映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

そして父になる(2013年)

2019-01-07 | 【そ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 学歴、仕事、家庭といった自分の望むものを自分の手で掴み取ってきたエリート会社員・野々宮良多(福山雅治)。自分は成功者だと思っていた彼のもとに、病院から連絡が入る。それは、良多とみどり(尾野真千子)との間の子が取り違えられていたというものだった。6年間愛情を注いできた息子・慶多が他人の子だったと知り、愕然とする良多とみどり。

 取り違えられた先の斎木雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)ら一家と会うようになる。

 血のつながりか、愛情をかけ一緒に過ごしてきた時間か。良多らの心は揺らぐ……。
 
=====ここまで。
 
 
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 是枝作品はあんまし得意じゃないんだけど、年末にBSでオンエアしていたので、今さらながら、録画して見てみました。


◆弱者目線は分かるけどさぁ、、、

 福山演ずる良多みたいな父親、その辺にいると思うわ。世の妻たちも「うちの夫みたい……、ルックス以外」と思いながら見た人、多かったんじゃないのかしらん。それくらいリアリティのある人物造形。一方、妻のみどりはちょっと古風よね。夫にあまり物申さない妻、子どもには優しいお母さん。まぁ、今時の女性にしてはちょっと弱いかなという感じもするが、こういう女性ももちろんたくさんいるでしょう。

 赤ちゃんの取り違えなんて、もう、悲劇的としか言いようがないんだけど、本作は、是枝作品にしては全般に暗くない感じで、深刻なテーマを深刻すぎずに、でも真摯に描いているのは好感を持てた。

 ただね、、、ちょっと、野々宮家と斎木家のコントラストが強すぎて、この辺がこの監督の、なんというか、良く言えばカラー、悪く言えばワンパターンかなという感じは否めない。

 確かにそうした方が分かりやすいし、ドラマ性も出しやすい。けれども、裏を返せば安易だとも言える。

 私が最も安易だと感じたのは、6年間育ててきた慶多が、斎木家に懐いてしまい、良多は、実子である琉晴からも慶多からも“ダメ父”の烙印を押されることになったという展開。

 是枝氏の立ち位置は常に弱者目線であることはよく分かる。だから、格差の上下でいえば、明らかに下として描いている斎木家の方が、子どもにとっては“生き生きと”生きられる環境である、とするのは、彼のポリシーから言えば当然の帰結だろう。でもね、世の中の現実は、正直ベースで言うと、経済的に余裕のある子も“生き生きと”生きているし、貧しい家庭は精神的にも親に余裕がないから家庭が荒みやすく、“生き生きと”生きられない子どももいるんだよ。

 是枝氏は、やっぱり、琉晴が野々宮家にあっさり馴染んでしまい、慶多が斎木家から逃げ出してしまう、という難度の高い展開に敢えて挑戦すべきだと思う。それをやらない所が、何となく志が高いとは感じられないように思われて、手放しで好きと言えない。

 ハッキリ言って、私が子どもなら、斎木家よりも野々宮家の方が断然良いわ。家はキレイだし、経済的には恵まれているし。私はそもそもインドア派だから、リリー・フランキー演ずる雄大みたいなパパは迷惑この上ない。子どもの元々持っている性質もあるし、慶多があそこまであっさり斎木家に馴染むのも、少々違和感あるわ。子どもは慣れるのが早いとはいえ、子どもだからこそ馴染めない、理屈では受け容れられないものも必ずあると思うのよね。

 それなのに、良多はバツで、雄大はマルって、まるでシロクロ付けるみたいに描き分けるのは、あんまりだと思う。

 ここまで類型的に両家を描き分けるのは、ある意味、タワマンに住むエリート一家に対しても、町の電気屋さん一家に対しても、かなり失礼であるとも言えるのでは? 

