映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

人間の境界(2023年)

2024-05-16 | 【に】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv85495/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じて祖国を脱出した、幼い子どもを連れたシリア人家族。

 しかし、亡命を求め国境の森までたどり着いた彼らを待ち受けていたのは、武装した国境警備隊だった…。

=====ここまで。

 アグニエシュカ・ホランド監督作。原題は「Green Border」


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 前回の記事「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」を見に行った際に、劇場前にポスターが掲示されていて、よく見たらホランド監督ではないか、、、! ということで、そう言えばこれ見たいと思ってたんだわ! と思い出して、公開直後に見に行ってまいりました。

 ほとんど予備知識なく見に行ったのですが、あまりに悲惨な内容で、メチャクチャ疲れました。


◆ポーランド東西国境の明暗

 私がポーランドに行ったのは、2017年の7月だったが、当時、既にポーランドは右傾化していると言われていた。もちろん、たった2泊でワルシャワを垣間見ただけでは、それが本当かどうかなんて全く分からなかったが、私がフォローしているX(旧Twitter)のアカウントで、おそらくポーランド在住(それも相当の長期間)している日本人の方のものがあり、その方のツイートをずっと拝読していると、それはかなりヤバいと感じるものがあった。

 そのフォロイーの方は、長年、懸念(というか、当時の政府に対する悪口)のツイートをされていて、昨年、選挙で政権交代したときのツイートは、ホッとした感アリアリだった。

 で、本作で描かれているのは、ベラルーシとの国境付近において2021年、つまり極右政党による政治体制だった頃に起きていたことである。ベラルーシの大統領は、あのルカシェンコ。ならば、このような事態が起きていたのも不思議ではない、、、知らなかったけれども。

 冒頭、飛行機内のシーンから始まり、着陸寸前に「ベラルーシへようこそ」とアナウンスが流れる。なぜ、ベラルーシ、、、? と思ったら、それがルカシェンコの巻いた疑似餌であったと分かるのは、しばらく後。乳飲み子を抱える5人家族とアフガンの女性が国境までどうにか辿り着いたと思ったら、なぜかベラルーシから鉄条網をくぐりぬけて追い出される。アフガン女性がスマホで位置確認すると、なんと亡命を希望するポーランドに入国できているではないか! 喜ぶ女性と家族。

 私も、ポーランドに入国できたのなら良かったではないか、、、と見ていて思った。けれど、それは大間違いであった。

 つまり、ポーランド極右政府は移民・難民排斥が基本であり、ベラルーシから不法入国してくる難民は受け入れたくない。だから、ベラルーシに全力で送り返すのである。それはもう、、、酷いやり方で。

 ベラルーシは、というか、ルカシェンコは、、、というか、背後で糸を引くプーチンはそんなことは百も承知。それを狙ってこの移民・難民送り込みを行っているのだ。EU攪乱が狙い。

 プーチン、、、考えることが陰険過ぎる。相当ヤバい奴だとは分かっていたが、なんかもう、タガが外れている感じ。いやでも、これはロシアがウクライナへ侵攻する前の話である。

 ウクライナ侵攻後、ウクライナから逃れた人々をポーランドが大量に受け入れたのは、世界中にニュースで流れた。けれど、その反対側の国境では、同じ国とは思えない方法で祖国から逃れた人々を蹂躙していたことは、日本のニュースではほとんど流れなかった。

 ネットで検索したら、3年前のロイターの記事が出て来た(そのうちリンク切れすると思うので、テキストを貼っておきます)。

[ワルシャワ 2日 ロイター]
 ポーランドは2日、ベラルーシから大量の不法移民が送り込まれているとして、国境の2地区に非常事態を宣言した。
 同国と欧州連合(EU)は、ベラルーシのルカシェンコ大統領が制裁に圧力をかけるため数百人単位の移民をポーランドに送り込んでいると非難している。
 共産主義時代以来となる今回の非常事態宣言では、30日にわたって多人数による集会が禁止され、国境から3キロまでの地域で移動が制限される。
 移民支援団体は、ここ数日で既に該当地域でポーランド警察や装甲車が増えているとし、非常事態宣言により支援活動が制限され移民が打撃を受けるのではないかと懸念を表明している。
 ポーランド大統領報道官は、国境の情勢は「困難かつ危険だ。ポーランドは、国家とEUの安全保障を確保するための措置を講じなければならない」と述べた。
 

◆本作の意義とは、、、

 中盤以降は、この家族や女性たちと同様の扱いをされている人々も大勢登場し、見ているだけで脳みそも気持ちも疲弊するシーンが続く。

 ポーランド国内では、このような人権蹂躙に対して行動を起こす人々も当然おり、しかし、政府は彼らを徹底的に排除しようとする。そんな政府の意向の下に動く国境警備隊の若い男性隊員は精神に支障を来してしまう。難民支援グループに加わった女性も、一時拘束される。正直言って、何やってんだよ、、、という感じである。そこまでして排除しようとした難民たちの人数は、その後、ウクライナから避難してきた人々をはるかに下回るという。

 ネットの感想を拾い読みしたら、こういう描写がホランド監督がポーランド人であるが故の“言い訳”であり、本作の中では“雑音”である、、、という内容がいくつか見られた。

