映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

聖地には蜘蛛が巣を張る(2022年)

2023-05-13 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv79820/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 聖地マシュハドで起きた娼婦連続殺人事件。「街を浄化する」という犯行声明のもと殺人を繰り返す“スパイダー・キラー”に街は震撼していた。だが一部の市民は犯人を英雄視していく。事件を覆い隠そうとする不穏な圧力のもと、女性ジャーナリストのラヒミは危険を顧みずに果敢に事件を追う。

 ある夜、彼女は、家族と暮らす平凡な一人の男の心の深淵に潜んでいた狂気を目撃し、戦慄する——。

=====ここまで。


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 何かの映画を見に行った際に、チラシを見て「こりゃ見たい、、、」と思って、監督名を見たら、あの『ボーダー 二つの世界』アリ・アッバシ。これは見るしかないでしょ、、、と、内容に気が滅入りながらも(じゃあ見るなよ、、、というツッコミはナシで)劇場まで行ってまいりました。


◆戦慄のラストシーン

 娼婦は汚れた女だから抹殺して街を浄化することが神の意志である、、、って文字で書いているだけで気が狂っていると感じるのだが、そう感じない人々がいるらしい。

 だいたい、娼婦が汚れた女って言うけど、娼婦だって相手が居なきゃ商売が成り立たないわけで、つまり、娼婦を買う「男たち」がいるから、彼女たちの身体はその男たちに消費され続けているわけなんだが。そんなに娼婦を一掃したいなら、買う男たちを一掃しろよって話。需要供給曲線なんだよ。何で売る方ばっかし罰することしか頭にないのか。

 日本の売春防止法も、売春する側(=女)は犯罪者扱い、買う側は不問、、、という長いことえらく非対称な法律であった(一昨年改正されて、「困難な問題を抱える女性支援法」として今年4月施行)。これも、本作の背景にある思想と、根っこは同じだろう。

 売春防止法が改正された背景は、売春に至る理由として、貧困やDV等があって、売春する側は生きるための最終手段として身体を酷使する労働に着かざるを得ない、、、ということがあるからだ。それは、本作で殺された娼婦たちもまったく同じであり、おそらく古今東西共通のものだろう。そういう根本的な問題を解消せずに、事象だけ追ったところで、世の中から娼婦はいなくなりませんよ、、、ってことが、ようやく日本でも認識され始めたようである。

 本作はミステリー要素はなく、犯人は早い段階で分かるのだが、殺す場面をストレートに描いておりグロくはないが残虐である。犯人サイードは、殺す相手をバイクで物色して探し、ターゲットを定めるとその女性をバイクの後部席に乗せて、何と自宅に連れて来る。隙を見て、女性が被ることを義務付けられているヒジャブを奪い取って、それで娼婦たちの首を絞めて殺すという方法を繰り返す。

 ある女性のときは、殺した後に予定より早く妻が帰宅してしまうのだが、サイードは絨毯に女性をくるむという雑な方法で女性の遺体を隠し、その横で、妻とセックスに及ぶという、、、まさにグロテスクなシーンもある。

 警察の捜査も杜撰なのかなかなか犯人は捕まらないが、あまりにも同じパターンで殺人が繰り返されると、世間の注目度も下がって来る。新聞で事件の扱いが小さくなると、サイードは売店の店主に「何で事件の記事が載ってないんだ!」とかイチャモンつけてるんだが、文句言う相手違うやろ、、、と内心ツッコミ。結局、サイードは、神の意志なんか関係なく、自己顕示欲を満たすために娼婦殺しを繰り返していただけってことだ。

 そういうサイードの内面もじわじわと描かれていくが、イラン・イラク戦争での従軍経験が背景にあるとされている。そこでも大した働きをすることができず、国はよくならなかったし、自分の暮らし向きも良くならない。自身の存在意義を否定されたような感情に、動機の根っこがあるということらしい。

 ……何であれ、結局、自分より弱い者を暴力で黙らせるしかできない、小心者の卑劣漢でしかないのだが、それが如実に描かれるのが終盤。どういうシーンかは敢えて書かないけど、こんな風に描くなんて、やはり、アッバシ監督はメチャクチャ意地悪である。判決どおりに死刑になっても、誰も救われないし、見ている者も全くカタルシスは得られない。

 しかも、その後のラストシーンで、さらにアッバシ監督の曲者ぶりを見せつけられる。彼は、おそらく、故国イランを愛憎半ば、どちらかと言えば嫌悪しているのだろう。公式HPの彼のインタビューで「連続殺人犯の映画を作りたかったわけではない。私が作ろうと思ったのは、連続殺人犯も同然の社会についての映画だった」と言っている。ラストシーンは、まさにこの言葉通りのものとなっていて、何とも後味が悪い。


◆「連続殺人犯な社会」に生きるということ。

 で、私が気になったのは、これだと、本作を見た人たちはイランを嫌いになってしまうんじゃないか、、、ってこと。特にラストシーン。

 確かに、ヒジャブがきっかけで殺人事件まで起きている国であるから、正直なところ、あまり良いイメージはない。けれども、歴史を見れば、何もネガティブな感情ばかりに支配されるものではないし、宗教や文化、社会風習等というものは、外からはなかなか理解できない部分も多いのが当たり前である。

 そうはいっても、実際にあった事件を元ネタにした映画、、、という宣伝文句では、これがリアルだと思ってしまう観客は少なからずいるはずだ。

 アッバシ監督は、某全国紙のインタビュー記事で「この映画がイラン社会そのものを象徴していると受け止めないで。フィルムノワールだ」と言っているが、それはなかなか難しいだろう。イスラーム映画祭のTwitter(リンクは貼りませんのでご興味ある方は検索してください)でも、懸念のツイートがされていて、そらそーだよな、、、と思ったもんね。

 ミソジニーは、何もイスラム社会に見られる特徴ではなく、世界中に程度の差はあれ存在するのであって、むしろ、潜在化している一見リベラルな社会の方がタチが悪いかも知れないわけで。

 ただ、アッバシ監督が言うとおり、「社会」が「連続殺人犯も同然」というのは、本作でよく描かれており、その辺は受け止め方で賛否も分かれるところだろう。先のイスラーム映画祭のTwitterも「露悪的」と書いていたけれど、、、。

 サイードが犯人であることを突き止める女性ジャーナリスト・ラヒミを演じたザーラ・アミール・エブラヒミが素晴らしかった。現実にはあんなことは難しいと思うが、イランでも多くの女性たちが闘っているのも事実。日本で声を上げるのだって、とんでもない風当たりなのに、ラヒミはその象徴として描かれてもいたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 


イラン、一度は行ってみたい国。

 

 

 

 

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セデック・バレ(2011年)

2023-05-07 | 【せ】

作品情報⇒第一部 太陽旗https://moviewalker.jp/mv50313/
第二部 虹の橋https://moviewalker.jp/mv50314/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
《第一部》台湾中部の山岳地帯で暮らす狩猟民族のセデック族は、自然と共存する一方、戦った相手の首を狩るという風習を持っていた。1895年に日清戦争で清が敗れると、台湾に日本軍が押し寄せ、彼らは独自の風習や文化を捨て、日本人として生きる事を余儀なくされる。それから35年、日本人警官との衝突を機に、彼らは武装蜂起を決意する。

《第二部》セデック族が連合運動会が行われていた霧社公学校を襲撃した。突然の出来事に多くの日本人が命を落とし、日本政府はすぐさま鎮圧にかかる。セデックの人々と友好関係を築いていた警察官の小島は妻子を殺されて激怒する。一方、優秀な成績で学校を卒業し、日本名を与えられたセデック出身の花岡一郎と二郎は両者の間で葛藤する事に。

=====ここまで。


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 最近、胃腸の調子がイマイチで、かかりつけ医に薬出してもらってのんでいるのですが、かれこれ1か月以上も続いていて、先日足してもらった薬がここに来てちょっと効いているみたいです。早く治して、好きなものを躊躇なく食べられるようになりた~い! ……というのも、もうすぐ台湾に行く予定だからです。弾丸ツアーですけど、、、。美味しいものがいっぱいある台湾に行くのに、胃腸が、、、とか言ってられない。

 というわけで、行く前に泥縄予習中でして、その一環として本作を見ました。大東和重著『台湾の歴史と文化 六つの時代が織りなす「美麗島」』(中央公論新社)という本を読んだら、その中で本作のことが書かれており、TSUTAYAにあったのでDVDを借りて見てみました。

 ……想像以上にエグい事件で、ちょっと見た後落ち込みました。


◆霧社事件

 本作のベースとなっているのは、霧社事件(むしゃじけん)という、日本が台湾を統治していた1930年(昭和5年)に実際にあった事件。先住民族であるセデック族が起こした抗日反乱事件で、前述の書籍にも簡単な概略の説明があったので、かなり凄惨な事件だということは知った上で見たのだけど、想像以上で愕然とした。

