映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

君の名前で僕を呼んで(2017年)

2018-05-19 | 【き】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1983年夏、北イタリアの避暑地。

 17歳のエリオは、アメリカからやって来た24歳の大学院生オリヴァーと出会う。彼は大学教授の父の助手で、夏の間をエリオたち家族と暮らす。はじめは自信に満ちたオリヴァーの態度に反発を感じるエリオだったが、まるで不思議な磁石があるように、ふたりは引きつけあったり反発したり、いつしか近づいていく。

 やがて激しく恋に落ちるふたり。

 しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づく……。

=====ここまで。


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 ジェームズ・アイヴォリーという名前は、もう何年も聞いていない気がしていたところ、今年、オスカーを、しかも脚本賞をゲットしたというニュースを聞いて、へぇ~、生きてたんだ、おいくつ? ……と思ったら、なんと89歳だって!! ひょえ~、一体どんなシナリオをお書きになったのかしらん、、、と興味津々で、劇場まで行ってまいりました。


◆アイヴォリー氏、健在。

 少し前に『モーリス』(4K)を見ていたのもあるけど、これは、現代版「モーリス」やね! と思ってしまった。まあ、モーリスでいえば、クライヴがオリヴァー、モーリスがエリオ、、、?? いや、どちらもちょっと違うかな。

 それにしても、89歳のアイヴォリー氏が書いたシナリオは、30年前の『モーリス』にひけをとらない美しさと瑞々しさで、というより、むしろ本作の方が、舞台が北イタリアの夏で明るいイメージがあるせいもあってか、若々しさを感じたくらい。もちろん、その一方で、『モーリス』と通じる部分も多々感じられ、アイヴォリー作品が好きな者としては非常に嬉しく思った次第。

 やはり、人と人が惹かれ合い、恋に落ちていく紆余曲折を描くのが、アイヴォリーは非常に上手い。本作でも、エリオとオリヴァーが互いに気持ちを確認するまでに結構な時間を要しているんだけど、それが見ていて必然を感じさせられる。相手が同性であるが故に、なおのこと互いに慎重になるのも然り。音楽をうまく話に入れ込んで、登場人物のキャラや心情を端的に描いて見せるのも、アイヴォリーのお得意技。

 本作は、『モーリス』同様、同性愛にスポットが当たりやすいが、これは男女を問わない物語に仕上がっているのも素晴らしい。同性愛がテーマの作品の場合、“これが異性愛だったらただのベタなメロドラマやん”と言いたくなる作品は多いけど、本作は、そういう感覚を見ている者に抱かせない。人を好きになるって、こういう痛みを伴うものだよなぁ、、、という普遍的なことが描かれていると思う。

 原作者のアンドレ・アシマンがどんな人かゼンゼン知らないけど、まあ、きっと彼にも同じような経験があるのでしょう。エリオのお父さんは、アシマンの実父がモデルだそうで、終盤、エリオにお父さんが“恋の痛み”について話すシーンが秀逸なのだけれど、あの話の内容は、アシマンの実父が話したことなんだとか。あのシーンは、本作のキモといってもいいだろう。アシマンが言いたいことは、あのお父さんのセリフに凝縮されているのだと思う。アイヴォリーも、あのシーンを本作のハイライトとしてシナリオを書いたに違いない。


◆現代の貴族。

 本作は、設定が1983年となっていて、エリオ君は、私よりちょこっとお兄さんになるけど、ほとんど同世代と言って良いわけで、1983年時の自分とのあまりのかけ離れぶりに衝撃を受けてしまった。私が、やれ夏期講習だ、やれ宿題だ、やれ模試だ、、、と、ジメジメした猛暑の下で這いずり回っていた頃、エリオ君は、あの爽やかなイタリアの美しい青空の下、英語とフランス語とイタリア語を自由に駆使して、文学を論じたり、作曲したり編曲したり、セックスしたり、同性との恋を経験したり、、、って、こういう文化的レベルの差って、もうどーしよーもないわね。

 そりゃもちろん、日本でも、エリオ君みたいな夏休みを過ごしていた若者はいただろうし、アメリカ人の若者がみんなあんな夏休みを過ごしていたわけじゃないのは承知の上だけど、言ってみれば、エリオ君の家庭は現代の“貴族”だわね。お父さんはもともとアッパーのインテリ。お母さんは美しくて、何カ国語も自由に話せて教養もあって、家事なんか一切しなくて、美味しいモノを食べて、夫と楽しくハイソな会話を楽しんで、、、という生活がアタリマエであり、優雅そのもの。……そんな両親の下に生まれたエリオ君が、あのように優雅な夏休みを送るのは、これまたアタリマエなのよね。

 どこかヨーロッパの雰囲気を感じさせる一家に加わるアメリカ人青年のオリヴァー。彼は、美しくて育ちが良さそうだけど、どこから見てもアメリカ人。日本人の私の目で見ても、彼がヨーロッパの現代の貴族には見えない。これがミソだよね。

 私は、エリオが先にオリヴァーに惹かれたのかと思っていたけど、中盤、オリヴァーは最初からエリオが好きだったと言うのを聞いて、ちょっと意外だった。というか、2人ともお互いに最初から惹かれ合っていたのだと思うな、多分。バレーのシーンで、私も、オリヴァーがエリオにモーションを掛けたのは分かったけれど、その後のエリオのリアクションが、何だか可愛かった。明らかに戸惑っており、もうこれでキマリ、って感じのシーンだった。