 そんな風に受け止める人もいるのか、、、と驚いた。

 この映画は、政権交代前のポーランドでは上映禁止になったそうだし、ホランド監督も保守派に脅迫されていたという。それでもこの映画を撮ったという事実よりも、ポーランド人でこの事態に心を痛めたり病んだりしている人の描写を入れたことを言い訳とか言っちゃうって、何というか、木を見て森を見ずというか、じゃあどんなんだったら満足だったの? と聞きたい気分。それに、そういう描写だって必要だし、本作では、ポーランドの欺瞞もちゃんと描かれており、たった24日間で撮影したとは思えない重厚な内容だと思うんだけど。

 人間が人間として扱われていない、虐殺が起きているのは、何もガザだけじゃない。本作で描かれていることも、これぞ文字通りの虐殺といっていいのではないか。 

 高校か中学の社会の授業で見せても良いくらいだ。

 パンフレットが充実している、、、というか、ポーランド映画といえばこの方、、、久山宏一氏の論文みたいな詳しい解説が掲載されている。監督の長文インタビューや、ベラルーシ国境に取材で滞在していたジャーナリストのコラムもある。映画のパンフは、やっぱしこうであって欲しいよね。映画ライターや畑違いの監督の感想文なんか必要ない。これで900円なら安いとはいわないけど、高くはない。

 

 

 

 

 

 


Wプーに翻弄される西側諸国、相手にもされていない我が国、、、トホホ。

 

 

 

 

★★ランキング参加中★★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦い涙(2022年)

2023-07-09 | 【に】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv80744/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 助手のカール(ステファン・クレポン)をしもべのように扱いながら、事務所も兼ねたアパルトマンで暮らす著名な映画監督ピーター・フォン・カント(ドゥニ・メノーシェ)。恋人と別れて激しく落ち込んでいたある日、3年ぶりに親友で大女優のシドニー(イザベル・アジャーニ)がアミール(ハリル・ガルビア)という青年を連れてやって来る。艶やかな美しさのアミールに、一目で恋に落ちるピーター。彼はアミールに才能を見出し、自分のアパルトマンに住まわせ、彼が映画の世界で活躍できるように手助けをするのだが……。

=====ここまで。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 そんなに大ファンでもないのに、とりあえずオゾン監督の新作と聞くと、割と見に行ってしまうのであります。このお方、ほぼ年に1作品は撮っているのではない?? そんだけ資金も人も集められるのがすごいのだけど、何より、そんだけの創作意欲が湧き続けるってのが凄過ぎる、、、と思う。普通、1本撮ったら休みたくならない? まあ、そうならないところが、凡人じゃない所以なのでしょうが。

 ……というわけで、ファスビンダーの映画をリメイクしたと聞けば、なおさら見たいと思って、見に行ってまいりました(ファスビンダー監督作の感想もあります)。


◆ファスビンダー版『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』

 まずは、ファスビンダー版の感想から。あらすじは、、、

 “二度目の結婚に失敗して落ち込むファッションデザイナーのペトラ(マーギット・カーステンゼン)は、アトリエ兼アパルトマンの部屋で暮らしている。助手のマレーネ(イルム・ヘルマン)を下僕のように扱う一方、友人が連れてきた若くて美しい女性カーリン(ハンナ・シグラ)に惹かれ同棲をはじめるが……。”

 見たのは、オゾン版鑑賞後で、オゾン版のがメチャクチャ軽く感じるくらいに、ねっとり・じっとりの濃密愛憎劇で、見終わってお腹いっぱい、、、、という感じになってしまった。

 ワンシチュエーションのセリフ劇で、主人公ペトラ・フォン・カント出ずっぱりなので、若干退屈といえば退屈だけど、ペトラがかなりヤバいので私は見入ってしまった。隣で見ていた60代くらいの女性はほぼ全編爆睡していらっしゃいましたが、何かそれも分かる気がする。

 ペトラは、自身の人生の上手く行かなさを母親との関係とか、とにかく自分以外の所に原因があると思っていて、だからとことんネガティブなんだが、気位と自意識だけはめっちゃ高いので、そのアンバランスさがまんま彼女のルックスにも表れている感じ。典型的な自己愛肥大型人間。

 ペトラの部屋が何とも異様。壁一面の絵は、プッサンの「ミダス王とバッカス」だそう。終盤になると、マネキンが3体意味ありげに重なっている。また、ペトラの衣装も独特で、途中、足元がすぼまっているドレスはめっちゃ歩きにくそうである。その上半身は、それこそ、ミダス王かというような神話から出て来たよう。

 ……まぁ、終始、ペトラの自分語りみたいなセリフが延々続き、正直、ウンザリしないでもない。


◆オゾン版では、、、

 もうちょっとドロドロした感じなのかと思っていたのだけど、実に軽~いブラックコメディでござんした。結構笑えるし、あんまり考えずに見られるので、疲れている時なんかにはちょうど良いかも。

 ファスビンダー版での主人公ペトラ・フォン・カントは女性だが、本作は男性になっていて、その名もピーター・フォン・カント。このピーターを演じていたのが、「ジュリアン」で激ヤバDV男を演じていたドゥニ・メノーシェだったのだけど、本作では弾けていて面白かった。演じている本人も楽しそうだった。

 恋人(女)に失恋してヤケになっていたかと思えば、アミールという美青年(?)を見た途端に失恋などすぐ忘れたかのように浮かれたり、アミールにつれなくされて落ち込んだり、暴れたりと、まあやりたい放題。旧知の仲の女優シドニーに八つ当たりするシーンも、おぉ、そこまでやるか!という感じの壊れっぷりで笑える。

