映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ボーダー 二つの世界 (2018年)

2019-10-20 | 【ほ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67282/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 スウェーデンの税関に勤めるティーナは、違法な物を持ち込む人間を嗅ぎ分ける能力を持っていたが、生まれつきの醜い容姿に悩まされ、孤独な人生を送っていた。

 ある日、彼女は勤務中に怪しい旅行者ヴォーレと出会うが、特に証拠が出ず入国審査をパスする。ヴォーレを見て本能的に何かを感じたティーナは、後日、彼を自宅に招き、離れを宿泊先として提供する。

 次第にヴォーレに惹かれていくティーナ。しかし、彼にはティーナの出生にも関わる大きな秘密があった――。

=====ここまで。

 『ぼくのエリ 200歳の少女』と同じ原作者の小説を映画化。“各国の映画祭で「ショッキング過ぎる」と話題になったシーンがあったが、製作者の意向を汲み修正は一切無し、ノーカット完全版での日本公開を決定。”とのこと。

 

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 『ぼくのエリ 200歳の少女』は未見なんだけど、“ヴァンパイアもの”ということは聞いていたので、見る気がしなかったんだが、本作を見たら、『ぼくのエリ~』も見てみようと思った次第。

 これから本作を見ようと思っていらっしゃる方は、上記あらすじ以上のことは知らずに見た方が面白いと思います。以下、ネタバレバレなので、よろしくお願いします。

 

◆「ショッキング過ぎる」シーンとは、どんなシーンか。

 チラシを見たときから興味津々、公開を待っていた本作。期待に違わぬ問題作で、私の想像のはるか斜め上を行く展開に唖然ボーゼンとなって劇場を後にいたしました。正直、こんな映画見たことない、、、という感じ。ホラーの名作なんかよりも衝撃度で言えば強いかも。

 いや、「ショッキング過ぎる」シーンがあるというのは事前に聞いていて、それが私の苦手な刃物でメッタ斬りとかの“痛い系”だったらイヤだなぁ、、、と思って、見ながら中盤まで“今か今か、、、”と身構えながら見ていたんだけど、そのシーンは思いがけずに展開し、ゼンゼン痛くないけど、確かにまぁ、え゛ーーーーっ!!て感じではあった。でも、その伏線は序盤にちゃんとあって予告されていたので、私としてはそのシーンのおかげで結構、いろんなことが腑に落ちたのでありました。

 ……て、本作を未見の方には“なんのこっちゃ?”でしょうが、こんなのを読む方は既に本作を見ている方に違いないと思うので、ここから先はぶっちゃけますのであしからず。

 つまり、ティナの股間から性器が伸びてきたのを見て、“ああ、そーゆーことか!”と。だから、ヴォーレは人間で言う女の身体の構造をしていたわけね、と。

 でも、だから本作が衝撃的というわけではない。本作から感じる衝撃は、人間だと思っていた自分が、実は人間じゃなかったと知る、、、という、アイデンティティを根底から覆されるところにある。しかもティナは人間で言えば40代くらいの年齢で、40年以上、“自分は〇〇だ”と思っていたことが、ゼンゼン違った!と突き付けられた衝撃は想像を絶する。

 アイデンティティの崩壊をテーマにした話なんてゴマンとあるけど、本作の場合、それがホラーとかSFとかファンタジーでなく、非常にリアルな世界と地続きに“トロル”という存在が提示されるところがすごく面白い。だから、タイトルの“ボーダー”が非常に効いていると思う。

 しかし、ティナのように、それまで生きにくさを感じ、何か周りと違う自分を自覚していた場合に、“実は〇〇じゃなくて、△△だったのだ”と分かると、衝撃を受けた後に、どこかホッとするというか、納得する部分もあるのではないか。

 ティナも、かなりの衝撃を受けてはいたが、案外、自身がトロルであることに納得した感じが見て取れた。自身がトロルと分かって以降は、以前は「気持ちワルイ」と言っていた“虫食”を自ら進んで実践していた。

 むしろ、彼女が受けた衝撃は、自身がトロルであったということよりも、自分の実の父だと思っていた男が養父であり、実の親は(恐らく)迫害を受けて密かに葬られていた、ということにあったようだ。自身がトロルであるとヴォーレに聞いたときより、養父に対する取り乱し様の方が印象的だった。養父はティナがトロルだと知っていて養女にしたのだろうが、迫害する側に加わっていた可能性は十分あるし、恐らくそうなのだろう。そうすると、ティナとしては自身のアイデンティティが股裂き状態となり、混乱するのは無理からぬ。

 トロルというとファンタジーっぽく聞こえるが、何年か前に見た『サーミの血』で描かれたサーミ人などの原住民の迫害と重ねると、これはかなり示唆的な作品だとも思える。終盤、ティナが両親の埋葬されたと言われる精神病院の裏にある墓地を訪れるのだが、その墓地の光景が、一目で両親が迫害されていたことを想像させる。

 

◆ボーダーレスからボーダーへ。

 本作では、幼児に対する性的虐待(幼児ポルノ)が横糸となっているのだが、これが結構効いている。ティナが嗅覚を発揮するのも、特にこの手の犯罪に対してである。しかも、その犯罪には同じトロルとして愛し始めていたヴォーレが絡んでいることで、ますます話は混沌としていく。

 ヴォーレは幼児ポルノのために、ヴォーレ自身が時々産み落とす無精卵ならぬ“無精児”を提供し、人間の幼児とすり替え(チェンジリング)てしまっているというんだが、この辺は非常におぞましい。ヴォーレは産み落とした無精児を箱に入れ、それを冷蔵庫に入れて面倒見ているという、、、その辺の描写も結構リアルで不気味。それを見付けてしまったティナの動揺もよく分かる。

 すり替えた人間の幼児がその後どうなっているのかは分からない(多分殺されているのだろう)。無精児の方は、もともと不完全な生き物だから長く生きられずに死んでしまうらしい。

 結局、ヴォーレは人間の幼児性虐待という犯罪を通じて、トロルを迫害してきた人間に復讐している、と言うのだが、この辺からティナのトロルとしてのアイデンティティも揺らいでくるのが、見ていて辛い。

 悩んだ挙げ句にヴォーレを警察に突き出すものの、ヴォーレはフェリーから海に飛び込み行方知れずに。その後、しばらくしてティナの下に送られてくるのは、以前ヴォーレが冷蔵庫に入れていた様な箱。開けてみればそこには、無精児ではなく、明らかにトロルの赤ん坊が入っている。つまり、ティナとヴォーレの子、ということだろう。ヴォーレは放浪のトロルであることを考えると、その箱に「1000個の湖がある国フィンランドへようこそ」と書かれた絵はがきが入っているのが暗示的。