 一部・二部と合わせて4時間半くらいあり、もちろん、一気に見たわけではない(精神的に一気に見るのはキツ過ぎる)。内容は上記あらすじのとおりで、霧社事件の複雑さがよく分かるように作られていた。

 台湾は親日だとか耳にすることもあるが、本作などを見れば、それはもの凄く一面的であることが改めてよく分かる。どこの国の民が、よそから来た者たちに統治されて喜ぶだろうか。そんなことは少し考えれば分かることである。ましてや、セデック族は、首狩りの風習があることから“野蛮だ”と決めつけられて、台湾人以上に差別されたというから、このような蜂起が起きるのも道理というもの。

 首謀者とされるモーナ・ルダオは、族の中のある部落の長で、部落の者たちが耐えかねて日本に対する蜂起を訴えても「放棄した後殲滅されてもいいのか?」と言って皆を鎮めていたのだが、ある日、部落で行われていた結婚式の場で、日本人の警察官とトラブルが起き、暴動の一歩手前の状態になってしまったことを機に、日本の報復を恐れて「ここに至っては、もう蜂起するしかない」となる。

 事件の始まりの描写は凄惨そのもので、日本人たちの運動会が行われている場に、ルダオ率いる族の一団がなだれ込み、日本人を片っ端から容赦なく斬殺していく。女も子どもも容赦ない。いきなり首を刎ねてしまうシーンもあり、グロさはなかなかのものだった。

 第一部は蜂起が一段落し、ルダオがこの後のことを思い天を仰ぐシーンで終わる。


◆死を覚悟の蜂起ではあったが、、、

 第二部は、日本による徹底掃討作戦が描かれるが、セデック族の奮闘ぶりが凄まじく、映画なのでデフォルメがあるだろうが、あの身体能力に、日本の軍隊がかなうはずはないだろうな、、、と見ていて思った。

 族にしてみれば、日常の生活圏であるジャングルを縦横無尽に裸足で自在に駆け回り飛び回る。一方の日本軍は、けものみちを辛うじてよたよた進むのが精いっぱい。当然、樹上から矢や銃弾の嵐を浴びて、部隊は全滅する。また、峡谷にかかる吊り橋を、日本軍が渡ってこられないように落とすシーンがあるが、その力強さに圧倒される。

 業を煮やした日本軍は毒ガスを使用するなどして、最終的には制圧するものの、日本人や軍の損失も甚大なものとなった。

 首謀者ルダオは、部落民らに「あとは好きにしろ」と言い残して、自らは姿を消してしまう。まあ、捕まれば拷問・虐殺だろうから、尊厳ある最期を、、、ということだったのか。どのような最期だったのか明確な描写ないが、自決したのだと思われる。遺体も、死後かなり経ってから見つかっているらしい。

 ルダオ以外の戦闘で生き残った者たちの多くは、自決して果てて行く様が執拗に描かれる。逃亡の途中で女性たちが一斉に首を吊るシーンは、ちょっと見ていられなかった。その場所に、戦闘後の男たちもやって来て首を括る、、、とか、もう言葉もない状況。

 本作は、台湾制作で(日本人俳優も結構出演している)あり、日本人の描写に容赦ないが、これが実態だったのだろう。

 こういう映画を見るまでもないが、いかに、他国を力で押さえつけることが理不尽で命の無駄遣いであるか、無力感に襲われるばかり。これも歴史の一幕に過ぎないと言えばそれまでだけど、前述の書籍を読むまで私はこの事件のことを知らなかったので、台湾に行く前に知って良かったと、つくづく思った次第。

 

 

 

 


セデック族の入れ墨(成人の証)の模様が印象的。

 

 

 

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セールスマンの死(1951年)

2022-02-06 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv4893/


 長くセールスマンとして働いてきたウィリー・ローマン(フレドリック・マーチ)は、歳をとって運転も覚束なくなってきた。そんなウィリーの身体を心配する妻リンダ(ミルドレッド・ダンノック)であったが、ローマン家では、まだ家や家財のローンが残っている。

 出張から戻ったウィリーをリンダが労っていたところ、彼らの2人の息子が帰ってくる。放浪の旅をしていたプータローの長男ビフ(ケヴィン・マッカーシー)と、女好き二男のハッピィ(キャメロン・ミッチェル)。この2人の息子たちは、ウィリーの期待に背き、不甲斐なさ全開である。ウィリーは2人が帰ってくるなり、ビフに罵声を浴びせ、家の中は険悪に、、、。

 父親の一方的な期待に反発し、不甲斐なさに自己嫌悪を抱きながらも現状から脱しきれない息子と、我を顧みず、息子たちの人生で自分の人生をリベンジしようとする父親の、哀しい親子の鬱物語。


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 4月に、本作の基となった舞台が、主演・段田安則氏で上演されるとのこと。少し前に風間杜夫でも上演されていたみたいだけど、段田さんは割と好きな役者さんなので見てみたいと思い、チケットも無事ゲットできたので、まずは映画から見てみることに。聞きしに勝る鬱映画で、これは気分が落ち込んでいるときには見ない方が良い映画です。


◆何で自分ばっかり、、、

 本作は、現在シーンに、過去の回想シーンが頻繁に挟まる。といって、時系列がグチャグチャというわけではないので、見ていて別に混乱するとか分かりにくいということはないのだが、ネットで本作についての感想をチラホラ見てみたら、ウィリーは認知症だと書いている人が複数いて驚いた。……確かに、身体は衰えたという設定だが、認知症ということではないと思うのだけど、、、。

 それはともかく。

 セールスマン=営業マン。営業ってなくてはならない職種なんだが、なかなかキャリア形成という側面は難しい職種だと思う。何年やっても専門職とは言えないというか。それは、50年代のアメリカでも同じだったようで、若い社長に、ウィリーが「歳でしんどい……」ってことで事務職へ異動を願い出たところ、にべもなく却下され、クビを言い渡されてしまう。

 長年セールスマンをやってきて、会社に貢献してきたという自負の強いウィリーにしてみれば、こんな扱われ方、歳の取り方は不本意に違いない。だから、2人の息子の人生で、自分の人生のままならさを回収したくなるのも、まぁ、、、、分からんではない。息子たちが立派になったのを見れば、自分の苦労も報われる、ということだろう。

 しかし、そうは問屋が卸さないのが人生でして、、、。

 ウィリーみたいな男性優位思想の男は多い、、、という感想もいくつか目にしたが、男性優位思想もあるけど、根本的には“自分と向き合えない人”であって、こういう人は男女問わずそこらへんにいっぱいいる。自分と向き合う勇気がないのだよね。だから、必然的に自信もない。けど、プライドだけはものすごく高い。自信がないから、自分の価値観を、自分より弱い者に強制して支配することで、自分の承認欲求を満たそうと必死になる。必死になればなるほど、自分が支配しているはずの人間に背かれ、遂には逆襲される。

 ウィリーが家族のために頑張ってセールスマンとして働いてきたことが彼の望む形で報われなかったのは、別に息子たちのせいではない。息子たちがどう生きるかを決めるのは息子たち自身なので、セールスマンとして頑張ってきた“のに”息子たちが不甲斐ない、というのは、一見まっとうな文言かと思うが、ウィリーがセールスマンとして頑張ってきたことと息子たちの生き方に因果関係はないのだから、“のに”という接続詞は正しくない。

 しかしまあ、、、実際は子育てはものすごく大変だろうから、正論で済むほど単純じゃない、、、ってのが親の理屈なんだろう。ちょっと前に某全国紙で、「親ガチャ」という言葉に関連して家族とは何かという特集が組まれており、評論家の東浩紀がインタビューで「よく『子は親を選べない』と言いますが、哲学的には『親は子を選べない』ことの方が重要です」と言っていた。「哲学的には」なんてエクスキューズして小難しく言えば免責されるとでも思っているのかも知らんが、失礼ながら東氏も人間としてウィリーと同根だと思う。東氏のことはよく知らんけど、彼のTwitterを時々見る範囲で、その物言いというか、思想は好きじゃない。前述の発言も驚きはしなかったけど。

 ウィリーの最大の問題は、自分“ばっかし”苦労したという意識に凝り固まっており、自分の言動が息子たちに辛い思いをさせて苦労させたということに全く気付いていないこと。ウィリーが苦労したのは、主に自分のせいであって、それなのに、その苦労の報いを息子たちから回収しようとするからモメるのだ。自分の問題は自力で解決してよ、ってことよ、子供から言わせてもらえば。


◆必ず後悔する人・ウィリー

 ウィリー自身も、息子たちも、あれもこれも上手くいかず八方塞がりとなり、ついに長男ビフに現実を突き付けられて反撃される。そこでようやくウィリーは、自分に非があったのか??となるのだが、彼の気の毒なところは、それで人生全てが否定されてしまった、、、と思ってしまうところ。