 イザベル・アジャーニは思ったより普通に歳をとっていらしていて安心しました。何か、ムリに若作りしていたらどうしよう、、、とか若干心配していたのだけど、杞憂だった。化粧は濃かったけどね。出番もあまり多くはない。

 おおむね、ファスビンダー版のストーリーを踏襲しており、人物の設定が少し違う程度。ラスト、アミールにも、助手にも見限られて一人ぼっちになるのも、オリジナルと同じ。でも、私はオゾン版の方が気軽に見ていられて好きかな。あくまでオリジナルよりは、という意味だけど。


◆ピーターとペトラ

 オゾン版の終盤、ピーターは「アミールを所有したかった。完全支配したかった」みたいなことを言うんだけど、語るに落ちるというか、つまり彼はアミールに執着していただけで、それを愛だと思い込んでいただけでしょ。ファスビンダー版のペトラもそれは同じ。

 結局、こういう人って、誰かに依存していないと自身を保っていられないんだろうなと思う。依存=愛、だと本人は思っているけど、本来的には別物であるから苦しいのだよね。こんなに愛してるのにぃ~っ!!っていう、、、。でも、それ、愛じゃありませんから。こんなに依存しているのに!って本当のことを言えば、その異常さは明らか。

 このブログでも度々書いているけど、精神的に自律していない人の場合、本人もシンドイだろうけど、周囲はもの凄く迷惑なんだよね。

 ペトラにしても、ペーターにしても、離婚したり失恋したりして落ち込んでいるのに、直後にすぐ別の対象に恋に落ちることが出来ちゃう。……いやだから、それ恋じゃない、依存先を見つけただけなんだけど。言葉は悪いが、寄生先を目ざとく見つける寄生虫みたいなもんである。おー、こわっ。

 どちらの作品でも、秘書が打つタイプライターの音が部屋に響き渡るのが、主人公が愛だの恋だのと苦しんでいるのをあざ笑うかのようで、ある意味、その本質のメタファーであるとも言えるかもね。ペトラもペーターもその秘書に冷たく見限られているのがまさにそれではないか。

 こういう人は、ペットでも飼って、猫可愛がりしていてください。人間はペットじゃないんで。

 

 

 

 

 


ドゥニ・メノーシェはコメディの方が向いているような。

 

 

 

 

★★ランキング参加中★★

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

にんじん(1932年)

2021-12-15 | 【に】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv14979/


 
 夫婦間の愛情が冷めてしまった時期に生まれた少年フランソワは、その髪の色から家族にも“にんじん”と呼ばれていた。口うるさい母親は、にんじんの兄や姉は可愛がり、にんじんにだけ意地悪く辛く当たるのだった。父親は、とっくにそんな母親に対する愛情は消え失せており、家ではほとんどしゃべらなかった。

 にんじんは、家の中で居場所がなく、「家とは憎み合う同士が住むところ」と考え、納屋で自殺を図るのだが、、、。

 ご存じジュール・ルナールの小説『にんじん』の映画化。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が6年前の1925年に公開したサイレント映画のリメイクだそうです。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 みんシネの本作のレビューを読んだら見てみたくなったのでDVDを借りて見てみました。実は原作は(多分)未読で、話の筋も何となくしか知らなかったけど、見てビックリ、なかなかシビアな少年映画でござんした。


◆家庭の空気は親次第。

 とにかく、にんじんの母親が酷い人で、母親が出てくるだけでウンザリする気分になった。上記のあらすじには「口うるさい」と書いたけど、そんなのは超えている。悪意の塊みたいな言動をするんだよね。その母親に可愛がられている兄姉の性格も捻じくれているのは道理ですな。

 そして、もっとヘンなのが父親。妻の性格の悪さに、とうに愛想を尽かしており、家では全くしゃべらないのだ。にんじんに妻が酷いことを言ったりしたりしていても放置。釣竿を持って一人で出かけて行ってしまう。夫に完全無視されている妻は、ますます拗らせてにんじんに辛く当たるという悪循環が、にんじんの家の中では日常の光景と化していたのだ。

 子どもからしてみれば、この構図は、まさに地獄。にんじんが自殺を図るのも無理はない。

 自分の妻(夫)が、我が子に理不尽なことを言ったりしたりしている場合、自分がその理不尽から子どもを守らなければ、我が子はただただ傷つき続けるしかないのである。自らを守るすべもなければ、傷を癒すすべもない。傷の上にさらに傷ができ、抉られる。子の気持ちを考えただけで胸が苦しくなる。

 DV夫が子どもにも暴力をふるい、妻はDV夫が恐ろしくて子どもをかばうことができない、、、という話はよく聞くし、確かに、DVに遭っていると恐怖心は相当のものだろうという想像はできる。逃げるのも怖いだろうし、ましてや子どもをかばうなんてもっと怖ろしいのだろう。DV夫に怯える母子を描いた映画『ジュリアン』(2017)を思い出す。まあ、あの母親は逃げて我が子を守ろうとしたけど、案の定DV夫が追いかけてきたわけだが、、、。

 でも、本作での父親は、そういう恐怖感を妻に抱く必要などなく、現に抱いてもおらず、ただただ“ウザい”から、完全無視しているだけなのだ。

 親による子の虐待では、その背景は千差万別だろうが、母親の過干渉等の精神的虐待の場合は、その根本が夫婦仲に問題があることが多いと思う。母親の関心が子どもに集中してしまうのだよね。夫にしてみりゃ、うるせぇ妻が子どもに掛かりっきりでちょうどいいんだろうけど、父親としての責務を完全放棄しているわけで、もっと言うと、夫としての責務も放棄しているわけで、この父親が諸悪の根源といっても過言じゃないだろう。

