映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ドラマの脚本、これでいいのか? ~NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』を見終えて~ ②

2022-04-18 | ドラマ

公式HP⇒https://www.nhk.or.jp/comecome/


その①のつづき


◆五十嵐、重要人物じゃなかったの??

 ヒロインにとって家族以外では最重要人物として描かれてきた文ちゃん、、、いや五十嵐。再登場後の扱われ方は、およそ最重要人物に見合わぬ描写の連続やった。トドメのバーでの2人のシーンは、全くの無駄シーンと言っても過言じゃないだろう。

 再登場後の展開は、さんざん、ひなたに気を持たせる演出をした挙句、他の女へのプロポーズ宣言っていう、、、。この究極の“無神経”さは、文ちゃんのツンデレと関係ないやん。ツンデレ=無神経、ではない。実際、文ちゃんは礼儀をわきまえた思いやりのある子やった。ひなたが結婚したがっているからと、夢を捨ててもひなたと一緒になることを選ぼうとした文ちゃんだ。

 彼の今までの長きにわたる描写は一体なんやったん? あんだけ尺をとって描いたキャラを、脚本的に“ポイ捨て”みたいに退場させるなんて。

 ネットで、このシーンの意図をプロデューサー氏が「ひなたが自分の現在地を確認して前を向いていく場面」と説明している記事を読んだ。記事執筆者の「五十嵐とひなたの関係はこんなふうに書く必要はあったのでしょうか」との問いに対して氏は「ひなたさんもここで過去の自分を見つめ、前に進んだのだと思います」として、次のように語っている。

「藤本有紀さんの台本を最初に読んだときはそういう思いを抱きました。が、改めて読み込んでいくうちに、この展開の必要性を感じました。(中略)ひなたさんもここで過去の自分を見つめ、前に進んだのだと思います。(中略)10年経ってようやくその落とし前をつけることができたのではないでしょうか。第22週は全編通して、焼けぼっくいに火がついたかのように見えますが、ひなたさんは終わった恋をもう一度始めたいというよりは、過去の思い出に浸ろうとしている自分と戦っている、そんな心情を描けたらと思いました。その結果、バーで「いまは仕事が楽しい」という言葉が出てきたのではないかと思います。”ハッピーな展開”の意味についても考えさせられる回でした」

 、、、何言ってるか分かんない。

 だったら、五十嵐を既婚者にして、ひなたと再会して間がない段階で「結婚したんだ」と報告するシーンをサラッと挟めば良かっただけでしょう。10年経ってりゃ、それも十分アリなんだから。演出まで総出で思わせぶりな展開にしたのは、視聴者をバカにしている(この点については後述)。

 ちなみに、文ちゃんとの別離後10年間のひなたは、“落とし前をつける”も何も、結婚資金に溜めていたお金を英会話学校のために使っていたし(ここでは全くモノにならなかったが)、その後英会話もマスターして仕事に打ち込むなど、前向きに描かれていた。

 百歩譲って氏の言うことを理解したとして、であれば、ひなたの10年間に落とし前をつけるため“だけ”に五十嵐を再登場させたってことになる

 私がこの脚本に衝撃を受け、その後怒りに転じたのは、この点だ。


◆これはドラマだ!!

 ネットでは、元カレがただの人生における通過人であることなど「リアルじゃフツーにあること」という趣旨の書き込みも散見されたが、これはドラマである。ドラマとリアルは、当たり前だが別物だ。まさしく「虚実皮膜論」である。

 ドラマ(映画でもだが)の脚本の鉄則として“無駄なセリフ・シーンは書いてはならない”というのがある。書き手は、どんな小さなセリフやシーンでも、必ずそれを書く意味を考えて書け、ということだ。レゾンデートルというやつですね。

 藤本さんのドラマは、まさに無駄のない脚本だと感じることが多かった。好き嫌いは別として、三谷幸喜の脚本も無駄がない。ものすごく計算されていることが終わってみれば分かるようになっている。私は三谷ドラマは苦手なのが多いが、それでも彼が脚本家として天才であることに異論はない。

 「カムカム」については、私の中では完成度では「ちりとてちん」には及ばないし、ところどころで??となる部分は結構あった。でも、どんなドラマもツッコミどころは必ずあって本作もその一つに過ぎない。良いドラマであることは間違いない。五十嵐の扱いを除いては。

 ひなたの人生を描いたドラマなのに、残念ながら、最終話のひなたの人物造形に五十嵐との時間はほぼ何の影響も与えていないオハナシになってしまっている。

 ひなたが英会話に集中するようになったのは、五十嵐との結婚資金をはたいて通った英会話スクールではなく、その何年も後、母親るいの実家で“平川先生の亡霊”に会ったから(??)であり、五十嵐との別れはひなたの一念発起に何の作用も及ぼしていない。

 また、ひなたが40歳を過ぎて米国留学し、起業してキャスティング・ディレクターになったのも、祖母のアニーこと安子がその仕事をしていて、安子の誘いがあった上でノウハウの伝授を受けたからである。ひなたが自発的に動いたわけではない。そして、ここにも五十嵐の影響は何もない。

 ドラマ最終盤、2025年のひなたは、NHKのディレクターからのオファーを受け、ラジオ英会話の講師を務めている。オファーを受けるか迷ったときに、彼女の背中を押したのは、当然、五十嵐ではなく、万年斬られ役の虚無蔵さんだ。そして、英会話講師を一緒に努めているのは、初恋のビリーであり、ラストシーンは、ビリーとの熟年の恋の予感、、、でエンドマークである。

 なにそれ、、、。五十嵐、どこ行った??


◆視聴者を信じていない制作陣

 このドラマはSNSも動員して、特に“ひなた編”に入ってからは、“伏線回収”をこれでもかと煽りまくり、ネタバレに過剰に神経質で、アニー=安子を明かすのを2週にわたって引き延ばすなど、必要以上に勿体つけた展開を見せた。これら全ては、制作側の実に独り善がりなプロモーションだ

 三谷幸喜や、同じく脚本家の大石静氏も言っているが、本当に面白いドラマはネタバレしていても面白いのである。

 結局、このドラマの制作陣は、視聴者の鑑賞能力を全く信じていない、ということだ。

 もっと言うと、視聴者をバカにしている印象さえ受ける。特に終盤、ドラマの本質は置き去りで、“ネタばらしの仕方”に躍起になる。この戦略で大いに盛り上がっているネット民たちもいたけれど、SNSで騒いでいるのは視聴者のごく一部だ。大方の視聴者が制作側の意図通りにドラマを鑑賞したかどうか、甚だ疑問である。

 制作陣は、もう少し冷静であっても良かった。本当に良いドラマは、ドラマだけで十分なのだから。余計なプロモーションなど、雑音になりかねない。

 脚本家としては、きちんと、ひなたの人生に五十嵐が存在意義を持っているように描くべきだろう。何度も言うが「ドラマ」なんだから。

 まるでエクスキューズのように、最終話の少し前(2022年の設定)で、五十嵐がハリウッドのアクション監督として雑誌に掲載されている、、、という形で登場する。それも、ほんの一瞬で、どんな活躍振りかはまるで分らない。

 後から、その雑誌が鮮明になった画像がTwitterで公開されたが、この文章を読むと、再登場後の五十嵐のイメージはまた変わる。やはり、文ちゃんだ。デイジーとの家族写真も載っているのはご愛敬。だから、既婚者として再登場させれば良かったのだよ、ホントに。

 ひなたがアメリカで自身の人生を切り開き、五十嵐が良きビジネスパートナーとなる過程のシーンを丁寧に積み上げてほしかった。アニーの正体を明かすのにあんなに尺をとる代わりに。ほんの数シーン入れるだけで、ゼンゼン違ったと思うのに。

