映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

No.10(2021年)

2024-05-03 | 【な】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85397/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 幼少期に記憶を失い、森に捨てられ、里親に育てられたギュンター。

 大人になった彼は舞台役者として生計を立て、共演者と不倫、一人娘は肺がひとつしかない突然変異だった。役者仲間の裏切りによって残酷な仕打ちを受けるギュンターは復讐を誓う。

 だがその先に、とてつもない驚愕の事実との対峙が待っている。

=====ここまで。


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~~本作をご覧になる予定の方は、一切の予備知識なく見ることをオススメします。以下、ネタバレはしておりませんが、読まない方が良いです。~~


 新聞か何かの評で見て、面白そうかなー、、、と思って劇場まで見に行ったのだが、、、。

 見終わった直後の感想としては、「世の中の大抵のことはどーでもええんやな、、、」でありました。今もあまり変わっていないけれど、正直言うと、こういう作りの映画はあまり好きではない。内容の好き嫌いではなく、制作姿勢というか、その志に好感を持てない、と言った方が良いかな。

 本作は、前半と後半で全く別の作品かと思うくらいに、後半の展開は“唐突”である。そりゃもう、ドン引きするくらいにね。

 実は、前半は結構面白くて目が離せなかったのだ。ギュンターが不倫した相手というのが、彼の属する劇団の演出家(つまりは結構エラい人)の妻である女優。その不倫を見破るのが劇団でお荷物的存在だった中年男優で、彼が演出家に、妻とギュンターが「デキてる」とチクるわけ。大人げない演出家は、冴えない中年男優と、主役を演じていたギュンターの配役を入れ替えるという報復に出る。報復にブチ切れたギュンターのとった、これまた大人げない暴挙が、驚くような、まさに“暴挙”(中年男優の足に釘を打ちこむ)、、、という具合に、なかなかのドロドロ劇が劇団内で展開する。

 さらに、どうやらこのギュンターの一連の行動は、常に何者かに監視されている様なのである。さぁ~~、これからどうなっていくんだ?と、観客の好奇心を思いっ切り盛り上げ、、、

 、、たところで、観客はまったく違う世界に連れていかれ、しまいには置き去りにされるのである。

 そらねーべ、監督さんよぉ。

 あの不倫相手はどーなったん? 足を釘打ちされたあの中年男はどーなったん?? 演出家は??? 劇団は???? という観客の脳内に無数に浮かぶ??は、増殖する一方である。

 それに対し、おそらく監督の本音は、「は? 何でオレがおめぇらのそんなくだらない疑問に答えにゃあかんの??」とかではないか。おまけに、終盤は一気に宗教色が濃くなり、ラストシーンなど、まんま、、、、である。

 映画の話法に正解はない、、、のだろうから、こういう作品の存在価値を否定はしないけれども、これが良しとされるなら、ストーリーとか構成とか整合性とか、それらは全て無視してよい、という話にもなりかねない。

 ……というわけで、貶しているように見えるかもしれませんが、実は、貶す気はあまりなく、何ともヘンな気分なのである。こんなのありかよ?と思う半面、こんなのもありなのか、という矛盾した感覚。前半と後半が別ものの様で、別ものとも言い切れない。それだけ、やはり監督の手腕が長けているということなのかねぇ?? 分からん。

 ただまあ、本作は、このトンデモなオチを面白がれるか、白けるか、で評価は分かれるでしょうね。私は、どっちかというと白けたクチなんで。

 久しぶりに、正真正銘“スゴいヘンな映画”を見ました。
 

 

 

 

 


キーワードは“ルナボー”。

 

 

 

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ナチスに仕掛けたチェスゲーム(2021年)

2023-08-12 | 【な】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81599/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 ロッテルダム港を出発し、アメリカへと向かう豪華客船。ヨーゼフ・バルトーク(オリヴァー・マスッチ)は久しぶりに再会した妻と船に乗り込む。

 かつてウィーンで公証人を務めていたバルトークは、ヒトラー率いるドイツがオーストリアを併合した時にナチスに連行され、彼が管理する貴族の莫大な資産の預金番号を教えろと迫られた。それを拒絶したバルトークは、ホテルに監禁されるという過去を抱えていた。

 船内ではチェスの大会が開かれ、世界王者が船の乗客全員と戦っていた。船のオーナーにアドバイスを与え、引き分けまで持ち込んだバルトークは、彼から王者との一騎打ちを依頼される。

 バルトークがチェスに強いのは、監禁中に書物を求めるも無視され、監視の目を潜り抜け盗んだ1冊の本がチェスのルールブックだったのだ。仕方なく熟読を重ねた結果、すべての手を暗唱できるまでになった。

 その後、バルトークは、どうやってナチスの手から逃れたのか? 王者との白熱の試合の行方と共に、衝撃の真実が明かされる──。

=====ここまで。

 シュテファン・ツヴァイクの小説「チェスの話」が原作。


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 オリヴァー・マスッチのこと、地味にお気に入りなんです。なので、本作は公開前から楽しみにしていたのですが、何しろこの暑さ、、、の上に、公開劇場が都内では新宿の1館だけという超冷遇。ま、公開されただけマシですが。

 夏休みは話題作がいっぱい公開されるのが常なので、そら、このテの作品はこんな扱いされても仕方ないんでしょうけど、都内で1館て、、、あんまりじゃない?? だって、この映画、多分、何度見にも耐える格調高い文芸作品で、しかも見ていて頭フル回転で使う、素晴らしい映画でしたよ。こんなヒドい扱いで終わらせるなんてもったいないと思うのですが。

~~以下、ネタバレしておりますのでよろしくお願いします。~~


◆尋問とチェスの試合

 ……と、前振りで褒めておいてナンなのだが、実は序盤はちょっと退屈かなぁ、と思って見ていた。この日、都心はもの凄い雷雨で劇場内まで雷の轟音が聞こえ響いてくる有様。

 だけど、前半途中、船内でヨーゼフが「昨夜、私は妻と一緒に食事した!」と話すのに対し、船員が「いえ、お客様お一人でした」と答えてヨーゼフが混乱する辺りから、え??となって一気に引き込まれた。

 そこまでは、いわゆる“時系列ゴチャゴチャ系”の構成だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。考えてみれば、彼がホテル・メトロポールで監禁されていた部屋の番号と、船室の番号は同じ。これはもしや、、、。

 原作は未読だが、原作は、チェスと共に、ナチスの行った拷問の一種“特別処理”にもフォーカスした話らしい。特別処理とは、身体的な暴力は加えない代わりに、精神的に追い込むことで、本作では、活字を禁じ、会話も禁じ、食事も同じメニューにし、、、と、とにかく一切の知的活動を禁じられるというもの。これは、一定期間続けば狂うでしょう、間違いなく。

 だが、ヨーゼフは密やかに抵抗していた。同じように監禁されていたある男が飛び降り自殺してしまった騒動のどさくさに紛れて、手に取れた本を1冊盗んでこっそり部屋に持ち込んだ。部屋でそっと広げてみれば、お目当ての小説でなくてガッカリしたが、これがチェスの棋譜を詳細に解説した本で、ヨーゼフは次第にのめり込む。高じて、食事についたパンを捏ねて作った駒と、バスルームの床の模様をチェス盤に見立ててチェスに没頭するように。これで、辛うじて発狂を免れていた。

 けれど、それは長く続くはずもなく、案の定、ある日発覚し、本は没収され、駒は全て破壊され、それを機にヨーゼフの心も破壊されて行く。

 この後、本作は、ヨーゼフがホテルに監禁中に受ける執拗な尋問と、客船内でチェスの世界チャンピオンと闘うゲームを、現実と妄想の境界を敢えて曖昧にしながら進行する。

 チェス駒を破壊された後、ヨーゼフは、本で覚えた棋譜を基に脳内でもう一人の自分とチェスの対戦を延々繰り広げて行ったのだが、それが次第に世界チャンピオンと闘うという想像の世界と融合してしまう、、、というシナリオ。本で覚えた棋譜は、過去の名試合の棋譜ばかりだったこともあるし、ますます監禁の環境が過酷になったこともあったろう、、、とにかく、彼はそれだけ精神的に病んでしまったのだ。

 船内での展開も、最初は、単なる回想シーンとして違和感なく見ていられるのが、次第に、え?えぇ??という感じになり、監禁シーンと交互に描かれることで、だんだん、もしや、と感じていたものが、やはりそうか、、、となっていくのだ。

 で、鑑賞後パンフを見て、尋問するゲシュタポとチェスのチャンピオンを同一人物が演じていると分かって(見ている間は不覚にも気付かなかった)、やはりそうだったのか、と腑に落ちた。


◆妄想?現実?