 ティナはこれまで人間と同化してボーダーレスに生きてきたが、はたして、この赤ん坊を幸せそうに胸に抱いた後、彼女はこれからどうやって生きていくのだろう。前述の『サーミの血』で、主人公のエレはサーミと決別して生きたが、ティナはこれからトロルとして人間界とはボーダーを画して生きていくのか。

 考えてみれば、ティナは、コンプレックスに悩むという設定だけど、ちゃんと仕事もあるし、同棲するパートナーもいるし、ご近所とはうまくやっているし、人間社会においてはゼンゼン真っ当で、むしろ十分(嫌な言葉だけど)“勝ち組”なんでは? とさえ思う。ヴォーレとの出会いがなければ、そこそこ穏やかにこれからも生きていったのではないか、、、。

 ……まぁ、とにかく、見て損はない映画だと思います。  

 

 

 

 

 

 

ときどき出てくるキツネが可愛い。

 

 

 

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蜜蜂と遠雷(2019年)

2019-10-19 | 【み】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66490/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 3年に一度開催され、若手ピアニストの登竜門として注目される芳ヶ江国際ピアノコンクール。

 かつて天才少女と言われ、その将来を嘱望されるも、7年前、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた栄伝亜夜(松岡茉優)は、再起をかけ、自分の音を探しに、コンクールに挑む。

 そしてそこで、3人のコンテスタントと出会う。岩手の楽器店で働くかたわら、夢を諦めず、“生活者の音楽”を掲げ、年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑むサラリーマン奏者、高島明石(松坂桃李)。幼少の頃、亜夜と共にピアノを学び、いまは名門ジュリアード音楽院に在学し、人気実力を兼ね備えた優勝大本命のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)。そして、今は亡き“ピアノの神様”の推薦状を持ち、突如として現れた謎の少年、風間塵(鈴鹿央士)

 国際コンクールの熾烈な戦いを通し、ライバルたちと互いに刺激し合う中で、亜夜は、かつての自分の音楽と向き合うことになる。果たして亜夜は、まだ音楽の神様に愛されているのか。そして、最後に勝つのは誰か?

=====ここまで。

 2017年に史上初の直木賞&本屋大賞をW受賞した恩田陸原作、同名小説を映画化。

 

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 原作も読んでいないし、見に行く予定もなかったのだけど、たまたまEテレの「ららら♪クラシック」を見たら、本作の特集をオンエアしていて、その中で、本作のオリジナル曲「春と修羅」を作曲した藤倉大氏のインタビューがあって(藤倉氏のことは名前くらいしか知らない)、それで興味を持った次第。ちょうど6ポイント鑑賞も溜まっていることだし、タダならいいか、、、と思って劇場へ。

 タダで見ておいて文句言うな、と言われそうだけど、感じたままを書きます、もちろん。

 

◆刈り込み跡が痛々しい、、、。

 まず、これは原作を読めば分かることなんだろうけど、本作を見る限りタイトルの『蜜蜂と遠雷』の意味がさっぱり分からん。遠雷に関しては、ほんの少し遠くに雷が鳴っているシーンがあるが、だから何だ?というレベル。蜜蜂に関しては、風間塵のお祖父さんだかが養蜂家かなんかで、、、というエピソードがセリフで出てくるだけなので、ますます謎。

 原作ありきの映画化なので、タイトルを変えられないんだろうけど、だったらもう少しタイトルを感じる描写があっても良くない? と、ちょこっと思った。

 ……とまぁ、それはともかく、これはかなり原作を大幅にカットしたんだろうなぁ、、、、ということがもの凄くよく分かる映画でありました。一番それを感じたのは、二次審査の後にすぐ本戦の話に飛んだから。そんな大きなコンクールで、予選が二次までしかないのはあり得ないし、原作では当然三次の描写があったに違いなく、ということは三次は本当はあったけど、ストーリーとしてはカットしたんだろうな、、、と。

 あとは、主要4人のエピソードがブツ切りで、絡ませ方が強引かな、と。亜夜とマサル、亜夜と塵、それぞれがコンクールで顔を合わせるシーンがあるけど、コンテスタントって誰が出るかなんて絶対把握しているはずなので、「あれ、いたの?」的な会い方はヘンだよね、かなり。多分、この辺は原作にはきちんと背景から微妙な関係性まできちんと描写があるに違いない、と思わせる。

 原作モノの場合、別に映画は映画で独立した作品なので、原作に忠実である必要はないのだけれど、「あー、苦労してカットしたね、、、」と観客に感じさせる、ってのは映画のシナリオとしてはイマイチだろう、とは思う。難しいのは分かるけど、映像化はムリだと言われていた小説に手を出した以上、もう少し何とかならなかったのかな、と。

 敢えてモノローグを入れなかったのは正解だと思うが、オープニングを始め度々出てくる雨の中を疾走する馬のスローモーションのイメージ映像は、アレはナニ??状態。これも原作にはそれを創造させる描写があるのだろう。しかし、本作内ではゼンッゼン話に絡んでいなくて、かなり違和感。スローモーションを多用するのはダサいと思っている者としては、ああいう意味不明なイメージ映像はちょっと見ていて萎える。

 ……などなど、原作を刈りまくったんだろうなという痕跡があちこちに感じられて、ちょっと音楽を堪能する気分になれなかった。

 

◆ピアノ曲「春と修羅」

 で、私が一番本作で興味があったのは、本作内での架空の課題曲「春と修羅」でありました。この映画のために藤倉氏が書き下ろしたというピアノ曲だそうで。

 「ららら♪クラシック」の番組内でも河村尚子さんが弾いていたんだけど、なかなかステキな曲だった。主要4人のために、それぞれカデンツァも書き下ろしたということだったので、それも聴きたかった。

 そのタイトルどおり宮沢賢治の詩から連想する曲ということになっている。いかんせん、私は音楽の感想を書くのが恐ろしく下手クソなので控えておくけれど、水の流れをイメージするような全体像の中に、4つのカデンツァが4人の音楽性の違いを際立たせるようになっている。私が一番いいなぁ、、、と思ったのは、明石版カデンツァ。音も明石の音が私は一番好きだな。ちなみに、明石のピアノを弾いているのは福間洸太朗氏。彼のライブ演奏を聴いたことはないけど、クリアで美しい音だった。

 多分、カデンツァを弾かせるコンクールってあんましないのではないかしらん。本作では、コンテスタント自身に作曲させるようになっていて、亜夜などは直前まで「全く白紙」などと言っていた。もちろん世界レベルのピアニストが即興で弾けるのは不思議でも何でもないことだし、コンクールでカデンツァを課題にするのって、なかなか面白いなぁ~と思って見ていた。

