映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ありふれた教室(2022年)

2024-05-19 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85534/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 仕事熱心で正義感の強い若手教師カーラは、新たに赴任した中学校で1年生のクラスを受け持つことに。

 そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発したカーラは、独自の犯人捜しを開始。するとカーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物が盗みを働く瞬間が記録されていた。

 やがて盗難事件をめぐるカーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱、同僚教師との対立を招いてしまう。カーラは後戻りできない孤立無援の窮地に陥っていくのだった……。

=====ここまで。

 ドイツ映画。


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 予告編を何度か見て、何となく見てみようかな、、、と思い、劇場まで行ってまいりました。久々のシネスイッチ銀座。


◆カーラ先生、初動を誤る。

 学校などの閉鎖空間で盗難事件が起きたら、やっぱし監視カメラ設置したら?って考えるわね。イマドキ、教師によるわいせつ、生徒同士のいじめ、盗撮、学級崩壊、、、と、学校を舞台にした問題は枚挙にいとまがないわけで、監視カメラが人権侵害って、どっちが人権侵害だよ??という気がする。監視カメラなんぞ必要ない、というのは、最早ファンタジーなのでは?

 ただ、カーラ先生は、こっそり独断でパソコンの動画撮影をオンにしてしまったのが、まあ、、、勇み足といえば勇み足だったかな。でも、彼女が動画撮影しようとしたのは、生徒が疑われたこともあるけど、その直前に、同僚がコーヒー代を入れる瓶だか缶だかから小銭をくすねるのを目撃してしまったからだ。私がカーラ先生でも同じことしたかも。だって、単純に気持ち悪いし、証拠を押さえようと思うのは普通の感覚ではないか?

 学校に警察権力の介入を嫌う傾向はいずこも同じだけど、こんだけ頻発していたら、警察に届出しても良かったのかも知れん。警察も何ができたか分からんけど、犯人へのプレッシャーにはなるでしょ。

 ただ、カーラ先生、盗難現場が撮影された後の行動が、ちょっと(というか、かなり)マズかったと思う。要は、初動を誤ったということ。

 特徴的なシャツの柄だから、間違いないだろう、、、けど、顔は映っていないし、財布を確実に盗ったかどうかもイマイチあの動画では判別できなかったように見えた。私がカーラ先生だったら、あれだけで本人に問いただすことは絶対しない。人を疑うには、それ相応の確実性のある根拠がなければ、危険過ぎる。あの段階で本人に問いただして良いのは、もっとバッチリ犯行状況が分かり、犯人の顔も判別できる程度の映像である場合に限られるのではないか。

 疑われた女性クーンさんは学校の事務員で、その息子オスカーの担任はカーラ先生だ。クーンさんはものすごい勢いで否定し、自身の子を使ってまで盛大に無実を訴える。私的には、クーンさんは犯人だろうと感じたけれどね。あの激高の仕方とか、あそこまで執拗にカーラ先生を攻撃するとか、我が子をダシにして巻き込むなど、常軌を逸している。誰でも疑われれば怒りを覚えるし、濡れ衣ならなおのことだが、それが濡れ衣でない場合で罪から逃れようとするならば“攻撃は最大の防御”の手段一択だ。

 とはいえ、あそこまで無実を派手に主張されたら、疑った方は圧倒的に不利だよね。ましてや、相手は生徒の保護者。……だからこそ、確実性の高い証拠が必要なわけで、、、。カーラ先生はやはり短慮だったとしか言いようがない。

 けど、対応のまずさは彼女だけでなく、学校も相当マズい。特にあの校長。不寛容方式(ゼロ・トレランス方式)を掲げているんだが、その割に自身の責任は巧妙に回避するという、典型的な“ズルい大人”を体現してしまっている感じである。結果的に、事態は思わぬ方へ転がっていくことになる。


◆追い詰められるカーラ先生だが、、、

 カーラ先生は確かに初動を誤ったけど、その後は、予期せぬ事態の連続にもかかわらず、私はカーラ先生の対処は結構冷静で良かったんではないかと思っている。

 感情的に叫び出す保護者たちにも下手に反論せず、その後、子供たちとギクシャクしても頭ごなしに子供を従わせようとせず、良くないことは良くないと言う一方で、子供たちをなるべく追い込まないようにするなど、彼女の行動原理は生徒目線で割と一貫していたように思う。自分を正当化するために我が子をダシに使うクーンさんより、よほど人格的には信用に足りる人に見えた。

 オスカーはある事件を起こして、10日間の停学処分となるのだが、なぜか平然と登校してきて自分の席に座っている。カーラ先生が「学校に来ちゃダメなの。このまま帰らないと警察を呼ばなければならなくなる」と説得しても、無言のまま頑として席から立とうとしないオスカー。他の生徒たちを別の教室に移して、校長始め他の先生たちと説得するものの、オスカーは動かない。外が大雨の中、母親のクーンさんが迎えに来ても、ハンストよろしく動かない。

 ……という緊迫した終盤の描写で、幕切れは、警察による強制排除である。ただ、その描写がある種喜劇にさえ見えるラストシーンになっている。

 あそこで警察が介入してきたら、結局、校内で起きた一連の窃盗事件にも捜査が及ばざるを得なくなり、クーンさんは息子の行動により窮地に立たされることになるのではないか、、、などと勝手に後日談を想像してしまった。


◆口答え、上等!!