 結局、ヨーゼフがホテルでの監禁からどうして解放されたのか、、、というのは、ここでは敢えて書かないが、劇場からの帰りにたまたま同じエレベーターに乗り合わせた男女が、原作との違いについて語っていて「原作の、ヨーゼフが発狂して飛び出そうとして怪我をしたため病院送りとなって解放された、、、って方が理にかなっている」という趣旨の話をしていた。女性が「あんなんで解放されるなんておかしい!」としきりに話していたのだが、私はさほどおかしいとも思わなかった。

 これ以上、ヨーゼフを監禁しても目的が果たせないと明らかになった以上、コストを掛けて監禁しているのはムダであるという、人をモノ扱いするナチスらしいやん、、、と私は思ったのだが。殺したって仕方ないしね、、、。

 あと、ネットで、“批評家”を自称する方が、ヨーゼフを“ユダヤ人”と書いていたけど、ユダヤ人なら確実に殺されている(あるいは収容所に送られているか)でしょ。ヨーゼフはオーストリアの貴族という設定で、バルトークという名前から、あるいはハンガリー系なのかも。

 ヨーゼフを尋問するゲシュタポのフランツは、見るからに小者で、ナチスの威を背景にやたらマウントをしてくる男。多分、何も考えていない人。命じられたことを忠実に果たして、自身の地位を上げたいとか、そういうことにしか考えが及ばない。いつでも、どこにでもいる人間だ。パンフによれば、この人物のモデルは親衛隊(SS)のフランツ・ヨーゼフ・フーバーだそう。SSと言えば、「ペルシャン・レッスン 戦場の教室」(2020)でも書いたが、なるほど、SSとはこういう人間の集まりだったのだなぁ、と改めて思い知る。まさに、組織論理にのみ基づいて動くマシーン。それを、アルブレヒト・シュッヘが巧みに演じている。この人、「さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について」(2021)のラブーデの人だったのね、、、。

 どこからがヨーゼフの妄想か、、、というのは意見の分かれそうなところ。ネットの感想を拾い読みしたが、客船内~アメリカに渡ったのは全部妄想、という人もいる。私は、客船内は妄想だと思うが、アメリカに渡ったのは現実だったんじゃないのかなぁ、、、と感じた次第。

 ラストがそのアメリカの精神病院と思しき場所でのシーンなんだが、そこで、最愛の妻アンナが出て来る。この人が、看護師としての一人二役なのか、アンナとしてなのか、、、、。私は、アンナ自身だったと思う(願望も入っている)。アンナと二人でアメリカに渡って、愛するアンナに付き添われている、、、と思いたい。原作者のツヴァイクも、妻と二人で亡命したというし、、、。

 マスッチさんは、やっぱり演技巧者。素晴らしい。優雅にウィーンでダンスに興じているときのヨーゼフと、監禁中に脳内チェス対戦に興じるあまり狂っていくヨーゼフの対比が素晴らしい。撮影中は非常にしんどかったとパンフのインタビューにも語っているが、そらそーだろう、、、こんな役。

 何より、このシナリオに唸る。虚実の曖昧さを巧く表現した演出も素晴らしい。監督はフィリップ・シュテルツェル。「アイガー北壁」未見なので見てみたい。原作も面白いらしいので、早速図書館で予約しました。ソフト化されたら(されるよね?してください!)もう一度見たい……(暑過ぎて劇場まで再度行く気力がないのです)。

 

 

 

 

 

 

 


邦題がマズ過ぎる(とりあえず“ナチス”ってつけとけ!みたいの、やめれ)。

 

 

 

 

 

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ナイトメア・アリー(2021年)

2022-04-05 | 【な】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74944/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ショービジネスの世界での成功を夢見て町に降り立った野心家の青年スタン。その町では、人間とも獣ともつかない不思議な生物を出し物にする、華やかで奇妙なカーニバルが催されていた。

 スタンは読心術を習得し、才能と魅力を武器に一気にショービジネスの世界を駆け上がっていく。しかし、その先では彼の想像に反した栄光と闇が待ち受けていた。

=====ここまで。

 
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 デル・トロ監督作品は、『パンズ・ラビリンス』(2006)以来だなぁ、、、と思って、彼の作品履歴を見たら、『クリムゾン・ピーク』(2015)以来でありました。オスカーをゲットした『シェイプ・オブ・ウォーター』は、ベトナムかインドへ行った際の飛行機で見ようとしてあっけなく挫折したので未見です。機内で集中力をもって映画を見ることができない性分なので、、、。

 本作は、ケイト・ブランシェットが出ているのと、スチール画像の雰囲気がエエわぁ~と思って、フラフラと見に行ってまいりました。

 ナイトメア・アリーっていうこのタイトルですが。私、恥をさらすようですが、“アリー”があのTVドラマ「アリーmy love」のアリーだと思ったら、綴りが違うのでありました。ドラマの方はAlly、こっちはAlley(=路地)。ひょ~~。

 ……ともあれ、デル・トロ作品なので、世界観というか、美術に大いに期待して見に行ったので、そこはほぼ裏切られませんでした。

~~以下、ネタバレバレです。~~


◆野心が過ぎて破滅する。

 ブラッドリー・クーパー演ずるスタン、冒頭から人を殺した直後のシーンで登場。誰を殺したのかは、終盤まで分からないけれど、とりあえず彼が“人殺し”である、という前提で話は幕を開けるわけだ。

 で、見世物小屋に辿り着いたスタンは、そこでおぞましい“獣人(ギーク)ショー”を見る。小屋のマネージャー(ウィレム・デフォー)に弱みを握られた男が“獣人”を演じて、生きた鶏の首に喰い付きその血を啜る、、、。観客は喜んで金を払い見物している。スタンは、あんなギークにだけはなりたくない、、、と思う。

 そこで、読心術師(?)のジーナ(トニ・コレット)から教えてもらった読心術を身に付け、端正なルックスとハッタリで世の注目を浴びるように。けれど、栄光は一瞬。ハッタリは所詮ハッタリであり、すぐにメッキは剝がれるのだ。

 メッキが剝がれたら、「あーあ、やっぱ剝がれちゃったな」と現実を受け入れて、目立たないようにちまちまイカサマショーをやってりゃいいものを、分不相応な野心を抱き、超えてはいけない一線を軽々と超えてしまう。こういうところが、人殺しをやっちまう人間の業の深さ、、、ってことなのだろうか。

 ショーのパートナーになったモリー(ルーニー・マーラ)と組んで、危険な大芝居を打とうとするが、もちろん呆気なく馬脚を現し、モリーにも見捨てられ、依頼主らを惨殺、逃亡する羽目に。……まあ、ある意味、当然の成り行きともいえる。

~~以下、結末に触れています。~~

 逃亡の途中で、別の見世物小屋を見かけたスタンは、そこで読心術ができることを売り込むが「そんなのはもう流行らない」と一旦は追い払われるが、主に呼び止められる。

 「やってもらいたいショーがある」……その内容を聞いたスタンは「やります!やります!」……で、ジ・エンド。ごーん、、、。


◆危うきに近寄らず、、、。

 勘のいい方ならお分かりだと思いますが、「あんなのだけにはなりたくない」と嫌悪感を催した“ギーク”に、スタンは笑みを浮かべてなったのでした。

 このオチは好みが分かれるところかと思うが、私もウゲゲ、、、となりながらもニヤリとしてしまい、面白く見た。スタンらしいオチではないか。スタンを演じたブラッドリー・クーパーは「ハッピーエンディング」とまで言っている。

 因果応報だとか言いたいわけではなく、これぞエンタメ映画だ、と思ったのだった。途中に描かれるスタンの極悪非道ぶりがあんまりにもあんまり、、、だったので、むしろ、そこまで行きついたか!とあっぱれな気分になる。

 ただまあ、そんなスタンに当然、共感する部分は全くなく、ただただ愚かしいと憐れみを感じてしまう。

 私は(自分で言うのもナンだけど)極めて常識人であり、小心者なので、こういう“転落が分かり切っている選択”を敢えてする人の心理がどうしても分からないのだ。リスクを負う勇気がないのよ。できるだけ安全パイを選ぶ。だから、スタンみたいな男とは、人生において出会うこともない。仮に出会っても、関わらずに、接点持つことなくすれ違うだけだろう。

