映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

テレーズ 情欲に溺れて(2013年)

2023-04-18 | 【て】

作品情報⇒https://eiga.com/movie/94405/


以下、wikiよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 1860年代、パリの下層社会。テレーズ・ラカン(エリザベス・オルセン)はその卓越した美貌にも拘らず、何の刺激もない、息苦しいだけの生活を送ることを余儀なくされていた。その最大の原因は叔母マダム・ラカン(ジェシカ・ラング)にあった。マダム・ラカンはテレーズに対して高圧的に振る舞い、彼女を無理矢理従兄カミーユ(トム・フェルトン)と結婚させたのである。

そんなある日、テレーズはカミーユの友人、ローラン(オスカー・アイザック)と知り合いになった。何の取り柄もない凡庸なカミーユとは違い、ローランは男性的な魅力に溢れていたため、テレーズはあっという間に彼の虜になってしまった。ローランと肉体を重ねる度、テレーズは女としての喜びを全身で感じるのだった。やがて、2人は邪魔者でしかなくなったカミーユの暗殺を決意する。 

=====ここまで。


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 どうしてリストに入れたのか全く覚えていないDVDが送られてきたのだけれど、これはおそらく、エリザベス・オルセンの出演作を検索してポチったんだと思われます。「ウインド・リバー」が良かったので、、、っていつの話だ??と思って調べたら、もう5年も前の話だった、、、ごーん。

 本作は、日本では公開されていない様ですね。原作は、エミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』。本作を見終わってから知ったのだけど、シモーヌ・シニョレ主演の「嘆きのテレーズ」も同じ原作の映画。こっちも見たいわ。

 なんかB級感漂う邦題ですが、なかなか雰囲気のある、でもちょい惜しい文芸作品でした。

 無理矢理、好きでもない、、、どころか、むしろ男としてはまったく魅力を感じない、苦手な相手と結婚させられてしまうテレーズ。しかも、幼い頃から抑圧され続け、ろくに人との関りも持たず、当然、恋愛もせずに育ってきてしまった彼女にとって、突然現れたイケメン・ローランは、もうそれこそ、おとぎ話から飛び出して来た王子様に思えたに違いない。

 しかも、このローラン、割といいヤツで、世間知らず・男見る目ナシ子のテレーズをもてあそぶでなく、テレーズの相手をちゃんとしているのだ。原作ではどうなのか知らんが、こんなメンドクサイ人妻、普通の遊び人だったらテキトーに相手してポイ、、、でもゼンゼンおかしくない。ラカン夫人にさほど財産があるでもないのに、ローランはわざわざ「殺人」という重罪を犯してまでテレーズと一緒になろうとするのだから、誠実な男認定してもイイんじゃない?

 で、実行してしまった後。当然のことながら、テレーズとローランが思い描いたような愛に満ちた生活が待っているはずもない。罪悪感からテレーズは不安定になるわ、ローランは浮気するわ、ショックからかマダム・ラカンは脳溢血で倒れるわ、、、。でも、マダム・ラカンは倒れる前に、財産をテレーズとローランに相続させると遺言を書き換えてくれているし、介護は必要になったものの、立場的には圧倒的にテレーズ有利のはずなんだが、マダム・ラカンにカミーユ殺しがバレてしまい、、、。

 この後のマダム・ラカンの執念が凄まじい。そりゃそうだよね、可愛い可愛い息子を殺されたんだから。自由の利かない身体と発語で、必死に事実を友人らに伝えようとするが、伝わらない。

 ……まあ、結果的に全部露見するんだけれども。そして、ローランは、テレーズと心中するんだよね。何だかんだ言っても、ローラン、根はそんなに悪人じゃなかったんだと思う。カミーユを殺した証拠はないのだから、いくらでも言い逃れできるわけで、本当の悪人ならば心中なんか選択しないだろう。

 見終わって、割と良かったな、とは思ったのだけど、惜しいのは、あまりにもストーリーが予定調和で全く意外性がなかったことですね。別に、不倫の王道映画で良いのだけど、多少は、おぉ、、、とか思いたいわけですよ、見ている方としては。結末が予想はついても、過程を楽しみたいわけで。そういう意味で、惜しい。

 トム・フェルトンの情けないカミーユが実に上手くて良かった。こんな男、誰が見ても願い下げ、、、と見ている者に思わせる演技は素晴らしい。エリザベス・オルセンとオスカー・アイザックの濡れ場は極めて健全。NHKのドラマ「大奥」の濡れ場の方がよっぽど激しかったよ。

 でも、私が一番印象に残ったのは、マダム・ラカンを演じたジェシカ・ラングかな。息子を溺愛するイカレ母親っぷりがリアル過ぎて怖かった。倒れて後遺症で動けなくなった後は、顔の演技だけなんだが、さらに凄みが増して、こんな姑と一緒に生活するだけでホラーだわ、、、と思ってしまった。

 ゾラの小説は『居酒屋』とか『ナナ』くらいしか読んだことないけど、『テレーズ・ラカン』も読んでみようかな。

 

 

 

 

 

 

なかなかの豪華キャストです。

 

 

 

 

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ディナーラッシュ(2001年)

2022-08-19 | 【て】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv33088/


以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 舞台はニューヨークの四つ星イタリアレストラン。天才料理人ウードの芸術的な料理が人気を博し、連日各界の著名人が訪れていた。

 しかし、レストラン創業者の父ルイスは、伝統的な家庭料理店として作り上げたこの店を、まるで違うお洒落なイタリアンへと変貌させた息子を良く思っておらず、経営権も譲らないままだった。また、従業員のギャンブルが原因となりルイスの古くからの親友がマフィアに暗殺されたことで、すっかり気が滅入っていた。

 そして平日のある夜。この日も厨房・フロアが慌ただしく交錯する「ディナーラッシュ」の時間が訪れ、個性豊かな店員・客たちはそれぞれの生き様を垣間見せていた。そんな中、暗殺犯であるマフィア二人が客として店に訪れ、ルイスにある交渉を持ち掛けてくる。

 そして閉店間際、ある事件が起きる。

=====ここまで。

 約20年ぶりの再見。

 
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 前回(正確には前々回か)書いたとおり、『ボイリング・ポイント/沸騰』を見たときに、本作を思い出して見たくなったのでした。

 最初に見たのは多分、公開翌年くらいだったかな。見たのもDVDだかVHSだかでだったと思うけど、まあまあ面白かったという記憶以外はほぼ忘れていたので、今回見てみて、覚えている(というか思い出した)シーンも割とあって、ちょっと意外でした。

 そしてやっぱり、こっちの方が面白い! の数は同じだけど、『ボイリング~』は1個オマケだから。

 冒頭からいきなり、レストラン映画とは思えない幕開け。何しろ、いきなりギャングみたいなのにオジサンが殺されちゃうんだから。この殺されたオジサンが、舞台となるレストランの共同経営者だったのでした。

 レストラン映画でありながら、かなり重層的な人間ドラマであり、やはりシナリオの出来が本作の方が圧倒的に素晴らしい。縦糸となるのは、経営権の父から息子への移譲なのだが、横糸として実にいろんなことが描かれる。もちろん、超多忙な厨房シーンもたっぷりあり、何より料理が美味しそう、、、。

 出てくる人たちは、シェフやスーシェフ、その他の料理人、オーナー、評論家、、、と『ボイリング~』と大して変わらないのだけど、本作でひときわイイ味出していたのが、バーテンダーのショーン。どんなクイズにも正解してしまい、彼が答えられない質問を出せるか客と賭けをする。しかも、その答え方が嫌味じゃなくてカッコいいのよ。どこぞのクイズ王なんて恥ずかしくなるようなスマートさ&品の良さ。知性を見せるというのは、こうでなくてはね。

 このショーンを演じていたのがジェイミー・ハリスで、調べたら、なんと父親がリチャード・ハリス。あんまし似ていない、、、? このお方、なんと『父の祈りを』でデビューなさっている。知らなかった、、、。どことなく、雰囲気がビル・ナイに似ている気がして、気に入ってしまった。

 余談だが、ビル・ナイと言えば黒澤の『生きる』の英国リメイク版映画で主演しているとか、、、。脚本をカズオ・イシグロって、ちょっとどーなん??という気もするが。正直言って『生きる』は好きじゃない(というか嫌い)だけど、ビル・ナイ主演なら見たいかも、、、。予告編見た感じは悪くなさそうかなぁ。

 話戻って、、、このバーカウンターに一人飲みにふらりとやってくる銀行マン(証券マンだったかな)が、またイイ感じ。、、、なんだが、この男が実は……という、とんでもないラストにもつながっていく。

 シェフもいいんだけど、スーシェフのダンカンがもうどうしようもなく情けないダメんずで、見ていてイラっと来るのだが憎めないというか。『ボイリング~』ではシェフがこのキャラに少しだけ近いが、ダンカンよりもゼンゼン可愛げなかったのでイケてなかった。女心をくすぐるキャラという設定なのか、従業員の女性ニコーレ(ビビアン・ウー)と勤務時間中に店の外でセックスしちゃってる。あの厨房の状態からして、そんなことしてるヒマあんのかよ、というツッコミは野暮というものですかね。