 初めてキスした後も、一気に怒濤の流れになるわけではなく、微妙な押し引きがあり、ううむ、、、という感じだったんだけど、ようやく2人が互いに感情をぶつけ合って結ばれたときは、何だかホッとしたよ、オバサンは。あー、やれやれ、良かった良かった、みたいな。

 やはり、この辺も、貴族的というか、品があるなぁ、と。たとえ、エリオが桃を使って自慰行為をしようが、旅先でエリオがゲロった直後にオリヴァーがキスしようが、何かこう、、、品性を汚さない一線がしっかり守られているのが、私はすごく良いなぁ、と思った。これは、アッパーな人たちを描いているから、というだけでない、作り手の矜持みたいなものだろう。恋愛を真摯に描くと、こうなるんだと思う。

 そして、やはり、本作も『モーリス』同様、片方が女性と結婚することで、2人の関係に強引に終止符が打たれる。切ないなぁ、、、。同じ同性愛でも、女性同士の恋愛を描いた『キャロル』は、(多分)ハッピーエンディングだったけど、男性同士の場合は、やはりどちらかの結婚にてジ・エンドとなってしまうものなのか、、、。

 本作には、続編があるかも(?)とのことで、……というか、原作は30年後が描かれており、この後、世界的にエイズが社会問題化していくことなども盛り込まれているらしい。


◆その他もろもろ

 エリオ君を演じたティモシー・シャラメは、なんとなくあの『ベニスに死す』のビョルン・アドレセンを思い出させる、、、と思ったんですけど、どーでしょう? ゼンゼン違う? 何となく中性的な感じとか。本作の撮影時、22歳だったとのこと。17歳に十分見えたのが凄い。非常に難しい役どころだったと思うけど(ビョルン・アンドレセンみたいに、黙って佇んでりゃ良い的な役じゃないからね、、、)、鮮烈な印象を残す演技で、これはこれから引っ張りだこになるかもねぇ。美しいけど特徴がある顔なので、ビミョーかもだけど。

 オリヴァーのアーミー・ハマーは、背も高くて美しいし、品もあるしで、非常に良いと思うんだけど、、、アーミーファンの方には申し訳ないんだけど、24歳の役にはちょっとオッサン過ぎる気がしたんですが、、、。なんつーか、遠目のショットが、どう見ても24歳ではないオッサンのシルエットなんだよね。短パンも、オッサンなら似合っているけど、24歳の青年ならオッサンぽくてダメだと思うし、、、。あと、一番ヒドかったのはダンスシーン。スローな音楽はまだしも、アップテンポなダンスを見せるシーンでは、明らかにその動きがオヤジ。……マズイでしょ、あれは。

 彼は、TVドラマ『デスパレートな妻たち』に出演していたとのことで、彼の出演シーン、見直しちゃいましたよ。当時、二十歳くらいでしょうか。なるほど、二十歳のアーミー・ハマーは、二十歳っぽい青年でした。きっと、彼の24歳は、本作のようなオッサンではなかったはず。24歳という年齢設定でないとダメだったのかなぁ。実年齢の30歳くらいでも良かったんじゃないの? 30歳のオッサンが17歳の少年に、、、って犯罪か? だったら、エリオ君を24歳にしちゃうとか。

 あと、、、本作でケチをつけるところといえば、『モーリス』同様、出てくる女性の描写が、エリオ君のお母さんも含めて、杜撰だってことかな。キレイだけど、それだけ、みたいな。本作はあくまで、エリオとオリヴァーの話であって、出てくる女性は都合良く配置されているだけ、ってのがヒドいといえばヒドいけど、そもそも、男の同性愛モノ=男尊女卑的思想がベースにある話なんで、この辺は致し方ないところか、、、。

 まあ、ケチを付けると言えばそれくらいで、、、。こういう作品こそ、映画にする意味のある作品、良い映画の要素を全て備えた作品、と言うのだと思う。何度でも見たいか、と言われると、そこまででもないけれど、見ておいて損はない映画だと思います。










ハエがぶんぶん飛んでいる、、、




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シェーン(1953年)

2018-05-15 | 【し】



 以下、上記リンクよりストーリーの要約(結末に触れているので)です。

=====ここから。

 頃は1890年。初夏。ワイオミングの高原に1人の旅人(アラン・ラッド)が漂然とやってきた。男は移住民の1人ジョー・スターレット(ヴァン・ヘフリン)の家で水をもらい、家族の好意で1晩泊めてもらうことになった。男は名をシェーンと名乗った。

 妻マリアン(ジーン・アーサー)、1人息子ジョーイ(ブランドン・デ・ワイルド)と3人暮らしのジョーは、かねて利害の反する牧畜業者ライカーに悩まされていたので、冬まででも働いてくれないかとシェーンに頼み、シェーンも受け容れた。

 シェーンは、町の酒場でライカーの手下から喧嘩を売られたときも、相手にしなかったが、図に乗ったライカー一味は、シェーンが再び酒場に現れたとき、再び彼に絡み、今度は彼も応えて乱闘が始まり、シェーンはジョーの応援を得て群がる相手を叩き伏せ、酒場を引き揚げた。怒ったライカーは殺し屋のウィルスン(ジャック・パランス)という男を呼び寄せ、移住民の1人、短気なトリーが最初の犠牲となった。