 ……などということを感じながら、見終わってから、本作のベースになった実話をネットで読んだら、実話では、経済的に恵まれた「野々宮家(仮)」に、「斎木家(仮)」で育った子が懐いてしまい、「斎木家(仮)」の実子は「野々宮家(仮)」に戻ってしまった、、、という展開だったと知ってビックリ! ……な半面、“やっぱそうか~”という気もする。


◆「血は水よりも濃い」「生みの親より育ての親」

 中盤で、みどりが良多にブチ切れるシーンがあり、そこで、慶多が実子でないと分かったときの良多の言動が問題となる。良多は無意識のうちに「やっぱりそういうことか……」と、みどりの前で漏らしたのである。

 この序盤の、車中で福山が窓を叩いてつぶやくシーンは、私もギョッとなって、「なんだコイツ……!!」とムカついたので、中盤になってこの言動が夫婦の間で大問題になったことについては、非常に共感した、というより、尾野真千子がブチ切れてくれたことによって、私の溜飲も下がったのだった。

 「やっぱりそういうことか……」って、このセリフは、良多の人格を如実に表わすもの。でも、男は自分が子どもを産むわけじゃないから、自分に生き写しでなければ、我が子を本当に我が子と実感するのが難しい側面はあると思う。しかし、それを妻に言ってしまうのは論外だ。……と思うが、少し前にネットの掲示板で、「夫に子どものDNA鑑定をしたいと言われた」という書込みを見つけたのだけど、「私も言われた」という女性の書込みが結構あって、驚いた。言われた女性たちは、「あっさり受け容れた」という人たちと、「離婚覚悟なんでしょうね?」と身構えた人たちの真っ二つにタイプが分かれていた。私がそんなことを言われたら、絶対に後者のタイプになるだろうと思うが、世の中には太っ腹な女性もいるのねぇ、、、と感心するやら驚くやら。

 良多は子どもの交換を急ごうとして、斎木の妻ゆかりにもこう言われる。

 「(自分に似ているとか似ていないとかに拘っているのは)子どもとつながってるっていう自覚のない男だけよ」

 結局、良多は“血”に拘っているのよね。でもこれは、責められないとも思う。「血は水よりも濃い」と言うくらいだし。けれども、「生みの親より育ての親」とも言われるほどだから、それもまた真実なのだ。

 本作のラストシーンは、最終的に、双方の子どもがどちらに引き取られたのかハッキリ描かれていない終わり方なので、ネット上でも色々な感想が上がっている。私は、本作の展開から言えば、元サヤ(慶多は野々宮家、琉晴は斎木家)に収まるのが自然かな、と思うが、現実だったら、慶多はやっぱり斎木家に、琉晴は野々宮家に、だろうなと思う。良多みたいな男は、そんなに簡単に価値観が変わらない、つまり“血”への拘りを捨てられないような気がする。まあ、もっと現実的に言えば、野々宮家と斎木家は近距離に住んで、慶多と琉晴は好きなときに両家を行き来できる、という状況にするのが、子どもたちにとっては良いのかな、とも思う。成長すれば、子どもたちはもっとハッキリ自分の考えを持って行くしね。


◆その他もろもろ

 福山は大根とか言われるが、本作ではとても良かったと思う。正直言って、彼の笑顔(特に口元)がちょっと嫌いなんだけど、本作ではあまり笑顔のシーンがないので、それも良かったと思えた理由の一つかも。唇の薄過ぎる男の顔って、なんか好きになれないのよね、、、。あ、好みの問題です、はい。

 リリーさんは相変わらずのナチュラル演技で、ハマっていた。こういうちょっとダラシナイ感じの男が似合う。

 尾野真千子と真木よう子は、逆の配置の方が合ってるんじゃないか?? と序盤は感じたが、見ているうちに違和感はなくなった。朝ドラ「カーネーション」の印象が強いせいか、尾野真千子の方が、町の電気屋の女房、って感じがしたんだけど、そこは2人ともさすが女優さん。どちらも各キャラを見事に演じておられました。

