ブリッセンデンが、私にはイマイチよく分からない存在だった。マーティンの理解者でありながら、彼の小説が評判になることにネガティブなことしか言わないし、政治集会にマーティンを連れて行ったのもこの人なんだが、その辺のやりとりが、私の理解力不足で、ちょっとピンとこなかった。しかも、この老紳士も、自死を選んでしまうんだよね。


◆その他もろもろ

 チラシにインパクト大で映っていたルカ・マリネッリは、いかにもイタリア男って感じ。野性味溢れるその風貌は、マーティンにピッタリだったと思う。演技も巧く、前半は希望を持った元気な青年、後半は世に絶望した退廃的な色男、と見事に演じ分けていた。後半の方がセクシーだったなぁ。まあ、ちょっと顔が濃すぎて、私の好みではないが、作中でも“イイ男”という設定で、確かに彼ならイイ男でしょうよ。

 エレナを演じたジェシカ・クレッシーは、エレナ同様、品のある美人。笑顔が可愛らしい。マーティンへの手紙文を、カメラ目線で語るシーンがあるんだけど、実に可愛らしくて、思わず笑ってしまった。

 『ある画家~』の主人公クルトとマーティンの違いは何だろう、と考えたんだけれど、、、。まあ、もちろん本人の性格や思考を含め、色々な要素があるとは思うが、クルトは、“ひとかどの画家になり画家として生きる”ことが目的そのものだったけれど、マーティンの場合、小説家になるのは“アッパーに這い上がる”という目的を達成するための“手段”に過ぎなかった、、、この違いかなという気がする。もちろんどちらが良いとか悪いではない。ただ、もし、彼がクルトと同じように、物心ついたときから物書きになることを目的に生きていたら、、、現実世界の過酷さに絶望しても、死を選ぶことはなかったんじゃないか、と思うのだ。なぜなら、そういう人にとっては、書くことが救いであり自己解放であり、自由になれるからだ。
  

 

 

 

 

 

 

 

格差恋愛は、文学や映画の不朽のテーマですな。

 

 

 


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マチネの終わりに(2019年)

2020-03-06 | 【ま】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv65805/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 世界的なクラシックギタリストの蒔野聡史は、公演の後、パリの通信社に勤務するジャーナリスト・小峰洋子に出会う。ともに四十代という、独特で繊細な年齢をむかえていた。出会った瞬間から、強く惹かれ合い、心を通わせた二人。

 洋子には婚約者がいることを知りながらも、 高まる想いを抑えきれない蒔野は、洋子への愛を告げる。

 しかし、それぞれをとりまく目まぐるしい現実に向き合う中で、蒔野と洋子の間に思わぬ障害が生じ、二人の想いは決定的にすれ違ってしまう。

 互いへの感情を心の底にしまったまま、別々の道を歩む二人が辿り着いた、愛の結末とは―
 
=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 先日のロシア行きの機内で鑑賞。原作者の平野啓一郎の小説は一つも読んだことがないけど(単なる食わず嫌い)、彼のTwitterはときどき見ていて、本作のこともしょっちゅうツイートされていたので本作の雰囲気は何となく感じていました。主演の石田ゆり子のインスタもネコが可愛いので時々見ているけど、そちらでも本作に関連する画像がアップされていましたねぇ。

 ラブストーリーは得意分野じゃないんだけど、飛行機の中であんまり頭を使う映画は見られないタチなので、本作なら軽めに見られるかな、と思って見てみた次第。……まぁ、作品の雰囲気は予想どおりでありましたが、ちょっと思うところもあり、一応、感想文を書いておこうと思います。

 福山ファンの皆さんは、以下、お読みにならないでください(悪意はありませんが、悪口になっちゃっていますので)。


◆箱庭で繰り広げられるオサレな恋愛劇、、、ってか。

 まぁ、本作は、福山ファンが見れば楽しめる映画なんだろうなぁ、、、、というのが率直な感想。

 で、福山ファンでない私にとっては、正直言って、結構見ているのがキツかった。

 福山(呼び捨て御免)演ずる蒔野が、ギタリストとして何に苦しんでいるのか、よく分からない。そもそも彼のキャラが好きじゃない。序盤の、エピソードを語るシーンとか、ゼンゼン笑えず。見かけによらず三枚目キャラ、、、ってのを描いているんだろうが、逆効果。むしろ“ヤなヤツ、、、”と思ってしまった。洋子に思いを打ち明けるときの言い回しとか、、、。原作小説のままセリフに起こしたんだと思われるが、福山の演技がすご~くセリフを言っている感満載なのもアレだが、「あなたが死んだら、おれも自殺する」って、言われて嬉しい告白なんだろうか??とかね。同じことを言うにも、言い様があるだろうと。「僕の人生を貫通した」とかも、、、うぅっ、ゴメンナサイ。

 それから、これは個人的な好みであって福山のせいでは全くないが、スローモーションを多用しているのがダサくてダメだった。スローモーションは使い方次第だから一概に否定はしないが、あそこまで多用すると、何というか、監督のセンスを疑ってしまうレベル。映像は全般にキレイだが、そういう意味では工夫が足りないのでは。……そのスローモーションを、蒔野がコンサートで壊れちゃうシーンでこれでもか、ってくらい使っていて、何か見ていて恥ずかしくなってきてしまい、、、。挙げ句、蒔野はステージ上で絶叫(?)するんだけど、その演出はクサすぎない?? 説明的なカット割りが多いのも気になった。

 あと、私は、メール(というか、ライン?SMS?)で、長文書いてくる男はキライなのだ。しかも、この蒔野の文は、セリフと同様、小っ恥ずかしいのオンパレードで、あんなん送られて喜ぶ40代女性って、、、ちょっとイタい? 多分、小説内であれば、もうちょっと許せるんだろうけど、映像で見せられるとキツいっす。

 ネットの感想では概ね好評みたいで、中には酷評しているのも目にしたが、たった2回しか会っていないのに人生を賭した愛だなんて??みたいなのも結構あった。私は、そういう出会いはアリだと思うので、ゼンゼン問題ないと思う。ただ、福山の演技に説得力がないんだよねぇ、残念ながら。演出のせいもあるかも知らんが……。『そして父になる』ではまあまあだと思ったが、本作での福山は、やっぱり大根だと思った(すんません)。表情も乏しいし、台詞回しも一本調子というか。