 ライカーに農場の明け渡しを要求され、農民一同のために命を捨てる決心をしたジョーは単身敵の酒場に乗り込もうとしたがシェーンがそれを止め、肯ぜぬジョーを殴って気を失わせて、マリアンに別れを告げ一人ライカーのもとに向かうシェーンであったが、、、。

=====ここまで。


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 午前十時の映画祭9での鑑賞。西部劇はあんまし得意じゃないけど、これはなぜか見たいと思って(ちなみに今回初見)劇場まで行ってしまいました。GW中だからか、なんと満席。割と年齢層は高めでオジサンが多かったけど、若い人たちも結構いらしていました。


◆シェーン、カッコええ、、、。

 シェーンを演じたアラン・ラッド。正直言って、よく知らない俳優さんだし、顔もあんまし好みじゃないし、他の作品も見たことない。割と小柄な印象で、途中、普段着に着替えるんだけど、そのシャツとズボン姿が結構ダサかったにもかかわらず、シェーンは最初から最後まですんごいカッコ良かった。これぞ、カッコイイ男、という感じ。

 余計なことは喋らない、優しくて思いやりがある、何かとスマートな言動、いざとなるとメチャメチャ強い、、、、いやぁ、こんな男、世界中探したって、そうめったにいるもんじゃないでしょう。

 少年ジョーイが憧れるのも分かる。でもって、妻のマリアンも心奪われるのも、まあ、仕方ないか、という感じ。どう見たって、夫のジョーよりイイ男だもんねぇ。でも、マリアンは決してよろめいたりしない、理性的な女性。シェーンだって、恐らくマリアンに惹かれていたはず。でも、ここら辺の描写が時代なのかな、、という印象。

 見ている方は、どうしたってジョーやシェーンの目線で見てしまうのだけど、考えてみれば、ライカーの言い分ももっともというか、彼らは先住民から取り上げた土地を開拓したわけで、後からやってきて勝手に住み着いて、5年経ったら俺らの土地だ! とか言われりゃ納得いかないのもムリはない。だから、恐らく本作は、西部劇にありがちな分かりやすい勧善懲悪を描きたかったわけではないのだろう。

 力が支配した時代が終焉を迎えつつあり、シェーンも流れ者で居場所がなくなっている状態。殺し屋のウィルソンと顔なじみであることを思うと、シェーンもその筋の人間であると思われ、ジョーの家族と一時的に一緒に暮らすことで農民として生きることを疑似体験したけれども、結局の所、それはシェーンの生き様には合わなかったというところだろう。きっと、シェーン自身、ジョーたちとの生活を通して「こういう暮らしも悪くない」と感じていたとは思う。けれども、やはり、性分というのには抗えないものなのだ。

 シェーンの方がジョーよりイイ男、なんて書いたけど、ジョーも、筋の通った強い男。まあ、パッと見というか、雰囲気というかが、シェーンの方が色気がある、というだけの話で。妻マリアンがよろめかなかったのは、ジョーのそういう気質が魅力的だったからだろうと思う。

 ……とはいえ、ジョーはマリアンの気持ちには気付いていて、だから、自分が一人でライカーの所に乗り込もうとしたときに「君には守ってくれる人がいるはずだ」なんて言うんだよね。こういうこと言われて、マリアンはどう思ったのかなぁ、なんて見ながら考えてしまった。


◆闘うシーンとラストシーン

 シェーンがその凄腕を披露するシーンはごくわずかで、ライカー達とやり合うシーンは、ほとんどが“殴り合い”。この殴り合いのシーンを見ていて、どうして彼らは足を使わないのか不思議だった。あくまで素手で上半身をボカスカ殴るだけ。普通、足が出るだろう、、、と思うんだけど。これが、この時代のケンカスタイルなんですかね? 正直、何か見ていてイライラしてしまった。足使えよ! なんて思っちゃったりして。

 殺し屋ウィルソンを演じていたジャック・パランスが、地味だけどすごい存在感。彼が手袋をはめるシーンが怖い。なぜなら、それは殺しの準備だから。終盤、シェーンが一人で乗り込んできたとき、ウィルソンは既に手袋をはめている。ジョーが来たら、即、殺すはずだったに違いない。でも、来たのがシェーンだったから、一瞬間が狂ったんだろう、、、。でも、シェーンにも傷を負わせることは出来た、、、。

 この終盤の対決シーンが本作の山場なんだろうけど、もの凄いアッサリかたがついちゃうところが、ちょっと拍子抜けだった。ここは、もうちょっともったい付けて演出するでしょ、今なら。

 で、この危ない現場に、少年ジョーイは、シェーンの後を追ってきて立ち会っちゃうんだよね。物陰に隠れて、一部始終を目の当たりにする。こんなの子どもが見ちゃったら、トラウマになりそうだけど、そんな野暮はこの際どーでも良い。

 ジョーイにとって、シェーンは不死身のヒーローであり、どこまでもカッコイイ“漢”なのだ。

 本作を鑑賞後、ネットで見て初めて知ったのだけど、本作のラストシーンで、シェーンの生死が議論になっているんだとか。確かに、馬上のシェーンの片方の腕が、やけにダラリとしているなぁ、とは見ていて思ったんだよねぇ。でもそれは、怪我をしたからだと思っていたんだけど、死んでいるのではないかという議論があるとは意外。正直なところ、まあ、どっちでもいい気がする。