 これが、藤本さん以外の人の脚本ならば、まあ、ショックも軽かったと思うのだが、、、。文ちゃんにガックシ&藤本さんにガックシ、、、とガックシ2倍だったのだ。

 もう、こんな思いはしたくないので、朝ドラは今後見ません。もともとほぼ見ていなかったのだから、元に戻るだけだが。

 長々グチを垂れ流し、失礼いたしました。


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◆おまけ

 俳優・本郷くんには何の罪もないので、再登場後のも含めてオフショット画像を貼っちゃおう。

 まずは、こちら。

2022年に雑誌に掲載された五十嵐 ~~ ブン・イガラシかく語りき ~~

 

 

五十嵐を演じた本郷くんのインタビュー ~~ 「視聴者の方からイヤなやつだと思われないように気をつけて演じ」ていたのにねぇ ~~

 

 

「ひなたと五十嵐」のオフショット ~~ まさかあんなオチが待っていたとは。どんな気持ちで演じていたのか、お2人。 ~~

 

 本郷くんは、クセのある役を多く演じているみたいだけど、彼にはエイドリアン・ブロディみたいな主演も張れる性格俳優になってもらいたいなぁ。今でも十分、主演を張れると思うが。少なくとも、今、大河で義経を演じているお方よりは、実力も存在感もあると思うヨ、私は。もう少し、筋肉付けた方が良いかも、だけど。細すぎるので。

 

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ドラマの脚本、これでいいのか? ~NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』を見終えて~ ①

2022-04-14 | ドラマ

公式HP⇒https://www.nhk.or.jp/comecome/

 

 2021年11月1日から始まった、通称“朝ドラ”105作目(だそうです)の『カムカムエヴリバディ』(以下「カムカム」)が、先日4月8日に終わりました。脚本は、同じく朝ドラ『ちりとてちん』(2007後半)や大河ドラマ『平清盛』(2012)等を書いている藤本有紀さん。ドラマ好きなら、ほとんどの人は知っているお名前です。

 藤本さんは、私も好きな(というか尊敬する)脚本家のお一人で、『ちりとてちん』も数少ないちゃんと見た朝ドラの一つです。

 ……なんだけど、今回、その藤本さんの脚本に、ドラマ終盤で大変ガッカリし、最終話放映後数日経つ今も信じられない思いでいるのです。もちろん「カムカム」の展開に大いに疑問を抱く部分があったからです。

 尊敬していただけに、余計にガッカリ度が大きかったのかも知れません。私にとって「カムカム」は、ドラマの脚本の在り方について、根本的に考えさせられるドラマとなりました。

 このモヤモヤ感は到底収まりそうにないので、記事に書き留めておこうと思うに至りました。

 ちなみに、私は、五十嵐文四郎のファンなので、“文ちゃん”の良き画像をいっぱい貼ってしまいます。普段の記事ではほぼ画像は貼らないのですが、ドラマ内で貶められた五十嵐の汚名を雪ぐため、、、いえ、私の自己満足のために貼っております

~~以下「カムカム」好きな方、藤本さんのファンの方、等々、お読みにならない方が良いかもしれません。もちろん悪意はありませんが、人によってはただの“悪口”にしか思えないでしょうから。~~


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◆「カムカム」にハマる

 朝ドラは、ほぼ見ていないが、ごくたまにツボる作品がある。

 「カムカム」も、初回から欠かさず見ていたわけではなく、2代目ヒロイン“るい編”の初期から見始めて、以後、毎日欠かさず(録画して)見るように。毎日見るようになったきっかけは、舞台が戦後の昭和で、ややレトロな雰囲気と、セット(美術)のセンスの良さ、深津絵里演ずるヒロイン・るいの心の声がすごく可愛かった、、、等々。そして、何と言っても、脚本が藤本さんだからこの先も見よう、という気になった。

 ……とはいえ、ハマったというほどではなく、録画したのを見てさっさと消去していたのだった。

 が。るいの娘が3代目ヒロインとなる“ひなた編”が2月に入って始まった直後から、まさに大ハマり。

 理由は簡単。ひなたの恋のお相手“五十嵐”がツボだったから。ツンデレに弱い私にとって、本郷奏多くん演ずる五十嵐文四郎は、どストライクなキャラ。それだけではなく、ひなたとの恋模様が実に“可愛かった”のだ。若いってええのぉ……(遠い目)と思いながら、五十嵐登場後、録画を消去することはなくなり、レコーダーのHDDにどんどん溜まって容量が減る減る、、、。

 

 

2人の出会いのシーン ~~ひなたの家(回転焼き屋)に焼き立ての回転焼きを“1個”買いに来た無愛想な男~~

 

 

条映映画村での2人 ~~回転焼きを買いに来たいけ好かない客は大部屋俳優・五十嵐だった。「オレはアラカンの50倍だ!」~~

 

 

なぜか一緒に映画を見に行く2人 ~~五十嵐が受けるオーディションを前に成り行きで昔の時代劇映画を見に行くことに~~

 

  

映画を見て怖気づく五十嵐 ~~あまりの凄い殺陣を見て「オレにあんな殺陣できるのかな」と弱音を吐く五十嵐に渇を入れるひなた~~

 

 

オーディションを明日に控える五十嵐に回転焼きを焼いてあげたいひなた ~~一生懸命焼く練習したんだけど言い出せなくて……~~

 

オーディションには受からなかったけど役をもらえた五十嵐 ~~「役名がある!セリフがある!!」「読み合わせ手伝う!毎日道場行くわ!」~~

 

 

稽古に集中できない五十嵐 ~~「毎日道場行くわ!」って言っていたひなたがゼンゼン来ない! ~~

 

 

やっと会えたひなたを抱きしめる五十嵐 ~~「何なんだよ、お前。毎日顔見せろ。寂しいだろ、ばか」 ~~

 

 こうして、2人は相思相愛になり、、、五十嵐が“文ちゃん”になり……

 

 

 さらには、ひなたとお別れしても、私は録画を消さなかった。消せなかった。

 

 

役をもらえぬままの文ちゃんはお化け屋敷で落ち武者に…… ~~「1秒でも長く文ちゃんと一緒にいたい!」「大部屋のままじゃダメなんだ」 ~~

 

 

文ちゃんは俳優を辞める決意を ~~「一緒に東京帰ってほしい。一番大事なのは叶わない夢なんかじゃなくひなたなんだ」~~
~~「アタシを夢を諦める言い訳にせんといて」「明るくてバカなひなたが大好きだ!でももう傷つきたくない。ひなたはオレには眩しすぎる」~~

 

 ……ここまでは良かったのに。悲しい別れだけど、これも人生、、、。そう思える展開だった。でも、きっと文ちゃんagainの日が来る!と確信していた。だって、これだけの尺をとって描いた、ヒロインにとって重要人物。ドラマの脚本として、これっきりはあり得ない。

 たとえ、この2人が結婚と言うありきたりな流れにならないにしても、互いにかけがえのない存在にならなければ、ここまで描いてきた意味がない。 


◆私、怒ってます 

 もちろん、文ちゃんagainの日は来た。けれども、再登場後の文ちゃんの描かれ方は、私にはまったく解せないものだった(再登場後の五十嵐の画像はありません)。

 ひなたと別れて約10年が経っているという設定。文ちゃんは、大部屋俳優を辞めて東京へ戻り、お父さんの会社で働いていたものの、2年でそこも辞めて渡米。ハリウッドで苦労しながらも、アジア人でアクションができる俳優ということでポジションを得、アクション監督のアシスタントとなっていた、、、。

 で、「サムライベースボール」なるハリウッド資本の映画を撮影するに当たり、文ちゃんは古巣の条映撮影所に米国側スタッフの一人として凱旋帰国したわけだ。そこで、ひなたと再会する。

 ……まぁ、この設定の是非は良い。そういうことも、そりゃあるだろう、という感じ。

 まず、2人が再会したのは、条映の道場なのだが、突然現れた文ちゃんに、ひなたは「え、もしかしてアクション監督って……?」と驚くのだが、そこで文ちゃんは「オレだよ。まぁ、正確にはアシスタントだけど」と答える。私は、この文ちゃんのセリフでいきなりカウンターを喰らった気分だった。