 カーラ先生はポーランド系で、他のポーランド系の同僚にポーランド語で話しかけられると「職場ではドイツ語でお願い」と言う。また、イランだったか、ムスリムの両親が教師たちの前で母国語で会話していると「ここではドイツ語で話してください」と教師に言われる。……という具合に、学校ではドイツ語で話すことを求められる。

 このことを、ネットの感想で「多様性と言いながらおかしい」と書いている人がいたけど、そうなのかね?? ドイツ語がデフォルトの空間で、他にも大勢人がいる場所で、一部の人たちにしか分からない言葉で喋るってのは、逆に不信感を招くだけじゃないかという気がするのだが、、、。
 
 外国の学校が舞台の映画やドラマを見ると、日本の学校との違いに驚かされることが多い。本作でも、カーラ先生の担当は7年生(日本では中学1年生)だが、生徒たちはビックリするくらいに自律性に富み、批判精神が育っており、またそんな生徒たちに教師も手を焼いてはおらず、しっかり対峙している。

 何方かのTwitterに、本作の学校はドイツでも標準的なレベル(つまり特別ハイレベルではないということ)らしいのだが、これこそが“思考力の育っている子供たち”なのでは? 文科省のお役人さんたちに見てもらった方が良いと思うわ。

 正直、同調圧力の強い日本の同年代が、将来、彼らと互角に渡り合えるとは到底思えない。相手が教師だろうが先輩だろうが、おかしいと思うことをおかしいと指摘できることは、ものすごく大事だと思う。日本語には「口答えする」という言葉があるが、大抵は、子が親にとか、生徒が先生にとか、酷い場合は、妻が夫にとかである。これって、つまり、おかしいと思っても、親の言うこと、先生の言うこと、夫の言うことには黙って従え、の裏返しである。「口答えするな」という言葉が発せられる言語体系ってことは、日本語を使う日本人の思考体系でもあり、そういう言語からはなかなか批判的精神は養われにくいだろうな、、、などと絶望的な気持ちにもなった。

 本作は、サスペンス・スリラーとか、ある人はサスペンス・ホラーとか言っているみたいだが、私にはサスペンス要素よりも、教育現場の彼我の差に愕然とさせられた方が大きかった。教育は大事だよ、、、本当に。

 

 

 

 

 


終始、舞台は学校。

 

 

 

 

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人間の境界(2023年)

2024-05-16 | 【に】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85495/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じて祖国を脱出した、幼い子どもを連れたシリア人家族。

 しかし、亡命を求め国境の森までたどり着いた彼らを待ち受けていたのは、武装した国境警備隊だった…。

=====ここまで。

 アグニエシュカ・ホランド監督作。原題は「Green Border」


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 前回の記事「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」を見に行った際に、劇場前にポスターが掲示されていて、よく見たらホランド監督ではないか、、、! ということで、そう言えばこれ見たいと思ってたんだわ! と思い出して、公開直後に見に行ってまいりました。

 ほとんど予備知識なく見に行ったのですが、あまりに悲惨な内容で、メチャクチャ疲れました。


◆ポーランド東西国境の明暗

 私がポーランドに行ったのは、2017年の7月だったが、当時、既にポーランドは右傾化していると言われていた。もちろん、たった2泊でワルシャワを垣間見ただけでは、それが本当かどうかなんて全く分からなかったが、私がフォローしているX(旧Twitter)のアカウントで、おそらくポーランド在住(それも相当の長期間)している日本人の方のものがあり、その方のツイートをずっと拝読していると、それはかなりヤバいと感じるものがあった。

 そのフォロイーの方は、長年、懸念(というか、当時の政府に対する悪口)のツイートをされていて、昨年、選挙で政権交代したときのツイートは、ホッとした感アリアリだった。

 で、本作で描かれているのは、ベラルーシとの国境付近において2021年、つまり極右政党による政治体制だった頃に起きていたことである。ベラルーシの大統領は、あのルカシェンコ。ならば、このような事態が起きていたのも不思議ではない、、、知らなかったけれども。

 冒頭、飛行機内のシーンから始まり、着陸寸前に「ベラルーシへようこそ」とアナウンスが流れる。なぜ、ベラルーシ、、、? と思ったら、それがルカシェンコの巻いた疑似餌であったと分かるのは、しばらく後。乳飲み子を抱える5人家族とアフガンの女性が国境までどうにか辿り着いたと思ったら、なぜかベラルーシから鉄条網をくぐりぬけて追い出される。アフガン女性がスマホで位置確認すると、なんと亡命を希望するポーランドに入国できているではないか! 喜ぶ女性と家族。

 私も、ポーランドに入国できたのなら良かったではないか、、、と見ていて思った。けれど、それは大間違いであった。

 つまり、ポーランド極右政府は移民・難民排斥が基本であり、ベラルーシから不法入国してくる難民は受け入れたくない。だから、ベラルーシに全力で送り返すのである。それはもう、、、酷いやり方で。

 ベラルーシは、というか、ルカシェンコは、、、というか、背後で糸を引くプーチンはそんなことは百も承知。それを狙ってこの移民・難民送り込みを行っているのだ。EU攪乱が狙い。