 で、ついにちょっとおかしくなっちゃって、夜中に庭で種まきを始めたりとか……。

 私の母親もそうだが、私に何かネガティブな指摘をされると、「自分のことを全否定された」と思い込んで激高するんだよね。別に全否定なんかしていないのに、全否定されたと思っちゃう。二進法的思考回路。何でも白か黒かでしかモノを考えられない。こういう人がいると、周囲が大変なんだよね、ホントに。

 途中で、ときどきベンという名の、ウィリーの兄とされる男が回想シーンで出てくるんだけど、ベンはリスクのある人生を選んで金持ちになった、という設定で、言ってみればベンはウィリーの理想の姿を体現している存在なのだ。

 でもさ。ウィリーみたいな人って、どんな人生でも“必ず後悔する人”だと思うなー。満たされないことばかりに目が向いてしまう人。物事を引き算でしか見られない人。私は常々、世の中には“必ず後悔する人”と“絶対後悔しない人”の2種類しかいないと感じているんだけど、ウィリーは前者だろう、間違いなく。そうやって、たら、れば、を妄想することで自分をかろうじて保っているのだから。

 他力本願というか、他罰的な思考って、苦しいと思うなぁ。学生時代の友人が、むか~し、何か思い通りにならないことがあったとき「人のせいにする方が楽だ」と言っていた。自分は悪くないと思えるからだそうだ。私の姉も大昔「親の言うとおりにしていれば、もし何かあっても親のせいにできるから楽じゃん」と、友人と似たようなことを言っていた(ちなみに、友人も姉も、私よりもゼンゼン優秀です)。でも、本当に“楽”だろうか。

 そして、友人・姉ともによく言うセリフが「あの時、〇〇だったら~」的なこと。しょっちゅう後悔するのって、楽じゃないんじゃない??

 まあ、こういうことを言うと、自己責任論か! とか言われちゃうかもだけど、自己責任論とは違うんですよね、、、。むしろ、他罰的な思考こそ、自己責任論と親和性が高いのだが、、、それを書くと長くなるのでここではやめときます。

 ウィリー役のフレドリック・マーチが鬼気迫る演技で、とにかく素晴らしかった。回想シーンに入るときの、ちょっと遠くを見る表情とか、実に切ない。最期も悲劇的。あれは私は事故だと思ったんだけど、自殺と解釈している人が多いみたい。

 果たして、4月の舞台で、段田さんはどんなウィリーを演じてくれるのか。楽しみ。


 

 

 

 

 

 

 

 

アーサー・ミラー(DDLの義父)の戯曲も読んでみようと思います。

 

 

 

 

 

 

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世界で一番美しい少年(2021年)

2022-01-02 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75182/


  ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971)で、あの美少年タジオを演じたビョルン・アンドレセンの、映画公開後から現在までの軌跡を追うドキュメンタリー。
 

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 新しい年が明けました。今年は寅年。トラといえば、大分前に流行った「動物占い」で、私はトラでした。その特徴やら気質やら書かれていることを読むと、まあ、割と当たっているかなぁ、、、と思ったものの、むしろ玖保キリコの絵が可愛くて、キャラとして気に入っていました。懐かしい、、、。

 今年はどんな年になるのやら。“疫病”は収まるのでしょうか。もはや、マスクが顔の一部と化している気がします。収束宣言が出て、マスク解禁になっても、マスクしないで出歩くことに、しばらくは抵抗がありそうです。もともとマスクは好きじゃないほうだったのに、習慣とは恐ろしい。

 何はともあれ、皆さまにとって良き年となりますように。

 本作は、大晦日に見に行きましたので、2021年の劇場鑑賞おさめ作品となりました。


◆罪深きヴィスコンティ 

 冒頭から、ホラー映画かと思うような不穏な映像と音楽で、こりゃヤバいかも、、、と思ったが、見終わってみれば、非常に真摯に作られた良作だった。

 序盤、ヴィスコンティが『ベニスに死す』に起用する美少年探しの映像が出てくる。それはそれは大勢の少年たちがゾロゾロと、、、。しかし、ヴィスコンティは「可愛い子ならいるが、美しい子は、、、」などと文句を言っている。

 が、ビョルンが現れると、ヴィスコンティは明らかに彼にくぎ付けとなり、それこそ“舐め回す”ような視線で彼を無遠慮に眺めまくる。「随分背が高いな」「美しい……」等と言いながらビョルンの周りをぐるぐる回ると、いきなり「脱げ」と命令口調で偉そうに言うヴィスコンティ。そのときのビョルンの表情は明らかに戸惑いが浮かび、不快感が現れている。「え、、、脱ぐ?」と何度か確認し、次の映像はパンツ一丁の姿になっている。それをしげしげと満足そうに眺めるヴィスコンティは、私にはただの“エロおやじ”にしか見えなかった。

 驚いたのは、『ベニスに死す』の男性スタッフのほとんどはゲイだから、彼らには「ビョルンを見てはいけない」というお達しがヴィスコンティから出ていたということ(そのスタッフの中にはヴィスコンティのお手付きが何人も居たのだろう。吐きそう)。そして、そのお達しは、「映画が公開されるまで」の期限付きであったこと。お達しが解かれた映画公開後、早速彼らに連れられて行ったゲイバーで、(明言はされてはいなかったが)ビョルンは彼らにレイプされたと思われる。しかも、そこにはヴィスコンティもいたのだ。「ルキノもいた」と、現在のビョルンが回想していた。

 私は、もともとヴィスコンティはその作品から彼の傲慢さが滲み出ている感じがして苦手だったが、このエピソードを聞いて、決定的に嫌いになった。『ベニスに死す』でキャスティングディレクターを務めた女性が言っていたが「子役を使うときは慎重にならなければならない」というのは本当にそのとおりだと思うが、いくらスタッフがわきまえていても、肝心の監督がアレでは、どうしようもない。

 ビスコンティにとって、ビョルンは一人の心ある少年ではなく、自身の作品のパーツに過ぎなかったのだ。一体、一人の人間を何だと思っているのだ。ビョルンに対する態度一つとっても傲慢そのもので、いくら歴史的名作を撮った監督だろうが、人間としてはまるで尊敬に値しない。映画友はヴィスコンティに心酔しているが、そういう人こそ、本作を見るべきだろう。

 『ベニスに死す』公開後は、ビョルン・フィーバーが世界各地で巻き起こったようだが、日本のそれはかなり異様である。来日時に日本語の歌謡曲をレコーディングさせ、そのミュージックビデオを、タジオみたいな衣装を着させて撮っている。ついでにその歌と映像は明治チョコレートのCMにも使用されていたとか。それをプロデュースしたのは、あの酒井政利氏だが、まあ、よくそんなバカ丸出し企画を思いついてやらせたもんである(ちなみに作詞は阿久悠)。そのときの映像を見ると、ひたすら痛々しい。こんなことを少年にやらせる日本の国民として、私は恥ずかしさを禁じ得ず、正視できなかった。

 世間知らずの少年ビョルンは言われたままにやるしかなかったのだが、現在のビョルンは(本音かどうかは分からないが)日本が大好きだと言っている。当時会った人たちはみんな親切だったと。本作の撮影の一環として来日したビョルンは、カラオケボックスでその曲を一人で歌っていた。酒井政利氏とも再会しており、生前の酒井氏はビョルンを目の前にして、当時のことを懐かしそうに良き思い出みたいに語っていたから、恥ずかしいとか、少年を食い物にして申し訳なかったとか、そういう感情は微塵もなかったのだろう。芸能界のプロデューサーって、ちょっと感覚がオカシイ人でないと務まらないってことかな。

 ちなみに、あの「ベルばら」のオスカルはビョルンがモデルだ、と、池田理代子本人がご登場でビョルンに話している映像もあった。


◆美貌ゆえ……に矮小化してはならぬ。

 この映画を見ようと思ったのは、『ミッドサマー』(2019)を見ていたから。『ミッドサマー』自体は好きでも何でもない(というか、むしろ嫌い)なんだが、あの映画の中盤で、老人が崖から飛び降りて死にきれず、カルト集団に顔を滅多打ちにされて死亡する老人役を、ビョルン・アンドレセンが演じているのよね。あの老人がビョルンであることは、クレジットを見て初めて知って、すごく驚いた。

 けれど、あの美貌の少年が、顔を滅多打ちにされる(しかもそのグロテスクな顔が結構なアップでモロに映るんだよね)というのに、何となく因縁めいたもの(もっと言えば、過去の美貌に自ら決別するためではないか)を感じていた。『ミッドサマー』を見ていなければ、本作にも興味を持たなかったと思う。

 ビョルンは生い立ちも複雑で、父親は今も分からないそう。異父妹がいるが、母親はビョルンが10歳のときに行方不明となり、その数か月後に森の中で遺体となって発見される(自死)。その後、彼らを育てた祖母が、いわゆる“ステージ・ママ”で、ビョルンの美貌を金儲けの道具にしたのだ。

