映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

読書する女(1988年)

2016-05-25 | 【と】



 コンスタンス(ミュウ=ミュウ)がベッドの中で恋人に読み聞かせている小説のタイトルは『読書する女』。

 小説の主人公マリー(ミュウ=ミュウ・2役)は、その美声と朗読の上手さを活かして、本の読み聞かせを仕事にしようと考える。きっと、求めている人はいるはず、、、。

 果たして、早速依頼が来た。記念すべき最初のお客は、足の不自由な少年。マリーがモーパッサンの「手」を朗読していると、少年はマリーの官能的な朗読に悩殺されて気絶(?)する。ほかにも100歳過ぎの将軍未亡人、欲求不満の中年社長、よぼよぼになった元判事の爺さん等々、風変わりな客ばかり。

 、、、という小説を読み終えたコンスタンスは、自分も「読書する女」になろうと心に決める。

 

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◆キュートなミュウ=ミュウ

 TSUTAYAの新作リストにあったので見てみることにしました。ミュウ=ミュウ、結構好きなので。

 ミュウ=ミュウは、この頃38歳くらいですね、、、。すごいキュートです。こんな38歳、なかなかいないでしょう。別にムリして可愛くしているわけでもないのに、可愛いのです。

 ミュウ=ミュウといえば、割と最近見たのが『華麗なるアリバイ』とかいうつまんない映画で、しかも、彼女はものすごくつまんない役どころでもったいないなー、と思ったのでした。もう少し前には『オーケストラ!』を劇場で見て、「あ、ミュウ=ミュウだ!」とちょっとビックリした記憶が。何しろ、さすがの彼女も歳とったなぁとかんじたので、、、。歳とっても、彼女のキュートさは変わっていませんけどね。

 本作では、アラフォーのミュウ=ミュウ。中年社長に朗読している途中で服を脱ぐ場面があるんだけど、マリーのお腹は、ぷよんとしていて、それがまた何とも言えず良い感じ。太っているとかじゃなくて、ちょっと肉付きの良くなった中年女性の身体なんだけど、でもキレイ。その絶妙なバランス感が、この映画の雰囲気にマッチしていてgoo。


◆朗読と官能

 朗読って、しかし、何故か物語になりますねぇ。あの『愛を読むひと』も、原作は確か「朗読者」でしたよね。

 確かに、官能と結びつきやすいかも。声ですよ、声 朗読の内容もあるけど、やっぱし、声でしょう。声は大事です。

 高校生の時、3年生で初めて同じクラスになった男子に、それはそれは目鼻立ちの整った美しいZ君がおりました。秘かにチェックしていたんですけど、直接話すチャンスもなく1週間が過ぎた頃、何かの授業でZ君が先生に指名されて教科書の朗読をすることに。そのとき発せられたZ君の声は、、、。た、高い!! 、、、ガックシ 私のささやかなときめきは、この一瞬で泡と消えました。以後、Z君には何の興味もなくなりました。まあ、Z君には何の責任もないですし、私にどう思われようがどーでも良いことですから、ホント、私の一人上手なんですけれども、、、

 というわけで、声は、色恋を含めて官能の世界には非常に重要なファクターです。

 ミュウ=ミュウの声は、キュートな見た目に合った、それでいて子どもっぽくないトーンの、耳に心地良いセクシーさがあります。その声で、デュラスの『愛人』を読んだかと思えば、マルクスを読んだり、サドの『ソドム百二十日』を読んだりするわけです。官能的にもなれば、無感情にもなる声です。そういう多彩な表情を持った声がステキです。

 どーでも良いですが、きっとZ君が何を読んでも、きっとまともに頭に内容は入ってこないだろうな、、、。というか、耳に入るのを拒絶してしまいそうだ。普通に会話する分には慣れれば気にならなくなりましたけれど。ああいう、高くて若干しゃがれた感じの声は、残念ながら、表情の乏しい声、ってことでしょうな。

 声のステキな人、憧れるわぁ~。さしずめ、現時点で(私にとっての)声のベストは、やっぱり玉木宏かなぁ、、、。イイ声ですよねぇ、彼。


◆官能的ではあるけどコミカル

 いわゆる入れ子構造で、コンスタンスとマリーが同化しているところが面白いです。

 一応、朗読シーンは官能的なシーンとなっているんですけど、どこかコミカルで、あまり官能性を感じるものではないですよねぇ。多分、そういう風に描写しているんだと思いますけれど。ミュウ=ミュウはキュートだけれど、匂い立つようなセクシーさとは違うので、それこそコケティッシュな感じです。男を軽々と悩殺し、自分はケロッとしている天然小悪魔、みたいな感じでしょうか。原作の朗読シーンは、とっても官能的だそうなんですけれど。

 マリーが、中年社長に、お尻に顔をうずめられても朗読を続けているところとか、笑っちゃいました。あと、マリーの股間に顔をうずめたかと思うと、いきなり咳込んで、最初???だったけれど、どうやら、マリーの陰毛が喉に絡まった、ってことらしい。ハハハ。