 プーチン、、、考えることが陰険過ぎる。相当ヤバい奴だとは分かっていたが、なんかもう、タガが外れている感じ。いやでも、これはロシアがウクライナへ侵攻する前の話である。

 ウクライナ侵攻後、ウクライナから逃れた人々をポーランドが大量に受け入れたのは、世界中にニュースで流れた。けれど、その反対側の国境では、同じ国とは思えない方法で祖国から逃れた人々を蹂躙していたことは、日本のニュースではほとんど流れなかった。

 ネットで検索したら、3年前のロイターの記事が出て来た(そのうちリンク切れすると思うので、テキストを貼っておきます)。

[ワルシャワ 2日 ロイター]
 ポーランドは2日、ベラルーシから大量の不法移民が送り込まれているとして、国境の2地区に非常事態を宣言した。
 同国と欧州連合(EU)は、ベラルーシのルカシェンコ大統領が制裁に圧力をかけるため数百人単位の移民をポーランドに送り込んでいると非難している。
 共産主義時代以来となる今回の非常事態宣言では、30日にわたって多人数による集会が禁止され、国境から3キロまでの地域で移動が制限される。
 移民支援団体は、ここ数日で既に該当地域でポーランド警察や装甲車が増えているとし、非常事態宣言により支援活動が制限され移民が打撃を受けるのではないかと懸念を表明している。
 ポーランド大統領報道官は、国境の情勢は「困難かつ危険だ。ポーランドは、国家とEUの安全保障を確保するための措置を講じなければならない」と述べた。
 

◆本作の意義とは、、、

 中盤以降は、この家族や女性たちと同様の扱いをされている人々も大勢登場し、見ているだけで脳みそも気持ちも疲弊するシーンが続く。

 ポーランド国内では、このような人権蹂躙に対して行動を起こす人々も当然おり、しかし、政府は彼らを徹底的に排除しようとする。そんな政府の意向の下に動く国境警備隊の若い男性隊員は精神に支障を来してしまう。難民支援グループに加わった女性も、一時拘束される。正直言って、何やってんだよ、、、という感じである。そこまでして排除しようとした難民たちの人数は、その後、ウクライナから避難してきた人々をはるかに下回るという。

 ネットの感想を拾い読みしたら、こういう描写がホランド監督がポーランド人であるが故の“言い訳”であり、本作の中では“雑音”である、、、という内容がいくつか見られた。

 そんな風に受け止める人もいるのか、、、と驚いた。

 この映画は、政権交代前のポーランドでは上映禁止になったそうだし、ホランド監督も保守派に脅迫されていたという。それでもこの映画を撮ったという事実よりも、ポーランド人でこの事態に心を痛めたり病んだりしている人の描写を入れたことを言い訳とか言っちゃうって、何というか、木を見て森を見ずというか、じゃあどんなんだったら満足だったの? と聞きたい気分。それに、そういう描写だって必要だし、本作では、ポーランドの欺瞞もちゃんと描かれており、たった24日間で撮影したとは思えない重厚な内容だと思うんだけど。

 人間が人間として扱われていない、虐殺が起きているのは、何もガザだけじゃない。本作で描かれていることも、これぞ文字通りの虐殺といっていいのではないか。 

 高校か中学の社会の授業で見せても良いくらいだ。

 パンフレットが充実している、、、というか、ポーランド映画といえばこの方、、、久山宏一氏の論文みたいな詳しい解説が掲載されている。監督の長文インタビューや、ベラルーシ国境に取材で滞在していたジャーナリストのコラムもある。映画のパンフは、やっぱしこうであって欲しいよね。映画ライターや畑違いの監督の感想文なんか必要ない。これで900円なら安いとはいわないけど、高くはない。

 

 

 

 

 

 


Wプーに翻弄される西側諸国、相手にもされていない我が国、、、トホホ。

 

 

 

 

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エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命(2023年)

2024-05-12 | 【え】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85247/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1858年、ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、何者かに洗礼を受けたとされる7歳になる息子エドガルドを連れ去りに来たのだ。

 取り乱したエドガルドの両親は、息子を取り戻すためにあらゆる手を尽くす。世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、モルターラ夫妻の闘いは急速に政治的な局面を迎える。

 しかし、教会とローマ教皇は、ますます揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に決して応じようとしなかった…。

=====ここまで。

 19世紀にイタリアで起きた「エドガルド・モルターラ誘拐事件」をマルコ・ベロッキオが映画化。


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 劇場で何度か予告編を見せられ、こういう“時代物”が好きなので、つい見に行ってしまいました。分かっていたけど、やっぱし宗教は、、、とゲンナリして帰路につきました。


◆どこから見ても“組織的犯罪”

 カトリックを始めとする各種宗教のヤバさは、これまで何度も何度も映画で見て来たので、本作も、正直って驚きはないが、強烈な不快感と憤りを覚え、鑑賞後感はすこぶる悪い。

 これ、どこから見てもれっきとした“拉致誘拐”である。何が、洗礼だよ。額に水掛けただけやんけ……と、信仰のない者は思う。

 ある動作が、それがどんな些細なものであっても、ある宗教ではとてつもなく大きな意味を持つことがあるのは頭では理解できるが、幼い子供を、神の名の下に拉致誘拐までしちゃう根拠となるのは、控えめに言って“狂っている”。

