映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?(2022年)

2023-11-12 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv82295/


以下、テアトルの紹介ページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 2012年12月17日、パリ近郊ランブイエ。原子力企業アレバの労働組合代表モーリーン・カーニー(イザベル・ユペール)の自宅で衝撃的な事件が起きる。

 数か月前――原子力企業アレバ傘下にあるハンガリーのパクシュ原子力発電所へ、女性組合員たちの要望を聞くために訪れたモーリーンがパリ本社に戻ると、盟友で社長のアンヌから、サルコジ大統領から解任されると告げられる。後任には無名で能力のないウルセルが就任するらしいと。そのころ6期目の組合代表に再選されるモーリーン。

 テレジアスというフランス電力公社(EDF)の男から突然電話があり面会すると、内部告発の書類を受け取る。アンヌに見せると「ウルセルの野望は、中国と手を組み、低コストの原発を建設すること。裏にEDFのプログリオがいる。権力に憑かれた男、夢は世界一の原子力企業。私を消そうとしている」と。

=====ここまで。

 ユペールの新作。実話ベースってのが驚愕、、、。


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 確か、ファスビンダー特集を見に行った際に、本作のポスターを劇場で見ました。そこに映る女性が、ユペールっぽくなくて、それもそのはず、髪の色がブロンドになっていた、、、。おまけに真っ赤なルージュ。よく見たら、ユペールだったのでビックリ。新作なんだ、、、てことで、それほどそそられた訳じゃないけど、一応見に行ってまいりました。

 事前情報は、予告編くらいなもので、ユペールが巨悪と闘う話?社会派サスペンス??ヘヴィかなぁ???てな感じで見に行ったのだけれど、途中から、ゼンゼン違う展開に、、、。終わってみれば、予想していたのとはまるで違う映画だったのでありました。

~~以下、ネタバレバレです。本作は、予備知識なく見た方が良いと思うので、本作をご覧になる予定の方はお読みにならないことをオススメします。~~


◆自作自演??

 本作は、典型的な性犯罪被害者の二次被害&冤罪事件のオハナシで、ヘヴィというよりはストレスフルだった、、、ごーん。ま、ある種の、というかまんまフェミ映画かな。

 とはいえ、中盤まではユペール演ずるモーリーンが組合代表として、会社が水面下で画策している中国との提携を暴くべく経営陣と闘う話になっている。問題は、モーリーンが当時のオランド大統領との面会日当日の朝に、前述のあらすじ冒頭にある「自宅で衝撃的な事件」に遭遇して、一気に話が変わってしまうことである。

 衝撃的な事件、とは、性犯罪である。強姦(今の日本の刑法では強制性交等ですな)はなかったようだが、ナイフの柄を股間に差し込まれ、腹にはナイフで「A」の文字を刻まれるというもの。手足を縛られて身動きが取れないまま家政婦が出勤してくるまで6時間もその状態だった、、、という。

 この事件で、それまでのストーリーの流れは一気に変わり、モーリーンを襲ったのは誰か、、、というか、誰の差し金か、、、となる。が、しかし、話はさらに曲折し、捜査をしている憲兵隊の曹長が“この事件、おかしい”と疑い、モーリーンは被害者から、自作自演……つまり事件捏造の容疑者へとなり、話の本筋は、モーリーンは本当に被害者なのか、本当は容疑者なのか、、、へと変わっていく。

 モーリーンを拘束した梱包用テープは、モーリーン宅にあったもの。モーリーンの股間に差し込まれたナイフも、モーリーン宅にあったもの。何より、彼女を襲撃した男たちの姿を彼女は直接見ていないのだ。あっという間に覆面を被せられ地下室まで連れていかれ、何も目にする暇がなかったって彼女は証言するが、それは不自然すぎやしないか。6時間もの間、どうして自力で拘束を解こうと試みなかったのか、おかしくね??……という具合に、憲兵隊がモーリーンの自作自演を疑う根拠はあるわけだ。

~~以下、結末に触れています。~~

 この一件について、実際の事件では、一旦は有罪になった後の控訴審で、モーリーンの自作自演は否定され、憲兵隊の誤認逮捕と認定されている。本作内でも、同じ流れだが、作りとしては本当に自作自演でなかったのかどうかは、やや曖昧にされている。

 けどまあ、私は見ていて、これは自作自演ではないだろうなと思っていた。もちろん、自作自演の可能性はゼロではないけど、この一件が起きたことで、結局、アレバ社の画策は現実のものとなって中国との提携は成立、社員は大量に失業し、最終的には会社自体も解体されてしまっていることを思えば、モーリーンの思惑とはことごとく逆に物事が進んでおり、自作自演で事件を起こす意味はほとんどないと言って良い。加えて、オランド大統領との会談が予定されていたのであり、この会談が実現していたら事態がどうなったのかは知る由もないが、少なくともモーリーンが進めたい方向性としては、事件を起こすよりは、大統領との会談の方が格段に上だろう。

 私が自作自演でないと感じた理由は他にもあるが(後述)、まあ、とにかく憲兵隊の取調べが典型的二次加害そのもので、見ていて非常に腹立たしかった。モーリーンが取調べ中にコーヒーをくれと言って落ち着いた様子であるのを見て「妙に淡々としている」と言ったかと思うと「作り話を暗唱しているんじゃないか」と言ったり、「被害者には見えない」と言ったり。モーリーンに自殺未遂の過去があることをあげつらい「異常者だろ」と言ったり。……他にもいっぱいそういう描写が続いて、明らかに最初からモーリーンの申告を疑ってかかっているのである。

 最終的にモーリーンの自作自演疑惑は晴れ、ラストシーンは、モーリーンが原発の国民議会委員という会合で堂々と発言した後、キリッとカメラ目線を送ってジ・エンドとなる。このシーンが、意味深だ、と言ってモーリーンの自作自演を疑っている感想をウェブ上で見かけたが、それはちょっと読みが違う気がするなぁ。「私はまだ闘えるのよ!」という宣戦布告じゃないか、と私は見たのだが。


◆再現の重要性

 少し前に、twitterに伊藤詩織さんが外国でインタビューを受けている映像が流れて来て、彼女はホントに大変な目に遭って、それでも闘い続けたその勇気には頭が下がるのだが、映像の中で1つだけ気になったことがあった。

 彼女が被害を届出た後、警察で再現見分が行われたときの話をしていた。等身大の人形を使って、性被害に遭ったときの状況を説明させられたと彼女が話したら、インタビュアーの男女2人は眉をひそめて「あり得ない……」的な反応をしていた。詩織さん自身も、おそらくその経験をネガティブなものとして話していたように見えたのだが、再現見分は結構大事なことだと思う。

 つまり、再現して検証しないと捜査機関として事実関係が分からない部分というのは必ずあり、被害者と加害者の供述の矛盾点を究明し、公判を見据えてきちんと資料化することが捜査機関としては絶対的に求められる。なので、等身大の人形(あるいは被害者役の警察職員)での再現見分は、捜査機関としては必ずやらなければならないことなのよ。

 本作を見ていて、私が一番引っ掛かったのもこの点で、憲兵隊は現場検証はしているが、自作自演を自白したモーリーンに対し、自分で手足の拘束を再現させることをしていないのだよね。本当にモーリーンが自作自演なら、拘束方法を再現できるはずで、捜査機関としては、必ず再現させなければならない。それをしていないというのは、捜査機関として完全な手落ちで、後に控訴審で判断が覆った理由の一つでもあるだろう。

 詩織さんのケースは、想像だが、そのときの警察官の言動に配慮に欠けるものが多々あったのではないか。だから、彼女にとって非常に深く傷ついたこととして、あのような語りになったのではないかと察する。

 あと、前述したとおり、モーリーンが「被害者らしくない」というのも、よくある二次加害。本作内では「よい被害者でない」というセリフが何度かあったが、過去に派手な男性遍歴があったり、犯罪歴があったりすると、本当に被害者なのか?と疑われるという、、、。それでなくても、普通に仕事していたり、会話で笑っていたりすれば、本当に事件のことで傷ついてるの? とか。捜査機関は一応あらゆる可能性を視野に入れなければならないけれども、一般人でも同じようなことを言ってしまうことはあるだろう。池袋の母子交通事故死の遺族が、あるとき飲食店で笑って友人と話をしていたら、見知らぬ人に「被害者らしくない」と言われたという話をしていたが、……そういうことである。

 犯罪で被害に遭い、捜査でまた被害記憶を掘り起こされるだけでなく、配慮の無い捜査官に当たれば人格を否定されるようなことを言われ、全く関係のない第三者に心無いことを言われて傷に塩を塗られ……、犯罪被害者は何度も何度も痛い思いをさせられるのが現状だ。


◆フェミが誤解される理由

 ユペールは、相変わらず貫禄の演技で、本作はユペールの映画と言ってもいいくらい。モーリーンのような複雑な人物設定は彼女でなければ演じられなかったかも知れない。メイクのせいもあるかもだが、とにかく若々しく、実年齢70歳にはまったく見えないのが驚愕だった。

 本作の序盤、アレバの社長も女性で、労組の代表であるモーリーンと立場を越えて良い関係であることが描かれている。また、憲兵隊の取調べ中に、曹長の尋問に疑問を抱く女性警察官がいて、彼女の情報提供がモーリーンの冤罪を晴らす突破口にもなる。これらを捉えて、パンフでは「不正義を覆したシスターフッド」と題したコラムが掲載されているんだけど、私はこの「シスターフッド」って言葉が好きじゃないのだ。女同士の連帯って、それ強調すること?

 控訴審で無罪になったのは、弁護士を変えたのが大きいと思うし、その弁護士は男だ。一審での弁護士も男で、こいつはホントに無能そのものの弁護士だったが、とにかく、正義も能力の有無も、性別で括るのはやめていただきたい。そういうコラムをフェミを標榜するジャーナリストとやらが書いているところが、世間でフェミ嫌いを増殖させている理由の一つだと思うのだよね。

 私が見に行った回では、終映後にトークイベントがあったのだが、その話の内容も、犯罪被害者としての扱いにおける男女の不均衡、、、みたいなフェミ的なもので、まあ、私自身がフェミについては若干学んできた身であるからかも知れないが、今さらな内容ばかりで、ハッキリ言って面白くも何ともなかった。そんなことより、中国産原発が世界中に雨後の筍のごとく建設されまくっているという現状や、フランスにおける労組の実態の話を聞きたかったわ。原発作りまくってるって、、、地球、マジでヤバいでしょ。しかも中国産、、、。

 ……というわけで、愚痴や文句ばかりのまとまらない感想になってしまいましたが、見て良かったです! ユペール好きなら見る価値ありです。

 

 

 

 

 

 

邦題にヘンな副題を付ける傾向、、、何とかならないのかね。

 

 

 

 

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私、オルガ・ヘプナロヴァー(2016年)

2023-05-10 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv80342/


以下、イメージフォーラムHPより本作紹介のコピペです。

=====ここから。
 
 1973年、22歳のオルガはチェコの首都であるプラハの中心地で、路面電車を待つ群衆の間へトラックで突っ込む。この事故で8人が死亡、12人が負傷する。オルガは逮捕後も全く反省の色も見せず、チェコスロバキア最後の女性死刑囚として絞首刑に処された。

 犯行前、オルガは新聞社に犯行声明文を送った。自分の行為は、多くの人々から受けた虐待に対する復讐であり、社会に罰を与えたと示す。

 自らを「性的障害者」と呼ぶオルガは、酒とタバコに溺れ、女たちと次々、肌を重ねる。しかし、苦悩と疎外感を抱えたままの精神状態は、ヤスリで削られていくかのように悪化の一途をたどる・・・。

=====ここまで。


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 2016年制作の映画が、2023年になってようやく日本で公開されました。……ということは、私が再見を願ってやまない『執事の人生』(2018)もまだ日本での公開を期待して良いのでしょうか、、、。

 それはともかく、上記の文を読めば、日本人なら誰もがあの秋葉原事件を思い出すと思うのですが。連休合間の平日サービスデーに見に行ってまいりました。満席でした、、、ひょ~。


◆他人を意図せず不快にさせてしまう人。

 セリフ極端に少ない、音楽なし、モノクロ、、、という、ドキュメンタリーっぽいテイストで、淡々とオルガが犯行に至るまでが描かれる。モノクロがいかにも当時のチェコの世相を表しているみたいに思える。

 冒頭の母親とのシーンがいきなりのハイブロー。オルガが薬物過剰摂取による自殺未遂を起こすのだが、病院から帰るなり母親は彼女に言う。

 「自殺するには強い意志がいる。お前には無理、諦めなさい」

 なんかもう、これだけでどよよ~~~~んとなって、最後まで(予想どおりではあるが)復活することなく、鑑賞後はめっちゃ重い足取りで帰路についたのだった、、、ごーん。

 我が子が自殺するほど生きることに絶望している状況で、その本人に向かってこのセリフが言える母親って、怖い。まあ、私の母親も似たような感じなので、驚きはしなかったけど、やっぱし言われた方の気持ちになってかなり落ち込だ。オルガがこれを言われてどう感じたのかは、正直、スクリーンからは分からない。もしかすると、私と同じで「あー、やっぱね」くらいに受けとめたかもしれない。それくらい、オルガは無表情なので感情が読み取れないのである。