 
◆衣装の色合いが素晴らしい

 マリーの衣装がすごくビビッドな色彩でステキです。帽子と足下に同じ色のコーディネートなんですよね。その衣装に、ミュウ=ミュウのショートカットの髪型が実によく似合う。

 あと、お母さんが仕事で出掛けている間に、マリーと一緒に遊園地に行く少女の衣装も可愛い。お母さんの宝石をじゃらじゃら着けて、その上に大きなストールを巻いて、すんごいオシャレ。

 さすがおフランス、こういうところのセンスは素晴らしい。見ていて楽しいです。





玉木宏の朗読を聞きながら眠れたら、、、熟睡どころか覚醒しちゃいそうだ。




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マイ・ブラザー(2009年)

2016-05-17 | 【ま】



 兄のサム・ケイヒル(トビー・マグワイア)は優等生タイプで、米軍の大尉として数日後にアフガンへの再派遣が決まっている。サムの送別会の日に、弟のトミー(ジェイク・ギレンホール)は刑務所から仮釈放されシャバに復帰してくる。対照的な兄弟で、元軍人の父親ハンク(サム・シェパード)は、サムを誇りに思い、トミーに対し辛く当たる。

 派遣後数日たって、サムが死亡したとの知らせが妻グレース(ナタリー・ポートマン)と2人の娘の下にもたらされる。哀しみにくれるケイヒル一家だったが、葬儀も終え、現実を生きて行かなければならない。トミーは、グレースたちを助け、2人の娘もトミーにすっかり懐いて、それなりにどうにか日常を取り戻しつつあった。トミーとグレースも互いに心の支えとなって行く。

 そんなある日、グレースは電話を受ける。それは、死んだはずのサムが、現地のゲリラに捕えられていて生きていた、無事解放された、という内容であった。晴れて生還するサムであったが、それはグレースの知るサムではなくなっていた、、、。


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◆リメイクだったとは……

  ゼンゼン知らなかったのですが、本作は、スザンネ・ビア監督のデンマーク映画『ある愛の風景』のリメイクだそうで、、、。見終わってから知って良かった。私、彼女の監督映画2作品しか見ていませんが、どっちもダメだったので。

 どうダメだったのかは、2作(『しあわせな孤独』『アフター・ウェディング』)ともみんシネに書きましたので、よろしければそちらをご覧ください。

 本作は、監督がジム・シェリダンで、私の愛するDDL作品を何本も監督している人なので、まあ、見てみようかなぁ、と思ったのでした。……と言っても、DDL主演のシェリダン作品でもの凄く好きな作品があるわけでもないんですが、、、。


◆復員したら、嫁さんが弟の嫁さんになっていた、、、

 ……という話は、日本の戦後でも枚挙に遑がなかったそうです。まあ、国に「死んだ」と聞かされれば、家族は死んだと思いますよね、普通は。何かの間違いであって欲しいと願いはしますけれども、そこで、「死んだはずはない、絶対生きている!!」と信じられる人の方が少数派だと思います。私も、信じたくないと思いつつ、受け入れて行くでしょうねぇ、こういう場合。

 しかし、肝心の戻って来た本人にしてみれば、死線を彷徨って、それこそ“必死の思い”で愛する妻の下に戻って来たら、こともあろうに弟の妻になっていようとは……!! その衝撃たるや、想像を絶します。いっそ他人であればまだしも、、、。

 本作の、サムの心境もいかばかりか、、、。しかも、明らかに家族の顔には戸惑いの色が浮かんでいるわけです。もっと言っちゃうと「死んでくれていれば良かったのに」という彼らの心の声が聞こえる心境だったのではないでしょうか。グレースは、トミーと再婚なんてしていませんし、別に何もなかったのですが、互いの心の穴を埋め合うように、少しずつ精神的な距離を縮めていたのは確かで、それを、サムが敏感に察知しないはずはありません。グレースには「弟と寝たんだろ」と言い、トミーには「グレースと寝たんだろ」と言い、自分で自分をどんどん追い詰めるサムが痛々しい、、、。


◆兄弟&姉妹

 サムとトミーが対照して描かれているのと同様に、グレースの2人の娘たちイザベルとマギーの姉妹も、微妙に対照して描かれています。

 親から見て自慢の兄と不出来な弟。父親は、とにかくトミーにやたらと突っ掛る。サムより劣っていると思うことをあげつらい、罵る。元軍人の父親は、やはり軍人になった兄が可愛かったんだろうねぇ。しかし、私は、この父親の姿に非常に嫌悪感を抱きました。あなたがトミーを歪めたんじゃない? と言いたくなるし、それは多分、当たらずとも遠からじだと思う。トミーは根っからの悪人じゃないのに、親が欠点ばかりをあげつらっていたら、そら歪むって。

 でも、サムは、あの父親の割にイイ兄貴で、トミーとも決して険悪な仲ではないみたいなのが救いです。恐らく、亡くなった彼らの実母が良い親だったのでしょう。偏屈親父でも、兄弟の仲を歪めることをしないよう、母親がきちんととりなしていたのだと思われます。本作で出てくるのは継母ですが、この人も、あの父親には不似合いなほど優しい寛容そうな継母でした。