 でも、危ない男が好きな人もいるのだよね。知人で、スタンとはスケールが違うが、山師みたいなのと付き合い始めて、挙句、脅されて結婚(?)し、別れたくても別れられない状況に追い込まれて警察沙汰になって、どうにかこうにか縁が切れた、、、という人がいて、信じられん思いで話を聞いていた。なぜそうなる???の連続だったけど、本作を見ながら思い出していたのは、その知人の話だった、、、。

 スクリーン越しに見ている分にはニヤリとしている余裕があるけど、リアルではまったくもって笑えない……どころか怖ろし過ぎる。


◆その他もろもろ

 豪華キャストなんだが、お目当てのケイト・ブランシェットは、イマイチ存在感がない、、、とまでは言わないが、あまり彼女の魅力を活かしきれていなかった気がする。そもそも、彼女が出てくるのは中盤、1時間くらい経ってたんじゃないかしらん。まだかな、まだかな、、、という感じだった。

 スタンを破滅に導く心理学者リリスを演じているのだが、彼女の患者たちは皆エリートや金持ちばかり。でも、リリス自身も闇を抱えていそうな(詳細は明かされないから分からない)キャラで、その謎めいた感じがケイト・ブランシェットにはピッタリだと思うのだが、あまりにもリリスのバックグラウンドが謎過ぎて、イマイチどんくらい怪しい人なのかが分からなかった。終盤、スタンと対立して、ようやく牙を剝くかのように見えるが、それも空振り気味。シナリオも演出ももう一つ、、、と言ったところか。

 ルーニー・マーラは高圧電流を流されるショーの女性なのだが、その感電している演技が怖い、、、。トニ・コレットも怪しいキャラ設定だけど、割とフツーで、デル・トロにしてはブランシェットといい、ちょっと??な演出のように感じた。

 ともあれ、本作は、とにかくブラッドリー・クーパーに尽きる。彼の素晴らしさが最初から最後まで全開。あんまし今まで興味なくて、彼の出演作は『運び屋』(2018)しか見ていないのだが、他の作品も見てみようと思った次第。

 デル・トロの醸し出す世界観は、本作でも期待通りだったけど、私の中では『パンズ・ラビリンス』を越えなかった。
 

 

 

 

 

 

 


タイロン・パワー主演『悪魔の往く町』が見たい!!

 

 

 

 

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ナンシー(2018年)

2021-01-24 | 【な】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv70408/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 人付き合いが苦手なナンシー(アンドレア・ライズボロー)は、他人の関心を集めようと嘘ばかりついていた。

 ある日、彼女は5歳で行方不明になった娘を探す夫婦をテレビで目撃。その娘の30年後の似顔絵が自分と瓜二つであることに気づいたナンシーは……。

=====ここまで。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 何というかもう、、、この映画を見て感じたこと、それは、、、

 人間は、無条件に自分を受け容れて愛してくれる他者がいないと、病んでしまう、、、ということ。そして、その他者とは、多くの場合は“親”に期待されることなんだということ。成長期に、親の愛情を受けられなかった人間は、大人になってからとても“生きづらい”ということ。

 そんな、当たり前な、分かりきったことだけど、とても大切な、根本的なことだった。

 この映画を、メンヘラ女のつまらない話と切って捨てる感想もいくつか目にした。ナンシーが嘘ばかりついて、変な行動に出てしまうのは自己責任であり、愛情不足とかそんなの知ったことか、、、と。そう思えるのは、幸せな人なんだと思う。もっと言うと、想像力の欠落したおめでたい人。

 リンチ夫妻の下で数日を過ごすナンシーは、明らかに変化を見せる。リンチ夫人は、最初からナンシーを愛情一杯の目で見る。夫のリンチ氏は、逆に、最初はナンシーに不審の目を向けていて、ナンシーはそういう視線には敏感すぎるほど敏感だ。でも、夫人の温かい言動でナンシーの無表情だった顔に少しずつ表情が出るようになる。

 ナンシーがリンチ夫妻に語った、自分の生育環境の話だが、、、あれはどこまで本当なのだろう? 介護して亡くなってしまった母親は、実の母ではないのだろうか?  私は、実の母ではないという部分は、本当なのではないかと感じた。出生証明がない、、、という描写がわざわざ入っていたから。でも、それ以外の部分は、ナンシーの脚色が大いに入っているのだろう。

 だからこそ、終盤、ナンシーは、夫妻と血縁関係がないと明らかになった後に「実は隠していることがある」と告白しようとしたんだろう。その告白の内容は、自分の語った話に嘘があるということではないだろうか。でも、そこで夫人に「苦労したのね。でもそれは過去の出来事でしょ」と言われて、それ以上話すことを阻止される。そして「今は、私たちがいる。私たちはあなたの味方」とも夫人は言う。この夫人の言葉こそ、ナンシーを無条件で受け容れようとする愛情そのものではないか。すごくジーンときて泣けてしまった。

 ラストは、ナンシーが夫妻の下を黙って去るところで終わるが、ナンシーはあの後、きっとそれまでみたいに無意味な嘘を積極的に言うことは少なくなるんじゃないかな。だって、自分はこの世界に居てもいいんだ、とハッキリ自覚できたのだから。

 地味で寡黙な映画だけど、滋味深い、心に沁み入る佳作。

 

 

 

 

 

 

 

スティーヴ・ブシェミはやはり素晴らしい俳優だ、、、。
 

 

 


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ナポリの隣人(2017年)

2019-03-03 | 【な】



 イタリア南部ナポリのアパートに独り暮らすロレンツォは、かつては“無敵”の弁護士だった。とはいえ、土地柄か決して清廉潔白な仕事ぶりだったわけではない。今は、老いて引退し、数年前には妻を亡くし、娘と息子がいるもののどちらとも折り合いが悪いため、以前は家族で暮らしていたアパートの半分を手放し、残りの半分に独りで暮らしていた。それでも、独りで暮らすには広すぎる家だった。

 ある日、入院していた病院を抜け出しアパートに帰ってくると、手放した方の家の玄関前に見慣れない女性が座っている。彼女はミケーラと名乗り、鍵を家の中に忘れて閉め出されたのだという。ベランダが向かいの家とつながっていることから、ロレンツォは彼女を自宅に招き入れ、無事女性は自宅に入れた。次第に、ロレンツォとミケーラ一家は親しくなる。ベランダで夫のファビオと顔を合わせ、2人の子供たちがロレンツォの家にベランダから侵入して来ることも。

 特にミケーラとは打ち解けるロレンツォだったが、週末に、一家の食事に誘われる。そこでは、子供たちには祖父のように慕われ、ミケーラとファビオ夫婦の仲の良さを目の当たりにし、ロレンツォは心が和む。

 しかし、雨が降る晩、アパートに帰ってくると、そこには救急車やパトカーが留まり、騒然としている。悪い予感がし、慌ててアパートの階段を駆け上がるロレンツォだったが、、、。

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 岩波ホールは、サービスデーがなくて、1日の映画の日に割引になるので、先日行ってまいりました。


◆肉親より他人の方が、、、

 ロレンツォが娘や息子と折り合いが悪いのは、まあ、ハッキリ言って100%ロレンツォに原因がある。つまり、妻の生前、妻の留守中に愛人を自宅に引っ張り込んでいたのである。しかも妻はそのことが原因で心身を病んで、間もなく亡くなっている。もちろん、それだけではない。基本的に仕事人間で家庭をあまり顧みない男だった様子。弁護士としては清濁併せのむ有能ぶりを発揮していたらしいが、夫として父としてはダメダメだったということらしい。

 そんなロレンツォが隣家のミケーラたちとは打ち解けるのだが、他人の方が良い関係が築けるというのはよくある話。本作も、ミケーラ一家との交流を通じて家族の良さに気付いたロレンツォが、娘や息子たちとの関係を再構築する物語か、、、と思いきや、まったく予想外の展開になる。

 ~ここからネタバレになりますのであしからず~

 ミケーラの夫、ファビオが妻と子供を撃って、自分も自殺してしまうのである。

 ファビオは、ちょっと危なっかしいなぁ、、、という感じは最初からしていた。実際、その後、そういう描写もいくつかあったので、意外な展開とは言え、あの夫ならやりかねない、、、というヘンな納得感はある。

 実は、ミケーラもファビオも、ちょっとワケありなのだ。ミケーラは両親に育児放棄されて施設で育っている。ファビオは、幼い頃、金で友情を買うような子供で、親友が崖から落ちて大けがをした際には「ボクが突き落とした」と母親に打ち明け、それを聞いて驚いた両親は、必死でその事実がバレないようにすることでファビオを守ってきたのだが、大学生になったある日「あれはウソだったんだよ」等とケロッと言ったというのである。