 今、篠田節子著『仮想儀礼』を読んでいるのだが、金目当てでインチキ新興宗教を興した2人の男が、どんどんヤバいカルト沼にハマって行く様がこれでもかと執拗かつ容赦なく描かれており、怖いというより気味が悪い。カトリックとインチキ新興宗教を同列に語るなと怒られそうだが、この映画を見る限り、逆に、どこが違うのか教えていただきたいくらいだ。

 モルターラ家は、敬虔なユダヤ教家庭なのだが、7歳で拉致されて、カトリックの洗脳教育を受けたエドガルドは、結果的には、骨の髄までカトリック教徒となる。死の床にある実の母親に会いに行った中年エドガルドは、ユダヤ教徒として生きて来たその母親にカトリックの洗礼を授けようとする。母親自身も当然拒否し、家族にも阻止されるが、エドガルド自身は大真面目である。


◆不満とかスピルバーグとか、、、

 成長したエドガルドは、時々、奇行を見せる。皆が首を垂れて教皇を迎えているときに、突然立ち上がって教皇に体当たり(てかタックルみたいに見えた)したり、教皇の亡骸が納められた棺を馬車から引きずり降ろして川に投げ込もうとしたり、、、。あれは、洗脳されたものの、迷いが時折現れるってことを描いているのかしらん?

 教皇に体当たりしたことを咎められ、床に舌で十字架を3つ描け!なんて言われて、実践するエドガルドの姿は、何とも滑稽で気分が悪く、正視していられなかった。

 全編を通じて、理不尽に翻弄されたエドガルド自身の内面描写が乏しく、彼が一連の出来事をどのように受け止め、何を考えていたのか、、、は本作ではほとんど描かれていない。それが垣間見えるのが、前述の奇行くらいなのだが、突飛な行動レベルにしか見えず、イマイチ制作者の意図が分からない。

 ただ、パンフを読むと、実際のエドガルドは、教皇に忠誠を尽くしていたものの、内面では葛藤を抱えて苦悩していたらしく、長期間寝たきりになるほどの病気にも見舞われていた、、、のだそう。どうせなら、そういう描写ももう少し入れてくれた方が、映画としては、より奥行きが増したと思うんだけど。

 この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」については、スピルバーグが映画化に挑戦したものの断念した、、、ってのが本作の宣伝文句になっている。あのスピルバーグがっ!とか、箔付けになるのって日本だけじゃない? 知らんけど。

 スピルバーグが断念した理由は、エドガルドを演じる子役を見付けられなかったかららしい。本作で幼いエドガルドを演じていた少年は2,000人の中から選ばれたんだとか。なかなかの演技巧者で驚いた。

 スピルバーグが映画化したら、間違いなく英語で制作されていただろう。この物語を全編英語でやられた日にゃ興ざめも甚だしいので、内容に多少の文句があったにしても、イタリア語でベロッキオが監督してくれて大正解だったと思う。スピルバーグだったらもっと内容が良かったとも思えないしね。

 それにしても、紛れもない拉致誘拐事件であるにもかかわらず、神の名の下ならば、犯罪が犯罪でなくなる謎原理。劇場に貼ってあったクリスチャン新聞を読んで、ますます憤りを覚えたので、参考までに貼っときます。

 

 

 

 

 

 


「洗礼を受けたこの子は、永遠にカトリック教徒なのだ」(盗人猛々しい)

 

 

 

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異人たち(2023年)

2024-05-11 | 【い】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv84006/


以下、公式HPからあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 夜になると人の気配が遠のく、ロンドンのタワーマンションに一人暮らす脚本家アダム(アンドリュー・スコット)は、偶然同じマンションの謎めいた住人、ハリー(ポール・メスカル)の訪問で、ありふれた日常に変化が訪れる。

 ハリーとの関係が深まるにつれて、アダムは遠い子供の頃の世界に引き戻され、30年前に死別した両親(ジェイミー・ベル&クレア・フォイ)が、そのままの姿で目の前に現れる。

 想像もしなかった再会に固く閉ざしていた心が解きほぐされていくのを感じるのだったが、その先には思いもしない世界が広がっていた…

=====ここまで。

 山田太一の小説を映画化。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 公開前から話題になっていた本作。私としては、ジェイミーが出演するので楽しみにしていました。GWに入ってすぐ映画友と見に行って、その後、色々と考えるうちに確かめたいことが出て来てしまい、GW最終日に、再見しに行きました。


~~ネタバレしています。ラストに言及していますので、よろしくお願いします。~~


◆これはゲイ映画か?