 一方、姉妹の物語は……。姉イザベルは、容姿にコンプレックスがある。妹マギーは可愛くて天真爛漫、誰からも愛される、、、と思い込んでいる。「マギーは人気者。可愛いから……」と、イザベルがトミーにこぼすとトミーが「君はパパにそっくりだ。自分を好きになれ」と言うシーンが、結構グッときます。兄と何かと較べられて来たトミーには、イザベルの気持ちがよく理解できたのです。だから、そっと肩を抱いて「自分を好きになれ」と言ったんでしょうなぁ。このシチュエーションで、これ以上のセリフはないでしょう。コンプレックスを植え付けられた者と、勝手に抱いている者の、心温まるシーンです。

 でも、イザベルは、終盤に、トミーのこの珠玉の言葉を忘れてしまったかのような暴挙に出てしまうのですが、、、。


◆サム、遂に発狂す。

 サムは、部下と2人、アフガンで敵のゲリラに捕えられて、そこでの出来事で人格が変貌してしまうのですね。サムは、ゲリラに命じられて、ともに捕えられた部下を殺してしまうのです。そうしないと自分が殺される、そうしたらもうグレースや娘たちに二度と会えない、、、。

 しかし、サムはそれを生還してからも、誰にも話せないのです。そりゃ話せないですよね、、、。

 これは、戦争がなした罪なのだ、、、。そう思えたらサムも少しは楽だったろうけど、サムはまともに向き合ってしまう。仲間を殺した卑劣な人間である自分、、、。これを一生背負って生きて行くのは辛すぎる。帰還兵に自殺者が多いとは周知の事実ですが、内容は違えど、こんな究極の追い詰められた経験をしてしまったら、発狂するか死ぬしかないでしょう。精神的にとても持ちません。

 サムが遂に暴れて警察沙汰になったのは、イザベルの言葉が引き金でした。マギーの誕生会で、イザベルは彼女なりの理由があって拗ねて機嫌が悪いにもかかわらず、誰もイザベルの心情を汲んでくれない。一番イザベルがイヤだったのは、もしかすると、トミーが新しいガールフレンドを連れて来たことかも知れない。とにかく、イザベルは誕生会を妨害する行動をとり続け、サムがキレて強く諌めたことで、遂にブチ切れます。

 「(パパなんか)死んでくればよかった! ママはおじさんと寝たいのよ。いつも2人は寝てたんだから!」

 これで、サムは疑いが確信に変わり、自分のアフガンでの行動とが相まって、発狂してしまいます。イザベルも可哀想。サムも可哀想。このシーンは、辛い。

 私がグレースだったら、サムがキレる前に、イザベルを連れ出してなだめるけどなぁ、、、。と思っちゃいましたけど、まあ、ここは映画だし、このシーンは非常にカギになるのでああいう各自の動きにしたんでしょうけど。グレースが全体にとても賢く冷静な母親なのに、ここだけちょっと違和感ありますよね、やっぱし。


◆夫婦愛、、、?

 結局サムは(恐らく)リハビリセンターみたいな所に入院して療養することになるのですが、そこへ訪ねてきたグレースに「何があったのか本当のことを言って。16の時からあなたを愛してきた。言ってくれなきゃもう二度と来ない」と言われ、ようやく、部下を殺したことを告白します。ここで本作は終わりです。

 私がグレースだったら、サムの告白をどう受け止めるだろうか、、、。

 そうまでして還って来てくれたのだと、やはり思うだろうな。部下を殺したことを卑劣だなんて、到底思えない。勝手かも知れないけれど、愛する夫が今こうして戻って来てくれたその事実の重さの方が大事。よくぞ還って来てくれた、、、と思うんじゃないかな。

 グレースの心情が分からないのですよねぇ。告白を聞いて、2人で涙ながらに抱き合う姿でジ・エンドだったので、、、。でも多分、グレースも、夫を責める気持ちはないと思います。

 ただ、先のことを考えると、正直、その気持ちが持続するかは大いに疑問です。サムの心の傷は、おいそれと回復するとは思えない。きっと長引くでしょう。経済的には、国から手厚く保護されるとしても、精神的に夫を支え切れるか、、、。サムが、グレースとトミーの仲を完全にシロだと信じられるか、また疑い始めて2人を責めることも十分あり得る。

 そんなふうに、3歩進んで2歩下がり、あるいは5歩下がり、なんてことが続いたら、いくら最愛の夫でも、グレースにも限界が来る日は訪れるでしょう。早く回復すれば、夫婦愛は維持されるでしょうけれど。

 健やかなるときも、病める時も、、、が理想だけれどねぇ、、、。


◆豪華キャストとかその他モロモロ

 サム・シェパード、、、『ライトスタッフ』のイエーガーはしびれるほどカッコ良かったんですけれども、さすがに歳とりましたね。『8月の家族たち』でも感じましたけど。ううむ、複雑。