 ジョーイに、“come back!!”と叫ばれたところで、もはやシェーンの居場所はここではないことは、シェーンが一番良く分かっているし、本作は、そういうシェーンの生き様を描いていることを思えば、生きていても、戻ってくることはないのは間違いなく、生死どちらであってもあの“come back!!”は、遠くの山々にこだましながら消えていくのみなのだから。

 ラストシーンは、かつてTVで見た宣伝映像ではもっと明るかったと思うが、あの場面は夜で、デジタルリマスターに当たって暗く加工されたのだろうか、、、。やや、私の記憶するラストシーンよりは暗く、シェーンの後ろ姿も見えにくかったように思う。雄大な山々の連なる遠景に、シェーンの後ろ姿が小さくなっていく美しいシーンなのだから、夜とはいえ、もう少し明るいままでも良かったのではないかなぁ、と、ちょっと残念。

 でも、名作と言われるだけあって、隙のない、素晴らしい映画でした。スクリーンで見て良かった!!








西部劇もたまには良いです。




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モーリス(1987年)

2018-05-13 | 【も】



 20世紀初頭のケンブリッジ大学で、モーリス・ホール(ジェイムズ・ウィルビー)は、クライヴ・ダーラム(ヒュー・グラント)と運命的に出会い、同性愛が犯罪となる時代に、恋愛関係になる。

 しかし、その後、弁護士になったクライヴは、ケンブリッジの同級生が同性愛で逮捕されたことに衝撃を受けたのか、関係を終わらせることをモーリスに一方的に伝え、旅先のギリシャで知り合った女性と結婚してしまう。絶望のどん底に突き落とされるモーリス。

 苦しむモーリスは、結婚したクライヴに招かれた別荘で、猟場番人アレック・スカダー(ルパート・グレイヴス)と思いがけず関係を持ち、スカダーの真っ直ぐな感情に心を動かされる。しかし、スカダーは、近々、家族とともにイギリスを離れ南米へ移住するという。それを聞いたモーリスは、スカダーを引き留めようとするのだが、、、。

 
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 公開当時、話題になっていて気になっていたのに、何故か見に行かなかった。その後も見る機会がなく、DVDでも見られない状況になり、、、。このたび、『君の名前で僕を呼んで』の公開に併せての記念企画とのことで、4K版が劇場リバイバル公開となり、これは是非とも見に行かなくては! と思って、GW中に見に行った次第。

 美しく、切ない映画でした。ちなみに、本作を見てから『君の名前で~』を見ると、どちらの作品もより楽しめると思われます。


◆罪な男、その名はクライヴ。

 最初に、禁断の関係に踏み込もうとしたのはクライヴ。しかし、関係を強引に終わらせたのもクライヴ。クライヴによって目覚めさせられたモーリスにしてみれば、このクライヴの行動は、あまりにもむごい。

 クライヴはモーリスより階級的には上流の家庭で、モーリスよりも自制を効かせざるを得ない人間だったんだろうなぁ、、、。

 この一連のクライヴの言動を見ていて、『マイ・プライベート・アイダホ』のキアヌ演じるスコットを思い出していた。状況は異なるけれども、スコット(金持ちの息子)も、リバー・フェニックス演じるマイク(貧困家庭の息子)を目覚めさせておいて、あっさり見捨て、自分はしゃぁしゃぁとアッパーな世界へ戻っていく。クライヴにしても、スコットにしても、どちらも相手よりアッパーな世界にいる人間であることがポイント。

 結局、アッパーな人間は、堕ちることが怖いのだ。そらそーでしょう。低いとこから飛び降りても怪我は軽いけど、高いところから飛び降りたらヘタすりゃ死にます。

 原作者のフォースターは、生前、作品を発表することはせず、彼の死後1971年、ようやく出版されたとのこと。もちろん、同性愛を描いているからだが、恐らく、フォースター自身がゲイ(バイセクシャル)だったのだろうと思う。同性愛なんてのは、本当は人類の歴史と共にあるものなのにねぇ。

 余談だけれど、歴史的に見て芸術家の間に男性同性愛は多いし、現代でもバレエ界ではプリンシパルになるような見目麗しく踊りも抜群な男性はほとんどゲイだと聞いたことがある。芸術家の男性同性愛は、男尊女卑的な思想背景があるとも言われ、それは一理あるかな、という気がする。今でこそその世界で活躍する才能豊かな女性は多いが、ほんの数十年前までは完全なる男社会で、女性は芸術に参加することすらなかったわけで、男の芸術家から見れば、女は何の価値も産み出さない取るに足らん存在に見えたのもむべなるかなという状況だったのではないか。そんな女たちに魅力を感じない男たちがいても不思議はない。そして、才能溢れる美しい男に惹かれるのは、むしろアタリマエなのではないか。

 フォースターは、どうやって自分の気持ちに折り合いを付けて生きたのだろうか。折り合いを付けられなかったからこそ、原作を書いたのだろうか、、、。


◆同性愛=肉欲、か否か。

 クライブとモーリスの悲劇的な結末は、2人の“恋愛とセックスの関係”に対する感覚の相違によって起きたのだと思う。

 クライヴは頑なにモーリスとのセックスを拒む。もちろんモーリスを好きな気持ちに嘘はなかったのだと思うが、早い話が“恋に恋していた”だけなのではないか。しかも、禁忌である同性に惹かれるものであったから、なおのこと、彼のような苦労知らずのハイソなお坊ちゃんにとって、甘美なものに感じられたに違いない。“こんなイケナイことしているボクちゃん、素敵、、、”みたいな。