 「春と修羅」面白い曲だった。CDも出ているみたいだから、買っちゃおうかしらん、明石版を。

 ただ、本戦の演奏は皆さん熱演だったけど、明石は二次で落ちちゃったから、一番聴きたかった人の本戦が聴けなかった、、、、というわけ。残念。

 役者さんたちは皆、相当ピアノの演奏の訓練をしたのだろう。手の動きや指の運び方など、決して付け焼き刃的な印象はなく、皆さん素晴らしかった。本物のピアニストっぽく見えたよ。

 

◆天才と秀才

 松岡茉優は、『万引き家族』でも絶賛されていたが、本作でも、この亜夜という人物の感情表現は難しかっただろうなぁと思う(モノローグがないからね)。ただ、本戦の前に、亜夜がコンクールから逃げ出そうとする描写があるんだが、こういうのが私はもの凄くキライで、逃げ出したくなるほど追い詰められるのは分かるが、そこで葛藤して立ち向かうからこそ一流なんだろうが、、、と思っちゃうんだよね。

 コンクールのドキュメンタリーはいくつか見たことあるが、どれも本戦に進むような人たちは、もの凄いプレッシャーと自分との闘いに立ち向かっており、地獄に引きずり込まれそうな不安と、強烈なプライドのせめぎ合いなのだ。亜夜みたいな根性なしのヘタレでは上位入賞は難しいと思う。本戦の試合時間に遅れそうになるなんて展開いらんから、胃がキリキリするような神経戦の描写を入れて欲しかったな~。それでこそ、世界有数のコンクールの舞台裏ってもんでしょ。

 出色は、明石を演じた松坂桃李でしょう、やっぱり。二次で落ちたところの独白シーンは、彼の演技力の高さを発揮する、本作での白眉です。本戦シーンよりも、私はこちらの方が遙かに印象深かったし、泣けた。明石自身は淡々としていたのにね。彼は、本当にこれからが楽しみな素晴らしい俳優だと思う。

 森崎ウィンくんと鈴鹿央士くんは、正直、あんまし印象に残らなかった。塵が練習に使っている木で出来た音の出ない鍵盤だけど、あれで本当に世界に通用するピアニストになれるのか、、、??とものすごーーーく引きました。

 3人の天才と、1人の秀才(明石ね)の物語なんだけど、天才たちの苦しみって、こんなもんじゃないだろうな、というのが率直な感想。峰高ければ、それだけ谷が深いのが道理。秀才は秀才の悩みがあるけれど、天才とは根本的に違うのよ。それを明石が実感する浜辺のシーンなどは印象深いが、亜夜と明石の苦悩は伝わってきても、あとの2人のはゼンゼン分からない。天才と秀才の対比、ということであれば、亜夜と明石の2人に主要人物を絞った方が良かったのかも知れない、と感じた次第。

 そして、何気に存在感を発揮していたのは、ここでもやっぱり平田満氏でありました。さすが、、、。   

 

 

 

 

 

つい、“ハチミツと遠雷”と思っちゃうんだよね、、、。

 

 

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家(うち)へ帰ろう (2017年)

2019-10-14 | 【う】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66333/

 

 アブラハム(ミゲル・アンヘル・ソラ)は、ブエノスアイレスに住む88歳の仕立屋。息子や娘たちは彼の家を売った上、その金で彼を老人ホームに入れることに決め、いよいよ明日は引っ越しという日になった。老人ホームで自慢するため、家族の記念写真を撮りたいと言うアブラハムのために皆が集まるが、孫娘の一人は写真を撮りたくないと言い、娘には「(糖尿病で悪くした)脚を切断しろ」と言われる始末。

 皆が帰った後、家政婦が「これどうします?」と一着のスーツをアブラハムに見せる。そのスーツは以前、アブラハムが仕立てたスーツだ。それを見たアブラハムは、ある決断をする。

 息子や娘の誰にも告げず、一人で空港に向かったアブラハム。スペイン・マドリード行きの便に席があると聞いて、脚を引きずりながら乗り込む。……果たして彼の決断とは?

 

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 昨年、公開中に見に行けずに終わってしまったので、ようやくDVDで鑑賞。

 

◆アブラハムとは何者?

 冒頭、アブラハムは息子たち家族に囲まれて記念写真を撮るシーンから始まるんだけど、ここで、孫娘とのちょっと変わったやり取りに、何となく、むむ?となって、気がつけば一気に引き込まれてしまっていた。

 どう変わっていたかというと、孫娘が写真嫌いだから自分は映りたくないけど、「iPhoneの最新機種を買うのに1,000ドルくれたら映ってもいい」と言う。で、そこからアブラハムと女の子の金銭交渉が始まるんだが、800ドルでお互い手を打つ。アブラハムが「バカだな、もう少し粘れば1,000ドル出してやったのに。200ドル損したな!」と言うと、孫娘は「バカはおじいちゃんだ。ホントはiPhoneは600ドル。おじいちゃんこそ200ドル損したね!!」

 で、アブラハム、悔しがるかと思いきや、「さすが私の孫だ、素晴らしい!」とご満悦なのである。

 なんちゅう家族、、、と思ったけど、これは後々、ああそうか、と思い至る。それは、アブラハムが突然マドリードに旅立った理由が徐々に明かされていくことで分かる。

 本作は、あまり予備知識なく見た方が良いのではないかと思うけど、知っていると面白くない、というわけではもちろんありません。以下、ネタバレですので、あしからず。

 アブラハムは、マドリードに行ったのではなく、その先に目的地があったのである。その場所とは、ポーランドのウッチ。アブラハムの生まれ育った場所だ。つまり、彼はユダヤ人で、ナチスの迫害を生き延び、第二次大戦後、アルゼンチンに渡ったのである。

 冒頭の孫娘との金銭交渉は、要するにアブラハム一族がユダヤ人であることを強調する描写だったのかなと。アブラハムには監督自身のお爺さんを投影させているという。監督がシナリオも書いているので、自虐ネタ的に、アブラハムがそうやって地球の裏側でユダヤ人社会を金だけを頼りに生き抜いたことを象徴するシーンかな、と感じた次第。

 

◆アブラハムは何故ポーランドへ?