 しかしながら、オルガという女性、気の毒なんだけど、本人にはほぼ罪はないのだが、ただ本人が普通に行動しているだけで周囲に敵意を抱かせる人って、、、、実はいるんだよね。オルガはまさにそれだと思う。

 私はイイ歳になって、初めてそういう人に職場で遭遇した。私自身も彼女・N子(当時30歳くらい)のことは好きではなかったものの、関わらなければ別に何も感じなかった。が、N子が言うには、満員の通勤電車に“ただ乗っているだけ”で、隣に立っていた若い男性にいきなり傘の持ち方が悪いと怒鳴られたり、駅のホームを“ただ歩いているだけ”で見ず知らずのオジサンに因縁を付けられたり、、、ということが割とよくあると。通勤途上で起きることが多く、相手は100%男。出社してグチを聞かされることが何度かあった。「私は何もしていないのに、、、」が口癖で、確かにそうなんだろうなと思った。

 けれども、私はN子がそういう目に遭う理由が、何となく分かっていた。オルガの独特の直線的な歩き方を見ていてN子を思い出したくらいなんだが、N子も脇目も振らずにズンズン歩いて、途中で見かけて「おはよう」とか声を掛けても聞こえないのか返事がない。かと思うと、これもオルガと同じで、ちょっと話を聞いてくれたり優しくしてくれたりする人には距離感がおかしくなる一方で、その人に少しでも拒絶的な言動をされると、その人とはもう一切関わろうとしなくなるのである。

 ……まあ、ぶっちゃけて言うと、失礼なヤツと誤解されやすい、クセが強くて可愛げがない、、、って感じですかね。こういうのは、人に指摘されて直せるものじゃない。

 だから、私はオルガに「ほぼ」罪はない、と書いた。罪はないが、周囲はオルガの意志に関係なく不快感を覚えさせられるという意味。

 オルガには、友人もできる。けど、長続きしない。相手に嫌われて終わる。これは、本人にしてみればキツいだろう。傍目にはその理由が何となく分かるのだが、肝心の本人がまったく理解できないのは、悲劇としか言いようがない。

 オルガの母親は娘を嫌ってこそいないものの、多分、、、やっぱりどうしようもなくイラっとする存在だったのだと思う。で、オルガは家を出て、掘立て小屋のようなところで独り暮らしを始める。冬は寒いだろうと、母親はストーブを運び入れ「これでも寒いだろうから、冬の間だけでも帰って来たら」と言うが、オルガは頑として独り暮らしを貫く。

 ちなみに、N子は父親とは険悪だったみたいだが、母親とは仲良しで、祖母のことも慕っていた。まあ、だからオルガみたいに世間を恨むことにまではならずに済んでいたのかも、、、知らんけど。


◆オルガのマニフェスト

 オルガは自殺未遂をするものの、その後は、思考を拗らせて、最終的に事件を起こす前に、“マニフェスト”を書いて新聞社に送る。そこには、こう書かれていた。

「私は破壊された女だ。人によって破壊された女……私には選択肢がある……自分を殺すか、他人を殺すか。私は自分の憎しみに報いることを選択する。無名の自殺者としてこの世を去るのは、あまりにも簡単なことだ。社会はあまりにも無関心だ。当然だろう。私の評決はこうだ。私、オルガ・ヘプナロヴァーは、あなたの残虐性の被害者として、お前たちに、そして自分自身へ死刑を宣告する」

 人知れず死んで行ってなるものか、、、というところか。確かに、事件を起こしたことで彼女は映画として描かれ、歴史に名を刻んだとも言える。ひっそり自殺していたら、そうはならなかった。

 で、思い出すのが秋葉原事件なのだが、大分前に中島岳志著『秋葉原事件―加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)を読んだのだが、詳細は忘れてしまったけど、やはり母親が強烈な人だったと記憶している。オルガの母親とはちょっとベクトルの向きが違うが、大きさで言えば負けず劣らずと言ったところではないか。加藤も、事件を起こすまでのことをネット上で言葉に残しており、オルガとはレベチではあるものの、彼なりに思考を拗らせて行った様が伝わって来たのは覚えている。行き着くのは、世間への憎しみで、オルガと同じだ。

 オルガにしろ、加藤にしろ、彼らの承認欲求がもうほんの少しでも満たされていたら、、、。ただ、オルガの場合は、70年代でなく、現代に生まれていれば、もう少し生き易かったのではないか。ロシアに蹂躙されたチェコで“あるべき姿”という鋳型に嵌められることがなければ、ここまで彼女は自身を拗らせる必要もなかったし、今のヨーロッパならば彼女を受け入れる場所はあったはず。時代のせいにしてしまえばそこで話は終わってしまうが、オルガの場合は、70年代の独裁政権下だったというのは二重の不運であったことは確かだと思う。

 オルガを演じていたのは、『ゆれる人魚』(2015)『マチルダ 禁断の恋』(2017)のポーランド出身、ミハリナ・オルシャンニスカ。チェコ語をマスターしたのかと思いきや、彼女のセリフは吹き替えとのこと。全然分からなかった、、、。


 

 

 

 

 

 


ミハリナの眼の演技が素晴らしい。

 

 

 

 

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わたしのお母さん(2022年)

2022-12-09 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv77947/


以下、公式HPページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 三人姉弟の長女で、今は夫と暮らす夕子(井上真央)は、急な事情で母の寛子(石田えり)と一時的に同居することになる。

 明るくて社交的な寛子だったが、夕子はそんな母のことがずっと苦手だった。不安を抱えたまま同居生活がスタートするが、昔と変わらない母の言動に、もやもやした気持ちを抑えきれない夕子。

 そんなある日、ふたりの関係を揺るがす出来事が――。

=====ここまで。

 
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 Twitterで大分前からときどき情報が流れて来ていて、家族の確執モノはつい見てしまうタチでもあり、ソフト化されるか微妙な感じもしたので、一応劇場まで行ってまいりました。

~~以下ネタバレしています~~


◆シナリオが、、、

 極端にセリフが少なく、長回しが多い作品で、映像で物語を描こうとしているのが伝わってくる。思いがすれ違う母と娘の抒情的な映画を撮りたかったのは分かるが、母親とのドロ沼確執経験者としては、どうもモヤモヤ感が残る作品だった。

 よく描けていると感じたシーンもある。例えば、夕子の夫が、母親と合わない夕子に対して「大切にしないとさ、親なんだから」とサラッと言ってしまうのとか。夕子が畳んだ洗濯物を、寛子が何気なく畳み直すのとか。

 あと、夕子が寛子にあれこれ言われてもろくに言い返せ(さ)ないシーンが多いのだけど、正直、見ていてイライラするのだが、一方で言い返せない(あるいは言い返したくない)気持ちも、もの凄く分かる。娘の心情としては、よく描けていると感じた次第。

 けれど、全般に言って、本作はかなり“観念的”なオハナシになっちゃっている。監督の想像の域を超えていない。

 何よりガッカリしたのは、寛子をストーリー上で後半に簡単に殺しちゃったこと。話の“転”とか“結”で主要人物を殺すのは、シナリオとしては非常にお粗末と感じる。もちろん、必然性が感じられれば良いのだけれど。本作の場合、どうしてもご都合主義っぽく見えてしまって、脱力してしまった。何じゃそら、、、と。

 そして、さらに違和感を覚えたのは、終盤のシーン。亡くなった寛子の真っ赤な口紅を、夕子は自分の口に塗って、その後「アタシ、お母さん嫌いだったんだ」と嗚咽する、、、というシーンなんだが。パンフに掲載されているシナリオを見ると、このセリフは「…………お母さん」としかないので、後から「嫌いだった」とセリフが加えられたのだろう。それはともかく、嫌いな人の口紅を、自分の口に直塗りするか、、、ってこと。しかも、新品でなく、使いかけのである。いくら親子でも、、、ナイわ~~、と思っちゃいました。

 本作の脚本は監督と松井香奈という女性が書いているが、あんまし男だ女だというのは好きじゃないんだけど、このシーンは、男である監督が書いたんじゃないかなーと勝手に想像してしまう。こういう、身体的な感覚って、なかなか異性には分かりにくいと思うから。ま、違うかもしれないけど。

 私なら、口紅を自分の口に塗るんじゃなくて、自分の顔が映る鏡に、自分の顔を消すように塗る、、、とかにするかな。「嫌いだった」って言葉で言わせなくてもそれで十分伝わるもんね。

 そう「嫌いだった」って言っちゃうところがね、、、。そんなん、今までの展開で見ている者は分かってるんだから、わざわざ言葉にすると、却って鼻白むというか。好意的に解釈すれば、ようやく口に出して言えたんだね、、、とも受け取れるけど。でも、私でも、母親のことを「嫌い」と口にするのは、結構心理的にハードルが高かったので、これはなかなか難しいシーンだと思うなぁ。


◆「母と娘」を描きたかったんじゃないの?

 上記のあらすじにはないが、母親の寛子さんは、若くして夫を病気で亡くしており、シングルマザーで3人の子を育てて来た人である。夕子とやむを得ず同居することになったものの、ごく短期間でその生活は破綻し、そのまま、その日のうちに突然死してしまう、、、というオチである。

 こう言っちゃ身も蓋もないけど、嫌いな母親が、あの歳で(アラ還でしょ)元気なうちに、介護の必要もなく、実に呆気なくキレイに旅立ってくれたら、娘としてはそれまでの母親のアレコレを全て水に流せちゃう気になると思うなぁ。現実には大抵の場合、ナントカは世に憚るってパターンなわけだから。

 多少口うるさいかも知らんが、あの程度の干渉は、私からすれば“ちょっと面倒臭い母親”レベルであり、娘の人生を破壊しに来るようなモンスターマザーとは言い難い。

 パンフを読んだら、杉田真一監督は、本作の話をどう作ったのかという問いに対して「次回作の企画を考えていた頃に「毒親」という言葉をよく目にすることがあって、あまりに強い言葉だったので、強烈に印象に残りました」と言っている。その後いろいろ調べて、「一括りには語れない、ひとりひとりの物語があるのだと知りました」とある。ひとりひとりに物語があるのは、アタリマエなんだが。

 共同脚本で、監督が書いたものに松井さんという女性が大きく手を加えたようだが、松井さんの書いたものは「明確に女性同士の対立の話のようになっていて、……(中略)……対立の物語を描きたい訳ではありませんでした。もう少し性別や年齢を取り払った話にしたいという原点に立ち返り、僕が引き取ってさらに書き換えていきました」と言っている。……まあ、だから観念映画だという印象を受けたのも、あながちハズレではなかったのだなと感じた次第。

 監督の言いたいことは分かるけど、「母と娘」を描きたいのなら、やはり、一度は、きちんと母と娘を正面から向き合わせるシーンが必要だったと思う。別に対立させなくても、母と娘を向き合わせることはいくらでもできるわけで。「性別や年齢を取り払った話」というけど、同じ親子を描くのでも、「母と娘」は、「母と息子」「父と息子」「父と娘」とはそれぞれ全く異なる関係性であることは、やはり性別に大いに関係性があるのだよ。その点について、このテーマを取り上げるのなら、もう少し監督は勉強すべきだと思う。

 一応、夕子が幼い頃からの、寛子との感情のすれ違いを回想シーンで描いているが、割と類型的だし、監督の狙いとは逆に極めて説明的になっている。説明的なカット割りが多いのも気になった。

 夕子と寛子の関係性を逐一描く必要はもちろんないのだけど、見ている者に、彼女たちがこういう関係性になるまでの背景を感じさせる演出が欲しいよね。シナリオ段階で、夕子と寛子の綿密な履歴を作っていないのではないか。だから、井上真央さん演ずる夕子の長回しを見ていても、そこから夕子の内面に入って行けない。ただ、スクリーンに映る井上真央さんの横顔を延々眺めているだけ。これは、俳優の演技に問題があるのではなく、シナリオと演出に難アリでしょう。……そう感じさせられる映画だった。

 本作を見終わったら、杉田監督自身が劇場に入って来て、挨拶されたのでビックリ。舞台挨拶の予告はなかったし。この日は劇場に詰めていたんですかね。お疲れ様です。

 

 

 

 

 

 

エンドロールに刈谷とか知立とか懐かしい地名が、、、

 

 

 

 

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私は殺される(1948年)

2022-01-16 | 【わ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10032/


 大手製薬会社の娘レオナ(バーバラ・スタンウィック)は心臓を患い寝たきりである。同社のNY支店長である夫のヘンリー(バート・ランカスター)が帰宅時間になっても帰らないため電話で夫の所在を確認していたところ、電話が混線し「今夜、11時15分にあの女をやっちまえ」という内容の会話が聞こえる。レオナは警察に知らせるが、警察は取り合おうとしない。

