映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

きっと、うまくいく(2009年)

2015-07-31 | 【き】



 インドの超エリート工科大学に入学し、寮で同じ部屋になったランチョー、ファルハーン、ラージューの3人。この大学、学長が学生を勉強に追い立てまくって追い詰めることで、大学の国内ランキングを上げてきたのだった。

 しかし、天才肌のランチョーは、そんな学長の方針に真っ向から疑問を呈し、飽くまでマイペースに学問を究める自由人を貫く。そんなランチョーに、ファルハーンとラージューも次第に影響を受け、学ぶことの本質と、生きることの意味、そして自分と正面から向き合うことを余儀なくされる。そんな2人が出した卒業後の進路は・・・。

 そして、自由人ランチョーは、卒業後、あれほど仲の良かった2人の前から姿を消してしまう。彼は今どこに・・・。

 学生時代から10年後、ファルハーンとラージューが、ランチョーを探す旅を通じて、過去と現在を往復しながら、彼らの青春絵巻を展開させる約3時間の長尺映画。

 
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 日本で公開されたのは2013年です。もう2年経つのか・・・。実は、本作は劇場に6回見に行きました(リバイバル上映のギンレイも含めてですが)。それくらいハマってしまった作品です。当然、みんシネにも思い入れ満載のレビューを書きました。

 本来なら、そこまでハマったのなら、10点満点の10点を付けそうなものですが、私はみんシネで9点としました。それは今も変わりません。なぜ-1点なのか。それをここでは書きたいと思います。

 本作の素晴らしいところは、非常にベタになりそうなテーマを、しかも真正面から取り上げているにもかかわらず、まったく嫌みがなく説教臭くなく、ユーモア満載で、なおかつシリアスな面も描いているところです。

 しかし、本作は一歩間違えると、かなり不愉快な映画になりかねない要素をはらんでいるのです。

 例えば、ランチョーは、天才肌ですから、彼の持論である「成功するために努力するのではない。努力すれば成功はついてくる」が通る訳です。しかし、その他の学生は(エリート大学に入っている時点で優秀に違いないけれど)凡才ですから、そんなのはタテマエ論に過ぎないと分かっているのです。「寝言は寝て言え」ってやつです。そんな理想論を堂々と掲げて、ランチョーは、ファルハーンやラージューの生き方に口を出すわけですから、正直、ウザい奴と思われても仕方がないのです。

 また、チャトゥルの晴れの舞台であるスピーチの原稿を改ざんした件では、改ざんした内容が倫理的にどうなのか、という点も引っ掛かります。正直、あそこでドン引きする人がいても不思議ではありません(私はギョッとはなったけれど、流しました。理由は後述します)。ヘタすりゃ、訴えられるレベルのものです。かの国でその犯罪が横行していることを思えば、笑えない、という人がいるのも当然の話です。 

 その他、3人のやらかす愚行が、あまりにもバカ過ぎるとか、迷惑すぎるとか、ラージューの自殺未遂も自業自得だとか、、、。他にも、なんだか上手く行きすぎでご都合主義っぽいとか、、、。まあ、突っ込みどころは満載です。

 これらのことを私のセンサーもどこかで微弱ながら感じ取ったために、恐らく満点を付けるのをためらったのではないか、という気がします。他に10点を付けた作品と比べ、どうしても、10点を付けることができなかったのです。

 特に、原稿改ざんについては、一瞬「は?」と、サーッと心が引いて行く感じになり掛けました。が、なぜ流したかというと、韻を踏んだ言葉遊びのひとつと解釈したからです。そして、実際、チャトゥルがスピーチしているシーンを見て、これは、世相に対する揶揄でもあると感じたからです。ま、これはかなり好意的に見て、の話です、もちろん。

 じゃあ、逆に、そんなマイナスポイントがあるのに何で9点も付けるのか、ってことです。

 これじゃ理由にならんと言われそうですが、正直なところ、私はこれを見て理屈抜きで“グッと来た!!!”のです。最初に見てエンドマークが出た時、劇場の椅子から立ち上がれませんでした。本作を見て「泣けた」という人もネットではたくさん見かけましたが、私は泣けませんでしたし、感動したというのともちょっと違いました。そう、みんシネに書いたとおり、もの凄い幸福感と昂揚感に襲われたのです。こういう感覚を覚えたのは、恐らく本作が初めてです。他の10点作品でも、こういう感覚は味わえなかったのです。これは、本作にしかない引力があるからだと思いました。

 なので、その後、5回も劇場に、なんというか、催眠術に掛かっているみたいな感じで通っていました。一種のトランス状態でしょうか。本作を見るとそういうラリッた感覚になれた、んでしょうか。自分でもよく分かりませんが、とにかく、見終わるとまたすぐ、次が見たくなる、という感じでした。6回目を見ても、やはり7回目を見たいと思いました。

 そして、アマゾンで予約していたblu-rayが手元に届き、早速見る気になったかというと、、、これが、なぜかそうではなかったんです。正直、見るのが怖いというか、実は、まだblu-rayの本編は見ていないのです。もう購入してから1年半経つというのに。特典映像は見ましたけどね。

 10個作品の『リトル・ダンサー』もそうですが、やはり、あまりにも思い入れのある作品というのは、見るのに特別な心の準備が必要になってしまいます。『ダーティハリー』も、通算100回は見ていると思いますが、今は、見るのに勇気がいるようになってしまっているし、、、。見飽きたと思いたくないんですね、多分。そして、自分がそれらの作品に抱いている感覚を壊したくないのです、テレビで見ることによって。スクリーンで見て壊されるのなら、まだ諦めもつくのでしょうが、、、。

 でも、そこまで、たかが(と敢えて書いちゃいますが)映画ごときで思い入れを持てる、というのは、またそういう作品に1本ならず何本も出会えているというのは、私は本当に幸せ者だと心から思います。そこまで振動させる心を持てていることも、良かったと思えます。何を見てもそこそこ、、、じゃ、あまりにもつまらないし、虚しいですから。

 というわけで、本作は、ある程度好き嫌いが分かれる作品かと思いますし、押し付けがましいことを書くのも本意ではありませんが、でも、まあ見て損はない映画だと思います。





劇場で見た回数最多作品です。
(2位は『リトル・ダンサー』の5回)




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昼顔(1967年)

2015-07-28 | 【ひ】



 Mの気のある有閑マダムが、夫とのセックスに飽き足らず、かと言って、夫にSをねだることは憚られ、あろうことか売春アルバイトに手を染める・・・。

 『反撥』に続く、ドヌーヴの妖しい魅力が見ものな逸品。

 
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 かの有名な作品を、今さらながら拝見しました。思っていたよりかなり笑えるシーンがありまして、楽しめました。

 ドヌーヴ演じるセブリーヌは、優しい夫がいるのに「昼顔」という源氏名の娼婦になってしまうんだけれど、ここで客となる男性陣たちがユニークというか、あれが男の本性なのか分からないけど、面白すぎです。