 子どもたちの演技は、やはり是枝作品ですね。こういうところの演出力が、やっぱり評価が高いことの一因なのかな、とも思ったり。終盤、琉晴くんが、野々宮家で「パパとママの場所(斎木家)に帰りたい……ごめんなさい」と言って顔を覆うシーンが、切なすぎて泣けます。「ごめんなさい」って、、、。慶多くんもおっとりしてて可愛かった。

 まあ、文句もいっぱい書いたけど、良い映画ではあると思う。好きか嫌いかといえば、好きではないけれど。










慶多がこっそり撮っていた良多の写真が、、、




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ソーシャル・ネットワーク(2010年)

2015-05-29 | 【そ】



 マーク・ザッカーバーグ氏はフェイスブックのシステムを構築し、起業家として成功を収める一方で、かつての仲間らに訴えられる。揉め事の顛末を描きながら、そのきっかけとなった出来事を振り返りつつ、若い起業家の成功に至る数年を巧みな演出で描く。

 フェイスブックが、なぜアメリカで急速に浸透し、世界に広まったのか、その理由の一端を垣間見られる作品。 

 
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 実話モノは基本的に苦手なんですが、BSでオンエアしていたので録画しました。

 このブログをちまちま書くぐらいが関の山で、SNSなんてとんでもない、という身にとって本作はチンプンカンプンかなぁと思ったのですが、フツーに見ることができました。

 しかし、、、あのフェイスブック(以下Fb)も、もとはと言えば、女のコのルックス対決サイトが起源だったとはね・・・。出会いサイトじゃない、クールな自己紹介サイトだとか言いながら、結局、出会いサイトみたいなものと割り切ってどんどん機能を強化させていくあたりの描写とか、なるほど、人間の本質的な欲求を踏まえたものだったからこそ支持されたのだと、その人気の理由が分かりました。

 私の周囲にもFbやっている人そこそこいるんですが、(仕組みを完全に理解しているわけじゃないので勘違いしているかもですが)Fbって、それまでの人生で一点の曇りなき人間関係を築いてきたと確信している人じゃないとできないと思うのですよ。

 例えば、ある日突然、名前と顔が一致するかも怪しい古い知り合いから接触がある可能性もあるわけでしょう? 公開範囲の設定次第では、どこで誰が見るか分からないわけで。私なんか、金輪際顔も見たくないって人が、パッと思い浮かぶだけで10人はいるので、もしそんな人々の目に私なんかの情報が触れたらなんて想像しただけで卒倒しそうです。ハッキングによる個人情報の漏洩なんかより、そっちの方が百倍オソロシイです。

 つーか、接触してきてくれればまだマシ。あくまで傍観しながら、それでいてしっかり状況把握されているかも知れないだなんて、オソロシイというより、メチャメチャ不気味です。

 別に私は人を殺したことも故意に騙したこともありませんが、それでも、もう絶対に関わりたくない人が結構な数いるのです。だから、いくら排他的システムでも、到底登録する気になどなれません。恨まれて刺されるとか、そんな心配しているのではもちろんありません。ただ、関わりたくもない人に、今自分がどこで何をしているか、いやそこまで詳しくなくても、私の気配を感じとられることさえ嫌なのです。もう、それらの人々の脳裏に一瞬でも私のことが思い浮かんでほしくない、永久に絶対に忘れてほしいわけです。でも、Fbでたまたま見てしまったら、完全に忘れていた記憶が呼び起されることもあり得ます。、、、考えただけで鳥肌モノです。しかし、現実に何億人もの人がFbに登録しているのです。すごいですよね、、、。

 余談が続 いてすみません。

 何年も前ですけど、実際、ネットの掲示板で、「もう封印したつもりの交友関係なのに、ある日突然鍵がこじ開けられたようで非常に怖かった」というFbに対する思いの書き込みに対し、「わたしにはそんな交友関係ありません。逆に何年も会ってない人とは連絡をとりたくないという人生を送るあなたが怖い」というようなレスを見た時、何とも言えない気持ちになりました。そこまで屈託なく人間関係を信じられる生き方って、どうすればできるのか、、、。この人は過去に自分が誰かを傷つけたという自覚は一つもないのだろうか。