 その後も夫となかなか連絡が取れず、夫の秘書の話から、夫が夕方ロード夫人と名乗る女性と出かけたことを聞き、ロード夫人とはその昔、夫ヘンリーの恋人だったサリーであったことを思い出し、サリーからヘンリーを奪ったレオナは、夫に対する疑念を抱く。

 電話だけがレオナが外界とつながる唯一の手段だが、夫とはなかなか連絡がつかず、夫に対する疑念が深まる情報だけが電話を通じて入ってくる。そのうち、レオナは混線して聞いた殺人計画の話が頭をよぎるようになる。

 

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 先日、衝撃的なニュースが、、、。岩波ホール閉館。……ガーン。これはかなりショックでした。確かに、このブログでもしょっちゅう岩波ホールに人が入っていないことは書いて来ました。半面、あの劇場だけは何があっても採算度外視で運営し続けてくれるに違いない、、、という、勝手な思い込みがありました。このニュースを聞いたとき、やはりそんなはずはないよな、と当たり前の現実を改めて思い知りました。

 昨年改修したばかりで、正直なところ、まさか……、という感じです。コロナの煽りをもろに喰らったということのようですが、文化芸術を軽んじる国に未来はないと思います。これから貴重で希少な映画は、どこで見られるのでしょうか。とにかく、今月末からのジョージア映画祭と、その次の『金の糸』は必ず見に行きたいと思います。

 本作は、ネットを見ていたら感想を書いている方がいて、面白そうだったので借りてみました。


◆レオナという女性、、、

 電話交換手がいる時代の、電話を使ったサスペンス。今なら、携帯で一発!というところが、なかなかまどろっこしく、そこがまたミソでもあります。レオナが電話でやりとりする中で回想シーンが挟まれ、ストーリーが展開していく。

 この手法も、最初は面白く見ていられるが、ワンパターンでだんだん飽きてくるのがちょっとね、、、。とはいえ、時系列が行ったり来たりする割には分かりにくさはなく、よくできたシナリオだと思います。

 レオナがベッドからほとんど動けない(一応、歩けるけど、モノにつかまりながら、、、という感じ)ってのもポイント。豪邸に住んでいて、その晩は召使も全員不在、夫もおらず、レオナ一人きり。ヒッチみたいな設定じゃない?

 しかし、このレオナの病気、実は心臓には何の異常もない、心因性の発作なのだ! これは、レオナの主治医がそう語っている。まあ、ヒステリーの一種でしょうな。確かにめっちゃわざとらしい発作で、でもレオナ本人は本当に胸が苦しいらしいのよね。

 このレオナという女性の人物像が、どこを切っても好きになれる要素がなくて、見ていて困りました。その昔、ヘンリーを、当時の恋人サリーから奪ったときの奪い方も、実に図々しく、タカビーそのもの。そんな女に簡単になびく男と結婚するという、絶望的なまでの男を見る目のなさ。結婚後もパパの威を借り、夫をコケにしまくる浅はかさ。ううむ、、、何でここまでヒロインのキャラが最悪なのか。

 終盤、自分が殺される対象だと気づいてから、ヘンリーに「何で素直に話してくれなかったの? あなたの力になりたかったのに! 愛してるのよ!!」とか涙ながらに訴えるシーンは、ちょっと見る者の同情を誘いはするものの、それまでがそれまでなので、何となく“自業自得”という言葉が浮かんでしまう。

 夫ヘンリーは、パパの会社から薬を横流しして売上金を横領していたのだけど、それが悪い奴らに利用されていたってんで、ややこしい事件に巻き込まれることになった、、、という終盤のタネ明かしは、正直なところ、あんまし面白くないしね。あの夫ならさもありなんで、意外性がない。

 けれども、ラストは本当にヤバい事態になって、見ていても一応ハラハラさせられるので、サスペンスとしては成立していると言えましょう。


◆その他もろもろ

 ヒッチみたいな設定と書いたけど、監督は、アナトール・リトヴァク。この方、ロシア人なのね、、、。『うたかたの戀』(1936)もリトヴァク監督作だった。

 ヒステリーのお嬢レオナを演じたのはバーバラ・スタンウィック。出演作を見るのは、多分本作が初めてではないかな、、、。いかにも、昔のハリウッド女優、という感じの美人なんだけど、中盤以降、だんだん追い詰められてくると、髪振り乱し、メイクも落ち、、、とかなり体当たり演技でございました。タカビー全開の超イヤな女が結構ハマっていたと思う。

 驚いたのは、アホ夫、ヘンリーを演じていた若きバート・ランカスター。私の知っているバート・ランカスターと、顔も雰囲気もゼンゼン違う!! ヴィスコンティの『山猫』とか『家族の肖像』とかの、あの知的なキャラとは対極にあるような、肉体派っぽいギラついた感じが、最後まで私の中でバート・ランカスターと認識できないままでした。

 まあ、、、確かに顔はよく見ればそうかなぁ、、、と思う(アタリマエか)けどね。映画友が言うには、『泳ぐ人』の彼が非常に良いらしいので、近々見てみようと思います。

 この邦題がネタバレだという指摘が結構あるけど、ネタバレではないような。原題の“Sorry, Wrong Number”の方が確かに謎めいてはいるけれど、、、。似たような邦題で『私は死にたくない』ってのがあるけど、これもかなり救いのない話で見ていて辛かった、、、。こちらの原題は“I Want to Live!”。何で「死にたくない」にしたんだろ、、、。余談でした。

 

 

 

 

 


“Sorry, Wrong Number”のセリフはラストシーンに出てきます。

 

 

 

 

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嗤う分身(2013年)

2020-12-01 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv56430/

 

以下、amazonよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 内気で要領が悪く、存在感の薄い男サイモン(ジェシー・アイゼンバーグ)。会社の上司にも同僚にもバカにされ、サエない毎日を送っている。コピー係のハナ(ミア・ワシコウスカ)に恋をしているが、まともに話しかけることもできない。

 そんなある日、期待の新人ジェームズが入社してくる。驚くべきことに彼は、サイモンと全く同じ容姿を持つ男だった。何一つサエないサイモンに対し、要領がよくモテ男のジェームズ。容姿は同じでも性格は反対の2人。

 サイモンは次第に、ずるズル賢いジェームズのペースに翻弄され、やがて思いもよらぬ事態へと飲み込まれていく・・・。

=====ここまで。


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 公開時に、ほんのちょっとだけ気になってはいたけれど、すっかり意識の圏外に、、、。いつのまにかレンタルリストに入れていたらしく、このほど送られてきたので見た次第。

 先に白状すると、雰囲気は嫌いじゃないけど、もうドッペルゲンガーものとしては、あまりにも想定内のオハナシで白けてしまった。こういう不条理劇ってのは、見ていてギリギリ来る感じがないとね。本作には決定的にソレがないのだよ。なぜかって、このジャンルではもう手垢がつきまくったストーリーが展開されているから。それに尽きる。wikiには「サイコスリラー」と書いてあるけど、コーヒー飲みながらボケーッと見られる映画の、どこがサイコスリラーなんだよ、って話。

 自分に見た目はそっくり、中身は対照的、っていう時点でアレだけど、序盤でサイモンが向かいの建物から男が自殺するのを目撃するところで、本作の結末は想像がつこうというもの。そして、そのとおりになるんだから、ガックシである。

 何でこんな、私でも想像がついてしまう展開にしちゃうのか。さんざん繰り返し描かれてきたテーマではないか。なぜ、この期に及んでコレなの?

 見せ方も、格別、素晴らしいとは思えなかった。とにかく全編、夜か地下みたいな暗い建物の中のシーンばっかりで、映像自体は凝っているとは思うけど、別段面白味もない。BGMに70年代の日本のGSとかを使用してアンバランスな感じを出しているけど、それも好みが分かれるところ。私はイマイチそういうのを楽しめないクチなんでピンとこない。

 多分、好きな人は好きなんだろうけど。先が読めても、面白い映画はいっぱいあるしね。最初にも書いたとおり、私も本作の雰囲気は嫌いじゃないし。でも、映画全体で見たとき、劇場でお金払って見たい映画ではないね、ってこと。

 ……と、こき下ろしてしまったけど、主演のジェシー・アイゼンバーグは、イイ味出していた。どっちかっていうと、彼の雰囲気はジェームズの方が合っている気がしたけど、、、『ソーシャル・ネットワーク』の影響かもね。ジェームズが早口でセリフをまくし立てているシーンなんかは、もろにザッカーバーグかよ、って感じだった。

 サイモンが好意を寄せているハナを演ずるミア・ワシコウスカは、作品によって結構顔が違って見える気がする、、、。『ジェーン・エア』のときとはゼンゼン別人に見えたんだけど、きっと良い女優さんの証だろう。特別美人というわけじゃないし、ちょっと印象の薄い顔立ちだよなぁ。似顔絵に描きにくい顔というか、、、。彼女の『ボヴァリー夫人』はちょっと見てみたいかも。DVDレンタル出来るみたいなので、借りてみようかな。

 

 

 

 

 

 


自分と見た目がソックリな人間が目の前に現れたら、どうします……??

 

 

 

 


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悪い種子(1957年)

2020-11-15 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv10051/

 

 イケメンの夫に8歳の可愛い娘ローダに恵まれ、クリスティーンは幸せな毎日を送っていた、、、はずだった。ローダに違和感を抱いたことをきっかけに、自身の出生の秘密を知るまでは。

 ローダは、自分の呪われた遺伝子を受け継ぎ、その怖ろしい性質は治るものではないと悟ったクリスティーンは、、、。

 これぞ、元祖モンチャイ(モンスター・チャイルド)映画。
  

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 モンチャイ映画は、不条理すぎて見ていてキツいのですが、本作を敢えて見たのには理由がありまして、、、。私の大好きな少女マンガ「聖ロザリンド」は、わたなべまさこ氏が本作にインスパイアされて描いたそうなんですよね。

 なので、おおまかな内容は想定内だったんですが、終盤の展開はかなり意外でした。ま、総じて、ロザリンドの方が数倍面白いし、好きですけどね。


◆アットホームなモンチャイ映画

 ローダちゃんは、可愛い顔をして、やることはえげつない。彼女の行動原理は至ってシンプルだ。「欲しいものは必ず手に入れる」

 だから、手段は選ばない。欲しいものを持っている人に「それちょーだい」と、一応頼むけれども、大抵の場合はそんなに簡単にくれるわけはない。そうすると、「持ち主がいなくなればいい」となるわけだ。

 あるいは、「それちょーだい」と言って、相手が「自分が死んだらあげる」等と言えば、「じゃあ、死んでもらおう」になる。

 しかし、ローダちゃんは、他人を亡き者にすることが、一応社会的には“悪いこと”だという認識はある。だから、自分の行いを暴かれそうになると、取り繕ってウソを並べたり、証拠隠滅を図ったりする。

 とはいえ、所詮は子どものやること。どうしたってお粗末なのである。

 ……というわけで、こういう類いのお話は、今ではたくさん映画になっているが、本作が制作されたのは1957年。当時にしてみれば、割と衝撃的な話だったのではないか。本作はもともと戯曲であり、舞台がヒットしたため、同じ配役で映像化したということだ。

 バックのセットはいかにもアットホームな雰囲気で、グロいシーンなど一切なく、それでも“怖い”映画は撮れるということを見せてくれた、モンチャイものの嚆矢といってよい映画だろう。

 監督はマーヴィン・ルロイで、エンディングの後に、出演者の紹介シーンが付け足しのようにあって、ビックリ。これは、内容の衝撃を緩和するためのものだったのかしらん?? いずれにしても、余韻という意味では台無しである。


◆ローダ VS ロザリンド

 で、なぜ、ロザリンドの方が面白いか。答えは簡単で、ローダちゃんとロザリンドのキャラ設定の違いにある。

 ローダちゃんは、前述の通り、他人を亡き者にすることが“悪いこと”だと分かっている。

 しかし、ロザリンドは、そもそも“悪いこと”だと分かっていない。ロザリンドにとって悪いことは、“ウソをつくこと”あるいは“大好きな人を悲しませること”なんである。だから、ロザリンド自身もウソはつかないし、ウソをつく人を許しもしない。人を殺しておいて「あなたがやったの?」と聞かれれば「ええそうよ!」と笑顔で答えるのがロザリンドなんである。

 ちなみに、ロザリンドはこんな子です。

 

(画像お借りしました)

 

 共通点は、「欲しいものは何としてでも手に入れたい!」というところ。しかし、ロザリンドには悪意はまるでないのがホラーなんだよねぇ。そういう意味では、ローダちゃんの方が、見ていて憎ったらしい。対してロザリンドには、憎らしさは全く感じない代わりに、怖ろしさ倍増なんである。ロザリンドは、作中何十人も殺しているが、無邪気な欲求か、善意から行動している。悪いことをしたという意識はゼンゼンない。