 ある日の客は、Mな自称“大学教授”で、このオッサン、娼婦相手に“奥様と下僕”になりきり中、奥様のムチのタイミングが早いと「まだ早い!」とかってダメ出し。下僕のコスプレが何とも言えないというか。宴会グッズの鼻眼鏡みたいなメガネにちょび髭、、、。また別の日には、お城みたいなお屋敷に住む高貴なお方が、娘の臨終ごっこに昼顔を付き合わせる。昼顔を全裸にさせた上で頭から黒いベールをかけ、ご丁寧に棺桶にまで昼顔を横たえ、その死顔を愛撫しながら棺桶の下に潜り込んで、、、、とか。意味分からん。私が昼顔だったら途中で噴き出しちゃいそう、可笑しくて。セブリーヌはちゃんと付き合ってあげるんだから(商売とはいえ)偉いわ。

 ま、こんな人畜無害な客ばかりなら良いけれど、やはりそういう訳にもいかず、、、。昼顔にマジ惚れしてしまう若造が現れるんだけど、この男が見るからにヤバそうなのです。上の歯は全部銀歯、しかも昼顔を押し倒しながら脱いだ靴から出てきたその足に履いている靴下にはでっかい穴が開いている、、、。この描写で、この男の生活実態は推し測られ、セブリーヌ、ヤバいよ!! と見ている者はドキドキさせられる訳です。当のセブリーヌは全く危機感ナシですが。

 ところどころで、セブリーヌの妄想シーンが入るのは、あの『反撥』と同じですね。こっちの妄想の方がM全開ですが。何しろ、冒頭からいきなり緊縛鞭打ちですからねぇ、、、。やるな~、ドヌーヴさま。服も全部脱がないあたりが余計にエロ度が増します。あと、純白のドレスを着て、やっぱり縛り付けられて夫に泥を「このズベタ!」とか言われながら投げ付けられるとか。妄想シーンでセブリーヌを甚振るのは、必ず夫なんですよね、これが。ここにセブリーヌの深層心理を見る、ってことでしょーか。

 でも、私はラストシーンで再び馬車が出てきて妄想シーンとなったところで、正直、この作品での描写全てが妄想なのかも、という気もしました。ぜ~んぶセブリーヌの脳内物語。少女の頃の体験も、全て。だって、夫の親友が教えてくれた売春館で娼婦のバイトなんて、普通しませんよ。危険すぎますから。知り合いに会う確率が高過ぎる。・・・まあ、でも、昼顔の可笑しな客たちとか、むしろリアルな方が面白いし。あの程度のコスプレじゃ、セブリーヌの妄想にしては大人しいという気もしますし。

 まあ、どこまでが妄想で、どこまでがリアルかなんて、あんまし意味ないかもですね、本作においては。

 ドヌーヴさまは、このとき24歳だとか。 美しいけれど、ちょっと痩せすぎ? 2年前の『反撥』の方が好きかなー、個人的には。でも、20代前半でこういう役が出来ることがスゴイと思います。精神的にも今の若者より早熟だったんでしょうなぁ、50年前の若者たちは。私が若者だった20~30年前、すでに、「おめぇら、いつまでガキのつもりだ」と世間に言われていたものです。

 相変わらず、ブニュエルは変態の描写が上手いなー。『小間使の日記』とか、また見たくなっちゃった。ホント、『忘れられた人々』を撮った同じ監督とは思えない、この素晴らしい芸当に脱帽でございました。







ドヌーヴ&ブニュエルによる奇跡的エロ映画。




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ボヴァリー夫人(1949年)

2015-07-22 | 【ほ】



 言わずと知れた、ギュスターヴ・フローベールの名作の映画化。

 真面目で平凡な町医者のシャルルと結婚したエマは、玉の輿に乗ったつもりであったが、結婚してみれば、夫はただの田舎者でつまらぬ男、上には上がいることを思い知る。

 エマは、こんな人生なのは、自分が女だからと思い込む。自由のない女だから。男ならば自分の人生を自分の意思で選べる。女である自分の最後の望みは男の子を生むこと! とシャルルの胸に泣き崩れる。・・・が生まれたのは女の子。絶望するエマ。

 しかし、念願だった貴族のパーティへの参加が叶い、そこであるイケメン貴族と出会い、ダンスで盛り上がり、、、。

 上昇志向の強い女の自業自得な自滅物語。

 
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 なぜ本作を見ようと思ったか、というと、現在公開中の『ボヴァリー夫人とパン屋』を見に行こうかなぁ、と思っていたからですが、本作を見て見に行くかどうかを決めようと思っていたわけではゼンゼンありません。一応、下敷きになったお話を知っておこうと、原作を読むより手っ取り早く映画で、と思いまして。

 この小説は、何度か映画化されており、最近では、ミア・ワシコウスカ&エズラ・ミラーによるものもあるようですね。日本では未公開みたいですが。また、クロード・シャブロル監督によるイザベル・ユペール版もあるのですが、まずはこちらから。イザベル・ユペール版は、また後日。

 ・・・というわけで、本作ですが。もちろん、原作は未読です。

 こういう、エマのような、他力本願で上昇志向強い系の女、ってのが、私はどうもかなり苦手でして、、、。まあ、自分の母親がそうだったからなんですが。見ていて、腹が立つとかムカつくとかではなく、ものすご~く冷めて見てしまいます。今どきの言い方を借りれば「ばかじゃね?」的な感じでしょうか。

 エマも言っているように、19世紀中盤であれば、なるほど女性の人生の選択肢は多くはなかったと思います。というか、限られていたでしょうね、非常に。だから、彼女は、男の力を借りて、自己実現をしようと足掻いたのです。ある意味、納得ですし、仕方ないと思います。こういう風に考える女性を責めることは気の毒でしょう。

 ただ、エマの場合、私が見ていて白けた一番の理由は、「自分の足元を見ていない」からです。上昇志向が強くても、他力本願でも、自分を客観視できる女性なら、シャルルとの結婚生活を充実させ、シャルルが退屈な男なら自分が自分の人生を豊かにするべく何かしらの努力をすることを考えると思うのです。そう、エマは「身の程知らず」なのです。

 いっそのこと、男を踏み台にしてのし上がってやろう、という壮絶な野心家なら、むしろ応援したくなるんだけどなぁ。でも、エマは、そもそもそんな器じゃないのです。彼女のすることと言ったらせいぜい、ちゃちな贅沢をするために蔑んでいる夫の名を借りて借金に借金を重ねて、その金で複数の男と不倫し、それらの男どもに騙され捨てられ、借金は返せなくなって身動きが取れなくなり、、、。そう、彼女はアッパーを望むには頭が悪過ぎたのです。いくら、女が抑圧された時代だからって、バカは時代のせいにはできません。ロマンス小説にばかり夢中でオツムの鍛錬を怠ったのは、誰あろう、エマ自身。しかし、彼女はそこに気付くことすらできない絶望的な頭の悪さなのです。

 こういう人が自滅するのは自業自得なんで何とも思いませんが、こういう人がいると周囲がものすごい迷惑を被るのが世の常なのですよねぇ。不条理の極みだと思います。本作でも、ラストでシャルルは無一文となります。原因を作ったエマは勝手にヒ素を飲んで自殺。何なんでしょう、この理不尽な展開は。夫は自分が選んだ妻だからまだしも、一人娘は可哀想過ぎです。私の母親も、周囲を散々な目に遭わせていたものでした、、、。肝心の本人は、自分だけが我慢を強いられた犠牲者、と思い込んでいるところなんか、エマとそっくりで、ますます白けてしまいました。