 だって、アシスタントでしょ? 監督じゃねーやん。何が「オレだよ」だよ。

 その後、アメリカへ渡った理由を自分語りする文ちゃん。「オヤジの会社は元々うまくいってて、、、(中略)もっと広い世界があるのに何やってるだろうって。自分がバカに思えた。だから2年で辞めてアメリカに行った」

 ひなたのことをゼンゼン聞こうとしない文ちゃん。この辺で、あり~?となったが、文ちゃんファンとしては脳内補正がまだ辛うじて効いていた。あんなボロボロの姿を最後に見せていたひなた相手に、頑張ってカッコつけてんだねー、、、ぇ?? と。

 その後、条映の道場で、日本人のオーディションを行うのだが、そこで殺陣を付ける監督アシスタントの文ちゃん、オーディションを受けに来た大部屋俳優さんに「緊張しないで、いつも通り!」とか上から目線のアドバイスをする。この辺で、私はかなり気持ち的に脱落していた。文ちゃん、こんな子やなかったはず、、、。10年の間に成長せんかったんかい!!と。

 極めつけは、退場シーン。オーディションも終わり、明日アメリカへ帰るという文ちゃんは、ひなたに「今夜2人で飲まないか?」と言って意味深な誘い方をする。珍しく化粧などして、着る服も迷っておめかししたひなたがバーに現れる。既に来ていた文ちゃんとカウンターに座って会話するのだが、、、。

 ここで、文ちゃん、「今のオレがあるのはひなたのおかげだよ。これで決心した! オレ、結婚するよ!」とひなたに正面切って宣言するのである。おそるおそる「誰と?」と聞くひなたに、文ちゃん、明るく「デイジーと!!!」(デイジーってのは、米国側スタッフの女性)

 ……マジで、ドリフのコントかと思いましたヨ、私は!!!!!

 このシーンが、五十嵐の実質的な最終シーンとなったのだ。これが退場シーンよ?? あり得ん。

 正直、この回を見た直後は、ショックで頭が真っ白に。……で、しばらくして、猛然と怒りが湧いて来た。ハッキリ言って、最終話が放映されて1週間経つ今も、怒りは続いております。もちろん、怒りの矛先は、五十嵐ではなく、脚本ですよ、脚本。

 

 

 その②につづく

 

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レ・ミゼラブル(2000年)

2020-06-21 | ドラマ

作品情報⇒https://movie-tsutaya.tsite.jp/netdvd/dvd/goodsDetail.do?pT=0&titleID=0081617959


 「2000年、フランスでTVシリーズとして製作された作品。ジェラール・ドパルデュー、ジョン・マルコヴィッチの2大名優の競演で贈る文豪ヴィクトル・ユーゴーの傑作。全4話を短縮した英語版“インターナショナル・バージョン”での収録。」

 上記は、amazonからの商品内容のコピペ。フランス語かと思って借りたのに英語だった、、、。 


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◆英語で2度目の撮影したのか?

 レミゼの鑑賞比較も、とりあえずは本作で終了。折角だから最後は本家フランス版を!と思って借りたのに、なんとまぁ、アメリカ向けに英語で撮られたものだったという、がっかりなオチ。

 短縮版だとは知っていたので短いのはともかく、しかし、英語で吹き替えではなく、ドパルデュー(以下ドパ)もシャルロットもみんな英語でセリフ喋ってるんだよね。……てことは、つまり、同じシーンを全部2回撮りしているってことだよね? フランス語と英語で。そらまた面倒なことをなさったもんです。

 なぜそんな手間も時間もかかることをしたんだろうか。後から英語のセリフを乗せる方法ではダメだったんだろうか。演技って、そんなに何度もできるものなのかねぇ? そら舞台俳優は何度も同じことをしているけれども、それだって、その舞台はその1回限りでしょ。迫真の演技をして、「はい、もっかい今度は英語でね~!」ってどーなんだろう??

 いくら英語圏向けだからって、そんなことする必要があるのだろうか? よく分からんねぇ。ドパ演ずるバルジャンが、コゼットに英国移住を告げる際に、英語で「英語が喋れるようになる」ってセリフ言ってんだけど、コゼットが返すセリフも当然英語なんだよ。既に英語喋ってるじゃん!ってツッコミは野暮も承知だけれど、それヘンでしょーよ、って見ていて思ったわ、マジで。

 まぁ、本筋には関係のないことだけど、一番気になったのはココかもね、本作では。


◆感じたことなどモロモロ

 8時間だか6時間ある本編を、3時間に短縮したってことは、半分以上がカットされているわけだから、それを見てレビューを書くってのはどーなのか? という気がするけど、ま、いいか、、、ということで、いつもどおり勝手なことを書きます。

 ま、カットしまくった割には、結構シーンがちゃんとつながっていたように思うけれど、カットしまくったせいで、すごくダサいドラマだと感じてしまった。お好きな方、、、ゴメンナサイ。

 おそらく完全版ならばその辺がきちんと構成&編集されていて、見る者を納得させるように仕上がっているんだろうけど。どの辺がダサいかというと、カットしまくった以上当然ながら、話の展開はブツ切りで、“あーでこーでこーなりました、んで、次はこーなってあーなりました”、、、みたいな感じなのだ。一応、破綻がないようにつないでいるので、却ってそれが余計にダサい。

 セリフで説明させているわけではないんだけど、ストーリーを追うだけになってしまっているんだろうなぁ、、、多分。思い切ってナレーションを入れるとかして、もう少し編集を工夫しても良かったんじゃないか、という印象を受ける。

 あと、囚人のときの若いバルジャンはドパの息子のギヨームが演じていたらしいんだけれど、短縮版ではほんの一瞬しか映っていなくて、すごく残念、、、。ギヨーム氏は父親と違って美男子だから見たかった、、、美男子の囚人。ドパ自身は、私はあんまし好きじゃないので、どうしても見る目が厳しくなってしまうんだけど、いくら裕福になったからって、やっぱしバルジャンとしては太りすぎじゃないか? 特に後半。デカいというより、肥満だろう、あれは。

 コゼットが成長して、修道院のバルジャンの部屋に遊びに来ては、一緒に寝る!というシーンがあるんだが、あの肥満体型のドパ・バルジャンとコゼットが小さなベッドで抱き合って寝ているシーンは、ちょっと違和感あったなぁ。どう見ても、ドパのコゼットを見つめる視線は“男”であり、まあ原作のバルジャンもコゼットに女性として愛情を持っていたのは間違いないだろうが、こういう露骨なシーンはちょっとね、、、。実際のドパだったら、あんな風に若い女性を見つめていないで、さっさと上に乗っていたんじゃないのかね、、、などと下品なツッコミを内心入れていたことを、ここに白状いたしまする。

 そのコゼットは、キレイだが、声がすごいハスキー。まあ、これは好みだけど、私は結構良いと思った。問題は、マリウス。むちゃくちゃ暑苦しい顔で、ちょっとイケメンとは言い難い。コゼットとマリウスの配役は難しいなぁ。

 マルコビッチのジャベールは、なかなか良かったけど、私はやはり先日見たジェフリー・ラッシュに軍配ですね。特に、バルジャンに縄を解いて開放されるシーンの演技は、圧倒的にジェフリー・ラッシュの方が良いです。演技というより、演出の差だね。あと、自殺するシーンも、歩いて入水するより、背面から倒れて入水って方が画的にも良い。


◆レミゼの比較鑑賞結果

 ……というわけで、レミゼを3作比較鑑賞し、①先般のBBC版ドラマ版、②ミュージカル映画版、③アウグスト監督の映画版、そして④本作と、見比べてみて、私が一番良かったと思うのは、①。他は、③→④→②の順かなぁ。②と④は私の中では大差ない。