 巷では、本作は“ゲイ映画”と言われているみたい(?)なんだが、私には、主人公アダムの、亡き両親との邂逅を通じた再生物語と感じた。……といっても、これは鑑賞直後のもので、その後、時間が経つにつれて、違った解釈もあり得るなぁ、、、と思うに至った(後述)。いずれにしても、ゲイ映画と括るのは違う気がする。

 原作が山田太一の小説で、主人公が情を交わす相手がケイという女性から、ハリーという男性に置き換えられたことで、やたらと“ゲイ”やら“同性愛”がフィーチャーされている感があるけど、原作を読んだ者の印象として、この物語の本質にさほど影響していないと思う。

 その本質とは、両親の突然の死によって封印せざるを得なかった少年時代の自身のアイデンティティとの対峙、である。

 本作は、主人公がゲイであるというれっきとしたマイノリティ要素が加わることで、より“葛藤”が生じ、アイデンティティとの対峙が原作よりもハッキリと輪郭を現した印象だ。

 アダムがしばしば“亡き両親”と会って会話を交わすが、それは、リアルに考えれば、アダムの妄想であり、もっというと、遠い昔に置き去りにして来た両親への思慕と理想がない交ぜになったもの。アダムが、母親に、父親に、それぞれ別々にカミングアウトするシーンは、アダムが脳内で想定している両親の反応であり、半面、願望でもある。

 「今、両親の物語を書いている」、、、とアダムはハリーに語っていた。生前の両親の写真や、少年時代の自身の写真、当時の家の写真などを見ているうちに、彼の意識が両親との邂逅を呼び寄せたのではないか。自分でも、妄想や脳内の物語には思えないほどリアルに感じ、両親の体温を肌で感じていた、、、のだろう。ある種のトランス状態というのか。

 そう考えると、そんな状況で情を交わすハリーの存在がリアルであるはずはないのだが、本作を見ていると(原作もだけど)、ハリーとの恋愛はリアルなお話かと錯覚してしまうし、人情として、そうであって欲しい、それでアダムが少しでも癒されて欲しいと思ってしまう。そうして、終盤で打ちのめされるのである。

 けど、原作は、ラストが主人公の未来を感じさせる、読後感が意外に爽やかなのに対し、本作は、打ちのめされたまま、さらに哀しい結末を予感させられて終わり、鑑賞後感は重く辛い。

 ……この違いは何なんだろう??


◆ラストシーン、、、え??

 鑑賞後、数日経ってから、妙に気になりだしたのがあのラストである。ベッドで、アダムと異人のハリーが抱き合ったまま星になる、、、というあのラスト。

 原作を読んでいたから、当初はそれに引っ張られていて、アダムはまた孤独に戻ってしまったのだな、原作よりさらに救いがないな、、、などと思っていたのだが、よくよく考えると、あのラストは示唆的だったのではないか、、、と。それで、本作の原題を改めて思い出し、やはり示唆的なのかも知れない、、、と。

 何を?

 つまり、アダムも異人である、、、ということ。

 本作の原題は“All Of Us Strangers”である。直訳すると“我々皆異人”。……はて???(朝ドラの影響じゃないですヨ) やっぱしそういうことじゃない?

 本作の登場人物は、アダムとハリー、あとはアダムの亡き父母の4人だけである。明らかに異人として描かれているのが、アダム以外の3人。このほかにアダムが直接言葉を交わす人物はいない。つまり、本作内で、アダムがリアルの世界で交わっている人は、いないということになる。

 ……とまあ、普段はあまりやらない読み解きみたいな感じになってしまったけれど、あのラストはそういう風にも見えるよなぁ、、、と一旦思ってしまったらそれが頭から離れなくなってしまい、そうすると、細部がイロイロ気になってしまった。

 ジェイミー演ずる亡き父との最初の邂逅はどんな流れだったっけ? ハリーと2度目に会ったときはどんなだった?? とか。

 なので、2度目を見に行ってしまった。

 で、結論から言うと、アダムも異人と考えてもゼンゼン矛盾はないな、、、ということ。でも、アダムだけはリアルと見ても問題ない。ある意味、巧く作っているなー、と。

 個人的には、アダムも異人だとする方が何となく好きかな。んで、あのほぼ無人のタワマン自体が、実は虚構なのだった、、、と。というか、あのタワマン、よく見ると何となく牢獄みたいにも見える。アダムの心象風景と思えば、それも納得できる気がする。つまり、タワマンには本当は普通に人が住んでいるのだけど、異人が2人いた、、、とね。これって、もしかしてホラー??

 これは原作を読んだときも感じたのだけど、異人は、異人同士で「あいつは異世界の者だ」と分からないもんなのかね??ということ。で、原作は、そういう風にも読めるのだ。原作で、主人公が亡き両親との初めての邂逅を果たすのは、ケイが亡くなって異人として主人公と交流し始めた後である。そして、原作の主人公は、確実にリアルの人間である。だから、私は、勝手に、異人のケイから生きている息子を守るために、亡き両親が現れたのかも知れない、、、などとセンチなことを考えてしまったのだ。

 でも、本作は、亡き両親はハリーを見ても「良さそうな人」などと言っているだけである。……てことは、これは、もしかすると異人界の話なのではないか。登場人物全てが異人だと解せば、辻褄が合う。

 んで、そう考えれば、このラストはハッピーエンディングである。鑑賞直後の印象と180度変わってしまうが、それはそれで良いと思う。

 はたして、見た人たちはどう受け止めたのかしらん?


