映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

アンナ(1951年)

2020-08-29 | 【あ】

作品情報⇒https://www.allcinema.net/cinema/1669

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 元ナイトクラブの歌手だった主人公アンナ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、今は白衣の尼僧として病院勤めの身。

 彼女を俗世から断って信仰の世界へ導くことになった、ヤクザの情夫(V・ガスマン)と恋人(L・ヴァローネ)の諍い事を、事故で入院して来たヴァローネと再会する事で回想し、未だ彼に心を残す自分に気付き煩悶する……。

=====ここまで。

 シルヴァーナ・マンガーノの初期作品。


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 TSUTAYAの新作リストに、シルヴァーナ・マンガーノの初期作品である本作が上がっており、恐らくこれまでVHSくらいしかソフトがなかったのかも。きっと、ようやく版権とかモロモロ整理が付いて、無事DVD化の運びとなったのでしょう、、、知らんけど。

 ……というわけで、若い頃のシルヴァーナ・マンガーノが見たくて借りてみました。 

 

◆シルヴァーナ・マンガーノ!!

 いやはや、しょっぱなからシルヴァーナ・マンガーノは出ずっぱりなのだけど、最初、尼僧姿の彼女がシルヴァーナ・マンガーノだと認識するまでに1分くらいかかりました。……だって、私の知っているシルヴァーナ・マンガーノと、ゼンゼン雰囲気も顔も違うんだもん。

 私の中でのシルヴァーナ・マンガーノといえば、ヴィスコンティ映画に出ていた彼女。『ベニスに死す』でのタジオの母とか、『家族の肖像』でのビアンカとか、、、。気位の高い、ちょっと怖そうな、洗練された美しいオバサマという印象。細面でエキセントリックな感じもあったかなぁ、、、、って、それはほぼ役のイメージだね。

 でも、本作での彼女は、そもそも顔が違う!! 単に年齢による違い、って感じじゃなく、別人かと思うほど違う。大体、本作での、ナイトクラブ時代のアンナを演ずる彼女は決して“細面”ではない。田舎から出て来た元気の良い、磨けば光る“芋姉ちゃん”的な美人である。尼僧姿では衣裳のせいもあり、楚々とした美人になっているが。それにしたって、タジオの母とかビアンカに通じる面差しはほとんど感じられない、、、、のは私だけ?

 ……とにかく、予備知識ほぼゼロで見たので、シルヴァーナ・マンガーノが過去のある尼僧役だなんて知らなかったし、こんなメロメロドラマだとも知らなかったから、ちょっとビックリしたけど、まあまあ最後まで面白く見られました。


◆別れたいのに、身体が、、、嗚呼。

 アンナが尼僧になったのは、結婚を誓った男・アンドレアが、昔からの腐れ縁だめんず・ヴィットリオを揉み合いのうちに銃が暴発して殺してしまったから。

 アンドレアとの結婚式を翌日に控え、ウェディングドレスの試着中のアンナの下に、ヴィットリオがやってくる。小屋にアンナを連れ込むと彼女を押し倒して、復縁を迫るヴィットリオ。ヴィットリオがアンナに馬乗りになっている所へ、アンナを探していたアンドレアが入ってきてしまい、男たちは揉み合いに、、、。

 でもこれ、どう見たって正当防衛。アンドレアが罪に問われることはないと思うんだが、まあ、外国の話だからその辺は分からないけど、ともかく、アンドレアは牢屋行き。罪の意識に苛まれたアンナは俗世を棄てて神に仕える身に。

 尼僧見習い(?)となったアンナは、かいがいしく看護師の仕事に励む。看護師としては優秀なアンナ。院長の医師の信頼も厚い。そこへ、怪我をして運ばれてくるアンドレア。まだ誓約を済ませていないアンナに、「やっぱり愛してる!」と再度結婚を迫る。

 この途中で、“夜の街”で働いていた頃のアンナとヴィットリオの関係が回想形式で描かれる。ナイトクラブで踊り歌っているアンナは、当然だけど、尼僧とはゼンゼン別人。かなりしっかりしたガタイもビックリだが、身体の線を強調した衣裳で“El Negro Zumbon”を腰をフリフリ。……でも、全くと言って良いほどセクシーではないですね。健康的な感じさえする。けれども、一応、話的には彼女は客に媚びない人気歌手ということらしい。

 アンナは、このヴィットリオから離れたいと思っているのに、肉体的に離れられないみたいなのね。嫌っているくせに、自分からヴィットリオの家に行ってしまう。アンドレアは、アンナに他に男がいることは分かっていて、それでも結婚したいという何とも奇特なお方。そして、案の定、最悪の刃傷沙汰、、、じゃなくて拳銃沙汰になってしまったというわけだ。

 このアンナの気持ち~好きでもない、別れたいと思っている男と、セックスはしたい~という感覚、私には残念ながら分からんのです。セックスが良いとか悪いとかって話は聞くし、若い頃、私の友人もそんなようなことを言っていた。「あの人は、セックスがすごく良いので、別れたいけど別れられない」と。その友人も、そんなに奔放な人だったわけではないので、そういう人にラッキーにも巡り会えたということなんだろうか。若かった私は、その友人にあまり根掘り葉掘り聞けなかった。今なら聞けるかな、、、。今度、機会があったら聞いてみようかしらん。

 セックスって、要は、真っ最中よりも、その後が肝心じゃないのか? アンナはヴィットリオとの情事の後は、激しく自己嫌悪に陥っている。まあ、これは人それぞれの“セックス観”の違いといえばそれまでなんだが。私は、そこまでセックスに即物的にはなれないし、なれなかった。なりたくもない。観念的と言ってしまうと何だか違う気がするが、そのセックスを良いと感じるか否かは、非常にメンタルなものだと思っている。つまり、相手のことをどれくらい好きか、ってところに尽きる。

 だから、アンナが夜中にふらふらと意に反してヴィットリオの部屋に合鍵まで使って行ってしまう、、、というのは、全く理解できなかった。……もちろん、そういう人たちがいることを、頭では理解しているけれど。

 ……で、最終的に、アンナとアンドレアはどうなるか、、、というのは、まあ、ここに書くのはやめておきます。私なら、アンナとは違う選択をしますね、間違いなく。そこまで好きになれる人なんて、生涯でそう何人も出会えるもんじゃないでしょ。しかも、その人も自分を好きだなんて、奇蹟に近いわけで。そんな出会いは、とてもとても大切なはず。


◆エルバイヨ~ン♪とか、再びシルヴァーナ・マンガーノとか、その他もろもろ。

 この“El Negro Zumbon”は、聞いたことあるなー、と思ってちょっと調べたら、かなり有名な曲らしい。歌詞にもある「El Vaion(エルバイヨーン)」の「バイヨン」とは、「ブラジルのダンス音楽・リズム」で「サンバと同じブラジル北東部発祥の民族音楽」なんだそうである(詳しくはこちら)。パーシー・ フェースにもバイヨンの音楽があるとは。なかなか面白い音楽で、ちょっと色々検索してしまった。

 ブラジルといえば、ボサノヴァは割とCDとかも豊富だけれど、このバイヨンは、ジャンルを前面に出したCDなどはあまりないみたい、、、。氷川きよしの「虹色のバイヨン」とかの動画が出て来たけど、大分バイヨンとは違うような、、、。

 それから、やっぱりシルヴァーナ・マンガーノ。彼女のこと、私、ゼンゼン詳しくは知らず、本作を見て、ネットでちょこちょこ調べたら、wikiには「強烈なセックス・アピールで一躍スターとなる。日本では「原爆女優」と呼ばれた」なんてあって、かなり意外だった。そうだったのかー。ド素人に近かったのを、夫となったプロデューサーによって演技派女優へ転換、って感じなのかしらね。確かに、あの身体のゴツさ(私には全くセクシーには見えない)は、肉体派に違いない。原爆女優、、、って、何と不謹慎な。意味分からん。

 アンナがセックスに溺れる相手ヴィットリオを演じたのは、ヴィットリオ・ガスマン。……あまりイイ男には見えなかった、、、、ごーん。別に醜男ではないが。

 監督は、アルベルト・ラトゥアーダ。知らん名前だなー、と思って調べたら、あの『今のままでいて』の監督さんだった!! ナタキンを見る“だけ”の、オッサンの勝手な願望全開の、かなりヤバい映画。……まあ、どちらも“セックス”がキーワードってところが共通点か。調べたらかなりの数の作品を撮っていらっしゃる。何と、マキャベリの書いた戯曲を基にした『マンドラゴラ』なんてのもあって、こちらもセックスに溺れる女性が出てくるみたい(というか、マキャベリが戯曲も書いていたとは)。……そういうネタがお好きなのかしら?