 と、エマをこき下ろしてきましたが、100歩譲って、エマはエマなりに努力したのだ、という風にも見られるな、とも実は思ったのです。彼女的には、精一杯、この不満だらけの現状を打破すべく足掻いたのですからね。足掻き方はともあれ、諦めて人生を無為に過ごしたりはしなかった。彼女に救いがあるのは、一人娘に自分の夢を託すということを考えなかったことです。飽くまでも、自己完結。自分の人生の不足は、自分の人生で補おうとしたこと、これが彼女の救いです。というか、見ていた私にとっての救いだったかも。

 夫のシャルルにはひどい接し方だったけれども、彼女の中では筋の通った行動だったのでしょう。自分の意思に従って生きる、何ものにもそれを遮ることなどさせない、という、、、。しかし、如何せん、彼女は自立できる人ではなかった、その能力も機会もなかった、ってことでしょう。修道院にいた間にお勉強しなかったんでしょうか、それが不思議なんですが。ロマンチック小説ばかり読みふけって、夢子ちゃんになってしまったんですかね、、、。自由を求めての行動が、あんな(といっちゃ悪いが、いささかレベルが低すぎる)男たちとの不倫、ってのがね、、、。あまりにも哀れというか。

 ところで、原作者のギュスターヴ・フローベールは、裁判中に「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったとか。ふむ、どういう意味でしょう。原作を読んでいないので分かりませんが、少なくとも、このセリフの「ボヴァリー夫人」=エマでないことだけは確かだと思います。「『ボヴァリー夫人』は私だ」なら、まだ分かるかも。この謎を解くためにも、やはり原作を読んでみるとするか、、、。

 あ、パン屋の方も、見に行こうと思います、時間があれば。







自由を求めた結果がつまんない男との不倫、、、。イヤだなぁ。




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チャイルド44 森に消えた子供たち(2015年)

2015-07-18 | 【ち】



 スターリン政権下のソ連、孤児のレオは大人になり、秘密警察MGBの捜査官(トム・ハーディ)というエリートになっていた。ある日、レオの親友の子ども(男児)が線路脇で遺体で発見される。「殺人は資本主義の弊害。楽園(ソ連のこと)にこの種の犯罪は存在しない」という当局の公式見解により、その一件は事故死扱いされるが、親友は「これは殺人だ!」とレオに訴える。親友の話を聞き、レオの中でも疑問が生じ、捜査に着手する。

 しかし、そんなある日、レオの妻ライーザにスパイ容疑がかかる・・・。レオは妻をかばい、僻地への左遷に甘んじる。が、その左遷先で、また男児殺害事件に遭遇し、いよいよレオは真実を求めて動き出す。そして、同時に当局に追い詰められて行く、、、。

 終始、薄暗い画面で、話の内容も実に暗いが、最後まで目が離せない展開。

 
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 原作は読んでおりません。予備知識もあんまりなく見に行きましたが、なかなか面白かったです。タイトルの44人の連続殺害事件を当て込んで見に行くと、肩すかしを喰らうでしょう。本作は、そこがメインフォーカスではありませんでした。

 では、何を描いている映画なのか。メインフォーカスその1は、夫婦愛でしょう。そして、その2はスターリン時代というまさにその時代。その3、その4はなくて、その5くらいに連続殺人事件の真相、といったところでしょうか。

 本作は、ソ連が舞台なのにセリフは全部英語なんですが、まあ、それはよくあることなんで目を瞑るとして、役者さんたちの喋る英語が揃いも揃って「ロシア語っぽい英語」なのです。ちょっと英語か何語か分からないところも多々あります。どうやらこれは、ソ連の話だからってことで、こういう演出にしたらしいのですが、英語圏ではこれがもの凄い不評だったらしいです。そらそーだよなぁ。日本語ネイティブの人間が、日本語を中国語っぽく話してたら、バカっぽく見えるもんなぁ。この演出は、ものすごーく疑問です。トム・ハーディがなんかへんちくりんな英語をボソボソ喋るシーンが一杯あるんだけど、とてもヘンでした。

 そういう余計な演出が鼻にはついたけれども、その他は概ねとてもよく出来ている作品だと思います。何より、レオとライーザという夫婦が実によく描けています。一旦は破綻しかけた夫婦だけれど、夫の真の愛情を見せつけられた妻は、夫とともに危機を乗り越える道を選びます。この流れが、見ている者にもとても説得力があり、感動的です。

 レオは、ちょっと粗野な男だけれど、根は優しく器も大きなイイ男です。トム・ハーディはこの役のためにかなり体重増やしたんですかねぇ。顔が変わって見えました。本来イケメンのはずなんですが、、、。ロシアつながりで、ちょっとヒョードルっぽいなぁと思っちゃいましたが。でも、やはりところどころケヴィン・コスナー似の表情も見られ、おぉ、やっぱしトム・ハーディなんだ、と再認識しました。レオにはハマリ役だったのではないでしょうか。夫がこれほどまでに命懸けで自分を守ってくれる男だと見せつけられたら、妻の心が動かないはずありませんわ。もともと、心底嫌ってたんでなければ、惚れちゃうでしょ、そりゃ。

 そして、何といっても、これでもかと徹頭徹尾、悪し様に描かれるスターリン時代のソ連というお国。もう、“親の仇”みたいに容赦がないのです。しかも、大飢饉が起こっていたという、、、。実際にこんなだったのか、これよりひどかったのかは分からないけど、もうとにかく、こんな社会に生まれてきただけで不幸としか言いようがない描かれ様です。これじゃ、ロシアが本作を上映中止にするのも納得です。

 でもでも、パンフを見ると、これらの描写はあながち過剰なデフォルメではなさそうだってんだから、それの方が怖い。今のロシアも相当な独裁国家に見えるんだけど、多少はあの頃よりはマシなんでしょうか。指導者にカリスマ性や、即決性や、明解さを求めると、その成れの果ては、こうなのだと言われているみたいで、背筋がゾッとなりました。

 で、タイトルにもなった、44人の連続殺人事件ですが、真相はというと、知ってしまえば割とあっけないものです。が、ここがクセモノというか、この犯人は医師であり、軍医として国家に貢献したにもかかわらず、あらぬ疑いを掛けられ不遇に追いやられた挙句の犯行ということらしい。そして、大飢饉という背景と、被害者の内臓が切り取られていたことから、この辺は見る人の解釈によるけど、カニバリを想像させます。

 自由のない社会、慢性的な食糧不足、人権蹂躙が当たり前の日々、、、こんな国に生まれたいですか? 私だったら、多分、結婚しても子ども作りませんね。まあ、子ども産まないと、それだけで犯罪者扱いされるんでしょうけれど、こういう国では。でも、我が子をそんな世界に送り出す方がもっとイヤです。

 それにしても、ヴァンサン・カッセル、いつのまにこんなに歳とっちゃったんでしょう。なんか、水分が抜けちゃったみたいな風貌で、少なからずショック。別に好きでも何でもないですが。モニカ・ヴェルッチとの離婚が堪えたんでしょうか。・・・あと、レオを執拗に嫌らしく追い詰める元レオの部下であるワシーリーを演じていたジョエル・キナマンがなかなかイイ感じでした。インテリ系のサイコパスとか演じさせたらハマりそう。・・・そうそう、ゲイリー・オールドマンも相変わらず存在感あるイイ味出していました。が、なんというか、本作に限ってですが、どことなくスターリンに似ているように思えたのですが、、、。気のせいかしら。