 ダンカンを演じているのはカーク・アセヴェドで情けない感じが実にハマり役。調べたら、奥さんがキルステン・ウォーレンなのね。キルステン・ウォーレン、ドラマ『デス妻』に出ていました。

 同じ舞台装置に同じネタでも、シナリオでこうも見応えが違ってくるものかねぇ、、、と驚かされるのだけど、やはり、要であるシェフのキャラの違いも大きいかも。本作のシェフは、少なくとも料理の才能があるように見えるし、料理に対する姿勢に好感が持てる。『ボイリング~』のシェフは、酒飲みながら料理作ってたもんね、、、。

 ……というわけで、今回も感想になっておりませんが、『ボイリング~』を見るなら、本作を見た方が良いと思います、、、ってことで。感想終わり。
 

 

 

 

 

 

 

 


ラストが、ホントにレストラン映画? というビックリな終わり方。

 

 

 

 

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天才ヴァイオリニストと消えた旋律(2019年)

2022-01-07 | 【て】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv73101/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 20世紀、第二次世界大戦下のロンドン。同い年のマーティンとドヴィドルは9歳の頃に出会い、共に成長を重ねていった。しかし、将来有望なヴァイオリニストへと成長したドヴィドルが、いよいよデビューとなるコンサート当日に突然姿を消してしまう。

 35年後、マーティンはその失踪の真相を明らかにすべく、ロンドンからワルシャワ、ニューヨークへと真実を探す旅に出る。

=====ここまで。
 

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 本作は、2022年の劇場鑑賞第1作目でございました。

 元日の朝8:30からの1回のみ上映で、正直なところ「どーすっかなぁ、、、」と悩みましたが、元日は映画の日でもありお安くなるし、人もそんなにいないだろうし、見たい映画はいっぱいあるんだから行っとけ! みたいな感じで、初日の出前に起きて身づくろいして新宿ピカデリーまで行ってまいりました。


◆明かされた真相が、、

 だいたいこの邦題がダサいし、クラシック音楽ネタの映画は大抵ハズレだし、ナチものは食傷気味だし、、、なのに気になって見てしまうのが毎度の習性。

 で……。元日の朝イチで見に行ったことを後悔はしないけど、やっぱしイマイチだったな、、、というのが鑑賞後の率直な感想でござんした。

 イマイチの最大の理由は、結局ドヴィドルが姿を消した理由にパンチがないこと。これって、私が無信仰だからかしらん??ともちょっと思ったが、イロイロ考えてみても、やっぱりそうではない気がする。

~~以下、ネタバレですのでよろしくお願いします。~~

 なぜドヴィドルはコンサートをすっぽかしたのか。それは、本番前にふと“偶然”迷い込んだシナゴーグで、行方不明だった家族の消息を知ったから、、、であります。

 ユニークなのは、その消息を知った方法だけど、それはホロコーストで亡くなった人たちの名前を“詠唱”するというもの。いわゆる、オーラルヒストリー(口頭伝承)の一種ですかね。文字として記録に残せないので、ラビが歌にして記憶し、後世に伝える、、、ということらしい。このラビの歌うシーンは、NYのシナゴーグで“上級主唱者”を務めているお方が吟じておられるらしい。たしかに、この声と旋律は人の心を震わせるものがあるように思う。

 そこで、自分の親きょうだいの名前が詠われたのを聞いたドヴィドルは、もはやロンドンでイギリス人たちを前に(イギリスもユダヤ救済に積極的ではなかったから)演奏することはできなくなったということだろう、とパンフに音楽学者の樋口隆一氏が書いている。

 ……けれど、ドヴィドルがコンサートを開けるまでのヴァイオリニストになれたのは、ほかでもないそのイギリス人であるマーティンの父親ギルバートの手厚い支援があったがゆえである。このギルバートは、下手すると実の子マーティンよりもドヴィドルに対して愛情も資金も投資を惜しまなかったくらいだ。だいたい、ドヴィドルがすっぽかしたコンサートだって、ギルバートが奔走して開催に漕ぎつけたのだ。

 すっぽかした理由と、すっぽかしたという事実を天秤にかけたとき、果たして観客が「なるほど、それならば仕方がない」と思えるかどうかが本作のキモだと思うが、ここが弱いよなぁ、と。ギルバートはドヴィドルがすっぽかした数か月後、失意のうちに亡くなっているというのだから、見ている方としてはよりギルバートに情が傾いてしまう。

 ドヴィドルの行動がけしからんとまでは思わないが、本番前にバスでうたた寝して乗り過ごすとか、プロの演奏家としてどーなんだ?と感じるところもあり、どうもピンとこなかった。バスでうたた寝したのは、リハーサル後、ドヴィドルが冗談で「(本番までの間に)酒でも飲んでくるか」と言ったのに対し、マーティンが「女でも抱いて来いよ」と返した一言があったから。……しかも、このシーンが、ラストのとんでもないオチ(後述)につながっている。

 少年時代のドヴィドルのヴァイオリンに対する姿勢は、確かに天才肌で、傲慢さを垣間見せながらもストイック。そんな少年が、デビューコンサートという重要な本番前に冗談でも「酒でも飲もうか」だの「女を抱きに行く」だのという発想にはならないような気がするんだよね。最も集中し、自分と向き合う瞬間ではないだろうか、本番前の時間って。

 彼がシナゴーグに行くまでの過程が説得力がないので、その後の展開に着いていけなくなった感じだった。


◆トンデモなオチにダメ押しされる。

 35年後に事実を知ったマーティンが納得したのかどうかも、イマイチ見ていて分からなかった。

 結局、ドヴィドルは、マーティンの意向に従い、35年前に開催されるはずだったコンサートの舞台に立ち、前半、35年前に弾くはずだったブルッフの協奏曲を弾くが、後半は本来のプログラムだったバッハではなく、自作の「名前たちの歌」という曲を無伴奏で弾く。そして、ドヴィドルに「もう二度と探さないでくれ」と置手紙をして、また姿を消す、、、。

 少年ドヴィドルがなかなか鮮烈な印象なので、この35年後の言動は同一人物とは理解しにくいものがある。けれど、35年という時間は、一人の人間を根底から変えてしまうには十分な時間でもあると思うので、やはり、映画としてそこの変化の描き方が弱過ぎるということだろう。

 私が決定的にイマイチだと思ったのは、最後の最後にマーティンの妻ヘレンが放ったセリフがちゃぶ台返しなオチだったから。

 ドヴィドルが再びマーティンの前から姿を消した後、ドヴィドルの置手紙を読んで放心しているマーティンに対し、ヘレンが「35年前、ドヴィドルが本番前に抱きに来た女は私よ」と明かすのだ。

 え゛、、、それ今言う?? 何なのこの人、、、。大体、マーティンと結婚したのはその後だし、何より、マーティンがドヴィドルの失踪で人生を支配されるほど苦しんでいるのを間近で見ながら、35年間ずー--っと黙っていて、それでも墓場まで持っていくならまだしも、この期に及んでそんなトンデモぶちまけ話するなんて、どういう神経しているんだ??

 このエピソードは完全に蛇足だったと思うなぁ。なくてもゼンゼン問題ない話でしょ。そのときのマーティンの反応も、別に、、、って感じだったし。普通だったら修羅場だと思うけどねぇ。


◆その他もろもろ

 鮮烈な印象を残す少年ドヴィドルを演じているのはルーク・ドイル君というイギリス人のリアル・ヴァイオリニスト。演奏シーンに嘘がないのは見ていてホッとする。その他のシーンでも映画初出演とは思えぬ、なかなかの演技っぷり。

 一方で、おじさんドヴィドルを演じたのはクライヴ・オーウェン。彼も演奏シーンがあって、生まれて初めてヴァイオリンを触ったにしては、なかなかの演技だったが、まあ、やっぱりイマイチなのは仕方がないよね。楽器の演奏シーンは全くの未経験者にはやっぱり難しいと思う。こういう、演奏シーンが肝になる映像作品の場合は、少しでも演奏経験がある役者を探した方がいいと思う。ほんの少しでも経験が有るかないかでは、雲泥の差だろう。

 余談だが『戦場のピアニスト』でポランスキーがブロディを主役に起用した理由の一つが、ブロディが過去にピアノを短期間ながら習っていたことがあったからだった。最も重要なシーンがピアノを演奏するシーンなので、演奏経験がない役者は難しいと思っていたと、ポランスキーも語っている。……そういうことよ、つまり。

 ラストに爆弾カミングアウトをするヘレンは、キャサリン・マコーマックが演じている。彼女は『娼婦ベロニカ』(1998)ではすごくかわいくて素敵だったのが印象に残っている。本作では、トンデモなオチ以外、存在感は薄い。『母との約束、250通の手紙』(2017)にも出てたんだ??