 外面ばかりよくて、家では夫としても父親としても全く機能していない男。欲求不満で他罰的な母親。こんな2人が夫婦でいる家庭が、子どもにとって安らげる場所であるはずがない。


◆出演者のその後、、、

 フランソワが納屋で首を吊ろうとしていたところへ、父親が助けに来るんだけど、ここでようやく父と息子は心が通じ合う。父親は初めて息子を名前で「フランソワ」と呼び、フランソワもそれまで父親をルピック氏と呼んでいたのを「モン・パパ」と呼ぶ。

 このとき、フランソワが「母親が大嫌い」とパパに意を決して告白すると、父親は「わしがママを好きだと思っているのか?」なんて言う。で、この後、父親とフランソワは同志みたいになるのだよね。

 この父親の言い草を見て、もう呆れて、開いた口が塞がらなかった。この父親は、この後も基本的にはダメだろうと確信したね、このセリフを聞いて。お前、反省してないやろ!! フランソワの将来は、、、、暗い、と思う。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督作というと、大昔に『舞踏会の手帖』(1937)を見たことがあるけど、ほぼ覚えておらず、何となくイマイチだった記憶しかない。というか、あんましよく分からなかったような、、、いや、あれは別の映画だったかな。とにかく、古いモノクロ映画は、よく分からんものも結構あるので、、、。

 でも本作は、制作されてから90年、ほぼ100年前の映画なんだけれども、今見ても十分面白い。

 にんじんこと、フランソワを演じたロベール・リナンがなかなか可愛い。近所の女の子と結婚式ごっこをするシーンとか、微笑まし過ぎて、彼の家庭で置かれた状況との対比を思うと、何とも胸が痛くなる。フランソワは、ちょっとでも父親に構ってもらえると、それだけで生きる元気が湧くのだが、当の父親がそれを全く分かっていないところが見ていて非常にイラつく。

 ロベール・リナンは、DVDの特典映像での紹介で知ったのだが、その後の第二次大戦中にレジスタンスに参加し、ナチスに殺されたとのこと。子役として結構活躍してデュヴィヴィエ監督作にも数本起用されているようですね。

 にんじんの父親役を演じていたアリ・ボールもナチスに捕らえられた上に拷問され、後に釈放されたものの、その拷問が原因で亡くなったとあった。

 映画の内容もなかなかシビアだが、現実はもっと酷いと知り、何とも言えない気持ちになりました。原作を読んで、また何年か後に見直してみたい。

 

 

 

 

 

 

 

「少女ムシェット」よりラストは悲劇じゃないけれど、、、

 

 

 

 

 ★★ランキング参加中★★

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュー・シネマ・パラダイス(1989年)

2021-09-26 | 【に】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv14237/

 
 以下、映画.comよりあらすじ等のコピペです。

=====ここから。

 映画監督として成功をおさめたサルバトーレのもとに、老いたアルフレードの死の知らせが届く。彼の脳裏に、「トト」と呼ばれた少年時代や多くの時間を過ごした「パラダイス座」、映写技師アルフレードとの友情がよみがえってくる。

 シチリアの小さな村の映画館を舞台に、映画に魅せられたサルバトーレの少年から中年に至るまでの人生を3人の役者が演じる。アカデミー外国語映画賞やカンヌ映画祭審査員特別グランプリなど、各国で賞賛を浴びた。

=====ここまで。

 「シチリアの小さな村を舞台に映写技師と少年の心あたたまる交流を、あふれる映画愛とともに描いた不朽の名作」だそうです。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 映画が好きだと自称し、こんなショボいブログまで書いているのに、“不朽の名作”と言われる“名画”で見ていない映画がいっぱいありまして、、、。本作もその一つ。今まで見なかった理由は特にないけど、強いて言えば、単純に“見たいと思わなかった……”ですかね。

 今回敢えて見る気になったのは、先日見たアルモドバル監督の『ペイン・アンド・グローリー』(2019)が、 “アルモドバル版『ニュー・シネマ・パラダイス』”なんて紹介されていたからです。『ペイン~』にすごく感動したというわけでもないし、内容も何となくは知っているんだが、これを機会に、“いまさら名画”と称して、ときどきあまりにも名画な映画をボチボチ見て行こうかな、と思った次第です。

 というわけで、“いまさら名画”第一弾です。

 ……でまあ、今までそそられなかったのは、やっぱり自身の嗅覚が機能していたんだな、と確認した次第。正直言って、本作の何がそんなに褒め称えられているのか分かりませぬ。本作がお好きな方、すみません。ここから先はお読みいただかない方が良いです。

 良かったのは、トトが子ども時代の前半3分の1くらい。青年以降は、なんだかグダグダ、、、、いや、グダグダ映画でも面白い映画はいっぱいあるんだが、すんません、度々眠くなりました。何度も巻き戻して見直しました。眠くなるってのは、大抵、自分にとってはツマンナイからなんだよね(寝不足とか、体調が悪いとか、ということもあるが、、、)。

 アルフレードはトトがあんな幼い頃に既にオジサンにカテゴライズされてよいような年齢で、亡くなったのが、トトがもう初老に差し掛かったような年齢であるということは、一体おいくつまで生きられたのか、、、? なんてことは、多分どーでも良いんでしょうね、この映画では。