 ビョルンは、ただただその美貌で映画に起用され、演技も何も特に技能を持ち合わせてはおらず、美貌が消費されつくしたらあっさり世間から放棄され、忘れられた。人気子役が、その後の人生で苦しむという話はよく聞くが、ビョルンのその後も、相当に苦々しい。彼の美貌が、彼の人生を狂わせた、、、という向きもあるようだが、それは違うと声を大にして言っておきたい。彼が苦しんだのは、彼の美貌ゆえではなく、彼の美貌を利用しただけの大人たちのエゴゆえだ。

 ただ、ビョルンは50年経った今、見た目は80過ぎの老人かと見紛う老け方をしてはいるものの、決して悲観的な感じではなく、これからの人生を実りあるものにしたいという意欲が感じられるのは救いである。

 パンフに芝山幹郎氏がそんなビョルンのことを「その後の彼も、特殊な技術を身につけてきたようには見えない。苦痛の痕跡は顔に刻まれているが、苦痛と戦い抜き、それを克服してきた徴候を見つけ出すのはむずかしい。(中略)アンドレセンは、意外に楽天的なのだろうか。あるいは、見かけによらずタフで、打たれ強い部分を秘めていたのだろうか」と書いている。

 苦痛と真正面から向き合い戦っていたら、彼はもっと大変な人生だったのではないか、、、と私は思った。彼が楽天的なのかタフなのかは分からないが、いずれにせよ、彼が荒波をくぐりぬけて現在も生きていることが何よりも重要だ。それに、彼が本作のオファーを受けた理由をこう語っている。

「映画業界において子供たちが搾取されている状況は受け入れ難いものがある/この議論がもっと広がることを願っているよ」
「僕はただの精神的な重圧を抱えた哀れな奴ではないんだ。もしこの映画が誰かにとっての重荷を軽くするものであるとしたら、単なる自己満足的なものというよりもむしろ役立つものになると思ったんだ」

 ビョルンの娘さんの言葉が印象的だった。「父に『脱げ』と言ったヴィスコンティに猛烈に抗議したい」という趣旨のことを話していた。私が彼の娘でも同じことを思ったと思うな。

 

 

 

 

 

 

 

彼の母親は“芸術家・ジャーナリスト・写真家・詩人・モデル”であった。

 

 

 

 

 

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聖なる犯罪者(2019年)

2021-12-06 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv71769/


 
 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 少年院で神父と出会った20歳のダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は、熱心なキリスト教徒となる。前科者は聖職者になれないとわかっておりながら、神父になることを夢見ていた。

 仮釈放が決まったダニエルは、少年院から遠く離れた田舎の製材所に就職することに。製材所へ向かう道中、偶然立ち寄った教会でマルタという少女に冗談で自分は司祭であると言ったところ、新任の司祭と勘違いされ、そのまま司祭の代わりを任されてしまう。

 村人たちは言動も行動も司祭らしからぬ様子に戸惑うものの、ダニエルは若者たちとも交流し、やがて親しみやすい司祭として信頼されていった。一年前にこの村で七人が亡くなる凄惨な事故が起き、事故が村人たちに深い傷を負わせたことを知ったダニエルは、残された家族を癒してあげたいと模索。

 そんな彼のもとに同じ少年院にいた男が現れ、すべてを暴くと脅す……。

=====ここまで。
 

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 この映画は、公開前から楽しみにしていて、今年の1月に公開されて喜んで劇場まで見に行ったのに、不覚にも途中で度々ウトウトしたらしく、終わってみれば何だかよく分からなかったという、、、。まあ、当たり前ですが。

 あんまし劇場に見に行って睡魔に襲われることってないのですが、大抵、睡魔に隙を与えている場合は、その映画が(私にとって)ひどくツマンナイか、前日かなり寝不足かのどちらかですね。本作の場合は、後者でした。中盤までは結構しっかり見ていたのになぁ、、、。

 で、DVDで再見しました。やっぱし、肝心なシーンを見落としていた、、、。


◆司祭の適性はあっても暴力的な彼。

 本作はポーランド映画なんだが、ポーランドといえばカトリックのお国。パンフによると、ポーランドではニセ司祭ってのは割とよくある事件らしい(へぇ、、、)。

 ダニエルは前科者ゆえに司祭になれないのだが、何の前科かといえば、喧嘩の挙句の“殺人”である。ダニエルが司祭になりたいと思ったのは、別にキリスト教に心酔したからという感じではなかった。少年院に来ていたトマシュという司祭の説教やその振る舞いに対する憧れからくるものではなかったか。

 前科者が聖職に就けないことの是非はともかく、せっかく“これだ!”ってのが見つかったのに、絶対的にその道が自分には閉ざされていると知れば、やはり絶望的な気持ちになるだろう。“これだ!”という道に進むことは、更生の可能性が高いもんね。

 でも、成り行きで臨時の司祭になってみると、ますます“これだ!”と体感するダニエル。憧れの“トマシュ”の名を勝手に名乗り、型破りな説教をしたり振舞ったりして、村人からも信頼を得ていく、、、。

 まあ、結果的には、そんな偽りの姿は長く続くはずもなく、本物のトマシュ司祭にバレて、少年院に送り返されるハメになり、ラストシーンは壮絶な暴力の応酬が繰り広げられる。ちょっと正視に堪えない。あんな司祭の真似事をして人々の心を捉えていたダニエルだが、彼の持つ暴力性はゼンゼン変わっていなかったということなんだろう、、、、ごーん。


◆聖職、、、このいかがわしきもの。

 本作で考えさせられるのは、そんなダニエルが、司祭としては前任者の正式な司祭よりもよほど有能で、人々の心の救済の役に立っていたってこと。人を殺したことのある人間が、一方では、傷ついて亀裂ができた村人たちを癒して和解に導くということができてしまう。前任の正式な司祭はしようと努力すらしなかったことを、ダニエルは敢えてやってのけたのだ。

 ダニエルがトマシュ司祭に村から追い立てられる際、ダニエルと親しくなったマルタがトマシュ司祭に「トマシュ(ダニエルのことね)司祭がいなくなったら、教会はどうなるんですか?」と聞くシーンがある。そこで本物のトマシュ司祭は「すぐに次の司祭が来ます」と答えるんだが、そのときのマルタの表情がすごく印象的。本物のトマシュ司祭に対する不信感を隠さないのだ。

 マルタはダニエルがニセ司祭と薄々分かっているが、それでもダニエルを信頼していて、村人たちも同じなのに、本物かなんか知らんが、村の人たちの気持ちも考えずにダニエルを辞めさせるトマシュ司祭は、正しいけどイヤな奴でしかない。

 ……こうして見ると、人の心を救う仕事って何なのかねぇ、、、というのが、本作の主たるテーマなのかな、と思う。

 ちなみに、ダニエルの前任者である正式な司祭はアル中でまともに司祭の仕事がこなせなくなっていた。だから、ダニエルが新任の司祭と勘違いされたのよね。アル中と殺人の前科者と、どっちが司祭にふさわしいか、、、というわけでもないが、なかなかアイロニカルな設定ではある。

 本作を見ていて思ったけど、司祭ってのは、教会のプロデューサー的な役回りなのかなと。ありがたいお説教もいいけど、信者たちをいかに満足させ、納得させるか。正しいことをしていたからって、信者たちが喜ぶとは限らないもんね。田舎の保守的な人たちとはいえ、アル中なくせに四角四面の面白みのない司祭よりは、破天荒でも人間的な魅力のある司祭の方が良いに決まっている。

 ダニエルは、司祭を演じる一方で、ヤクも酒もセックスも俗人と変わらずやっていたわけだが、ホント、じゃあ“良い聖職者”って何?ってなるよね。

 パンフのインタビューで監督は「彼のこの一連の行いというのは、もしもう一度チャンスを与えられれば自分はこのように応えられると社会に訴える絶望的な試みだ」と言っている。また、「もしダニエルが罪を犯さなかったとしたら、そもそもそこまで聖職や教会というものに惹かれていただろうか? そうでないということは容易に想像がついた」とも語っている。

 こうしてみると、前科者は聖職者になれない、という掟は果たして妥当なのか疑問になってくる。罪を犯していない人間なんているのか? という問いも成立するしね。法的な罪を犯していない人間は汚れていないとでも?? かといって、過去に人を殺したことがある人に、心の在り様を解かれても、それも大いに違和感あるしね。まあ、私は今さら宗教に救いを求めようとは思わないけれど。

 ダニエルを演じたバルトシュ・ビィエレニア(またも難しいポーランド人のお名前、、、)は、ポーランドでは名の知れた舞台俳優さんのようだ。シェイクスピア劇もかなりの数出演しているみたい。彼が暗闇でラリッているときの表情が異様で怖い。あのアニメ『ファンタスティック・プラネット』に出てくる巨人ドラーグ族とイメージが被る。でも、司祭の服を着ると、司祭に見えるんだから、さすが俳優、大したものだ。