 おじさんマーティンを演じるのは、ティム・ロスだけど、彼の作品、ほとんど見ていない。35年後のマーティンもドヴィドルも、どうもパッとしない感じだった。イロイロあって冴えないおじさんなのは分かるが、やっぱりこれは脚本が悪いと思うなぁ。

 私が本作で一番良かったと思うシーンは、第二次大戦中のロンドンで、空襲時に避難している防空壕内で、少年ドヴィドルと、兄弟子に当たる少年ヨゼフがパガニーニの奇想曲で競演するところ。ヨゼフを演じた少年(名前が分からない)も、おそらくドイル君同様、リアル・ヴァイオリニストだろう。ちなみにこのヨゼフは、この後、精神を病んでしまう。

 ドヴィドルの実父(ユダヤ系ポーランド人)は、ナチスを恐れて、せめて息子のドヴィドルだけでも迫害を免れ世界的なヴァイオリニストになってほしい、という願いをこめて、ギルバートに大事な息子を託したのだ。そんな実父の思いも、育ての親のギルバートの思いも、ドヴィドルは結果的に踏みにじったことになる。

 いくら虐殺された親きょうだいのことを思って、、、とはいえ、結局ドヴィドルにとって音楽とはその程度のものでしかなかったということか、、、と非常に残念な気持ちにさせられる映画だった。世界的なプロは、何があってもやっぱり命がけで音楽に向き合っていると思うので。辛い過去を踏まえて、それでも命がけで音楽に向き合う真の天才の姿が見たかった。


 

 

 

 

 

 

 


原題“The Song of Names”が、どうしてこのヘンな邦題になるのか?

 

 

 

 

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ディリリとパリの時間旅行(2018年)

2020-07-08 | 【て】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67106/

 

 ベル・エポックと呼ばれる時代のパリ。ニューカレドニアから単身密航してきたディリリは、博覧会で先住民の暮らしのデモンストレーションに出演しているところを、配達人の青年オレルに声を掛けられ、会う約束をする。

 オレルの配達用三輪車のかごに乗せられ、パリ中を駆け抜けるディリリ。そこで、パリでは連続少女誘拐事件が起きていることを知る。それは、どうやら「男性支配団」と名乗る謎の集団が実行しているらしいと分かり、ディリリはオレルと共に連れ去られた少女たちを救出しようと動き出す。

 当時の美しいパリを背景に、また、当時のパリを賑わせた画家や俳優、作家、科学者等々、きら星のごとく著名人がディリリの協力者となり、ディリリが大活躍する様をファンタジックに描いたアニメーション。 


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 公開当時、見たいなぁ~、と思いながら行けずじまいになってしまった。先月、早稲田松竹で緊急事態宣言解除後に上映していたのを知っていたが、それも行けず、結局Blu-rayで見ることに。

 ストーリー的には、悪くないけれども、まあ、正直言って平板な印象。ただ、それを補って余りあるアニメーションと音楽と演出が素晴らしく、見ていて非常に楽しい。

 アニメ(特に絵のみの)は基本的にあまり興味がないからとっても疎いので、ミッシェル・オスロ監督の名前も知らなかった。もちろん作品を見るのは本作が初めて。でも『キリクと魔女』や『アズールとアスマール』のタイトル名くらいは聞いたことがある。本作のBlu-rayにも『キリクと魔女』の予告編が入っていて、興味深く見た次第。

 背景は写真、人物はCGによる作画ということらしいが、この画面構成が気に入ってしまった。人物はどれも平面的で、色もベタ塗りなんだけれども、背景の写真も含めた色彩のセンスの良さは、さすがおフランス~、、、という感じで、実に美しい。

 あと、この時代にパリに実在していたであろう著名人たちが、これでもか、、、というくらいに次々にご出演なのも面白い。私でも分かるくらいだから、恐らく誰が見ても分かる様に、敢えて特に有名人を選んでいるのだろう。ミュシャやロートレックのポスターが街のあちこちに貼られていて、ロートレックのポスターからそのまま抜け出してきた人物がパブにいるとか、視覚的に楽しめて、ちょっとだけ知性を刺激するような作りが、まあインテリ受けしそうではある。

 視覚的に楽しいと言えば、小道具や部屋のインテリアなども実にセンスが良い。地下を巡る白鳥の乗り物や、男性支配団が乗っているモグラみたいな乗り物とか、サラ・ベルナールの私邸内の色彩豊かな部屋とか、カンカンを踊っている女性たちのドレスの色鮮やかさとか、何といっても終盤の飛行船とエッフェル塔とか、、、まあ、ホントに楽しいです、ハイ。

 つまり、本作は、アニメーション映画としてトータルで見るべき作品であり、昨今のLGBTや#Me Too運動を絡めて男性支配団の描き方がどーのとか、内容にツッコミを入れるのは野暮だ、、、ってことだろう。実際、私は、内容のアレコレはほとんどどーでも良い、という感じだった。

 ちなみに、日本語吹き替えの評判がまあまあ良いので一部吹き替えで見たんだが、ディリリは確かになかなか良かったんだが、オレルの斎藤工はイマイチなんじゃないかねぇ? ヒドいとは思わないけど、もっと上手な声優はいっぱいいると思う。

 エンディングの映像と音楽がまた良い。公式HPで見られるので、ご興味おありの方は今のうちにご覧あれ。ちなみに音楽は、ガブリエル・ヤレドというレバノン出身のお方。『イングリッシュ・ペイシェント』でオスカー受賞していると、初めて知りました。『イングリッシュ・ペイシェント』未見なんで、見てみようかな。

   

 

 

 

やっぱしスクリーンで見ておくべきだった、、、、。

 

 


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テルアビブ・オン・ファイア (2018年)

2019-12-06 | 【て】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68447/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 エルサレムに暮らすパレスチナ人青年サラーム(カイス・ナシェフ)は、1967年の第3次中東戦争前夜を舞台にした人気ドラマ『テルアビブ・オン・ファイア』の制作現場で、言語指導を担当している。しかし、撮影所に通うためには、毎日面倒な検問所を通らなくてはならなかった。

 そんなある日、サラームは検問所のイスラエル軍司令官アッシ(ヤニブ・ビトン)に呼び止められ、咄嗟に自分はドラマの脚本家だと嘘をついてしまう。アッシはドラマの熱烈なファンである妻に自慢するため、毎日サラームを呼び止め、強引に脚本のアイデアを出し始める。困惑するサラームだったが、アッシのアイデアが採用されたことで、サラームは脚本家へと出世することに。

 ところがドラマが終盤に近付くにつれ、結末の脚本をめぐり、アッシと制作陣の間で板挟みになったサラームは窮地に立たされる……。

=====ここまで。

 

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 新聞に出ていた評を読んで、俄然見たくなって、劇場に行ってまいりました。

 

◆宣伝に偽りのない珍しい映画

 パレスチナについてなんて、ほぼ無知に等しく、ぼんやりとしか知らなかったところへ、今年、TVの放送大学の講義で高橋和夫氏の「パレスチナ問題」をたまたま見掛けて、結局全15回見てしまった。

 で、ぼんやりしていたのが、ちょっと輪郭が見えてきたくらいには理解したパレスチナ。まあ、それでも複雑過ぎる彼の地の事情については、まだまだ無知の域を出ていないのだけれども、その講義のおかげで、本作の評にも興味を持てた次第。

 それに、何と言ってもその評には、“ラストで爆笑”みたいなことが書いてあったので。ストーリーと背景から言って、爆笑するオチってどんなん??と単純に興味が湧いた。

 オチがスゴイと言われる映画で、ホントにスゴイ映画はほとんどないが、本作は、全く観客の想像を超えた展開にしたところがスゴイ。こういう映画の場合、オチを“読めた”という人は必ず出てくるものだが、それは多分、見終わってから“読めたと思った”だけだろう。それくらい、え゛ーーーーーっ!!なオチだった。しかも笑える。劇場でも爆笑だった。

 だから、どんなオチかはもちろん書かないけれど、そのちょっと手前までは触れるので、これから本作をご覧になる予定の方は、ここから先は自己責任でお読みください。

 アッシは、ドラマのラストで、主役の2人、つまりパレスチナ人女スパイと、ユダヤ人将校を結婚させろ!!とサラームに迫る。それ以外のラストを書かせないために、サラームのIDまで取り上げてしまう。サラームはエルサレムの自宅にも帰れなくなり、仕方なく、ドラマのスタッフ陣に、ラストに考えている2人の結婚式のシーンを話すが、サラームの叔父であるプロデューサーは、、、

 「よし、じゃあ、その花嫁のブーケに仕掛けた爆弾が爆発して終わりにしよう!」

……彼らにとっては、たとえドラマの中であっても、パレスチナ人がユダヤ人と結婚なんて、あり得ない!!!という訳だ。結婚すると見せかけて、自爆テロ。いくら何でも、メロドラマにはエグすぎるオチじゃねぇ?