 もし、クライヴとモーリスが一線を越えていたら、、、もしかすると違った展開になったのかも、とも思う。もっと早くに破綻していたかも知れないし、二人して堕ちるところまで堕ちたかも知れない。やはり、寝てみて初めて沸き起こる感情は必ずあるわけで、脳内で妄想しているだけでは超えられない壁だろう。そして、クライヴにとって、同性とのセックスとは、同性との恋愛ではなかったのだと思う。

 ここで考えてしまうのが、同性愛イコール肉欲、か否かということ。クライヴにとっては、イコールではなかった。けれども、モーリスが、クライヴに振られた後にアレックとの関係に走ったのを見ると、どう考えても、アレックの人間性に惚れたからというより、セックス可能な相手であるから、という印象が否めないのである。容易には見つけられそうにない同性のセックス相手であること、その存在の稀少さ。それが、モーリスをアレックに走らせた原動力になっていたように見える。そしてそこが、クライヴがモーリスに感じた哀しさなのではないかと思うのだ。他の人を“愛した”のではなく、他の人との“快楽”に走った、、、とクライヴの目には映ったのではないか。

 いずれにせよ、モーリスとアレックの将来が幸せなモノになるとは、想像しにくい。また、クライヴも決して魅力的とは言えない妻との生活が充たされたモノとは思えない。3人の今後に、どうしても悲観的になってしまう。


◆その他もろもろ

 当初、モーリス役はジェイムズ・ウィルビーではなく、ジュリアン・サンズが演じる予定だったのだが、撮影直前になって、ジュリアン・サンズが辞退したのだとか。辞退した理由は分からないけど、ううむ、、、ジュリアン・サンズのモーリス、すごい見たかったかも。ヒュー・グラントとのラブシーンとか、それはそれは美しかっただろうなぁ、、、と妄想してしまう。

 ジェイムズ・ウィルビーは、美青年というよりは、清潔感のあるカワイイ青年、という感じで、もちろん良いのだけれども、私の好みのタイプじゃないので、すんません。正真正銘の美青年であった、ジュリアン・サンズのモーリスが見たかった、、、。

 ヒュー・グラントは、本当に美しい。どうして今、あんなんになっちゃったんだろう、、、なんて言ってもせんないことだが。特に、モーリスとプラトニックな関係を続けている間のクライヴはもの凄く美しい。でも、弁護士になって、だんだんモーリスとの関係を見直し始める頃から、髪型もオールバックになり、髭も生やし、どんどん美しくなくなっていく。こうやって、人間はどんどん俗悪化していくんだ、って見せつけられている気分だった。

 ルパート・グレイヴスは、直情的で大胆なアレックをワイルドに演じていたと思う。いきなりベランダからモーリスに襲い掛かるのも驚いたけど、そのアレックを案外すんなり受け容れるモーリスにもちょっとビックリ。こういう展開だから、同性愛=肉欲、なんて図式が頭に浮かんじゃうんだよね。……あと、安宿でモーリスとコトが終わって服を着るシーンで、ダサい下着を身に着けていくところ、見入ってしまった。あんな、ステテコみたいなの着てるんだ! とか。

 惜しむらくは、クライヴが結婚した女性がまるで魅力的ではなかったところ。ルックスもだけど、あまり品性や知性を感じられないところが残念。そもそも貴族でもないということだったし、、、。敢えてそういう設定にしたのかもしれないが、クライヴほどの青年が選ぶ女性としては、あまりにも不釣り合いな感じ。まあ、本作全体に、女性の描き方は杜撰だった感は否めないけれど。

 美しい男たちが身に纏う衣裳も見物。やっぱり英国男子はスーツが似合う。長い首に小さな頭。ハイネックにネクタイが、イヤミなくらいにピッタリくる。しかし、このハイネックとネクタイが、上流階級の男たちを縛り付ける象徴的な描写でもあったように感じる。彼らはこれらを脱ぐことは出来ないのだ。







「イギリスは昔から人間の本性を否定してきた国」だそうです。




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ザ・スクエア 思いやりの聖域(2017年)

2018-05-06 | 【さ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 クリスティアンは現代美術館のキュレーター。洗練されたファッションに身を包み、バツイチだが2人の愛すべき娘を持ち、そのキャリアは順風満帆のように見えた。

 彼は次の展覧会で「ザ・スクエア」という地面に正方形を描いた作品を展示すると発表する。その中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という「思いやりの聖域」をテーマにした参加型アートで、現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じる狙いがあった。

 ある日、携帯と財布を盗まれてしまったクリスティアンは、GPS機能を使って犯人の住むマンションを突き止めると、全戸に脅迫めいたビラを配って犯人を炙り出そうとする。その甲斐あって、数日経つと無事に盗まれた物は手元に戻ってきた。彼は深く安堵する。

 一方、やり手のPR会社は、お披露目間近の「ザ・スクエア」について、画期的なプロモーションを持ちかける。それは、作品のコンセプトと真逆のメッセージを流し、わざと炎上させて、情報を拡散させるという手法だった。その目論見は見事に成功するが、世間の怒りはクリスティアンの予想をはるかに超え、皮肉な事に「ザ・スクエア」は彼の社会的地位を脅かす存在となっていく……。