 ~~以下、結末に触れています~~

 そんなアブラハムが、切断寸前の脚を引きずってまでポーランドへ行きたがった理由とは、旧い親友との約束を果たすため。その約束は「いつか君のためにスーツを作る」

 アブラハムの父親も仕立屋で、ウッチではポーランド人の使用人も雇ってそこそこ裕福な暮らしをしていたようだ。が、社会の風向きが変わり、一家は収容所送りになり、家はポーランド人の使用人家族に乗っ取られる。この使用人家族の息子ピオトレックが、アブラハムがスーツを作ると約束した親友。

 収容所から脱走してきたアブラハムを、元使用人は追い返そうとするが、息子のピオトレックは「お世話になった人の息子じゃないか!」と言って、アブラハムを地下にある以前の自分たちの家に匿う。ピオトレックに手厚く看護されたことでアブラハムは九死に一生を得、生き延びたというわけ。

 また、アブラハムには年の離れた妹がいた。当時10歳の妹はお話を創作するのが得意で、彼はこの妹をとても可愛がっていた。が、あと1か月で11歳だったのに、10歳だったから(?)妹は拘束され連れて行かれてしまい、トラックに乗せられる妹の姿がアブラハムの脳裏に焼き付いて離れない。

 こういう辛い過去の描写が折々に挟まれながら、あれほど嫌っていたドイツの地にも足を踏み入れ、恐らくベルリン駅で電車を乗り換える。その乗り換えた電車では、体調がさらに悪化したせいか、ナチスの兵士たちが列車に乗っている幻想を見てしまい、ぶっ倒れたりしながらも、どうにか目的地に辿り着き、かつて自分の住んでいた家、親友が助けて匿ってくれた家までやってくる。

 果たして、そこにピオトレックはいるのか。

 バッドエンドも予想できる展開だったので覚悟はしていたけれど、実にさりげなく、しかし感動的にピオトレックとの再会を果たすシーンでジ・エンドとなり、ホッとした。それまで抑制の効いた描写が続いてきたので、このラストはアブラハムの感極まる思いが溢れるようで感動的だ。

 そして、最後にピオトレックの言うセリフにジーンとなる。「家(うち)へ帰ろう」

 

◆素晴らしいシナリオ!

 アブラハムの人物造形が良い。偏屈爺ぃぽく見せているが、実はそうでもなくてユーモアがあって、おちゃめなところもある。だから、旅の途中で出会う人たち(1人を除いて皆女性ってところも笑える)に親切にされる。

 思わず笑ったのは、マドリード行きの飛行機内のシーン。

 アブラハムの席は、真ん中の列の真ん中だったが、左隣は空いていて、右隣に気の弱そうな男が座っている。アブラハムが度々話し掛けると、この男は明らかに迷惑そうにし、「ほっといてくれ」みたいなことを言う。アブラハムも「すまない」などと引くかに見せて、懲りずに話し掛けて男をウンザリさせ、挙げ句、男は席を移動する。男がいなくなると、アブラハムはニンマリして、3席我が物顔で横になって占領する、、、とか。でも、この男がマドリードでは親切にしてくれるのだ。

 あと、良いなぁと思ったのは、一貫してアブラハムを突き放した描き方をしているところ。これが、ラストシーンで効いているように思う。

 例えば、マドリードで泊まったホテルの主は、金にシビアで愛想のないマリア(アンヘラ・モリーナ)。でも、このマリアも意外に親切で、アブラハムが寝坊していると起こしに来てくれる。で、ここでマリアはアブラハムの腕に番号が刻印されているのを見てしまい、彼がホロコーストの生き残りだと分かるようになっている。

 また、アブラハムには実は絶縁した娘がマドリードにいて、そのいきさつをマリアに話すと、そのリア王みたいなエピソードにマリアは「自業自得ね」とバッサリ。有り金全部を盗難に遭ったこともあり、マリアに「(娘に)会うべきだ」と背中を押され、娘に金の無心に行くんだが、さしもの偏屈爺ぃも、ここでは過去の自分の愚かな行為を娘に素直に謝る。となると普通は、そこで父娘の涙の和解、、、的なシーンを描きそうなモノだが、この監督はそうしない。娘はアブラハムに素っ気ないが、アブラハムの腕に刻印されている数字と同じタトゥが娘の腕にあるのをチラッと見せる。お金をアブラハムに渡す描写もないまま、次のシーンではアブラハムは電車に乗る場面になっている。

 ベタな父娘の和解シーンは描かなくとも、娘の父に対する気持ちを見せ、お金を父に渡したことも分かるよう、最小限の描写に徹している。

 本来なら深刻になりそうなシーンも、コミカルに描いている。アブラハムは、「ポーランド」「ドイツ」という固有名詞を絶対に口にしたくなくて、パリで電車を乗り換える際も、駅のインフォメーションで「ポーランド」「ドイツ」と国名を紙に書いて「ドイツを通らずにポーランドに行きたい」と訴える。このシーンが結構可笑しい。……で、フランス人が理解できずにいるところへ、一人のドイツ人女性が彼に助け船を出すが、彼女がドイツ人と知ってアブラハムは、、、という具合に、ストーリーも重層的かつナチュラルに展開していくあたりは、素晴らしいシナリオだと感心してしまった。

 アブラハムを演じたミゲル・アンヘル・ソラが実に良い。アルゼンチンの名優らしい。一つ間違うと、ただの憎ったらしい爺ぃになりかねないところを魅力たっぷりに演じている。本作の味わい深さはこの方に負うところ大だろう。

 

 

 

 

 

アブラハムの脚は切断せずに済むことになりました。ホッ、、、

 

 

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パリに見出されたピアニスト(2018年)

2019-10-11 | 【は】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67838/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。 

 忙しなく人が行き交う、パリの主要ターミナル 北駅。耳を澄ますと、喧騒の中に美しいピアノの音色が聴こえる。

 ご自由に演奏を!

 そう書かれたピアノに向かうのは、おおよそピアニストとは思えない、ラフな格好をした一人の青年だった。彼の名はマチュー・マリンスキー。パリ郊外の団地で母親と妹、弟と暮らしている。決して裕福とは言えない家庭で育ったマチューは、幼い頃にふとしたきっかけでピアノと出会い、誰にも内緒で練習していた。クラシックは時代遅れだと思い、ラップを聴いている地元の仲間にバレたら、とんだお笑い草だ。

 ある日、マチューが駅でピアノを弾いていると、その演奏に足を止めた男が一人。パリの名門音楽学校コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)でディレクターを務めるピエール・ゲイトナーだった。マチューの才能に強く惹かれたピエールは、声をかけ名刺を渡すが、マチューは逃げるように去ってしまう。

 その夜、仲間と盗みに入った家でグランドピアノを見つけたマチューは弾きたい衝動を抑えきれず、警察に捕まってしまう。実刑を免れないと言われたマチューに手を差し伸べたのは、ピエールだった。コンセルヴァトワールでの清掃の公益奉仕を条件に釈放されたマチューは、ピエールからもう一つ条件を言い渡される。それは、女伯爵との異名を持つピアノ教師エリザベスのレッスンを受けることだった。ピエールは、マチューをピアニストに育て上げる夢を持ったのだった。

 望まないレッスンに、マチューは反抗的な態度。エリザベスも匙を投げかけたが、ピエールの進退を賭しての熱意に動かされてレッスンを続けることに。

 そして、ピエールは国際ピアノコンクールの学院代表にマチューを選ぶのだった。課題曲はラフマニノフの「ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調」。コンクールまで4か月。3人の人生をかけた戦いが、いま、始まるーー。

=====ここまで。

 