 レンタルでは他に借りられそうなこの監督の作品はないけれど、プロデュースした作品があるようなので(しかもちょっと面白そう)、今度見てみようかな。 
  

 

 

 

 

 

 


セックス“だけ”が良すぎて別れられない相手、いますか? いましたか?

(体験談募集中!)

 

 

 



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リトル・ジョー(2019年)

2020-08-23 | 【り】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71141/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 バイオ企業で新種の植物開発に取り組むシングルマザーのアリス(エミリー・ビーチャム)は、ある日、特殊な効果を持つ美しい真紅の花の開発に成功する。その花は、ある一定の条件-必ず暖かい場所で育てること、毎日欠かさず水をあげること、そして何よりも愛すること-を守ることで、持ち主に幸福感をもたらすという。

 そんななか、アリスは会社の規定を犯し、息子のジョー(キット・コナー)への贈り物として花を一鉢自宅に持ち帰る。だが“リトル・ジョー”と命名したその花が成長するにつれ、ジョーが奇妙な行動をとり始めるのだった。

 一方、アリスの同僚ベラ(ケリー・フォックス)は、愛犬ベロが一晩リトル・ジョーの温室に閉じ込められて以来、様子がおかしいと確信。その原因が花の花粉にあるのではないかと疑念を抱く。

 そして、アリスの助手クリス(ベン・ウィショー)もリトル・ジョーの花粉を吸い込み、いつもとは違う様子を見せ始めていた……。

=====ここまで。


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 連日の酷暑で、もうヘロヘロ。おまけにマスク、、、。ほとんどゴーモンに近いけれど、電車の中や映画館内では、やはりマスクを着けないといけないし。屋外で人通りがほとんどない自宅から最寄り駅近くまではマスクしませんけどね。連日、感染者ウン百人とか聞いていると、なんだかもうコロナなんかどーでもええわ、って気分になってくる。それより、熱中症での死者数の方が多いくらいなんだもん。

 で、そんな地獄のような夏も後半に入り、ツクツクの声を聞きながら毎日仕事に行くのもイヤなんで(?)、最近はほとんど週一ペースで休んで劇場へ脚を運んでいる次第。あ゛~~、早く秋ちゃん来ておくれ。


◆あら、、、? 何か変わった??

 本作はボタニカル・スリラーと言われているんだが、それは、このリトル・ジョーと名付けられた花が花粉を飛ばして人間を支配しようとする、、、という設定になっているからだろう。でも、支配すると言っても、人が幸福感を得られるようにして支配していく、、、ってのがミソ。

 人に幸せをもたらす、、、、この“幸せ”ってのがヒジョーにクセモノ。

 ジョーは母親アリスとの2人暮らしが良いと思っていたし、アリスもジョーとの暮らしが良いと思っていた。少なくとも、アリスはジョーと2人でいろんなことを語らいながら楽しく暮らすことが、自分にとっての幸せだと思って疑っていなかった。けれども、リトル・ジョーがもたらした幸せは、自分が思い描いていた幸せとは全然違うものだった。ジョーは、離れて暮らしていた父親と暮らしたいと思うようになり、アリスもジョーの気持ちを尊重したいと思うようになり、ジョーもアリスも父親もメデタシメデタシ、、、?

 花(というか花粉)に接する前とは、正反対の結果が、アリスとジョーのそれぞれの幸せであった、、、、ということだ。

 結果的には、みんながそれぞれちょっとずつ変化することで、みんなハッピー♪なんだから、これはこれでまぁ良いんじゃないの? 欲望が満たされること=幸せ、じゃないんだからさ~、、、、、ボタニカル・スリラーなんかじゃなくファンタジーじゃない?? などと、鑑賞直後は思った。

 でも、よくよく考えてみたら、これはかなりヤバい話だなぁと。

 アリスよりも、ジョーが先に花粉を浴びてしまうことで、アリスの目にはジョーがそれまでのジョーと違っているように感じる。けれども、アリスも花粉を浴びると、そのジョーに対する違和感が消え、アリス自身もそれまでのアリスとはちょっと違うように、本作を見ている者には感じられるのだ。

 つまり、自分の親しんでいる人やモノが、“なんかちょっと変わったかも……?”という「違和感」は、実はもの凄く重要なものではないか。

 リトル・ジョーを独裁者に置き換えて“体制の変化”に当てはめて考えると分かりやすい。何か最近ヘンだ、、、という感じがしばらく続いていくうちに、その違和感に慣れて行き、いつしかそれが普通になる。リトル・ジョーの放つ花粉を、支配者の繰り出す言説に置き換えると、確かにこれはボタニカル・スリラーだ。“幸せ”になるからこそ、余計に、違和感はなかったことにされてしまう。ヘンだと思ったけど、結果、幸せなんだからイイじゃん、、、と。本当にイイのか? その先に落とし穴があるんじゃないのか??


◆フェミ要素はいらん。

 最初に花粉の影響を受けるのが“犬”ってのがスリラーっぽい。あの『遊星からの物体X』を思い出しちゃったわ~。だから、本作ももっとグロくてエゲツナイ方向に話が進むのかと身構えていたら、全く違った、、、。

 本作の評や、監督のインタビュー等を読むと、アリスがワーカホリック気味のシングルマザーであることが、本作の重要な背景であるとされている。アリスは、潜在的にジョーに寂しい思いをさせているという“負い目”があった。それが、リトル・ジョーを介して顕在化したのだ、と。ジョーが父親と暮らすことで、アリスは仕事に集中できるようになる、、、それがアリスの本当の幸せだったのだ、、、と。
  
 こう言っちゃナンだが、そういうフェミ的な解釈は正直言ってウザいなー、と感じてしまった。イマドキ“働くシングル・マザー”の“負い目”なんぞを持ち出してくるなんて、案外この監督、保守的なのかな。

 両親が揃っていたって、寂しい子どもはいっぱいいるし、寂しい思いをしている子どもが漏れなく不幸なわけではない。親が、自分を最優先にして何かを犠牲にしていると感じるのも、子どもにとってはかなりの負担でしょ。子どもは成長するから、親が一生懸命生きる姿を理解できる時は必ず来るわけで。子どもにとっての真の幸・不幸なんて、親や周囲の大人が安易に判断できるほど単純な話じゃないだろう、、、と思うんだけどね。


◆その他もろもろ

 アリスを演じたエミリー・ビーチャムは、本作でカンヌの主演女優賞を獲っているらしい。独特の髪型は、もちろん演出なんだろうが、ちょっと古い70年代を思わせる感じ。デリバリーばかり利用していて、やたら、料理が出来ない母親の描写が強調されていた。このアリスのキャラ造形も、ちょっと類型的だよね。最初の食事のシーンで出てくるのは寿司で、寿司の入っていた紙袋に「活」の漢字が見えていたが、色合いがどうも中華風なところが何となく可笑しかった。

 ベン・ウィショーのクリスは、やはり独特。イマイチ何考えているのか分からない。

 リトル・ジョーという名の花が、何とも不気味。意思を持って花を開いたり閉じたりして、花粉も飛ばす。この花には話し掛けることが大事なんだが、リトル・ジョーじゃなくても、植物は話し掛けると良いらしい。毎日誉めながら水やりをした花と、毎日貶しながら水やりをした花では、全然花の咲き方が違うとか、翌年の花の付き方が違うとか、そんな話を聞く。まぁ、実際はどうなのか知らんが、私は、生花の定期宅配を6年以上続けているんだけど、萎れた花を棄てるときは「ありがとね~」と言って棄てている。これは花に対してどうこうというより、私の気持ちの問題なんだが、、、。

 あと、本作は、映像と音楽がかなり個性的だった。オープニングの映像など、あまり他の映画で見たことがない。音楽は、雅楽が使用されていて、効果音として耳障りな音も多用されている。この雅楽は、スリラー効果を狙ったモノだと思うけれど、欧米の方々にはともかく、日本人の私には何か絵面とBGMが全然合っていないようにしか見えず、ヘンテコな感じだった。監督の何人目かの夫が日本人(故人)で、その方のアルバムから使用しているらしい。