 何がツマンナイのか、と言われましても、ツマンナイものはツマンナイのであって、立派な理由などないのだが、青年期以降は、トトの物語がすごく薄っぺらくなったかなと。恋をして、失恋して、故郷を離れて、成功しました! ってこれ、トルナトーレの自伝的な映画なのか? と思いきや、そういうわけではなさそうだしね。

 自伝的な映画ならまあ、自慰映画ってことで、それもありかな、とは思うのだが。トルナトーレが33歳のときに発表された映画なんだよね、これ。つまり、撮影したのはそれより前だから、32歳かそれくらいでしょ? 随分、ジジくさい作品撮るんだなー、と、むしろ驚いたわ。

 アルフレードに強引に背中を押されて故郷を離れたトトだが、私はこういう“受身な生き方”をする人間にあまり魅力を感じない。不可抗力に押しつぶされる人と、流される人ってのはゼンゼン違う。トトは流されているとまでは言わないが、受身だよね、生き方が。美少女に猛アタックしたではないか、とツッコミが入るかもだが、自然消滅しているではないか、と一応反論しておきましょう。私は、フィクションの世界でもリアルでも、恋愛を“自然消滅”で終わらせる人が嫌いなのだ。

 トトは、だから女性関係にも主体性がなく、こんな人が一体、どんな映画撮ってんねん?って感じ。そんな素晴らしい作品が、こんな人の手から生み出されるものだろうか?

 印象に残ったのは、火事の直前、アルフレードが建物の壁に映画を投影するシーンくらいかな。

 有名なラストだけれど、あのキスシーン寄せ集めで感動する人が多いそうだが、、、すんません、何がそんなにイイのか分かりませんでした。一応、その意味は分かっているつもりだけど、、、あのキスシーンで知っている映画が多い人ほど感動する、ってみんシネに書いている人がいたけど、そういうものかね? 私は、2つ3つくらいしか分からなかったからかしら。

 本作には、3時間超えの完全版なるものがあるらしいが、そちらは本作とはかなり違うようだ。話が違っている、、、というみんシネでの書き込みも見たし。けど、そっちを見てみたいとは全く思わないので見ません。

 ……というわけで、どれほど世間で名画といわれていようが食指が動かない映画ってのは、何かしら勘が働いているのだと確信したので、この企画、1本で終わっちゃうかもです、、、。ごーん。いや、見たいなぁ、と思いながら見ないまま来てしまったという映画も少なからずあるから、続けられるかな??

 

 

 

 

 

 

 

少年トトは可愛かった、、、。
  

 

 

 

 ★★ランキング参加中★★

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニューヨーク 親切なロシア料理店(2019年)

2020-12-31 | 【に】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71678/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 NYマンハッタンの片隅にある老舗ロシア料理店ウィンター・パレス。創業100年を超えるかつての名店も、今や古びて料理もひどく、潰れかけている。

 店を立て直すために雇われたマネージャーのマーク(タハール・ラヒム)は刑務所を出たばかり、常連客の看護師アリス(アンドレア・ライズボロー)は他人のためだけに生きる変わり者と、店に集まるのは一癖ある人ばかり。

 そんな料理店に、二人の息子を連れて夫のもとからニューヨークへ逃げてきたクララ(ゾーイ・カザン)が飛び込んでくる。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 あと1日で、コロナに振り回された2020年が終わります。毎年、1年の過ぎるのが速く感じるものだけど、今年は特に速く感じたような。でも、2月末にロシアに行ったのは、はるか昔のようにも感じ、、、。

 その、ロシアがタイトルに入っている本作。舞台はNYでも、ロシア料理店が重要な場所となっているのなら、ちょっと見てみたいと思い、劇場まで行ってまいりました。平日の昼間とは言え、サービスデーだったにもかかわらず、劇場はガラガラ、、、。40人くらいは入っていたかな。


◆邦題に騙される。

 ロシア料理店、、、に期待して見に行った者としては、その期待を大きく裏切られたとしか言い様がない。ロシア料理、ほとんど出て来ないんだもん、、、がーん。マジかよ、、、って感じだった。

 DV夫から逃げてきた子連れママが逃げ込んだのがウィンター・パレスという名のロシア料理店だった、というだけで、ほかにはほとんどロシア要素ナシ。店のオーナー・ティモフェイ(ビル・ナイ)がヘンなロシア訛りの英語を喋っているけど、それもわざとであって、彼自身は生粋のニューヨーカーだもんね。店は、彼のお祖父さんが移民としてロシアからやって来て開いた、ということになっている。

 ……というわけで、ロシアを当てにしていたので、ガッカリ感が大きかったのだけれど、映画としてはまあまあ。でも率直に言って“好きではない”。

 DVの夫から家族が逃げる話といえば、『ジュリアン』が思い浮かぶが、『ジュリアン』の方がDVの怖さは圧倒的であったし、本作より雰囲気は全体にシリアスで緊迫していた。本作のDV夫も終盤その怖ろしさの本質の直接描写があるが、やはり、ああいう人間からは逃げるしかない。