 何となく、ミケーラとファビオは仲が良さげだけど、ぎこちない夫婦という感じだったんだよなぁ。この“仲が良さげ”ってのがクセモノで。仲の良い夫婦って、どんなんなんでしょうか。一見、喧嘩ばかりしていて仲が悪そうな夫婦が、実は案外お互い理解し合っていたりすることもあり、、、。喧嘩したことがない夫婦が仲が良いとは限らないし。夫婦の片方が“自分たちは仲が良い”と思っていても、もう片方が同じように思っているかは分からない。夫婦といえども、心の内は“本人のみぞ知る”なのだ。

 ファビオが突然の凶行に出た理由は描かれていないから分からないけど、まぁ、ちょっと病んでいたんだろうね。ロレンツォがミケーラに心の内を少し明かしたことで楽になったように、ファビオもロレンツォに心の内を少しでも打ち明けていれば、最悪の事態にはならずに済んだのかも知れない。やっぱり、ホントに深刻なコトは、身近すぎる人には却って話しにくいものだから。信頼できそうな他人の方が、客観的に物事を見られて、冷静な言葉を発してくれそうである。まぁ、却って悪い結果になることもあり得るけど。

 子供たちはすぐに亡くなるが、ミケーラは一命を取り留め、病院で意識がないまま救命措置がとられる。ロレンツォは、ミケーラを自分の娘と偽って、毎日見舞いに行き、語りかける。そして、妻への贖罪の気持ちを口にしたとき、ミケーラは目を開けるのだ。このシーンはギョッとなる。

 驚くロレンツォは医者に報告しに行くが、医者がミケーラを診ると、ゼンゼン反応のないまま。あれはロレンツォの幻想だったのか、、、。


◆再生する可能性はあるか。

 ロレンツォは、ミケーラとアカの他人だとバレて、病院から出入り禁止を言われる。その際、警察のお世話にもなり、身柄を引き受けに来たのは娘のエレナだった。ここから、ロレンツォとエレナが父娘の関係を見直していく過程が描かれていく。

 結局ミケーラが亡くなったことで、ロレンツォがしばし放浪というか行方不明になり、エレナが探し回って、最終的に父と娘は会い、和解を臭わせるシーンで終わる。

 そのシーンが……ロレンツォが隣に座るエレナの手に、そっと手を伸ばして、2人が手を握り合う、、、というものなんだけど、うーん、これはどうなんでしょ。私なら、エレナから手を握りに行くシーンにするかな、と思った。あんな頑固爺ぃのロレンツォが、あんな風にするかな、、、というのもあるし、やっぱり、あれだけ心配して元愛人のところにまで父親を探しに行ったエレナの方から、ホッとして手を握りに行くのじゃないかな、、、という気がするから。そして、エレナに手を握られて、ロレンツォが握り返す、、、という方が、私としては感動するかも。

 まあ、どちらにしても、和解の兆しが見えたエンディングで、救われるのだから良いけれど。

 詰まるところ、家族の崩壊と再生ってことなんだろうけど、家族が幸せで素晴らしい一辺倒ではないという現実を描いているのは良いと思う。私は、家族とか血縁に懐疑的だけど、だからといって、家族を否定する気は全くない。やはり、肉親というのは、ある意味、不可分であるからこそ崩壊しても再生があり得るのだ。これがアカの他人なら、再生する必然性もないわけで。

 私も親と15年断絶しているが、実は、少し前から、親も老いていることだし、このままで果たしてよいのだろうか、、、、とボンヤリ思うことはあった。曲がりなりにも親子なわけだし。かといって、何か具体的に関係修復をしようなどという気にはさらさらならなかったけれども、少なくとも現状がベストではないという認識はあった。そんなある日、今年の年明けすぐくらいのある朝、出勤の支度をしていたら、突然家の電話が鳴り、しかも表示の番号は見知らぬ携帯電話。何か良からぬことでもあったのか、と思い「もしもし?」と出てみるが、反応はなく、人の会話の声が聞こえてくるではないか。そして、それが、母親と父親の声だと気付くのに時間はかからなかった。なぜなら、母親が父親を詰っていたからだ。朝っぱらから、母親は父親に文句を言っている、しかもその話しぶりは、私が嫌で仕方がなかったあの口調のまんまである。父親の反論する声は聞こえるが、離れているからか何を言っているのかは分からない。多分、母親がスマホの画面に触れたか何かで、間違って私の家の電話にかかったのだろう。そうとは知らずに、2人は話していたのだ。……30秒ほど聞いていたが、いたたまれなくなりそのまま黙って切った。その後、あちらからかけ直しても来ていない。

 それで、ああ、あの人は1ミリも変わっていないんだと改めて思い知り、愕然となった。老いて多少は弱って丸くなっているかもなどと思った私は大アホだ。良かった、何も具体的な行動を起こさなくて、、、。やっぱり、あの人と関わるとロクなことはないのだ。かと言って、父親に同情する気にもなれない。

 だから、私は、エレナのように、親が行方不明になって必死で探し回る、なんてことは出来ないだろうな、、、と思いながらスクリーンを眺めていた。というか、こんな風に、心配して駆けずり回るエレナが、正直、ちょっと羨ましくなっていた。私もあんな風に我を忘れて親を捜し回れたらなぁ、、、と。そう出来ないことが予見できる自分が、何だか情けなく、哀しかった。

 ロレンツォは、エレナ(シングルマザー)の息子、つまり孫を時々学校から連れ出して、2人の時間を持っていた。しかし、孫にも決して好かれてはおらず、「早く学校に戻りたい」などと言われる。終盤になると、孫に「うちに来て暮らせば、やりたいことが出来るよ」などといって、孫に一緒に暮らそうと提案している。つまり、ロレンツォは実は元々血の繋がりを求めていたのだ。

 だから、きっと、この後はエレナと父娘の関係を徐々に修復していくだろう。そして、娘と孫には看取られて旅立つことが出来るのではないか。そんな“家族の良さ”を感じられる作品だった。

 ちなみに、ヤマザキマリ氏と佐々木俊尚氏による本作についての対談の記事がネット上にあって、へぇ~と思った部分もあったので、参考までにリンクを貼っておきます。







見終わってみると、オープニングの歌詞が重い、、、。




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何がジェーンに起ったか?(1962年)

2018-12-21 | 【な】



 子役ベイビー・ジェーン・ハドソンは大の人気者。彼女の等身大の人形が飛ぶように売れるほど。ステージパパはジェーンの機嫌を取る始末で、その反動か、ジェーンの姉・ブランチにはやけに辛く当たる。ブランチは屈辱的な扱いに理不尽な思いを募らせ「一生忘れない!!」と心に誓う。

 大人になった2人は女優になり、方やジェーンは大根役者、ブランチは銀幕のスター。2人の立場は幼い頃と完全に逆転していた。

 それからウン十年。老いてアル中のジェーン(ベティ・デイヴィス)は、脚が不自由になって車椅子生活を送るブランチ(ジョーン・クローフォード)の世話をしている。大きな屋敷に姉妹2人暮らし。その大きな屋敷は、かつて大スター時代にブランチが購入したもので、姉妹はブランチの過去の稼ぎで食いつないでいたのだ。

 ブランチが車椅子生活になったのは、スターとして絶頂だったある日、車の事故で脊椎を損傷したから。以来、2人の姉妹は世間から忘れ去られ、互いに忌み嫌い合いながら共に暮らしていたのだ。

 しかし、そんな負の感情に支配された閉ざされた共同生活に、遂に限界が訪れる。ジェーンは遙か昔の子役時代の栄光が忘れられず、舞台復帰を目指すのだが……。

 
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 少し前にBSでオンエアしたのを録画してあったので、久しぶりの鑑賞。何度見ても怖ろしい映画だ……。 


◆姉と妹。

 あまりにも有名な本作。内容の説明はするまでもないので、感じたことをつらつらと。

 初めて本作を見たとき、ジェーンは、あの歳までブツブツ言いながらも、よくぞ介護生活を何十年も続けてきたものだと、かなり違和感を覚えた。だって、あんなに忌み嫌っている姉をだよ? いくらブランチの身体を不自由にした負い目があるからと言って、私だったら1年、いえ数か月でもムリ。ましてや、彼女は、今一度スポットライトを!! と妄想しているわけで、老婆になって、実際にピアノ伴奏者を雇って復帰準備を始めたりなんかして、、、。そこまでのバイタリティがあるのなら、もっと昔に、ブランチには世話する人を付けて、自分は仕事に復帰するべく動きそうなものじゃない? と思ったわけ。