 まぁ、見に行く前の期待感と、見終わった後の実感で言うと、ちょっと良くない方に裏切られた感じがしたので、の数は少なめです。

 

 

 

 

 

 

いわゆる“ボディ・スナッチャーもの”です。

 

 


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ファヒム パリが見た奇跡(2019年)

2020-08-21 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71141/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 天才チェス少年として有名な8歳のファヒム(アサド・アーメッド)と父親は、母国バングラデシュを追われ、家族を残してフランス・パリへとやって来る。だが到着してすぐ、強制送還の可能性に怯えながら、亡命者として政治的保護を求める戦いが始まった。

 そんななか、ファヒムはチェスのトップコーチであるシルヴァン(ジェラール・ドパルデュー)と出会う。独特な指導をするかつての天才チェスプレーヤーでもあるシルヴァンと、明晰な頭脳を持ち口達者なファヒムはぶつかり合いながらも、次第に信頼関係を築いていき、チェスのトーナメントを目指すのだった。

 だが、移民局から政治難民としての申請を拒否されたファヒムの父親は、身の置き所が無くなり姿を消してしまう。

 ファヒムの強制送還が迫るなか、チェスのフランス国内大会が開催。解決策はただ一つ。ファヒムがチェスのフランス王者になることであった……。

=====ここまで。

 

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 本来、あまりソソられるジャンルではないのだけれど、某新聞での映画評がやたら褒めちぎっていたので、何だかそこまで言われたら見ないといけないみたいな気になってしまって、見に行った次第。ドパルデュー(以下ドパ)が善い人役で出ているってのも興味を引かれた理由の一つかな。ドパのことは別に好きじゃないんだけど、、、。


◆『リトル・ダンサー』と同じではないか。

 うぅむ、、、確かに良い映画だと思うし、新聞の評は決して“盛って”いないと思う。けれども、私としては、今一つグッとは来なかったのでした……。

 貧しい家庭の少年が、その才能を見出しで延ばしてくれるユニークな大人に出会い才能を開花させて、逆境から這い上がる足掛かりを得るサクセスストーリー、、、と言えば、あの『リトル・ダンサー』と同じなんだよね。しかも、母親不在で、父と息子の物語であるところも同じ。

 少年も、才能を伸ばしてくれるユニークな大人も、どちらも魅力的なキャラで、映画としての作りも奇をてらわずに王道を行っている。彼らの周囲の人間たちも、基本的には善人で、心温まる作品になっている。

 なのに、どーして本作は『リトル・ダンサー』ほどグッと来なかったんだろう……、と考えた。


◆難民・移民問題

 そして行き着いた結論として、大きな理由は2つかな。

 1つは、多分、本作は、背景に“難民・移民問題”があるから、という気がする。『リトル・ダンサー』の炭鉱閉山も深刻なんだが、やはり、命の危険を感じて故国を棄て亡命を目指して外国(フランス)へ渡るというのとは、同じ深刻でも意味が違う。しかも、フランスに来ればもう大丈夫!ってわけではゼンゼンない。というより、フランスに来てからも苦難続き。

 ファヒムは子どもで柔軟性に富んでいる上、チェスで鍛えられているその抜群の記憶力を背景に、どんどんとフランス語を吸収し、チェススクールの仲間とも親しくなり、パリでの居場所を着実に作っていく一方で、父親は仕事にも恵まれず、パリで自分の居場所を見付けられないが故に、現地の人間との交流も全くなくフランス語をいつまで経っても理解できないでいるので、父親の孤立が際立つ。

 役所で、亡命申請する際も、インド人に通訳をしてもらうが、この通訳はインド人の申請を優先したいがために、ファヒムの父親にデタラメな通訳をするのである。アッと言う間にフランス語を理解するようになったファヒムが、通訳がインチキだと見抜いたが、結果的に申請は却下され、ファヒム親子は不法移民となる。

 こういう、境遇の厳しさが、どうしても見ている者に暗さを感じさせるのは否めない。

 だから、ラストも、ファヒムがチャンピオンになって一転、申請が認められることになった(強制送還を免れたというだけだが)という展開も、あまりカタルシスを得られない。ファヒム親子が特別扱いで辛うじて救われただけであり、その他大勢の同様の境遇にある難民たちは、依然として不法移民のままである。

 もちろん、『リトル・ダンサー』でも、ビリーだけがバレエの才能であの寂れた炭鉱街から羽ばたき、残された父親や兄は再び炭鉱の縦坑を降りていく、、、というシーンが描かれているので、同じなんだけれど。

 でも、『リトル・ダンサー』では見ている人の多くがカタルシスを得られたのではないか。そして、本作では得られない人が多いのではないか。その違いは、やはり、これが“難民・移民問題”という、国際問題であり、人権問題に直結しているからではないか、、、。

 監督自身、観客にカタルシスを感じさせたいとは思っていないだろうし、“カタルシス=グッとくる”ではないのだから、むしろこれはそういう映画なんだと受け止める方が良いのだよね。


◆やっぱりジェイミーは凄かった、、、ということ。

 2つ目は(こっちが最大の理由だと思うが)、やっぱり、ジェイミー・ベルが可愛すぎた、ってことかなと。あと、ジェイミーの躍動感溢れるダンスシーンがあまりにも素晴らしすぎたってこと。ファヒムを演じたアサド・アーメッドくんも可愛いんだけどねぇ。あと、題材がチェスってのも、ダンスに比べると動きが少ないからちょっと地味目よね。

 チェスの試合の描写では、あまりドキドキ感もなく、一応ライバルとの一騎打ちは描かれるけれど、割とアッサリとチャンピオンになるのね。

 ファヒム自身が、一人でチェスに強くなるために葛藤する、というシーンもほとんどない。良きコーチであるシルヴァンとも、終始良い関係で、こちらの2人の間にも葛藤がほとんどない。時間を守るという概念がなくて遅刻ばかりするファヒムに怒るくらい。

 強面の見掛けによらず、シルヴァンはバングラデシュのことを勉強してみたりと、善人そのもの。

 この辺りも、やはり『リトル・ダンサー』の方が、構成としては一枚上かな、という気はする。

 とはいっても、もちろん、本作は真摯に作られた良作に違いない。少年の才能を開花させるシルヴァンを演ずるドパも、さすが名優、ハマっていた。前述の新聞評では、以下のように書かれていた。

変わり者のコーチのドパルデューが実にいい。渋くて、艶があって。/この作品で重要なのは、監督の登場人物に対する眼差しがそれは優しいことだ。観客の心を蕩かす。/監督の心根が泣かせる。/「私は、おとぎ話を固く信じ続けている」

 確かに、本作は、一種のおとぎ話。でも、実際にあったおとぎ話なんである。

 

 

 

 

 


天才・藤井聡太君で注目の将棋と、チェスは、

同じ古代インドのチャドランガというボードゲームが起源だそうな。

 

 



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彼女がその名を知らない鳥たち(2017年)

2020-08-19 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv62444/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 十和子は8年前に別れた男・黒崎が忘れられないが、いまは15歳上の男・陣治と暮らしている。ある日、黒崎の面影を思い起こさせる妻子ある男・水島と出会い、深い関係に。

 そんなある日、十和子は黒崎が行方不明になっている事を知り、執拗に自分をつけ回してくる陣治が黒崎の失踪に関わっているのではないかと考えるようになる。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 沼田まほかるの原作は大分前に読んでおり、映画化されたときに、主演が蒼井優と阿部サダヲと聞いて、うぅむ、、、ちょっと違うかも、と思ったので、原作はそこそこ面白いかなぁ、、、と思っていたけれど劇場まで行く気になれなかったのでした。でも一応気にはなっていたのかレンタルリストに入れていたらしく、この度送られてきたので、見てみました。


◆キャスティングにイチャモン。

 調べたら、何だかいっぱいいろんな賞を獲っている映画みたいなんだが、そっかーーー、これがそうなのかーーー、と邦画界に軽く失望する(以前から度々失望してはいるが)。まぁ、でも、確かに邦画の中ではなかなか見られる映画かも。

 原作を読んだのがかなり前なので、詳細はほぼ忘れたんだが、男の名前が“ジンジ”ってのが、何だかなぁ、、、と思って印象に残っている。ボサノバの歌詞で、空耳アワーじゃないけど、♪ジンジ、、、ジンジ、、、と聞こえる曲があって(タイトルが思い出せない、調べる気力もない。でも割とメジャーな曲)、それと被ったというか。おまけに、小説の中でのジンジの描写は、阿部サダヲどころじゃない不潔・醜悪で、ボサノバの曲まで一時的に勝手にイメージダウンしてしまったくらい。