 一方の洋子さんもねぇ、、、。石田ゆり子はキレイだったけど、あんまし魅力のあるキャラに思えず。フランス語と英語が流暢なフランス在住のジャーナリスト、、、っていう設定だけで、なんかウソ臭さが漂う上に、ゆり子さんのフランス語と英語はお世辞にも板に付いているとは言えず、日本語のセリフも、あれは演出なのか分からんが、しゃべり方が妙に芝居がかっていて、しかも語尾が「~だわ」「~なのよ」という、イマドキ誰がそんなしゃべり方してんねん!というようなヘンな言い回しで、なんだかなぁ、、、であった。

 洋子さんの婚約者役の伊勢谷友介は、英語のセリフしかなく、それがまた何とも、、、(以下略)。

 蒔野と洋子を邪魔する、蒔野のマネージャー役を演じた桜井ユキという女優さんは、初めて名前と顔が一致したが、誰かに似ているなぁ、、、と思いながら、思い出せずにいたんだけど、市川実和子だね。同じ系統の顔というか。演技も何となく、、、。

 この蒔野と洋子のすれ違いについて、ネットでは多くの人がツッコミ入れていて、まぁ確かにツッコミ所が多い。けれども、ああいうすれ違いって、概して客観的に見れば「……何で??」と思うような些細なものだったりするわけで、そこはまぁ、あんまし突っ込む気にはならないです、はい。
 
 ……まぁ、でも邦画にしては健闘している方かも。一応、大人の恋愛モノにはなっている気がしたし。とはいえ、ストーリー的にはありきたりで、ありきたりでも良いけど、見ていて切なくなるわけでもなく、結局、私は、本作の最初から最後まで、ものすご~く引いて見てしまっていたのだった。役の誰にも共感することなく、まさに“作りモノの世界”で右往左往する“登場人物”を演じる俳優たちを、箱庭でも眺めるかのような悟りの境地で眺めていた感じ。


◆過去は変えられる、、、とは。

 だったらわざわざ感想を書くまでもないのだが、1コだけ、“まぁそうだよね”と思ったことがあったので。これは、平野啓一郎氏のTwitterで見ていたから知っていたんだが、“過去は変えられる”という本作の主題について。

 これについては、私もずっとそう思っていたので、本作を見る前から、共感できるポイントだった。過去のどんなに辛い出来事も、良い出来事も、振り向く地点によって見え方や捉え方や感じ方が変わるってことは、実感としてある。

 ただ、本作での描かれ方は、ちょっと私の実感とは違ったけどネ。原作小説ではどう書かれているのか知らないけど、蒔野という男、ものすごく受け身な描かれ方なんだよね。私の実感としては、能動的な、つまり、自分がどうあるか、によって変わる、、、という感じなのだよね。自分がどうありたいか、という思考回路に基づいた積極的な行動がないと、過去を変えるのは難しいという気がする。

 だから、蒔野はギタリストとして本作の中で、ちゃんと自力で壁を克服したのか? という点が私には見て取れなかったので、なんかイマイチな感じしか抱けなかったんだと思う。洋子との出会いが偶然なのは当然として、すれ違いも唯々諾々と受け容れてマネージャーと結婚して、、、恩師が亡くなったことでその追悼CDを出さないかと打診されてギタリストとして復活して、、、と、どれも流されているようにしか見えず。そもそも何に苦しんでいたかも分からないんだけどサ。

 ……まぁ、でも、そんな哲学をこの映画に求めること自体が筋違いなんだよね。少なくとも、この映画の持つ雰囲気からして、オシャレな大人の恋愛映画、、、って位置づけにしか見えないし。もっと言えば、2時間ドラマでも良いくらいな中身になってしまっていたと思うので。脚本が井上由美子さんなので、もう少し深みがあっても良いのではないか、、、と思うが、その辺が原作モノの映像化の難しさかも知れませぬ。


◆再び、フクヤマについてとかその他もろもろ、、、
 
 申し訳ないんだが、福山のどこがイイ男なのかが理解できない。強いて良いと言えば声くらい? 私が苦手なのは、彼の笑顔、、、特に口元。あと、これは加齢のせいだと思うが、やっぱり顔の輪郭線がぼやけているので、特に横顔の顎から首に掛けてのラインは見るに堪えない。同い年のゆり子さんはキレイなラインを保っているから余計にね、、、。

 音楽は、クラシックギターを福田進一氏が担当していて、それは非常に良かった。まぁ、機内で見たからあんまし音楽を堪能するって感じでもなかったのだが、サントラちょっと興味ある。福田氏の演奏会には何度か行ったことがあるし、やっぱり彼のギターを聴くと、まさに“命の洗濯”をした気分になるのだ。この映画のおかげで、彼のコンサートのチケットは取れないんだとか。ブームが収まるまで待ちますか、、、。

 あ、それから話題の、福山とゆり子さんのキスシーンだけど、、、。ううむ、あんまし美しいと思えなかった。官能的でもなかった。これはひとえに、福山のせいだと、私は思っている(ま、監督が一番悪いんだが)。なぜかって、ゆり子さんはとってもキレイで色っぽかったから。福山、ラブシーンも下手……というか、色気ないね。もう、あんましこれからやらない方がイイと思う。ラブシーンってのは、熱演すればいいってもんじゃなく、特にこういうプラトニック系ラブストーリーの場合、“いかに美しく色っぽく見せるか”がポイントなわけで、そういう意味で、福山はこのキスシーンの意味を捉え違いしている(勝手に決めつけてすんません、飽くまで私の勝手な意見です)。一生懸命ナニしていたけど、力入れるとこ、そこじゃないから、、、、って感じやった。あれじゃぁ、ゆり子さんも気の毒だ。

 

 

 

 


風吹ジュンが何気にステキだった♪

 

 

 

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万引き家族(2018年)

2019-08-10 | 【ま】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv64633/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 再開発が進む東京の下町のなか、ポツンと残された古い住宅街に暮らす一家。

 日雇い労働者の父・治(リリー・フランキー)と息子の祥太(城桧吏)は、生活のために“親子”ならではの連係プレーで万引きに励んでいた。その帰り、団地の廊下で凍えている幼い女の子を見つける。思わず家に連れて帰ってきた治に、妻・信代(安藤サクラ)は腹を立てるが、ゆり(佐々木みゆ)の体が傷だらけなことから境遇を察し、面倒を見ることにする。

 祖母・初枝(樹木希林)の年金を頼りに暮らす一家は、JK見学店でバイトをしている信代の妹・亜紀(松岡茉優)、新しい家族のゆりも加わり、貧しいながらも幸せに暮らしていたが……。