 まぁ、本作は見ていてもローダちゃんにイラッとすることの連続で、怖いという感覚はないんだよね。断然、ロザリンドの方が怖いです。

 本作の終盤の展開はかなりヘンで、クリスティーンが実父だと思っていた人が、実は養父だった、、、ということから始まり、彼女の母親がサイコパスで、クリスティーン自身は違ったけれど、ローダちゃんにサイコパスが隔世遺伝してしまった、ということが判明する。その事実に絶望したクリスティーンは、ローダと心中することを決意し、ローダには致死量の薬を飲ませ、自分はピストル自殺を図る。

 ……で、これはロザリンドにも似たような描写があり、ロザリンドでは、母親は死んでしまっている。しかし、本作では、ローダちゃんはもちろんだが、クリスティーンも助かるのだ。ピストル自殺を図って助かるって、、、かなり希有な例ではないだろうか。

 父親は??というと、ローダちゃんのお父さんは軍人で単身赴任。なので、家にはクリスティーンとローダちゃんの2人。ただ、大家さんのおせっかいオバハンがしょっちゅう出入りしている。ロザリンドのお父さんはイギリスで博物館の館長を務めていて、母親がロザリンドと心中を図ったときは、確か母娘だけでギリシャにいた。執事が一緒にいたんだけど、不幸な亡くなり方をする(ロザリンドに殺されたんじゃありません)。

 つまり、どちらも母と娘の2人の関係が軸となっている。ただ、ラストもロザリンドの方が哀しく、父親が大きな役割を果たしていて、本作よりも味わい深いし、読者も切ないながらも納得の終わり方だと思う。しかし、本作の場合、ローダちゃんはピンピンしていて、何も知らない父親と、自殺未遂に終わった母親がどうやってローダちゃんみたいなサイコ娘と向き合っていくのか、、、という絶望的な将来を暗示させたかと思うと、唐突にローダちゃんだけに天罰が下るかのようなラストシーン。……で、何となくいや~な感じだけが残る。

 それをそのまま残さないための、あのヘンテコな登場人物紹介シーンなんだろうけれども、、、。時代のせいなのかしらね。ちなみに、元の戯曲のラストとは違うらしいです。


  

 

 

 


オリジナル(本作)より、後発の「聖ロザリンド」に軍配!

 

 

 

 


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私のちいさなお葬式 (2017年)

2020-01-08 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68536/


以下、公式サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 村にひとつしかない学校で教職をまっとうし、定年後は慎ましい年金暮らしを送っている73歳のエレーナ(マリーナ・ネヨーロワ)が、病院で突然の余命宣告を受けた。

 5年に1度しか顔を見せないひとり息子オレク(エヴゲーニー・ミローノフ)を心から愛しているエレーナは、都会で仕事に大忙しの彼に迷惑をかけまいとひとりぼっちでお葬式の準備を開始する。まずは埋葬許可証を得ようとバスで戸籍登録所を訪れるが、中年の女性職員に「死亡診断書がなければ駄目です」と素っ気なく告げられ、元教え子のセルゲイが勤める遺体安置所へ。「息子は忙しすぎて、葬儀だのお通夜だの手配できないわ。私はただ、いいお葬式にしたいだけなの」そう事情を説明してセルゲイにこっそり死亡診断書を交付してもらったエレーナは、戸籍登録所での手続きを済ませたのち、葬儀屋で真っ赤な棺を購入する。

  翌日、ふたりの墓掘り人を引き連れて森の墓地に出向いたエレーナは、そこに眠る夫の隣に自らの埋葬場所を確保する。隣人のリューダに秘密のお葬式計画を知られたのは誤算だったが、すぐさまエレーナの心情を察したリューダは、ふたりの友人とともにお通夜で振る舞う料理の準備まで手伝ってくれた。リューダらが去った後、生前の夫との思い出の曲をかけながら死化粧を施す。

  かくしてすべての段取りを整え終えたエレーナの“完璧なお葬式計画”は想定外の事態へと転がり出すのだった……。

=====ここまで。
 

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 普段なら、多分、劇場まで足を運ぶことはないジャンルの映画だと思うけど、何しろ、舞台がロシアだというので見に行って参りました。


◆鯉のおかげで、、、

 「あなたの心臓、いつ止まってもおかしくありません」と、医者に真面目に言われたら、さすがに、私も自分が死んだときのことを真面目に考えるだろうなぁ。いつかは心臓が止まると分かっているけど、それはリアル感がないから終活などしない。でもリアルになったら、イヤでもせざるを得なくなる。

 エレーナさんは、現実的に行動する。死んだ後、遺された者にとって一番面倒くさいのは、多分、いろいろな“手続関係”だろう。どんなお葬式にするかという“夢”のために動くのではなく、自分の死にまつわる面倒な手続きを、自身の手でやっておこう、、、というわけだ。

 本来、死亡届と引き換えの埋葬許可書まで強引な手段で入手して、棺桶もゲットし、そのでっかい棺桶をバスで運ぶという荒技に出る。何ともシュールな光景。

 死に化粧をしてベッドに横たわっていると、息子が帰ってきて、母親が死んだと思った息子は涙する、、、けど、どっこい母親はまだ生きていて、驚いた息子とちょっとエレーナさんがもみあったはずみで、息子の車のキーが、エレーナの飼っている鯉に飲み込まれてしまうというハプニング勃発。

 この鯉、エレーナに捌かれそうになったり、冷凍されたりした中を生き延びる。自然解凍されて、シンクでぴちぴち跳ねている鯉を見たエレーナは嬉しくなって、その鯉を盥の中で飼い始めたんだが、車のキーが盥の中に入っちゃったのをエサだと思って鯉が飲み込んじゃったんだわね。スマホもスペアキーも車の中で、どうしようもなくなった息子は、ようやく母親と何日間かを過ごすことになる、、、というわけだ。

 鯉の腹からキーを取り出したい息子だけど、母親が可愛がっているから腹を裂くことも出来ず、そのうち、心境の変化が起きて、、、という展開は、正直言ってありきたりではある。

 ただ、その後、息子は、鯉を元いた池に放してやり、自分も池で泳ぐ。そうして、戻ってみるとエレーナは、、、。で、ジ・エンドってのが私は気に入ってしまった。

 結局、エレーナの終活がメインテーマであるように見えて、“親との永遠の別れ”という息子視点のストーリーに集約されたわけで、それ自体もありがちといえばありがちだが、鯉を出したことで、説教臭くなくエレーナの死と息子がどう向き合うか、、、ということにさりげなくフォーカスさせるというのは上手いなぁ、と。

 そして、最終的に、エレーナは息子に看取られて旅立つことが出来た、、、ということになるわけで、一応、ハッピーエンディングなのが良い。


◆“親の死”と向き合う。
 
 エレーナが終活にいそしんだのは、普段疎遠な息子に迷惑を掛けたくない、という思いから。

 本作の感想をネットでいくつか拾い読みしたが、その中で、この遺された者に“迷惑を掛ける”という考え方を批判している方がいた。それじゃあ、あんまり寂しいじゃないかと。……でもさぁ、現実的に、やっぱし遺された者はいろいろ冒頭書いたように手続きは大変には違いないのだよ。それを、実際に“迷惑”と受け止めるかどうかは、死者との生前の関係次第だけど。

 だから、親が、我が子の手をなるべく煩わせたくない、と考えるのは、ある意味自然な感覚で、別にそこを指摘して批判するほどのことでもないだろう、と思う。

 子が、親の死をどう受け止めるか、ということの方が、結局は問題になるのだよね。でも、子にしてみれば、そんなのその場になってみなきゃ分からん、というのが正直なところ。私のように、親と断絶している者としては、ますます想像がつかない。素直に悲しめないだろうなぁ、、、ということは予想できるけど。

 エレーナの場合、かつて息子を恋人と別れさせているというのが心の奥底で負い目になっていることもあるみたい。息子に「今、幸せ?」なんて聞いてしまうあたり、賢い女性であっても、愚かな一人の母親の側面はやっぱり持っていたのだなぁ、、、と。そんなこと親に聞かれたら、息子は「うん」と答えざるを得ないのにねぇ。

 母親の死と向き合う、、、という主題の映画というと、『母の身終い』(2012)を思い出してしまった。本作とは雰囲気も内容も違うが、脳の病気により近い将来、自分が自分でいられなくなることを宣言された母親が尊厳死を選ぶ、というものだが、同じ、“親の死と向き合う”のであれば、子にとっては本作の方がよほど有り難いはず。親の尊厳死に立ち会わされる子の立場なんて、想像しただけでゾッとする。尊厳死は、頭では理解できるけれども、遺された者の身になると、安易に賛成する気にはなれないのも正直な気持ちだ。遺された者の心の負担が大き過ぎる。生涯、その重すぎる十字架を背負わせるのはいかがなものかということだ。

 そういう意味では、エレーヌの最期と、息子の置かれた境遇は、とても幸せなものだと言えるのではないか。悲しんで親を見送ること、、、これが、子にとって理想の親との別れなんだと、帰り道を歩きながら考えたのでありました。

 

 

 

 


「恋のバカンス」のロシア語バージョンがなかなか素敵。

 

 

 

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私が棄てた女 (1969年)

2019-12-23 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv22277/


以下、YAHOO映画よりあらすじのコピペです(上記リンクのあらすじが長すぎるので)。

=====ここから。

 自動車の部品会社に勤める吉岡努(河原崎長一郎)は、自らの出世のため、専務の姪のマリ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えていた。ある夜クラブの女から、吉岡が学生時代に遊んで棄てたミツ(小林トシ江)という女が中絶したとの噂を聞いた。

 吉岡は今でも責任を感じつつ、マリ子と盛大な結婚式を挙げるのだったが……。

=====ここまで。

 遠藤周作の長編小説『わたしが・棄てた・女』の映画化。


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◆遠藤周作もだったのか……。

 遠藤周作の小説は、恥ずかしながら読んだことがない(と思う)。エッセイは、狐狸庵シリーズをいくつか読んだが、これまた恥ずかしながら、ほとんど覚えていない。読んだのは高校生の頃だからだが、読んだ後、何年か(というかそこそこイイ歳の大人になるまで)は、ちょっと印象に残ったいくつかの文を覚えていた気がする。しかし、もはやその記憶の一片すら残っていないという、何とも情けない限り。

 ただ、遠藤の思想がマッチョだとは、ゼンゼン思っていなかったので、本作を見て少々彼へのイメージが変わった。

 本作の原作も、他の彼の著作同様、キリスト教が影響しているらしいのだが、本作を見る限りでは、ほとんど宗教色は感じられなかった。一部では、ミツに聖母的なものを見出す向きもあるようだが、原作でどんな描かれ方をしているのかは知らないが、映画でのミツは、聖母というより、ちょっとオツムの弱い、、、もっと言えば、男にとってどこまでも都合が良いだけの女、……でしかないように感じた。

 この小説が発表されたのが1963年、本作が6年後の69年。つまり、昭和38年と44年。……であるから、この内容も、まぁ、仕方がないのか。

 びっくりしたのは、原作にも同じセリフがあるのか知らんが、吉岡がマリ子の家族に挨拶に行った席でへべれけになるまで飲むのだが、それは別にいいんだけど、そのシーンで、中年男性が「女は半人間ですからね」というセリフがあるのである。これが大手を振って許されていた時代なのか、、、と、愕然としてしまった。半人間、、、。すごい言葉だよなぁ、、、。半人前とかならまだ分かるが。でもって、これに続くセリフが、確か、「結婚してor子供を産んでようやく人間になる」みたいなのだった。まあ、こういう思想は今も脈々と受け継がれておりますが、一部では。

 ある意味、このセリフは象徴的で、全編にわたり“マチズモ的なるもの”が通底しているのをヒシヒシと感じた。まあ、時代のせいもあるだろうけど、遠藤周作自身に、自覚的か否かは別として、そのような思想背景があるのは間違いないだろう。彼の著作の大半は未読だから決めつけはよろしくないと思うけど。本作などタイトルからして、“女”を“棄て”るである。推して知るべしではないだろうか?

 じゃあ何で本作を見たのさ、、、って話だが、何でだろう?? TSUTAYAの新作一覧のパッケージ画像の浅丘ルリ子がちょっと魅力的に見えたから、かな。いや、ヤなタイトルだと思いながらも、『キューポラのある街』と同じ監督だから、ちょっと見ておこう、、、と思ったんだった、確か。

 
◆原作との違いと映画の最終盤の意味するもの

 wikiによれば、原作では、ミツは老人介護施設ではなく、ハンセン病療養所に勤め、交通事故で亡くなる、という展開だったらしい。

 まあ、wikiのあらすじを読む限り、まだ本作の方が原作よりもマシな話だったんだな、という気がした。だって、原作のミツは、本作以上に吉岡にとって都合の良い“だけ”の存在じゃん。吉岡の自己憐憫を刺激し、プライドを傷つけず、自らの欺瞞にも気付かせないまま心地良くさせるだけの話に思える。

 でも、本作は、ミツが亡くなった後、吉岡に自身と向き合う機会が与えられている。マリ子にミツとのことを追及された吉岡は肩を落として「ミツは優しい。優しいということは弱いということ、ミツは俺だ」と、吉岡を醜聞からかばって過って死んでしまったミツのことを振り返る。

 ……だからといって、吉岡が自らの欺瞞に気付いているとは思えないが、その後のラストの展開で、マリ子が何事もなかったかのように吉岡と夫婦を続けている様子を見て、しかもそのマリ子の様子がどこか淡々としていて割り切っている感じがするのだが、そこにむしろ、マリ子の方こそ、自分たちの生活の欺瞞に気付いていて、でも現実を生きるために割り切っているような感じがした。吉岡がどういう人間かも承知の上で。

 そういう意味では、本作の方がいくらか話として奥行きが出たのではないか、という気がする。

 
◆ミツは本当に優しい女なのか?