 で、今回、改めて本作を見て、ちょっと見方が変わった。彼女は、ラストの浜辺のシーンで、ブランチに真相を聞かされた直後、こう言っている。

 「だったら私たち、本当は仲良くなれたのね」

 これを聞いて、私は、実はジェーンはブランチのことが好きだったのかな、と感じたのであります。子役時代は見下していたし、女優になってからは嫉妬や恨み辛み、醜い感情も渦巻いたに違いない。それでも、ブランチは女優としては明らかに自分より才能があったし売れていた、憧れもあったのではないか。スターが実の姉であることは、重荷でもあり誇りでもあったのかな、と。

 私にも、私より遙かに優秀な(とにかくお勉強がメチャクチャ出来た)姉がいて、私の場合、ジェーンのように姉を見下すほどの“過去の実績”は何一つなかったけれども、とかく周囲に姉と比べられるのは鬱陶しいことこの上なく、姉のこと自体は嫌いではなかったものの、そういう状況を疎ましく感じたことはしばしばあった。大人になり、お勉強云々を言われなくなってからは、性格や嗜好があまり合わないこともあり、仲が良くも悪くもないフツーの姉妹だった。けれども、その後の母親のいらぬ介入により、私と姉との間には決定的な溝が出来てしまい、以来、姉のことは正直言って好きではない(例えて言えば、同じクラスにいてもイヤじゃないけど仲良くなりたい人でもない)ので疎遠になっていた。かといって、嫌いとも言い切れず、少し前に、子育てで何年間も現場を離れていたハンディを克服し、一念発起して開業したという知らせを聞いたときは心底嬉しかったし、確かに誇らしいと感じた。開業祝いも送っちゃったもんね。

 ジェーンのブランチに対する感情も、だから、少し分かる様な気がしたのだ。ちょっと誇らしい気持ちがね、、、。ジェーンは私の感情よりもっと激しいものをブランチに抱いていたわけだけど、だからこそ、奥底にあったブランチに対する思いも、かなりのものだったのかも知れない、、、と。愛憎は表裏一体ですからね。

 そんなふうに見てみると、あの歳まで、悪態つきながら姉の世話をしていたのも、何となくアリなのかなぁ、、、と思えてきて。いや……、実際は、虐げられているように見えたブランチ自身が、ジェーンを縛り付けていたんじゃないか、、、と思えてきたのよね。

 自分はこんな身体になって、もう、女優として復帰する可能性はゼロ。引き換え、ジェーンはいくら大根とはいえ、私の妹として、例え売れなくても仕事はいくらかはあるだろう。そうすれば、例えわずかであっても誰かの注目を浴びることになる。そんなこと、絶対に許せない!! この私を差し置いて!!! ……とでも思ったんじゃないかしらん、と。

 そうでなきゃ、自分を嫌っている妹に世話される生活を敢えて続けるかね? 自分の過去の稼ぎで“食わせてやっている”と恩に着せることで、辛うじて精神的な優位性を保つことも出来るし。

 実際、あの浜辺のシーンで、ブランチは死にそうになりながら「私が死んだら独りぼっちになるわよ」などとジェーンに脅迫めいたことを言っている。これが彼女のホンネじゃないか?

 ……ということに、ようやく気付いたのでありました。だからブランチは、事故をジェーンのせいにしたのであり、それをエサに、彼女に世話をさせ、彼女の人生を奪ったのだ。自分の女優人生だけが終わりになるのはイヤだったから。彼女を道連れにしたのだわね。そんなこと、この映画をきちんと見ていれば、最初から分かりそうなもんだけど。

 というわけで、本作では、ベティ・デイビスの怪演もあって、ジェーンが怖い怖いと言われるけれど、本当に怖いのは、圧倒的にブランチだった、、、、ということでした。ごーん……。


◆ベティ・デイビス VS ジョーン・クロフォード
 
 ベティ・デイビスとジョーン・クロフォードの、実際の仲の悪さはエピソードとして聞いてはいるけど、まぁ、そんな2人を起用した監督のロバート・アルドリッチは、勇気あるよなぁ、と感心する。

 ベティ・デイビスは、本作撮影時54歳くらいのはずだけど、なんかもう、70過ぎの老婆に見える。そういうメイクをしているからなんだけど、、、。とにかく、顔が真っ白で、口紅は真っ赤(……ってモノクロだから赤くはないけど、赤く見えるほど)で、縦ロールの髪で、不気味そのもの。

 ジョーン・クロフォード演じるブランチも、本来なら同情される立場なんだけど、どうもこう、いけ好かない感じを醸し出している。どこか偽善的な雰囲気。これが、演出なのか、彼女自身の持つ雰囲気なのか、その辺が分からないところもちょっと怖ろしい。

 ジョーン・クロフォードについては、実生活でものすごい毒親だったことの方が、私にとってはイメージが強い。彼女の若かりしスター時代を知らないし、その頃の映画も見ていないので、どうしても彼女の女優としての華やかなイメージが湧かない。けれども、本作のブランチを見て、実生活における毒親ぶりが容易に想像できてしまうのだ。ああ、彼女ならアリだな、と。しかも、最初に本作を見た印象でそう感じたということは、実は、私は最初からブランチの怖ろしさを、何となく肌で感じていたのかも知れない……。

 今回再見し、あのピアノ伴奏者に関するエピソードとか、すっかり記憶から抜け落ちていて、自分でもビックリした。しかも、その母親もなかなかのクセモノだったし。

 あの後、ジェーンはどうなるのか。病院に送られるのか? まあ、司法の裁きを受けたところで、もう、彼女の心が真っ当になることはないだろうからな……。そしてブランチは? 病院で手当てされて回復して、退院後は思惑どおりにあの家を売って、そこそこの暮らしをしてくのだろうか? うぅむ、やはり、この姉妹、最初からブランチに軍配が上がっていた、ってことなのかも。

 
 








怖い女、その名はブランチ。




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永い言い訳(2016年)

2017-07-26 | 【な】




以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 “津村啓”というペンネームでテレビのバラエティなどでも活躍する人気小説家の衣笠幸夫(本木雅弘)は、ある日、長年連れ添った妻・夏子(深津絵里)が旅先で突然のバス事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。

 だが夏子とは既に冷え切った関係であった幸夫は、その時不倫相手と密会中。世間に対しても悲劇の主人公を装い、涙を流すことすらできなかった。

 そんなある日、夏子の親友で同じ事故で亡くなったゆき(堀内敬子)の遺族であるトラック運転手の大宮陽一(竹原ピストル)とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い兄妹の世話を買って出る。

 保育園に通う灯(白鳥玉季)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平(藤田健心)。子供を持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが……。
 
=====ここまで。

 「鉄人衣笠」と同姓同名であることで生き辛さを感じているという津村、、、。そんなもんかねぇ、、、。山本浩二、と同姓同名でも、別に何とも感じない人の方が多くない? 実際、同姓同名の有名人、いらっしゃいますし。

   
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 楽しかった旅の帰りの飛行機で見た作品。眠くなるだろうと思って見始めたけど、ならなかった。

 西川美和監督・脚本作品を見るのは、これが『ゆれる』に続いて2作目。『ゆれる』は、面白かったし、インパクトもあったけど、あんまり好きじゃないなぁ、、、と思ってしまった。本作も、公開時に話題になっていたけれど、まあ、少なくとも劇場まで行って見たいとは思えなかったので、今回、機内で見られるってことで、見てみました。


◆似たもの夫婦

 ネットの感想等をザッと拾い読みしたところ、結構、モックン演ずる津村について、あんな深津絵里演ずる夏子みたいな素敵な奥さんがいるのに“クズ”だの“ゲス”だの、かなりヒドイ言われ様なのが目についたんだけど……。

 夏子の出番は冒頭だけだから、彼女がどういう人なのかは、その後、津村が少し語るエピソードくらいからしか分からない。分からないが、私は、津村がそこまでクズでもゲスでもないと思うのよねぇ。

 夫婦なんてのは、良くも悪くも相乗効果なわけで、津村があんななのは、夏子の影響も少なからずあるってこと。夏子の何がどう影響して、津村がああなったのか、詳細はもちろん分からない。でも、間違いなく、夏子の何かが影響し、津村の一部を形成しているわけで、夫婦のどちらかが上等でどちらかがゲスなんてことはあり得ない。