 これはドパがインタビューで言っていたが、この作品は、やはりドラマでたっぷり時間をかけて丁寧に描いてこそ、原作の良さと映像化する意味が出るのだと感じた次第。③は、バルジャンとジャベールにフォーカスすることで、尺を短くしながらも味わいを出していたけれど、原作を忠実に再現するのなら、やっぱり3時間じゃ厳しいだろうと思う。

 あと、これは原作に対しての感想になるが、結局、ユゴーは、“世の中カネや”と言いたいのか? ってこと。これは原作未読なので、これから読んで考えたいところだが、バルジャンも事業に成功して大金持ちになることで過去との決別を果たせたと言って良く、マリウスなど革命に参加しておきながら、のうのうと貴族社会に復帰してコゼットとよろしくやっている。この辺り、ユゴーがどう考えてこのような展開にしたのか、原作を読むのが楽しみでもある。

 そして、本作を切っ掛けに、【ドラマ】のカテゴリーを設定することにしました。このブログは、基本的に映画の感想を書くものという趣旨で、その他のドラマや旅行記は「番外編」としてきたけれど、番外編がちょっと闇鍋っぽくなってきてしまったので、整理することにしました。今後は、ドラマは別立てでカテゴライズします。劇場版とか、そういうのは、私が映画だと思えば映画に、ドラマだと思えばドラマに、とその辺はテキトーになると思います。


 

 


 

 


太りすぎのバルジャンはちょっとね、、、、。

 

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パトリック・メルローズ(2018年)

2020-05-04 | ドラマ

作品情報⇒https://www.star-ch.jp/drama/patrick-melrose/sid=1/p=t/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 貴族でウィットに富んだプレイボーイのパトリック(ベネディクト・カンバーバッチ)。だが幼い頃に受けた父親(ヒューゴ・ウィーヴィング)からの虐待と、現実逃避しては息子をないがしろにする母親(ジェニファー・ジェイソン・リー)の間で育ち、その子供時代のトラウマをかき消そうと、アルコールや薬物におぼれる・・・・・・。

 やがて彼が更正するまでの、パトリックのその痛々しい人生を時にユーモアを交えて描く。

=====ここまで。

 映画ではなく、全5回のTVドラマです。このブログは、基本的にはドラマの感想は書いていないのだけど、本作は、ちょっと書き留めておきたいと思ったので例外ですが、感想を書くことにしました。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 ある方のTwitterで、このドラマについて言及されていたので興味を持ち見てみた次第。原作は、エドワード・セント・オービン作の英人気小説らしい。邦訳版も出ているが、まだ単行本で、5冊揃えるとなるとかなりの出費なので、文庫化(されるか分からんが)されるのを待つかな。最悪は図書館か、、、。

 各話にエピソードタイトルがついていて、原作がそういう構成になっているので、そのままドラマでもタイトルにしたみたい。ただし、原作本と見比べると、1話と2話のタイトルは入れ替わっている。ドラマの各タイトルは次のとおり。

 ① バッド・ニュース、② ネヴァー・マインド、③ サム・ホープ、④ マザーズ・ミルク、⑤ アット・ラスト

 ……とまあ、それはともかく、私はほとんどこのドラマについての予備知識はなく(カンバーバッチが出ていることと、親子の確執モノだということくらいしか知らなかった)見始めたので、1話目の開始直後からエンジン全開でぶっ飛びまくりで、正直、始まって15分くらいは、何じゃこれ、、、状態。父親が死んだところから始まるのだが、パトリックは「やっと死んだか!!」と笑みを浮かべ、父の遺灰の入った壺を投げつけて破壊しようとする。ハッキリ言ってもう、最初から最後までメチャクチャなんである。

 1話目が見た目的には一番壮絶だった。とにかく荒れまくるパトリック。ヤクを打った上に酒をがぶ飲みして、見ているだけで恐ろしくなる。よくこれで死ななかったな、と、むしろ驚き。

 でまぁ、もちろんそんなことになるには背景があって、、、というわけで、お約束のような幼児期の虐待エピソードが2話で描かれる(ちなみに、2話ではカンバーバッチはほとんど出て来ない)。

 その虐待ってのが、実の父親からの性的虐待。もちろん、その場面の描写はなく、それと分かる間接描写なのだが、それでも目を背けたくなった。しかも、甘言でいつのまにか本人がよく分からないうちに、、、というのではなく、最初から「パンツを脱げ」とダイレクトな命令による恐怖支配で、戦慄する。これが度々行われていたというのだから、おぞましいことこの上ない。

 で、この父親・デヴィッドなんだが、すげぇヤバい!! もう、見た目もヤバいし、言っていることもやってることも、全部ヤバすぎるのである。いかにヤバいかというのが、この2話でのメイン。一言で言うと、周囲の者を不快にすることに長けている。わざとやる。まぁ、言ってみれば“マウント”だよね。プライドはエベレストよりも高いが、自信のなさはエチオピアの海抜マイナス100メートル(こないだNHKの「ホットスポット」とかいう番組で福山が訪れていたので)よりも低い男なんだよね。自信に裏打ちされていないプライドほど厄介なモノはない。

 普通、こんな男が夫だったら、妻は逃げ出すと思うのだが、逃げる気力がないのね、もう。この、パトリックの母親・エレノアはアメリカ人で、実家が大金持ちだったため、落ちぶれ貴族(階級)の父親に掴まった、、、という結婚の馴れ初めのようである。デヴィッドにとってはこの結婚自体にうま味があるから、エレノアを絶対に手放すことはない。エレノアは、気がついたときには逃げる機会を逸していたってことだろう。

 まあ、エレノアも気の毒だが、一番悪影響を受けるのは子供であるパトリックだ。実際、悲惨な目に遭っている。エレノアは、自分を防御することにも無気力な人だから、当然、子供を守ることもしない。とにかく、ただただ息を吸って日々をやり過ごしているのが、エレノアだ。だから、パトリックは、とことん、デヴィッドの餌食になってしまった。
 
 3話目では、ヤク中&アル中から脱した学生のパトリックが、辛い過去と向き合いながら、伴侶を得るまでが描かれる。この3話の主役は、パトリックというよりは、むしろ2話にも出て来たブリジット(ホリデイ・グレインジャー)という成り上がり女。まあ、そこそこ面白いけど、インパクトで言うと、割とおとなしめ。

 4話目は、弁護士になったパトリックの家庭が、崩壊に向かう。この崩壊の原因は、母親・エレノア。デヴィッドが死んだ後は、自分を取り戻しているかと思いきや、何かもう廃人のようになっているエレノアは、おかしな宗教にはまり、自分の財産をその宗教団体に譲ると言って聞かなくなってしまっているのである。

 この一件は、もともと母親からの愛情を実感できていないパトリックにとっては、ダメ押しみたいなもんだったんだろう。アルコールに逃げ、アッと言う間にアル中に逆戻り。しかも、パトリックは、父親から受けた虐待のことを、エレノアに話せていないことが、ずっと心の重しになっていた。パトリックにとってみれば、この傷を癒やせるのは、エレノアしかいないのだ。気付かなくて、あなたを守れなくて、苦しめて「ごめんね」の一言が欲しい。その一言で、どれだけ救われるか、、、。

 しかし、これを話せば、エレノアは苦しむに違いない。だから言えない。その“母への告白”が5話目のキモとなる。この告白は、母の死後の回想という形で描かれる。

 もうね、この告白のシーンを見て、私は大げさでも何でもなく、サーッと血の気が引いた。パトリックの告白を受けたエレノアのリアクションについては、ここには敢えて書かない。書きたくない。なぜなら、私も同じ経験をしているからだ。

 もちろん、私の場合は、親に性的虐待をされたことはないし、親に告白した内容もゼンゼン異なる。しかし、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、本当に、人生レベルの決断をして、母親に明かしたある事実について、全くその重みを無視したリアクションをされるというのは、子にとっては「死ね」と言われるより辛いことなのである。