 トビー・マグワイアは、派遣前と生還後のルックスが別人のようで、相当減量したんでしょうなぁ、、、。役者さんは大変じゃ。ジェイクは、まあ、相変わらずジェイクでしたが、彼はやはりイイ役者さんですね。屈折したイイ奴という難しい役を、素晴らしく演じておられました。ナタリー・ポートマンも良かったですし。

 でも何といっても、私的には、イザベルを演じたベイリー・マディソンにMVPです。

 まあ、地味に良い作品で、結構泣かせてもらいましたけれども、なんというか、、、さほどグッと来なかったのですよね。シェリダン作品はいつもそうかも、、、。イイ映画だなぁ~、とは思うけど、心に迫るものが今一つ足りない、、、みたいな。本作もそうでした。なのではちょっと少な目です。

 オリジナル映画、、、食わず嫌いしていないで見てみようかな。





これからがケイヒル一家の正念場。




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ベルリン・天使の詩(1987年)

2016-05-13 | 【へ】



 ベルリンの街にも(?)天使がいる。天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)は、ある日、サーカス小屋でブランコ乗りの女性マリオンを見て、一目で恋してしまう。以来、人間になりたいと思うようになる。

 天使が人間に恋をする……、それはつまり、天使としての死を意味する。

 それでも、ダミエルは、自らの意思で晴れて人間になる。それまでモノクロだった世界に様々な色がつき、寒さを感じるようになり、コーヒーを味わうことができるようになる。そして、ダミエルはマリオンの前に恋する一人の人間の男として現れる。

 
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 のっけから恐縮ですが、実にくだらない自分語りが少々冒頭と末尾にありますので、作品についての感想のみ読めればよいという方は、最初と最後の項目は読み飛ばしてください。


◆本作にまつわるどーでもよいハナシ

 本作を見るのは、3度目。初回は、公開時に劇場で見ています。もう30年前ですなぁ、、、。日比谷の「シャンテ シネ」でした。今回、BSでオンエアされていたので録画して見ました。

 最初に見た時は、まだ学生だったわけで、正直、今一つピンと来なかったと思います。予備知識なく見に行ったので(良いらしいよ、という先輩の言を聞いただけで見に行った)、始まって最初の15分くらいは??だったように記憶しています。ただ、不思議と退屈だとか眠いだとかは全くなく、ブランコ乗りの女性が出てきた辺りから引きこまれ、気付いたら終わっていた、、、という感じでした。

 実は、このとき一緒に行った相手が、当時、大好きだったQ男で、私が強引に誘って見に行ったわけですが、このQ男とは、その後、思いもよらないことが次々に展開し、なんと15年近い付き合いとなった挙句に、最悪な幕引きを迎えたという経緯があったので、正直、その後、この映画にまともに向き合うことが出来ずに来てしまいました。、、、ホント、鼻くそ以下の自分語りで恐縮です。でもまあ、私にとって本作とこの話は切り離せないもので、相すみません。

 ……で、2度目に見たのは、10年前。やはりBSでオンエアしているのをたまたま目にして、そのままラストまで見てしまったのでした。、、、が、見終わって、Q男についてまだ心の整理が出来ていないことを自覚させられ、がーーん、、、となり、よせばいいのに、みんシネに茶化すようなレビューを書いて自分を誤魔化すのに必死だったのでした、、、。アホですね。

 今回、見てみようと思ったのは、Q男についてのモロモロは多分もう大丈夫という確信があったし、オバハンになった今見てみたらどう感じるだろうか、という興味もあったからです。

 というわけで、やっとこさ本題の、作品に対する感想です。


◆天使とは、、、

 こんなに分かりやすい作品だったのか、、、というのが、今回見終わっての正直な感想です。最初見た時は、別に分かりにくいというほどではないけれど、うーん、、、みたいな感じだったわけで、これって、年の功なんですかね。

 “分かりやすい”という言い方は語弊があるかも知れませんが、 ストーリーは極めてシンプルで明快でしょう。だからこそ、受け止め方は人それぞれになるかと思いますが、、、。

 天使は、子どもと一部の大人にしか見えない存在で、人間たちの心の声が聞こえて、色彩のない世界に生きていて、空間移動は自由にできて、、、。という、割と類型的な設定です。純粋無垢、というと陳腐だけど、邪心がない存在の象徴、みたいな感じでしょうか。

 印象的なのは、地下鉄の中で人生に悲観して「どうせ破滅だ!」とか心の声が言っていた男に、ダミエルがそっと優しく顔を近づけると、ふと気持ちが軽くなって前向きになって、「どうした? まだ大丈夫さ。望みさえ捨てなきゃ何とかなる」という心の声に変わるところ。一方、ダミエルの親友、天使カシエル(オットー・ザンダー)が、自殺しようとビルの屋上にいる若者に気付いて、若者の背後に寄り添うのだけれど、若者は屋上から飛び降りてしまうというシーンも。

 天使は、つまり、別に万能の救世主なんかじゃなく、基本的には無力で、存在意義がよく分からないのだけれど、時にはなぜか人の心に何かを感じさせる。、、、まあ、あまり天使とは何かを追及することに意味はないと思いますが。