 それを前提で敢えて書くが、本作の母親クララだが、子連れで逃げるにはあまりにも無防備・短絡的で、正直なところ、同情できないどころか呆れてしまった。いくら夫が警察官だからって、福祉を頼ることはできるわけで、恐らく日本よりもそういうシステムは民間含めて整っていると思われる。子どもを殴っているところを「ある日見てしまった」と中盤でクララは言っているが、つまり、殴ったのを見た日の翌朝、追い詰められてすぐ逃げ出した、というわけじゃなさそうなんだが、少なくとも数日間あったのなら、逃亡中の衣食住の手段くらいは考えておけよ、と思う次第。子どもを守るために逃げたのだったらなおのこと、これじゃあ、むしろ母子共倒れパターンではないか。自分ひとりで逃げるのなら構わんが、子連れなら、そこは母親として最低の義務だろう。

 喰うに事欠いて、パーティ会場に忍び込んでオードブルをそのまま鞄に突っ込んでいるのは、見ていてビックリしてしまった。パンフに、クララを演じたゾーイ・カザンのインタビューが載っており、そこで、このクララの行為について、彼女は監督に「クララはこういう行為をどこで身に付けたのか?」と質問したと書いてあった。しかし、脚本も書いている監督は、「そこまで考えていなかった」と答えたそうだ。そこで、彼女はクララの生い立ちについて自ら想像力を働かせてあの演技になった、と言っている。監督の答えも、これまたビックリなんだが、、、。

 あと、クララに新しい恋が始まる、、、というエピソードもちょっとね。子連れで逃げている状況で、手を差し伸べてくれた男性と恋愛関係になるってのは、まあ、現実にはそういうこともあるだろうけれども、この映画では余計な要素だった気がする。むしろ、そういう色恋がない方がよりヒューマニティを感じられる話になったのではないか。

 それに、弱っている状況の女性と、すぐそういう関係になろうとする男なんてまったくもって信用ならん。クララがこんな状況に陥るのも、こういう恋愛にすぐ走る性質があるからじゃない? DV夫とも、確か、17歳のときに何かの事件の被害者と警察官として出会って、優しいからすぐ結婚した、、、、みたいなことを話していた気がする。学習しろよ、、、とオバサンとしては言いたい。またハズレ掴むぞ、そんなんじゃ。

 ……というようなところが引っ掛かってしまい、好きではない、と感じた次第。


◆その他もろもろ

 本作の監督はロネ・シェルフィグ。彼女の監督作品は本作が初めてだが、『17歳の肖像』とか『人生はシネマティック!』あたりはちょっと気にはなっていたが劇場に行きそびれていた。本作も、邦題に“ロシア”の3文字が入っていなかったら劇場に行っていたかは怪しい、、、。デンマーク出身ということもあるのか、わりとフェミ的な要素もある映画を撮っているようだが、本作を見る限り、ちょっと脇が甘い気がした。それは、上記に書いたような理由からだが、まあ、他の作品も見てみないと何とも言えないかな。でも、あまり期待は出来ない感じがする。

 クララを演じたゾーイ・カザンは、あのエリア・カザンのお孫さんだそう。彼女の長くて濃い八の字眉毛が終始気になってしまい、彼女のアップのシーンなんかは映画に集中できなかった、、、。エリア・カザンは、正直なところあんまし好きじゃない(作品もだけど、赤狩り時代の言動がね、、、)けれども、彼女は良い女優さんだと思うわ。脚本も書くらしいし、道理で、監督にクララの生い立ちについて質問したってのも納得。

 本作で一番のキーマンは、アンドレア・ライズボローが演じたアリスだろう。主役のクララより、よっぽど人間として魅力的だ。それは、看護師でセラピーの主催者で炊き出しの手伝いもしているから、というのではなく、私自身が彼女のような内省的な人に惹かれるから。ちょっとくたびれた感じのアンドレア・ライズボローが良かった。

 そして、一番存在感があったのが、ちょっとしか出て来ないビル・ナイ。3代目のオーナーなのに、全くオーナー然としておらず、時にはピアノを弾いて、店番かと勘違いされそうな具合に店の入口で本を読んで、たまに接客すれば「ここで一番の料理はキャビア、缶詰だから失敗しようがない」などと言う。飄々としていて、ビル・ナイの雰囲気にピッタリ。彼自身、ティモフェイのことを「ストーリーの蚊帳の外で漂っている存在で、惨めな奴でもある。少なくとも惨めに見え、不機嫌そうで幸せではない感じがする」とパンフのインタビューで語っている。

 別のインタビューによれば、彼は役作りのためのリサーチはほとんどしないそうで、そこで「必要なことは全部脚本に書かれているよ。書かれていない背景まで読み取れというのは、脚本家の怠慢だと思うね」とも言っている。これは至言だろう。シナリオの行間を読め、、、とか言う人もいるが、やはり、シナリオはそれで完結していなければシナリオとしては上等とは言えないんじゃないか。このエピソードを読んで、彼に対する好感度がさらに上がった気がするわ。 

 

 

 

 

 

 

 

ボルシチとかピロシキとかを美味しそうに食べるシーン、、、見たかったなぁ。


 

 



 ★★ランキング参加中★★

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2重螺旋の恋人(2017年)

2018-09-01 | 【に】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 原因不明の腹痛に悩まされていたクロエ(マリーヌ・ヴァクト)は、精神分析医ポール(ジェレミー・レニエ)の元を訪れる。穏やかなカウンセリングによって痛みから解放されたクロエは、ポールと恋に落ち、同居を始める。

 そんなある日、クロエは街でポールにうり二つの男と出会う。ルイ(ジェレミー・レニエ)と名乗るその男はポールと双子で、しかも同じ精神分析医だという。

 なぜポールはルイの存在を隠しているのか。真実を突き止めようと、偽名を使ってルイの診察室に通い始めたクロエは、優しいポールと異なり傲慢で挑発的なルイに惹きつけられていく……。

=====ここまで。

 オゾン作品は、何となく見たくなるというか(見ていない作品も結構あるけど、、、)、本作も予告編を見て、ううむ、、、という感じだったけど、結局見に行ってしまいました。……まあ、なんというか、あんましオゾンぽくないような、……でもやっぱしオゾンかなぁ、、、とか、ちょっとモヤモヤ感が残る作品でございました。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


◆クロエ=オゾンの思い込みの塊、じゃない?