=====ここまで。

 何かと物議を醸したパルムドール受賞作。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

  少し前に地上波でもオンエアしていたらしいのだけど、Blu-rayをTSUTAYAで借りて見ました。是枝作品は苦手と言いつつ、ちょこちょこ見ているのは、職場に是枝ファンの男子がいて、この作品も「まあ、すねこすりさんは好きじゃないと思いますヨ、絶対」などと言われたから。絶対と言われたら、あまのじゃくだから見たくなる。……あ、これが彼の狙いだったのかもね。

 もう、あちこちで内容については語られているので、感じたことをつらつら書きます。

 

◆家が汚すぎて絶句、、、。

 柴田家の住んでいる家が、とにかく汚い。特に風呂。もう、吐き気がする。私はきれい好きではないけど、あの汚さは受け容れ難い。

 まあ、視覚化した方が分かりやすいから、ってこともあるだろうけど、『そして父になる』の斎木家の描き方といい、本作のこれといい、なんだかなぁ……。ああいう暮らしをしていたからって、あそこまで家が汚い必然性ってなくないか? キレイじゃなくても、もう少しまともな人の住む空間を維持しているワケアリな人たちなんていっぱいいると思うけど。ああいう家にすることで、ある意味、記号化しているようで、ちょっと短絡的な感じを受けるんだよね。

 方や小綺麗で小金持ちそうな家に住んでいる亜紀の実家の方は、亜紀が家出したくなるような家で、方やビルの谷間の汚い家に住む疑似家族は居心地が良い、、、みたいな対比は、『そして父になる』と同じだよね。なんかワンパターンだよなぁ、、、と。

 以前、TVでホームレスの人の“住まい”を取材している番組を見たことがあるが、確かに粗末な“家”だけれど、中は実にきちんと整理整頓されていて、きちんと生活をしていた。どんな背景があってホームレスになったのかは分からないけど、貧しさを記号化しがちな是枝監督の作品づくりは、そこに監督自身の無神経で無自覚な偏見がバッチリ投影されているとしか思えなくて、どうしても作品自体も捻くれ目線で見てしまう。

 

◆絆、、、嫌いだわ、この言葉。

 是枝監督自身、「特に震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さを感じていました。絆って何だろうなと」と語っているが、私は「絆」ってワードが震災後、大嫌いになった。家族が苦しみの根源みたいな人もたくさんいるのに、家族を過剰に礼賛する傾向に反吐が出そうだった。

 だから、この疑似家族が、本当の家族よりも居心地の良いコミュニティになっていることは理解できる。他人だからこそとれる適度な距離は必ずある。

 先日、吉本問題が勃発した際に、社長が「家族だから」と言い訳していたけれども、そこである社会学者の人が言っていたけど、家族ってのには“甘え”が介入すると。例えば、家族にプロのデザイナーがいると、“タダ”で私的なもののデザインを頼んだりするというのはよくあることだと思うが、それは、プロを相手に、無報酬で仕事をさせて当たり前と思う“甘え”である、ということ。つまり、吉本が契約書も交わさずに、なぁなぁで今まで来たのも、結局は“家族だから”っていう甘えの下に成立していた話だと。……なるほどねぇ、一理あるかもな、と感じた。

 また、本当の家族であるからこそ、見過ごせないことってのもある。疑似家族とは言え他人だから、亜紀がJKバイトをしていてもスルーできるけど、本当の娘や姉妹なら、果たして同じ態度でいられるか。

 “絆”って、「三省堂国語辞典 広島東洋カープ仕様」によると、「①人をつなぎとめるもの。②〔人と人との、大切な〕つながり。」とある。意味を純粋に見れば、それほど嫌悪感を抱くはずもない言葉なのに、文脈で語られると途端にいや~な感じを受けるのは何故かしらん。

 結局、現実を無視した美談にされがちだからだろうね。それをいうなら、良い絆ばかりじゃなく、悪い絆も一杯あるわけで。

 柴田家には、果たして絆はあったのだろうか。キャッチコピーは、「盗んだのは、絆でした」だけど、盗んだのかね? むしろ、寄り集まった結果、何となく絆が出来た、、、、結果的に拾ったんじゃない? 奇しくも、終盤、安藤サクラ演ずる信代が言ったセリフ「拾ったんです」でしょ。キャッチコピー、違っている気がする。まぁ、ズレたキャッチコピーなんてごまんとあるが。

 

◆その他もろもろ

 犯罪を肯定していてけしからん、日本の恥を世界にばらまいた、等々、見当違いも甚だしい批判が一杯あって、見る前からウンザリしていたけれども、本作を見て、犯罪を肯定しているとも思わなかったし、日本の恥とも思わなかった。こんなこと、世界中のどこの国でもあることだし、もっと悲惨な現状を描いた外国映画はたくさんある。そういう批判をする人たちってのは、映画とか表現することの意味を分かっていないのだろうね。みんシネにもヒステリックな批判レビューがあって、苦笑してしまった。

 カンヌ後に、外圧に焦った政府からのお祝いを監督が固辞したことも、批判の的になっていた。外圧に焦る政府がみっともないのはいわずもがなだが、こういう監督の言動が批判されるなんて、やっぱり日本の文化度はまだまだ低いんだなぁ、、、と暗澹たる気持ちになる。政府というか、公的機関というのは、芸術に対して“金は出すけど口は出さない”が鉄則。

 絶賛された安藤サクラの演技は、確かに素晴らしかった。リリー・フランキーはいつもどおり。子役たちの自然な演技もいつもどおり。俳優陣は皆さん、素晴らしかったと思う。

 ただ、ちょっとセリフが聞き取れないところが結構たくさんあって、字幕をONにして見直してしまった。もう少し、いくら自然な演技や自然な会話の演出とはいえ、映画なんだからさ、セリフなんだからさ、きちんと見る人に届くように演出してくださいよ。でないと、良いセリフでも死んでしまうよ。

 

 

 

りんちゃんのその後が心配だ、、、。

 

 

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マチルダ 禁断の恋(2017年)

2018-12-15 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1800年代末のロシア・サンクトペテルブルク。皇位継承者であるニコライ2世(ラース・アイディンガー)は、世界的に有名なバレリーナのマチルダ(ハリナ・オルシャンスカ)をひと目見た瞬間に恋に落ちる。燃え上がる二人の恋は、ロシア国内で賛否両論を巻きおこし、国を揺るがすほどの一大ロマンスとなる。