  河原崎長一郎が演じる吉岡という男が、嫌悪感を催す。終盤まで、自己中全開で、さらに自己憐憫まで見せ、欺瞞に満ちた吉岡の言動に、河原崎長一郎のあの容貌が手伝って、これ以上ないってくらい鬱陶しい。見た目といい、性格といい、ものの考え方といい、こんな男に惚れるマリ子が、同じ女性として全く理解不能。

 むしろ、ミツの方が、まだ理解できる。世間知らずで、初めての男に惚れてしまった、ってことだろう。多分、相手が吉岡でなくても、ミツは惚れたと思う。ミツという女性はそういう性質の人だということ。一種の刷り込みみたいなもんでは? だから、男は初めての女性が良い、、、などと妄想するんだろうけど、こればっかしは人によると思われる。初めての男なんか思い出したくもない、という人もいるし。大半の女性は何の価値も感じていないんじゃないかね? 少なくとも私はそうですが。

 ミツの場合、男がどうこう、、、ってことよりも、本作では彼女の置かれた貧しさが本質的な問題だと思う。彼女が田舎の富豪の娘とかだったら、同じ世間知らずの田舎娘であっても、話は大分変わっただろう。貧しさ故に、ヘンな奴らに取り込まれることにもなる。

 ネット上で感想をいくつか拝見したが、ミツは与えるだけの人、赦す人、、、な感じで受け止められているみたいで、もちろんそういう見方もできると思うので否定はしない。が、冒頭書いたように、私にはもっと下世話な風にしか見えなかった。

 ミツを演じたのは当時無名の小林トシ江。この方、『ねことじいちゃん』にもご出演なさっていたみたい。ゼンゼン気付かなかった。ミツが亡くなる様は、まさに悲惨。監督が、「ミツは許す女だから、ぶざまに死ななきゃいけない」とか言って、ああいう死に様のシーンになったらしい。でも、あれを演技させられる身になると、非常に辛いものがある。小林トシ江さん自身、本作の撮影は辛いことばかりだったと回顧していたようだが。

 まあ、とにかく、教育って大事だよな、ってことを改めて感じさせられた映画ですね。多分本作を見てそんなことを思った人間はいないでしょうけど。女は可愛きゃ良い、という人は男女問わずにいますが、オツムの弱い女は、本作に限らず、どの映画でもほぼ例外なく悲惨な目に遭っていますから。可愛かろうが不細工だろうが、教育は大事です。

 

 

 

 


 

浅岡ルリ子と河原崎長一郎、バランスがイマイチとれていないカップルな気がするんだが。

 

 

 

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私の20世紀(1989年)

2019-04-22 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv15549/

 

以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1880年、アメリカ・メンローパークのエジソン研究所では、エジソンが発明した白熱電球のお披露目に沸き立っていた。時を同じくして、ハンガリー・ブダペストでは双子の姉妹が誕生した。リリ、ドーラと名付けられた双子は孤児となり路上でマッチ売りをしていた。クリスマスイブの夜、彼女たちは通りかかった二人の紳士に別々にもらわれていった。

 やがて時は流れ、1900年の大晦日、気弱な革命家となったリリと華麗な詐欺師となったドーラは偶然オリエント急行に乗り合わせた。リリは同志から渡された伝書鳩を大事に抱えながら、満員の車両で不安に過ごし、ドーラは食堂車で豪華な食事を楽しみ男達を弄んでいた。

 ブダペストで降りた双子は、世界中を飛び回る謎めいた男性Zと出会う。男性慣れしていないリリは図書館で目が合ったZに惹かれ、帰り道を共に歩き、動物園にデートへ出かける。一方、ドーラは豪華客船で一夜の遊び相手としてZに目をつける。Zは彼女たちを同一人物と思い込み二人に恋をするのだが…。

=====ここまで。

 昨年公開された『心と体と』(2017)の監督の長編デビュー作が4Kレストア版として公開。

 

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 『心と体と』は結構面白かったので、その監督の長編デビュー作というのなら、ちょっと見てみたいかも、、、と思い、予告編にも興味を引かれたので劇場まで行ってまいりました。

 

◆こちらは“同床異夢”の物語。

 これは、いろいろと博識の人が見れば面白いのかも知れないが、私のような無知蒙昧な人間が見ても、監督の意図するところの100分の1も理解できていない可能性が高い。それくらい、本作はメタファーに満ちている。何のメタファーなのかはハッキリ分からなくても、メタファーなんだろうことくらいはさすがに分かる。 

 何と言っても、主役の美人双子姉妹。孤児だった二人は別々に成長し、方や詐欺師、方や活動家と、同じ顔して同じDNAを持っている人間でありながら、対極のキャラ設定となっている。オリエント急行内で、詐欺師のドーラは一等車に、活動家のリリは三等車に乗っている。また、この姉妹が一人の男Zを共有し(という言い方もイヤな感じだが)、Zは二人を双子とは知らず同一人物と認識している。つまり、対極のキャラでありながら、融合してしまう。

 最終的に、Zは双子の姉妹と認識したかのように思えるが、その辺も曖昧な描写だから、本当のところは分からない。Zは奔放なドーラのつもりで、ウブなリリをレイプまがいに抱くのだが、これが別人だったと分かった(かも知れない)ところで、Zは何とも言えない戸惑いの表情を浮かべている。まあ、そらそーだよなぁ、、、。この、双子が1人の人間を共有するってのは、クローネンバーグの『戦慄の絆』や、オゾンの『2重螺旋の恋人』でもあった。本作はこの2作とは全然テイストは違うが、共有された人間の戸惑いや嫌悪感は、やはりZからも見て取れる。

 タイトルに“20世紀”とあるように、本作では、これから来る20世紀を迎える人々・社会を描いていて、それは一応、夢も希望もあるように描かれている。しかし、このZの戸惑いがある意味象徴的なんだと思うが、漠然とした不安も当然そこには潜んでいるはず。

 そしてこの姉妹が成長した後の話は、幼いリリとドーラがそれぞれに見た夢物語とも受け取れ、『心と体と』では、別々の所で眠る男女が同じ夢を見るという“異床同夢”の話だったが、本作はまさしく“同床異夢”の話とも言える。

 正直なところ、『心と体と』の方が、ストーリー的には何倍も分かりやすい。……というか、描写がストレートなので見ていて悩ますに済む。

 

◆動物がいっぱい

 この監督は、作品に動物を登場させるのがお好きなよう。『心と体と』では鹿が重要な役割を担っていたが、本作では動物が色々と出てくる。ロバ、犬、猿、豚、伝書鳩、、、。

 中でも、猿(というかオランウータン)は人間の言葉を喋る。しかも、結構そのシーンは唐突なので、ビックリする。何で自分がこんな檻に入れられるハメになったのかを、自分で説明し始めるのね。正直なところ、前後の脈絡は意味不明。

 また、重要なシーンではロバが出てくるのだが、ロバが出てくると姉妹は必ずいずこかへ導かれるようになっている。夢の世界であったり、不思議な鏡の世界であったり。ロバはハンガリーでは愚かの象徴らしいが、本作での扱いを見ると、決して愚かを表わしているようには思えない、、、。むしろ、未来を暗示する存在のように思ったのだけど。ロバを見ていて、そういえば、クストリッツァの映画でもロバが象徴的に出てくることがよくあったよなぁ、、、などと思い出していた。出番は多くないが、肝心なときに、なぜかそこにいるのがロバ。そして、本作と同じように、誰かを導いていくのだよね。

 個人的には、ロバは、“愚か”ではなくて、“哀しい”という印象。馬ほど力はなく、身体も大きくなく、なのにその小さな身体に見合わぬ荷物を背負わされて人間にこき使われている、、、、みたいなイメージ。童話に思いっきり影響を受けていますな、多分。本作では、“無垢”の象徴かという気もする。

 犬も、実験用の犬(パブロフの犬)だし、本作に出てくる動物はみな、人間に“利用されている”ものばかり。20世紀=人間のエゴ全開の時代の犠牲者たち、とでも言いたいのだろうか。少なくとも、あまりハッピーな感じはない。

 

◆ババア発言の先輩が出てくるゾ!

 あと、本作の特徴的なのは、ジェンダーについてフォーカスしていること。それも、かなりストレートな描写で、ちょっと驚いた。

 フェミニストの集会のシーンがあるんだけど、それに参加しているのは活動家のリリ。で、そこでオットー・ヴァイニンガーという実在の哲学者による講義がされるんだが、その内容が、もうまさしく女性蔑視・女性嫌悪全開なんである。このオットー・ヴァイニンガーはユダヤ人で、23歳の若さで拳銃自殺しているということだが、「性と性格」という本を著しており、今日では批判に対象となっているんだとか。彼の主張は、つまるところ、女なんてのは所詮“産む”ぐらいしか能がないんだ、ってこと。母親か娼婦か。だから、産まない女は娼婦やってろ、“産めない売れない”になった女はお役御免だ、、、ってこれ、大分前に、石原〇太郎がほざいていたことと同じだわね。

 Zがリリとドーラを同一人物と認識してキャラが融合してしまったように、女性像もそんな単純なものじゃないんだということを言いたいのは、非常に強く伝わってくる。リリがヴァイニンガーの講義を受けた後、工場の高い煙突(ペニスの象徴でしょ、多分)に上って行き、アジビラをまき散らすのとかね。

 まあ、マチズモってのは、21世紀の今も根強く残っていて、恐らく、22世紀にも残っているんじゃないかね、、、と私は思っている。最近では、だいぶ性の境界そのものが揺らいでいるので、案外早く解消できるのかも知れないが、グローバリゼーションと同じで、境界が曖昧になればなるほどアイデンティティがフォーカスされるという逆進が起きるものでもあり、マチズモに執着する男は少なくないだろうと見ている。女自身がそれを良しとしてしまっている部分もあるしね。今世紀残り80年くらいで変革できるとは、ちょっと思えない。

 ……とまあ、ほかにもあれこれ色んなことが盛りだくさんな内容の本作なんだけど、それをどれだけ理解できるかは、あなたの知識量に懸かっています。私にはこれくらいが精一杯でござんした、、、ごーん。

 

 

 

リリとドーラ(とその母親)を演じたドロタ・セグダが可愛い!

 

 

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わたしは、ダニエル・ブレイク(2016年)

2017-03-26 | 【わ】



 以下、本作公式HPのあらすじコピペです。

 ====ここから。

 イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない。

 悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供の家族を助けたことから、交流が生まれる。貧しいなかでも、寄り添い合い絆を深めていくダニエルとケイティたち。

 しかし、厳しい現実が彼らを次第に追いつめていく。

 ====コピペ終わり。

 ローチが、引退宣言を撤回してまで撮った本作。カンヌでは、パルムドールを受賞したことで批評家たちはブーイングの嵐だったらしいが、ローチの怒りはそんなもんと比べものにならんでしょ、これ。 


 
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 ローチファンとしては、引退宣言撤回は嬉しい限りでありますが、とにかく、ローチがものすごく怒っていることがビンビン伝わってくる作品でした。いやぁ、、、マジで、すごい怒り様です。まあ、本作を見れば、その怒りもムリもないと思いますが。怒りにまかせて何かをすると、大抵、大失敗になるわけですが、そこでキッチリ秀作を世に出してくるところが、ローチのローチたるゆえんです。


◆ローチが、とにかく怒っている。

 正直な話、本作を見ると、日本の方がまだマシと思えてしまうところが恐ろしい。国の財政健全化を名目に、福祉の切り捨てに邁進する政府の政策に翻弄されるのが、ダニエルやケイティたちなのですね。その一方で、福祉を切り捨てている張本人であったキャメロン前首相は租税回避していたってんだから、そら、ローチでなくても怒るわね。

 きっと、ダニエルは、昨年行われたEU離脱の国民投票まで生きていたら、離脱に1票を投じていたんじゃないですかね。世界からは白眼視されがちな排他主義的思想だけれども、こういう実態を見せ付けられると、離脱の選択にもそれなりの理由があるのだと、改めて知る思いです。

 大体、日本が排他主義を非難できるのか、って話です。ヨーロッパで極右政党が躍進していると批判しているけど、ルペンなんかは以前、「我々は、日本のようになりたいだけだ」とか言っているわけで、それは、難民をほとんど受け入れず、移民政策もとらず、国籍法によって血統主義が明文化され、、、彼らが望むのはその程度のことだ、ってことらしい。その主張のどこが極右なんだと。だったら、日本はとっくに極右じゃないかと。……まあ、実際、日本の現政権は極右どころか、独裁傾向に拍車がかかっていると思うけれども、確かに、日本のメディアがこぞってトランプ政権や欧州の極右政党を批判しているのには、あまりにも短絡的すぎて違和感を禁じ得ない。