◆ピーター・フォーク

 ピーター・フォークは、彼自身の役で出演しています。そして、彼は、“元・天使”という設定。「見えないけど、いるんだろ? 見えないけど、感じる」と言って、天使ダミエルにコーヒーを飲みながら語り掛けるシーンが、なかなか好きです。彼は、見えないダミエルに向かって「手がかじかんだらこうしてこすりあわせると、暖かくなって気持ちいいんだ。君と話がしたいなあ。こっちにおいで。顔が見たい」と話し掛けて、握手を求めます。

 ダミエルが人間になる決意を固めたのは、彼とこの会話をしたからでしょう。

 ダミエルが人間になって真っ先に会いに行ったのが、元・天使のピーター・フォークです。「もっと背が高いと思った」などと彼に言われながら、この世での処世術をちらりと教示してもらったりして、ダミエルは嬉しそうにしています。

 ダミエルと、ピーター・フォークの絡むシーンは、どれも心温まります。


◆なぜ僕は僕で、君ではないのだろう?

 こういう映画に対して、“何が言いたい作品なのか”をネチネチ語るのは野暮ってもんでしょう。別に、そんなこと、本作ではどーでも良いという気がします。日常があって、人間の営みがあって、そこには、良いことも悪いこともごちゃ混ぜにあって、、、てことが、天使という存在を通して描かれているんだと思います。

 天使ダミエルが語る詩に、「なぜ僕は僕で、君ではないのだろう?」というのがあります。これ、私が子どもの頃、しょっちゅう考えていたことでした。「私」という存在、「あなた」という存在、別々の存在って何なんだろう、、、? と、不思議で不思議で仕方ありませんでした。……というより、今でも不思議に思うことがよくあります。

 同じ空間にいて、手を繋げば、互いにそのぬくもりを感じるけれど、あくまでも別々の存在。その空間から出て、別々の方向に歩きだしたら、もう別々。さっきまでそこにいたあなたは、今どこで何しているのか、私にはわからない。

 ……という、当たり前のことが、とても不思議です。だから、この詩を聴くと、何というか、心にじゅわ~~っと生暖かいものが広がる感じがするんです。


◆美しいベルリンの街並み

 本作は、そのタイトル通り、ベルリンの街並みがたくさん出てきます。今はなきベルリンの壁。中でも、西ベルリン側の、サイケな落書きだらけの壁が印象的です。この2年後、壁が壊れるなんて、本作を初めて見た時、想像もしていませんでした。

 広い図書館が何度か出てくるのですが、この図書館の建物がすごくステキです。図書館の静寂と、人々の心の声と、天使たち、、、が画になっています。モノクロが効いてるんだよなぁ。


◆元祖“意識高い系”映画

 本作は、公開当時、なんというか、今でいうところの“意識高い系”の人たちがこぞって絶賛していたことから、“気取った映画”みたいに受け取られる向きもありましたねぇ。そんな、本作には何の責任もないことでヘンな宿命づけられてしまって、ちょっと気の毒というか、、、。穿って見られていたのは否めないと思います。

 ただまあ、確かに好き嫌いが分かれる作品だとは思います。私も、ダラダラ長いなぁ、と感じる部分もあります。

 それを踏まえて、でも、嫌いじゃないです。気取った映画だとは最初から思わなかったし、30年後に見てもやはり思わなかった。ダラダラも、人間の普通の生活って、こういうダラダラというか、傍から見れば無意味なことの積み重ねだもんなぁ、と思えば、そういう描写もアリかな、と。

 最初見た時にアンチになった方も、今見てみると、案外フツーに見られるかも知れません、、、。


◆再びどーでもよいハナシ

 ちなみに、Q男は、眠ることなく最後までちゃんと見ていて、中でもダミエルが人間になって、手についた赤い血を見て感激するシーンに、いたく感じ入った様子でした。その後、Q男のことを知れば知るほど、ヒジョーに見当違いな映画に誘っていたことが分かりましたけれど。

 映画に対する感想や印象って、作品によっては、誰と見たか、いつ見たか、どんな境遇で見たか、ってことに、ヒジョーに左右されるものなんだなぁ、とつくづく思います。





あなたのそばにいるあの人は、実は元・天使かも知れない。




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ランジェ公爵夫人(2006年)

2016-05-09 | 【ら】



 以下、amazonよりコピペです。=====

 ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠、ジャック・リヴェット監督が文豪・バルザックの名作を映画化。19世紀初頭、パリの貴族社会を舞台に繰り広げられる残酷な愛の駆け引きを描く。ジャンヌ・バリバール、ギョーム・ドパルデューら豪華キャストが共演。(「キネマ旬報社」データベースより)

 文豪バルザックの名作を巨匠ジャック・リヴェットが完全映画化! 19世紀初頭、パリの貴族社会を舞台に繰り広げられる命懸けのラブストーリー。時は1823年。ナポレオン軍の英雄モンリヴォー将軍は、スペインの修道院で一人の修道女との再会を果たす。それはかつて愛したランジェ公爵夫人だった…。(「Oricon」データベースより)