=====ここまで。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 あの『フレンチアルプスで起きたこと』の監督作だというんで、見てみました。昨年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作だからか、新聞や雑誌でもあちこちで取り上げられているけど、論調は誉めているのか貶しているのかイマイチ不明な感じで、、、。実際に見て、なるほど、こりゃ評を書きにくいわなぁ、と納得。


◆誰だって自分が一番カワイイ。
 
 現代美術館が舞台だというので、もっと現代美術の話がメインストーリーになっているのかと思いきや、背景として実に巧みに使われているものの、現代美術の知識がなくても、一応見ることが出来て良かった、、、。見る前は、ちんぷんかんぷんだったらどーしよー、とちょっと心配していたので。

 ストーリーは上記の通り、あるにはあるのだが、割とぶつ切りであちこち飛んで展開が読めないところは『フレンチアルプス~』と似たような感じ。正直、序盤はちょっと退屈だったんだけど、掏られた財布とスマホが出て来た辺りから目が離せなくなり、、、。

 まあ、ものすごく大雑把に言えば、人間の“偽善”とか“ホンネとタテマエ”をこれでもかこれでもか、と描いているので、何とも居心地の悪さを禁じ得ない。

 本作では街の“物乞い”が頻繁に出てくるんだけれども、本作の舞台となったスウェーデンの人たち、基本、物乞いの前を素通りだった。あと、助けて! という叫び声が広場でしても、やはりここも基本、皆スルー。終盤のパーティでは、一人の女性が“猿男”に暴行されそうになっていても、相当の時間、誰も助けない(その後、一人の男性がやっとこさ駆け寄ってきたのを契機にわらわらと男たちが助けにやって来るが)。

 よく、ネットに出没する出羽守は、「日本人は冷たい、外国(特に欧米)では皆親切」みたいなことを書き散らしているけれど、スウェーデンも日本と大差ないじゃん、本作を見る限り。でもって、私が何度か欧米に行った経験だけで言えば、日本でも外国でも、親切な人はいるし、スルーする人もいるし、その割合が日本が極端に異なる、とは思えない。

 そもそも東京の街頭ではあのような物乞いの姿はほとんど見ない(ホームレスは場所によってはいるが)し、仮にたくさんいたとしても、見て見ぬふりはよろしくない、と言われたって、片っ端からお金をあげていたら、こっちの財布が空になっちゃうわけで。私は、基本的に街頭募金とかでは絶対にお金を入れない主義なんで、物乞いがいても、お金は入れないと思う。

 誰だって、みんな自分がカワイイのよ。自分にある程度の余裕があるからこそ、誰かを助ける気になるのであって、自分が助けを必要とするかしないかの境目にいる状況で、見て見ぬふりするなとか言われたって、知らんわ! という話。本作のサブタイトルにある“思いやり”だってそう。自分が追い詰められた状況にあってなお、誰かに思いやりを持つことは、よほどの人格者でなければムリでしょ。

 本作は、そんな人間の“アタリマエ”を敢えてほじくり返して描いているわけだ。なんとイジワルな映画でしょう、、、。


◆クリスティアン、、、嗚呼。

 しかし、この主人公のクリスティアンという男、、、本作のコンセプトを具現化するためのキャラとはいえ、あまりにもアホ過ぎて呆れる。

 財布とスマホを掏られた際も、GPSで場所がある程度分かっているんだから、警察に届けりゃイイじゃん、と思っちゃうんだけど。あんな脅迫チラシをばらまいたら、それこそ犯罪になりかねなくない? 

 そのチラシが元で、男の子に謝れと執拗に迫られたときも、さっさと謝った方が身のためなのに謝らず、挙げ句、男の子を階段から突き落とすとか、、、。考えられん。

 もし、筋金入りの自己チューだったら、、、自分の身の安全を第一に考えたら、警察に届けて、男の子にはさっさと謝って、、、となると思うのだけど。だから、クリスティアンは、自己チューというよりは、アホというか、愚かしいというか。
 
 ただ、炎上したPR動画の件は、まあ、ありがちだなぁと思った。炎上を狙ったけど、狙った以上に炎上しちゃって逆効果、、、で、その対応を完全に誤っているパターン。しかし、組織のミスにおける初動を誤るケースは多い。つい最近の財務省セクハラ事案なんかもまさにそうで、火に油、、、ということはやってしまいがち。動画が炎上したから取り下げる、ましてやそれを美術館がやってしまったら、表現の自由についてメディアに突っ込まれるのは当然なわけで、、、。これは、身につまされるエピソードかも。


◆教科書よりもコメディの方が効き目がある。

 面白かったし、監督が描きたいことはヒシヒシと伝わってきたんだけれど、監督が観客に一番感じさせたかった“いたたまれなさ”を、全体を通して、私はあまり感じることはなかった。

 それは、別に自分がクリスティアンなんぞより上等な人間だと思っているからでは決してない。むしろ、クリスティアン的な要素はいっぱい持っているし、私もこすい一小市民に過ぎない自覚は十分ある。

 けれども、本作に関しては、あまりにも監督の意図が見えすぎて白けた、というのが大きい。ただ、そうはいっても、本作は大変な意欲作だと思うし、クリエイターとしての志は非常に素晴らしいと思う。それを踏まえた上で、敢えて言えば、多分、テーマありきでストーリーが作られたことによる現象ではないかと思う。