 というわけで、原作が「このミス」に選ばれたからってんで、ミステリー映画とかサスペンス映画を期待していくと、多分ガッカリします。これは、飽くまでヒューマニズム映画です。ラストが甘いのがちょっと、、、ですけれども、エンタメとしてもなかなか良いのではないでしょうか。






夫婦愛を描いた映画ですよ。




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窓 ベッドルームの女(1987年)

2015-07-16 | 【ま】



 テリー(スティーヴ・グッテンバーグ)は、上司の妻・シルヴィア(イザベル・ユペール)と不倫していた。ある晩、テリーの部屋での情事の後、シルヴィアは窓からアパートの前の公園で、やたらと色白でトサカみたいな赤毛の頭をした男が女性・デニス(エリザベス・マクガヴァン)を襲っているのを目撃する。シルヴィアが全裸で窓を開けたことから、その音に反応した犯人が振り返ったため、シルヴィアは犯人の顔をバッチリ見たのだ。そして、犯人もシルヴィアの姿をしっかり見た、そしてデニスを放って逃げた。

 その時、テリーはバスルームにいて、現場を目撃していなかった。シルヴィアに呼ばれ慌てて窓の外を見た時は、女性は近所の人々に助けられているところだった。

 翌日、テリーは、自宅のすぐ近くで女性が殺害される事件が起きていたことを知り、シルヴィアが見た男と同一犯ではないかと疑う。シルヴィアも、自身が目撃者であるのに、不倫故にだんまりを決め込むのは人として許されないのではないかと葛藤する。そこで、テリーはシルヴィアに成り代わり、目撃者として警察に名乗り出るのだが、、、。

 「窓」というタイトルから、なんとなくヒッチコック作品を意識してる? 筋立ても若干共通事項アリ。

 
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 『ダウントン・アビー』で伯爵夫人コーラを演じているエリザベス・マクガヴァンを見たくて、DVDをレンタルしました~。伯爵夫人を素晴らしく演じている彼女の若かりし頃を見てみたくなったのです。

 この頃、彼女は26歳くらいですね。う~ん、顔がはち切れそうなくらいに張りがあり、美人ですがちょっと個性的な感じです。コーラは本当に品のある優雅な奥様で、実にハマっているのですが、こちらのデニスは気の強いお姉ちゃんでなかなか素敵です。ま、彼女については、後で感想を書きます。

 なんというか、身代り目撃者、なんて破綻するに決まっているのに、テリーは実に安易に名乗り出ちゃうんですよね。まあ、これがないとオハナシにならないので仕方ないんですけれど。当然、彼の証言は、時間がたつにつれて警察に怪しまれ、公判では被告の弁護人にぶった切られ、彼自身が被疑者にさせられてしまいます。バカだよ、テリー。

 でもって、不倫相手のシルヴィアは、超自己チュー女。都合の良い時だけテリーをお遊びの相手にし、自分の身が危うくなればバッサリぶった切る。こういう女だって、最初から分かりそうなもんでしょーよ。バカだよ、テリー。

 結局、あれこれあって、犯人の男に、テリーはシルヴィアの身代り目撃者とバレてしまう。なぜなら、法廷でシルヴィアを見た犯人は、彼女こそが本物の目撃者だと分かったから。あの時、全裸で自分のことを窓から見ていた女・・・。あんなに法廷で証言席から傍聴席にいるシルヴィアと目で会話していたら、バレるに決まってんだろ。でもって、シルヴィアの身が危うくなるの分かるだろ。大バカだよ、テリー。

 案の定、釈放された犯人は、テリーを尾行することでシルヴィアの居場所を突き止め、隙を見て彼女を刺し殺す、、、。嗚呼。

 しかし、殺されかけたデニスは、どっこい強かった。自分が囮になって、赤毛トサカ頭男をおびき出し、容疑者にされかけていたテリーを最終的には救うのです。

 窓からの目撃がストーリーの要になっていることや、女性が囮となって犯人をおびき出すことなんてのは、やはりヒッチコック作品を意識したのかしら。『裏窓』は、正直、ジェームズ・スチュワートがあんまし好きじゃないんで、名作と言われますがそれほど良いと思えないのよね~。確かにサスペンスとしては面白いんですけれど。

 本作も、なかなかスピーディな展開といい、中盤から終盤に掛けてのハラハラ・ドキドキ感はなかなか。ヒッチのより好きかもです、私。

 テリーを演じるスティーヴ・グッテンバーグが、ちょっと抜けてるけど愛嬌のある好青年をうまく演じています。シルヴィアにひどい仕打ちを受けますが、彼自身も言っているけど、それほどシルヴィアを愛していたわけじゃないから、精神的なダメージも小さかったみたいだし。もちろん、タフなデニスという女性の魅力に惹かれたからってのも大きいでしょうし。自分が容疑者扱いされ逃げているとき、デニスが自分の部屋で匿ってくれたのは、きっと彼にとって地獄に神に思えたことでしょう。おまけに、自分から添い寝してくれるというおまけつき。美味し過ぎるぞ、テリー。

 シルヴィアを演じたイザベル・ユペールは、本作では彼女の持ち味である毒気をあんまし発揮していませんでしたね~。あれじゃ、ただのヤな女。顔までなんだかアメリカ風になっていたように見えたのは私だけ? 全裸で窓から犯人を見下ろすシーンはゾクッとしますけれど。結構あっけなく殺されちゃいましたしね。

 そして、エリザベス・マクガヴァンです。コーラ役でも、ややベース型の顔だな~、とは思っていましたが、今は加齢によって適度に頬がこけていい感じになっていたのですね。本作での彼女は、かなり四角い顔です。しかも、終盤、囮になるときはブロンドのズラを被るので、ベース型の顔が強調される感じです。もちろん、美人に違いはないのですよ。ちょっとイメージが違う、ってことです。しかも、伯爵夫人と違って、こっちはとってもアクティブです。

 でも、2つの役に共通しているのは、優しくて強いところでしょうか。デニスも、テリーが容疑者扱いされていても、自分の彼に対する第一印象を信じて、彼を微塵も疑うことなく、彼を助けます。彼女も、テリーがシルヴィアの身代り目撃者であることは早くに見抜きますが、それを過剰に責め立てるでなく、テリーの自主的な行動に任せます。そういう、なんていうか、自分本位でないキャラが素敵だなーと。私がデニスだったら、テリーを責めまくり、本当のことを警察に洗いざらい話せと怒り狂うと思うのです。でもデニスはそうしない。挙句、彼を救うために、自らを危険に晒すという行動にまで出ます。私だったら、絶対しない、そんなこと。でもこのデニスの行動があったからこそ、警察も、真犯人を早くに捕まえることが出来たわけです。

 それが、賢い行動だったとは思えないし、何も囮にならなくても、正規の手続きを踏んでも良いのでは、と思いますが、それじゃあ映画として盛り上がらないもんね。それに、デニスはテリーを好きになっていたわけだし。テリーだって、こんなデニスを好きにならないわけがないでしょ。

 どーでも良いけど、黒人の刑事役の人(カール・ランブリー)どこかで見たことあるな~、と思って検索したら、あのドラマ『エイリアス』に出ていたのね! 『エイリアス』、ヴァルタンが出ているので見たけど、シリーズ1のしかも1話見ただけでドロップアウトしてしまったのでした。ヴァルタンは素晴らしく美しかったのだけど、どうにもジェニファー・ガーナーの顔とストーリーに着いて行けず、、、。ちなみに、被告の弁護人を演じていたのはウォーレス・ショーンで、こちらも『デスパレートな妻たち』にご出演でした。デスパでは破産して奥さんに逃げられた出版エージェントという、かなり情けない役だったけど、本作ではテリーの証言を木端微塵にした敏腕弁護士でした。

 、、、まあ、名作というにはちょっと軽い感じはしますが、そこそこ楽しめる隠れた逸品と言っても良いのでは? 