 父の死、王位継承、政略結婚、外国勢力の隆盛……。やがて、滅びゆくロシア帝国と共に、二人の情熱的な恋は引き裂かれようとしていた。

=====ここまで。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 主演があの『ゆれる人魚』で個性的な妹人魚を演じてたミハリーナ・オルシャンスカということで、公開前から見に行こうと思っていたところ、某全国紙の夕刊で「ニコライ二世をたどって」等というタイトルの連載が始まり、何気なく読んだら、あまりにもタイムリーで本作も興味津々で見に行きました。

 ……というわけで、以下感想です。


◆ニコライ二世は聖人

 しかし、王室やら皇室やらのスキャンダルって映画ネタにはもってこいだと思うのだけど(だから外国映画ではいっぱいあるんだろうけど)、日本の皇室スキャンダル映画って、ありますかね?? やはり菊タブーとかで皆無なんでせうか? まぁ、別に見たいわけじゃないけど、ここまでタブーになっている日本の皇室ってのも、、、どうなんでしょうか。

 さて、前述した某全国紙の夕刊連載で、本作に対しモーレツに異議を唱えている女性が載っておりまして、それがあの“美人過ぎる検事”でロシアのクリミア併合の際に話題になったポクロンスカヤ氏でした。

 余談ながら……、“美人過ぎる○○”ってのはよくネットとか週刊誌とかワイドショーとかが使うんだけど、あんまし感心しない表現だよねぇ。○○に入る言葉が何であれ、ヒジョーにその○○に対して侮蔑的な言い方だと思う。昔、ナンシー関がエッセーで、某東大卒タレント女子のことを「東大卒の割に美人(or可愛い)ってだけ」というようなことを書いていて、いかがなものかと感じた記憶があるが、それと同じような印象を受けるのよ、この“美人過ぎる○○”というフレーズ。大体、美人過ぎるとか何とか、失礼だっての。

 それはともかく、このポクロンスカヤ氏はニコライ二世一家を崇拝していて、本作が、ニコライ二世を貶めていると言って憤慨しているわけ。なぜそこまで?? と思って記事を読んだら、恥ずかしながら世界史が苦手だった私は記事を読んで初めて知ったのだけど、ニコライ二世一家はロシア正教の聖人にされているんだそうで。ソ連時代は憎悪の対象だったのに、ロシアになってから急に評価が変わったんだとか。まあ、ソ連時代は共産党が押さえ込んでいたんでしょうが。

 そんなわけで、熱心なニコライ二世信者にとって、この映画は許されないものらしい。プーチンさんは「人はそれぞれ自分の意見を持つ権利を持っているから我々は禁止することはできない」という、らしからぬ(失礼!)発言をしていて、上映禁止にはならなかったけど、まあ、スタジオが放火されたり、監督が脅迫されたり、、、、ってのはあったとか。

 ……そんなに許せない描写があるのかね? と興味津々で見に行ったけど、、、、率直なところ、……どこが??である。ポクロンスカヤ氏はそもそも本作を“見ていない”んだとか。見もしないで批判するってのは、、、まあ、あんましお利口とは言えない行動ですな。こういう脊髄反射は、その信条が何であれいただけない。……その後、見たんですかね、彼女は。


◆お金かかっています。

 とにかく、本作は、絢爛豪華で、それだけでもスクリーンで見る価値が十分にあると思う。私が時代劇のコスプレものが好きってのもあるけど、これだけ美術も衣裳もこだわって作られている(しかもロシア制作でロシア政府もかなり出資しているとか)のだから、よその国の作ったインチキ時代劇とは訳が違うのでは。

 ロケにはエカテリーナ宮殿を使用しているほか、もの凄いお金が掛かっていることが一目で分かる壮大なセットで、とにもかくにも、圧倒される。もちろん、バレエはマリインスキー、音楽はゲルギエフと一流を揃え、もうね、、、贅沢そのものです。これ、スクリーンで見ないと損かも。

 で、肝心の物語だけれども、悪くはないけど、それほど感動するシーンもなく、、、というわけで、まあ、悪く言えば見かけ倒しな感じも否めない。

 最大の難点は、ニコライ二世(ニキ)の葛藤がイマイチちゃんと描けていないところのように感じた。というか、一生懸命描いているんだけど、なにかこう、、、伝わってこないというか。

 私が一番“え゛~~~”と思ったのは、マチルダが事故で死んでしまったと思い込んだニキが、その後間もなくあっさり元々の婚約者アリックスと結婚し、まあそれは既定路線だからいいとして、アリックスとの初夜がとてもとても幸せそうなエモーショナルな描かれ方だったのよ。大して時間も経っていないのに、その変わり身の早さは何じゃらほい……、という感じで。

 このシーンの後に、戴冠式があり、そこに死んだと思っていたマチルダが現れ、ニキ失神!!なんだけど、どうもチグハグな感じが否めなくて、見ている方としてはちょっと白けちゃうのよね。大体、あんな大事な場面で、皇帝になろうともいう男が衆目の前で失神なんて大失態を晒して(しかも王冠が床に落ちる!)、それだけで後継者失格じゃない?

 ほかにも、マチルダにストーカーするヴォロンツォフ大尉の人体実験のようなシーンとか、ニキの婚約者アリックスとニキの母親である皇后との確執だとか、マチルダのバレエ団内での人間関係のいざこざとか、、、ちょっとニキとマチルダの禁断の恋から焦点がぼけた散漫なシーンが多すぎる気がする。もっと、2人の禁断の恋に描写を集中させた方が良かったのでは?