 でも、そんなオチにしたらアッシを怒らせるのは必至。サラームは苦悩した挙げ句、、、、どっひゃ~~~! ……というシーンを書き上げる。

 そのおかげで、『テルアビブ・オン・ファイア season2』も制作されるというエンディングになっている。果たして、サラームはどんなオチを書いたんでしょう。それは見てのお楽しみ。

 

◆パレスチナとイスラエル、とか。

 サラームを演じているのはパレスチナ人の俳優だし、アッシを演じているのはユダヤ人の俳優。でも、ヘブライ語もアラビア語も、私には違いが全く分からなかったし、パレスチナ人もユダヤ人も、そんなに容貌に違いはない。

 インドとパキスタンもそうだけど、第三国の人間から見たら、似たような姿形をした人々がいがみ合っているようにしか見えないのだよね。

 本作のスゴいところは、もちろんオチのぶっ飛びぶりもなんだが、この緊迫した両者の関係にあって、その深刻さも内包させた笑いに仕上げているシナリオだ。映像に低予算ぽさは漂うものの、実に巧妙な構成に、ただただ圧倒させられる。当たり前だが、決しておふざけではなく、それでいて所々に笑いを込め、互いを揶揄する描写もふんだんに(とはいえ、どちらかと言えば、やっぱりパレスチナ寄りだけど)組み入れて、その巧みさは素晴らしいとしか言い様がない。一瞬たりとも退屈しない。

 検問所も、放送大学で見た画像では、もっと緊迫した雰囲気の場所かと想像していたが、本作内ではそこまでピリピリした感じはなかったように思う。検問所は他にもあるだろうし、情勢等によって実際の雰囲気はもっと緊迫する場面は多々あるのだろうが。

 あと、印象的だったのが、アッシがフムスを美味しそうに食べるシーン。何度かあるんだけど、そのうちの1回は、サラームが期限切れの缶詰で適当に作ったもの。でも、アッシはそれを「これぞ本物のフムスだ!!」と舌なめずりをしながら食べるという、、、。この辺も、結構アイロニカルなシーンなんだろうな、、、。 

 フランス人女優でパレスチナ人女スパイ役、という設定の女性を演じたのは、ベルギーのルプナ・アザバルさんというお方。美しいけど、ちょっと強そうで怖い感じ。もう一方のユダヤ人将校役を演じたのはユーセフ・スウェイドというイスラエル人。このお方のお顔、どこかで見た様な気がするのだが、出演作を見ても、私が見た作品はないし、、、。どこで見掛けたんだろう。似ている人だったのかしらん。

 本作の面白さは、主役の、サラーム役カイス・ナシェフと、アッシ役ヤニブ・ビドンというお二人にある。サラームは朴訥な感じが良く出ていて、一見、あまり表情がないかに見えて、実に表現力豊かだったし、アッシはマッチョ系の単細胞男っぽいけど実はアイデアマン、みたいなギャップが味わい深い。

 見に行って良かった、と思える貴重な逸品でありました。  

 

 

 

 

 

 

フムスって美味しいんだろうか、、、?

 

 

 

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天国でまた会おう(2017年)

2019-03-18 | 【て】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1918年第一次世界大戦中の西部戦線。休戦目前にも関わらず、上官であるブラデル中尉から不条理な攻撃命令が下り、アルベールは生き埋めに。そんな彼を御曹司のエドゥアールが救うが、その際に顔に重傷を負ってしまい、ショックを受ける。

 二人がパリに戻ったところ、世間は戦没者を称える一方で帰還兵には冷たかった。アルベールは仕事も恋人も失い、エドゥアールは生還したことを家族にひた隠しに。そこに声を失ったエドゥアールの思いを通訳する少女を加え、彼らは人生を巻き返すため、国を相手に大胆な詐欺計画を立てる。
 
=====ここまで。
 

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 チラシのデザインに何となく惹かれて劇場へ、、、。原作者が「その女アレックス」の著者だったと知ってビックリ。ゼンゼン雰囲気が違う作品のような(ちなみに本作の原作は未読)。


◆日本じゃ不発??

 フランスで大ヒットとかいう鳴り物入り(?)の割に、上映劇場は都内でシャンテだけだし、今月1日に公開したのに早々に終映だし、何で??と思いながら劇場へ。サービスデーだってのに、半分くらい空いていた。ううむ、、、。

 ……と思って見たんだけど、見終わってみて、何となくその理由が分かった気がする。まあ、一言で言えば、あんまり一般ウケしない作品だから、、、じゃないかと。私は結構気に入ったけど、全体的にちょっと散漫な感じはするし、世界観がダメな人にはダメかな、と思う。

 散漫な感じをさせる最大の要因は、上記あらすじにある「国を相手に大胆な詐欺計画」という部分がイマイチ説得力がないところ。分かりにくいんだよね、詐欺の内容が。“追悼記念碑”のカタログだけ作って、実際の記念碑は作らずに金だけもらってズラかる、、、って、正直言ってピンとこない。この詐欺の内容は、ある意味、このストーリーのキモなわけだから、もう少しキレが欲しい。フランス人には、これがブラックユーモアとして効いているのかしらん? その辺が不思議。

 さらに言えば、エドゥアールは、自分の顔が衝撃的な変形をしたことによって、戦争を憎み、戦争をした国を憎み、こういう詐欺を企てたわけだが、その詐欺を働くまでの描写がいささか弱い。なので、人によっては唐突感を抱くと思う。この辺りがもう少し丁寧に描かれていると、説得力があったのに、もったいない気がする。

 この辺は映画の前半。ただ、前半も、特に序盤は、塹壕戦の生々しいシーンは迫力満点で、非常に怖ろしい。その後、エドゥアールがパリに戻って詐欺を働くまでが前述の通りイマイチだけど、中盤以降は結構展開も早く、面白いと思う。エドゥアールとアルベール共通の敵であるプラデルとのエピソードや、エドゥアールと父親との確執とその顛末、アルベールとポリーヌの恋の行方など、見どころは多い。

 ただまぁ、やっぱりストーリー的にはちょっと弱いよね。

 重要なキーマンであるプラデルってのがどうしようもない男なんだけど、戦場でのプラデルとアルベールのかなり重要なエピソードが伏線になっているはずなのに、話が進んでも一向に回収される気配がなく、??となって終わりそうになったところへ、最後の最後に、一応オチらしいものが用意されているんだが、これも人によってはオチとは思えないものかも。というか、かなりのご都合主義に感じるかも。まぁ、私には許容範囲だったけど。

 あと、エドゥアールと父親の確執が序盤にサラリと映像で紙芝居みたいに見せられるだけなので、どれほど深刻な確執なのかが分かりにくい。だから、ラストの感動的かつ衝撃的なシーンが、人によってはうまく消化できないかも。これもまぁ、私には許容範囲だったけど。

 ……てな具合に、ううむ、、、という部分が挙げれば一杯あるので、こういうところが気になる人にとっては、???、、、ってことになるんだろうな、と思う。


◆世界観が命。

 多分、この映画を気に入るか否かは、その世界観を好きか好きじゃないか、というところに懸かっていると思う。

 私はこういう凝りに凝った美術やセット、衣裳、美しい映像、芝居がかった演技、、、etcは結構好きなので、ストーリーが弱くても脳内でフォローしちゃえるんだけど。ある意味、この映画は、そういう世界観の部分では非常に上手く出来ていて、それらの要素がぴったり噛み合って、実に素晴らしい。単純なファンタジーはダメだけど、こういうブラックファンタジーは好きなんです、私。ブラックファンタジーは、その世界観が全てといってもいいくらい大事。

 原作を読んでいないので原作の雰囲気は分からないが、「その女アレックス」から考えて、原作がファンタジーだとはちょっと想像しにくいんだが、いずれにしても、この世界観を映像で実現させたのは素晴らしいと思う。フランスのセザール賞5部門受賞!と宣伝しているけど、5部門のうち3賞=撮影賞、衣裳デザイン賞、美術賞はやはり本作の世界観に寄与したものとして納得。ちなみに、他の2部門は、脚色賞と監督賞。脚色賞、ってのは、ストーリーをこき下ろしてきた私としてはちょっと意外だけど。恐らく、長編の原作を手際よく映像化したということに対する評価では?