 阿部サダヲは、原作のジンジよりもかなり“陽”キャラだよね。原作は、もっと陰気な感じだったように記憶している(、、、けど、違ったかも。もう忘れかけているので)。これは私の単なる好みなので、阿部さんには申し訳ないけど、私はどうも彼の演技が苦手なのよ。昨年の大河ドラマでもそうだったけど、何の役にしても、やたらハイテンション(に見える)で。……まぁ、モテない中年男という感じはよく出ていたし、卑屈で粘着質ってのもよく出ていた。彼の場合、恐らくあの声質がハイテンションなイメージにつながっているかも。やや高めで細くて、よく通る。ちょっと大きい声出しただけで叫んでいるみたいに聞こえるんだよなぁ。

 蒼井優は、うぅむ、怠惰で頭の悪い女を“頑張って”演じているのが伝わってきてしまって、見ていてちょっと辛かった。……だから、頑張っていたとは思うし、悪くはないのだが、どうもこう、、、原作の十和子のような骨の髄まで腐ったオンナ、って感じじゃぁないな、と。もう少し崩れた感じの女優さんって、今いないんですかね。……まぁ、パッと思い浮かばないからいないのか。

 みんシネに、“一昔前なら十和子は桃井かおりか大竹しのぶ、ジンジは火野正平かな”みたいなことを書いている方がいて、笑ってしまった。大竹しのぶは首肯できないけど、桃井かおりと火野正平ってなかなか良いのでは。中村晃子と平田満でも良いかな。

 ……と書いてきて思い浮かんだんだが、それこそ、寺島しのぶとか。蒼井優よりハマる気がするゾ。火野正平に匹敵するだめんず俳優が思い浮かばない。原作のジンジからイメージするのは、阿部サダヲみたいに丸い感じじゃなくて、痩せ型の、、、強いて挙げれば、痩せた浅野忠信とかかなぁ。

 いやいや、何の話だ。そう、要は、キャスティングがちょっとな、という私の第六感は、当たっていた(そういう先入観で見てしまったんだろうが)。つまりは、原作から受けた印象よりも、かなりキレイなのよ。もっと薄汚れてどよよ~~んとした感じが欲しいのね、この話には。


◆自己愛、、、この厄介なるモノ。

 キャッチコピーに、共感度ゼロみたいなのがあった気がするが、確かに、出てくる人物の誰にも共感はできない。けれども、十和子とジンジみたいなカップルって(男女逆バージョンも含めて)結構いるんじゃないのかな~、というのが私の率直な感想。あ、人殺し要素は抜きでね。

 十和子は、まあまあ怠惰な人間なんだろうけど、働いていたこともあるわけで、頭が悪いのはどうしようもないとしても、怠惰の極みみたいな生活をしているのは、ジンジという存在があるからこそだろう。ネットでは、ジンジが死んじゃったら、十和子は第二のジンジを探すんじゃないのかと書いている人もいたが、それは違う気がする。第二の黒崎or水島を探すことはあっても、ジンジを敢えて探すことはないだろう。だって、十和子はメン喰いだからねぇ。ジンジには粘着されて、多分、本気でウザかったんだと思う。

 十和子は、毎度同じパターンで騙されているんだけど、好きになった男のことを疑いたくない、という気持ちは分かる。自分が好意を抱いた相手に好意を示されれば、それを素直に受け止めたいと思うのが人情でしょう。そこで、そうは言ってもちょっと、、、と、頭の片隅にいる冷静なもう一人の自分が囁くのが、まあ凡人なんだけれども、十和子みたいに振り切れちゃっている人間は、そんなことでイチイチ立ち止まらないのだ。

 ネット上では十和子のキャラはメンヘラだの何だの散々な言われようだが、そこまでヒドいとも思わない。ああいう、男に依存しないと生きていけない女って、小説やら映画でウンザリするほど描かれてきたことを思えば、現実にもかなりの数が居るんだろう。幸い、私は直接出くわしたことはないけれど。

 というか、ある意味、男の願望なんじゃないの? という気がする。本作の原作者は女性だけど、そういう女に破滅させられるっていう、男が書いた小説、一杯あるじゃん。訳分からん女に振り回されてみたいんでしょ、少なからぬ男たちは。で、逆に、顔とセックス(だけ)が良い男に振り回されたい女もいっぱいいるんだろう。そういう“振り回されたい人たち”のオハナシなのだ、これは。

 つまり、自己愛が異様に強い人たちの話なんだよね。自己愛のない人間はいないけど、強過ぎると悪いことの方が多いだろう。十和子は、黒崎や水島にのめり込んでいるようで、裏切られたと知った途端相手をメッタ刺しにするところを見ると、それは相手への愛ではなく、紛れもない自己愛の塊だろう。ジンジにしたってそう。十和子のために自己犠牲を厭わないかに見えるが、結局は、勝手に自己完結して自殺してしまう。死ぬ前に、「オレを産んでくれ!」などと気持ちの悪いことを十和子に言って、まさに過剰な自己愛の表れ以外の何ものでもないでしょ。黒崎や水島もそう。自分のことしか考えていない、自己愛厨。

 そら、共感度ゼロでしょ。でも、よーく考えてみれば、自分にも断片的には思い当たる節がある、、、と思うよ、みんな。私は違う! と自信を持って言う人は、自分と向き合っていないだけ、多分。そんなこと堂々と言う人は、むしろ胡散臭いと思っちゃうが。


◆官能シーンは女優の演技に負うところ大。

 本作は、大胆な(?)濡れ場シーンも話題だったようだが、申し訳ないけど、ゼンゼンだった。松坂桃李クンはまあまあ頑張っていたけれども。ああいうシーンで、胸を隠す演出ってのは、サイテーだね。事務所都合なんだろうが、だったら、こんな役受けるんじゃねーよ、と、私が監督なら言うわ。

 あと、やたら、キスシーンとかでピチャピチャ音を入れるのも気持ちワルイから止めて欲しい。そうすればリアリティが増すと思っているのかも知らんが、芸がなさ過ぎ。

 官能シーンって、リアリティよりも何よりも、見ている者に“感じ”させることが大事なわけで、それは俳優たちの演技に懸かっているのだよ。そして、その大部分が女性側の演技にあるんだよな、これが。もちろん、相手役の演技も大事なのは間違いないが。『ブラック・スワン』で、ナタポー演ずるバレエダンサーがヴァンサン・カッセル演ずる演出家に「お前、色気なさ過ぎ」と言われていたけど、そういうこと。

 性欲の塊みたいな男と女のセックスシーンだよ? お互いすっぽんぽんでヤりまくる(下品でスミマセン)のが、リアリティでしょーよ。……そういうところもキレイにまとめちゃってる感の要因の一つだね、多分。

 ……でもまぁ、あれで“すげぇエロい”とか大騒ぎしている人もネットを見たらいっぱいいたので、あれはあれで良いのでしょう。オバサンの愚痴でした、すみません。 

 


 
 

 

 

 


久しぶりに原作を再読してみようかな。

 



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バトル・オブ・ワルシャワ 名もなき英雄(2019年)

2020-08-15 | 【は】

作品情報⇒https://movie-tsutaya.tsite.jp/netdvd/dvd/goodsDetail.do?pT=0&titleID=4363172177

 

以下、amazonよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1944年、ロンドン。ポーランド亡命政府のミコワイチク首相はナチスドイツの占領下にある祖国ポーランドにやがてソ連軍が侵攻してくると知り、英国のチャーチル首相にソ連軍と戦うよう協力を求めるが、ソ連と微妙な関係が続く連合国はそれを拒む。

 そこでミコワイチクは部下ヤン・ノヴァクに、ナチスドイツ相手に武装蜂起するよう、ポーランド国内軍に指示を送るための密使になるよう依頼。ヤン・ノヴァクは祖国に向かうが……。

=====ここまで。

 1944年ワルシャワ蜂起の前日譚。amazonの紹介文によれば、ポーランドでは、『キャプテン・マーベル』を抑えて本国興行収入1位だとか。 


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 少し前にTSUTAYAの新作メニューにあったので、見てみることに。最近、ほんの少しだけポーランドの歴史を知るようになって、目に付いたポーランド映画を見ているんだけど、本作も、ワルシャワ蜂起や第二次大戦前後のポーランド情勢を大まかにでも分かっていないとチンプンカンプンかも知れません。かく言う私も、辛うじて最後まで着いて行ったけれど、果たして私の理解で合っているのかどうか、、、。