◆ミハリーナ・オルシャンスカ、人魚からバレリーナへ

 さて、私のお目当てだったミハリーナ・オルシャンスカは、(前述の不満はあるものの)すごい頑張っていて素晴らしかった。彼女はポーランド人なんだけど、ロシア語のセリフも(ロシア語を知らないので上手いか下手かは分からないけど)こなし、バレエも相当特訓したのが分かる動きだった。肝になる“32回のフェッテ”は吹き替えだそうだが、少なくとも、フェッテはかなり訓練しないと1回だって出来ないはずなので、彼女の努力が想像できる。

 もの凄い美人という設定で、確かに彼女は素晴らしく美しいが、単純な凄い美人というより、魅力的で妖しい美人という感じ。そして、このストーリーにおけるマチルダなら、絶対的に後者の美人の方がふさわしい。そういう複雑な美しい女性をミハリーナ・オルシャンスカは体現できていたと思う。人魚は気の強そうな怖い美人だったけど、同じ美人でも妖艶さを身に纏うのはなかなか難しいだろうね。

 ニコライ二世を演じたラース・アイディンガーはドイツ人、ヴォロンツォフ大尉を演じたのはロシア人のタニーラ・ゴズロフスキー、アリックスはドイツ人のルイーゼ・ヴォルフラムと、国際色豊かな俳優陣。ドイツ人のお2人はロシア語特訓したんだろうね。

 ところで、実際のマチルダさんの画像をネットで見たのだけど、、、。ううむ、まあ、美しいけど……、なんともコメントに困ってしまう。彼女は、ニキのいとこと結婚してフランスで暮らし、ロシア革命で死んでしまったニキとは対照的に、100歳近くまで生きたそうな。めちゃめちゃ強かに生き抜いたのね。




  




禁断の恋をニキが貫いていたら、歴史はどうなっていたでしょうか?




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まぼろしの市街戦(1966年)

2018-11-24 | 【ま】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第一次大戦末期、敗走中のドイツ軍は占拠したフランスの小さな街に大型時限爆弾を仕掛けて撤退。

 イギリス軍の通信兵は爆弾解除を命じられ街に潜入するも、住民が逃げ去った跡には精神科病院から解放された患者とサーカスの動物たちが解放の喜びに浸り、ユートピアが繰り広げられていた。

 通信兵は爆弾発見を諦め、最後の数時間を彼らと共に過ごそうと死を決意するが…。

=====ここまで。

 あの名作が4Kデジタルリマスター、なんとスクリーンで見られることに!

 
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 これを見逃してはいかんでしょ~。と、劇場まで行ってまいりました。……この映画をスクリーンで見られる日が来るとは。しかも4Kデジタルリマスターで画像もキレイ。感激。


◆毒入りおもちゃ箱

 本作はよく“カルトムービー”とか“カルト映画”とか言われるんだけど、今回再見して、どこがカルト?? と改めて思った次第。一緒に見に行った映画友は「やっぱ、精神病院が舞台だからじゃない? ディズニー映画みたいには公開できないっしょ」と言っていたけど、そうなのか、、、? コアなファンがいるのは確かだろうけど(私もその一人だけど)。

 まあ、それはともかく、、、。詰まるところ、本作は、戦時下のシャバと精神病院とじゃ、精神病院の方が平和なユートピアである、つまり“狂気”の本質を抉っているわけだ。それを、押しつけがましくなく、可愛らしいメルヘンのような装いに痛烈な毒を塗り込めて作られており、大人のおとぎ話といったところか。正直なところ、非常に中毒性の高い映画であるので、その辺が“カルト”と言われる所以かも知れませぬ。

 みんシネにも感想を昔書いたのだけど、あるレビュワーさんが本作のことを「おもちゃ箱をひっくり返したみたい」と書いていて、至言だと思った。まさしく、精神病院の患者たちが、もぬけの空になった街中に繰り出して、思い思いの格好をし、自由を祝うがごとくのお祭り騒ぎに興じる描写は、その色彩といい、音楽といい、おもちゃ箱そのもの。おまけに、爆弾を恐れて住民がみんな逃げ出した後の街には、ほかにも、移動動物園から出て来たクマやサルが闊歩していて、おもちゃ箱、、、いえ、パンドラの箱を開けたみたい。

 そのおもちゃ箱のロケ地は、パリの北40キロにあるオワーズ県サンリスという街とのこと(パンフによる)。この街並みが実に美しい。ヨーロッパには中世の趣を残す街並みは少なくないだろうけれども、このサンリスもそう。こんな街で暮らしてみたいものだわ。

 そんなおもちゃ箱に仕掛けられた爆弾を巡り、ドイツ軍とイギリス軍が右往左往するわけだが、終盤、この両者が鉢合わせになる場面がある。爆弾の仕掛けられた広場で、両者は向かい合い、双方が発砲する。当然、両軍の大勢の兵士たちはバタバタと倒れて死ぬ。このおもちゃ箱のようなメルヘンと大量死。

 アラン・ベイツ演じる通信兵プランピックは、途中で、ドイツ軍が爆弾をどこに仕掛けたかを悟り、患者たちを街の外に避難させるべく連れ出そうとするが、患者たちは、ふと我に返ったように街から出ることを拒絶して精神病院に戻っていくのである。色とりどりの衣裳を脱ぎ捨て、「現実の世界は苦しいだけです」と言って。精神病院の門の前に散乱する衣裳やパラソルの数々に、何とも言えない虚無感を抱いてしまう。

 こういう、ところどころのシビアな描写が、全体のおもちゃ箱との鮮烈な対比となり、実に印象深い。


◆ラストシーンの違い

 本作の原題は“Le Roi de Cœur”で、「ハートの王様」。これは、序盤にプランピックがドイツ兵に追われて精神病院に逃げ込んだ際、患者に紛れて名乗った名前。それで、患者たちから「王様」に祭り上げられ、街中に繰り出した際には教会で戴冠式まで行われる。

 そして、このハートの王様が恋するのが、患者の中の一人コクリコという可愛い女性。このコクリコを演じているのが、ビジョルドであります。なんと可愛らしい、、、。プランピックに「あなたに抱かれたい」とか言うのよ。当然、プランピックもコクリコを好きになってしまう。だから、街から出ようとしない患者たちをプランピックが見捨てられなかったわけよ。そしてまた、このコクリコと最期の時を過ごそうとプランピックが腹を括ったことで、爆弾の起爆装置を止めることが出来た、、、というオチ。

 この爆弾については、序盤で、住民の一人のレジスタンス(街の床屋)がイギリス軍に密告するんだけど、「真夜中に騎士が打つ」と言い掛けたところでドイツ兵に銃殺されちゃうので、イギリス軍としては、この謎の一文だけを手掛かりとして爆弾探しのためにプランピックを街に送り込んだというわけ。で、終盤、コクリコが言ったセリフが、この「真夜中に騎士が打つ」を解明することになる、、、という次第。

 街は爆破されずに済むんだけれど、戦争の狂気は続き、、、。ということで、問題のラストシーンになります。

 日本公開版と違うラストということだけど、私は、DVDの特典映像だったか何かで、この4K版のラストシーンを見たことがある。ちょっとした違いだけれども、どちらが好きかは人によるかも。私は、日本公開版の方が好きかな。4K版ももちろん悪くはないけれど。どんなラストかは、ここでは敢えて書きませんが。是非見ていただきたいです。