 私自身は、政治信条的にはリベラル寄りだが、移民政策には慎重派だし、国籍の血統主義も間違っていないと思っている。難民受け入れはもう少し寛大になっても良いとは思うけれども、近い将来起きると予想される朝鮮半島有事の際、難民が押し寄せたらと思うと、そうそう人道主義第一のタテマエばかりも言っていられないと思う。

 ローチは、EUについて、残るも地獄、去るも地獄だが、去るよりは残る地獄の方がマシだろうということを言っている。ローチからすれば、EUなんてのは、金持ちの理論で成り立っているのであって、下層階級の者にはなんの恩恵もないけど、タテマエ上、人権尊重主義でつながっている共同体に属することで、イギリスのさらなる右傾化は避けられる、ということらしい。……まあ、ローチらしい見解です。

 でも、ローチは、ダニエルがEU離脱に1票を投じるのを見ても、決して咎めたりしないでしょう。十分、その心境は理解できると思います。だからこそ、本作を撮ったわけで。


◆シビアな中にもユーモアを忘れないところがローチ。  

 見ていて疑問に思ったのは、ダニエルは、心臓発作を起こして、労働はドクターストップがかけられているわけで、働きたくても働けない状態なのに、「就労可能」という判断が役所から下されること。日本だったら、医師の診断書があれば、手当はされるでしょう? なのに、イギリスでは、医師の診断よりも、役所の判断が優先される。死んでもイイから働け、ってこと。これはヒドイ。強制労働じゃねーか。人権無視もいいとこです。

 このときの役所の対応が、まあ、見ていてムカつくんですよねぇ。ダニエルじゃなくても怒り爆発したくなるわね。「(役所に)反発したら手当は出ない」というお上意識丸出しの恫喝行政。これがかつては「ゆりかごから墓場まで」と言われた国で行われていることだとは……。決して、映画だからデフォルメしているんではないと思いますね。

 一番、見ていて悲しかったのは、ケイティがフードバンクで缶詰をもらったら、空腹に我慢しきれずにその場で缶詰を開けてむさぼる様に食べ出したシーンです。その光景もショッキングですが、フードバンクのボランティアスタッフの優しさが切ない。服や床を汚してしまって、泣きながら詫びるケイティに「いいのよ、大丈夫よ、気にしないで、スープがあるから食べる?」と、こんな時にこんな優しい言葉を掛けられたケイティの心情を思うと、胸が張り裂けそうになります。また、泣きじゃくるケイティに、自らも苦しい状況にあるダニエルが「君は悪くない、泣かなくてもいい、自分を責めなくていい」と慰めます。

 このケイティの行動は、ローチや脚本を書いたポール・ラヴァティが取材で実際にスタッフから聞いた話だそうで。そこまで、市民に尊厳を失わせるって、、、そら、ローチが引退撤回するのも納得です。

 でも、ローチ映画の良さは、そういう絶望的な状況を描きながらも、ユーモアを忘れないところ。

 怒りが溜まりに溜まったダニエルは、遂に、行動に出ます。カラースプレーで、役所の壁に自らの尊厳を懸けて派手な落書きをするんだけど、これを見た、近くにいたホームレスや失業給付金請求者たちは拍手喝采をする。ここは、ローチが一番言いたかったシーンだと思うけれど、それを説教くさくなく、ユーモアを交えて面白く、かつ辛辣に批判しているのです。

 ダニエルの落書きシーンでは、みんなスマホで写真撮ったりしているので、私は、これが全国に拡散して、少しは行政が動く、、、という展開になるのかな、などと甘いことを考えてしまいましたが、案の定、ゼンゼン違った。

 ダニエルは、駆けつけた警察官に連行されてしまい、結局、事態は何も変わらず、彼は家財道具を売り払い、どん詰まりまで追い詰められる。でも、ギリギリのところで、ケイティの娘に「あなたは私たちを助けてくれたでしょう? 今度は私たちにあなたを助けさせて」と言われて、窮地を救われる。人権派と思しき弁護士が助っ人に現れ、何とか、救済措置を申請できそうになったところで、ダニエルは心臓発作で亡くなる、、、という結末。

 最後のダニエルの葬儀シーンで、ケイティが読み上げる一文が、「私は、ダニエル・ブレイク、一人の人間だ」というもので、これを言わせるためには、やはりダニエルが亡くなるという展開は仕方ないのかな、、、と。


◆ローチ映画に共通しているもの。

 ローチの映画に通底しているのは、逆境から抜け出すのは、本人の意思+「人の力」が欠かせないということ。どの映画も、詰まるところそれを描いていると思う。

 人生や世の中には「どうにもならないこと」「不可抗力」は必ずある。それを跳ね返すのは、結局自分自身でしかないけれど、それをほんの少しだけ支えたり見守ったりする周囲の人の小さな力が欠かせないということを忘れてはいけないと改めて教えられる。そこが、ローチの映画のシビアさにもつながると思うし、でも絶望で終わらないところだと思う。

 本作も、ダニエルは亡くなったけれど、ケイティたちには一筋の光明が差して終わっている。ダニエルも、ただただ役所にやりこめられて終わったわけでなく、彼なりに精一杯の抵抗をしたわけです。これは、階級闘争でもあり、私はそんなものに甘んじるつもりはないぞ、という確固たる意思表示で、これを成し遂げたことがダニエルの一つの希望であったと思う。こういう、ほんの少しの救いが、胸に沁みる。

 ダニエルは腕の良い大工だった、という設定で、彼が木材で魚のモビールを作るんだけど、そのモビールが実にステキです。ケイティの子どもたちにプレゼントし、自分の家にも飾っているんだけど、モビールの魚がゆったりと空を泳ぐ様が、ダニエルやケイティたちの置かれた状況との対比で切なくもあります。そういうところもまた、本作の味わいを増していると思います。

 カンヌの受賞は、まあ、ファンにとっては割とどーでも良いことで、ローチの創作意欲が枯れていなかったことを本作を見て改めて知ることができた、それが一番嬉しいことです。また、次作があるものと信じて。

 
 

 




ローチの怒り爆発!!




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若者のすべて(1960年)~その③~

2017-01-10 | 【わ】
 そののつづきです。


◆絆か呪縛か。

 本作の最大のテーマは、“家族”でしょう。

 311の震災の後、やたらと“絆”という言葉が世間に氾濫し、“家族の絆”がフォーカスされていたように思います。あれが、私には、鬱陶しくて仕方がなかった。家族が絆などではなく“呪縛”だった人間にとっては、ああいうポエム調のセンチメンタリズム、例えばNHKの「花は咲く」なんてのは鬱陶しい以外の何ものでもないのですよねぇ。特に、有名人たちが、なぜかガーベラを一輪両手で胸の前に持って、哀しげな顔をして歌う演出など、言っちゃ悪いが、あれこそ一種の「感動ポルノ」ならぬ「震災ポルノ」だろうと思っちゃう。24時間TVのことをよく言えたものだと、正直思いましたね。

 心底感動している人や励みになっている人もいるんだから、それはそれで良いのでしょうけれど。でも、あの映像のセンスは、やっぱり救いようがないくらいに悪いと思う。

 、、、それはともかく、家族に苦しんでいる人・苦しんだことのある人は、私に限らずもの凄く多いと思います。他人なら苦しまない。離れれば良いのだから。でも、家族はそうはいかない。絆という名の呪縛があるからこそ、苦しい。そして、たとえ呪縛であっても、それが解けることもまた苦しい。進むも地獄、退くも地獄、それが家族・血縁のなせる業。

 結局、本作は、シモーネやロッコのように家族が呪縛になってしまう人と、チーロみたいにゆるい絆を維持して我が道を行く人と、ヴィンチェンツォのように呪縛も絆もなく個を大事にする人と、同じ兄弟でのそれぞれの家族との距離の取り方を描いているとも言えるかも。

 家族、、、この言葉ほど、人によって受けとめ方の異なるものはないかもですね。ヴィスコンティにとっては、因果なものだったのかも。


◆パロンディ家は本当に崩壊したのか?

 ヴィスコンティ作品には家族の崩壊を描いたものが多いと言われていて、本作もその一つだそうですが、、、。パロンディ家は本当に崩壊したのでしょうか?

 私は、そうでもないような気がしました。ストーリーは悲劇的ですが、この後のことをちょっと想像してみると、、、。チーロは恋人と家庭を持つでしょう。子が自立して親元を巣立っていくのは当然のことで、別に崩壊でも何でもありません。

 問題は、シモーネとロッコですが、、、。私は、母親とこの2人の息子と末っ子ルーカは、南部に戻るのではないか、という気がします(借金はどーすんだ? という問題はありますが)。この2人の息子は、ミラノという都会に馴染めなかったが故に、苦しんだわけです。母親としては、シモーネは牢屋、幼いルーカの面倒をたった一人で都会で見続けるのはかなり難しいと思われます。なので、恐らくはロッコがそれを支えるのだろうけれど、それもシモーネが牢屋から出てくるまでの話。そして、南部の地で、ルーカが新たなパロンディ家の礎となるのではないかな、と。

 なぜそう考えたか、というと、ロッコはパーティの席で、故郷のことを懐かしんで語り、「故郷に帰りたい」とハッキリ言っています。シモーネも多分同類、、、だからあんなんになっちゃったんだと思う。そして、ルーカは、「ロッコが帰るなら自分も帰る」と言っています。シモーネとロッコは、ミラノでは生き続けられず、ロッコを慕うルーカはロッコと行動を共にする、、、のではないかな、と。

 なので、本当にパロンディ家が崩壊してしまったわけではないと思うのです。いくらイタリアの家族が濃いからといって、形はどうあれ、子はいつかは巣立つもの。真に家族が崩壊するというのは、皆がてんでバラバラになって、互いに消息も知れない、知っていても接触しない、、、という状態になることではないでしょうか。緩くでも、極細くでもつながっている以上、それは崩壊ではなく、変化に過ぎないと思うのですが。


◆ヴィスコンティ映画

 で、映画友の言葉に対してですが、、、。

 正直なところ、本作を見ただけでヴィスコンティの本質が分かったとは到底思えませんし、逆に言えば、私のこれまでのヴィスコンティ評が大きく覆ることもなかった、と言えましょう。

 映画作り、という側面から見れば、やっぱり、ヴィスコンティの作品は、意味がよく分からないシーンがかなりあります。 

 例えば、シモーネがジムの支配人(?)の男性に金の無心に行き、その支配人の部屋でのシーン。テレビに絵画が映っていて、支配人が途中でテレビを消すんですけれど、、、。その絵画ってのが、どれもこれも裸の人間のなんですよねぇ。これって、、、?? もしかして、シモーネと支配人の関係の暗示?? とか。、、、分からん!!

 ナディアがシモーネに殺されるシーンも分からない。シモーネにぐさぐさと刺されながらも、ナディアは「死にたくない~~!」と絶叫。でもそれまでは彼女は「もう死にたい」と散々言っていた。、、、んん~、いざ死に直面して、生への執着心が湧いたのか?? とか。

 別に、全てのシーンを理解できなくてもいいけど、なんだかなぁ、、、というのは、やっぱり本作でもありましたねぇ。観客の想像力に委ねる、って感じの分からなさじゃない所が好きになれない、というか。「これ分かる?」と試されているみたいな。

 まあ、映画友はヴィスコンティLOVEなので、今度、逆に、ヴィスコンティの何がそんなに魅力だと感じているのか、じっくり聞いて来たいと思います。聞けば、少しはなるほど、と思える部分もあるかも知れませんし。









正月早々、凹みました。




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若者のすべて(1960年)~その②~

2017-01-08 | 【わ】
 そののつづきです。


◆四男チーロの総括セリフでようやく謎が解ける

 ロッコの不可解さを引きずったまま、話は終盤へ突き進みます、、、。

 殺人を犯したシモーネを、たとえロッコや母親が許そうと、そうはさせじと立ちはだかった兄弟がいました。それは四男のチーロ。シモーネを匿おうとするロッコを振り切り、チーロは警察にシモーネの罪を告発する。当然、シモーネは逮捕されて牢屋行き、、、。

 チーロは、長男ヴィンチェンツォと同様、とても現実的な人です。夜学で勉強し、アルファ・ロメオに技師として就職、堅実な人生を送る道を選びます。そういう人間からすると、やはり、ロッコの言動は到底許容できないものだったのでしょう。

 彼が、ラスト近く、末っ子のルーカと話すシーンで、兄弟についてまとめてくれています。

 「シモーネは優しかったけれど、都会の毒に染まってしまった。ロッコの寛容さがそれに追い打ちをかけたんだ。ロッコは聖人だ。何でも許してしまう。でも世の中には許してはいけないことがあるんだ」(セリフ正確じゃありません)

 ……なるほど。このチーロの総括で、やっとこさ、ロッコの不思議過ぎる言動の謎が少し解けた気がしました。

 自分のせいでシモーネは罪まで犯してしまったと思い込んでいるロッコは、どこまでもシモーネを受容しようと決意した聖人なのだ、、、ってことでしょうか。


◆聖人も白痴も、神がかり的美男であるからこそ。

 果たして、ロッコは聖人になったのか、もともと聖人なのか、、、。私は、スクリーンに映るアラン・ドロンの顔を見ながら、ジェラール・フィリップ主演の『白痴』を思い出していました、、、。ドロンの美貌はジェラール・フィリップのそれとまるで醸し出す品性が違うけれど、、、。

 『白痴』はあまりにも昔に見たのでかなり忘れていますが、ジェラール・フィリップ演じるムイシュキンは、白痴というか、イイ大人なのに純粋無垢過ぎる人だった。不幸な人を放っておけない人だった、、、。ロッコと通じませんかね?