 =====コピペ終わり。

 もっと古い映画かと思ったら、10年前のだったのですね。 ジャック・リヴェットといえば『美しき諍い女』が有名ですが、これも、男と女の心理的葛藤物語という点では共通している、、、のか。

 
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 またしても、記憶にないDVDが到着。リストに入れた時は、間違いなく“見たい”と思ったから入れたはずなのに。何を見て、“見たい”と思ったのかが、まるで思い出せません、、、ごーん。

 ちなみに原作は未読です。『美しき諍い女』がダメだった私には、本作もイマイチでした。


◆親父より100倍イケメンなギョーム

 モンリヴォー将軍を演じているのは、ギョーム・ドパルデュー。そう、あのジェラール・ドパルデューはお父上。

 それにしても、瓢箪から駒と言っては失礼かもしれないけれど、あのお父上からは想像もできない美男子なギョーム。美人薄命じゃないけど、やはり美男子も早く神に召されてしまうのですかね……。亡くなったニュースを聞いたときは、かなり衝撃を受けました。だって、37歳ですよ? 若すぎます。子の葬式に出なければいけない親の気持ちはいかばかりか。お父上のことは俳優としては正直、好きじゃないけれど、ギョームを失った時の気持ちは想像を絶します。

 ギョームは若い頃にバイク事故が原因で足を片方切断していたそうですが、本作でのモンリヴォー将軍は、戦闘で負傷し義足という設定のようで、わずかに足を引き摺るその様が、なんとも言えない色気を醸し出してもいます。原作ではどうなのか知りませんが……。

 とにかく、お父上のようなあか抜けない醜男ではなく、多少のゴツさに遺伝を感じるものの、品があって知性を感じるイイ男です。ネットで見たら、お母様がやはり美女でした。、、、すごく納得。


◆これがコケットリーなんだ?

 で、本作は、いわゆる19世紀の貴族社会における恋愛を描いたものだそうなんですけれども、現代の超速スピード文化に慣れ切った者としては、このモンリヴォー将軍とランジェ公爵夫人のやりとりは、ハッキリ言って“何やっとるん、この人たち、、、??”という素朴な疑問を抱いてしまうのです。

 ランジェ公爵夫人は、“コケットリー”を知り抜いている貴婦人だそうです。コケットリーとは、広辞苑(第5版)によると、「嬌態、媚態、あだっぽさ」。では、嬌態とは何かというと、「なまめきこびる色っぽい態度・様子」とあります。

 ですが、、、。本作でランジェ公爵夫人が、モンリヴォー将軍にしていることは、ただの「意地悪」じゃん? 自分に気があると知っていて、自分も憎からず思っているけれども、すんなり相手のモノになっては下品(?)だから焦らす、、、とにかく焦らしまくる、という作戦で、その焦らし方がこの当時の上流社会における“コケットリー”なんだとか。

 その焦らしの場面での2人の会話が面白いかというと、別にそうでもなく、、、。これがバルザックの描くコケットリーなんですかねぇ。

 確かに、公爵夫人は、胸が大きく開いたドレスを着てソファにしなだれかかったり、胸を突き出すようにして将軍に接近したりするので、色っぽい態度といえばまあ、それはそうでしょう。

 どちらかというと、コケットリーというよりは、単に“恋の駆け引き”を楽しむ、スリルを味わう、みたいな感じでしょうか。ただ、何度も何度も公爵夫人の下へ通ってはいなされてばかりの将軍で、2人のダラダラとしたスリルのスの字も感じられない会話ややりとりを見ていると、大変下品で恐縮ですが、「さっさとやることやっちゃえば?」と思っちゃうんですよねー。

 実際、そんなダラダラを繰り返したばかりに、2人は大後悔をするハメになるのですよ? それのどこがコケットリーじゃ。男と女なんて、寝て何ぼじゃないでしょーかねぇ。寝ないで何が分かるか、っての。寝てもいないのに、「心底愛した」とか言ってるのは、ハッキリ言ってすご~く陳腐に聞こえます。


◆ジャンヌ・バリバールが痩せ過ぎで色気ゼロなのがイタい

 コケットリーとか言うわりに、肝心のランジェ公爵夫人を演じたジャンヌ・バリバールがとてもじゃないけれど、嬌態・媚態には程遠いルックスってのも、本作に入り込めない大きな要因の一つですかね。これを、イザベル・アジャーニが演じていたら、ゼンゼン違っていたと思うし、アジャーニの方が合っていたと思います。彼女の場合、そこにいるだけでコケットリーでしょ。コケットリーを具現化した役者が、イザベル・アジャーニその人です。

 ジャンヌ・バリバールは、美しいとは思うけれど、剣のある顔で、ちょっと、、、。体も細過ぎて、胸を強調しているけど、あまり豊かなバストには見えず、、、。どっちかというと、美しい割に男運が悪い、だからイライラしていて神経質な女、みたいな役の方が合っている気がします。

 でもこのジャンヌ・バリバールさんは、あのマチュー・アマルリックとの間にお子さんがいるのだとか! へぇ~!!