 『フレンチアルプス~』には、物語としての流れと必然性が感じられたし、そこからテーマが浮き彫りになって、見ている者としては唸らされたわけだが、本作は、テーマが最初からウンザリするほどに突き付けられているために、少々押しつけがましさを感じた、ということかなぁと。

 卵が先か、鶏が先か、という話だけど、どちらが先であっても、見ている者に、露骨に意図が分かってしまうのは、場合によっては逆効果になる典型例かも知れない。

 そして、何より本作では、正義とは何か、を織り込んでいるところが、私としては引いてしまった。今さら正義も何も、、、。正義の二文字がちらついた途端、このような偽善をシニカルに描いた芸術は一気に陳腐化すると思うのだがどうだろう、、、。敢えてそこに踏み込む必要があったのか。人間社会で生きていく、ということは、ことほどさように単純ではないし、そんなことは監督は百も承知なはずなわけで。

 そこが、やはり見ている私に、いたたまれなさ、恥ずかしさ、痛さを感じさせることがなかった所以だと思う。

 こういう作品は、笑いに徹したブラックコメディにした方が良かったのでは? 何か、高尚な、道徳の教科書みたいになってしまったのが、いささか残念。






PR動画がエグすぎて嫌悪感、、、。




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タクシー運転手 約束は海を越えて(2017年)

2018-05-05 | 【た】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ソウルのタクシー運転手マンソプは「通行禁止時間までに光州に行ったら大金を支払う」という言葉につられ、ドイツ人記者ピーターを乗せて英語も分からぬまま一路、光州を目指す。

 何としてもタクシー代を受け取りたいマンソプは機転を利かせて検問を切り抜け、時間ぎりぎりで光州に入る。“危険だからソウルに戻ろう”というマンソプの言葉に耳を貸さず、ピーターは大学生のジェシクとファン運転手の助けを借り、撮影を始める。

 しかし状況は徐々に悪化。マンソプは1人で留守番させている11歳の娘が気になり、ますます焦るのだが…。

=====ここまで。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 あんまし韓国映画は見ていない方だけど、新聞の評を読んで、俄然見たくなって劇場まで行ってまいりました。1日のサービスデーだったせいか、満席ではなかったみたいだけど、すごい混雑ぶり。評判に違わぬ佳作でした。


◆史実をベースにした映画は“見る姿勢”が難しい。

 光州事件 ――。何となくそんなニュースをやっていたような気がするなぁ、という程度の記憶しかない、、、。いまだに韓国でも真相が解明されたとはいえない事件らしいが、当時は北朝鮮の介入説など、陰謀論も渦巻いており、いまも陰謀論はタブー視されつつも地下では根強く残っているとのこと。

 でも、まあ、これは飽くまで映画。ソン・ガンホ演じるキム・マンソプは個人タクシーの運転手という設定だったけど、実際には、ソウルのホテル付のタクシー運転手だったそうだし。

 民衆蜂起を軍が武力で制圧した事件、として見ることが前提なので、真相云々はここでは置くとするけれど、史実に基づいた映画ってのは、見る者にとってはここが難しいんだよねぇ。映画で描かれたことを史実として受け止めてしまうことのリスクを、一応は弁えておきたい。

 ……というエクスキューズをした上で。

 序盤は笑いもあるほのぼの系、中盤は緊迫の展開、終盤は怒濤の脱出劇、とメリハリの効いた展開で2時間超の長尺を感じさせない。特に、中盤から終盤にかけては息つく暇もなく、史実に基づいた事件を扱いつつもエンタメ要素てんこ盛りで、よく出来たシナリオだと思う。

 なんと言っても、マンソプを演じるソン・ガンホが素晴らしい。学のない貧しいタクシー運転手で、時の政府を信用し、ソウルでデモなんかに参加している大学生に「親の金で大学行って何やってんだ! お上の言うこと聞いてりゃいいだろ、この国ほど住みやすい国はない!」なんて本気で思っているオヤジを好演している。

 マンソプは、妻とは死別しており、可愛い一人娘を男手のみで育てている。娘が顔に傷を作っているのを見て、大家の息子に怪我させられたと思い込んで怒鳴り込むと、逆に大家の奥さんに「アンタの娘にやられた」と息子の顔の傷を突き付けられた上に、「4か月の家賃10万ウォンも滞納して、早く払え! でなきゃ出て行け!」と逆襲されるという、、、情けないダメ父ぶり。でも、実はこの大家の奥さんは、マンソプが光州から戻ってこられなくなると、娘の面倒を見てあげるという、根は優しい善い人で、人情ドラマも描かれる。

 とにかく、マンソプは10万ウォンを払いたいがためだけに、食堂で小耳に挟んだ別のタクシー運転手のもうけ話を横取りすることにする。ホテルまでドイツ人ビジネスマンを、その別のタクシー運転手になりすまして迎えに行き、拙い英語で「レッツゴー、ハンジュ(光州)!!」などと脳天気に言って、そのドイツ人を強引にタクシーに乗せてしまうんだけれど、このドイツ人ピーターを、トーマス・クレッチマンが演じている。