 





公爵夫人とは全く違うエリザベス・マクガヴァンを見られます。




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SPACE BATTLESHIP ヤマト(2010年)

2015-07-13 | 【す】



 もはや説明不要、あの「宇宙戦艦ヤマト」の実写版。

 
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 ヤマトは原作も読んでいないし、TVアニメも見ていなかったし(でも、なぜか『宇宙戦艦ヤマト 完結篇』だけは映画館に当時の友人と見に行ったけれど)、何となくは知っているけれども、あれこれ文句を言えるほどそもそも知らないので、私の中にあるヤマトのイメージと本作を見て感じたことだけを書きます。

 まず、キムタク。一部じゃクソミソ言われていますが、私は、この役を引き受けた彼の勇気にを2つ献上します。実写版なんて、大抵の場合こき下ろされるのが相場なのに、それを分かっていて敢えて彼は受けたのです。大したもんです。そして、私の記憶の中にある古代進の絵柄とそう遠くない感じでした。喋り方とか所作は大分違いましたけど。あれは、キムタク古代、と思えば納得です。

 次、森雪。うう~ん、これはかなりイメージ違うかも。「古代くん!」って感じじゃなかったもんな。あんなキリッとしたキャラだったかな。切れ長の目は、まあ、共通項だけれども、感じはロングヘアー以外はかなりかけ離れているような、、、。

 そして、沖田艦長。これ、かなり似ている気がしました。喋り方は山崎努なんだけど、見た目は沖田十三でしたね。

 あと、真田さんとか、島大介とかもなかなかだけど、その他のキャラについてはどんなだったか記憶さえないのでコメントしようがありません。デスラーも姿見せなかったし。

 で、、、。映画としては、まあ、ストーリーは一応あるけど、展開がワンパターンというか。危機→ワープor波動砲→ホッとする→レーダーに敵機現る→危機→ワープor波動砲 これの繰り返しじゃない? しかも、タイトルにスペースバトルシップってあるのに、艦戦の描写がない・・・。毎度毎度、相原が「○時の方向に敵機!!」って叫ぶんだけど。そもそもイスカンダルまで到達するのが早過ぎ、地球に戻ってくるのなんかそれこそ瞬間移動な気がするし、、、。でもまあ、いいか。

 終盤なんて、あんなに目の前に敵が迫っているのに、ウダウダ生きるの死ぬのの、まさに愁嘆場。そんなことやってる場合か? と思うけれども、これはお約束だから、ま、いいか、、、。

 極めつけは、古代と雪がヤマトのワープ中に合体した(らしい)挙句、子どもまでできちゃった、ってことかな。おいおい、、、。でもこれも、ま、いいか。

 というわけで、何が目の前に現れても「ま、いいか」と思えちゃう映画なのです、これ。何ででしょう。キムタクが相変わらずキムタクでも、何となく艦内のセットがちゃちいなあと思っても、いちいちさほど気にならないんですよねー。これは、私がヤマトに対して思い入れがあまりないっていうのもあるけど、実写撮った、よーやった! みたいなのがそもそも論であるものだから、あとは何でも大抵許せちゃう、って感じでしょうか。

 まあ、正直言うと、古代の最後の選択に対しては異議を唱えたいのだけれども、所詮、そういう映画、と思っちゃうから真面目に意義を書く気にもならないのです。

 でも、思ったんですが、隊服のデザイン、今見ると、すげぇダサいですね。あの胸のV字みたいの、カッコ悪い。それと、震災前に撮ってて良かったですよね。後だったら、あんなに「放射線」を連呼できなかったでしょうから。

 冒頭の古代守が戦死するシーンですが、あれ、筧利夫かと思ってたら、堤真一だったのね~。堤さん、若い頃は好きだったんだけどなぁ。売れちゃってからつまんない役者になっちゃったよね、尖っているところがなくなった、っていうか。筧さんの方が魅力的だわ、歳とっても。

 というわけで、本作については、小っ恥ずかしささえ克服すれば、フツーに楽しんで見られます、きっと。

 





古代と雪がいつ子づくりしたのか、一瞬過ぎて分かんなかった




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ハウスメイド(2010年)

2015-07-11 | 【は】



 いわゆる下層階級の女性ウニ(チョン・ドヨン)は、ある豪邸に住み込みのメイドとして雇われる。夫婦と一人娘、そして先輩メイドがその豪邸には暮らしていた。ウニは、臨月の妻や娘の世話も甲斐甲斐しく行って、特に娘には懐かれる。

 ある日、豪邸の主人フンはウニの寝室に来て、臨月の妻の目を盗んで関係を持つ。間もなくその関係は、先輩メイドに知れることとなり、、、。

 1960年の韓国映画『下女』のリメイクとのこと。『下女』見てみたいなぁ。

 
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 カンヌで主演女優賞に輝いたチョン・ドヨン主演ということもあってか、公開時にいろんな媒体で取り上げられていて、そこそこ興味をそそられたので劇場まで見に行こうかどうしようか……、と思っているうちに公開終了。DVD化されてから結構経つけれど、ようやっと鑑賞に漕ぎ着けました。

 まあ、劇場まで行かなくて、これは正解だったかな。

 少し前に、ナッツ・リターン事件がありましたねぇ。韓国の極々一部の超富裕層に属するタカビーお嬢が起こした事件、ということで、庶民の吊るし上げを喰らっていました。格好のワイドショーネタだわね、、、。今、かの国では“財閥3世”が社会問題にまでなっているとか。庶民を睥睨している財閥3世はナッツ姫だけじゃない、そんな風に非常識な大人になったのは、金にあかせて周囲を小ばかにして育てたor育ってきたからだ、という論法のようです。

 ……まぁ、そういうこともあるでしょうし、そういうことじゃないこともあるでしょう。いずれにしても、格差がもたらす怨嗟の火は、普段は燻っているから見えにくいけど、一旦油が注がれると爆炎するってことですね。怖いけど、自業自得って側面もあります。革命の根本ですもんねぇ、貧富の差って。

 というわけで、チョン・ドヨン演じるウニは、メイドとして雇われるんだけど、メイドのことを、家人は「おばさん」って呼ぶんですよね。ウニの先輩メイドであるビョンシクは「大きいおばさん」。もうちょっと違う呼び方ないのかね。この呼び方に、何かこう、全てが表れているというか、、、。

 豪邸の主人フン(イ・ジョンジェ)は、臨月の妻ヘラ(ソウ)の目を盗んでウニの寝室に上半身裸で侵入してくるんだけど、その裸体のマッチョぶりがもう、笑っちゃうよ、、、ってくらい鍛え上げたカラダです。で、それをスクリーンの前にいる観衆に「どーだ、見ろ、オレ様のムキムキのこの体!!」とばかりに両手を広げて見栄を切るわけです。その股間にはウニの頭が、、、。