◆その他もろもろ

 主演のアラン・ベイツは撮影当時31歳くらいですかね。若いです。私の中で一番印象深いアラン・ベイツといえば、そらなんつっても『ニジンスキー』で演じたディアギレフ役。それはそれはもう、冷酷非道な男を、実に見事に演じておられました。本作ではコミカルな役どころで大分印象が違うけれど、ハートの王様の彼はすごく可愛かった。ゼッフィレッリの『ハムレット』や、アルトマンの『ゴスフォード・パーク』とかも印象的。2003年に亡くなっていたのですね、、、。

 ビジョルドは、もう最高に可愛い。ハートの王様の部屋に、窓から窓へとパラソルを持って綱渡りするシーンがすごく良いです。ビジョルドの出演作で一番好きなのは、『1000日のアン』と本作かなぁ。彼女の魅力が最も生きている役だと思う。何のDVDだったか覚えていないけど、割と最近(10年くらい前かな)の彼女が特典映像のインタビューで出ていて、確かに歳はとったけれど、相変わらず可愛らしい魅力的な女性だったのが嬉しかったわ。

 あと、娼館のマダムを演じていたのがミシュリーヌ・プレールで、あの『肉体の悪魔』でジェラール・フィリップと共演していた女優さんだった!! パンフを見て初めて知ったけど、ビックリ。何度も見ているのに今までゼンゼン分からなかった。しかも今もご健在とか(98歳!!)。公爵を演じていたジャン=クロード・ブリアリはやっぱり渋くてステキ。

 本作は資金集めに苦労した、ということだけど、この豪華出演陣、、、スゴい。フランスではゼンゼン当たらなかったらしいけれども、その後公開された、当時ベトナム戦争泥沼化していたアメリカでかなり受けたという、なんとも不思議な現象。どっちかというと、本作はヨーロッパ的エスプリ(?)な感じだけど、アメリカで受けたとは。やはりベトナム戦争という背景があったからでしょうかね。

 今回見逃すと、いつスクリーンで見られるか分からないので、是非この機会にご覧ください。可愛いパンフも発売されています!










「サバは芋好き」(街の床屋の暗号名)




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負け犬の美学(2017年)

2018-11-14 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 40代半ばを迎え、盛りを過ぎた中年ボクサーのスティーブ(マチュー・カソヴィッツ)は、たまに声のかかる試合とバイトで家族をなんとか養っていた。

 しかし、ピアノを習ってパリの学校に行きたいという娘の夢を叶えるため、誰もが敬遠する欧州チャンピオン、タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)のスパーリングパートナーになることを決意する。
スティーブはボロボロになりながらも何度も立ち上がり、スパーリングパートナーをやり遂げる。

 すると、チャンピオンからある提案が舞い込んでくる。家族のため、そして自身の引き際のために最後の大勝負に出たスティーブが、引退試合のリングで娘に伝えたかった思いとは……。

=====ここまで。

 汗と涙のコッテリ系ではなく、サッパリながらも味わい深いお茶漬けみたいな映画。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 新聞の映画評を見て“面白そうかも”と思い、昼過ぎカミュの舞台『誤解』と、午後7時からのポリーニの演奏会までの間に空いた時間で見に行って参りました。まぁ、ポリーニはともかく、『誤解』は、あまりにも悲惨な話の内容に、見終わった後、気分も頭の中も真っ暗に。原田美枝子が割と好きなので見に行ったのだけど、彼女の声質は意外に通らないのだなぁ、、、と初めて知る。小島聖はパワフルだった、、、。何より美術が布1枚で情景を想像させるという素晴らしさ。この舞台で一番感動したのは、この美術だったかも。

 ……と、いうわけで、カミュで真っ暗になった気持ちを建て直してくれたのが本作でありました。


◆承認欲求なんかクソ喰らえ!!

 ボクシングって、若い頃は、正直あんまし好きじゃなかったんだけど、歳をとるごとにそういう拒絶感は薄れ、今も好きとまでは言えないけれども、嫌いではなくなった。ボクシングにはなぜか他のスポーツよりも“悲哀”みたいなものを感じてしまう。これは、勝手な私のイメージのせいだろうけど、例えば、ゴルフとかテニスとかの持つ“金持ちのスポーツ”イメージとは明らかに違う、“ハングリーなスポーツ”であるからだと思われる。おまけに見ていて痛い。実際殴り合っているのだから、痛いに違いない。

 ボクシング映画といって真っ先に思い浮かぶのは、そらなんつったってDDLの『ボクサー』。本作とはテーマも趣旨も違うので比べようがないけど、主人公のボクサーが人生の岐路に立たされているのは同じ。あの映画で、DDLの美しい顔の鼻が曲がってしまったのだよ、、、トホホ。

 それはともかく、本作の主人公スティーブは、何十敗もしていて、パンチドランカーみたいな症状も出ており、誰が見ても、もう辞めた方が身のためという感じの黄昏ボクサー。でも、彼は本当にボクシングが好きなのが、見ていてよく伝わってくる。もちろん、勝ち負けに拘らないわけはないのだけれど、負け続けても、とにかく「リングに立ちたい」という気持ちが萎えないという、ちょっと不思議なボクサーだ。

 そんなスティーブがさらにボクシングで稼がなきゃならない理由が出来る。可愛い娘の夢を叶えるためだ。……と書いちゃうと、ものすごいベタなんだけど、見ているとそんなベタさは感じない。なにより、娘のオロールが弾くピアノは、決して上手いとは言えない。訥々と一生懸命に、でも楽しそうに弾いているオロールの姿に、彼女が「パリでピアノを習いたい」という夢を持つことを単純に応援したくなる。観客がそう思うのだから、父親が思わないはずはない。

 ……で、スティーブは無謀とも言える、世界チャンピオンの練習相手を務めることになり、、、あとはラストの試合までは、ボコボコにされたり、その姿を娘が見て逃げ出してしまったり、、、という描写が続く。でも、スティーブに悲壮感は全くない。

 そう、この映画がサッパリなのに味わい深いのは、スティーブに悲壮感が全く感じられないからだと思う。ボコボコにされても、娘の前で屈辱的な体を晒しても、彼にとってそれは屈辱でもなければ、みっともないことでもない。一生懸命ボクシングをやっている、、、それだけだ。