 まぁ、いずれにせよ、本作は、じっくり深く味わうにはいささか物足りない部分もあるものの、ある意味、映画らしい映画だと言えると思う。結局、こういう作品はTVドラマなんかじゃ作れないし、劇場の大きなスクリーンで見てこそのものだと思う。その世界観を体感する、ということ。劇場で、その映画の持つ雰囲気と魅力に浸れる、これも映画の一つの楽しみ方だと思う。

 だから、私は結構好きよ、この映画。DVDが出たら、もう一回見ても良いくらい。TVで見るとショボいかも知れないけど、、、。


 







大人のためのブラックファンタジー映画




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天才作家の妻 -40年目の真実-(2017年)

2019-02-19 | 【て】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 アメリカ・コネチカット州。現代文学の巨匠ジョゼフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)と妻ジョーン(グレン・クローズ)のもとに、スウェーデンからノーベル文学賞受賞の吉報が届く。友人や教え子らを自宅に招いたジョゼフは、スピーチで最愛の妻に感謝の言葉を告げる。満面の笑みを浮かべて寄り添うふたりは、誰の目にも理想的なおしどり夫婦に見えた……。

 授賞式に出席するため、ふたりはストックホルムを訪れる。旅に同行した息子デビッド(マックス・アイアンズ)は駆け出しの作家で、父に対し劣等感を抱いている。

 そんななか、ひとりホテルのロビーに出たジョーンは、記者ナサニエル(クリスチャン・スレーター)から声をかけられる。ジョゼフの伝記本を書こうとしている彼は、夫妻の過去を事細かに調べていた。ふたりが大学で教授と学生という関係で出会い情熱的な恋に落ちたこと。既に妻子があったジョゼフをジョーンが奪い取る形で結ばれたこと。作家としては二流だったジョゼフがジョーンとの結婚後に次々と傑作を送り出してきたこと……。そしてナサニエルは、自信ありげに核心に迫る質問を投げかける。

 「“影”として彼の伝説作りをすることに、うんざりしているのでは?」

 実は若い頃から豊かな文才に恵まれていたジョーンだったが、出版界に根づいた女性蔑視の風潮に失望し作家になる夢を諦めた過去があった。そしてジョゼフとの結婚後、ジョーンは彼の“影”として、自らの才能を捧げ、世界的な作家の成功を支え続けてきたのだ。

 そして授賞式当日。複雑な感情をひた隠し、華やかに正装した夫妻は、人生最高の晴れ舞台が待ち受けるノーベル賞授賞式の会場へと向かう……。

=====ここまで。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 先日、インドに行く飛行機の中で見ました。劇場に行こうかと思っていたのだけど、機内鑑賞で十分だった、、、。


◆女なんだから。女のくせに、、、

 作家になることを夢見る若きジョーンに「女流作家は認められない時代だから諦めろ」みたいなことを言うのは、エリザベス・マクガヴァン演じる評論家だか文学者だか、あるいは編集者だったか、、、あんましよく覚えていないが、とにかく、その女性の一言がジョーンの夢を粉砕したのである。

 本気で作家になりたければ、それくらいで諦めるな、という意見もあるだろうが、時は1950年代である。そんな正論は「寝言は寝て言え」に近い時代なのだ。賢いジョーンだからこそ、そこは身に沁みて悟ったのだと思われる。

 この映画を見ていて、母親が昔話していたことを思い出していた。ある著名な日本画家の妻は、結婚前は夫に引けを取らない才能を持つ画家だったが、結婚して夫を画家として大成させるために自分は筆を折った、、、ということを、「偉い人やろ、夫のために(嘆息)」と、さも美談として私に言って聞かせたのである。母親は娘に「(勉強で)誰にも負けるな」と尻を叩く一方で、優秀な男に尽くす女を理想像の一つとして娘に押し付けるという、何とも矛盾する教育をしていたのである。そういう母親自身が、夫(私の父親)に自己犠牲を払って尽くしている場面は、娘の私はただの一度だって見たことがない。でも母親には自分が夫に尽くさないのには正当な理由があるのだ。「自分が尽くすだけの値打ちのない男だから」……娘の私から言わせてもらえば、父親の方がよほど自己犠牲を払って我慢していた夫婦だったと思うが。

 ……それはともかく、そんな風に、夫のために自己犠牲を強いられた女性は多いだろう。それを自己犠牲と認識していたかいないかは分からないが、ジョーンはしていたのだ。最初は、自覚はなかったかも知れない。しかし、どこかで割り切れない思いはずっと抱えていただろう。アタリマエだ。

 才能があるのに“女なんだから”という理由で、“女のくせに”と出る杭は打たれ、その才能の芽を摘まれた女性は、歴史を辿ればきっと枚挙に遑がないに違いない。

 そして、それは21世紀においてもまだまだ岩盤リアルである。大体、“女流”作家という言葉自体が、えらく失礼な言葉ではないか。男流作家という言葉がある? 女流=傍流という意味なのでは? こういうことを書くと、すぐにフェミだ何だとアレルギー反応を示す人々がいるけど、そういう人々に限ってフェミをイメージでしか捉えていないからタチが悪い。まあ、フェミにもツッコミ所満載な脇の甘さがあるのは認めるけれど。


◆ジョーンという女性をどう見るか。

 じゃあ、私はこの作品を見て、ジョーンに共感したのか、、、というと、実はそうでもなかった。

 途中まではね、まあ、嗚呼、、、と思って見ていたのだけれど、終盤、夫のノーベル賞授賞式でブチ切れるところで着いていけなくなってしまった。なぜそこでキレる?? それは恐らく、夫が、気恥ずかしくなるような歯の浮きまくった妻を称えるスピーチをしたからだろう。しかし、それまで理性的だったジョーンが、あの場でキレるというのは、ううむ、映画としての見せ場なのは分かるが、あまり賢いとは思えない行動ではないか。

 もちろん、あの場でキレるのが一番夫にダメージを与えることになる。だから、そういうシナリオにしたのだと思う。けれども、ジョーンのキャラから言って、あれはないだろう。あんなことをするくらいなら、とっくにジョーンは夫に見切りを付けていたのでは?

 もっというと、私は、ジョーンが40年もあの夫婦関係を維持してきたことの方が違和感を覚えた。なぜなら、あまりにも夫に魅力がないから。小説家としての才能もイマイチ、女癖は悪い、不健康で自己管理も出来ない、見栄っ張りで傲慢、、、と、良いところが見当たらない男なのだ。それでも、ジョーンは彼を愛してきたというのなら、何もあんな場面でブチ切れることはないだろう、、、と。

 夫婦というのは、良くも悪くも“割れ鍋に綴じ蓋”なのである。40年も持続した関係なら、どっちもどっちのはずだ。妻だけが上等で、夫だけがゲスという関係は成立し得ない。もしそうなら、とっくに破綻しているはずだ。

 ……と書いてきて思ったのだが、いや、あそこでブチ切れるようなレベルの妻だから、あの夫と40年も夫婦でいられた、、、のかも知れないなぁ。夫婦が産み出した文学作品はハイレベルだったかも知れないが、当の夫婦自体は低レベルだったのかも。……うん、それなら納得だ。

 
◆その他もろもろ

 グレン・クローズは、ものすごい貫禄あるオバサンになっていてビックリ。もう、御年72歳だそうで。オスカー最有力と言われているようだけど、果たして受賞なるでしょうか。ちょっと作品自体が地味でイマイチだから、ビミョーな感じではあるけど。まあ、ノミネート何度もされていながら、まだ受賞したことがないようなので、是非、受賞して欲しいですけど。割と好きなので、彼女。

 ジョーンの若かりし頃を演じていたのは、グレン・クローズの実の娘アニー・スターク。道理で似ているわけだ。見た目が違和感がないなぁ、と思いながら見ていたら案の定。演技も悪くなかったし、決して親の七光りなんてのじゃないと思う。

 夫の若い頃を演じていたのがハリー・ロイドというイギリス人俳優だけど、まあ、これがホントにヤな野郎で。こんな男の何が良くてジョーンは惚れたのか、、、。分からん。趣味悪い。

 現在の夫役は、ジョナサン・プライス。『未来世紀ブラジル』は映画自体も私は全然ダメだったし、ジョナサン・プライスもあまり良い印象はない。本作でも、どうにもいけ好かない役で、相変わらず印象悪いまま。彼に罪はないけど、すんません。

 夫婦につきまとうジャーナリスト役・ナサニエルをクリスチャン・スレーターが好演。『薔薇の名前』の頃の面影ナシ。

 先日、NHKのクロ現で、川端康成と三島由紀夫の自殺を取り上げていて、2人の自殺とノーベル賞を関連付けていた。2人ともノーベル賞が喉から手が出るほど欲しかったらしい。川端は受賞し、三島は候補に挙がっていながら受賞しなかった。そして2人とも自死した。……ノーベル賞って、凡人からするとあまりにも想像できないものだけど、もらって幸せになれるモノじゃなさそうだよね。昨日も、NHKスペシャルで、ノーベル賞を若くして受賞した田中耕一さんのその後についてオンエアしていたけど、苦悩の16年とか言っていたものね。前から、なんであんな高齢者にばかりあげるんだろうとナゾだったけれど、やはり、人生の花道を飾るべく死にそうな爺さん・婆さんにあげるのがその人のためだ、ってノーベル財団側は分かっているのね。

 あと、本作は、ジェンダーの側面からも批評されているけれど、私は上記に書いたとおり、ジョーンがあんまし上等な女性に思えないので、そういう視点で語る値打ちのある話にも思えない。ただ、この映画は、男性ウケはあまり良くないのではないかな、という気はする。なんたって、当の夫がジョーンがブチ切れたショックで、心臓発作で授賞式直後に死んでしまうのだからね。しかも、その後、帰国する機内でのジョーンの表情が、、、、。あれで、世の殿方はちょっと憤慨するんじゃないかしら。まあ、あのシーンをどう見るか、受け止め方はイロイロでしょうけど。

 







ノーベル賞受賞者には専属カメラマンが着くんだ~!!