 まぁ、とにかく、感想を思い付くまま書いてみます。


◆ワルシャワ蜂起

 邦題に、思いっきりB級チックなタイトルを付けられて、こりゃ監督は怒った方がイイね。いくら地球の反対側で分からんだろうったって、こりゃ~ヒドい。ヒドいのは邦題だけじゃないんだが、それはまあ後述するとして。

 副題の「名もなき英雄」ってのは、密使となったヤン・ノヴァク。彼はポーランドの将校だが、英語も流暢、ドイツ語は当然、おまけに言動もジェントルマンで、ルックスもなかなか(私の好みじゃないが)、ってことで、外交官かと見紛うほど。……ま、外交官がそういう何拍子も揃った人なのは、一昔前までのオハナシか、あるいは根も葉もない伝説かも知れませんが。私の友人の夫君は外交官で、、、(以下略)。

 それはさておき。ヤンは外交官じゃなくて軍人なんだが、ロンドンの亡命政府首相に「ナチスに対して蜂起しろ!!」と本国に伝えるように言われるが、ヤンは英国の援助がなければただの反乱で終わってしまうと危惧する。軍の最高司令官に首相の言を伝えると、最高司令官は、単独蜂起など論外!!とヤンと意見が一致。「空路、ワルシャワに入り、蜂起を止めろ! (蜂起を主導することになる)ブル将軍を首相の暴走から守れ!」と、ポーランド国軍に伝えるようヤンに指示する、というちょっと入り組んだ話。

 ヤンは、その存在をナチスに知られ、似顔絵をSSにばらまかれるお尋ね者となり、数々の検問を命懸けでくぐり抜けながら、2週間掛けてワルシャワに辿り着く。が、しかし、時既に遅く、ワルシャワは蜂起するしか道がない事態となっていて、連合軍の援助がなければ絶望的だと分かっていながら、ヤンは蜂起に身を投じていく、、、というところでジ・エンドとなる。

 何でヤンの存在がナチスに知られるかというと、ゲシュタポのスパイである美女とヤンが、ちょっとだけお近づきになるから。最初は、ただの下心しか持っていなかったヤンだが、偶然がいくつか重なったことで、美女がスパイと見破る。この辺りのスリリングなシーンも見物。

 ナチス占領下のポーランド各地が描かれるが、まぁ、とにかくこのときのポーランド人のドイツに対する恐怖心は、見ているこっちまで手に汗握るほど。皆、ドイツ兵を見るだけで手入れがなくても逃げ惑う。そんな状況で、あれだけ目立つ容姿端麗のヤンがどうにか逃げ果せただけでも奇蹟だろう。

 チャーチルといい、英国軍といい、ポーランドでの戦争のことを、遠い場所で起きているいざこざ程度のこととのたまう。これを聞かされるヤンの心中を思うと胸が痛い。絶望的な祖国の状況に、ヤンはワルシャワに向かう途中で「ソ連に10年は占領される」と懸念を示すのだけれど、蓋を開けてみれば10年どころじゃなかったという悲惨な現実が待っていると思うと、ヤンの必死さが見ていてただただ辛い。

 ワルシャワ蜂起の直前まで、蜂起を止めようと必死になった勢力があったことや、蜂起推進派の中にも結果を絶望視していた人たちが大勢居たことが分かる。ヤンがワルシャワに着いた後も、行き違いがあってブル将軍にすぐに会えないのだが、ようやく会えたブル将軍も、蜂起が潰されることは百も承知だったのだ。それでも起った、ということだが、これは多くのワルシャワ市民もそうだったのかも知れない、と思う。それでも、ナチスの支配に抵抗を見せたい。ヤンがブル将軍に「それでも起つべきだ」と言ったときのセリフが印象的。「そうしなければ、有史以来守ってきた我々の精神が破壊される」(正確じゃないです)。分割統治されていた時代よりなお悪い、ということだろう。


◆シナリオが素晴らしい。ワルシャワの街並みが美しい。

 本作の大半は、ヤンがロンドンからワルシャワまで命懸けで移動する様子を描いているのだが、一本調子な逃亡劇になることなく、一瞬たりとも飽きさせない構成は素晴らしい。

 ヤンのキャラが、ゼンゼン説明的なシーンがないのに、実によく描かれている。私生活はまったくのナゾなんだけど、見掛けによらず、自転車に乗れないだとか、落下傘訓練で着地に失敗して腕を骨折するとか、ロンドンの街中でアメリカ兵の運転する車に跳ねられるとか、結構トホホなところがいっぱい、、、。半面、ゲシュタポの美女スパイが英国軍のチャラ男に絡まれているところを毅然と救ったり、SSとの銃撃戦を華麗に切り抜けたりと、見せ場もいっぱい、、、。巧いなぁ~、とシナリオに感心してしまう。

 ワルシャワの街並みでは、聖十字架教会からコペルニクス像を臨む辺りが何度か出て来て、あ~、あそこ歩いたんだよぉ、、、もう一回行きたい゛ぃぃぃと思いながら見入ってしまった。ま、コペルニクス像の後ろにはハーケンクロイツの旗が掛かっていたけど。あの十字架を背負うキリスト像は、『戦場のピアニスト』でも象徴的に出てきて、やはり、あの場所はワルシャワのシンボルなのだろうなぁ。今度はいつ行けることになるのやら、、、。

 印象的だったのは、ヤンがロンドンからポーランドに空路降り立って、その飛行機が再び飛び立つときのシーン。どこか、野っ原みたいな所に飛行機が着陸すると、ヤン達がぞろぞろ降りて来て、今度はけが人などを乗せて離陸しようとするんだが、車輪がぬかるみにとられて動けなくなるのを、皆で飛行機を押して、どうにか離陸させる、、、。SSに気付かれて手入れされるまでのほんの1時間弱の間に離陸させてしまわなければならない、、、という緊迫感がゾッとなる。

 また、その後、パルチザンの一人の青年が射殺される(この成り行きがちょっとよく分からなかった)んだが、その青年の遺体をヤン達が母親の所まで送り届けるシーンも恐ろしい。SSたちに追いつかれ、結局は、青年の母親も射殺され、家には火がつけられる。屋根裏に隠れていたヤン達は命からがら逃げだすが、燃え盛る家の前に母親の遺体が転がり、隣人の男性が跪いて泣いている。それを、見捨てるように先を急がなければならないヤン達、、、。もう、ほとんど地獄絵図。

 こんな時代が、こんな光景が広がっていた時代が本当につい70年ちょっと前にあったのか、、、。何度も恐ろしい戦争映画を見てきたけれど、本作の描写は決して衝撃的な描き方はしておらず大人しい方だと思うが、それでも、呆然としてしまう。

 エンドクレジットの前に、「ヤン・ノヴァク・イェジォランスキに捧ぐ」と献辞が出る。ラストは、ヤンが蜂起集団の群れに消えて行くシーンだったけれど、その後、どうなったのだろうか。……と思って、ちょっと調べてみたところ、wikiに同名がヒットして、「クワトコフスキーと名乗っていたと推定される」という内容からして、多分ご本人だろう。本作内で、ヤンは軍関係者内ではクワトコフスキー中尉と呼ばれていたので。戦後も西側で活躍しているみたい、、、。


◆プロモーションが、、、酷すぎる。

 とにかく、本作は、ポーランドで『キャプテン・マーベル』(見てないしよく知らんけど)を超えるヒットだったというのも納得の、もの凄い力作です。お金も時間も相当掛かっているのがよく分かる。

 何より、英国人は英国人俳優が、ナチスはドイツ人俳優が、ポーランド人はポーランド人俳優が、それぞれの言語で演じているのが良いです。こういうところがちゃんとしている映画、少ないもんね。何でSSが英語ペラペラ喋ってんの、、、ってのばっか。まあ、商業映画はそうなっても仕方がないのは理解できるけど。

 だから、こういう素晴らしい映画を、何でこんなヘンテコなプロモーションして貶めるのか、訳が分からない。もちろん、日本に持って来てくれたのだから、それは感謝するけれども、折角お金かけて持って来てくれたのなら、プロモーションまで責任もってキッチリしていただきたいなぁ。そんなにムリな願いでもないと思うのだが、、、。