 私のオゾン作品に対するイメージは、シニカルで意地悪、妄想もリアルも入り乱れサスペンス色濃く、人間の醜さを描いている、という感じなんだよね、、、。妄想も結構あるけど、リアリティというか、人間のリアルな醜悪さを描いていることが多いので、あまり観念映画を作る人というイメージはなかったんだけど、本作は、もう徹頭徹尾、彼の観念映画としか思えなかった。

 彼はゲイだから女性を客観的に見ている、というのはよく聞くオゾン監督評だが、本作に限ってはそれは当てはまらないと思う。マリーヌ・ヴァクト演ずるクロエは、オゾン監督の脳内で産み出した、彼の女性に対する“思い込みの塊”に見えて仕方がなかった。

 つまり、女は優しいだけの男には飽き足らず、粗野な男に(適度に)乱暴に扱われることを密かに望んでいるはずだ、という思い込み。オゾン監督ほどの人でも、そんな巷で言われる陳腐なデマを信じるものなのねぇ、、、と、まあぶっちゃけて言えば、軽く失望したのよね。

 彼はフランス映画祭で来日した際に、「私がこの作品で描きたかったのは『性の不満足』。セックスと心の問題の乖離だ」と語っているとか。性の不満足の解消=パートナーと正反対の性癖を持つ相手とのセックス(本作の場合はそれが“暴力的なセックス”)ってのはかなり短絡的な思考回路だと思う。彼がそう考えたかどうかは定かではないが、本作を見る限りは、そう考えたんじゃないかと思える。

 これって、非常に危険な思い込みで、こういう思い込みの延長上に、「女にはレイプ願望がある」とかいうトンデモな発想があるわけで、ハッキリ言って、女の私からするとかなり不快である。

 暴力的なセックスを好む女性はいるかも知れない。しかし、だからといって、“女は暴力的なセックスもOKなんだ”という思考は、絶対的にNGである。セックスの嗜好は千差万別だから、それは当人同士がきちんとコミュニケーションをとりながら楽しむものであって、飽くまで当人同士の間の了解があってのこと。本作では、ルイがいきなりクロエを襲うという、レイプまがいのシーンもある。

 別に本作で、クロエにレイプ願望があるという描写がされているわけではないけれど、優しいポールと荒っぽいルイとの3Pをクロエが妄想するシーンがあり、これなんかは、もうホントに言っちゃ悪いがゲスな男の妄想シーンとしか思えなくて、苦笑してしまった。オゾン監督も、ヘテロの男とおんなじこと考えるんやなぁ、、、と。だから、ちょっとオゾンぽくないような感じを受けたわけ。


◆どこまでがリアルなのか、、、?

  双子って、創造力を刺激する存在なんでしょうねぇ。本作を見ながら、クローネンバーグの『戦慄の絆』を思い浮かべておりました。『戦慄の絆』でも、やはり双子が1人の女性を共有していたのだけど(その女性を、大好きなビジョルドが演じていたけど、あの作品でのビジョルドはイマイチ素敵じゃなかった……)、あちらの作品はリアルな世界での出来事を描いていて、ジェレミー・アイアンズ演ずる双子は悲劇的かつグロテスクな最期を迎えていた。

 方や、こちらのポールとルイの双子は、、、私は見ている間中、ルイの存在はクロエの妄想ではないかと感じていた。しかし、終盤、ポール自身がルイのことを語るシーンもあり、ああ、やっぱり双子なんだ、、、と思わせられる。それに、この双子はある女性を悲劇に陥れた過去を共有しており、その事実をクロエが突き止める、、、などというエピソードも出てくる。

 まあ、あとはネタバレになっちゃうから書かないけれども、とにかく、この双子が実在するものと確信させられた挙げ句に、ラストで足下を掬われるわけだから、こういう作りは、やっぱしオゾンだなぁ、と思った。決して観客を安定した場所に置いておかない、という意地悪さ。まあ、そこが好きでもあるんだけど。

 終盤出てくるジャクリーン・ビセットが結構カギを握っていると思う。え、、、ええ~~??な役回り。彼女が、クロエが入院して駆けつけたときに襟に付けていたのが、あの“猫のブローチ”(詳しくは本作を見てください)ってのが、うわぁ、、、って感じだった。未見の方には何のことやらさっぱり分からなくてスミマセン。


◆その他もろもろ

 マリーヌ・ヴァクトは美しかった。ちょっと、ビノシュを思わせる感じがしたんだけど、それってあんまし彼女にとっては嬉しくないことかしらん? 途中、ルイとの関係を重ねるうちに、どんどん妖艶さをまとって美しくなるんだけど、この辺の描き方も、若干陳腐さを感じた次第。まあ、精神的にも肉体的にも充たされていく、、、ってことを描いているんだろうけどね。