 だから、私は、この告白シーンを見て、自分のときの体験がフラッシュバックし、本当に顔色が変わるのが自分で分かる感覚だった。涙も出ない。実際、ドラマの中でのパトリックの表情も、、、。まあ、詳しくはご覧ください、ドラマを。

 ラストは、一応、パトリックの家庭が再生に向かうことを予感させる終わり方で希望が持てるのでgoo。

 本作は、悲惨な内容を扱っているけれど、見ていて笑えるシーンも多く、大人のブラックコメディと言って良いと思う。1話目は唖然となってしまうが、ここで着いていけなくならなければ、2話目以降は一気に引き込まれる。展開が早く、一瞬も退屈しない。こんなドラマが作れるなんて、イギリスはやっぱりすごいなぁ、、、。日本のドラマで、このレベルのものって、ちょっと思い浮かばない。ここまで、社会の闇に切り込めるのは、やはりそれを受け止める社会が成熟している必要もあるだろうね。

 ちなみに、本作は、原作の著者エドワード・セント・オービンの半自叙伝とのこと。

 それにしても、幼少期の悲惨な体験が、いかにその人の人生に多大な影響を及ぼし続けるか、ということが、これでもかと描かれており、恐らく、原作小説もそうなのだろう。そして、原作者の一番書きたかったこともそこなのではないか。人生で、これほどの理不尽はない。そんな主人公パトリックを演じたカンバーバッチの熱演は見物。彼がこの役を演じることを熱望したというのも、見終わってみて分かる気がした。

 

 

 

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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その⑤~

2017-04-06 | ドラマ
 そののつづきです。


◆顕子の今後を予想する。

 顕子は、マレーシアに行って、しばらくは頑張れるでしょう。でも、夫婦の関係を再構築することは、多分できないだろうと思います。

 なぜなら、それが顕子の性格、もっというと、思考のクセだからです。これについては後述します。

 そして、恐らく、顕子は一人で帰国してくるでしょう。浩司に彼女を引き留める力はありません。なぜなら、顕子は浩司を愛していないから。彼女が愛しているのは自分だけだからです。なので、美月と2人で強引に生活を始めることを画策するでしょう。

 ここで、美月がどう出るかが問題です。

 もし、松島と交際が続いていたら、顕子を振り切ることは出来るかも知れません。しかし、それもかなりの難行だと思われます。個人的には、ここで美月が踏ん張ってほしいと思うし、松島にも全力で踏ん張ってもらいたい。

 でも、もし、松島と別れていたら……。これは、顕子の力業で、美月は屈してしまうでしょうね。彼女の勤務先と、マンションが近すぎます。彼女があの女子校の教師を辞し、海外へでも行く勇気があることを望みますが、、、。

 いずれにしても、顕子は、あの最終回の展開では変わることはできません。娘に執着する母親は、実に実に手強いのです。

 顕子が変わるには、心の治療をするしかないのです。そこを、ドラマとはいえ、きちんと描くべきでしょう。もし、続編を作るとしたら、カウンセリングに通いながら苦しむ顕子の描写は必須です。というより、それがメインテーマになるはずです。


◆顕子的人間の“変われなさ”について。

 このドラマを見終わって、一番強く感じたことは、「自由を選択するには痛みが伴う」ということ。逆に言えば、「痛みさえ受け入れれば、自由になれる」ということ。

 顕子的人間は、痛みを受け入れる勇気がない、あるいは、痛みなど受け入れるくらいなら不自由で良い、ということです。

 制約の中で選択肢がない状況は、一見、不自由だけれども、いくらでも自分を甘やかすことの出来る状況です。つまり、決められたレールを進んで行き詰まった場合、そのレールの敷き方に問題があったのであって、いくら自分の人生というレールであっても自分には責任がない、と思える。レールを敷いたヤツが悪いのだ、と他者を責め立てていればそれで済む。自分には何の非もない。

 結局、自分でレールを敷くのはものすごい労力とコストもかかる上に、そのレールの先に自分の思い通りの結果が待っているとは限らない。というより、大抵は思ってもいないことが待っている。その際に、レールを敷くのに要した労力とコストを無駄と思うか、それを投資と思うか、その差ではなかろうか。

 無駄と思う人は必ず後悔する人であり、投資と思う人は絶対後悔しない人である。

 そして、必ず後悔する人は、無駄を承知で自らレールを敷くことはしない。だが、結局、自らがレールを敷かなかったことを後悔する。そこには、痛みを受け入れた人への劣等感もある。その後悔と劣等感のパワーが、娘の人生のレールを敷くことに向かうのである。

 しかし、レールのとおりに進んだからと言って、想像していた未来は待っていない。必ず破綻するのである。なぜなら、娘は意思ある人間だからである。どこまで想像通りになるかは人によるが、彼らが死ぬまで破綻しないケースは、ないと断言できる。

 破綻の度合いにもよるだろうが、そこでまた、彼らは後悔するのである。それも、「私の敷いたレールが間違っていたのだろうか」という後悔ではない。「どうして敷いた通りにレールを進まないの?」という後悔だ。自分のやり方が誤っていたのではないかという疑問には決して到達しない。

 それどころか、痛みを受け入れる覚悟をしている娘に対し、猛烈な嫉妬心を抱くのである。自分にはなかった、あるいは持てなかった勇気を持っている人に、メラメラと嫉妬心を燃やすのである。それはつまり、自分より娘が秀でることへの嫉妬である。

 だから、自力ではもちろん、身近な人たちの協力を得たくらいでは、顕子の様な人間は変わることがほぼ不可能なのです。

 このような人からは、逃げるしかありません。 


◆その他モロモロ

 美月の衣装の変遷が面白かったですね。

 顕子と蜜月だった頃は、花柄のワンピースとか、100%スカートを履いています。でも、家を出てからは、シンプルなコーディネートになります。でもまだスカートのまま。

 最終回、初めて、美月はパンツを履きます。ようやく、彼女は気持ち的に母親を振り払うことが出来たのかも知れません。

 あと、特筆事項としては、顕子の母親・玲子を演じた大空真弓さんですね。もの凄く久しぶりにテレビで見た様な気がしますが、相変わらずお綺麗でした。顕子には冷淡な母親で、孫の美月を手懐けることで、“玲子&美月VS顕子”という関係を作ろうとする邪悪さがゾッとするほど恐ろしかった。美月に死ぬ直前に懺悔していましたが、あれもどこまで本音なのか……。美月へのポーズだった、という解釈もアリだと思います。


◆最後に、僭越ながら。

 この種の問題で苦しんでいる方で、この駄文を読んでくださった方へ。

 あなたの人生は、一度きりです。今日という日は、二度と戻りません。誰も時計の針を巻き戻すことは出来ません。

 あなたは、あなたの人生を生きる権利があるのです。その権利を、自ら手放してはいけません。勇気を持って、その権利を行使してみませんか。

 親から離れることは、罪ではありません。あなたが、あなたの人生を生きるために必要なことなのです。

 痛みを受け入れることさえすれば、あなたは自由を手にできます。一番大きな痛みは罪悪感かも知れません。孤独感かも知れません。しかし、受け入れてしまえば、その痛みは、必ず沈静化していきます。永遠には続きません。

 後悔しないためにも、痛みを受け入れる勇気を持ってください。遅すぎることはありません。



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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その④~

2017-03-28 | ドラマ
 そののつづきです。 


◆最終回の展開について

 そので、最終回の展開がやや“物足りない”と書いたけれど、ドラマだから、あれはあれで良いとも思っている。ただ、信田さんがダメ出ししたという割には、決定稿の展開にはナゾが、、、。

 第7回で、浩司が会社を辞めて、先に会社を辞めて海外で事業を展開しているという篠田(角田信朗)に会うシーンがあります。そこで、篠田が浩司に「お前もこっちでやってみないか」と言うのを聞いて、浩司と顕子は海外へ行くという展開なのは読めました。

 でもねぇ、、、それまでの過程が、ちょっと???なんだよなぁ、、、。

 篠田に声を掛けられた後、顕子が自殺未遂の真似事などすることによって、美月と再び深刻な状況に陥り、遂には美月が観念し、顕子と一緒に暮らすという結論を出す。この一連の出来事を、浩司は知っている。

 それなのに、、、浩司は海外へ行くことを決めてしまうのです。美月に「お母さんのことは引き受ける」と宣言したのに、この行動はあまりに無責任かつ矛盾しているのでは? 家に美月が戻れば、顕子と美月の2人っきりになってしまい、状況はさらに悪化することくらい、浩司でなくても分かります。なのに、、、なぜ?