 だって、見てよ、本作のこのジャケット。

 この銃構えてる男誰?? ヤンとは似ても似つかぬナゾ人物。さらにナゾなのは、隣の女性。これ、ゲシュタポのスパイの美女ではありません。スパイの美女はブロンドの、いかにもアーリア系。何なん、この人、、、、??? しかも、こんな感じのシーンはどこにもなかったし。大体、雰囲気が全く違うんですけど。

 ……まぁ、プロモーションというほどのものでもないんだろうけどさ。日本では“マイナー作品”扱いだしね。そら、ポーランド制作のワルシャワ蜂起の映画なんて、日本じゃ馴染みがないもんね。私も、ポーランド好きになってなかったら、視界にも入っていなかっただろうし。

 で、本作らしいジャケットはこちら。

 この男性が、ヤンを演じたフィリップ・トロキンスキー。女性が、美人スパイ・ドロシーを演じたジュリー・エンゲルブレヒト。ドイツ人ですね。英語もキレイな発音で話していました。

 この画像よりもフィリップくんはキレイです。ネットで画像を探してみたので貼っておきます(クドいけど、私の好みじゃありません)。

 

 

 監督はヴワディスワフ・パシコフスキで、脚本も書いている。この人は、あの『カティンの森』の脚本を書いているんだが、『ワルシャワ、二つの顔を持つ男』の脚本も書いていると知って、納得。『二つの顔~』も、実に面白く、確かにちょっと本作と作風が似ている。歴史ものが巧い人なんだねぇ。今後が楽しみだ。

 

 

 

 

 

ワルシャワ蜂起は、1944年8月1日、午後5時発生。

 

 




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惡の華(2019年)

2020-08-11 | 【あ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66601/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 山々に囲まれ、閉塞感漂う地方都市。中学2年生の春日高男(伊藤健太郎)は、ボードレールの詩集『惡の華』を心のよりどころにして、息苦しい日々をどうにかやり過ごしていた。

 ある日の放課後、教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子(秋田汐梨)の体操着を見つけた春日は、衝動に駆られ、その体操着を掴んで逃げ出してしまう。しかし一部始終をクラスの問題児・仲村佐和(玉城ティナ)が一部始終を目撃しており、この一件を秘密にする代わりにある契約を持ちかける。

 このことから仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった。仲村からの変態的な要求に翻弄されるうちにアイデンティティが崩壊し絶望を知る春日。

 『惡の華』への憧れと同じような魅力を仲村にも感じ始めていたころ、二人は夏祭りの夜に大事件を起こす。

=====ここまで。

 押見修造の同名マンガが原作。押見修造原作なら期待出来そう……、と思ったけれど、、、。 


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 押見修造のマンガは「血の轍」しか読んでおらず、本作の原作は全く知らない。「血の轍」は、正直なところ“好き”というわけじゃないのだけれども、絵そのものが不穏で、あの絵で私はKOされたと言っても良いくらい。決して、楳図かずおとか伊藤潤二みたいな、おどろおどろしい絵じゃなく、普通と言えば普通なんだけれども、とにかく“不穏”なんですよ。なんか、マンガの域を超えているというか。

 ……とまあ、それはともかく。もちろん、ストーリー的にも面白いわけで、そんな秀逸な作品を描く押見修造原作となれば、きっと面白いに違いない、と勝手に考えた私が間違っていた。

 思うに、仲村佐和という女子生徒は、玉城ティナみたいな見た目の可愛いキャラでは面白くないんじゃない? 原作の仲村さんがどんなんか知らないけど、本作内ではクラスの男子どもに「キモい」「コワい」と言われているわけで、玉城ティナがいくらヘンキャラを作ったところで、キモくないし、コワくない。玉城ティナに支配される男子がいても、別にフツーの話だろ、それ、、、。

 で、この仲村さんの口癖が「クソムシ」「ヘンタイ」なんだが……。まぁ、仲村さんも春日も“イタい中学生”なんだよね。彼らは、「ヘンタイ」=他とは違う選ばれし人間、と思っているんだが、別に中二病だとか何だとか関係なく、ヘンタイを崇拝し過ぎ。ヘンタイなんて、別にレアでも何でもない。人間は例外なくヘンタイなんであって、それをヘンタイじゃないみたいに装って社会生活を送っているだけなのよ。

 まぁ、そんなことはさすがに中二じゃ分からんのは仕方ないと思うけど、それにしても、彼らが何でそこまでヘンタイを崇拝しているのかが、私にはさっぱり分からなかった。中二病って、そういうもんなのか? こういう、“青春モノ”は、かつて自らも通ってきた道として、痛くとも微笑ましく感じるものなんだが、仲村さんも春日も正真正銘“イタい中学生”としか見えなかった。

 だから、ハッキリ言って、本作については終始、意味が分からなかった。春日が憧れていた佐伯さんの豹変ぶりとか、???である。原作を読めば分かるのかねぇ? 途中、ちょっとだけ谷崎の『痴人の愛』かよ、、、って思ったりもしたんだが、ゼンゼン違ったわ。

 実は、本作は、劇場に行こうかどうか迷っていたんだけど、行かなくて正解だった。もし、見に行っていたら、多分、グッタリして虚しさのあまり、ボリューミィな食べ物とか衝動買いして余計なカロリー摂取をしてしまったに違いない。

 マンガ原作映画も、ほどほどにしとけ、ってことかな。

 

 

 

 

 

 

伊藤健太郎くんの裸は、中二にしては男過ぎやしませんかね?

 

 



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八甲田山(1977年)

2020-08-10 | 【は】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv18506/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペ(長いので一部編集、青字は筆者加筆)です。

=====ここから。

 「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた2人の大尉、青森第五連隊の神田(北大路欣也)と弘前第三十一連隊の徳島(高倉健)は全身を硬直させた。日露戦争開戦を目前にした明治34年末。第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。

 2人の大尉は責任の重さに慄然とした。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。

 年が明けて1月20日。徳島隊は、わずか27名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され、隊員は皆雪に慣れている者が選ばれた。一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成を申し出たが、大隊長山田少佐(三国連太郎)に拒否され210名という大部隊で青森を出発。神田の用意した案内人を山田が断り、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。

 神田隊は次第にその人数が減り、辛うじて命を保った者は50名でしかなかった。しかし、この残った者に対しても雪はとどめなく襲った。神田は、薄れゆく意識の中で徳島に逢いたいと思った。

 27日、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。

 全身凍りつくような徳島隊の者もやっとのことで神田隊の救助隊に救われた。第五連隊の生存者は山田少佐以下12名。のちに山田少佐は拳銃自殺。徳島隊は全員生還。しかし、2年後の日露戦争で、全員が戦死。

=====ここまで。

 
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 NHKのBSは、結構面白い番組を放映しているんだけど、「ダークサイドミステリー」もそのうちの一つで、毎回自動録画設定しているお気に入り番組。この番組で、自粛期間中の4月に放映されたのが「八甲田山遭難事件 運命の100時間 ~兵士たちは何に敗れたのか~」で、これを見て、俄然、「八甲田雪中行軍遭難事件」に興味を持ったのでした。

 で、本作を見てみようと思ったのだけれど、本作は、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」が原作。この原作小説は読んでいないのだが、同じ遭難事故を取材したルポである伊藤薫著「八甲田山 消された真実」(山と渓谷社)を本作を見た後に読んでみました。……これが、かなり衝撃的な内容で、この本を読み終えるまで本作の感想はちょっと書けないな、、、、と思って、結果的に本作を見てから1か月以上たって感想を書くことになってしまったのでした。


◆トップがダメだと組織は全滅する。

 実際に八甲田でロケをしたらしいのだが、まあ、とにかくほとんど全編が雪の中でのシーンで、画面が白いか(夜間の)黒いかで、非常に画的には面白味がない。吹雪の中では人の姿も見にくくて、おまけに重装備だから役者の顔がイマイチ分かりにくい。

 ……などという、映画としての難点はあるけれども、制作陣の意気込みは十分伝わって来る。『アラビアのロレンス』を見たときは、喉が渇いて仕方がなかったけれど、本作は、見ているこっちが凍死しそうな気がしてくるくらいに寒さを感じた。