 まあ、こうなったら後はなるようになるしかないですよねぇ。==以下、ネタバレバレです==

 結局、ウニは妊娠させられ、メイドをお払い箱になり、殺されそうな仕打ちを受け、最終的には、豪邸の家人勢揃いの前で何と首吊り&焼身自殺、という、衝撃的な最期を選びます。かなり唐突な感じのする幕切れです。

 この選択は、フンとヘラへの復讐とウニ自身が言っています。そして、これが果たして復讐になり得ているのか。それがラストシーンに暗示されている、ということでしょう。フンとヘラは、寒空の下、何故か野外で一人娘ナミのお誕生会をしている。高価そうなワインを注いだグラスを手にしたフンとヘラがナミと記念写真を撮るシーン。まるでウニのあの自殺ショーなんかなかったみたい。

 そう、ウニは無駄死にでした。、、、と書きたいところだが、ちょっと違うかもという気が。このお誕生会でのナミの顔、いや、目線がヤバいのです。ナミはウニに懐いていました。ウニもナミをとても可愛がっていたので、2人の間には特別な感情の行き来があったと思われます。そのウニの衝撃的な死を目の当たりにしたナミは、好きな人を亡くすという原体験をわずか6歳にして味わうことに。それがあの顔と目線でしょう。このナミがどんな大人に育つのか。到底、両親に対し素直に従順に育つとは思えません。とてもとても大きな険しい障壁が待ち構えている、そう、あのナミの表情は言っているように思えます。

 ウニは、それを狙って、あの自殺ショーを選んだのではないでしょうか。フンとヘラよりも、ナミにこそ見せたかったのでは、自分の死に様を。あの陰惨な死をもって、「こんな不条理があって良いのか!?」とナミの人生への問いかけとしたのです。そうでなければ、あんな死に方をした意味が分かりません。

 分からないといえば、本作の冒頭シーンも分かりません。ある女性が投身自殺を図るんですが、これが結構引っ張って長いシーンの割に、その後の展開に何ら絡んでこないのです。これをどう解釈したらよいのでしょうか。、、、分かりません、やっぱり。

 まあでも、正直、分からなくても良いです。そこまで惹かれる作品でもないので。

 大体、ウニという女性は、超受け身な人で、ふにゃふにゃしていて、イマイチ魅力に欠けます。つまり格差社会における下層の人間は、主体的には生きられない、ってことなんでしょうか。

 しかし、下層の人間が弱者、というより、本作で見る限り、女性は皆弱者になりますね。性に支配され、男の情欲の対象でしかない、そんな描かれ方です。これが果たして韓国の実態なのかどうか。日本以上に女性に対する風当たりは強そうではありますが、ここまでヒドイんでしょうか。ヘラも、金持ちの奥様ではあるけれども、夫に飽きられ捨てられたら終わり、という非常に危うい妻の座です。うー、どっちも、嫌すぎる。

 ハウスメイドって、まあ、家事全般を一手に引き受ける存在ですよね。ウニは、ついでにご主人様の性のお相手もしてしまったわけですが、これって、専業主婦と同じじゃないでしょうか、やっていることは。家事全般&夫の性のお相手。家事に対して対価があるだけ、メイドの方が専業主婦よりまだマシかも知れません。専業主婦は、妻として夫の愛という、お金じゃ買えないモノを得ているのだ、というのはまやかしです。さらに言えば、ウニの場合、子育ても担っていたわけで、じゃあ、ヘラの存在って一体何? ってことに・・・。正妻、というシンボリックな存在、ってことですか。

 専業主婦を貶めたいのではありません。かくいう私も、かつて、ほんの短期間ですが専業主婦をしていたことがありましたので。そして、専業主婦が、別に存在として良いとも悪いとも思っていません。どう生きようが個人の意思次第ですから。あくまで客観的に見て、という話です。

 とにかく、女というのは本当に因果な性です。こういう問題に直面すると、男と女で妊娠する確率が半々だったら世の中どんなに違ったものになっているだろう、といつも思います。どっちが妊娠するか分からなければ、性犯罪も減るでしょう、女だけが出産・育児で悩むことも減るでしょう。そして、本作みたいな映画は作られなくなるでしょう。

 そんなことには絶対にならないと、頭では分かっていますが、時々妄想して、複雑な感情に襲われます。

 話が逸れましたが。まあ、見ている間はそれなりに面白く見ることが出来ますが、それだけかな。消費されるだけの映画、という気がします。エロシーンを期待しても肩すかし喰わされますのでご用心。 






ご主人様が裸で仁王立ちになっている画が一番印象的。




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画家モリゾ、マネの描いた美女~名画に隠された秘密(2012年)

2015-07-08 | 【か】



 1865年、姉エドマと姉妹で絵描きを志していたベルト・モリゾは、美術館で模写していたところ、エドゥアール・マネに出会う。マネは、ベルトの絵に何かを感じた様子。

 そして、マネからベルトにモデルになってほしいと依頼される。依頼を受けるベルト。互いに惹かれるが、超えそうで超えない一線。果たして、しかし、マネは妻帯者だった。同じくマネに惹かれていたエドマは、ベルト以上にこの事実に衝撃を受け、早々に結婚してしまう。

 両親からの結婚への圧力、女性画家なんてそもそも世の中にほとんど存在していなかった時代、才能あるベルトは苦悩しながら、絵描きとしての自らの人生を諦めず、女性としても求められる人生を歩む決断をする。

 『ハンナ・アーレント』の撮影監督も務めたカロリーヌ・シャンプティエの監督による伝記映画。撮影監督と総監督は、やっぱし次元の違う仕事なのかも、と思い知らされた作品。

 
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 最初に結論から。正直、つまんなかったです。

 なぜか。理由は簡単です。主人公であるベルト・モリゾの魅力が全く描けていないからです。セリフがやや少なめってのもあるかも知れませんが、それにしたって、あまりにも、あまりにも、、、です。

 マネの「オランピア」をベルトがエドマと2人で見に行くシーンから始まりますが、この印象的な冒頭のシーンが何の意味も持っていない、伏線になっていないのですよね~。その後、ルーブルで姉妹が模写しているときにマネに会い、「オランピアを見ました」みたいな会話は出てきますが、それだけ・・・。うーん、、、。

 その後も、マネとのシーンは結構ありますが、何というのか、2人とも何考えてんだかよく分かんない、のですよ、見ていても。マネもベルトも、互いに惹かれているっぽい、というかマネはベルトに惹かれているのが分かりますが、ベルトは基本的に無表情というか、感情を表さないので、なんか味気ないんですよねぇ、全般に。

 演じたのはマリーヌ・デルテリムというフランス人俳優ですが、モリゾ姉妹とマネの3人の中で一番老けて見えるんですよ、設定上は一番若いはずなのに。で、後で見てみたら、実年齢で3人を演じた中で彼女が一番年上なんですね。しかも姉エドマを演じたアリス・バトードより13歳も・・・! そりゃ老けて見えるはずだわ。マネを演じたマリック・ジディよりも5歳上です。別に実年齢が設定に合っていないことをとやかく言うつもりはないけれど、明らかに違和感のある配役は、やはり作品そのものの雰囲気を壊す可能性があるわけで、そこは制作者としては拘るべきところじゃないのかしらん、と強く思うわけです。