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 この秋は、やたらクラシック音楽がメインディッシュにのった映画が目に付くんだが、何で? そして、前回の『レディ・マエストロ』の記事でも書いたが、その手の映画は大抵ハズレなので、わざわざお金払って見に行って文句タラタラの感想を書くのがオチ。だったら見に行かなきゃ良いものを、やっぱり気になってしまうってのが我ながら困ったもんだと思う。

 ただ、本作は、ホントにハナから見に行く気はなかったんである。予告編からしてハズレの匂いがぷんぷんしていたから。

 だったら何で見に行ったの?? と言われそうだが、その理由は単純。某全国紙の映画評で、映画ジャーナリストの林瑞絵さんというお方が、こんなことを書いていたからだ。

 「炭鉱町の少年がダンサーを目指す英国映画「リトル・ダンサー」の影響下にある本作は、芸術に献身することの崇高さを思い出させる」

 この一文で、私は迷うことなく劇場行きを決めた。こんなこと書かれては見ないわけにはいかないのだ、私にとっては。『リトル・ダンサー』のタイトルを出した以上、それに見合った作品かどうかチェックされることは承知の上なんでしょうよ。

 ……というわけで、見に行って参りました。そして、予想どおり、、、というか、その遙か上を行くハズレ映画で憤りを超えて泣きなくなった。『リトル・ダンサー』の影響下、ってどこが?? 貧しい少年が才能を見出されて、未来が変わったってとこ? だとしたら、あまりにもお粗末。安易に、映画史に残る珠玉の作品のタイトルを語って欲しくないわ、マジで。

 

◆超自己チュー男、その名はピエール。

 まあ、文句を言いたいところはいっぱいあるけど、私が一番気に入らないのは、ピエールだね。こいつが本当に嫌だ。何でこんな人物設定にしたのか、理解が出来ない。

 ピエールってのは、主人公の不良青年マチューの才能を見出す音楽学校のディレクターなんだが、駅で一心不乱にバッハを弾くマチューを見付け、彼を名のあるコンクールに出そうと早々に決める。で、この決める理由がふるっている。普通に考えれば、それくらいマチューの才能に惚れたから、ってことだと思うでしょ?

 違うんだよね。

 このピエールって男は、自分の立場が危うくなっているどん詰まり状態を切り抜けるために、特異な経歴のピアニストとしてマチューを仕立て上げ、その話題性を狙い、ディレクターとしての名声を上げることを企んだのよ。……サイテー。

 まあ、結果的に天才を発掘したのだったらええやん、という結果オーライの見方もあるでしょう。でも、『リトル・ダンサー』云々というのなら、それはダメです。私が許さん。

 上司に、何年もコンクールの優勝者をこの学校から出していないことを責められ「クビだ」と言われたピエールは、臆面もなく「マチューを優勝させたら注目されるはずだから見ててくれ!」等と言うのである。んでもって、マチューが結果的にそのコンクールで優勝すると、ラストシーンではピエールのその後として、NYで出世を果たしている姿が描かれている。……この映画は、マチューが主役ではないのかね?

 『リトル・ダンサー』で、ピエールの存在に該当するのは、恐らくウィルキンソン先生だろう。でも、思い出して欲しい。ビリーがオーディションに合格してロンドンへ旅立つときのウィルキンソン先生との別れのシーンを。彼女は、ビリーの才能を伸ばすことだけを考えていたのでは? 自らは、再び炭鉱街のバレエ教室の先生にひっそり戻っていったではないか。「あなたの人生はこれからだ」とビリーにはなむけの言葉を贈って。だから、見ている方は感動するのでは?

 

◆音楽を何だと思っているのか。

 しかも、本作のタテ糸であるはずの“マチューの成長譚”としては、あまりにも平坦過ぎで、こんなんでコンクール優勝できるほど、プロの世界は甘くない。

 平坦にならないようにシナリオ的に苦心した跡は見られるが、とってつけたようなエピソードをいくつか継ぎ足した感じで、却って映画としての質を下げている。どんなエピソードかは、書くのもメンドクサイほどどれもこれもくだらない。しかもそれらをどうやって克服したのかも描かれていない。全て何となくスルーだなんて、観客をバカにしているとしか思えない。

 ……というか、本作全体に言えるのは、音楽に対する敬意が感じられないってこと。

 それが最も顕著に出ているシーンは、マチューがコンクールに遅れてきたシーンだろう。遅れてくるのも、まあ、現実には論外だが、それは百歩譲って良いとして、マチュー自身の行動ではなく、ここでもやはりピエールなのだよ、問題は。

 時間になっても会場に表れなかったマチューに代わり、本来コンクールに学校が出そうと考えていた男子生徒を代打で出すことになる。男子生徒は舞台に上がり、ピアノの前に座る。しかし、そこでマチューが会場に着いた、ってんで、ピエールが「出場するのはマチューだ!」とか叫んで、ピアノの前に座っている男子生徒は、満員の聴衆の前でマチューと交代させられるのである。

 こんな暴挙を許すコンテスト主催者も映画とは言えいかがなものかだが、そもそも、こんなシーンを書く制作陣こそクソ喰らえ、である。コンテスタントに、こんな屈辱を強いるシーンを描くということは、音楽家に対する敬意など微塵もないどころか、冒涜だ。もっと言えば、音楽を、ただの感動物語の道具としてしか考えていないから、こんな馬鹿げたシーンだ書けるのだ。

 一昨日見た『蜜蜂と遠雷』の終盤でも、盛り上げるためだと思うが、有力なコンテスタントが出場時間に間に合わないかも……! というシーンがあったけど、ああいうのはハッキリ言って邪魔なだけだからやめた方が良い(原作にもあるのか?)。そんな安っぽい仕掛けをしなくても、観客に手に汗握らせるストーリーなんていくらでもあるだろうよ、と思う。(映画としては『蜜蜂~』の方がマシだったと思います、念のため。感想はまた後日)

 

◆その他もろもろ

 マチューを演じていたのは、ジュール・ベンシェトリ。あの『アスファルト』でユペールと共演していて強烈な印象を残していた子が、青年になっていた。『アスファルト』では可愛かったけど、本作では、まあ、カワイイっちゃカワイイけど、役柄的にもあんまし好きじゃないのもあって、イマイチな印象だった。何でこんな駄作に出演したのか、不思議だ。

 というか、そういう意味ではもっと不思議なのが、クリスティン・スコット・トーマスが出ていること。彼女の役は、まあ、本作の中では一番マトモな役だと思うが、それにしても、、、である。相変わらず流暢なフランス語はさすがだし、演技もさすがなんだけど、なんかもったいない。

 ランベール・ウィルソンは、いい役者さんだけど、本作では役がちょっとね、、、。彼は、ピエールの人物造形に納得していたのかねぇ? 不思議だわ。

 あと、マチューは音楽学校で恋愛もするんだけど、ハッキリ言ってマチューの色恋なんかは本作ではいらんと思う。少なくとも、本作でのマチューの恋愛は、まったく存在意味がない。こういう、意味のないエピソードを入れている点でも、本作のシナリオはダメダメだ。

 ホントは、3つだったんだけど、クリスティン・スコット・トーマス好きだし、エリザベスは魅力的な女性だったから、1個プラスしました。

 ところで、監督のルドヴィク・バーナードというお方は、本作を“おとぎ話”として撮ったと言っている。おとぎ話ねぇ、、、。他力本願で成功を手に入れられるお話のことですか、おとぎ話って?