 なかなかの秀作だけど、劇場で寝てしまったということは、いくら寝不足だったとはいえ、そこまで圧倒的に引き込まれる感じではなかったということだから、は少なめです。どんなに寝不足でも、まったく眠くならない映画もいっぱいあるので。

 

 

 

 

 

 


原題は「キリストの体」という意味だそうです。意味深だ、、、。

 

 

 

 

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聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア(2017年)

2018-04-07 | 【せ】


 

 心臓外科医スティーブン(コリン・ファレル)は、美しい妻で眼科医のアナ(ニコール・キッドマン)と、長女キム、長男ボブの4人で郊外の豪邸に暮らしていた。

 スティーブンは、マーティン(バリー・コーガン)という少年と時々外で会っており、食事をごちそうしたり、腕時計をあげたりと、面倒をみていた。スティーブンは、かつてマーティンの父親の主治医で、スティーブンの執刀した手術の甲斐なく、マーティンの父親は亡くなった罪滅ぼしの意識もあったのか、、、。

 ある日、マーティンを自宅に招いて家族に紹介した直後、長男ボブが立てなくなる。あらゆる検査を受けても異常がなく、原因は分からない。戸惑うスティーブンに、マーティンはこう言う。

 「家族のうち、あなた以外の誰かを1人殺さないと、あなた以外の3人とも死ぬ。立てなくなった後は、食べ物を受け付けなくなる。その後、目から血を流すようになるが、そうなったら数日しか生きられない。誰を殺すか、早く決めろ」

 そんな妄言をにわかには信じないスティーブンだが、数日後、今度は長女のキムが立てなくなる。マーティンの言葉は、単なる妄言でも脅しでもないと分かり、怖れるスティーブン。

 果たして、スティーブンの選択は、、、?


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 予告編にそそられて見に行きました。『ビガイルド』に続く、コリン&ニコ姐コンビだけど、ある意味、今度は立場が逆になったかな?


◆ハネケっぽさを感じたけれど、、、。

 まず、結論から先に言っちゃうと、正直、期待ハズレでござんした。いえ、面白かったんですよ、確かに。監督の志も感じられるし、役者さんたちは皆良い演技をしていると思った。それならなぜ期待ハズレなのか、というと、それは展開がもろに読めちゃうから、まるで意外性がない、ってことかなぁ。

 世間に公開されているあらすじを読んでも、大体の察しがついちゃうんじゃない? そして、スクリーン上で概ねその察しどおりにコトが運んでいってしまうのだよ。

 いや、だから、面白かったことは面白かったのよ。それに展開が読めても面白い映画は一杯あって、これもその一つに違いない。

 ……てことは、私は何を期待していたんだろう、と考えたんだけど、なんかこう、もっと、「あ゛っ!!!」と言わせて欲しかったんだろうな、、、と。

 で、思い当たった。もう、そういう「あ゛っ!!!」には、ハネケの映画で十分鍛えられており、本作程度の描写ではゼンゼン響かなくなっているんだ、、、てことに。

 ランティモス監督作品は初めて見るんだが、この監督がハネケ作品を意識したかどうかは分からないし、パンフに収録されている短いインタビューにハネケの名前はなかった。だけど、“不条理”かつ“暴力”というハネケ作品のキーワードは、本作にも通じるし、全編を覆う不穏な空気は、ハネケ作品と非常に似ている。何より、終盤のあるシーンは、ハネケの『ファニーゲーム』を誰もが連想するものだった。

 ただ、足りないのは、"毒"。そう、私は、この毒を期待していたのだと思う。だから期待ハズレだと感じたのだ、、、多分。
 

◆何故アナには症状が出なかったのか?

 そうは言っても、もちろん、見所はイロイロあったわけで、中でも「ぎょえー」と思ったのは、ニコ姐演じる妻・アナのセリフ。家族3人(妻と2人の子ども)のうち一人を殺さなければならないと知ったアナは、スティーブンにこうささやく。

 「殺すなら子どもよ。子どもはまた作れば出来る」(セリフ正確じゃありません)

 いや~、これにはドン引きだったよぉ。別に、母親に犠牲的精神を発揮して欲しいだなんて思わないが、このセリフを言うアナの表情は冷徹でまるで迷いがない。そして、このとき、スティーブンとアナの夫婦それぞれに浮かんだ“殺すべき子ども”の顔は違っていたはず。そう、スティーブンの脳裏にはボブが、アナの脳裏にはキムが、、、。これは間違いない。

 なぜなら、それまでの描写で、スティーブンはボブを、アナはキムを、それぞれ嫌っているのが分かるからだ。そして、スティーブンはキムを、アナはボブを愛しく思っているのだ。

 このとき、スティーブンは特にセリフを返さなかった(と思う)が、否定もしなかった。否定すれば、それは即ち、妻のアナを殺すという選択になるから安易なことは言えないにしても、だ。こんなことを企む夫婦が医者である、ってことが、もの凄い皮肉である。いや、むしろ、医者だからこその冷静な判断なのかも知れないが。

 でもって、スティーブンが、マーティンの父親の手術をしたとき、実は二日酔い状態だったことも判明するんだが、それが分かる過程が、スティーブンの友人にアナが問い質すんだけど、その友人は、自分の一物をアナにしごくように要求するわけ。で、車の中で、アナが必死にしごくシーンがあるんだけど、これって必要? なんか、ただの“やり過ぎ演出”と感じたんだけど。

 二日酔いの主治医に父親を殺されたと信じているマーティンは、とにかく容赦ない。マーティンは呪術師か何か知らんが、まあ、とにかく、不思議な力をお持ちの少年で、見るからに不気味そのもの。演じたバリー・コーガンは大したもんである。こういう、訳分からん設定、私は結構好き。別に、何もかもがロジカルである必要なんてない。映画なんだからサ。

 ……にしたって、マーティンは自分の腕を食いちぎったり、何だかなぁ、だった。そのマーティンの足下にひざまずいて、彼の脚にキスをするアナとか、何かもうあらゆる事象が狂っていく感じは、割と嫌いじゃない。

 ただ、不満なのは、アナに全く症状が出なかったことかな。アナも立てなくなって、いよいよ、、、というまでにスティーブンを追い詰めた方が面白かったんじゃないかなぁ、と思ったんだけど。実際、キムが寝たきりになった後も、スティーブンはアナに「ポテトが食べたいなぁ」なんて呑気なことを言って、アナに怒られたりしているわけで。その後、大逆ギレするスティーブンは、ただただサイテーだった。

 このスティーブンという男、私は嫌いだ。一見、良い夫で父親っぽくしているが、一皮剥けば権威主義のマッチョ男で、危機管理能力ゼロ。確かに、超常現象の前に為す術ナシなのは分かるが、マーティンにも「アンタの決断力の鈍さには呆れるゼ」などと言われる始末。

 アナに症状が出なかったのは、もしかしたらマーティンに正面から向き合ったからではないか、という気もする。スティーブンは、マーティンが何故そんな復讐の仕方をするのか、直接聞いていない。アナは聞いている。そのとき、マーティンはパスタをもの凄く気持ち悪い食べ方で食べながら、「自分だけが死んだ父親と同じスパゲッティの食べ方をする人間だと思ってたけど、みんな誰でも同じ食べ方をするんだ。その事実を知って哀しい」(セリフ正確じゃありません)みたいな訳分からん話をするんだけれども、その気持ち悪い食べ方と相まって、このマーティンの独白みたいな言葉が、アナに掛かる筈だった呪いを解いたのかも、、、とかね。それくらい、あのマーティンがパスタを食べるシーンは印象的だったから。何か意味があるとしか思えない。


◆果たしてスティーブンの選択は?