 ベルトの魅力が感じられないのは、この女優さんのルックスだけではもちろんなく、そもそも演出の失敗なんじゃないかと。作品中で、ベルトが笑顔を見せるシーンがほとんどないのです。逆に、怒りを見せるシーンはありますが、表情は変わらず・・・。マネがモデルを務めるベルトに迫るシーンでも同じ表情。これは、マズイでしょう。正直、もう、あんまりセリフも頭に残りませんでしたものね。

 最初から最後まで、平板そのもの。ベルトの描写も、ストーリーも、山ナシ谷ナシ、当然、盛り上がりナシ、ドキドキもナシ、自分が不感症になったのかと思うくらい、何にも感じない作品なのです。

 強いて、印象に残る人物を挙げるとすれば、むしろ姉のエドマですね。彼女は、喜怒哀楽を表しますし、悩み苦しむ姿も見せます。マネと出会って、ベルトより彼女の方がよほど表情豊かにマネに対し絵描きとしても男性としても惹かれているのが分かります。かと言って決してエキセントリックな女性ではなく、十分抑制的です。

 ただ、表情豊か=人物造形が深い、訳ではないはず。無表情でも狂った女を演じられるイザベル・ユペールという女優もいるわけで。やはり、演出もイマイチなら、女優の力もイマイチだった、という相乗効果がこの平板さを生み出してしまったんでしょう。

 いっそのこと、マネと抜き差しならない関係にしてしまって、冒頭の「オランピア」のようなセンセーショナルな絵をベルトを脱がせて描こうとした、とか、安易かも知れないけれど、せめてストーリーだけでも山場を作ってくれていたら、まだ印象に残ったかも知れません。

 映像監督で実績を残してきた人なので、何となく目指したかった方向性は分からなくはないけれど、やはり監督ですからね、映像的な追求に終始して、ほかが疎かになられては困るわけで。とにかく、映画としては非常に残念な作品です。

 まあ、私は、本作自体も見たかったのはありますが、上映していたエビス・ガーデンシネマに行きたかった、ってのも本作を見たもう1つの理由です。エビス・ガーデンシネマは4年前閉館となり、それを知った時は、かなりのショックでした。『瞳の奥の秘密』を見に行ったのが最後となってしまい、本当に寂しく思っていたところ、今年の3月、見事に復活してくれまして。嬉しいですね、こうやって、良い劇場が戻ってきてくれたのは。内部もキレイになっていて、良いひとときを過ごせる空間になっていました。これからも期待できそう。

 ・・・というわけで、見た映画はイマイチだったけど、見た劇場はステキだった、というお話でした。







・・・で、モリゾってどんな画家だったのさ、と聞きたい。




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ピクニック(1936年)

2015-07-06 | 【ひ】



 デュフール氏は妻ジュリエットと義母、そして娘アンリエッタとその婚約者アナトールの5人で、牛乳屋に借りた馬車で田舎にピクニックに出掛けた。

 目的地に着いた一家は、昼食をとることに。妻とアンリエッタは、そこで見つけたブランコに乗る。そのブランコに乗ったアンリエッタの美しい姿に通りすがりの神父たちや、子どもたち、そしてレストランにいた青年2人、アンリとロドルフの目をくぎ付けにする。

 ロドルフはアンリを誘って、アンリエッタ(と母親)をナンパする。が、すかさずアンリはアンリエッタをさりげなくさらって自分の船へと誘い、ロドルフは不覚にも母親を船に乗せることに、、、。

 親の決めた結婚を前にしたアンリエッタは、アンリという田舎者だが魅力的な男性に出会ったことで、彼女の中で何かが大きく変わるのだが、、、。

 初公開(1946年)から約70年を経てのデジタルリマスター版にて、本邦再公開。

 
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 名画、名画、と言われている本作です。いまさら、私ごときが本作のコメントをするのも野暮ってもんでしょう。

 なので、今回、わざわざ劇場まで見に行って感じたことを率直に書きたいと思います。

 映画を見る際に、何をメインに見るか。これによって、本作に対する感想はかなり変わってくるでしょう。私のように、ストーリーとか、人物描写とかをメインに見る者にとって、本作は、「これが名作なのか???」というのが正直なところでございました。

 もちろん、モノクロで、日の光を浴びた川面や、光そのもの、木々が風に揺れキラキラ見えるさま、、、etcはなるほど美しいです。モノクロなのに色が見えるみたいです。爽やかなピクニック日和が、伝わってきます。オーギュスト・ルノアールの描く光に溢れた絵画を、まんま映像化したようです。確かに美しい。

 でもなぁ、、、。レストランでの店主(ルノアール監督が演じている)を交えたアンリとロドルフの会話は、正直言って、サイテーだし、、、。ジュリエットがキンキン声で話す内容はおバカっぽいし。アンリエッタも、皆が見とれるほど美しいとも思えないし、、、。

 何より、アンリエッタとアンリと2人きりになってからのシーンが、、、なんつーか、これって時代のせいなんだろうなぁ。でも、、、。(セリフは記憶を頼りにしているので正確じゃありません)

アンリ「(船を降りて)森へ行きませんか?」
アンリエッタ「・・・私、降りない方が良いと思うの」
アンリ「なぜ?」
アンリエッタ「ママが心配するから・・・」

とかなんとか、船の上での問答があって、すると、ジュリエットとロドルフを乗せた船がやってきて、何だか成り行きで、アンリとアンリエッタの船は岸に停まるのですよ。でもって、2人で森の小道を少しばかり歩くんですが、歩きながらアンリはアンリエッタの腰にやたらと手を回そうとし、アンリエッタはそれをかわしつつ、、、、

アンリエッタ「小さなおうちみたい。素敵なところね!(はしゃぎ気味)」
アンリ「私はよく来るんですよ。僕の部屋みたいなところだ(下心丸見えな顔)」

とかって、幼稚園児みたいな会話を交わしたかと思うと、アンリエッタの方から木の根元に腰を下ろして、まるでベッドに横たわるかのように身を横たえるのです。

 は?! え゛~~っ。と思いませんかね。私は思いました。なんじゃそら、、、と。

 でもって、アンリはシメた!とばかりにアンリエッタの横に密着して座ると、腰に手を回し、アンリエッタはそれを振り払い、みたいなことを数回繰り返し、、、(ウゲゲ~ッ)。 でもってアンリはアンリエッタにキスを迫るんだけど、アンリエッタはそれをかわしながら、聞こえてくる鳥の声に「ウグイスの声・・・」とかなんとか言って、そのさえずりに感動したのか涙を頬に一筋流し、、、。一応、お約束のようにアンリに抵抗するんですが、次の瞬間、なんと、自分からアンリの首にすがりついたかと思うと、アンリの唇に吸いついていました・・・。

 ここでさらに、は????となってしまったんですが、私。いけませんかね、この感性。ここって、感動するとこですか? バザンは「映画史上、最も残虐で、最も美しい瞬間である」と言っているそうですが、、、。美しい、、、かなぁ? これ。