◆ジェイミーとか

 本作を見に行った最大の目的は、そらなんつっても“おっさんになったジェイミーに会いに行く”でありました。

 彼は「リトル・ダンサー」でデビュー以降、コンスタントに映画出演している。まあ、割と何でも出ている感があるが、本作のような味わい深い、地味ながら演技力を求められる良作にも出演している。

 本作でも、主人公より若い亡き父親を好演していた。自分よりおっさんになった息子に「何で部屋に入って来てくれなかったの?」と問われて「オレもお前がクラスメイトだったら、お前をいじめていたと思うから」(セリフ正確じゃありません)と答えるときの何とも言えない表情や、息子に詫びる前にレコードを止めて、「部屋に入らなくて悪かった。泣いていたのも知っていた」と懺悔するシーンは、2度見て2度とも号泣しました。

 思うに、本作を“ゲイ映画”と見るか“親子の物語”と見るかは、見る人の過去に大いに関係あると思う。

 私は、今さら両親と和解したいなどとは1ミリも思っていないけれど、アダムとは形は全く異なるものの、両親との関係が“断絶”していることは同じである。いくら好まざる親といっても、自分をこの世に生み出した存在と断絶しているという事実は重い。だから、アダムが、あのような幻影を見るまでに両親の愛を渇望している姿を見るのは、正直辛い。なぜなら、アダムは両親亡き後でもまだ、親の愛を期待しているからである。私のように、親への期待を捨て去った者からすると、それは、まさしく“青い鳥”以外の何ものでもないようにしか思えないのだが、しかし、そんなアダムを“イイ歳して、、、”と嘲笑する気になど毛頭なれない。アダムが両親と断絶したのは、12歳なのだから。それが例え、20歳でも、40歳でも、きっと同じだろう。親への期待を捨てることが、子にとってどれほどの痛みを伴うものかは、(この言葉はあんまし好きじゃないが敢えて使っちゃう)「経験した者にしか実感できない」はずである。

 なので、そんなアダムの青い鳥を、実在するものとして見せてくれたジェイミーの演技は、ジェイミーの長年のファンというのを抜きにしても、胸に刺さるものがあった。良い役者になったね、ジェイミー。遠縁のオババは嬉しくて涙がチョチョ切れたぞよ。

 主演のアンドリュー・スコットは、さすがの演技。ポール・メスカルも巧い。亡き母親を演じたクレア・フォイも良かった。邦画版で亡き両親を演じた鶴太郎&秋吉久美子も良かったが、ジェイミー&クレアも雰囲気は全然違ったけれど、素晴らしかった。

 最後に、ステキな画像をネットで見つけたので貼っておきます。

 


 

 

 

 

“Always on My Mind”(ペット・ショップ・ボーイズ)の歌詞が沁みる。

 

 

 

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推し活レポート◆2024.Mar.& Apr.

2024-05-05 | 推し活

◆3月13日 第544回日経ミューズサロン 山下愛陽ギター・リサイタル ~ゲスト=金川真弓~ @日経ホール

 日経がこんなリサイタルを定期的に開催していたとは知らなかった、、、。そういうわけで、当然、日経ホールも初めてなんだが、多目的ホール(音楽のための専用ホールではない)で、椅子もセミナー仕様みたいなのだし、内装も事務的な感じで安っぽく、始まる前から気分も盛り下がる。席は前方右側。

【プログラム】
 ジョン・ダウランド/ラクリメ(涙のパヴァーヌ)
 ビセンテ・アセンシオ/神秘的な組曲  ゲッセマネ、ディプソ、ペンテコステ
 フェルナンド・ソル/奇想曲「静けさ」作品50
 ベンジャミン・ブリテン/ノクターナル作品70
 フランシスコ・タレガ/アルハンブラの思い出
 J.S.バッハ(山下愛陽編曲)/無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004 より「シャコンヌ」
 ウジェーヌ・イザイ/無伴奏ヴァイオリンソナタ第4番 ホ短調(※金川ソロ)
 アストル・ピアソラ/「タンゴの歴史」より 売春宿 1900-、カフェ 1930-(※デュオ)

 金川さんはゲストなので、出番は後半のイザイから2曲のみ。山下さんとは個人的にも親しい様で、金川さんのTwitterにも一緒に映った画像がアップされていたが、私は山下さんのことは全然存じ上げなかった。

 ギターはあまり詳しくなくて、パコ・デ・ルシアのアルバムを大昔に当時の職場の先輩に勧められたのが切っ掛けで、ちょっとずつ聴くようになった。これまでライブで聴いたことがあるのは、福田進一、大萩康司、鈴木大介、徳永真一郎、カニサレス、、くらいだと思う(村治佳織さんも聴いたような気がするが、ちょっと記憶違いかも)。福田さんはもちろんだけど、大萩さんのアランフェス(N響)は素晴らしかったし、ギターはクラシックに限らず好きな方だが、あまり積極的に聴いて来たとは言い難い。

 そんな程度の耳しか持っていないのだが、正直なところ、前半の山下さんの演奏は少し退屈だった(眠くなったし)。技術的なことは分からないが、表情が乏しいかなと。あんましエモーションを感じなかったというか。これは私に受容体がないだけかも知れないが、まあ率直な感想だから仕方がない。

 で、後半、金川さんのイザイのソロから始まり、休憩を挟んだこともありバッチリ覚醒。

 無伴奏で金川さんの美音を堪能。この曲は加藤知子さんのCDで時々聴いていて、加藤さんの演奏も素晴らしいのだけれど、この日の金川さんも圧巻。無伴奏って、聴いている方もかなり緊張するのだが、彼女の無伴奏は本当に美しい。