 ドラマ的には、海外へ旅立つ前に浩司が「君を必要としていた、それだけは信じてほしい」と顕子に言うシーンで、それらの矛盾を解消したつもりかもしれませんが、これじゃあ、現実的には何の解決にもなりません。

 浩司が外国へ旅立つ直前に、美月と顕子は派手な喧嘩をし、互いに顔を引っぱたき合うというシーンがありますが、顕子的母親にとって、あんくらいの喧嘩、何でもないことです。屁とも思わないでしょうね、実際は。とにかく、自分の思い描く通りに現実が収まればそれでいいのです、過程なんかどーでも。浩司が外国へ行ってしまえば、“美月と親子水入らずで暮らす”という顕子の目的は達せられてしまいます。顕子にとって、これ以上の結果はありません。

 信田さんが、この展開でOKした理由がイマイチ解せません。

 そして、なんと言っても、顕子自身が、浩司について行こうと決意することが、最大のナゾです。なぜ? 浩司の「君を必要としていた」の言葉が効いた? ……まさか!! あの時点の顕子が、自ら美月のそばを離れる決断が出来る精神状態とは到底思えません。浩司の言葉など、現実ではほとんど意味をなさないと思います。

 信田さんの言うように「鍵はやっぱり父親にあることが伝わってほしい」ということで、あの浩司のセリフが入ったのでしょうが、、、。あまりにもあの一言だけでは説得力が低い。

 そして、さらに信田さんの懸念していた「一番恐れたのはあまりにもあっけなく母が変化することで、娘の感じ方が過敏で問題だったんだ、一時的で遅れて来た反抗期だったんだという感想が生まれることだった」というのは、一部の人の目にはそう映っただろうと思いますね。こういう経験をしたことがない人には特にそう感じた人が大勢いただろうと思います。

 あんな吹っ切れた顔して、空港から旅立つ顕子さんは、やっぱり、この問題に心底悩む者たちから見ると違和感バリバリです。

 そう言う意味で、最終回の展開は、いささか物足りないのです。もちろん、素晴らしいドラマであることは前提です。


◆私が最終回のシナリオを書くとしたら、、、

 私だったら、海外へ行くのは、浩司ではなく、美月にしますね。今の仕事も、松島の存在も、全て捨てて、美月を海外に旅立たせます。

 まあ、そうすると、松島との別れを予感させるので、視聴者受けが良くないかも知れないけど、海外へ行くこと=松島との別れ、というのも違うでしょ。縁があれば、そう簡単には別れないものです、男と女なんて。

 それよりも大事なのは、顕子と美月の物理的な分離です。しかも、顕子が自ら気付きを得る展開は、現実的にはほぼあり得ないことを思えば、ここは、美月が顕子から全力で“逃げる”展開にする方が、むしろドラマチックになる上、リアリティも増します。

 海外へ美月が行くのには、根拠があります。美月は、“教師”という仕事には疑問を持っていたけれど、“英語”は好きそうでした。ならば、英語をもっと極めようと志すのは大いにアリです。しかも25歳とまだ若い。海外脱出費用は、これまで親と一緒に暮らしてきたのだから、貯金もそれなりにあるはず。物語として破綻はないと思います。

 浩司さんには、そんな美月の決断の背中を押す役割を演じてもらいたい。「俺に任せろ」と言った以上、その言葉に責任をとっていただかなければ。自らは、美月が海外へ去った後の顕子の苦しみにとことん付き合うのです。

 顕子は、美月の喪失感と葛藤しなければなりません。この葛藤を経ないで、“気付きを得る”などあり得ません。現実はそんなに甘くない。葛藤する上で、浩司と夫婦として向き合わなければならないのです。ここは、夫婦の試練だと思います。これがなくて、どうして顕子が救われるでしょうか。

 ドラマの展開では、本当の試練……つまり、美月と離れた後の顕子の苦しみを克服すること……が描かれていないので、それまでの修羅場が、結果的にファンタジーに帰結してしまった感じなのです。修羅場はキレイには終わらない。修羅場は修羅場を経て、ようやく収束への兆しが見えてくるものなのです。

 顕子がカウンセリングに行き、浩司が付き添う、というシーンも入れつつ、そうやって、夫婦の試練を乗り越えられそう、、、というところで、エンドマークにしますかね、私なら。美月は帰っては来させません。




(その⑤につづく)

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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その③~

2017-03-27 | ドラマ
 そののつづきです。 


◆「親の言うこと聞いてりゃラクじゃん」(by我が姉)

 美月は、第5回のラストで、ついにママと暮らしていた家を出るわけですが、家出準備を浩司に目撃されてしまいます。浩司は、一瞬驚くんだけれど、美月の気持ちを聞いて納得したのか、娘の背中を押します。その際に、美月が浩司に言ったセリフが、また実に的を射たものでした。

 「ママだけが悪いんじゃない。アタシも、ママと一緒にいるとラクだったし。……きっと、パパも。アタシとママが仲良くしてるのがラクだったんでしょ?」

 これはねぇ、、、言われた父親は堪えるでしょう。浩司を演じていた寺脇さんも、なんとも言えない表情で押し黙ってしまいました。こういうことを見抜く力がある美月は、やっぱり賢いと思います。

 実は、これと似たセリフをリアルで聞いたことがありまして、それを言ったのは、私の実の姉です。姉は、美月のように状況を洞察して言ったのではなく、単に、自分の思うことをポロリと吐いただけなんですが、、、。

 私が、母親が強硬に押しつけてくる見合い話に辟易し、心身共に疲弊していたのを見て、姉はこう言いました。

 「なんでそんなに親の言うことに刃向かうの? 親の言うこと聞いてりゃラクじゃん。何かあったときは責任とってくれるし

 “ラク”とは、どういうことか。

 奇しくも美月は最終回で言っている。少し長いけど、全文を。

 「アタシは臆病でズルくて、ママに嫌われたくないからママの顔色ばっかり気にして、ママの気に入ることだけして、上手く行かないことがあったらママのせいにして自分をごまかして、自分の好きなものも分かんなくて、平気で嫌いなスムージー飲んで、ワンピース着て、ニコニコ教壇に立って、でもそれでいいんだって、アタシってこんなモンだからって……!!」

 「何かあったときは責任とってくれる」(姉の言)≒「上手く行かないことがあったらママのせいにして」(美月のセリフ)、じゃないでしょーか。

 誰かのせいにすれば自分を正当化できるから、自分を責めなくて良い……ラクである、ってこと。

 でも、「人のせいにする」ことは、果たして本当に楽なのか。

 ママのせいにしたからと言って、ママが時計の針を巻き戻してくれるわけじゃなし、ママは上手く行かない現実について、実質的に手も足も出ないのである。

 ママができることは、せいぜい本人を慰めるか、テキトーなことをいって現実を直視させないか。誠意あるママなら「ごめんね」くらいは言うかもしれないが、それでも何も現実は変わらない。むしろ、本人が いつまでもグチグチ言おうもんなら「いい加減にしなさい! ママが言ったからって、決めたのはあなたでしょ!」とか言って逆切れするのがオチである。

 すると、「ママに逆らったら大変なことになるから言うとおりにしたのであって、私が決めたのではない」と思う本人のやりきれなさはまったく解消されないまま溜まる一方である。これが、本当に楽と言えるのか。