 そして、こういう人は非常に罪作りな人で、本人は純真無垢でも、周囲は大迷惑で大不幸に陥る、ってのも同じ。

 ムイシュキンもロッコも、あまりに美しいので、その言動が何やら説得力のあるもののように、はたまた、神がかっているように見えるだけで、彼らが並か並以下の容姿であったら、、、誰も相手にしないどころか、キレられるのがオチじゃないでしょうか?

 ヴィスコンティが、ロッコ役をアラン・ドロンに演じさせることに固執したのも、やはり、その神聖性に説得力を持たせるには、“美”の要素が不可欠だったからでしょう。しかも、並の美男子ではダメなのです。人間離れした美しさでないと。それでいて、ボクサーとしても才能を開花させる若い男、、、となったら、そら、肉体美も併せ持つドロンにこだわるのも当然と言えましょう。ドロンなくして、本作は成立しないのです。


◆ロッコにとって大切なもの=“信仰”と“家族”だけ

 ロッコの言動を思い返してみると、彼はチーロの言う“聖人”というよりは、何かこう、、、信仰で思考停止している人、、、と言いますか、とにかく、神が彼の精神性を支え、なおかつ、彼の行動規範は全て家族にある、という人なのではないか、、、と思い至りました。

 5人兄弟の中で、一番、家族基準で行動しているのは、どう考えてもロッコです。さらに、いくら神が自分の精神の支柱だからと言って、殺人まで犯した兄について罪人(つみびと)という認識をしてもよさそうなものを、彼は、シモーネを告発しようとするチーロに対してこんなことを言います。

 「誰もシモーネを裁いたり出来ない! 正義なんて信じない! 神のみがシモーネを裁けるんだ!」(これもセリフ正確じゃありませんが、、、)

 もうね、、、無宗教者で煩悩にまみれた人間からすると、「はぁ、、、???」なセリフでして。

 しかも、このセリフをロッコは、絶叫するんですよ、大げさな身振り手振り付きで。母親も一緒になって絶叫しています(セリフは忘れましたが、シモーネを庇うもの)。絶叫の掛け合いで、もの凄く深刻かつ重要なシーンであるにもかかわらず、もう滑稽すぎで、劇場内でも笑いがちらほら起きていました。それくらい、異様な光景なのです。

 シモーネみたいな兄がいるのは辛いけど、ロッコみたいな兄がいるのは辛いのではなく、厄介極まりないと感じました。

 いくら美しくて神の化身かと思われるほどの兄でも、私がチーロでも同じ行動に出たでしょう。そして、私はチーロと違って、ロッコも許せないと思うでしょう。もう、シモーネともロッコとも没交渉を決心するでしょうね。

 チーロが警察に告発した後、ロッコもシモーネも出てきません。シモーネは牢屋だけど、ロッコは一体どうなったのでしょうか……? ラストシーンは、末っ子ルーカとチーロの若干の希望を感じさせるものですが、、、。


◆本当の“生贄”はシモーネでもロッコでもない。
 
 ところで、ロッコだったか、チーロだったか記憶が定かじゃないんですが、「家族を作るには基盤としての犠牲(生贄)が必要だ」みたいなセリフが終盤ありました。セリフでは、犠牲とはシモーネのことと解しましたが、この“犠牲”は、本作において、本当にシモーネでしょうか? 私にはそれはちがうんでないの? という疑問が湧きました。

 本作で、パロンディ家の犠牲、、、というより生贄になったのは、間違いなくナディアでしょう。

 ナディアは、シモーネに衆目の中レイプされ、異様に執着され、挙句、刺殺される。心から愛したロッコには訳の分からない理由で別れを告げられる。しかも、ロッコは彼女と別れた後、実に呆気ないほどナディアのことを顧みようとしないのです。このサバサバっぷりには、怒りさえ覚えます。

 そんなに家族が大事なら、シモーネとの過去があるナディアと付き合わなきゃええやん、最初から。アニキの元カノなんて、アニキに知られたらヤバい、と分かるでしょ? でも、シモーネにばれた後、ロッコはこんな言い訳をするんです。

 「だって、もう終わったことだろ? 2年も前の話だろ?」

 極めつけは、あなたをレイプした男とよりを戻せ、とナディアに言い放つ。 

 、、、やっぱり、私は、ロッコは頭悪いと思いますね。いくら清らかな精神を持っているか知らんが、やはりムイシュキン同様、オツムが弱いとしか思えません。ここまで人の気持ちに鈍感になれるなんて、恐ろしいです。

 容姿が並以下でも、精神性が俗でも、私は頭の良い人の方が好きだわ。



(そのにつづく)





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若者のすべて(1960年)~その①~

2017-01-06 | 【わ】



 1955年の冬、南部から、主を亡くしたパロンディ家の母親と4人の兄弟が、貧しさから脱却するべく、北部ミラノに住む長男を頼って出て来た。

 しかし、同じ兄弟でも、故郷を捨てきれない者、都会に順応する者とに分かれ、また、子離れできない母親の激しい執着や、美しい娼婦との出会いや恋愛等が相まって、家族の間に亀裂が生じ、次第に埋めがたい溝となって行く。

 一家のミラノでの生活は決して楽にはならないばかりか、崩壊へと向かうのである。
 
 
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 ちょっと、本作について書くには1回じゃ書き切れないので、3回に分けることにしました。


◆武蔵野館でのヴィスコンティ特集

 現在、「ルキーノ・ヴィスコンティ-イタリア・ネオレアリズモの軌跡―」と題して、新宿武蔵野館でヴィスコンティ特集を行っています。本特集で上映されるのは『若者のすべて』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『揺れる大地』の3作品。

 ちなみに、新宿武蔵野館は昨年の夏から秋にかけて一時閉館し、大規模改修を行っておりました。今回、どんくらい変わったのかしらん、とちょっと楽しみに行ったのですが、まあ、基本的な作り(スクリーンの配置や受付・トイレ等の配置)は以前と全く変わっておらず、内装が綺麗になって、劇場の椅子が新調されていました。しかし、いかんせん、座席の傾斜は以前のままなので、座る位置を間違えるとスクリーンが見づらいという点は改善されていなかったです。もう少し傾斜をつけてくれるとありがたいんですけどね、、、。まあ、あのビルの作りからいってそれはムリな望みなのは分かるんですが。一番大きなスクリーンの部屋は入っていないので分かりませんが、多分同じでしょう。


◆映画友の逆鱗に触れてしまった!
 
 以前、『地獄に堕ちた勇者ども』の感想で、「お高く留まった映画」だの「単に耽美ってだけじゃなく、選民意識の匂いを嗅ぎ取る」だのと、罵りの文言を思うがままに書いたのですが、ほぼそれと同じことを、愚かにもヴィスコンティ好きの映画友に話したら、どうやら逆鱗に触れたようで「『若者のすべて』を見てから言え!」とぶった斬られました。

 映画友曰く、『若者のすべて』を見れば、自分のヴィスコンティ評がいかに浅薄で本質を見誤っているかが痛いほど分かるはずだ、とのこと。

 ……まあ、そこまで言われれば見ない訳にも行きません。素直に見てみることにしました、しかもスクリーンで。


◆けたたましくて恐ろしい母親

 映画友の言葉に対する自分なりの答えは後述するとして、まず内容に関する感想から。

 イタリアは、ヨーロッパの中でも母子密着が強く、マンマが強いらしい。うろ覚えですが、ヨーロッパでは、イタリアの引きこもり率が高かったはず。そもそも“引きこもり”が可能なのは、大人になっても親の家から追い出されずに住み続ける文化がある場合だそうで、早くに自立を促される国では引きこもりではなく“ホームレス”になるとのこと。そういう意味で、日本や韓国での引きこもりは非常に多く、ヨーロッパではイタリアに多い、という調査結果が出ているのだとか。

 本作を見て、その話が改めて説得力を持って私の脳裏に蘇りました。なるほどなぁ、、、と、パロンディ家を見ていて納得です。

 ミラノに出てきた4人の息子のうち、末っ子(五男)のルーカは子どもですが、あとの3人は(四男のチーロは夜間大学の学生)皆大人です。イイ大人が3人も母親と一緒の部屋で寝ているっていう光景だけで(家が狭いからというのもあるけど)、ちょっとギョッとなりました。

 母親のロザリアがですね、、、いろんな意味で怖いんです。とにかく、喋り方がけたたましい。声が異様に大きくて、まさしく機関銃のごとくまくし立てる。そんなにがなり立てなくても会話はできるでしょ、と言いたくなるけど、あれが多分彼女の普通の喋り方なんでしょう。正直、同じ空間にいるのが苦痛になりそうな女性です。

 ただ、この母親像は、長男ヴィンチェンツォの婚約者ジネッタのお母さんも非常に似ているので、マンマの割と普遍的な像が描かれているのかも、と感じましたが、どーなんでしょうか。

 仕事に行く大のオトナの息子たちに、やれ早く朝食を食べろだの、やれあの上着を着ろだの、とにかく世話を焼きまくる母親。その一方、ドアの呼び鈴が鳴ると息子に「ちょっと出て」などと言って甘える母親。

 ……嗚呼、子に母親が執着して、子が幸せになる話って見たことがない、、、、と序盤で既に先行きを想像して暗澹たる気持ちに、、、。

 序盤の想像どおり、最後まで、生活の全てが息子たち中心に動いていました、この母親は。他にはなーんにもない。ホントに何にもないのです。夫が亡くなって、なおかつ、そういう時代だったとはいえ、それがますます恐ろしい。


◆パロンディ家の三男ロッコ=アラン・ドロン

 本作の原題は、“Rocco e i suoi fratelli”。つまり、ロッコとその兄弟。

 そのタイトルにもなっているロッコとは、パロンディ家の三男で、演ずるのはアラン・ドロン。本作は、このロッコと、二男シモーネの話を軸に進みます。

 ミラノ移住後もなかなか定職が見つからない2人。ボクサーを目指すようになったシモーネと、バイト(?)するロッコですが、この2人が、時間差はあったとはいえ、一人の同じ女性を愛してしまうことから話がどんどん深刻な方向へ。

 その女性は、ナディア(アニー・ジラルド)という美しい娼婦。シモーネは適当に遊ばれて捨てられるのだけど、2年後に再会したロッコとは真剣に愛し合うようになるのですよ。で、それを知ったシモーネは激怒するというわけ。

 激怒して、シモーネがとった行動が、まあ一言で言えばサイテーです。ロッコとナディアのデート現場に手下数人を引き連れて踏み込み、ロッコの目の前でナディアをレイプする、、、んです。

 もうね、、、見てられません、このシーン。もちろん、レイプの凄惨さもあるけれど、ロッコのとった行動が???なんです。「やめろ~~!」って叫ぶけど、体当たりしてでも止めようとはしないのね。おまけに、この事件の後日、ロッコとナディアは教会の屋上で会うのですが、その時、ロッコがナディアに言う言葉が目(字幕)を疑うものなのです。

 「兄さん(シモーネ)はまだ君を愛してる。兄さんには君が必要なんだ。だからまた兄と一緒になってほしい。僕はいなくなるから」(セリフ正確じゃありません)

 私は、正直、ナディアがこの時、教会の屋上から飛び降りてしまうんじゃないかと冷や汗が流れてドキドキしながら見ていました。それくらい、ナディアを絶望させるロッコの言葉です。幸い、ナディアは飛び降りることなく、泣きながら走り去るだけでしたが、、、。

 シモーネとナディアは、肉体的・物理的にはよりを戻すのですが、ナディアの心はシモーネを絶対的に拒否し続ける。それが許せないシモーネは、遂に、彼女を刺し殺してしまう、、、。

  ロッコの不思議さは、その後の展開でさらに度を極めて行きます。際限なく堕落していくシモーネの姿に、そうさせてしまったのは元はと言えば自分のせい(ナディアと付き合ったこと)だと嘆き、とことんシモーネのために犠牲になる道を選びます。シモーネよりもボクサーの才能があったロッコは、シモーネの多額の借金を返すため、ボクサーとしてジムと10年契約を結ぶんです。10年間ボクサーが大金を稼ぎ続ける、、、あまりにも非現実的です。

 愛する女性を目の前でレイプしたシモーネを赦し、多額の借金をしてそれをロッコに肩代わりさせたシモーネを赦し、挙句の果てにはナディアを殺してしまったシモーネさえ赦そうとするロッコ。

 ……ロッコよ、あなたは一体、何なんだ? 白痴か神か。




(そのにつづく)




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わらの犬(1971年)

2016-07-26 | 【わ】



 アメリカでの暮らしに嫌気のさした宇宙数学者のディヴィッド・サムナー(ダスティン・ホフマン)と、妻エイミー(スーザン・ジョージ)は、エイミーの故郷であるイギリスの片田舎の村に引っ越した。

 これで、穏やかに研究に打ち込めると思っていたディヴィッドだが、田舎ゆえのムラ社会的な人間関係や風土と、自らの信念である非暴力主義の相互作用により、だんだんと村人たちから侮られ、嫌がらせをされるようになる。非暴力主義のディヴィッドはやり過ごしていたのだが、そんなディヴィッドにエイミーは次第に不満を募らせ夫婦の関係も微妙に悪くなって行く、、、。

 ある日、ディヴィッドとエイミーは、教会の催し物からの帰り道、精神障害を持つ村の男ヘンリーを車で轢いてしまう。慌てた夫婦は自宅にヘンリーを連れ帰る。が、ヘンリーは、少女を誘拐したと誤解されて村のならず者たちに追われている身だった。ディヴィッドの家にヘンリーがいると知ったならず者たち5人が、ヘンリー奪還のためにやってくる。

 恐れをなしたエイミーは、ヘンリーをならず者たちに引き渡すようディヴィッドに懇願するが、非暴力が信条のディヴィッドはそれを拒否。ならず者たちを我が家へ一歩たりとも入れるものかと、徹底抗戦に打って出る。

 そして、遂にディヴィッドが……っ!!