 あまりにも吹っ切れている姿に、娘オロールの気持ちを考えると、そんなスティーブはちょっと自己満足なだけの父親じゃない? というイヤミの一つも言ってやりたくなる。大好きなお父さんが、観客に囃し立てられ、貶められ、リングで倒れる姿は、見るに堪えないのは当然だ。

 ……とはいえ、彼は、それまで決して娘に自分の試合を見せてこなかったんだけれどね。オロールがどれだけ「見たい、見に行ってもいい?」とせがんでも、普段は激甘パパなのに、厳しい顔で「ノン!!」ととりつく島もない。それは自分がボコボコにされる姿を見て娘にショックを受けさせたくないという思いもあっただろうけど、そんな痛々しい姿が、家族のために犠牲になっているとか娘に誤解される方が遙かにイヤだったからに違いない。

 それにしても、ここまで突き抜けた姿を見せられると“そういう生き方もあるんだな……”などと、哲学的な思想にまで至ってしまうのだから、天晴れでもある。

 何事も腹を括って臨み、どんな結果も受け容れる潔さがあれば、昨今何かとネタにされる「承認欲求」なんてものは屁みたいなものなのかも知れない。

 だから、終盤、彼が引退試合で闘うシーンは、彼が初めて、自分以外の人のために勝ちに拘った試合だったのかも。妻にも「私のために勝って」と言われるし、娘にも勝利を期待されているのだから。有終の美で終わらせたい、とスティーブが思ったかどうかは分からなかったけど、多分、そういう自分のリング人生よりも、家族のことを考えた試合だったに違いない。


◆その他もろもろ

 スティーブを演じたのは、あのマチュー・カソヴィッツ。『ハッピーエンド』では変態不倫に耽っていたインテリを演じていたけど、ゼンゼン雰囲気も顔も異なる人物造形で、さすがの一言。負けてばかりで顔もアザだらけになったりするのに、悲壮感を醸し出さずに、むしろ時にはカッコ良くさえ見えるという演技は、素晴らしいとしか言い様がない。

 娘オロールを演じたのはビリー・ブレインちゃん。パッと見、男の子かと思ったら、キュートなお嬢ちゃんでした。まあ、とにかく可愛い。美形ではないけど、とにかく愛らしい。これまで愛されて育ってきたのだろうなぁ、と思わせる。ショパンのノクターンをポツンポツンと弾く姿が可愛すぎる。ラストの発表会のシーンでは、大分上達しており、スティーブにピアノを買ってもらった成果なのだろう。その姿を、客席からではなく、ステージ袖からそっと見ているスティーブがイイ。何かジンときた。

 あと、スティーブの妻がとても魅力的な女性だった。夫の身体を心配しつつも、力尽くでボクシングを辞めさせようとはしないで見守る妻。最後の試合ではなりふり構わず絶叫しながら応援している姿が、なんか微笑ましい。イイ夫婦だなぁ、、、と思う。

 若い頃は、結果――つまり、誰もが良しとする勝利や成功――があってこそ生きる意味がある、と思いがちで、自分もそう思っていた時期もあったけれども、歳を重ねると、それがいかに浅薄な価値観だったか身に沁みてくる。そんなこと言っていたら、世の中の99%の人は生きる意味がないことになりかねない。本作は、まさにそういうアタリマエのことを、ベタになることなくサラリと描いている逸品でありました。

 






たくさん負けることが勲章にもなるのだ!




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マンチェスター・バイ・ザ・シー(2016年)

2018-07-16 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 アメリカ・ボストン郊外でアパートの便利屋として働くリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)。ある日、一本の電話で、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーにいる兄のジョー(カイル・チャンドラー)が倒れたことを知る。

 リーは車を飛ばして病院に到着するが、ジョーは1時間前に息を引き取っていた。冷たくなった兄の遺体を抱き締めお別れをしたリーは、医師や友人ジョージと共に今後の相談をする。ジョーの16歳の息子で、リーの甥にあたるパトリック(ルーカス・ヘッジズ)にも父親の死を知らせるため、ホッケーの練習をしている彼を迎えに行く。見知った街並みを横目に車を走らせながら、リーの脳裏に仲間や家族と笑い合って過ごした日々や、美しい思い出の数々が浮かび上がる。

 リーは兄の遺言を聞くため、パトリックを連れて弁護士の元を訪れる。ジョーがパトリックの後見人にリーを指名していたことを知ったリーは絶句する。弁護士は遺言の内容をリーが知らなかったことに驚きつつ、この町に移り住んでほしいと告げる。弁護士の言葉でこの町で過ごした記憶が鮮明によみがえり、リーは過去の悲劇と向き合わなくてはならなくなる。

 なぜリーはこの町を出ていったのか? なぜ誰にも心を開かずに孤独に生きるのか? リーはこの町で、パトリックと共に新たな一歩を踏み出すことができるのだろうか?