 

 

 

 

 

少なくとも私は、本作を見て「芸術に献身することの崇高さ」なんぞ思い出しませんでした。

 

 

 

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レディ・マエストロ(2018年)

2019-10-06 | 【れ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68259/

 

 以下、上記サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1926年、ニューヨーク。オランダからの移民アントニア(クリスタン・デ・ブラーン)は、指揮者を目指していた。

 女性は指揮者になれないと言われながらも、誰にも負けない音楽への情熱を持ち続けたアントニアは、ナイトクラブでピアノを弾いて学費を稼いで音楽学校に通うが、ある事件から退学を余儀なくされる。

 引き留める恋人を置いて、アムステルダムからベルリンに渡り、ついに女性に指揮を教えてくれる師と出会う。レッスンに没頭するアントニア。

 そんな彼女に、出生の秘密や恋人の裏切り、女性指揮者への激しいバッシングなど、次々に壁が立ちはだかる。

=====ここまで。

 1902年生まれの女性指揮者のパイオニア、アントニア・ブリコの物語。1989年没。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

 クラシック音楽を扱った映画は、大抵ハズレなので見ない方が良いと分かっているんだけど、割と見ちゃうんだよなぁ。だから、本作もゼンゼン期待しないで、むしろドン引きするのを恐れながら(じゃあ、見に行かなきゃええやん、と自分でも思う)見てみたんだけど、これが意外にも良い映画で掘り出し物に会った気分。

 ホントに、忘れた頃にこういうステキな出会いがやって来るから、映画ってやめられないんだわ~。

 

◆男ばっかの指揮者の世界。

 指揮者って、ホントに男ばっか。日本で今、若手女性指揮者というと、西本智実三ツ橋敬子、、、くらいしか名前が浮かんでこない。お二方ともライブで聴いたことがあるが、西本さんはまぁ、、、正直なところ話題先行で(ルックスがカッコイイからか?)特別個性を感じなかったが、三ツ橋さんは小柄ながらもの凄いエネルギッシュでキレッキレの悲愴(チャイコ)にビックリした記憶がある。

 ……が、つい最近、ブザンソンで久々に日本人女性が優勝したというニュースが。沖沢のどかさん、31歳だとか。これはスゴい快挙だろう。久々に、というのは、82年にも日本人女性の松尾葉子さんが優勝しているから。

 実は、松尾葉子さんは、私が学生時代にいたオケを何度も振ってくれていた。私が在籍中は残念ながら巡り合わせがなかったけど、数年違いの先輩・後輩たちは松尾さんの指揮を受けている。裏山のしーたけだ、、、。

 それはともかく。いまだに女性が優勝するとニュースになるのが指揮者のコンクールなのである。松尾さんが優勝したときは、女性初というのもあったが、それ以前に小澤征爾が優勝したことがあるとは言え、まだまだアジア人のハンディが今以上に大きかった頃だから、それはそれは大変な出来事だったはずだ。

 新聞記事によれば「沖沢さんは観客が選ぶ「観客賞」と演奏したオーケストラが選ぶ「オーケストラ賞」にも輝いた」とあるから、実力は相当のモノだろう。プロのオケに評価されるというのは、そんなに簡単なことではない。クライバーの死後、彼の生前の活躍がDVDになったが、そこで彼の縁の人が言っていた。

 「指揮者なんてのは、ピラニアの水槽に飛び込むような仕事。私は絶対やりたくない」

 オケの演奏者たちも、一流オケになれば皆一流揃いでプライドは高いし一筋縄ではいかない奏者ばかりだ。本作でも、アントニアの指揮に従わないコンサートマスターが描かれている。ただでさえプライドの高い当時のコンマス、新人の、ましてや女の指揮者なんかに従えるか!って、実際にセリフで言っている!! ……まぁ、これが現実だったんだろうなぁ、と容易に想像がつくが。

 そこでアントニアはどうしたか。コンマスのストラディバリウスを取り上げると「あなたには楽器がある。でも私にはオケがいなければ音楽を演奏できない! 指揮者にはチャンスが少ない。人間は皆失敗しながら成長するが、指揮者に失敗は許されない。私のチャンスを潰すな!!」(セリフ正確じゃありません。もっと賢い言い回しでした)と魂の叫びを発していた。このシーンが本作の白眉だろう。

 

◆構成が素晴らしい。

 私が、ドン引きするかも、、、と危惧していたのは、こういう映画では、主人公の情熱が過剰に描かれる半面、挫折の理由を全て“女であること”に落とし込む単純化がありがちだからだ。そういうパターンのシナリオだと、見ていて小っ恥ずかしくなってくるからイヤだなぁ、、、と思っていたのだ。

 で、本作のシナリオも、確かに、“情熱とジェンダー”がストーリーの縦糸には違いなかったのだが、それをマイルドにしてくれていたサイドストーリーの横糸がしっかり効いていたので、見ていてそれほど苦にならなかったのだと思う。

 主なサイドストーリーは3つ。1つは、アントニアの出自だ。彼女がNYで暮らしている両親は、養父母で、実母は別にいると、途中で明かされる。それまで、アントニアはウィリーと呼ばれている。自分が養子と知った後のアントニアの葛藤と、自分のルーツを辿る旅も描かれる。この過程は見ていてちょっと感動モノである。

 2つめは、アントニアのラブロマンス。冒頭で彼女が働いていたコンサートホールのオーナーの息子フランクと、最初は最悪な出会いながらも身分違いの恋に落ちるというベタな展開ながら、フランク君がなかなかのイケメンかつ好青年なので、許せる。好青年というか、紳士なんだよね。捻くれていないし、カワイイのだ。こんな青年なら、アントニアが惹かれるのも当然、と思える。アントニアがオランダに自分のルーツ探しに出て、そのまま指揮の修行にドイツに行ってしまうと、フランクはドイツまで追い掛けてくる。どうしてもアントニアと一緒になりたい、と。……で、アントニアの答えは、もちろんNOなんだが、その後もちょっと一悶着ある辺りが面白い。