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手紙は憶えている(2015年)

2016-11-18 | 【て】




 認知症の症状が相当進行した90歳のお爺さんゼヴ・グットマン(クリストファー・プラマー)は、眠ると大方のことは忘れてしまい、1週間前に亡くなった妻ルースの名前を必ず呼んで目覚めるのであった。

 そんなゼヴに、同じ老人ホームに暮らすマックス(マーティン・ランドー)が「覚えているか? ルースが亡くなった後、俺たちが誓ったことを?」と尋ねる。当然覚えていないゼヴ。しかし、マックスは「いいんだ覚えていなくても、ここに全て書いてある」といって1通の手紙をゼヴに手渡す。その手紙に書いてある通りに行動すれば、2人が誓ったことをやり遂げる手筈になっているという。

 2人が誓ったこと、、、それは、アウシュヴィッツの収容所でナチス親衛隊の一員として働いていた男“ルディ・コランダー”を殺すこと。なぜなら、2人はアウシュヴィッツの生き残りだったからである。

 身分を偽り、アメリカに渡って“ルディ・コランダー”として生きている、元SS隊員を探すゼヴの一人旅が始まる。ルディ・コランダーという同姓同名の人間は4人に絞られている。頼るは1通の手紙だけ、、、。4人のルディ・コランダーを、1人ずつ訪ね始めるゼヴ。果たして、ゼヴは目的を遂げられるのか。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜



 精神科医の斎藤環氏がツイッターで、なかなか良い作品だ、みたいなことを書いていたので、あんまり詳しい作品紹介は読まずに見に行きました。本作をご覧になる予定のある方は、ネタバレを知らない方が良いと思います。一応、ウリも、驚愕のラスト5分、、、みたいになっていますし。……でも、ネタバレを知って見ると、また違う見方が出来て、それも良いのかも知れません。

 いずれにせよ、ここから先は、思いっ切りネタバレバレの感想です。


◆このオチは、アリか、ナシか!?

 このオチを受け入れられるか、受け入れられないかで、本作の評価は恐らく真っ二つに分かれるでしょうねぇ、、、。

 私は、受け入れられないクチでした。

 ネタバレですよ!!

 そのオチとは、、、誰あろう、ゼヴ自身こそが、探していたルディ・コランダーその人だった、というもの。

 つまり、本当のアウシュヴィッツの生き残りはマックスだけで、マックスは施設でゼヴと出会い、ゼヴこそがナチの残党と確信したことから、計画を思い付き、ゼヴに手紙を渡した、、、ということ。……なんですが。

 人によっては途中で予想がついた、と書いている人もいらっしゃいましたが、私はゼンゼン。だって、そんなことになったら、オハナシそのものが、もう無茶苦茶になってしまうもの。

 いくら認知症だからって、自分が本当はドイツ人のSS隊員でありユダヤ人ではないことを完全に忘れてしまうって、、、そりゃ絶対ないとは言いませんけれども、このストーリーのように、都合よくそこだけ記憶が脱落していることなんて、ちょっと考えられません。

 ゼヴは、認知症とはいえ、妻や息子たち、施設の職員たちの顔や名前はちゃんと判別できていますし、その人と自分の関係性も分かっています。ということは、自分の過去についても、忘れていることはあっても、元SS隊員で、アメリカではナチの残党として別人格を生きてきたことを、丸ごと、100%、すっぽり忘れ去る、なんて、、、あまりにも不自然というか、違和感があります。

 ゼヴが、とにかく何にも覚えていないという爺さんだったら、このオチはアリだと思うけど、だとしたら、ゼヴの最期にとった行動はああはならないでしょう。

 そこに至るまで、ツッコミどころが色々あるとはいえ、全体にスリリングで緊張感に満ちた展開が続いてきたので、ラストのラストで、そりゃないよ、、、と思っちゃいました。

 見終わった後、もう一度、斎藤氏のツイッター文章を改めて読んだら、「ただこれは、さすがにネタバレできない作品で二回観るのはむずかしいかな? ただなあ、精神科医としてはどうしても、アレとコレをナニするのはちょっと無理がありすぎ、的なツッコミは不可避だなあ」と書いてありました。「アレとコレをナニする」の意味が分かりませんけど、恐らく、認知症に関することでしょう。

 現実離れした話でも構わないんだけれども、あまりにも、、、なんつーか、“実はゼヴは宇宙人でした”と大差ないオチで、違う意味で衝撃的でした、、、ごーん。


◆オチを知ってみれば、ツッコミどころもなるほどと。

 ツッコミどころが色々あると書きましたけど、例えば、拳銃を使ったことがないはずのゼヴが、実に見事に人の腹と頭を打ちぬいて殺害しているシーンですかね。オチを知れば、なるほど、と分かりますけれど。

 あと、やはり、最大のツッコミは、マックスの企みは、念が入っているようで、かなり杜撰なこと。ゼヴがこの計画をやり遂げる保証はそもそもなく、途中でやーめた、になる可能性は低くない。

 マックスが何でこれをゼヴに何が何でもやらせようとするのか、というのは、見ている間、確かに疑問ではありました。自分が車いすで動き回れないから、ということだと解しましたが、なんつーか、結構図々しい爺ぃだな、と思っちゃいまして。人を顎で使っている、みたいな感じを受けたというか。、、、ま、実際、顎で使ってたってことですな、オチから見れば。

 監督は、アトム・エゴヤン。彼の作品は、『白い沈黙』しか見たことがなくて、しかも『白い沈黙』は、まあ悪くないけど、ちょっとなぁ、、、的な感じだったので、正直、あんまし期待はしていませんでした。でも、終盤までは本当に、なかなか見せてくれる展開だったので、「お、今回は結構イイかも!」なーんて思った直後に、あのオチだもの。やってくれるよ、エゴヤン。

 アイデアは面白いし、今という時代がこういう話(ナチの残党追跡)を描けるギリギリでもあるし、そういう意味では、エンタメ要素もありながら、存在意義もある作品に十分なり得たかも知れないのに。

 このオチを受け入れられる人と受け入れられない人の比率って、どんくらいなのかなぁ。受け入れられる人の方が多いのかな、、、。ちょっと興味ありますね。


◆その他モロモロ

 ブルーノ・ガンツが出演しているというのは知っていたので、どこで出てくるのかな? と思っていたら、ルディ・コランダーの1人目。結構、あっさりな出演でした。

 後ろで糸を引いていたマックスを演じたのは、マーティン・ランドー。大それた計画を立てた悪人、、、というわけではなく、マックスはマックスなりに葛藤はあったように感じました。その辺りの微妙な演技を巧みにされていました。

 そして何と言っても、本作を終盤まで緊張感を持って牽引してくれているのはクリストファー・プラマーです。もう、素晴らしい。危なっかしさと、強さを見事に両立させた演技です。途中、ピアノを弾くシーンがあるのですが、吹替えではなく(音は吹替えかも知れませんが)、実に流麗な演奏シーンを見せてくれています。鍵盤を叩く手も、手首が上がっていて、美しい。さすが、トラップ大佐、楽器はお手の物ですな。

 ちなみに、彼がピアノを弾くシーンは2回あり、最初は、メンデルスゾーン(ユダヤ人)、2回目はワーグナー(反ユダヤ主義者)。これはなかなか思わせぶりですよねぇ。メンデルスゾーンを華麗に弾きこなすゼヴを見て、ゼヴがユダヤ人だと観客は確信しちゃう。が、2回目のワーグナーで、え、、、?となる。これは、その後のセリフにも出てきますけれど。ま、エゴヤンの思惑にバッチリ私は引っ掛かった訳です。







トラップ大佐が認知症の爺さんに、、、。





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ディーパンの闘い(2015年)

2016-02-27 | 【て】



 以下、公式サイトのあらすじのコピペです。====ここから

 主人公は、内戦下のスリランカを逃れ、フランスに入国するため、赤の他人の女と少女とともに“家族”を装う元兵士ディーパン。辛うじて難民審査を通り抜けた3人は、パリ郊外の集合団地の一室に腰を落ち着け、ディーパンは団地の管理人の職を手にする。

 日の差すうちは外で家族を装い、ひとつ屋根の下では他人に戻る日々。彼らがささやかな幸せに手を伸ばした矢先、新たな暴力が襲いかかる。戦いを捨てたディーパンだったが、愛のため、家族のために闘いの階段を昇ってゆく──。

====コピペ終わり。

 ディーパンを演じたアントニーターサン・ジェスターサンは、かつてタミル・イーラム解放の虎(LTTE)に属していたリアル戦士だったお方。

  
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 スリランカがそんなに長いこと内戦状態にあったことさえ知りませんでした。インドの隣の島国で、紅茶が有名で、決して貧しい国ではないということくらいしか漠然と知っていなかったので、内戦が長く続いていたとは思いもよりませんでした。世界には、知らない所でたくさん内戦、内乱、動乱、頻発しているのでしょうね、、、。