=====ここまで。

 ケイシー・アフレックが本作でオスカーを受賞したけれど、セクハラで訴えられてケチがついたのが話題に、、、。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ブログ更新がだんだん緩慢になっていて、この間、映画を全く見ていないわけではなく、ただただ怠慢なだけで、今月は色々書きたいことも溜まっており、またちゃんと更新しよー、と思っていた矢先、先週の西日本豪雨、、、。遠く離れた東京にいる身でもショックが大きく(正直なところ、311と同じくらい精神的に堪えた感じさえある)、PCに向かう気持ちになかなかなれず、、、。私が唯一コメントを書込みさせていただいているたけ子さんのブログ「まつたけ秘帖」の更新も4日からない今、気が気でないのだけれど、とにかく、自分の気持ちを建て直す取っ掛かりが欲しくて、また更新することにしました。

~~~~~~~

 これも公開時に見に行きそびれたのであった、、、。


◆粗暴な男になったリー。

 マンチェスター、というから、てっきりイギリスのお話かと思っていたら、アメリカの話でビックリ。画面も全体に灰色がかっていて、いかにもイギリスみたいな風情だったのに、ボストン郊外の港町だと、、、。

 とにかく、ケイシー・アフレックが終始、暗い。現在と過去が入り交じって描かれているけど、過去のシーンも、対比にしてはあまり“陽気なリー”という感じでもない。確かに、友人達と遊んだり、酔っ払って妻にムリヤリ覆い被さったりしているけれども、ちょっと屈折している感がある。

 どうやら、亡くなった兄のジョーは、いわゆる優等生タイプだったらしく、リーとしてはどことなく劣等感を抱いていたんだろう、という過去のシーンの描写だったように思う。二人の両親の話があまり出てこなかったように思うが(見逃しただけかもだけど)、リーが屈折していたんだとしたら、恐らく両親の兄弟への接し方に遠因があったのだろうという気がする。でも、ジョー自身はイイ奴だったから、リーは救われていたのかな。……そんな印象を受ける、過去の兄弟の描写と、リーの雰囲気だった。

 しかし、現在パートのリーは、もう100%真っ暗で、屈折とかそういうもんじゃない。何なの、この人、、、と思って見ていると、中盤でその理由が明かされる。

 つまり、自分の不注意で家を全焼させてしまい、娘2人と生まれたばかりの息子1人を焼死させてしまったってこと。不注意ってのも、酔っ払って、夜中にさらに飲もうと、暖炉の火が危ないと分かりつつ放置してビールを買いに行った、、、という、もう言い訳のしようもないレベル。この一件が、リーをここまで暗く、人を寄せ付けない男にした、ということらしい。それで、妻とは離婚し、マンチェスターの街からも去ったのだ。

 否応なく、その忌まわしい記憶の消えない街に戻ってきたリーは、喧嘩っ早く、人に因縁付けては殴り掛かるという、割と分かりやすい荒れ方の描写で、なんだかなぁ、、、という気もするが、まあ、自分が逃げ出した街に嫌々戻ってきて、昔みたいに友人知人と接することなど出来るわけはないのは、当然と言えば当然だろう。

 甥っ子の行く末を決める過程で、リーも、自分の過去と強制的に向き合わされることとなり、リーの人間としての変化が、終盤にかけて描かれていく。


◆哀しみを抱えて生きること。

 ある映画評で、リーは、結局、甥っ子を知り合いの養子にして、マンチェスターに残らず、元の生活に戻るという決断をしたことについて、“結局、彼は何も成長しなかった、逃げるだけの人生を選んだ”みたいなことを書いているものがあった。

 果たしてそうだろうか。確かに、彼はマンチェスターに残ることはできなかった。だからといって、それを、成長しない、逃げている、と断じて良いのか。

 人間、そんなに強い生き物だろうか。強い人もいるだろうけど、そこまで強くない人がいたっていいだろう、と思う。リーは、そこまで強くなかったのだ、ということ。そして、それは非難されることではない。

 いつまで引きずってんだよ、いい大人がしっかりしろよ、……そんな上っ面な言葉は、ここでは意味がない。哀しみとは、その人にしか、その哀しみの深さは分からないし、それが一生続く哀しみであったとしても、一生哀しみを持ち続けたとしても、それを他者が、“愚かだ”“逃げてばかりだ”“現実を見ろ”と言うのはお門違いも甚だしい。その人にとって、その哀しみに浸ることが哀しみを和らげることだって、あってもいいでしょ。そういう哀しみの癒やし方があったっていいでしょ。

 前出の映画評はプロの評論家が書いていたものだけど、本作を見終わって改めて、ずいぶんと浅いモノの見方で呆れてしまった。というか、その評論家氏には、哀しみは乗り越えるべきものでしかないのだろうね、きっと。乗り越えられない、乗り越えたくない哀しみもあるんだ、ってことを、肌感覚で分からないなんて、それこそ可哀想な人だと思う。

 本作は、味わい深い良い映画だと思う。特に、終盤、元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)と偶然会ったときのシーンが、胸が詰まった。事故直後、ランディはリーを激しく責め詰ったけれども、今はとてもそれを後悔していると涙ながらに打ち明け、ほとんど号泣しながら「今もあなたを愛している」と告白するのだ。今、こうしてそのシーンを思い出すだけでも涙が浮かんでしまうが、ここでも、リーは涙を流すことはなく「その一言で救われた」とだけ言い残し、立ち去る。

 リーにとって、あの一件は、生涯背負っていきたいことなのだ。忘れられない、のではなく、忘れたくないのだと、私はそのシーンを見て強く感じた。それでいいじゃないの。その生き方は、間違っていないと思う。


◆セクハラ騒動雑感。

 それにしても。折角の良い作品なのに、主演のケイシーにセクハラ騒動なんて、とんだミソが着いたもんである。本作とは関係ないが、セクハラについて少し。

 ケイシーと被害者の間で示談が成立した、ということは、恐らく、セクハラと認定される事実はあったのだろう。それを、ケイシー自身がセクハラと認識した上での示談成立かどうかは分からないが。ただ、今年のアカデミー賞授賞式で、プレゼンターを辞退したときの「セクハラ騒動で注目が自分に集まるのは不利益になると考えた」とのコメントを読むと、まあ、セクハラと認定されたことを不満に思っている、あるいは、否定しているのだろう。

 事実はどうなのか分からないが、恐らく、世間の男性の多くは、「女たちが騒ぎすぎ」と感じているのではないか。そして、女性の中にも同様に感じている人たちは少なくないだろう。

 セクハラは、受け手の主観で決まるので、訴えられた方にしてみれば、こっちこそ被害者、と言いたくなるのは、まあ、分からないではない。

 が。

 少なくとも、相手が「明らかなOKの意思表示」をしていないのにもかかわらず、「勝手に」相手の言動を自分に対する「好意」と脳内変換し、そこまでならまだ良いとして、挙げ句に、一気に飛躍して、性的な発言をしたり、相手の身体に許可なく触れたりするのは、これは、もう客観的に見てもセクハラなんですよ。「明らかなOKの意思表示」って何だよ? と思うかも知れないが、それは、相手が「あなたのことを好きです」「スキンシップorキスorセックスしてもOK」と、ハッキリ言葉にして伝えてくれることである。この、互いの意思確認をすっ飛ばして、「多分……だろう」という手前勝手な勘違いで、いきなり行動に移す人たちが多いのなんの。

 「イヤよイヤよも好きのうち」なんてのは、根拠のない伝説なのよ。「イヤよイヤよはホントにイヤなの」ってこと。

 とにかく、セクハラは、パワハラの一種で、自分より“重い存在”の人間には絶対に起きない現象。相手をナメているから生じる言動なわけだ。被害者は女とは限らないし、加害者が男とは限らない。皆が、他者に対し尊重する気持ちを持てば防げることなんだけどねぇ。簡単そうだけど、、、、まあ、なくならないだろうね、多分。人間は、それだけ、自分を相対化して生きているってことだわね。一種のマウンティングってヤツでしょう。

 そんなつもりはなくとも、自分も陥る可能性はあるのだから、気をつけねば。

  






人生は、哀しみでできている。




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