 でも、そういう方たちに共通しているのは、たとえ封印した関係でも、相手から接触があってもスルーすれば良いだけのこと、という考え方なのです。そう思えるからこそSNSに参加できるのでしょう。私みたいに、接触どころか相手の意識のうちに一瞬でも上ることさえ拒絶反応を示すような輩はそもそもSNSなんぞに参加する資格はないのだと、その掲示板を読んで改めて思いました。同窓会でさえ苦手な私にとって、そりゃそーだよなと。

 もちろん、現在Fbを楽しんでいる方を批判する趣旨ではありません。リアルではなし得ないレベルで人の輪を広げるツールなのは間違いないし、自営業の方や名前を売ってなんぼの職業の方には便利なツールだと思いますし。

 ただ、、、先の掲示板では「堂々と実名登録して公開できるか、実名や居住地を晒せないかの差は、その人がどういう人生を送ってきたかという篩にかけられているということ」とか、「高学歴の人ほど公開している。Fbを効果的に使えない人はそれだけで成功者やコミュニティから疎外される。社会性の観点からも怪しい」とかいうレスもあり、こんな選民意識持っているのも、正直滑稽だと思っちゃいました。たかがSNSで、、、。

 さて、やっとこさ本題です。

 本作を見て、長々余談を書いてきたことについて、納得した部分が結構ありました。それは、Fbがアメリカ生まれであるということと深く関係していると思われます。

 本作に限らず、アメリカの映画やドラマ見ていると、アメリカ人ってものすごくパーティー好きですよね。やたらパーティーシーンが描かれます。パーティーってのは、その目的が恋愛かビジネスか、、、などの違いはあっても、要は人脈づくりの場です。また、あちらはもともと、 自己主張してなんぼの文化、いかに自分をアピールするか、実物より素敵に魅力的に見せるか、ということに皆が血道をあげている社会です。

 そんな文化・社会で、ネットというバーチャルな世界において、自分を、本来の自分と全く別人ではなくてもほんの少し理想とする像に近づけた人間として演じることは可能だし、ある種、楽しいことかも知れません。バーチャルとリアルの境界が曖昧になってくると、ますます中毒になるのでは。もちろん、人の輪が広がることが楽しいというのもあるでしょうが、自己演出の妙にハマる、というのは非常によく分かる気がしました。大げさに言えば、変身願望が叶えられるのに近い感覚ではないかと。

 そして、アメリカでは、いろんなシーンで、もはやFbは名刺代わりだとか。日本でも就活生にとっては必須だと聞きます。となると、先ほどの選民意識バリバリのレスを書いていた人たちみたいな価値観が蔓延していく可能性は十分ありますよね。そういう意識が出てくる理由が分かりました。まあ、私は世の中がそんなんになったら、山に籠るしかないかなぁ、、、。

 ・・・新興IT企業が舞台の映画ってことで、もっと金・カネ・金!!みたいなイメージかと思っていたけれど、そんな金儲けばっかの話ではゼンゼンありませんでした。訴訟ですから、最終的に金で解決ってことになるけど、原因は単純な人間関係のもつれです。それが、アイディアを取(盗)った取(盗)られたになり、果てはビジネス上の契約に及んでしまうという、、、。極端に才能があるザッカーバーグという人をめぐる有象無象の思惑入り乱れるドラマ。新興IT企業という目新しいセットで、極めて普遍的なテーマを描いた作品でした。

 あと、私、早口な喋りが苦手でして、、、。ザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグは、すごい早口。しかも無表情。感じ悪いったらありゃしない。なんか、ザッカーバーグ氏の描写がちょっと悪意を感じますね。頭の良いオタクで、マシンガントークの人の話を聞かない自己中イヤな奴、という・・・。彼が映画というバーチャル世界でこんな描かれ方されているのを見て、リアルに溜飲を下げている人たちがいるのかも、と思うと、なんかイヤですね。