 3つめは、今で言うLGBTだ。アントニアの指揮者への情熱を陰で支えてくれるロビンというジャズバーの男がいるのだが、このロビン、実は女性だったのである。性同一性障害で、一件男性だが、本作の終盤、アントニアが女性オケを作ったときに、ベース奏者として女性の姿で現れたのがロビン。この後、ロビンの胸の内をアントニアが聞くシーンがあるが、ここも結構感動的。ロビンを演じているのは、スコット・ターナー・スコフィールドというトランスジェンダーを公言しているお方。どこかで見た気がするのだが、ちょっと分からない。

 ……と言う具合に、かなり盛りだくさんな内容で、上映時間も2時間20分と長めだがゼンゼン長さを感じない作りで、むしろ、よくこれだけの内容をこれだけの尺でまとめたなぁと感心する。きちんと伏線も全てラストまでに回収しているし、一つ一つエピソードのさばき方は素晴らしい。

 私の斜め前に座っていた女性の方は、終盤、号泣されていた。、、、私は涙こそ出なかったけど、かなり胸に迫るモノがあった。こんな感覚になれたのは久しぶりかも。

 

◆その他もろもろ

 アントニアを演じたクリスタン・デ・ブラーンという女優さん、魅力的な美人。オランダでメインに活躍しているのかな? でも、英語もキレイに話していたように思う。ネイティブと言われても違和感がないくらい。彼女は背も高くて見栄えがし、指揮っぷりもカッコ良く、さぞや特訓したのだろうと推察する。

 アントニアは努力して、NYの音楽学校に入って指揮を習うのだが、そこで師事した男性教授に、案の定、セクハラを受けて退学となる。……まぁ、お約束な展開だけど、非常にムカつくシーンで、アントニアに抵抗された教授は、ピアノの蓋に手を挟まれて指を骨折するんだが、内心、ざまぁ、、、であった。そのセクハラシーンも下品そのもので、妻子ある身のくせに「女が指揮棒を振り回しているのはみっともない、女は子供を産め、女は底辺にいれば良いんだ」とかほざいて、アントニアの下半身を触ろうとするのである。まったく、こういう男たちは早く絶滅してほしいものだ。

 好青年フランクを演じていたのは、ベンジャミン・ウェインライト。イギリス人俳優で、『静かなる情熱 エミリ・ディキンソン』にも出演していたとか。え、、、何の役だったんだろ?? エミリの兄の若い頃かな、、、? まぁ、とにかく、フランク青年のおかげで、本作の質もいくらか上がっているのは間違いない。品もあるし、これから活躍するのでは?

 アントニアが開拓した女性指揮者の道は、まだまだ開拓途上だ。男性指揮者たちだって、おいそれと既得権益を明け渡すようなことはしないだろうし、だいたいウィーンフィルやらベルリンフィルなんてのは、いまだにアジア系蔑視が根強いと聞くし、ウィーンフィルが女性団員を入れるようになったのなんてここ数年の話、ましてや女性指揮者なんて、、、という段階だろう。そもそも、まだまだ指揮者は男がやるモノ、という固定観念が聴衆側にも根強い。沖沢のどかさんのような新星が、そんな分厚いクラシック界の壁をぶち破ってくれることを願っている。

 

 

 

 

 

もっとたくさんの劇場で上映して欲しいんですけど。

 

 

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小野寺の弟・小野寺の姉 (2014年)

2019-10-05 | 【お】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv55185/

 以下、上記サイトよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 進(向井理)と姉のより子(片桐はいり)は、幼い頃に両親を亡くしてから20年以上、姉弟2人で穏やかに暮らしてきた。

 ある日、配達ミスで届いた手紙を受け取り相手の家に直接届けに行った進はかわいらしい女性・薫と出会い、かすかな思いが芽生える。進のことが気がかりなより子は、後日、薫と再会するも自分だけ連絡先を渡してこなかった進を怒るのだった。

=====ここまで。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

 小難しくない映画を見るの巻、第2弾。何でこれを選んだのか分からないけど、レンタルのリストの上位にあったのか送られてきたので見てみました。片桐はいりさん、結構好きだし。

~~以下、本作がお気に入りの方はお読みにならない方が良いかも、、、です。あしからず。~~

 

◆昭和のドラマかと思ったよ。

 これ、舞台になっていたのだそうで。監督が書いた原作小説を、監督が戯曲にして、主役姉弟を演じたのが、本作でも演じた片桐はいりと向井理だったと。へぇ~。

 ん~、まぁ、ぼけ~っと見たいと思って見たんだから、確かに頭は使わなくて済むんだけど、いかんせん、どうもむずむずしてきてしまった。

 何が起きるわけでもないストーリーといえば、あの『かもめ食堂』がある。どちらの映画も、出てくる人たちは、基本的には皆いい人たちで、ささやかなエピソードたちが物語を紡いでいく。しかし、この2作の決定的な違いは、登場人物たちの“自立度”だ。

 両親を早くに亡くした姉と弟が、距離が近すぎる関係になってしまうってのは分かるんだけど、本作の姉と弟の思考回路は周回遅れどころか、10周遅れくらいなんじゃねーの?と。つまり、2人とも「幸せ=恋愛=結婚」みたいな思考回路なんだよね。これいつの時代のお話?? 別に昭和の設定になっているわけじゃなさそうだし、21世紀の日本の話でしょ? ちょっとなぁ、、、そういう判断軸しか持っていない姉弟って、あまりにも精神的に貧しくない?

 まあ、それは百歩譲って良いとしても、この姉弟を囲む人たちがみんな同じ思考回路で動いているのが気持ちワルイ。一人くらい、もっと違う生き方や幸せがあるんだってことを体現している人がいても良くない? 何なんだこの人たちの住んでいる世界は。ある意味、ファンタジーだよねぇ、これ。

 んで、姉弟2人とも恋に破れたら、やっぱり姉弟が寄り添って近すぎる距離のまま仲良く暮らしましたとさ、、、って、まさに昔話。

 本作に通底するものは“本当の幸せって何?”ってことなんだろうけど、幸せの感じ方は人それぞれだから、本当もウソもないとは思うが、でも、何かに依存した状態で感じる幸せは、やっぱり“ウソ”だろう。ウソが言い過ぎだとしたら、砂上の楼閣、とでも言おうか。

 もちろん、現実世界では、このように兄弟姉妹が寄り添って生きているケースはゴマンとあるだろう。でも、これは映画だ。映画には、やはり希望があってほしい。閉じた現実など、スクリーンで再現されても“本当の幸せって何?”の答えにはなっていないと思うのだけど、どうだろう。

 この姉弟にとって、せめて姉弟のどちらか(ま、弟だろうね)がこの家から出ることが、互いの本当の幸せへの第一歩になるのだと、私は思うのだけど。自ら扉を開ける、、、それがベタであってもこういう作品では描かれて欲しい展開だ。

 まあ、この2人はこれでいいじゃない、、、という意見もあるとは思うし、それが間違いだと言いたいわけじゃない。それに、一緒に暮らしていても、互いに自立した関係ならば結構なこと。生き方に正解はないのだから。