 北大路欣也演ずる神田隊員が、本来この五連隊の司令官として機能するはずだったのに、三国演ずる山田少佐が階級としては上位で、横槍を入れるがために、司令系統が一本化せずに統制がとれなくなる。しかも、山田少佐の節目節目の判断は、すべて裏目に出るという悲劇。ド素人の私でも、あんな状況の雪山で動き回るのはNGだろうと分かるのに、なぜか山田少佐は、動き回る指示ばかり出すのである。当然、隊員たちは体力をひたすら奪われる。

 軍隊なんてのは、階級が絶対だろうから、神田隊員としても山田少佐に何も言えなかったのだろう、、、というのは分かるが、それにしたって、210名の人命を預っている立場として、もう少し何とかならなかったのか、という気もする。

 一方の健さん演ずる徳島大尉率いる三十一連隊は行軍を成功させ、健さんは、やっぱりここでも渋くてかっこいいヒーロー扱いだ。遭難死した神田大尉の死を悼む姿をヒロイックに描いている。しかし、この徳島大尉は、現地の案内人に対し、用が済むと「見聞きしたことを一切口外するな」と箝口令を敷いて、はした金を渡して帰らせるのだ。案内を務めた地元民は怯えきった様子で、猛吹雪の中を案内してくれた人たちに対して、それはねーだろう、、、と思ったんだけど、当時の軍なんてのはそういうもんなのか??とムリヤリ自分を納得させた。……が、その後に読んだ「八甲田山 消された真実」で、実態はもっとトンデモだったと書かれていて、さもありなん、、、と腑に落ちた。

 まあ、原作小説は、飽くまで小説であり、やはりイロイロ脚色がされているのだろう。もちろん、新田次郎のことだから綿密な取材はしているに違いない。また、小笠原孤酒という元新聞記者がこの遭難事故を取材しており、それらの取材資料を新田にほぼ全て提供しているということだ。

 それに、映画化に当たって、さらに事実からはかけ離れた筋書きになっているのだろうし。

 いずれにしても、愚かなる将を戴く兵卒たちの悲劇、、、と言ってしまえばそれまでだが、混乱の原因となった山田少佐は、本作では拳銃で自決したことになっているが、実際には、心臓麻痺で亡くなっているそうだ。まあ、自決した方が映画的には画になるけれど、現実はそうドラマチックではないのだ。


◆健さん=ヒーロー、で良いのか。

 私は、本作を見る前に「ダークサイドミステリー」を見ていて、本作の元ネタとなった遭難事故の実態を多少知っていたこともあり、あまり素直に本作を鑑賞することは出来なかった。「ダークサイドミステリー」では、第五連隊(つまり、神田隊員の部隊)のことしか描かれていなかったので、三十一連隊についての話は本作を見て初めて知った次第だが、その後に読んだ「八甲田山 消された真実」に書かれた内容から、この三十一連隊にも相当問題があったことが推察できる。 
 
 神田大尉、徳島大尉、山田少佐らには、もちろん実際のモデルがおり、少しずつ名前も変えられている。「八甲田山 消された真実」には、他にもこの行軍に関わった主要な人物が多く言及されており、それぞれの人物像が詳細に書かれている。著者の伊藤薫氏は、おおむね彼らに対して非常に辛辣で、氏自身も自衛隊出身ということもあってか、かなり憤っておられるのがよく分かる。確かに、若い200名以上の隊員の命を何だと思っているんだ??と、そのあまりにも杜撰な行軍に、怒りを通り超えて呆れてしまう。

 前述のように、箝口令を敷かれたことで、案内をした地元民たちは、事故後、調査に当たった関係者たちにも詳細を語りたがらなかったとか。それくらい、徳島大尉のモデルとなった福島泰蔵という大尉を恐れていたということらしい。

 本作は、結果的に、世界的な山岳遭難事故を、美談にしてしまっている感が否めず、正直言ってこの制作姿勢はかなり疑問を感じる。つまり、健さん演ずる徳島大尉をヒーローにしてしまっている、ということだ。まあ、映画はエンタメであるのだから、実話に忠実に作ったところで、面白くなければしょーがない、、、っていうのは分かる。でも、本来失われなくても済んだ199名の命が失われたことの重みを考えると、この徳島大尉のキャラは、果たして本当にこれで良かったのか。


◆その他もろもろ

 まあ、とにかく、豪華出演陣です。

 健さんら3人のほかにも、緒形拳、丹波哲郎、加山雄三、大滝秀治などなど。緒形拳でさえ、かなりのチョイ役。若~い加賀まりこが、健さんの妻役で、夫に三つ指ついて傅くという、らしくないキャラを可愛らしく演じていらっしゃいました。

 「八甲田山 消された真実」の著者・伊藤薫氏が、この遭難事故の最大の責任者として名前を挙げている人がモデルになっている津村中佐を小林桂樹が演じているのだけれど、かなりのチョイ役で、出番も少ない。伊藤氏は、とにかくこの人物を糾弾している。

 本作では分からないが、この行軍に参加した第五連隊で、目的地の“田代”に実際に行ったことがある人が一人もいなかった、誰もその場所を知らなかった、という事実が、「八甲田山 消された真実」を読んで、一番衝撃的なことだった。

 原作小説で有名と言われている、神田大尉の「天は我らを見放したか!」と叫ぶシーンは、本作でももちろん描かれているが、実際には「皆で枕を並べて死のう」という続きがあったそうだ。この一言で、それまで生き残っていた隊員たちの士気が一気に堕ち、皆がバタバタと倒れて行った、、、という。本作でも、バタバタと人が倒れて行くシーンがある。

 山岳遭難ではよく「引き返す」ことの重要性が言われるが、何事も“リタイア”することは難しい。そこには“敗北感”がつきまとうからか。途中まで手を付けてしまって、それが無駄になることの抵抗か。いずれにせよ、引き返す、撤回する、変更する、、、これらを臨機応変に判断することの難しさを、TV番組や本作、ルポを読んで改めて感じた次第。
 

 

 

 

 

 

低体温症の恐ろしさがよく分かる。

 




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LETO -レト-(2018年)

2020-08-02 | 【れ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71035/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1980年代前半。西側諸国の文化が禁忌とされていたレニングラードでは、西側のロックの影響を受けたアンダーグラウンド・ロックのムーブメントが起き始めていた。

 ロックスターを夢見るヴィクトルは、その最前線で活躍するバンド「ズーパーク」のリーダーであるマイクを訪ねると、彼に才能を見いだされ、ともに活動することに。音楽活動が軌道に乗りだす一方、ヴィクトルとマイクの妻ナターシャとの間に恋心が芽生え始める。

=====ここまで。

 
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 7月に『ドヴラートフ』を見に行ったんだけれど、終映後に、島田雅彦氏と沼野充義氏の対談があって、これがまあまあ面白かったんだが、その際に、沼野氏が『ドヴラートフ』の音楽について触れた際に、「来月『LETO』という面白い映画が公開されるので、是非見て下さい」みたいなことを言っていて、ロックとかゼンゼン知識ないけど、80年代のレニングラード(サンクトペテルブルク)が舞台の映画だと知って、ちょっとロシアづいている身としては見たくなってしまい、劇場に行った次第。

 ちなみに、『ドヴラートフ』については、島田&沼野対談の感想を含めて、いずれ書くつもり、、、。

 で、本作。予備知識はほぼないまま見に行ったんだけれど、もっと、PV的な映像が盛りだくさんのロック映画だと思っていたら、ロックを背景にしたラブストーリー&人間ドラマだったので、なんか意外だった。

 基本的には、ヴィクトルとマイクとナターシャの関係性を軸に描かれており、当時のソ連でロック界を開拓していく成功譚的なエピソードはほとんどなかったように思う。もちろん、彼ら独自のロックを産み出すための葛藤が描かれたシーンは差し挟まれるものの、見終わった印象は、共産主義下で抑圧されながらアングラで戦ったロックミュージシャンたちの映画、ではない。

 ただ、たくさん音楽が使用されており、私でも知っているT・REXも流れていた。私が何となく知っている“洋楽”は、メインは80年代(といっても詳しくはない)とはいえ米英の音楽ばかりだから、ソ連のロックなんて全く知らなかったけれど、それでも音楽シーンは十分楽しめた。

 特に私が本作に期待していた“ロック映画”っぽかったのが、前半に出てくる列車内でのミュージカル風シーン。基本的に本作はモノクロなんだが、印象的に“色”が使われていて、またこのシーンでは映像も凝っていて面白かった。こういうシーンがもっと一杯あるんだと思っていたんだよなぁ。