 実際、私は、冒頭の夏子が津村の髪を切るシーンを見て、夏子に対し好感を持てなかった。なんかイヤな女だなぁ、というのが第一印象だったもの。なんというか、夫に対する上から目線的なものを感じたのよね。

 津村は、自分が二浪して入った大学に夏子は現役で入ったというエピソードに始まり、結婚に至るまでのいきさつを語るシーンがあるんだけど、そこで、夏子が亡くなった今に及んで夏子に対してすごく劣等感を抱いていることが分かる。ホントに良い夫婦関係が築けていたら、そんな分かりやすい部分の劣等感なんか克服できるはずで、つまり、夏子は津村と一緒にいることで彼の劣等感を肥大させる妻だったのよね。そして、それはあの上から目線に表れていたと思う。

 そして、夫が嫌がること(自分の出演しているTV番組を大音量で見たり、本名で呼んだり、、、)を敢えてしているところも、イヤだなぁ、と。「それはイヤだからやめてくれ」と言っていることを敢えてする配偶者、、、。ムカツクわぁ~~、私なら。張り倒したくなるかも。

 ……だから、こういう女が妻だと、夫がああなるのも分かる気がする、というかね。

 でも、ネット上の感想だと、夏子は良き妻、というのが多数派な感じなのよねぇ。……どこが?? と思ってしまう私は、やっぱし男に甘いのか?

 別に、夫が不倫に走るのは、妻に非があるから、ということを言いたいのではありません、念のため。

 津村って男は、自信がないくせにプライドばっかし高くて、自己愛が過剰な男で、まあ、ハッキリ言って魅力的とは言いがたい。でも、物書き(特に小説家)なんかになる男は、例外なく“自意識過剰のナル男”だと思うので、そういうところがカワイイと思う女も、まあいるだろう。そしてそういう女もまた、自尊心をくすぐられるんだろうと思う、そういう男が自分の伴侶であることに。だから、似たもの夫婦だと思うわけ。


◆もう愛してない、ひとかけらも。

 津村は、亡き妻のスマホに、未送信の自分宛のメールを見つけるんだけど、その文面が「もう愛してない、ひとかけらも」。、、、なんだかイヤな感じ。

 これを見て、津村はカッとなってスマホを壊しちゃうんだけれども、、、。このメッセージについて、どう解釈するかというのが、ネットのレビューでも色々書かれていました。

 私は、割とそのまんまじゃないかなぁ、と思ったクチです。あんな上から目線の妻に、夫への愛情があるようには思えなかったから。そして、そういうメールを書く一方で、ホントは「オレにはまだ愛は残っている」と夫に言って欲しがっているんだと思う。そういう女な気がする。

 自分が愛してないのはアリでも、相手が自分を愛していないのはナシ、ってやつ。

 そして、これは夏子だけじゃなくて津村も同じなわけでしょ。やっぱり、夫婦は合わせ鏡とはよく言ったモノです。

 こんな夫婦、イヤだねぇ。何で一緒にいるのよ、と思う。私が夏子なら、さっさと離婚するわ。離婚しないってことは、まだ未練があるから、、、という解釈もアリだろうけど、離婚するのもメンドクサイってやつだったんじゃないのかな、という気がする、この夫婦については。


◆また、子どもの有る無しか、、、。

 津村は、子どもを欲しくなかった。自分の遺伝子を受け継ぐ存在を世に送り出すなんてイヤだ、という感覚、私にはよく分かる。私もそうだから。子どもを欲しくない、という人間は、まあほとんどの場合、自己チューだろうね。子どもを欲しがる人が自己チューじゃないとも思わないけど。

 酔っ払って、それを、よりにもよって灯の誕生会の席でぶちまける津村。まあ、サイテーなんだけど、もっとサイテーなのがその後の展開。

 竹原ピストル演ずる陽一が、あの調子で言うわけ。「なっちゃんはさ、子ども、欲しかったんじゃねーの? 欲しかったと思うよ!!」って。

 このシーンで、私はげんなりしました。夫婦の問題に、どうして子どもが絡まなきゃいけないのかね。大体、そんなデリケートな問題に、第三者が意見すること自体、おこがましいだろ、って思う。つまり、陽一に、夏子が子どもについてどう思っていたのかなんてコメントする資格はないのよ。それは津村と夏子の夫婦にしか分からないんだから。こういうことにズカズカ踏み込む辺りは、陽一らしいけれども。

 シナリオ的に、そこに触れずにいられなかったのかなぁ? そんなことないと思うんだよなぁ。ギクシャクしている夫婦で、子がいないという設定。そして、ギクシャクの遠因の一つが、子がいないこと。まあ、分かりやすいけど、分かりやすすぎでつまんないよなぁ。そういう次元じゃない部分でギクシャクさせたら?

 いい加減、女は子作りマシーンっていう固定観念から脱却したシナリオがあってもいいんじゃないの?? 子どもの有る無しを超越した夫婦=一組の男女の物語じゃダメなのか??


◆「転」「結」が、、、残念。

 灯の誕生パーティの一件後、陽一親子との関わりが断たれて、津村は、また孤独で自堕落になるんだけど、そんなこじれた人間関係を一気にラストへ向けて解決するために起きたことは、、、。

 陽一の睡眠不足から来た自損事故。

 なんだかなぁ、、、。事故で全部一発解決させちゃうなんて。ある意味、禁じ手だよね。しかも、陽一の怪我は大したことない、みんながちょっとずつ反省するには、ちょうどいい加減の事故。

 そうなる予感はあったけど、その通りに展開させるなんて、シナリオとしてはかなり残念。やっぱり観客を裏切る展開にしてくれなくちゃ。これで本作は一気に凡庸になったと思います。

 事故後、陽一親子の関係も修復、陽一と津村の関係も修復、津村は書けなかった小説が書ける様になる、、、。あー、はいはい、よござんしたね。


◆印象に残るセリフ

 タイトルの『永い言い訳』というのは、なかなか良いなぁと思います。余所の家庭の子守をして、罪滅ぼししている様に見える津村が切ない。自分のマネージャーにも言われちゃうしね。「子育ては男の免罪符」なんて。上手いセリフ。

 津村が行き着いた「人生は他者である」だけれど、、、。なるほどな、が半分、どういう意味? が半分、、、という感じ。

 確かに、他者との関わりがあって初めて、人生と言える自分の物語は形成されると言えるだろう。けれども、自分の存在は、他者とは関係なく既に絶対的なモノであることも真理なわけで。人は一人では生きていけない、ってことを哲学的フレーズにするとこうなるのかしらん。

 でも、本当に人は、、、一人では生きていけない、、、んでしょうか?? 津村が夏子とあのまま夫婦を継続していて、互いに心は全く通わなくて、一緒にいても孤独で、それは、一人で生きていることにはならない、、、んでしょうね。夏子とは関わらなくても、愛人やら、編集者やら、マネージャーやらとは関わって生活するんだもんね。

 ま、とにかく、陽一が事故るまでは、結構イイな、と思って見ていたので、終盤は尻すぼみでガッカリでした。

 
 






灯を演じた白鳥玉季ちゃんに助演女優賞!!




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ナイル殺人事件(1978年)

2017-01-26 | 【な】



 莫大な遺産を相続した美女リネット(ロイス・チャイルズ)の下へ、遠縁(?)のジャクリーン(ミア・ファロー)が訪ねて来て、「アタシぃ、婚約したんだけど、婚約者が一流大学で経営学を学んだ男なのにプーになっちゃってぇ、超ビンボーなもんだから、この家のコンサルとして雇ってあげてぇ~~」とあつかましい頼みごとをする。

 そうして、ジャクリーンが婚約者であるサイモン(サイモン・マッコーキンデール)を連れて来てリネットに紹介した。が! なんと、サイモンはリネットに乗り換えて2人はとっとと結婚してしまうことに……!! ストーカーと化したジャクリーンは、サイモンとリネットのハネムーンを兼ねたエジプト旅行にまで着いてくる。そして、ナイル川下りの船に一緒に乗り込むことに、、、。

 その船には、様々な客が乗っていたのだが、事情を聴いてみると、皆、何かしらリネットと因縁のある人ばかりらしい。しかし、そんなことは気にせず、愛するサイモンと旅行を楽しむリネット。

 そして遂にそれは起きた。……リネットが頭を銃で撃ち抜かれた状態で死んでいたのである。果たして犯人は、、、?
 