◆漬物石な母親

 結局、楽じゃなかったんですよね、美月も、本当の心の奥深いところでは。だから、25歳になって爆発したわけです。25歳で爆発できただけ、美月はまだまだ幸せです。大抵の娘たちは、茹で蛙のごとく違和感を抱いたままやり過ごしてしまい、気がついたときには茹で上がってしまって取り返しがつかない状況になっているのがオチです。

 本当の「楽」というのは、自由であることじゃないでしょうか。自由とは、自分で自分を偽らないことだと思います。自分だけは自分を裏切ってはいけない。精神的に自立していること。

 ただし、これは自分の思いのままに生きる、という意味ではない。思いのままにならないことなど多々あるけれども、思いのままにならない現実を、納得して受け入れる。受け入れるためには、自らが自らの意思に従って選ばなければ。

 美月は、自分の好きなものも分からなくなるくらい、25歳まで、自分の意思で選択してきたことがない女性だったのです。これを遅れてきた反抗期と見る人もいるだろうけど、反抗期すら許されなかった抑圧された環境だったということです。物心ついたときから、母親が自分の全身に漬物石の様に載っていたのです。最初から載っていたので、重みが分からないまま成長してしまう。しかし、第三者(松島)が介入することで、その息苦しさの原因が母親という漬物石だったことに気付くのです。

 「ママが重いの!!」

 気付けて良かったね、美月さん。





(そのにつづく)
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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その②~

2017-03-14 | ドラマ
 そののつづきです。 


◆それでも美月は恵まれている。

 このドラマを見ていて、そうはいっても、美月の置かれた環境はまだまだギリギリではないな、と思う点がいくつかありました。

 それはまあ、松島のような人間力の高い男性が現れてくれたことや、浩司が家庭を顧みない父親とは言っても全面的に美月の味方になってくれたことや、、、挙げれば他にもありますけれども、娘の立場を経験した者からして何が一番羨ましいかって、それは文恵さん(麻生祐未)の存在ですねぇ。

 文恵さんってのは、顕子の学生時代からの親友。でもって、顕子が現在通う人形教室の講師で、人形作家の自立した女性。離婚歴があって、元夫が顕子の好きな男性だったらしい、、、。でも、文恵さんと元夫はうまく行かずに別れた、ってことの様です。

 この文恵さんが、顕子の異常な美月への執着ぶりを冷静に見極めており、顕子に時々「行き過ぎである」と忠告してくれる存在なのです。もちろん、そんなことで目の覚める顕子ではないけれども、家族以外の他人である第三者が、しかも身近に存在する人が、“母親の異常性を理解している”、、、このことは、娘の立場になってみると、非常に重要です。

 現実では、世間の見方というのは大抵の場合、「親は子の幸せを願わないわけがない」なんですよ。つまり、世間というのは、まあ、十中八九は母親の味方をしてしまうのね。娘も(当然ながら)そういう一般論的価値観に毒されているので、世間にそう言われると「やっぱり自分がおかしいのか、、、」と、自己嫌悪と罪悪感に襲われて絶望するのです。母親との確執を抱えた娘でこういう絶望を味わったことのない人は、恐らく皆無でしょう。皆が、一度は味わう“目の前が真っ暗になる感じ”なのですよ。

 しかし、文恵さんのような存在が、外側に1人でもいてくれるというのは、娘にとってこれほど心強いことはありません。「お母さんの方がおかしい」と言ってくれる人がいる。それが、文恵さん、たった1人でも、もう百人力のような気持ちになります。

 これはね、彼氏とか恋人とかじゃダメなのよ。ドラマの中でも、松島は非常に重要な役どころですが、いかんせん、恋人ってのは娘と目線が同じです。少なくとも、娘から見て、世間を代弁してくれる存在とはちょっと違う。文恵さんは、人生の修羅場をかいくぐってきたオトナな女性。美月よりも、松島よりも、遙かに先を行く人生の先輩です。しかも物心両面で完璧に自立している。そんな達人が「あんたのお母さんはヘン」と言ってくれるんです。この重みは、松島にも代わることはできないのです。

 私も、若い頃、「あなたのお母さん、おかしい」と、面と向かって言ってくれた人が2人いました。ですが、2人とも男性で、なおかつ同年代。彼らは、私にとって尊敬する人たちでしたから、そう言われることで「やっぱりおかしいのか……!?」とまでは意識が到達しましたが、「そうか、あの母親は、やっぱりおかしいんだ!!」という確信にまでは至りませんでした。それは、先に書いたような理由だからだと、ずっと後になって分かったことなのです。

 まあ、文恵さんの存在があったからと言って、美月の葛藤が消えるわけでは当然ないのですけれどね。でも、文恵さんの存在がなければ、美月だけではなく、早瀬家自体がもっと煮詰まっていた可能性は高いと思うのですよねぇ。

 なぜなら、これはドラマだからなんだけれども、この文恵さん、適度に早瀬家に介入してくれるんですよ。時には、浩司を職場に訪ねて、美月の窮地を救います。夫に直接もの申してくれる第三者がいるなんて、これは、顕子にとっても素晴らしく幸せな環境だと思いますね。実際、こんな文恵さんみたいな人、まずいないでしょうね。

 だからこそ、文恵さんのような存在が身近にいてくれたらどんなに良いか、、、。このドラマを見てそう思った娘たちはたくさんいると思います。娘をとっくにやめた私も思ったのですから。


◆美月は賢い。

 美月は、25歳にもなって母親のことを「ママ」と呼んで憚らず、身の回りの世話も母親にしてもらって、正直、大丈夫か? と言いたくなるような娘なんだけれども、でも、芯の部分では非常に賢い女性だと、ドラマが回を追うごとに思いました。もちろん、美月の成長譚なのですから、そういうものかも知れませんが、彼女は、あの若さで、もの凄い洞察力を持った人です。

 第7回のラストで、「自由にしなさい。その代わり、松島さんとは別れなさい。だって、独立するんでしょ? 独立するのに男の人に頼るなんておかしいじゃない!!」と絶叫する顕子を見て、美月はこう言うのです。

 「ママ……、私に嫉妬してるの? いつもそうだった。言うとおりにしていれば、ママは嬉しそうだったけど、私が自分で幸せになろうとするのはイヤなんでしょ?」

 正直、この台詞を聞いて、この若さでここに気付くなんて、(そりゃドラマの中の世界だけど)美月は賢い!!と、驚嘆してしまいました。これ、なかなか気付けないのですよ、普通の娘は。

 まあ、このやりとりから言って、見ている人にも分かりやすい流れだとは思います。この流れなら「嫉妬する母親」というのも、見ている方も受け入れやすい。でもね、現実では、たとえこういう分かりやすい流れでも、なかなか「嫉妬」という言葉は、娘の脳裏に浮かばないのですよ。

 なぜか。

 娘は、母親を女としては(全く)見ていないからです。母親も、娘を女として自覚的に見てはいないでしょう。でも、無自覚で、母親は娘を女として見ていることはママあると思います。

 この「嫉妬」というキーワードにたどり着くまでに、娘は大抵の場合、かなりの葛藤を経験するはず。私の場合、そこに気付いて、ようやくイロイロな呪縛が解けていった気がしますね。そうだったのか、、、と目からうろこな感じで。

 そう、美月の言ったことはドンピシャリの正解なのです。これは、以前の記事にも書いたけれど、母親は、娘に嫉妬するのです。ドラマの流れだと、男がらみの嫉妬、と解される可能性もありますし、実際そういう部分もあるでしょうが、どちらかというと、そういう色恋ではなく、「同性としての娘の生き方への嫉妬」ですね。自分が手にできなかったものを手に入れる娘を見るのが、死ぬほどイヤなのです。