 で、スティーブンは結局どうしたのか。……ってことで、ここからはネタバレになります。

 スティーブンは、ロシアンルーレットばりの方法で、3人のうち一人を殺すことを決断する。つまり、妻、長女、長男の手足を縛って拘束し、さらに、頭から袋を被せて、リビングに3人をそれぞれ自分を中心にした円の弧上に座らせる。そして、その中心で、自分も顔まですっぽりニット帽を被って目隠しをし、手には猟銃を持ち、グルグルとその場で回りながら、しばらく回ったところで当てずっぽうに引き金を引くのである。

 ハッキリ言って、このシーンは、怖ろしいというより、バカっぽくしか見えず、私は笑いそうになるのをこらえるのに必死だった。"ニット帽ですっかり顔を覆ったコリンが猟銃を持ってグルグル回っているの図"は、可笑しい以外の何でもない。

 1発目、2発目は、3人の誰にも当たらない。そして、3発目。当たったのは長男のボブ。そうだろうと思ったよ。だって、スティーブンはボブを嫌っていたからね。ニット帽で目隠ししていたけど、ニットなんて隙間が一杯あるんだから、あれは見えていたんだよ、、、、と思う。たまたまボブに当たったのではない。意図的にボブを撃ったのだ。そして、自分の可愛い娘キムと、子どもを再生産するために必要な妻は残した。

 確かに、こういう結論に至ると、ギリシア神話っぽいよねぇ。

 ちなみに、本作はあちこちで解説されているとおり、「アウリスのイピゲネイア」にインスパイアされてのシナリオ、ということなんだって。生け贄は、ボブってことなのかねぇ。

 ラストシーンも何だかヘン。ボブが死んで3人家族になり、3人で、スティーブンとマーティンがよく来ていたレストランに行くと、そこにマーティンが現れる。離れた所に座ったマーティンを見ながら、3人はレストランを出て行く、、、。キムは普通に歩けるようになり、家族には平穏が戻ったということらしい。しかし、その様子は明らかにヘンである。家族に凶事をもたらしたマーティンは、哀しげな表情で3人を見送っている。……これは一種のハッピーエンディングってことなのかね? 奇しくも、ハネケの最新作もタイトルは『ハッピーエンド』だったけど。もちろん、関係ないだろうけど。


◆その他もろもろ

 スティーブンを演じたコリンが、妻アナを演じたニコ姐に銃口を向けるという意味で、『ビガイルド』とは攻守逆転でありました。

 コリン、どう見ても外科医に見えん。髭を蓄えて貫禄を出したつもりかも知れないけど、ちょっと方向性が違う気がする。呆れるほどに役立たずの父親を、とても情けなく演じていてgooでした。

 ニコ姐は、まあ、キレイだし裸体も美しいが、その乳房(後ろからチラッと見える程度だけどね)はどう見ても人工的で、ちょっとなぁ、、、と思ってしまった。コリンと夫婦役だったけど、2人が立って向き合ったり並ぶシーンだと、明らかにニコ姐がコリンを見下ろす感じになっていたのだけど、それも演出としての狙いなのかな、、、などと思ったり。

 長男ボブを演じたサニー・スリッチ君が、なかなかの美少年だった。終盤、目から出血するシーンは、目が痛くないのか心配になってしまったけど。手足を縛られ、頭から袋を被せられ、その袋の下から赤黒い血がTシャツを染めていくシーンは、ホントに『ファニーゲーム』そのものでゾッとなった。

 しかし、本作のMVPは、なんつってもバリー・コーガンでしょ。彼の独特のルックスと、秀逸な演技があってこそ、本作の不穏さは維持されていたのです。あのパスタの気持ち悪い食べ方、素晴らしかった。これからが楽しみな俳優ではないでしょうか。あまり、好きって感じになれないけど、注目したい若者です。

 あと、ちょっと音楽が過剰演出かな、、、と思う部分も。選曲は結構好きだけど。




 



鹿は出て来ませんので、あしからず。





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セッション(2014年)

2016-06-27 | 【せ】



 一流と言われる音楽院の学生ニーマン(マイルズ・テラー)は、ある日、練習しているところを、校内で有名な教師フレッチャー(J・K・シモンズ)に目撃される。フレッチャーの要求に応えてドラムを叩くが、フレッチャーは気がついたら部屋からいなくなっていた。

 そのフレッチャーに、自分のバンドに招かれたニーマンは得意気になってバンド練習に参加するが、そこは、信じられない理不尽なハラスメントが横行する異様な空間だった。

 こうして、フレッチャーとニーマンの仁義なき闘いの幕は切って落とされた。果たしてその行方は、、、?
 
 

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 面白いという世間の評で、ちょっと見てみることに。ほとんど内容については予備知識なく見たのですが、あんまし楽しめませんでした。


◆フレッチャーは、単なる欲求不満の八つ当たり爺ィ

 これを言っちゃうと身も蓋もないんですが、私、こういう“罵倒する指導”って、もう大っ嫌いなんです。こういう指導法を良しとする人間を心の底から軽蔑してしまう。厳しい指導と、怖い指導、って別物だと思うわけです。厳しくて緊張するのは良い緊張だと思うけれど、怖くて緊張するのは単なる委縮であって良い緊張とは到底言い難い。指導する対象を委縮させて、本気でその才能を伸ばすことが出来ると信じている時点で、頭悪いんじゃないかと思ってしまう。

 もちろん、楽しく和気藹々が良いだなどと言っているのではありません。厳しさとは、相手を恐怖で支配することではない、と言いたいだけです。多くの天才バイオリニストを育てたアナ・チュマチェンコの指導理念などを読むと、真に有能な指導者は、罵倒は指導ではないと常識として弁えていると思います。

 まあ、恐怖による支配は、ある程度までは上手くいくと思います。でも絶対、限界がある。秀才は育っても、天才は育たない。天才は、余白のあるところから生まれるものであって、ギリギリ追い詰めてボーダーラインでやっと出てくるものじゃないと思う。これはあくまで私の一意見ですが。

 罵倒する指導を実践する指導者は、指導対象を一人の人間として接しているのではなく、何か動物訓練をしているのと同じ感覚なのではないかと疑ってしまう。普通の言葉で判らないんだから、人格を根こそぎ否定する罵倒もOK、暴力もOK、ってどういう思考回路なわけ? むしろ動物にこんな訓練したら絶対上手くいかないのは半ば常識になっていますが、人間ならOKと思うのはなぜ? 天才ならなおOKと思うのはなぜ? 天才ならどれだけ貶めても這い上がってくる、なんて噴飯モノな理屈です。天才は、プライドが高いから、むしろこんな指導したらポッキリ行っちゃう可能性もかなり高いと思う。こういうのは、指導ではなく、指導者自身の欲求不満からくる単なる八つ当たり、じゃない?

 そういう前提で見ると、本作のフレッチャー先生は、生徒を育てようなんてハナから考えていないとしか思えない。つまり、才能を潰すことが目的なわけ。潰すにはこれ以上ない方法だもんね。なぜ潰したいか。そりゃもちろん、嫉妬ですよ、嫉妬。才能に対する嫉妬というより、可能性や前途ある若さへの嫉妬じゃないかな、フレッチャー先生の場合。あんな指導をする教師に、生徒に真に天賦の才があるかどうかを見極める審美眼があるとは到底思えないもの。

 公式サイトのストーリー紹介にある「天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった」ってのは、私には大ウソにしか思えません。まあ、事前にサイトを見ていませんでしたから怒りも感じませんが。完璧を求める人が、終盤、あんなことしませんて。


◆甘ちゃんニーマン

 主人公のニーマンは、まあ、普通の青年ですよねぇ。いけ好かないヤツというネットでの評を見ましたが、ああいう傲慢さも、若さゆえのものである意味仕方がないと思うし。

 必死で練習をする姿は、なかなかグッとくるものがありましたが、、、ドラムってそういうものなのかもしれないけど、私、汗撒き散らしながら演奏する人って、ちょっと生理的にダメなんです、、、すみません。ベルリンフィルを振ったとかってはしゃいでた日本人指揮者のS氏とか、もう見てられません。あれ、弦楽器の前方の奏者に相当飛び散ってると思うんですよねぇ。楽器や楽譜にオッサンの汗飛沫、、、うげげ~っ。私だったら気持ち悪くて逃げ出すかも、、、。プロの奏者はそういうところも耐性があるのかしら。、、、とにかく、汗やら血やら飛び散りまくって、それは演出だと分かっていてもイヤだわ~。

 ニーマンは、なんだかんだ言っても、ちょっとアマちゃんですよねぇ。序盤でも終盤でも、フレッチャーに声を掛けられるとそれで“いい気”になっちゃう。序盤のはまだしも、終盤のは脇が甘いなぁと。私なら、あんな目に遭わされたヤツの誘いになんか二度と絶対乗らないけど。……とはいえ、本番の舞台で大恥かかされるとは予想できなくても仕方ない。というか、そんなこと音楽を生業とする者は、普通思いつかないもの。だからフレッチャーはやっぱり音楽家としても邪道、指導者としてはもっと邪道、だと思ってしまう。

 ただ、ちゃんとやり返すあたりは、ニーマン君、なかなかやるじゃん! と思って見ていました。あれはドラムだからできた芸当かも知れません。少なくとも、ベースだったら無理だよねぇ。

 でもって、最後は、フレッチャーとニーマンの和解? みたいな描写に見えなくもないけど、そんなはずないよなぁ。個人的には、ニーマンには我が道を突き詰めて欲しい気もするけど。世間の注目を浴びたいという名声欲が強すぎるのは難アリかも。上昇志向が強すぎる人間って、大抵、どっかで足下すくわれるんですよねぇ。いずれにしても、彼らのその後にあんまり興味が湧かないです、正直なところ。


◆その他モロモロ

 それにしても、こういう教師が一流と言われる学校にいること自体が不思議です。まあ、途中でクビになりますけど。当然でしょう。

 そんなわけで、本作を好意的にはどうしても受け止められません。

 世間の評判通り、映画として面白いか、というと、まあ心理戦なので興味はラストまで尽きません。嫌悪感を抱きながらもついつい見てしまう、ってヤツです。

 フレッチャーを演じたJ・K・シモンズが、悪漢、、、じゃなくて圧巻でした。スキンヘッドで、見るからにヤバそうなオッサンって感じ。彼の手の動作が印象的です。演奏を止めるところとか。ちょっと指揮っぷりがイマイチなのが残念でしたが、助演賞もなるほど、の演技でございました。ニーマンを演じたマイルズ・テラーは、ふてぶてしさと弱さを併せ持つキャラを好演していたけれど、J・K・シモンズの悪漢ぶりに、完全に喰われてしまっていたような。あのドラムの演奏は、天才っぽいんですか?