 精神的に自立してこそ、幸せとは実感できるものだと思う。

 

◆その他もろもろ

 向井理は、朝ドラで水木しげるを演じていたときは、かなりマズイ、、、と思って見ていたが、本作ではまあまあ良かったと思う。はいりさんが上手いし存在感が圧倒的なので、イマイチ弱い感じもしたけど。

 それより、ドン引きしたのは絵本作家で進と恋仲になりそうになる岡野薫という女性を演じた山本美月。彼女は昨年だったか、ディーン・フジオカ主演のドラマでもヒドかったが、本作でも一人だけ学芸会レベルで浮いていた。おまけに、彼女の描いている絵本ってのが、これまた稚拙すぎてイタい、、、(これはもちろん彼女のせいではない)。演技のマズイ女優さんなんて大勢いるから、まぁ特筆事項でもないけど、彼女が出てくるとかなり白けたのは確か。

 はいりさんは、相変わらず突き抜けていた。独特の容姿で、本作でもそれがストーリー展開の暗にキモになっている。終盤、及川ミッチー演じる浅野に失恋した後、一人号泣するシーンは、思わずもらい泣きしてしまった。

 本作でもそうだけど、はいりさんは非常に服のセンスが良いと思う。自分の良さをちゃんと分かっているからこそのファッションだなぁ、、、と、いつも感じる。良い女優さんだ。

 

 

 

 

 

 

ひらまつ先生の言い間違いがゼンゼン面白くなくて困った、、、。

 

 

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ねことじいちゃん(2018年)

2019-10-03 | 【ね】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv64868/

 

 高齢者率が高いとある島に暮らす大吉(立川志の輔)は、2年前に妻(田中裕子)に先立たれ、その妻が可愛がっていたキジトラのオス猫タマと2人(?)暮らし。

 島ではゆったり時間が流れているように見えるが、実はいろんなことがあちらこちらで起きていて、、、。

 

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 何だか、最近、お疲れ気味。こういうときに、あんまし小難しい映画とか見たくない。だから、公開時に見に行こうとは思わなかったけれども、一応気にはなっていた本作を見ることにした。岩合さんのネコ映画なら、ハズレはないだろうから。

 

◆私がネコ好きになった理由。

 岩合光昭氏と言えば、もう昔っから動物写真家で有名。私が彼の名を初めて知ったのは、多分まだ20代だった頃、、、「スノーモンキー」の写真で。猿は好きな動物じゃないけれど、あのモンキーは文句なしに可愛かったし、何より美しく、奇蹟的な写真だと思った。

 その後、98年くらいだったと思うけど、『ニッポンの犬』っていう写真集を出して、これがまたすごく好きになってしまい、、、。ちょうどその数年前から柴犬を飼いだしたこともあって、とにかく柴犬を始め日本犬が魅力的に撮られている写真集だった。あれ以来、私が部屋に掛けているカレンダーは、平凡社の「ニッポンの犬カレンダー」。たまにネコバージョンにしたこともあったけど。やっぱし、犬は日本犬だしょ!!!

 いかんいかん。話が逸れまくりだ。

 で、wikiによれば、2013年に始まったあの「世界ネコ歩き」だ。BSでオンエアしているんだけれど、私は多分、放送開始時からほぼ全部見ていて、それは初回のネコ歩きを見てすっかり気に入ってしまい、その後、自動録画に設定したから。通常1時間番組だけど、30分版、15分版のミニも全部録画されるので、つい全部見てしまうのよ。寝る前の15分ほどの歯磨きタイムにネコ歩きを見て癒やされるのが、ここ何年かの私の日課。

 元々、犬もネコも好きだったけれど、犬を飼いだしてからは犬にばっかし興味が行っていた。ネコに会えば積極的に挨拶していたけど、柴犬に会えばプチ・ストーカーになっていた。でも、岩合さんのネコ歩きを見るようになってから、ネコにもプチ・ストーカーになってしまった。今住んでいるところにはネコが少ないのだけれど、ちょっと歩くと、ネコ名所があるので、ときどきその辺りにプチ・ストーカーになりに行っている。それくらい、ネコ歩きはネコの魅力を伝えてくれる番組なのだ。

 本作も、だから、ネコ歩きとカメラワークがよく似ている、、、というか、同じ。ネコ歩きを見ているのかと錯覚しそうなくらい。

 一応、ストーリーはあるけど、まぁ、、、これはネコを見る映画と言ってよいでしょう。だからイマイチだと言うつもりは毛頭なく、さすが岩合さんだ、と思った次第。ネコを魅力的に撮ることにかけては、どんな映画監督でもかなわないだろう。ストーリーとネコが互いにムダに干渉することなく、かと言って無意味に並列することなく、実に良い塩梅に構成されているのもgoo。

 飼い主に先立たれるネコの話が出てくるが、この辺は、島ならではの環境で、悲壮感がないのが良い。主のいなくなった家の前から離れようとしないネコに、島の人たちが優しく接している光景は、きっと映画の中だけじゃないだろう。

 主人公の大吉に可愛がられているタマは、ボテッとしたキジトラで、ネコ歩きを見ている人なら、岩合さんが好きそうなネコだと一目で分かる。デカくて丸い顔。あんなネコ飼いたい、、、。

 

◆出演者とかロケ地とか、、、

 ……というわけで、ゼンゼン映画の感想文になっておらずにすみません。一応、映画のことにも触れておきますと、、、。

 出演者が豪華役者陣でビックリです。志の輔さんって、なかなか演技お上手。さすが落語家さんだけあって、器用だなぁ、、、と感心。彼もかなりのネコ好きと見た。小林薫はネコ嫌いの設定だったけど、どう見たってネコ好きでしょ、、、、って感じで微笑ましい。

 そう、彼のセリフにチラッと出てくる方言で、ん??となっていたのだけど、エンドクレジットでロケ地が“佐久島”と出ていて納得。佐久島は、愛知県の三河湾三島(篠島・日間賀島、佐久島)の一つ。

 佐久島には私は行ったことはないのだが、篠島と日間賀島には行ったことがある。篠島に行ったのは幼少期なのであんまし覚えていないが、一番大きい日間賀島には社会人になってから島に住む知人に「是非来て」と言われて行ったのだけど、まぁ、海の幸の美味しかったこと、、、。名古屋から電車と船を乗り継いで、1時間ちょっとだったと思う。

 佐久島って、あんなにキレイな所なんだ、、、と、ちょっぴり感動。映画のロケなんて、きっと島は大騒ぎだったに違いない。

 並み居る俳優陣とネコたちを見事に差配した岩合さん。今度は、私の好きな『きつねと私の12か月』みたいな映画を撮っていただきたい。

 

 

 

 

癒やされます。

 

 

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