 が、行ってみれば、光州は地獄絵図が展開されていた、、、という、思わぬ展開。ここから、作品の雰囲気が一変する。


◆終盤は、マッドマックスらしいよ。

 光州に入って、散々な目に遭ったマンソプは、一夜明けて、ピーターを置いて、こっそりソウルに戻ろうとする。そのとき、マンソプとピーターを泊めてくれた光州のタクシー運転手がくれた、地元の人間も知らない抜け道を書いた地図と、光州ナンバーの偽造ナンバープレートのおかげで、あと少しでソウルという所まで来る。

 正直、見ている方も、ヤレヤレこれで無事に娘ちゃんに会えるね、、、と思う半面、これで終わり? それってアリ? と思う。

 そして、やっぱり、マンソプはそこからまた、光州へ危険を冒して戻るわけ。ピーターとの最初の約束は、光州へ行って無事にソウルに帰ってきたら10万ウォン、だったから、約束を果たしていない、ということもあるけれども、やはり、マンソプとしては自分が信じていた政府が同胞に容赦なく銃撃を加えていた現実にいたたまれない、という気持ちが大きかったのではないか。光州へ戻る決断をする一連の彼の行動がそう思わせる。

 戻った光州は、前日よりも酷い状況になっていて、マンソプも死にそうな目に遭う。もうとにかく、この辺りのシーンは緊張の連続で、息をするのも忘れそうな感じ。私服軍人なる人たちがとにかく怖ろしい。ロボットみたいに無機質にどこまでもマンソプらを追い掛けてくるし、容赦なく攻撃してくる。

 光州市民たちのたっての願いで、ピーターの撮った映像を何とか持ち出すため、ピーターをタクシーに乗せ、再びソウルを目指すマンソプ。

 で、ここからが怒濤の脱出劇で、ほとんどアクション映画、、、というか、カーチェイス映画になっていく。一部じゃ『マッドマックス 怒りのデスロード』と重ねて言われているけど、私は、そもそもマッドマックス見てないんで、そんなこと言われてもピンとこない。けれども、まあ、何となく分かる。使っている車は多分、マッドマックスより大分見劣りするんだろうけど、追っ手の車は小型の高速装甲車みたいなゴツさで、外観だけで十分怖い。こんなのに囲まれたら生きた心地がしないよなぁ、、、。

 光州のタクシー運転手たちが、マンソプとピーターの乗ったタクシーを全力で追っ手から守るんだけど、ここは多分、完全な創作だろうね。


◆その他モロモロ

 まあ、結果的には、マンソプらは無事にソウルに戻ってきて、間一髪、ピーターは韓国を出国できた。

 映画として盛り上げるために、光州を脱出する際、検問で軍のお兄ちゃんに隠してあったソウルナンバーのナンバープレートを見つけられながらも、その軍のお兄ちゃんは見て見ぬふりをして検問を通してあげるシーンとか入れたんだろうけど、そこまでしなくても良かったような。そんなシーンなくても、十分手に汗握るシーンの連続なわけで。

 あと、マンソプは本作ではピーターに本名を教えないんだけど、実際には、金砂福という本名は分かっているらしい。ただ、ピーターのモデルとなったユルゲン・ヒンツペーターと金砂福は、事件後再会していないようなので、演出的にこのような展開にしたのかな。ラスト、生前のヒンツペーターがメッセージを話す映像が出ます。

 それはともかく、光州に入ったその晩、帰れなくなったマンソプらを泊めてあげた光州のタクシー運転手の家での、ささやかな楽しいひとときのシーンとか、そこに突如襲う銃声とか、硬軟の織り交ぜが絶妙。やり過ぎな部分もあるけど、それを補って余りあるエンタメ映画に仕上がっていると思う。終盤、泣けるという書き込みも目にしたけど、私は、泣けるというより、とにかくホッとした、という感じだったなぁ。

 問題は、最初に書いたとおり、これが、光州事件という歴史上の事件をベースにしていることだけど。

 トーマス・クレッチマン演ずるピーターは、記者魂の感じられる役だったけれど、若干、存在感薄いかも。それより、トーマス・クレッチマンが結構老けていたことがショック。『戦場のピアニスト』では、あんなに凜々しかったのに、、、。15年経ってるからなぁ。ううむ、ちょっと衝撃。

 それにしても。韓国映画界は、正直なところ、日本映画界より先を行っているのではないですかね。少なくとも、今の日本で、本作レベルの映画は作れていないと思う。本作のように政治絡みでもエンタメに仕上げる根性がそもそも邦画界にはない。守りに入っている世界で、新しいもの、感動させられるものは、そりゃ出てくるはずはないよね、、、。経済だけじゃなく、政治も、映画も、日本はどんどん周囲から後れて行っているようで、哀しい。

 最後に、ゼンゼン本作とは関係ないけれど、私の敬愛するピアニスト、マウリツィオ・ポリーニの言葉を。現代音楽について語った重い言葉です。

 「現代音楽に関して、私にも好みはあります。しかし、先入観は全くありません。そして、私が本当に嫌いなのは、安易な音楽、簡単な方法で聴衆を喜ばせようとして作った音楽、過去の模倣に過ぎない音楽、上昇を志したアバンギャルドの偉大な瞬間を拒絶した音楽なのです。私がこうした音楽を嫌うのは、理論的な理由からではありません。ただ、それを聴いてみて、全く気に入らなかった、ということなのです」


 

 





トーマス・クレッチマンがキムチを食べています。




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