 




汗&血飛沫、飛びまくりにドン引き。




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戦場でワルツを(2008年)

2015-02-22 | 【せ】



 レバノン戦争に派兵された際の一部の記憶が完全に欠落していることに気付いた映画監督のアリは、記憶を喚起すべく、当時の関係者や仲間を訪ね歩く。

 自国の、他国への侵攻を真正面から批判した意欲作。

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 レバノン戦争については、ネットで拾い読みした程度の知識なので、偉そうに語ることは控えます。あくまで、本作を見た感想を。

 ドキュメンタリーアニメ、と銘打っているけれども、ドキュメンタリーというか、再現だよね、これは。人の記憶を取材して、それをアニメでビジュアル化した。これが、実写の再現映像だと、ドキュメンタリーとは言えず、また、実話に基づく映画、とも言い切れず、もの凄く中途半端な立ち位置になりそうで、ある意味、アニメという手法を採用したのは正解だったと思います。アニメといえば、見る側にとってはそれだけですでに作り物であることが織り込み済みですからね。

 本作は、アリ・フォルマン監督自身の自叙伝的作品だと思いますが、自身が兵士として戦争を体験しているだけに、兵士としての独白には、やはり説得力がありました。つまり、彼自身「何で自分がここで、こんなことをしているのか分からない」ということです。戦場にいて、命懸けの任務に着いている人自身が、です。もちろん、兵士がみんなそうだとは思いませんが、こういう兵士もいるんだということ、これが現実なんだな、と。

 彼は生還しましたが、もし、死んでいたら、何で自分が死んだのかも分からないまま、人生を終えていたことになる訳です。

 結局、彼は、記憶を呼び起こすことになりますが、それは、思い出さない方が良かったんではないかと思われるほど、悲惨な内容のモノでした。映画としては、もの凄いバッド・エンドです。なので、見終わった後も、非常に重苦しい感じになります。

 昨年の暮れに『戦場のピアニスト』を見て衝撃を受けたけれども、今回、アニメとはいえ、そこに描かれていたのはやはり同じ光景でした。違うのは、撃たれていた側が、銃を撃っている側になっていたことです。

 やっぱり、虐殺というのは、誰でも被害者にも加害者にもなり得る、人間の根源的な部分が引き起こす行為なのだと改めて思いました。

 アリが記憶をなくしていたのは、いわば、精神的な防御反応によるものだったと思われますが、本作に関するアリ・フォルマンの記者会見の映像を見たところ、彼は、その事実をかなりきちんと受け止めているのだと感じます。まあ、そうでなければ、こんな作品、作ろうとはしないでしょうが。

 本作については、パレスチナ側からの見方が完全に欠落しているという批判があるようですし、事実、パレスチナの描写はほとんどありません。ですが、私は、監督がそうした意図が、何となく分かる気がしたのです。多分、自分が経験したこと、実際に見聞きしたこと以上でも以下でもないものを作りたい、ということだったのではないでしょうか。パレスチナのことを描けば、そこには監督の想像や憶測や、ともすると偏見ととられかねない思考が反映されかねません。彼はそれを避けたのだと思います。それこそが、クリエイターとして失格だ、と思う人もいるでしょうが、私は、監督が身をもって「殺らなければ、殺られる」日々を過ごしたからこそ、立ち位置を明確に、自分の心の風景を描く、という所に置くことに徹したのは理解できる気がするのです。だから、アニメだった、のではないかな、と。

 アリ監督が会見で語っていた中で、印象的だったことは、イスラエルの指導者たちは、その後のパレスチナ侵攻等の軍事面において、結果がいかなるものであっても、一切責任をとらないし、それどころか、責任を感じてさえいない、他人事のように語っている、と言っていたことです。そうだろうなぁ、と思いました。結局、戦争で悲惨な目に遭うのは前線の兵士たちと、末端の市民たちなのですからね。

 我が国も、今、あれこれと自衛隊の派遣について言われていますけれど、一番派遣したがっている人も、最高責任者を自称する割に、実際、どんな責任をお取りになったのか、ゼンゼン国民には見えないですもんね。実際、そうなったときの彼の対応、容易に目に浮かびますわ。

 本作を見て、思い出したことがあります。95年にウィーン・フィルの日本公演を聴きに行ったとき、指揮はジェームス・レヴァインだった(彼自身ユダヤ人)のですが、演奏の冒頭で、「先日暗殺されたラビン首相に黙とうを捧げたい」と言って、団員・聴衆全員が黙とうしたのでした。あれ以来、イスラエルとパレスチナは泥沼が続いています。レヴァインは、今の彼の地の現状を、どう思って見ているのでしょうか。
 


『おくりびと』とオスカーを争った作品。こっちが本命だったらしい。




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戦場のピアニスト(2002年)

2014-12-23 | 【せ】



 第二次大戦下のポーランド、ユダヤ人迫害を必死で逃れ生き延びた、あるピアニストのお話。

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 これは、もう、ポランスキーの執念の大作でしょう。素直に、私は、感動いたしました。ポーランド人が英語しゃべってるとか、演奏の音は吹替えだとか、そんなことはものすごくどーでもよいと思える、圧倒される作品です。

 正直なところ、ホロコーストものは苦手で、というかあまりにも玉石混淆で、いささか食傷気味なため、本作も、ポランスキー作品でありながら、今日に至るまで食指が伸びませんでした。それでも、少し前にBS放映分を録画したのは、何か虫の知らせだったのかも知れません。

 本作の圧倒的なところは、その、淡々とした過不足のない描写でしょう、多分。虐殺シーンが執拗過ぎるというネット上の一部の感想も拝読しましたが、私は全然そうは思いませんでした。むしろ、シュピルマン一家が収容所移送までに追い込まれていく過程が、なんというか、じわじわとさりげなく、それでいて確実に環境が悪化していく様が描かれており、戦慄を覚えます。

 そして、貨物列車への移送に当たり、脇でユダヤ人たちを統制し指図しているのは同じく右腕に腕章をしたユダヤ人です。ユダヤ人の間でも同胞の迫害に加担した者がいたのは誰もが知るところですが、映像で見せられると、衝撃が思のほか強く、正直ショックでした。

 ユダヤ人の有史以来の辿ってきた道を考えれば、彼らが加害の立場にあった時期もあるのに、こと、第二次大戦下における迫害をフォーカスし被害者面ばかりして、、、というネット上でのある書き込みを見たことがありますが、そういう視点でモノを見るのは危険だと恐ろしくなります。誰もが迫害する・される、どちらの側にも、いつでもなり得るのだということを忘れてはならないのではないでしょうか。

 シュピルマンがひたすら逃げるだけの男であることにも、批判がありますが、私は、だからこそ感動しました。想像を絶する極限状態で、彼はとにかく生きたのです。あのワルシャワ蜂起でも彼は傍観者を貫きます。ピアノのある部屋に潜んでも、音を立てるなと言われたら、どんなにピアノを弾きたくても弾く真似をするだけで弾きません。人道上とか、芸術家魂とか、そんなことよりも生存本能が勝った。このことが、何よりも胸に迫るのです。見ていて苦しくなります。そして、ワルシャワ蜂起で亡くなった同胞にさえ、彼は無駄死にという言葉を吐くのです。義を通したところで死んでどうなる!!という強い思いではないでしょうか。それのどこが批判されなければならないのか、理解に苦しみます。

 そして、ドイツ人将校に見つかるシーン。その描写がまた素晴らしい。シュピルマンがやっと見つけた食料の入った缶詰を開け損ねて落とし、転がる缶詰から汁がこぼれ出る。その脇には男の靴をはいた足が。カメラが足元から上がっていくと、そこには将校が立っている。ポランスキー、さすがです。

 再び胸に迫るのは、彼の前でピアノを弾くシーン。ここへきて、前半の描写が、なるほど全てはこのシーンのためであると、納得させられるのです。

 ただ、このときにシュピルマンが弾くのはショパンのバラード1番。史実では夜想曲20番だったのを敢えてバラード1番にしたからには、バラード1番の最高の聴かせどころを演出にするのだろうと思いきや、そこはなんとカット、、、。だったら、夜想曲20番にした方が良かったのでは。ポランスキーの意図やいかに。

 ピアノ曲については、シュピルマンが潜伏しているときに、どこからか漏れ聞こえてくるのはドイツの誇るベートーベンです。この辺も演出としてニクいというか、なるほどというか。

 数々の周囲の犠牲の上に、シュピルマンの生還はあります。その犠牲へのシュピルマンの思いが感じられない、という批判も目にしましたが、私はそれは違うと思います。彼が犠牲になった家族や友人知人、果ては自分を援助してくれたドイツ人将校のことを思わないはずはありません。それを画にしてしまえば、映画としては非常に陳腐になり下がります。まさしく、ハリウッド的なオチの付け方で。

 だから、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を演奏会で華やかに弾ききる、あのラストシーンで正解だと思うのです。ポーランドを舞台にしたピアニストの映画で、ショパンがラストシーンでなくてどーする!