 山下さんとのデュオ、ピアソラは、イザイとはガラリと変わって、リラックスして聴けた。ギターとバイオリンというと、昨年の7月に浜離宮ランチタイムコンサートで、徳永真一郎とのデュオを聴いたけど、個人的には昨年のリサイタルの方が楽しかったかなー。その時の無伴奏(ビーバー:パッサカリア)がこれまた涙が出そうなほど感動的な演奏だったのよ、、、。

 アンコールはデュオと山下さんの歌付ソロだったが、山下さんは声楽も学んでいるらしい。なかなかの美声だった。

 まあでも、、、満足度的には低めだったかな、、、ごーん。


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◆3月16日 金川真弓&小菅優 デュオ・リサイタル @彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール

 この会場は、音楽ホールだけでなく、演劇ホールなどもあるらしく、友人が大分前に蜷川の何かの舞台を見に行ったと言っていた。そのとき、友人が誘ってくれたのだが、私はあんまし蜷川さんのこと好きじゃないので行かなかった。結局、ニナガワ舞台は一度も見ずに終わったなぁ。

 で、長らく大規模改修工事をしていたらしいのだが、このほどようやくそれが終わって、3月にリニューアル・オープン後の初の公演が、このデュオ・リサイタルとのこと。

 というわけで、初ホールに行くのはワクワクします。駅から会場まで一番分かりやすい道を行くと街路樹もない大通り沿いを延々歩くことに。この時期はまだよかったけど、真夏はキツ過ぎる、、、と思いながらてくてく10分ほど歩く。

 

【プログラム】
 モーツァルト:きらきら星変奏曲 KV 265(ピアノ・ソロ)
 ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 作品30-2
 イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 作品27-4(ヴァイオリン・ソロ)
 ファリャ:7つのスペイン民謡
 プーランク:ヴァイオリン・ソナタ

 最初は、小菅さんのソロから。小菅さんの演奏を聴くのは初めて。輪郭のハッキリした、それでいて柔らかさもある音。ホールの音響もキンキンしなくてまあまあ良さそう。席は2階席真ん中で、バランスも良い感じ。

 2曲目から金川さん登場。ベートーヴェン、、、2楽章が絶品。ピアノとの息もピッタリ。

 休憩を挟んで、3日前に聴いたイザイがまた聴ける~と楽しみにしていたところ、金川さんがマイクを持って話し始めた。この後のファリャからプーランクへの流れとして、ロルカの詩を詠む。プーランクのヴァイオリンソナタが、あのジネット・ヌヴーの依頼によって書かれたことなど、曲の背景なども割と長めの解説。前から感じていたけど、金川さん、演奏する曲についてよく語るお方だ。最近のアーティストは、SNSなどでも積極的に発信しているから、一昔前のアーティストのイメージとは大分違うよね。まあ、ファンとしては彼女の素の語りが聴けるのは嬉しい限り。

 ちなみに、ロルカの詩、恥ずかしながら読んだことないので、金川さんの詠む声を聴いてそのまま流れて行ってしまったので、後から検索したところ、詳しく書かれているサイトを発見。金川さんの演奏動画(事務所の公式HP)もあるので、貼っておきます♪

 で、マイクを置くと、イザイへ。

 ……これが、3日前にも同じ曲を聴いていたはずなのに、何かこう、、、違って聴こえるという、、、。やはり、リサイタルやコンサートは、会場やら聴衆やらもろもろの雰囲気ももの凄く大事だと改めて実感。とにかく、このイザイが凄過ぎて、終わった後の拍手が起きる前に、客席からどよめきが起きたほど。いや、これ、私も涙が出そうになって、思わず唸ってしまったもんね、、、。実際、泣いている方もかなりいた。分かる、分かるわ~~。

 その後の、ファリャもプーランクも、とにかく素晴らしかった!としか書きようがなく、、、。ボキャ貧なのでスミマセン。

 小菅さんとの共演は、来月にもあるので、楽しみだ。

 

(右の画像はお借りしました)

 

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◆4月5日 読売日本交響楽団第637回定期演奏会 @サントリーホール

 バルトークを金川さんの演奏で聴けるなんて!! 絶対聴かねば!!! とチケット発売日を1週間後に控えた頃に、夫の海外赴任に帯同していた友人が帰国したので3年ぶりくらいに会った。彼女に、私が金川さんの追っ掛けをしていることを話したら、「聴きたい!!」と言ってくれたので、んじゃあ2人分チケット取るべ!と頑張って(いや、頑張らなくてもゼンゼン取れたんだが)取りました。

 誰かとコンサートに一緒に行くなんていつ以来かしらん??というくらいに久しぶり。こういうコンサートは一人で行くに限るといつもは単独行動がほとんどなんだが、たまには誰かと分かち合うのも良いもんだ、としみじみ感じました。

【プログラム】
 マルティヌー:リディツェへの追悼 H. 296
 バルトーク : ヴァイオリン協奏曲第2番 BB 117
 メシアン:キリストの昇天

 それにしても、なかなか尖ったプログラムで、マルティヌーの曲は初めて聴く。が、実に感動的だった。ナチスによって僅か一日で消滅してしまったチェコの村リディツェへの追悼として書かれた曲だが、静謐な美しさに満ちた曲。

 指揮者のシルヴァン・カンブルランによれば、金川さんからバルトークの2番を提案されたので、それに合わせて、他の2曲をプログラムしたとのこと。……ふむ。

 で、2曲目はお目当てのバルトーク。序盤、ちょっとオケと合っていない??と感じる部分があったのだけど、1楽章の中盤からは凄まじい集中力。民族舞踊的な独特のメロディラインも実に魅力的で、あっという間に終わってしまった……!