 (いつものリンク先であるWalkerは、あらすじに明らかな間違いがあったので、今回はWikiにしています)


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 なんと、今さらですがペキンパー作品デビューです。あんまし興味なかったというか、、、食わず嫌いだったというか、、、。TSUTAYAでレアものだったので、リストのトップに置いておいたら、タイミングが良かったのか送られてきましたので、見てみました、、、。


◆怒りを表すことが恥だと思っているディヴィッド

 普段、周囲から嘲りの対象だった人物が、ろくに抵抗も見せずに内心は怒りのマグマを最大限まで溜めた挙句に暴発する……、ってこれは、あの「津山30人殺し事件」と構図は同じじゃないですかねぇ。暴発の仕方がちょっと違いますけど。理不尽に対する怒りは、ある程度はきちんと感情として表出させ解消していかないと大変なことになります、という典型で、本作もまさにそれを描いた映画です。

 まあ、ただ、困ったことに、本作のデイヴィッドもそうだけど、こういう人たちは大抵、自分の感情を自覚できていない、言語化して認識できていないんではないかと思われるんですよね。理不尽なことをされてモヤモヤした感情はあるけれどもそれが怒りだと認識できない、あるいは敢えて認識することを避けている。怒りを制御することは往々にして難しいわけで、特に、デイヴィッドは怒りを表すことを恥だと思っている節もある。なぜなら彼の信条は非暴力であるから。怒りを相手に伝えることは恥でも何でもないのにね。

 そして、ある時、その怒りが臨界点に達すると、彼らは自分の感情を言語化して向き合うというステップを難なく飛び越えて、一気にとんでもない暴力行為に訴えて表出させるという、その飛躍が大き過ぎて、一般凡人の理解を超えてしまうのです。

 デイヴィッドは、あの精神障害者のヘンリーを守る使命感に駆られてラストで暴発したわけではもちろんなく、ヘンリーはトリガーに過ぎず、自らの信条に意地になってしがみつくことで、アンコントロール状態に陥っちゃったんでしょうねぇ。インテリに多い気がするんですが、自分の信条を非常事態に陥っても貫こうとする、いや、貫かねばならないという融通の利かなさ。

 ま、自分にきちんと向き合ってこなかった、自分の気持ちを自分できちんとケアしてこなかった、もっと言えば、自分を大切にしてこなかったことによる、当然の帰結でしょう。

 おまけに、ディヴィッドが何度も口にする「ここはオレの家だ」が、さらに彼の人間性を矮小化させて見せるのです。自分の縄張りをほんの少しでも侵した相手を過剰に攻撃する、ヌマチチブみたいなディヴィッド。なんか哀しい。

 とはいえ、あの状況で、どうすれば良かったのか、、、。ヘンリーをならず者たちに引き渡せばよかったのか。なぜ、ヘンリーを家に連れてきてすぐに警察か救急車を呼ばなかったのか、という疑問が残るわけですが。やはり、こうなる前に、ならず者たちにナメられないようにその場その場で手を打っておくべきだった、、、ということなんでしょうけれども。

 私だったら、そもそもヘンリーを家に入れる前に夫に全力で抵抗するかなぁ。エイミーが嫌がるのはよく分かる。でも、入れる段階で夫に嫌だと言わないと、入れちゃってからイヤだって言ったって、外に出す方が難しいよ。こうなったらもう手遅れよね。


◆ヌマチチブと化したディヴィッド

 かくして、ディヴィッドの壮絶な闘いが始まるのですが、火事場の馬鹿力じゃないけど、彼のどこにあんな力があったのか、もうRPGのように、軟弱主人公キャラが弱っちい武器を駆使してならず者たちを一人また一人と倒していく、、、。

 その倒し方が実にディヴィッドのキャラを物語っている。ちまちましていて、理詰めで動く。逃げ出そうとする妻も許さない。なわばりを侵すもの許すまじ!! とばかりに、みみっちいながらも、確実に目的を一つずつ果たしていくあたり、もう、ディヴィッドがチチブに見えて仕方なく、恐ろしい暴力シーンにもかかわらず、なんだか苦笑が浮かんでしまいました、、、。

 ヌマチチブは、ハゼ科の小魚で、ものすごい排他性の強さが特徴です。その侵略者に対する過剰な攻撃は、魚とはいえ憎たらしいというか、まるで可愛げを感じられないのです。

 ダスティン・ホフマンの小柄で唇の薄い顔立ちがまた、いっそう、チチブを連想させ(顔が似ているということではなくて)、もう、早く終わってくれ!!とさえ思っちゃいました。


◆セックスのためだけに配された女の役

 まあ、秀逸な作品だろうとは思いますが、正直、見終わって、何とも言えない憤慨を覚えたのも事実ですね。何でかなぁ、としばらく考えたのですが、多分、女性の描き方が気に入らないんだと思います。

 ストーリーに絡む女性は、ほぼエイミー1人。あとは終盤、ジャニスがヘンリーを誘惑するくらいですね。エイミーはほとんどセックスを体現した存在で、彼女はストーリーにほとんど影響を与えていないどころか、ただただ、男たちの性的欲求の対象としてしか描かれていない。しかも、研究に集中したい夫に相手にされないと自分を持て余して、自分をレイプした相手に自分からしがみついて行くという、とにかく、回りの男もエイミー自身も“セックスのためだけにいる女”という認識なわけです。彼女が主体的になって動く展開はまるでナシ。

 演じているスーザン・ジョージ自身が魅力的なので見られますけど、エイミーという女性はまるで魅力がない人物像です。こんな妻だったら、ディヴィッドでなくても、早晩飽きるでしょう。

 むしろ、出番はちょっとだったし、最後は殺されちゃうジャニスの方が、本作ではキーマンですよねぇ。彼女がヘンリーを誘惑したから、終盤の惨劇が起きたわけですから。


◆ダスティン・ホフマン

 ダスティン・ホフマンという俳優を、私はあまり好きじゃないし、本作を見てもそれは変わらないけど、ディヴィッドはハマり役だったのではないでしょうか。ディヴィッドが、大柄でイケメンだったら、そもそも、あんなならず者たちもおいそれとエイミーを狙ったりはできないでしょ。

 やっぱり、人間、押し出しって大事ですよね、残念ながら。

 

 



ノーブラにセーター一枚で外を歩ける感性が同じ女性として理解不能。




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ワルシャワ、二つの顔を持つ男(2014年)

2015-12-07 | 【わ】



 上記リンク先(そのうちリンク切れしちゃいそうだから)からのコピペです。

 ~~~以下、コピペ。

 第二次世界大戦の終結後、世界は冷戦下に陥った。対峙したのはソ連とアメリカで、軍事力競争はソ連が優位な立場で始まった。1968年、ポーランドの主任軍事高官のリシャルド・ククリンスキは、ワルシャワ条約機構軍のロシア側の作戦計画で彼はある恐ろしい事実を発見する。事態がどんどん悪くなっていっている事に加え、ククリンスキはポーランドが消滅してしまう事を恐れCIAと接触する。そして、CIAはククリンスキに【ジャック・ストロング】のコードネームを与え、そしてジャックは何千もの機密文書を裏でCIAに流し始めるが、それは巨大な危険を意味するのだった。

 ~~~コピペここまで。

 少々分かりにくい部分もあるけれど、すごい緊迫度で圧倒されてしまった、、、。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 何でこのDVDをリストに入れたのか、まるで記憶にない、、、。でも、これは掘り出し物でした。

 『戦場のピアニスト』を見た後、ポーランドという国は、ロシアという国が隣にあったおかげで、イロイロと苦労の絶えない国だったということは聞きかじりましたが、本作もまさに、ソ連(とアメリカ)に翻弄された歴史の一端を描いています。

 原題でもあるジャック・ストロングこと、ククリンスキの評価はポーランドでも未だに「裏切り者or国家の救世主」で割れているとか。でも、本作を見た限りでは、少なくとも裏切り者と断じるのは酷なような気がします。冒頭のコピペにある「ポーランドが消滅してしまう事を恐れ」というのは、ソ連に脅され続ける我が国が、「核戦争の舞台にされてしまう危険性が高い」という極秘情報を知ってしまったということです。

 そんな情報を知って、ソ連の脅しに屈し続ける方が、裏切り者とも言えませんかね。少なくとも、冷戦下において、助けを求めるとすればアメリカしかないでしょう。

 冒頭シーンで仰天したものの、序盤は、背景に全く無知だった私には若干退屈で、眠くなりかけたんですが、いきなりCIAに接触するところでバッチリ覚醒しました。そこから後は、一気に緊迫度が増し、そのままラストまで突っ走ります。特に、亡命シーンは、まぁお約束ですけれども、手に汗握ります。

 スパイって、家族にも何も話さないから、奥さんには浮気を疑われ、子どもには家庭を顧みない独善的な父親の烙印を押され、ホント、報われない。おまけに、職場でも、まさに四方が敵で緊張しっぱなし。極秘文書を持ち出す途中で鉄の扉(?)に顔面激突して鞄を落とし、極秘文書が鞄から飛び出るシーンは、こっちの心臓が飛び出そうなくらい緊張しました。

 ソ連って国は、オソロシイ。ロシアになっても恐ろしいけど、あんな国と地続きなんて、地勢が悪過ぎ。日本もロシアは隣国だけど、海があった!おかげで、どうにか侵略の憂き目に遭わずに済みました、、、。遭いそうだったけど。ソ連のブレジネフ書記長役の人、かなりソックリで感動しました。あと、ソ連軍の高官クリコフとかいうオヤジがキレまくりで怖いのなんの。あんな人、でも、実際いたんだろうな、と想像してしまう。

 ククリンスキを演じていたマルチン・ドロチンスキー(すげぇ名前!)が、ちょっとジェイク・ギレンホールを老けさせた感じに見えて、なかなかイケメンでした(ジェイクがイケメンだとは思わないけど。でもって実際のククリンスキの方がもっとイケメンみたいだけど)。本作の良いところは、彼を英雄視していないところです。普通に周囲にビクビクし、けれど、このまま知らぬ振りは出来ないという思いの狭間で普通に苦悩する男として描いています。

 あと、本筋とはゼンゼン関係ないけど、CIAのオフィスのシーンが何度も出てきて、その壁にデカイ世界地図があるんだけど、なんと、その地図に、日本がない! んだよねぇ。、、、ま、そんなもんなんだろうなぁ、アメリカから見た日本の戦略的地位って。しかも時は冷戦下だってのに、、、。あれ見たら、今なお続く沖縄のゴタゴタが、アホらしくなるんですけれど。ホント、アベベも憲法を取り戻せとか言っている同じ口でアメリカ御大にはヨイショしまくりで、どーなってんのさ。アベベも、アベベシンパも、あれ見て、アメリカにせめてちゃんと怒りなさいよ、と言いたい。軍出て行け、とは絶対に言えないだろうから。

 でも、アメリカの凄いところは、CIAの情報員を囮にして、ちゃんとククリンスキを亡命させて助けたことですね。彼の2人の息子は不慮の死を遂げているらしいですが、、、。


 





マイナーでも素晴らしい作品はあるのだ!!




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