 これには、恐らく、アンリのルックスがかなり影響しています。アンリが、青年のはずなんだけど、髭生やして体格も中年みたいな感じの、今で言えば立派なオヤジなんですよ。しかも脂ぎった感じの。およそ、爽やかなイケメン好青年とは程遠いんですよ。これじゃ、ただの助平オヤジの術中にまんまとはまったオツムの弱いお嬢さん、って感じでしょーよ。画的にも美しいとは、とても思えないのですが、私。

 いえ、別に、貞操観念がどーとかこーとか言っているのではありません。積極的な女性は大好きですが、なんというか、この唐突感、、、。どうしてくれよう、この置いてけぼり感。

 ナンパする前に、アンリとロドルフの会話で、バカ丸出しのロドルフに比べて、多少は真面目っぽさを出したセリフを吐いていたアンリではありますが、、、。いや、いいんです、別に。ヤリたいだけの男の描写でも。つまり、ぶっちゃけ「ひと夏の経験を姉ちゃんにさせてやらぁ」的な内容なのに、全編にわたる描写のなんだか妙な格調高さが嫌味なんだよね。

 、、、と思っちゃう私が間違いなんでしょう、きっと。本作に対して、こんな不敬なことを書いている感想など、いまだかつて目にしたことがありませんからね。そもそも、格調高い、ってのが刷り込みみたいなもんですし。前評判が全くなければ、もっとこき下ろしてしまっていたことでしょう、私のことだから。

 その後、画面は一転にわかに掻き曇り、嵐が。これが2人のその後を暗示しているってことでしょうね、もちろん。1年後、2人は再会します、あの森で。アンリは1年前のままだけど、アンリエッタは人妻として。アンリエッタの隣には、夫のアナトールが昼寝をしています。2人は短い会話を交わします。

アンリ「あれから毎日のように来ている、思い出の場所だから」
アンリエッタ「私も、毎晩思い出すわ・・・!」

で、見つめ合っていると、アナトールが目を覚まし、アンリは木陰に身を隠し、アンリエッタとアナトールが去っていくのを見送る、、、。

 決して幸せそうには見えないアンリエッタ。アナトールと2人でボートに乗って去っていくのですが、ボートを漕いでいるのはアンリエッタです。1年前、アンリが上手にボートを漕ぎ、そのボートに乗って川や森の木々の美しさを堪能していたアンリエッタでしたが、、、。この対比が、2人の出会いが2人の人生を変えた、ってことを言いたいのでしょうね、多分。

 まぁ、ラストは多少切なさも感じられましたけれども、いかんせん、そこに辿りつくまでが、どーにもこーにも、私的には???な感じだったもんですから、本作がいかな名作であろうとも、到底、感動とは程遠い作品だったとしか書き様がありません。本作を愛する皆さまには、不快極まりない文章で、申し訳ないのですが。

 ただ、助監督に、私の好きなベッケルとヴィスコンティが名を連ねているのですよね~。本作は、紆余曲折を経て、撮影されなかったシーンを解説でつないだ作品だとか。その後の、名画を制作した人々が携わった作品でもあり、感慨もひとしお、、、のはずだったのになぁ。



  

“名作”を堪能できませんでした。




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初春狸御殿(1959年)

2015-07-02 | 【は】



 カチカチ山で背中に大やけどを負った狸の泥右衛門には娘のお黒がいて、これが化けると類稀なる美女になるという狸。

 ある日、成り行きで狸御殿に迷い込んでしまった泥右衛門とお黒だったが、お黒は狸御殿のお姫様・キヌタ姫に瓜二つだったことから、思わぬ騒動に巻き込まれ・・・。

 若尾文子&雷蔵の麗しいツーショット映像を見るだけで十分な作品。

 
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 映画友が好きだという作品。雷蔵は私も嫌いじゃないし、若尾さんの美しさは何度見ても目の保養になるので、ものすごい前にBSを録画していたのを見てみました。

 、、、が、しかし。・・・これは、ちょっとキツイ。90分弱の短い作品ですけど、恐ろしく長く感じました。理由は簡単、大したストーリーはなく、歌と踊りが7割を占めるからです。まあ、非常に艶やかな映像のオンパレードなので、それはそれで楽しめますが、飽きます、ハッキリ言って・・・。

 勝新太郎が若い!! ちょっと誰か分かりませんでした、最初。玉緒さんや水谷八重子さんはすぐ分かりますけれど。私が物心ついた頃の勝新は、すでにおじちゃんでしたし、正直、あんまし好きじゃなかったんですけれども、本作を見て、彼の若い頃は、やはりカッコ良かったことを認識しました。当たり前か。好みじゃゼンゼンないけど・・・。申し訳ないけど、やっぱり、雷蔵に比べちゃうとねぇ。

 雷蔵は美しいし華がある、しかも品もある。おバカなことやっていても、ゼンゼン下品にならないのは素敵です。顔だちもあるだろうけど、こういうのこそ、やはり彼の持前の男っぷりと、内面的なモノが出るんですかねぇ、、、。とはいえ、まだこの時、彼は30前ですから、人生が滲み出る歳でもないでしょうに。残念ながら、本作での出番は少ない上に、役どころもあんまり魅力はないですね。存在感は、さすがですが。

 そして、まあ、何と言っても、本作は若尾さんにつきるでしょう。可愛いこと、美しいこと、、、もう、これでもか、ってくらい。彼女のファンにはたまらないでしょう。私も、十分目の保養させていただきました。

 しかし、これと同じ脚本・演出で今どきの俳優陣が演じたらどうなるんだろう、、、とちょっと想像してしまったんですが、もう、ほとんど “かくし芸大会”みたいのしか思い浮かびませんでした。

 そもそも、若尾さんの役を演じられる女優が思い浮かばないんですよ、悲しいことに。お黒だけなら、能年ちゃんとかもアリかと思いますが、キヌタ姫はダメでしょう。15年前の沢口靖子さんならルックスはOKだけど、いかんせん演技が・・・。

 もちろん、狸吉郎も思い浮かばない。15年くらい前までのヒガシか、10年前くらい前までの藤木直人くらいなら行けたかもと思いますが、今はねぇ、、、。この2人にしたって、雷蔵と比べちゃうとね、って感じですし。

 そもそも、最近は、正統派の美形があんまり世間受けしないんでしょうか。そう思って見ると、いかに、若尾さんも雷蔵も稀有な俳優だったかということが改めて分かります。

 とか思って、ネットで何気なく画像検索したら、な、なんと! チャン・ツィイーとオダジョー版ってのが05年に制作されているのですね!? ひょえ~~、そういえばこんなパッケージをビデオ屋で見たことがあるような気がしてきました。雷蔵役をオダジョーが、若尾さん役をチャン・ツィイーが、ってことですか? え゛~~、なんかちょっと、、、どーなんでしょうか。監督は、鈴木清順。嫌いじゃないけど・・・。

 怖いモノ見たさで、You Tubeで予告編見ましたが、何か、大分違うものになっているみたいですね。しかも、オダジョーは、衣装と髪型が桃太郎みたい(桃太郎侍の方じゃなくて、本家本元の方)ですが、、、。ううむ、これは一体・・・。ま、見なかったことにいたしませう、、、。

 話は本家に戻りますが、ストーリー的には、一応、ハッピーエンディングみたいですし、何にも考えずに見るには良い作品かも知れません。ちょっと好きとは言い難いけど。



  

“若尾文子&雷蔵”の美の競演を堪能すべし。




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