 終わった瞬間に、友人と一緒にため息が出てしまい、思わず顔を見合わせた。「何か鳥肌立ってる……」と友人が言っていたけど、本当にこの人は一体何者??というくらいに、隙の無い演奏で拍手よりもため息が先に出た感じ。

 ソリスト・アンコールはなし。まあ、あんなもの凄い演奏聴いた後では、むしろアンコールはない方が良い。

 その後、休憩中にワインを飲んだ友人は「金川さんのお父さんと思しきお方がいらしたみたい?」と言っていた。あんなスゴい娘さんを持って、御父上も幸せだ。

 メシアンは、あんまし得意じゃないんだけど、やはりライブで聴くとグッとくるものだなぁ、、、。この曲に限らずだけど、金管楽器のコラールって美しい。1楽章とか、聴き惚れてしまった。

 大満足で、友人とも感動を分かち合えて嬉しく、傘を忘れて来てしまった、、、というオチ付き。あー、ステキな夜だった!

 

 

 

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No.10(2021年)

2024-05-03 | 【な】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85397/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 幼少期に記憶を失い、森に捨てられ、里親に育てられたギュンター。

 大人になった彼は舞台役者として生計を立て、共演者と不倫、一人娘は肺がひとつしかない突然変異だった。役者仲間の裏切りによって残酷な仕打ちを受けるギュンターは復讐を誓う。

 だがその先に、とてつもない驚愕の事実との対峙が待っている。

=====ここまで。


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~~本作をご覧になる予定の方は、一切の予備知識なく見ることをオススメします。以下、ネタバレはしておりませんが、読まない方が良いです。~~


 新聞か何かの評で見て、面白そうかなー、、、と思って劇場まで見に行ったのだが、、、。

 見終わった直後の感想としては、「世の中の大抵のことはどーでもええんやな、、、」でありました。今もあまり変わっていないけれど、正直言うと、こういう作りの映画はあまり好きではない。内容の好き嫌いではなく、制作姿勢というか、その志に好感を持てない、と言った方が良いかな。

 本作は、前半と後半で全く別の作品かと思うくらいに、後半の展開は“唐突”である。そりゃもう、ドン引きするくらいにね。

 実は、前半は結構面白くて目が離せなかったのだ。ギュンターが不倫した相手というのが、彼の属する劇団の演出家(つまりは結構エラい人)の妻である女優。その不倫を見破るのが劇団でお荷物的存在だった中年男優で、彼が演出家に、妻とギュンターが「デキてる」とチクるわけ。大人げない演出家は、冴えない中年男優と、主役を演じていたギュンターの配役を入れ替えるという報復に出る。報復にブチ切れたギュンターのとった、これまた大人げない暴挙が、驚くような、まさに“暴挙”(中年男優の足に釘を打ちこむ)、、、という具合に、なかなかのドロドロ劇が劇団内で展開する。

 さらに、どうやらこのギュンターの一連の行動は、常に何者かに監視されている様なのである。さぁ~~、これからどうなっていくんだ?と、観客の好奇心を思いっ切り盛り上げ、、、

 、、たところで、観客はまったく違う世界に連れていかれ、しまいには置き去りにされるのである。

 そらねーべ、監督さんよぉ。

 あの不倫相手はどーなったん? 足を釘打ちされたあの中年男はどーなったん?? 演出家は??? 劇団は???? という観客の脳内に無数に浮かぶ??は、増殖する一方である。

 それに対し、おそらく監督の本音は、「は? 何でオレがおめぇらのそんなくだらない疑問に答えにゃあかんの??」とかではないか。おまけに、終盤は一気に宗教色が濃くなり、ラストシーンなど、まんま、、、、である。

 映画の話法に正解はない、、、のだろうから、こういう作品の存在価値を否定はしないけれども、これが良しとされるなら、ストーリーとか構成とか整合性とか、それらは全て無視してよい、という話にもなりかねない。

 ……というわけで、貶しているように見えるかもしれませんが、実は、貶す気はあまりなく、何ともヘンな気分なのである。こんなのありかよ?と思う半面、こんなのもありなのか、という矛盾した感覚。前半と後半が別ものの様で、別ものとも言い切れない。それだけ、やはり監督の手腕が長けているということなのかねぇ?? 分からん。

 ただまあ、本作は、このトンデモなオチを面白がれるか、白けるか、で評価は分かれるでしょうね。私は、どっちかというと白けたクチなんで。

 久しぶりに、正真正銘“スゴいヘンな映画”を見ました。
 

 

 

 

 


キーワードは“ルナボー”。

 

 

 

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