 そんな母親いるか? と思うor思えるあなたは、きっと、比較的問題の少ない家庭に育った人か、あるいは、問題に気付いていない人か、どちらかでしょう。私も、40歳近くになるまで気付いていなかったので、、、。

 母親が、自らの嫉妬心に気付くこと、認めることは、多分、そうはないでしょう。そんなの、母親としてのプライドが許さないはずです。私の母親にそんなこと言ったら、母親は激高し、怒りのあまり憤死するかも知れません。それくらい、母親にとって受け入れがたい事実でしょう。

 嫉妬してしまうのは、自らの人生が満たされていないからなんですよねぇ。それは、環境のせいも多少はあるけど、申し訳ないが、やはり自分の努力不足もかなりある。夫と向き合おうとしない、自分の人生に向き合おうとしない、娘に愛情を注ぎ込んでると自己陶酔に陥って自らの客観的姿を見ようとしない、、、。そういうことを全部ひっくるめて、娘ごときに「私に嫉妬してるんでしょ」などと言われた日にゃ、、、。

 顕子は、どうして働かなかったんでしょうねぇ、、、。経済的に自立できていたら、もっと違う人生が開けたかも知れない。あんなに娘のことばっかり考える時間もなかったはず。要はヒマなんですよねぇ、顕子さんは。

 その他でも、美月は、短絡的な行動をとることなく、どんなときも、自分できちんと考え、困難にも立ち向かう強さも持っています。演じた波瑠さんの持つ雰囲気もあるでしょうけど、いつもどこか凛とした姿勢を持っている美月は魅力的です。こんな素晴らしい娘を育てたんだから、顕子さん、あなた、自信持って良いんですよ、本当は。



(そのにつづく)




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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その①~

2017-03-08 | ドラマ
 今年のNHKドラマ10は、「お母さん、娘をやめていいですか?」という、なかなかインパクトあるタイトルのドラマでスタート。開始直前、年明けの番宣で知って、これはイヤでも見てしまうなぁ、、、と思って、実際、毎回欠かさず見た次第。

 映画以外のことはほとんど書いていないブログですが、このドラマについては、ちょっと他人事とは思えないものがありまして、、、。

 ドラマのあらすじを一応。番組HPからコピペです。その他、細かいことはリンク先のWikiをご覧ください。

====ここから

 娘、早瀬美月(波瑠)25歳。母、早瀬顕子(斉藤由貴)50歳。美月の中学受験や大学受験、就職の時もいつも二人三脚で頑張ってきた。

 美月は完璧な母のサポートで順調に育ち、今は女子高の英語教師となり、母であり一番の親友である顕子を全面的に信頼していた。

 二人はまるで恋人同士のように仲の良い母娘だった。この母娘の密着を父、浩司(寺脇康文)は気にかけていたものの、仕事一筋で二人の関係に踏み込むことができないでいた。そんなとき、新築中の早瀬家を担当するハウスメーカーの松島(柳楽優弥)が、不思議な人懐っこさで二人と親しくなる。顕子は彼を気に入り、美月とつきあうように背中を押すが、美月は松島と会うことで、自分が無意識に母親の顔色を見て生きてきたことを自覚していく。顕子は娘が次第に変わり、自分から離れて行くことに動揺し、自分の一番大切なものを奪われたくない、と次第に心の奥の危険なスイッチが入っていく。そして、ついに松島を誘惑してしまう―


====コピペ終わり。



◆現実の“母と娘”の確執にハッピーエンディングはない。

 ここまで、“母と娘”の確執にフォーカスしたドラマって、これまで多分なかったんじゃないでしょうかね。本作は、 波瑠さん演じる娘が主役のドラマだったし、何より私自身が娘の立場で似たような経験をしたので、まあ、どうしたって美月の目線で見てしまいましたわねぇ、、、。

 実は、かつて私がシナリオコンクールに応募していたときに、このテーマで作品を書いて提出したことがありますが、その際、主人公は、母親側にしました。なぜかって、娘の立場で書いたらあまりにグロテスクになりそうだったし、母親の目線で見ることによって母親の気持ちが少しは分かるかも、と考えたからです(分からなかったけど)。

 コンクール作品は、大抵1時間もののドラマですから複雑な話は書けませんけど、母親とその母親(つまり私の祖母)や、夫(つまり私の父)との関係性にかなり根の深い原因があるだろうと思ったので、母親が夫と結婚する前にタイムスリップして、人生やり直すとしたらどうするか、という筋立てで書いたわけです。コンクールには暗黙の掟があり(今はどうか知りませんが)、やはりハッピーエンディングか、せめて救いのあるラストにすることが求められるため、私も無理矢理、救いのあるラストにしたんですけれど、本来、“母と娘”の確執問題で救いのある展開というのは、非常に稀なケースなので、経験者から見れば甘いラストになるわけです。

 我ながら、こんな甘い話は非現実的だと思ったけれども、やはり、お茶の間で見るドラマである以上、あまりに救いのないバッドエンドのフィクションをわざわざ見たい人なんて少ないでしょうから、こういうもんだと割り切って提出しましたよ。結果は、最終審査手前で落ちましたけどね。 

 どう甘いラストだったかというと、母親が自分の過去を辿ることで改めて夫の存在の大きさを思い知り、娘に執着していた自分の病理について、母親自身が気付きを得る、というものです。“母と娘”の確執において、救いのあるラストにするならば、母親が自ら変わるしかないのです。そして、そんなことはほぼ100%あり得ないと、経験者は皆身をもって分かっているので、“やっぱドラマよね~”と思うわけ。

 この「お母さん、娘をやめていいですか?」の脚本は井上由美子さんという素晴らしい書き手で、この井上さんが一体、どうやってこのドラマを着地させるのか、ドラマが始まったときから興味津々でした。バッドエンドはあり得ないだろうから、であれば、井上さんはどうするのかな、と。

 そして、3月3日の最終回は、、、。


◆母よ!! 父よ!!

 まあ、やっぱりそうなるよなぁ。……というのが、正直な感想でした。

 そう、最終回、美月の母が、夫との関係性を見つめ直すことによって自ら気付きを得て、娘からの自立のための一歩を踏み出す、、、というものでした。さしもの井上さんも、やはり、こう来たか、という感じです。……というより、それしかないんだよね、マジな話。

 番組HPの掲示板をざっと見たところ、やはり、この最終回については「現実はあんなに甘くないが、ドラマだからあれで良いと思う」という意見が多く、中には「がっかりした」というのもチラホラ。まあ、そうなるでしょうねぇ、、、。どちらの意見も分かります。

 最終回のシナリオについては、監修の信田さよ子さんに一度はダメ出しされたそうです。信田さんのツイッターを拝見したところ、「鍵はやっぱり父親にあることが伝わってほしい」「一番恐れたのはあまりにもあっけなく母が変化することで、娘の感じ方が過敏で問題だったんだ、一時的で遅れて来た反抗期だったんだという感想が生まれることだった」と書かれていた。確かに、それはその通りで、その苦心の跡は窺えるシナリオだったと思うけれども、経験者からすると、物足りなさを感じるのは否めないかもね。

 ただ、このドラマが凄いのは、“母と娘”の確執という、普遍的かつ壮大でグロテスクなテーマを、極めて分かりやすく、エキスだけを(少なくとも最終回までは)過不足なく盛り込んでいるところだと思うのです。リアリティを持たせながら、なおかつ、ドラマとして破綻しない程度にデフォルメし、それでいてこの異常さの根源には“夫婦の関係の希薄さ”という暗くて深い川が横たわっていることを浮き彫りにしています。こういう描き方ができるところが、やはり、井上さんは素晴らしい、と言われる所以でしょうねぇ、、、。

 そんなわけで、最終回は若干甘さを感じたけれど、ものすごく見応えのある、秀逸なドラマだったと、見終わっての満足感はかなり高いのですが、……というか、高いからこそイロイロと思うところがあるわけで、それらをこれから書き留めておこうと思います。


(そのにつづく)



 


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