 で、本作ですが、、、。うーーん、タイミング的なものもあってのカンヌ・パルムドール受賞でしょうか、、、と、穿ってしまう。何かこう、もやもやが残るんです。もやもやの正体は何だろうと考えたんですが、もしかすると、世間の評に反して“嘘くさい”と思っちゃったのかも、という気がします。

 いや、ストーリー的にはむしろ、リアリティがあると思います。

 3人はパリへ来てから一つ屋根の下の暮らし始めるわけですが、そこはやはり赤の他人同士なのでそれなりに軋轢があります。ここで、ニセ妻(母)であるヤリニが結構、見ている者をイラつかせる自己中女です。最初は、ディーパンだけが働いていたんだけど、生活費が足りなくて、ヤリニに「お前も働け!!」とディーパンは怒るんですが、「家事だって立派な仕事よ!!」と言い返して、平和な日本のリアルな夫婦の会話でもありそうなやりとりが、ちょっと笑えたり。

 あれがありこれがあり、3人は次第に、ぎこちないながらもニセ家族が板についてくるんですけれど(ディーパンとヤリニは途中で寝ちゃいますしね)、そこはやはりニセ家族、いざとなると、ヤリニの自己中が復活し、再び険悪に。ニセ家族でなくたって、リアル家族でも、自己中全開な親や子による摩擦なんてフツーにあるもんな、と納得したり。

 でも、嘘くさいと思ったのは何なのか、、、。監督のインタビュー記事を読んで、ちょっと分かった気がします。

 この映画のテーマは、愛のために闘うこと、愛による人間・家族の再生、ということのようです。これが嘘臭さを感じた最大の理由かも。、、、なんかね、出来すぎな話、というか。かといって、別に、ご都合主義という感じはしないのです。ロジカル過ぎる、理にかない過ぎという感じかなぁ。例えて言うと、自然な感じを作り過ぎて、却って人工的に見えちゃう、みたいな。、、、ゼンゼン分からないですか。すみません。

 偽装家族は、そもそもは生きるためのもの。そこには愛どころか、最初は、情さえも介在していなかった。でも、現実に一緒にいる時間を積み重ねていくうちに、互いに情が生まれていき、それが愛に昇華された、、、ということなんだと思うのですが。そういうことは実際よくあると思うし、吊り橋効果じゃないけど、尋常じゃない状況に置かれれば、精神的な昂揚が恋愛感情に変質することはあると思うので、そこは良いんですけど、、、。

 いくら生きるためのギリギリの策とはいえ、この3人は、過去を捨てることに一切の迷いがない(ように見える)し、あまりにもあっさりとニセ家族を演じられちゃっているんです。そもそも論になっちゃいますが、ここが引っ掛かっちゃったんだと思うのですよね、、、。つまり、出だしで躓いていたわけです。

 それに、3人だけになったら軋轢があるとはいえ、外面的にはノープロブレムで、偽装がバレそうになる危機が訪れることもなく、、、。

 だから、所々では共感できても、違和感は通底してあったような。で、終盤、ディーパンが、本当に闘うシーンは、ストーリー的には確かに彼はああするしかなかっただろうと思いますが、結構、唐突な感じがして、意外な展開というか、見ながら内心「え゛~~~!?」って感じでした。ディーパン役の人は元リアル戦士だったというだけあって、闘いっぷりも堂に入っていて、そこはリアリティありまくりでしたけれども。

 ラストシーンが、夢ではないかという説があるようですが、私は、普通にリアルな描写だと思って見ていました。自分のために命懸けで闘う姿を見たら、ああいうラストもありだろうな、と。

 ただ、ディーパンは本当に、ニセ家族のために闘ったのか、、、という疑念もなくはないです。監督が愛のために闘ったと言っているんだから、疑念もクソもないんですが、私的には、もしかすると、ディーパンは戦士としての使命感に突き動かされていただけなんじゃないか、とも、ちょっと思います。そう思って見ると、ラストが夢だという説も、一理あるかも。、、、いやでも、やっぱりこれは見方としてはかなり屈折し過ぎよね。

 なんか、まとまりのない感想な上に、ケチばかりつけてしまったけれど、見応えはあります。取ってつけたようなフォローが辛いとこですが。





“闘い”とは、目に見えないものとのことかと思っていたら、リアルファイトだった!!




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テナント/恐怖を借りた男(1976年)

2015-06-18 | 【て】



 そのアパートのその部屋の住人である女性・シモーヌは投身自殺を図り、今、瀕死の状態で、彼女がこのまま死んだら、その部屋を貸してあげよう・・・。

 果たして、彼女は死んだ。そして、トレルコフスキー(ポランスキー)は約束通り、その部屋を借りた。死んだ彼女の持ち物がそのまんまの部屋に入居するトレルコフスキー。彼女が着ていた黒地に花柄のワンピースがクローゼットに掛かったままだ。

 住んでみると、アパートの他の部屋の住人達は一風変わった人ばかり。しかも、異様に音を気にする連中だ。トレルコフスキーも大きい音を出さないよう神経を使うようになる。また、向かいのカフェに行ってみると、シモーヌは生前毎日その店に来て、今、トレルコフスキーが座っているその席に必ず座っていた、と店主に言われる。その上、そのカフェにはトレルコフスキー愛用の銘柄のタバコは置いておらず、シモーヌが愛用していたというマルボロを必ず出され、次第にトレルコフスキー自身マルボロを進んで吸うようになるのだった。

 こんな些細なことが積み重なるうちに、トレルコフスキーは、次第に、シモーヌは住民たちによって精神的に追い詰められ自殺に追い込まれたのだと思い込むようになり、それが高じて、アパートの住民が自分をシモーヌに仕立て上げようとしていると妄想が暴走してしまうようになる。

 ポランスキーが実に巧みに妄想に絡め取られる男を演じている、ブラックコメディとも思えるスリラー映画。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 本作は、1976年制作ということで、あの『チャイナタウン』と『テス』の間に作られたのですね。『戦場のピアニスト』のパンフによると、淫行容疑で逮捕・有罪とされたのは本作を撮った後の77年とのことなので、彼にとっては微妙な時期の作品ということでしょうか・・・。

 ここでのポランスキーは、気弱で真面目そうな独身男を、素晴らしくナチュラルに演じています。ほとんど、トレルコフスキー=ポランスキーじゃないの、って感じです。トレルコフスキー自身も、ポーランド移民ですし。

 『反撥』や『ローズマリーの赤ちゃん』に通じる作品ですが、前2作に比べて、本作はどこか滑稽さというか、可笑しさがつきまといます。アパートの住人らが自分をシモーヌに仕立て上げようとしていると妄想スイッチが入ってからの彼は、もう、ヤバいを通り越して、本当に滑稽なのです。10センチくらいありそうなパンプスを買ってくると、シモーヌの黒地に花柄のワンピースを身に着け、パンプスを履き、ドギツイ化粧をして、シモーヌに自らなり切ろうとするのです。ポランスキーの女装姿、なかなかハマっています。美しくはないけど、あまり違和感もない。

 こういう、最初は、何かおかしい、何かヘンだ、という些細なことの描写がいくつかあり、次第に本当に狂っていく様を描くのが、ポランスキーは実に巧いです。どうしてこんなに巧いんだろう。こういう描写って、ものすごくチープかつ陳腐になりがちだと思うんですが、、、。ポランスキー自身が、やはり、こういう「不条理なもの」に対する感度がもの凄く高いのだと思います。理屈じゃないこと、あり得ないようなこと、違和感としか言いようのないこと、そういうことに対して、彼は非常に敏感で、なおかつ真面目に向き合う人なのだろうな、、、と。「考えすぎだよ、バカだな~」で済まさない人。、、、でなきゃ、映画なんて撮れませんよねぇ。

 私はある意味、極めて常識人なので「考えすぎだよ、バカだな~」の部類です。でも、人間には、理屈では割り切れない、不条理そのものの感覚があることもまた、認識はしています。だから、こういう話を見聞きして、大真面目に怖いと思っちゃうのですね。人間、いつ狂ってしまってもおかしくない、そんな風に思います。

 ただ、本作は、先にも書いたように、 『反撥』や『ローズマリーの赤ちゃん』にはなかった滑稽さがかなり強調されています。もちろん、その滑稽さはポランスキー自身が体当たりで演じているのですが、本人は真に妄想にとらわれて苦しんでいるのに、その妄想の暴走ぶりがぶっ飛び過ぎなので、ちょっと苦笑さえ浮かんでしまうという、、、。この辺も、もちろん、ポランスキーの計算のうちなんでしょうが、だからこそ、巧いなーと。