◆修道院の陰惨さ

 冒頭のシーンが強烈です。いきなり、修道女となった公爵夫人と将軍が再会するのですが、それが鉄格子越しです。鉄格子の向こうに薄暗い空間があり、おっきな黒い十字架が壁に掛けられ、その前に公爵夫人と付添いのシスターが立っています。何とも言えない陰惨な雰囲気で、いわゆる性の悦びを厳禁するカトリックの過剰な抑圧空間という感じ。

 そしてラストもまた修道院。公爵夫人は、青ざめた顔をして横たわっています。、、、自死してしまったのです。なぜか?、、、分かりません。何の説明もありません。


◆原作は連作モノの一篇

 さて、原作を書いたのはあのバルザックなんですが、私はバルザックの小説で読んだものといえば「従妹ベット」だけでして、それも同タイトルの映画を見て読んでみようと思ったワケですが、あまりの小さな字と古めかしい訳文と分厚い1冊ずつの全2巻に、内心ひぃひぃ言いながらどうにか読破したものの、読み終えたときに、一体どんなストーリーだったっけ、、、? てなザマでした。今読んだら、もう少しマシなんでしょうかね、、、。

 ただ、そのようにストーリーがすんなり頭に入ってこなかった理由は、小説にも原因があり、というか、ハッキリ言ってものすごいヘンなんですよ。もう詳細は忘れましたけれども、バルザックという人について私はほとんど無知ですが、「従妹ベット」を読んでいるときに感じたのは、こんな小説を書く人は変人に違いない、ということでした。

 本作の原作は、「十三人組」という連作モノで、そのうちの一つが、この「ランジェ公爵夫人」だそうです。「十三人組」は、いわゆる13人からなる秘密組織のお話で、本作中でも、何の説明もなく、その秘密組織の一味と思われる男たちが現れて、公爵夫人を拉致したり、修道院から公爵夫人の遺体を盗み出したりという描写があります。ハッキリ言って見ているときは???なんですが、原作の成り立ちを知れば、なるほど、というところでしょうか。







『美しき諍い女』が好きな方は合うかも、、、。




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スポットライト 世紀のスクープ(2015年)

2016-05-02 | 【す】



 2001年、アメリカ・ボストンの地元紙、ボストングローブに新しい編集局長バロンが就任した。バロンは着任するなり、ゲーガン事件を取り上げたコラムについての掘り下げが足りないことを指摘、ゲーガン事件には背景があるはずだと見抜き、特集記事を扱う“スポットライト”チームに事件の真相をもっと探れと冷徹に指示を出す。

 ゲーガン事件とは……、ボストンのカトリック教会の神父ゲーガンが複数の子どもに性的虐待を働いていたことが明るみに出たもの。
 
 読者の半数以上をカトリック信者が占めるボストングローブにとって、カトリック教会は、いわばアンタッチャブルな領域だったのだが、バロンの指示に動き出すスポットライトチームの記者たち。取材を進めるにつれて、この事件は一神父の疑惑にとどまらないことが分かってくる。バロンの読みは当たっていたのだ。

 現実に、2013年、ローマ教皇ベネディクト16世が辞任するに至った一連の大スキャンダルの発端となったスクープ記事が世に出るまでの、スポットライトチームの記者たちの苦闘を描く、地味で渋いドキュメンタリー風映画。

 
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 実話モノは、基本あまり得意じゃないのですが、これは結構イケそうな気がしたので劇場まで見に行ってきました。

 予感は的中。余計なドラマチック要素などを一切排したと思われる、実に地味で渋~~い作品でございました。あくまでも現実に起きたことを世間に公開したい、という純粋な思いで作られたことを感じさせられる、マジメな映画でした。


◆平均:4%

 しかし、、、ボストンだけで90人近い神父が子どもに性的虐待を働いていたということが事実だってんだから、恐ろしい。、、、と思ったけれど、この数値は、別に驚くような数値じゃないらしい。パンフの町山氏の解説では、アメリカ全体の男性人口に対する性犯罪者率と比べても、カトリック聖職者内の性犯罪者率は高くない、、、普通ということだそーです。聖職者11万人のうち、虐待者は約4400人だったとか。つまり、4%。4%って、アベレージなんだ、、、。0.4%じゃないのね。

 ……ということは、日本ではどうなのかというと、日本の人口1億人として、400万人が、、、!? がーん、、、。

 しかし、一人の神父が何十人もの子ども(ほとんどが少年)を餌食にしていた、というその被害者の数字は、やはり明らかに異常な数字らしい。この事件での問題もそこであって、カトリックが組織的にこういう神父を野放しにし、いや、むしろ世界各地の教区に転属させることで被害を拡散させたのだから、これはカトリック、バチカンの罪は重いでしょう。


◆神父は神か?