私には一生縁のないフェイスブックのお話。




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相続人(1997年)

2014-09-11 | 【そ】



 きっかけも嵐の夜。見知らぬ女の車が盗まれたところに遭遇した女タラシ弁護士が、ずぶ濡れになっているその女を送ることから、どんどんおかしなことに巻き込まれていく。

 カルトっぽい女の実父やその仲間たち、女や弁護士の子どもたちの目に穴を開けた写真入り脅迫レター、子どもの誘拐騒動、、、、さらに自分のこれまでの弁護士としての在り方に足元をすくわれ、果ては・・・。

 何なんだ、この女、と気付くのが遅過ぎる弁護士。そして、気付いた後もまた嵐。彼の人生も大嵐。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 さて、ケネス・ブラナーです、、、。うー、私はこの人がどーしても好きになれないのです。なぜか。多分・・・理由その1:彼の監督作品があんまし好きじゃない。理由その2:仕事仲間と次々ステディになり、私の大好きなヘレナ・ボナム=カーターと同棲までしていた。理由その3:ルックス。てなところだと思われます。でもって、本作では、理由その3のルックスが、やっぱりダメな最大の理由かも、と感じた次第。ファンの方、すみません。

 小柄な割に、頭がデカいんだけど、肩幅は狭くて、うーん、なんというか押し出しが弱いというか、、、。顔も、その半分くらいが額で、顔のパーツが下方に集中しているので、どうも訴訟に強い弁護士、っていうイメージじゃない。

 とはいえ、それを補って余りある演技でございました。つーか、彼一人が空回りしてドタバタしているばかりで、自分で自分の首をどんどん絞めてしまうのですね。でもって、自分の過去が自分をさらに追い詰めるという皮肉。自分のやったことは、良くも悪くも自分に還ってくるものなのです。

 大体、見知らぬ男の前でいきなり素っ裸になる女なんて、それだけで警戒するだろう、頭のイイ男は。だから、一晩の情事で終わるんですよね、賢い男は、きっと。だが、彼は自信&自意識過剰の鼻持ちならないヤツで、まんまと女にその虚像を見抜かれ利用されちゃうわけです。ハッキリ言って、まあ、自業自得でしょう。

 アルトマン作品にしては分かりやすい展開で、アルトマン節を期待して見ると確かに裏切られるかも。でも、私は、これは結構良いと思いました。ストーリーのネタバレ的な部分に、恐らくアルトマンはあまりこだわっていない気がします。サスペンスとして観客を裏切ることに重きを置いていないのでは。

 それより、人物描写の巧みさ、さばき具合の良さが相変わらず素晴らしいです。冒頭、マロリーと情事を交わすまでの無駄のなさ(とっととベッドインせちゃう)とか、クライドの登場のさせ方(女にだらしないってのがすぐ分かる)とか、マロリーの実父が仲間の助けで精神病院を抜け出すシーンをマロリーとリックの情事のシーンと交互に描くことで実父がマロリーに襲い掛かってくるのではないかと見ている者に恐怖心を抱かせるとか。しかも、この精神病院が墓場の隣にあって、ここだけ見ているとホラー映画みたい。

 そして、あのジンジャー・ブレッドマンの挿話の効果と、一旦去ったと思った嵐(ハリケーン)が戻ってくるというリックの置かれた状況の象徴する巧みさ。いや~、アルトマン、さすが! ってのは、私が彼を愛しているからという偏向評価ではないと思うんだけど、、、。世間の評価はイマイチですね。

 ダリル・ハンナは最後まで分からなかった! ファムケ・ヤンセンは美しいし、エンベス・デイヴィッツもナイス。女優陣は素敵なのに、主役の男優はなぜアイツなんだろう。

サスペンスより、アルトマンの人物描写の巧みさ、さばき具合の良さを堪能する作品



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