 しかし、いくら忌まわしい“西側音楽”だからって、ロックを座って聴かなきゃいけないとか、意味が分からん。会場に共産党が監視に来ているとか、歌詞は検閲されるとかってのは、まあ分かるけど。スタンディングでノリノリで踊るとどーだっていうのかね? 横断幕を掲げただけで、監視員が注意しに来るし、立ち上がると「座れ、座れ!」ってしつこく言いに来る。

 ラストは、ヴィクトルがバンド「kino」を立ち上げて成功を予感させるライヴシーンで終わるのだが、ストーリー的には思っていたより、ずっと大人しく、スタンディング禁止以外は共産党の気の狂った抑圧とかもほとんど出て来なくて、拍子抜けする感じだった。

 それに、何といっても私が一番楽しみにしていたのは、当時のレニングラードの街並み。……だったんだけど、街並みのシーンはほとんどなく、ちょっと歩いているシーンとか、窓から街を見渡すシーンが少しあったくらいで、ガックシ、、、。まあ、前述の島田&沼野対談で、島田氏が言うには、「ロシア革命前と(島田氏が滞在していた)80年代、現在とで、レニングラード(サンクトペテルブルク)はあんまし変わっていない」とのことだったので、街並みのシーンはさほど意味がないってことなのかも知れないが、、、。

 ヴィクトルをユ・テオという、アジア系の俳優が演じていたので、??と思ったんだが、後でパンフを見たら、「朝鮮人の父とロシア人の母を持ち、レニングラードで生まれ育」った人だと知って納得。人気絶頂期に28歳で事故死しているらしい。T・REXも、確かヴォーカルが事故死していたのでは、、、?

 

 

 

 

 

 

 

タイトルの「LETO」は、ズーパークの音楽の曲名

 

 



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誰がハマーショルドを殺したか(2019年)

2020-08-01 | 【た】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71180/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1961年9月、当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドは、コンゴ動乱の停戦調停のためチャーター機で現地に向かった。しかし、ローデシア(現ザンビア)で謎の墜落事故を起こし、ハマーショルドを含む乗員すべて死亡する。

 長らく原因不明の事故とされてきたこの未解決事件に挑んだデンマーク人ジャーナリストで監督のマッツ・ブリュガ―と調査員のヨーラン・ビョークダールは、単なる墜落事故ではなく、ハマーショルドの命を狙った暗殺事件であったことを仄めかす資料を発見する。

 ブリュガー監督とビョークダールは真相解明のためアフリカ、ヨーロッパ各地を旅するが、当時の関係者たちは皆沈黙を守り、追跡取材は難航する。

 しかし、調査を進めるうち、ハマーショルド暗殺事件の真相だけでなく、秘密組織サイマーによる想像を絶する陰謀を突き止める……。

=====ここまで。

 
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 チラシを見たけど、あんましそそられず、全国紙各紙も映画評に取り上げているけど、スルーのつもりでした。けれど、ある方のツイートを見たら、何だか面白そうな感じがしてきて、やっぱり見ておこうかという気になったので、劇場まで行ってまいりました。


◆ご多分に漏れず「陰謀論」

 見終わって、……これをどうやって消化すれば良いのか、、、甚だ悩ましい。

 某全国紙の評も、何だか歯切れが悪い。山根貞男という評論家が書いているのだが、「あまりに衝撃的で、見ていて信じられない思いがする」とか、「どう考えても、…………は作り物だろう」とか、「ドキュメンタリー映画には違いないが、フィクションのようにも思われるのである」とか、シメの一文は「正体不明の面白さに満ちた映画というべきか」だって。

 プロの批評家がこんな批評しか書けないんだから、素人が悩むのはムリもないわね。それくらい、後半から怒濤のように暴かれる事実(?)の内容の、話がデカ過ぎるのである。

 こういった、謎が多い事故には、必ずといっていいほどつきまとうのが「陰謀論」だが、本作も、結果的にはそこに向かって突っ走る。

 本作が暴いたハマーショルドの死の真相とは、(詳細はここには書かないけれど)詰まるところ、裏で英米が糸を引いていた、という話である。壮大な与太話とも思えるが、秘密組織サイマー云々はともかく、“国家”が黒幕、ってのは、私はアリな話だと思うのだ。なぜなら、ハマーショルドの存在が、そのまま国益に直結するからである。今でこそ、アフリカは中国の食い物になっているが、今の中国の姿は、かつての欧米のそれであり、自らの利権には形振り構わないのが国家なのだ。それを考えると、人一人始末することくらい、平気でやるだろう。

 なので、デカ過ぎる話で戸惑うが、大筋は外れていないのではないか、と受け止めた。


◆エイズ禍

 本作で中心的に調査対象となっている「秘密組織サイマー」ってのが、とにかく胡散臭い。

 このサイマーの実態を調べていく過程で、ハマーショルドの暗殺事件解明のはずが、あるおぞましい計画話にぶち当たる。それは、エイズウイルスを使ってアフリカの黒人を殲滅するという内容なんだが、前述の山根氏は、この話について「見ていて信じられない」と書いている。

 が、私は、このエイズの話に関しては、大分前にセス C. カリッチマン著、野中香方子訳「エイズを弄ぶ人々 疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇」(化学同人)という書籍を読んで衝撃を受けたので、まんざら与太話とも言い切れない、、、と感じた。実績のある高名な科学者たちが、エイズ否認主義者としてアフリカのエイズ禍に一役買った事実が暴かれているのだが、ノーベル賞受賞者たちも例外ではない。

 余談だけど、今のコロナ禍において、NHKが特集番組でノーベル賞を受賞した山中教授をよく起用しているのだが、あれは、止めるべきだろう。特にオカシイと思ったのは、感染症の専門家たちの討論で、コーディネーターを山中氏が務めていたこと。「エイズを弄ぶ人々」に挙げられていた科学者たちも専門外なのに“ノーベル賞受賞者”という肩書きがあるばかりに、間違った言説の流布に大いに貢献してしまっていた。山中氏はノーベル賞受賞者といえども感染症の専門家ではないし、まぁ、ご本人も「私は専門家じゃないので~~」みたいなエクスキューズを毎回しているが、どういうつもりでNHKが彼をしょっちゅう起用するのか謎だし、山中氏もどういうつもりで出演しているのか(思慮深い人なら辞退するのでは)もっと謎だが、ハッキリ言って視聴者を惑わせる危ない演出であると思う。無邪気な人は、彼の単なる推論や見解を「山中先生が言っていたから……」と、無条件に“科学的事実”と信じる可能性が少なくない。実際、そういうことをネットで書いている例も散見された。

 それはともかく、“エイズウイルスで黒人殲滅”なんて、およそ非現実的という気もするが、絶対ナイとは言えないだろうなぁ、、、と思いながら見ていた。それくらい、世界には、あり得ない、信じられない、与太話みたいな実話がゴロゴロ転がっているのだ。


◆映画として

 ……というわけで、一体何の映画のレビューだよ??って感じなんだけど、まぁ、難しいこと抜きにして面白いことは確か。ハマーショルドなんて、名前は聞いたことあるけど誰?? という私が見ても十分楽しめたのだから。

 監督は、デンマーク人でドキュメンタリー映画を何本か撮っているというマッツ・ブリュガー。彼が本作を撮ったきっかけは、彼の知人でスウェーデン人のヨーラン・ビョークダールがこの事件のことを長年調べていたから。ビョークダールの父親が国連職員だったそうで、父親がこの事件を調べていて、その父親から、弾痕らしい穴が空いた鉄板を事件の重要証拠として受け継いでいたのである。

 ビョークダールは、その鉄板を後生大事に持ち歩いていたんだが、その鉄板を詳細な調査に出したところ、実は、、、、という、ギャグみたいなエピソードも差し挟まれる。

 また、本作は、後半まで、「真相は分からないままでした~~!!」で終わりそうな勢いなのだが、終盤から一気に展開する。この構成を“メタ”と言う人もいるようだが、その辺は見る人の感性次第かも。私は、メタだとは思わなかったが。ただ、このマッツ・ブリュガーという監督の手法が、マイケル・ムーアとは違うけれど、ちょっとおふざけが入っている感じがあるので、それが“メタ感”を漂わせている節はある。

 

 

 

 


のA」は、CIAの印……??

 



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