 神父が妻帯を禁じられているから、という原因論が作中でも出てきましたが、そういう問題じゃない、これは。神父は、餌食にする子を周到に狙い、表沙汰にならないように二重三重に手を打つんだから、分かっていてやっているわけです。病気じゃない。神父としての絶大な権力を実感したかったんじゃないか。それが明るみに出ないことで、さらに自らの権力の絶大さを味わい、究極の悦楽に浸ったのではないでしょうか。

 カトリック信者にとって、神父とは神にも等しい、極端に言えば、イエスの化身みたいな存在らしい。、、、信者でない者から見ると、もうそれ自体が異常だとしか思えない。神父だって、喰って出すだけの人間ですよ、って。何が“神”だよ。バカバカしい。

 辞任したベネディクト16世も、ドイツのある教区で枢機卿を務めていたときに、教区内のある神父による子どもの性的虐待の隠蔽に加担していたとか。

 しかし、、、教会って、歴史的に見ても実に大きな罪を繰り返してきていますけれども、どうしてカトリックって廃れないんですかね。宗教って何のためにあるのでしょうか? 本当に分かりません。


◆彼らの取材の目指すもの

 、、、というわけで、バロンは、まさかバチカンにまでコトが及ぶとは思ってはいなかったようですが、少なくとも、ボストンのカトリック教会全体が組織的に隠ぺいしていることを、コラム1本読んだだけで直感するというのは、さすがです。バロンがユダヤ人ということも、関係ないとは言えないかもですね。

 スポットライトチームは、リーダーのロビー(マイケル・キートン)を始め、たった4人なんですが、彼らは実によく動き、粘ります。印象的だったのは、サーシャ(レイチェル・マクアダムス)が、かつて性的虐待を働いたと思しき神父を訪ねるシーン。今は隠居の身らしいその元神父は、あっさり性的いたずら(?)の事実を認めたかと思うと、こう言い放ちます。「あれは強姦じゃない」 見ていて、正直、吐きそうになりました。

 本作は、飽くまでスポットライトチームの真実へのアプローチが主題ですので、虐待行為や現役の神父たちと記者がやりあうシーンは皆無です。とにかく周辺者の取材を丹念に行います。被害者、元神父、精神科医、弁護士、、、などなど。どの取材対象に聞く話も、それはもう、恐ろしいというか、信じられないような内容ばかり。

 一番衝撃的だったのは、実は、教会と示談交渉していた弁護士が、20年も前にボストングローブ社に、神父による子どもへの性的虐待を告発していたこと。そして、それについて、ボストングローブは埋め草記事にしただけで、まったく動かなかったこと。その当時の担当がロビー本人で、彼自身、何で動かなかったのか記憶にないと言っていましたが、、、。恐らく、相手がカトリック教会ということで、思考停止になっていたのでしょう。

 マーク・ラファロ演じるレゼンデスが決定的証拠を掴んだ後の、チーム内の激しい葛藤が見ものです。早く記事にしようと焦るレゼンデスに対し、カトリックという組織の犯罪であることを暴かなければダメだというロビーとバロン。ロビーは、この取材が、ただのスクープではなく、被害者の根本的な救済と、再発防止につなげなければいけない、事件を矮小化させてはならないという、本質を弁えていたわけです。レゼンデスも頭ではそれを分かっているけれども、他紙に嗅ぎつけられたくない、スクープをものにしたいというチンケな記者根性が頭をもたげてしまった、ということでしょう。この、編集部での激論が、本作の最大の見せ場でしょうか。

 こういう報道に携わる記者の仕事というのは、結局のところ、自分が取材し世に送ろうとしているものが何につながるのか、という本質をきちんと踏まえていないと、非常に危うい仕事です。まあ、当たり前のことなんですが。、、、やはり記者も人間、欲にかられて誤りを犯すことは、普通に目にすることですが。本作での記者たちもたくさんの間違いを犯してきたはずです。このスクープでそれらが帳消しになる訳でもなく、常に、自らと向き合わなければならない過酷な仕事です。

 マスゴミなどと揶揄されますが、もちろん、批難されるようなメディアや報道は多々ありますが、こうして地道に、過酷な仕事を黙々とこなしている記者も大勢いるはずです。そういう人たちに、まさにスポットライトを当てた本作は、同業者たちに希望とやる気を与え、初心に立ち返らせるパワーがあると思います。


◆ジョン・スラッテリーがイイ!

 マイケル・キートンは、チームリーダーとして清濁併せ飲むベテラン記者を渋く演じています。マーク・ラファロは、なんというか、ちょっと野生児っぽい、粗削りな猪突猛進型の男を、ほとんど地でやっているのでは? と思わせる熱演ぶり。バロンを演じたリーヴ・シュレイバーという方も、キレる男という感じが良く出ていてなかなか素敵でした。

 ロビーの上司で編集部長のベン・ブラッドリー・Jrを演じたジョン・スラッテリー、TVドラマ「デスパレートな妻たち」以来目にしました。デスパでの金持ちで高慢な市長役とは打って変わって、一本筋の通った頭の良い男で、すんごいカッコ良かった! 

 パンフに、実在の記者と、演じた役者の2ショット写真が出ていて、どれもイイ感じの雰囲気です。これを見るだけでもパンフを購入する価値あるかも。




ますます宗教がよく分からなくなりました。




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コメント (2)
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