 余談ですが、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」のオケ協奏版は、レコーディングも多くないのですが、仲道郁代さん&ワルシャワフィルの演奏CDはなかなか素晴らしいです。それまでピアノ版しか聴いたことがなかったのですが、曲のイメージがガラリと変わりました。本作のラストに選んだポランスキーのセンスに拍手です。



こんなに胸を打たれた作品は久しぶり。




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戦慄の絆(1988年)

2014-09-19 | 【せ】



 一卵性双生児・・・。この遺伝子的には「まったく同じ」2人の人間という不思議な存在は、いつの世も、創造心を刺激する。全く同じ外見で、全く同じ遺伝子を持つ2人でも、人格は別々なのだから「心」までは同じではないはず。

 ・・・本当に?

 聞いたことない? 双子の間でテレパシーみたいなのを感じ合う話。あれって、ただの兄弟姉妹とは違って、心も同じってことじゃない・・・? 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 ビジョルドが好きなので、あと、まあジェレミー・アイアンズが双子役ってんで、ずーーーっと前にDVDをゲットしておりましたが、このほど、ようやく見た次第。

 クローネンバーグについては、私はいわゆる「食わず嫌い」でして・・・。どうも「グロ過ぎ」というイメージが強くて。なので、彼の作品は『エム・バタフライ』に次いで2本目です、これが。

 でまあ、お約束の通り、ジェレミー・アイアンズは「堕ちてゆく」役を演じておられました。この人、もう、こういうのばっか。てゆーか、私の見ているこの人の出ている作品が、こういうのばっか。で、私はそういう彼が、まあ、割と好きなのであります。ダメンズとは違う、どーしよーもなく情けない男を演じるジェレミー・アイアンズがね。ちなみに、『エム・バタフライ』にも、まんまの役で出ていました。

 ただ、本作では、外見はそっくりだけど、キャラの違う双子――社交的な兄と、研究者肌の弟――、つまり一人二役を演じていたんですが、まあまあ上手く演じ分けていたのではないでしょうか。序盤、ビジョルド演じるクレアを双子兄弟で共有するところとかどっちがどっちかちょっと分からないですけれど。

 子どもの頃、知り合いに可愛らしい男の一卵性双生児がいて、何年かぶりに高校生になった彼らを見たら、イケメンツインズになっていて、それはそれは驚きました。校内でも評判の美男子双子で、頭も良いし、女子たちの噂の的でキャーキャー言われてましたねぇ。ま、私は、短パン履いていた頃の彼らを知っていたので、キャーキャー言う気にはなりませんでしたが・・・。彼らは、今、どうしているのだろうか、そーいえば。

 自分と同じ外見の人間がもう一人、身近にいるという感覚・・・。分からないですが、想像するとちょっと怖いかなぁ。つーか、こんなのがもう一人この世にいるかと思うと、たとえ中身はゼンゼン違ったにしても、それだけでホラーな気がします。自分一人で十分というか・・・。

 確か、ちょっと前にテレビで、マナカナさんたちのどちらかが「片方が思っていることが、もう片方に通じていることがある」らしく、「そういうとき、双子やなーと思う」みたいなことを言っていましたっけ。

 そうはいっても、やはり別人格ですからね。現実は、一人と一人なはずです。

 でも本作は、一心同体の一卵性双生児。DVDのケースには「完全なる精神的均衡」とあります。そう、彼らは、そもそも一人じゃ生きていけない存在となってしまっていたのでした。これは、大変な悲劇です。

 2人のジェレミー・アイアンズ(いやエリオットとベヴァリー)が互いに堕ちてゆく終盤、特に、弟が兄を文字通り「分離する」シーンは、ゾッとします。そこで使われる弟の開発した医療器具の造詣がまたおぞましくも美しい。その医療器具を使用して患者を手術するシーンの印象的な赤といい、この辺は、クローネンバーグの美的センス全開、といったところなのでしょうか。とにかく、おぞましいけれども目を背けられない美しさです。

 惜しむらくは、ビジョルドが、一応キーパーソンなのにもかかわらず、実質的にはキーパーソンですらない、通りすがり的存在に描かれてしまっていることですかねぇ。しかし、この作品でのビジョルドはやつれが気になります。同時期の『モダーンズ』では感じなかったのに・・・。

 まあ、映画として面白いとは思うけれども、見終わった後何かが残る作品ではなかったので、★は少なめです。


お前ナシじゃ生きられない・・・それは悲劇でしかない



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青春の殺人者(1976年)

2014-04-06 | 【せ】

★★★★★★☆☆☆☆

 某全国紙の土曜版で取り上げられていたのを読んで、見てみました。ちなみに原作未読。

 さすが、40年前の映画、皆さんお若い! そして、街並みや行き交う人々の様子に懐かしい昭和がありました。いやはや、昭和51年て、こんな風だったのね。

 さて、本作です。順が父親を怒りにまかせて殺してしまったのは、割とありがちなんですが、その先の展開が恐ろしい。順の母親は、なんと、血の海に横たわる夫の亡骸を前に、「一緒に2人で暮らそう!」と嬉しそうに順に言うのです。もちろん、初っ端だけは一応動揺を見せるのですが、その後の息子への言動は、もう母親ではなく「女」全開。これは怖い。そして、その母親を市原悦子が、鬼気迫る芝居で見事に演じており、驚嘆します。

 その後、母親をも順は殺してしまうけれども、作品中、これといった「殺しの直接的理由」は描かれていません。作品中では、父親にも母親にも、自分の好きな女性を頭ごなしに否定され、父親には、生きる道をあれこれ指図される程度のことしか描かれていないのですが、これで十分、順が両親に相当の抑圧を感じていたことだけは分かります。苦労して家業を軌道に乗せてきた両親、成田空港が出来たおかげで所有の不動産価値が跳ね上がり、親として我が子に威張りたくなるのは、もの凄くありがちで、言ってみれば「凡庸そのもの」な親です。ここで、大抵の子どもは、物理的に親から離れ、どうにか親殺しという最悪な選択だけは避けて通るのですが、順は親離れする機会すら与えられず(もちろん自らもそのチャンスを生かせなかったんだけれども)、こういう事態に陥った訳です。

 そして、肝心なのは、ケイ子の描き方です。この女性、というか、この子のことを、もの凄く中途半端な感じに描いているように思います。もちろん意図的に。中途半端にならざるを得ない女というか。家に居場所はなく、学はなく、男に張り付いてしか生きられない女、だけれども、もの凄くシタタカで図太い女、しかも、たかだかハタチになるかならないかという童顔の、でも、体と男に対する立ち回りだけは十二分に大人な女。これは、順の母親と同じくらい怖い。思うに、順は、こういう恐ろしい女を選んでしまう男だったんだろうな、と。息子に対して女を全開にする母親に育てられて来て、そりゃ、歪まない方がおかしいでしょ。この設定がかなり説得力アリだと思います。

 子の自立を奪う親、ってのは、本当に、この世における「最大の悪しき存在」と言っても過言ではないと思いますね。殺したくなるのはよく分かる。でも、実際殺しちゃうのは、分からない。自分の人生棒に振るほどの値打ちのある行動とは到底思えませんから。そんな親、「棄て」れば良いのです。いや、それこそ葬るのです、心の中で。つまり、「忘れる」ということ。難しいけれど、苦しいけれども、できますよ、努力すれば。でも理不尽なことには変わりありませんね。そんな親の下に生み落されたおかげで要らぬ「努力」を強いられるのですから。

 なかなかの力作には違いないのですが、何で星が6個かというと、おそらく編集で大事なシーンがかなりカットされたであろうことがうかがわれるからです。どこかこう、ブツ切りな感じで、流れが悪いというか。桃井かおりや地井武男の存在はほとんど意味がないですし。という訳で、ここで星マイナス2個ってところでしょうか。

 しかし、長谷川監督作品は、『太陽を盗んだ男』もそうだけれど、独特のドロッとしたエネルギーを感じますねぇ。怒りでしょうかね、これは。監督自身の。そろそろ、また怒りを発散させた方がよろしいんじゃないでしょうか。怒りは、溜め込むと良くないですから。
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