 
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 以下、ネタバレバレなので、あしからず。


◆ミステリーとしていかがなものか。

 これは、私のような鈍くて推理力のない人間でも、序盤で犯人が分かってしまうという、お粗末極まりないオハナシなんですけれども、原作「ナイルに死す」もこうなんでしょうか? 原作は結構な長編で、そこそこ読ませる、と聞いたことがあるのですが。しかも、アガサ・クリスティ自身も、この原作が一番自著の中で気に入っていたらしいですし、、、。だとしたら、脚本化に難があったということになりますけれど。

 ピラミッドにまでジャクリーンがストーカーしてきたのを見て、こりゃサイモンとグルだろう、、、って、私でも気付きましたもんねぇ。

 それなら、倒叙ミステリーのように、いかにポワロが犯人にたどり着くか、その過程を見せてくれるのかと期待すると、それもかなり裏切られます。ポワロは、リネットが殺されて早いうちに犯人が分かったかのようなことを言っているのに、その後の連続殺人は防げないんですよねぇ。しかも、謎解きも、理詰めなわけではなくて、ほとんど勘であるところとか、うう~ん、という感じ。

 もし○○が犯人だったら、というポワロの推理に併せて、それを画で見せてくれるんですけど、これが結構イチイチ鬱陶しい。ハッキリ言っていらんと思うなぁ。これでかなり間延びした感じになったと思う。

 ミステリーの割に、全体に緊張感のない作品で、見ていて全然ドキドキしないのもね、、、。

 大体、船の乗客がみんなリネットに大なり小なり恨みがあって殺しの動機がある、ってのも不自然過ぎでしょ。それが仕組まれたことならともかく、必然性がまったく分からないんですもん。

 本作のストーリーというか、殺人の真相は、イロイロ無理がありすぎ、ツッコミどころが多過ぎな気がします。

 最初の、リネットを殺す計画だけでも、1発無駄打ちした弾が発見されたらオジャンです。それに、サイモンが部屋に1人きりになれる保証などどこにもないわけで、計画としても杜撰としか言いようがない。

 その後の、第二、第三の殺しに至ってはいわずもがな。特に、サロメ・オッタボーンが殺されるのなんて、いくらジャクリーンが射撃の腕前が良いからって、あれはないだろう、、、というテキトー(にしか思えない)な展開で、見ていてドン引きでした。あれも原作どおりなんでしょうか、、、?

 終盤、乗客を一堂に集めてポワロが謎解きをするシーンでは、サイモンとグルであることを暴かれたジャクリーンがサイモンを殺して自殺しちゃうのを、ポワロが止められないところなんか、金田一耕助かよ、と思っちゃいました。

 まあ、そんなわけで、ミステリーとしてはダメダメと言っても怒られることはないでしょう。


◆アガサ・クリスティとポワロ

 もともと読書量も多くないけど、ミステリーはさらに読む機会が少ないもので、アガサ・クリスティの推理小説で読んだ作品、多分、ないと思います。

 彼女がメアリ・ウェストマコット名義で書いた作品(そもそも多くないけど)は全部読んでいますが、こっちはどれもかなり好きです。「春にして君を離れ」を読んだときの衝撃は忘れられません。

 アガサ・クリスティ原作の映画は、相性が悪いというか、、、。といっても本作で見たのは4本目なんですけど、『華麗なるアリバイ』『オリエント急行殺人事件』はまるでダメでした。『華麗なるアリバイ』は、ミステリーとしても映画としても見どころがないし、『オリエント急行殺人事件』は、トリックはともかく、ポワロを演じたアルバート・フィニーの演技がダメでした。

 唯一、『情婦』はまぎれもない名作だと思いますけれど。

 本作でポワロを演じたピーター・ユスティノフですが、アルバート・フィニーとは違う意味で、ちょっとダメだった、、、。フィニーのポワロは、なんというか、騒々しくて下品という印象を受けたのですが、ピーター・ユスティノフは愚鈍という印象で、見ていてどちらも嫌悪感を抱いてしまいます。これのどこが名探偵なのさ、とツッコミを入れたくなってしまう。

 私の中では、ポワロ=デヴィッド・スーシェなんですよねぇ。デヴィッド・スーシェのポワロは、性格は確かに嫌味なところもあるしステキとは言えないけど、何より知性があるし騒々しくもないし品がある。見ていて、この人なら難事件でも解決しそう、と思わせる説得力がある。

 でも、ピーター・ユスティノフにはそれが感じられない。人は良さそうだけど、それだけ。そもそも太り過ぎじゃない?


◆豪華キャストは楽しい

 このキャスティングでなければ、の数があと2つくらい少なかったかも。

 ベティ・デイヴィスとマギー・スミスとアンジェラ・ランズベリーが同じ画面にいるなんて、それだけでもスゴイ迫力!

 マギー・スミスがお若い。役柄のせいもあるけど、この頃の彼女は、こういう働く女性、強い女性、という感じの方が合うような。今、ドラマ「ダウントン・アビー」で貴族のおば様を演じていらっしゃいますけど、あれはあれですごいハマっているんですけど、本作の頃の彼女もキリッとしていて素敵です。

 ベティ・デイヴィスは、いるだけで怖い! あの顔のせいもあるけど、彼女がいると、それだけで何か事件が起きそうな気がしてしまう。本作では、最初から最後まで明らかに犯人圏外だったけど、それでも十分怪しかった!!

 何といっても食い入るように見てしまったのは、オリヴィア・ハッセーですねぇ。やはり美しい。アンジェラ・ランズベリーから、オリヴィア・ハッセーは生まれんだろ! とか内心ツッコミ入れて見ていましたけれど。彼女が演じるロザリーは、母親が殺されたってのに、ケロッとして男とラブラブで下船するという強者でした。いくらなんでもそらないだろ! と、これもまたツッコミどころですね。

 あと、本作のイマイチな原因の一つが、肝心のサイモンを演じたサイモン・マッコーキンデールがイケてない、ってこと。好青年な感じではあるけど、せっかくなら目を見張るような美青年が良かった。金はないけど頭は良くて野心家な男、、、というと『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンみたいですが、まあ、アラン・ドロンとは言いませんが、せめて美しくていかにも腹に一物ありそうなジェレミー・アイアンズくらいは起用して欲しかったところです、、、。

 そうそう、犯人のミア・ファーローは、相変わらずエキセントリックな役がハマっていてgooでした!
 



私でも先が読める推理モノって、、、




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ナイトクローラー(2014年)

2016-09-21 | 【な】



 コソ泥して盗品の金属を売りさばいてどうにか生活していたルイス(ルー)・ブルーム(ジェイク・ギレンホール)は、たまたま事故現場でパパラッチの仕事ぶりを見かけ、興味を持つ。見よう見まねで、自分もパパラッチ稼業を始めたところ、どうやら性に合っているのか、撮った映像を地元のマイナーTV局が思いの外良い値で買ってくれた。

 これに味を占めたルーは、真正パパラッチに変貌していく。犯罪スレスレのことも平気で行い、いかに衝撃的な映像を撮るかに心血を注ぐようになる。

 ある日、決定的な大スクープになると確信するネタを掴んだルーは、超スクープ映像を撮影するべく、夜陰に紛れて立ち回るのだが、、、。

 ジェイク・ギレンホールが痩せすぎでコワいけど、面白い。傑作!


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 昨年、劇場に行きそびれました。やっとこさDVD鑑賞にこぎ着けました。


◆ルー君は、まさに、、、

 まあ、客観的に見たら、ホントにもうゴキブリ(以下「G」)みたいなルー君なんですけれども、ここまで突き抜けたG野郎は、むしろアッパレだとさえ思いますね。

 Gに良心だとかモラルだとか、そんなもんあるわけない。万人に嫌われようが疎まれようが、ただただ己の欲望を満たすために行動あるのみ。手段選ばず。これぞ、Gの真骨頂でしょう。いつもはコソコソ人目を忍んで暗闇を這い回っているけど、見つかったらば一転、対象物の真正面に羽音を立てて飛んで向かって行く。何者もが避けて通りそうな腐敗臭漂うモノでも物ともせずにかっ喰らう、、、。

 まさにGの生態そのものじゃありませんか、ルー君。


◆最初からイッちゃってるルー君。

 登場シーンのジェイク・ギレンホールの顔が、もう既にヤバい。こんな人、街中歩いていたらコワい。一目で危ない人って分かる人、そうそういないけど、ルー君はそれ。目がギラギラ、笑った顔は口が耳まで裂けている。ギャ~~~、口裂け男ぉ~~!!