 ラストに至っては、ほとんどブラックコメディと言っても良いのでは。女装したまま、シモーヌがしたように、窓から飛び降りるのですが、1度目は意識もはっきりしたままで、アパートの住人に囲まれ、妄想は極限まで暴走し、足を引きずったまま自室に戻ると、再度窓から飛び降りるのです。そう、つまり、トレルコフスキーは2度、ダイブするのです、、、。その姿はもう、怖いというより、ひたすら滑稽で、ここまで来ると、もう可哀想という感情さえなくなります。もう死ななきゃ、その妄想からは逃れられないよ、、、。

 イザベル・アジャーニがシモーヌの親友ステラとして出演しています。出番は少なめですが、インパクトはさすがです。シモーヌを見舞ったトレルコフスキーと病院で出会い、その帰り道に2人で映画を見に行き、映画館でトレルコフスキーの股間に手をやるステラ、その挑発に乗り、ステラの胸を鷲掴みにしながらディープキスをするトレルコフスキー、、、。このシーンだけで、十分異様でしょ。この後は、何をかいわんやでございます。彼女も『アデルの恋の物語』で狂っていく美女を演じていたのでしたねぇ。最強タッグですな、、、。恐れ入ります。

 あと、特筆事項としては、トレルコフスキーと同じアパートの住人で、他の住人から迫害されている女性の娘を演じていたのが、あのエヴァ・イオネスコということです。『ヴィオレッタ』で自伝的映画を撮ったけれど、彼女がまさに実母に商売道具とされていた頃の出演となりますね。なるほど、怪しげな美少女です。

 本作のポランスキーは、どこか翳があるというか、それが役の上でそのように演じている、というより、彼自身にまとわりついている翳みたいに見えるのです。彼の経歴を知っていて見ているから、そう見えるだけかも知れませんが、でも、やはりそう見えてしまうものは仕方がない。どこか寂しげで、孤独で、不器用な感じ、、、。

 劇場公開はされず、日本でもこのたび待望のDVD化とのこと。早速見てみて正解でした。ますますポランスキーの才能に惚れました。

 
 

  

少しずつ、少しずつ、、、狂っていく男。




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天国の駅(1984年)

2015-05-03 | 【て】



 かよ(吉永小百合)は、類稀なる美貌の持ち主だが、男運が絶望的に悪い女性。寄ってくる男はロクでもない男ばかりで、かよは図らずも2度も殺人に手を染めることに、、、。

 ホテル日本閣殺人事件を下敷きにした作品とのことだが、まるで別のオハナシ。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
  吉永小百合主演映画は、『おはん』に続いてこれが2本目です。『おはん』は、大好きだった大原麗子さんが亡くなった後、彼女を偲んで見たのですが。感想は「みんシネ」にも書きましたけれども、どう見ても、主演の小百合さんは麗子さんに思いっ切り喰われてしまっており、一応、小百合さんも濡場っぽいものを演じておられたけれど、なんだかなぁ、という感じで、やはり麗子さんは素晴らしいと、改めて感じた作品でした。

 じゃあ、何で本作を見ようと思ったかというと、少し前に、松たけ子さんのブログ「まつたけ秘帖」で、小百合さんもかなり頑張っているという記事を拝見したからです。

 はてさて、、、なるほど、確かに頑張っておられます。『おはん』のときよりはかなり過激なシーンも、、、。

 でも、あんな痴態そのもののセックスシーンを襦袢を着たまま、しかも腰紐しっかり結んだまま、って、どー見てもヘンじゃない? ・・・て、別に私は小百合さんの裸体を拝みたいわけじゃないので構わないのですが、脱ぐ気がないなら初めから痴態シーンになんか挑戦しなきゃいいのに、と思っちゃいました。

 しかも、小百合さんの、恍惚の表情はみな同じ。2番目の夫と幸せな結婚をして初めて結ばれたセックスでの表情も、その夫に侮辱されながらまさに犯されているときの表情も、まったく同じなのは、やはりちょっと女優として芸がないと思うのですが、、、。

 ま、サユリストには、小百合さんのあんなお姿を拝めるだけでありがたや~、なんでしょうかね。

 本作の脚本は早坂暁さんだったのですねぇ。『夢千代日記』と同じコンビですね。本作は夢千代の後みたいです。本作のかよさんは、とっても品のあるつつましい女性という設定になっています。別にそれはゼンゼン良いんだけれど、私はたまたま、ホテル日本閣事件の内容を事前に知っていたので、あまりの違いに、ちょっと白けてしまいまして・・・。これは、早坂氏が、小百合さんに当書きしたからでしょうね。夢千代の、そして小百合さん自身のイメージを、早坂氏自身が強く引きずっていたのでしょうなぁ。

 小百合さんは、やっぱり、こういう汚れ役は向いていない気がしたのですが、しかし、これは、もしかすると早坂氏の罪かも知れません。もっと、かよを人間臭い、清濁併せ呑む奥行きのある女性として描けば、痴態シーンなど入れなくても、十分彼女のイメージと可能性を広げることが出来たんじゃないかと思うのです。

 真正悪女は、本当はとっても魅力的なのに。それだけに、演じるのはとても難しいと思いますが。、、、いや、もしかすると、早坂氏はそんなことは十分分かっていて、でも、敢えてこの脚本にしたのかも。もしそうだとすると、小百合さんに悪女は演じられない、と踏んでいたということになりますが・・・。

 2番目の夫(津川雅彦)の先妻は、精神を病んでいたのですが、それを白石加代子が怪演。すごい迫力です。出番は少ないのに、一番キョーレツだったかも。いっそ、白石さん主演で、史実に忠実な作品にした方が、よっぽど面白かったかも、という気がします。

 小百合さんが濡場シーンに体当たりで挑んだ、っていう話題ばかりが先走っている作品ですねぇ、残念ながら。脇の、津川雅彦、白石加代子、西田敏行(あ、三浦友和もかなり健闘していました)の方が、印象は強いです。

 しかし、そんなことよりなにより、本作は、冒頭からいきなり冷や水を浴びせてくれました。もったいぶって、テロップが出るのですが、それが、、、

 「天国の駅は、たった独りでしか、乗れない」

 これ、日本語としてオカシイって、誰も言わなかったんでしょうか、関係者は。もう、これで思いっ切り引いてしまいました、私。別に、文法がどうのこうのとか、そういう細かいことをあげつらうつもりはないけれど、あまりにも違和感バリバリの散文じゃない? もうちょっと何とかならなかったんでしょーか。言いたかったのは恐らく「天国の駅へは、たった独りでしか、行けない」or「天国の駅への電車には、たった独りでしか、乗れない」ってことだと思うんだけど。嗚呼、、、。

 せっかくDVDをレンタルしたのに、BSでも同時期にオンエアしておりました。うう、ツイてない。



あんな助平オヤジが、妻の襦袢を剥ぎ取らずに最後までするんでしょーか?




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デストラップ 死の罠(1982年)

2014-08-19 | 【て】



 これも、やっぱりダイアン・キャノンの出演作が見たくて借りたんだけど、監督がなんとルメットさんでした。知らなかった・・・。

 舞台がもとの作品なので、基本的に会話が、というかセリフが多いです。でも、整理されたセリフの多さなので全然問題ありません。字幕でちゃんと情報はカバーできるレベルです。

 まあ、ダイアン・キャノン演じるマイラは、あまり見どころのある役とはいえず、彼女の魅力は発揮されないままでした。やたらキャーキャー騒いで(というキャラだから仕方ないのだけれども)出番が終わっちゃいました。そう、彼女は途中で死んじゃいます。

 ここが、中盤での一つのヤマなんですが、このヤマがですね、あのクルーゾーの『悪魔のような女』と同じなんですよねぇ。嫌でもあの作品を思い出しちゃうでしょう、見ている人は。

 で、ここからは二転三転しまして、クリストファー・リーブとマイケル・ケインの画にならないキスシーンなんぞまであって、一瞬のけぞるのですが、一応、飽きずに最後まで見せてくれます。・・・が、まあ、あんまり痛快なドラマではありませんねぇ。なんか、無理矢理などんでん返しが続くのです。

 とはいっても、やはりサスペンスの舞台劇って、こういう作りにならざるを得ないですよね。いかに、観客を裏切るか、が成否のカギを握る訳ですから、ありとあらゆる裏をかかなければならないのが、脚本の宿命です。これが、もともと映画のために書かれたホンなら、ここまでやらなくても、面白い作品はできたと思います。人物描写はセリフだけでやらなくても良いわけですし。

 ルメット作品をたくさん見ている訳じゃないけれど、私は、遺作となった『その土曜日、7時58分』の方が断然素晴らしいと感じたなぁ。なんか見ていて心臓ギリギリやられるというか・・・。

 やはり舞台劇は舞台だからこそ味が出るのであって、舞台でヒットしたから映画にしても面白いかというと、必ずしもそうではない、という、、、まあ、そんな作品はゴマンとありますが。

 あと、クリストファー・リーブは、いい俳優さんだったのだなぁ、と思いました。彼の出演作もほとんど見ていないけれど、『日の名残り』とか、見てみようかな。

観客を裏切ることにだけ徹した舞台劇は映画にする意味なし
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