 ルー君の生い立ちが気になるところだけれど、そういうのは一切描写無し。まあ、推して知るべしですけどね。

 彼の部屋がまた、何とも言えない。わびしい部屋なんだけれど、小ぎれいにしていて、実際、ルー君、結構きれい好きっぽい。助手のリックがガソリンをちょっと車体に着けただけで「塗装が剥げる! 今度こんなことしたら殺してやる(クビにしてやる、、、だったかも?)」とか言うんです。なんか、こういうところが、ルー君の歪みを見事に表していて秀逸。

 あと、自分を売り込むことにはもの凄い饒舌になるルー君。盗んだ金属を売りに行った社長に、「志が高くて覚えも早いです(だから雇ってくれ)」とかベラベラ喋る喋る。挙句、社長に「コソ泥は雇わない」とバッサリやられるんですけど。映像を売りに行った先のTV局のディレクター・ニーナ(レネ・ルッソ)にも、同じような文句を、これまた立て板に水のごとく、、、。でもこれが、聞いている方からすれば、ただの誇大セリフだとバレバレなところが悲しいルー君です。

 でも、ルー君の強みは、そんなことには全くめげない傍若無人さ。プライドなんかない。だって、彼はG野郎なんだから、、、。


◆我々視聴者はG以下。

 本作の何が一番気に入ったかって、もちろん、ハッピーエンディングなところです。変にルーに辛酸を舐めさせたり挫折させたりしない。つまり、説教臭くないのです、全く。

 ある意味、ブラックコメディですよねぇ。Gがトントン拍子で成功していく物語なんて、、、。

 でもって、そうさせているのは、我々一般社会。社会のニーズがあるから、Gが躍進するのです。皆、Gの姿を見れば、露骨に嫌悪感を表すクセに、Gが自分たちの知らない所で苦労してやっとの思いで手に入れた腐敗臭プンプンの代物には喜んで喰いつくんですからね。サイテーなのは、ルー君たちではなく、私たち視聴者なのです。G以下、ってことだわね。

 そう、本作は、ハッピーエンディングでなければならないのです。必然です。

 とはいえ、ルー君の起こした会社の今後は、順風満帆だと思うか? と聞かれれば、それはNOかなぁ。なぜなら、ルー君、いずれはやっちまうと思うのです、犯罪を。こちらの思い描く刺激的な映像のために、仕込み過ぎ、度を超し、、、。

 なーんて予想してしまう私は、所詮、常識人。Gは、全生物が滅んでも生き残ると言われる、地球上最強生物。いずれは、世界を睥睨するポジションに上り詰めるかも知れませんね、、、。まあ、それも面白いですが、映画でなら。


◆アメリカのニュース番組って、ホントにこんな映像流してるの?

 私も昔は、ワイドショーとか時々見てましたけれど、今は、まあそもそもTVを見なくなりました。先日、休暇をもらった際に、たまたま平日の昼間にTVを時計代わりにつけてしまったら、もう、うんざりするようなゴシップネタがあっちの局でもこっちの局でも、、、。しまった、と思って消しましたけれども。

 でも、本作に出てくるパパラッチの撮る映像は、日本のワイドショーなんて子ども騙しでさえない、真っ当なものに思える、それはそれはエゲツナイものでした。本当にこんな映像がお茶の間に流れているのでしょうか、アメリカでは、、、。日本のゲームが暴力的だとかって文句言っているけど、実際の血まみれ映像流している方が、何倍も罪だと思うんですが、、、。それって、私の感覚がやっぱりヘンなのかな。

 そして、これは日本でも言えることだけれど、TVで流れる映像は、決して真実とは限らないってこと。ルー君は、事故現場でより印象的な映像を撮るために、遺体を動かしたり、被害者宅の冷蔵庫に貼ってある写真を並べ替えたり、、、改竄しまくり。でも、視聴者は、そんなことは知らないわけで、それがそのまま真実だと思い込む。、、、恐ろしいけど、普通にやっていることよね、メディアは。

 ストーリーに則った映像の方がよりインパクトがある。だからストーリーからずれたものは排除する、あるいは、ストーリーに合うように手を加える。ニュース映像とは、作られたものなのです。北朝鮮のように、ニュース番組であってもLIVEじゃないと分かっている方がむしろ、視聴者が騙される確率はグッと下がるかも。ニュース番組で流れる視聴者の撮った映像だって、本当にそれが何の手も加えられていない、、、映像を加工していなくても対象を動かしたり排除したりしていないという保証はどこにもないのです。映像=真実、という私たちの脳みそに強く刷り込まれた思い込みを、この時代に生きる私たちは捨てるべきでしょう。

 図らずも、本作は、そういうことを見る者に教えてくれます。全く説教臭くなく、笑えるほどにブラックに。


◆その他もろもろ

 ジェイク・ギレンホールは、もう、凄いを超えて、不気味です。役者だからって、それこそちょっと度を超している気がする。どうしてもトイ・ストーリーのウッディーに見えるんですが、こんなに痩せぎすのウッディー、子どもが見たら泣くよね、、、。

 ニーナ役のレネ・ルッソ、60過ぎとは思えない色気と美しさ。ダン・ギルロイ監督の奥様なのねぇ、、、。知らなかった。調べたら、彼女の出演作で見た映画、ゼロだった! 名前しか知らなかったもんなぁ。「被害者は貧困層やマイノリティじゃダメ。富裕層の白人が一番よ」などとルー君にアドバイスする雇われディレクター役を、微妙な立ち位置が伝わる芸達者振りで見せてくれました。素晴らしい。

 あと、カーチェイスの映像が迫力満点でした。ルー君、あんな運転これからもしてたら、成功する前に死ぬよ、マジで。






本作は、G映画です。




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なまいきチョルベンと水夫さん(1964年)

2014-08-23 | 【な】



 私が生まれる前の映画が、デジタルリマスターにて、なんと、本邦初公開だとか。なぜ今なのかとか、パンフを見たけど特に記述ナシ。原作者の生誕記念とか、そういうのでもなさそう。でも、作品自体が50周年ですね。

 その原作は、「長くつ下のピッピ」の作者アストリッド・リンドグレーン著「わたしたちの島で」。この原作も、もとはリンドグレーンが脚本を書いた13本からなるテレビシリーズから生まれたのだとか・・・。「ピッピ」は私が子どもの頃にTVでドラマが放映されていて、結構ハマった記憶があり、チラシ(ポスター)の絵がとっても素敵だったので、折角だから見ておこうと劇場へ行った次第。

 、、、見て良かったです。舞台はノルウェーの小さな島「ウミガラス島」。そこに暮らす人々と動物(いっぱい出てくる)のほのぼのとした日常のオハナシで、それだけといったらそれだけの作品です。タイトルにもなっている主人公のチョルベンは、ちょっと太めの女の子で、確かに生意気なんだけど、愛嬌があって憎めないし、いつもつるんでいる女の子スティーナ(前歯がないのね、生え変わりで。可愛い)が魅力炸裂で素晴らしいです。基本的に悪い人は出てこない(嫌な大人は一人いますがまあ、ご愛嬌です)し、小さな事件は起きますがちゃんと丸く収まります。

 まあ、子ども+動物ってのは、最強のコンビですから、これだけで反則っていやぁ反則です。ただ、本作の場合、ただイイ話、可愛い、自然って素晴らしい、子どもって純粋、とか、そーゆー見え透いたあざとさがないのです。チョルベンもスティーナもそこそこ根性悪なところもあり、大人も大人げない言動をしています。動物にも演技をさせていないし。でも、全編ユーモアに満ち、とても優しい作品です。基が児童文学だからとか、そういうこともなくはないだろうけど、人の気持ちを思いやる、という当たり前のことが丁寧に描かれた、愛すべき作品だと思います。

 個人的には、ラストシーンがダメ押しでした。このラストシーンが、本作の魅力をさらにアップさせたと思いますね。素晴らしい!

 そうそう、あと、みどころは、子どもたちのファッションと、インテリアです。子どもたちの着ている服の可愛らしさ、色使いの素敵さ、50年前でも今でも変わりなく魅力的です。インテリアは、素朴ながらも住みやすく工夫された、見ていて楽しくなるものでした。今の北欧インテリアブームの根っこがここにあるのかも。

 DVD化してほしいですねぇ。そうしたら絶対買いです。

“水夫さん”ってのはチョルベンの愛犬の名前です
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