 全裸で椅子に座っているシーンで、マリーヌ・ヴァクトもジェレミー・レニエも、段腹なんかにゼンゼンなっていなくて(アタリマエか?)、こういうところも役者さんって大変なお仕事よねぇ、、、などと思ってしまった。

 クロエが苦しんでいた腹痛の原因が、“寄生性双生児”だった、と判明するシーンは、ちょっとグロいです。寄生性双生児って、もしかして、「ブラック・ジャック」のピノコが生まれたエピソードと同じかな? ピノコは人間になるだけの“部品”が奇形嚢腫にあったのだけど、本作では、、、(グロです)。

 双子を演じたジェレミー・レニエが頑張っていました。当初は別の俳優になるはずだったけど、その人が降りちゃった、、、とのこと。ゼンゼン違うキャラの人間を見事に演じ分けておられました。『戦慄の絆』のジェレミー・アイアンズ演ずる双子は、どっちがどっちか分からなくなる場面もあったけど、本作は混同することはまったくナシ。奇しくも双子を演じたのはどちらもジェレミーだね、、、。ものすごくどーでもよいことで、、、スミマセン。








ラストシーンでビックリ&ちゃぶ台返し!?




 ★★ランキング参加中★★
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二重生活(2016年)

2017-04-03 | 【に】



 大学院生の白石珠(門脇麦)は、同棲相手でゲームデザイナー(?)の鈴木卓也(菅田将暉)との倦怠感漂う生活をする一方、修士論文に行き詰まって(?)いた。

 ある日、指導教官である篠原弘(リリー・フランキー)から、ソフィ・カルの「文学的・哲学的尾行」を実践し、それを修論にしてみてはどうか、と提案を受ける。興味を持った珠は、尾行対象として、自宅アパートの向かいの豪邸に住む出版社の名編集者でイケメンの対象者A(長谷川博己)を、ただ通りがかりに見かけただけの理由で選んで、尾行を開始する。

 すると、対象者Aは、理想の夫という近所の評判とは裏腹に不倫していることを珠は知ってしまう。そして、対象者A自身にも尾行がバレる。

 ……果たして、珠の修論は仕上がるのか!!


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 昨年、少し気になっていた映画。劇場に行こうかどうしようかと思っている間に終映してしまったので、DVDを借りてみた次第。まあ、劇場まで行ってたら金返せレベルでしたね、多分。

 
◆あれは尾行ではなく、ただ後ろをついて歩いているだけである。
 
 なんか、珠さんが尾行するに至るまでの経緯があまりにも???で、序盤で気持ち的に挫折。「文学的・哲学的尾行」とやらがどんなものか全く存じませんが、作中でも何やら一節を読み上げているシーンがあったような気がしますが、意味不明、、、。

 でもまあ、本作の主題は、動機よりも尾行とその結果よね、と気を取り直し先を続ける。

 なんとも珠さんの尾行のお粗末なこと、、、。あんなの、思いっきり気付かれるでしょ、ってなもんです。まあ、奥行きは出しにくいのは分かるけど、だったら、もっと珠さんと対象者Aを離して撮れよ、と思う。あれじゃあ、せいぜい3メートルくらいしか離れていないようにしか見えない。しかも、物陰に隠れるとかほとんどしない。ただ、後をついて歩いているだけ。あれで気付かないなら、尾行されている方に何か問題があるとしか思えない。

 しかも、珠さんは、対象者Aの入ったカフェとかにもずんずん自分も入っていき、目と鼻の先の席に座る。目が合いそうになると、思いっきり不自然な感じで目を逸らし、前髪をいじったり本を読んでいるふりをしたりする。、、、見ていて、こっちが恥ずかしくなるくらいの稚拙な演出。もうちょっと何とかならんのか!!

 あんなにド下手な尾行なら、すぐに対象者Aに気付かれる展開にするんなら分かる。でも、なかなか気付かれないんだ、これが。

 その対象者Aは、昼間っからビルの谷間で浮気相手の女とセックス。その後、シレっと娘へのプレゼントにケーキなんぞを買って帰宅。別の日は浮気相手の女とホテルにしけ込み、出て来たら、オサレなフレンチレストランでその女と痴話げんかをおっぱじめる。しかも、そのレストランには珠さんも潜入する。対象者Aから丸見えな席に座る珠さん。

 ……とまあ、こんな具合に、尾行シーンにヒヤヒヤもドキドキもほとんどなく、見ていてバカバカしくなってくる。いくらフィクションだからって、もう少しマシな見せ方考えろっての。リアリティとかどーでも良いっていうんなら、こんな中途半端な映画作ってんじゃねーよ、と思う。


◆二重生活?

 正直、最後まで見終わっての感想は、結局何だったのか、この映画は、、、、である。

 珠さんは、修論で何やら結論めいたことを書いていたけれど、見ている者に何か伝わってくるものがそこにあるわけでなく、ものすご~く上っ面な文章がナレーションで読まれているだけ。あんなんで修士とれる大学院ってどんなん? 哲学ってあんなんなんですか? おいおい~~。

 ……とまあ、そんなマジメなツッコミは野暮ですね。

 尾行する珠さんの一挙手一投足をしつこく撮影するというこの映画。その趣向はまあ、分からんでもないというか、映像作家的にそそられるんだろうなぁ、とは思うけど、映画としてはこれだけじゃねぇ、、、。インスタントコーヒーにお湯を入れないで、「飲め」ってカップを出された気分だ。飲めるかこんなもん!!

 長谷川博己演じる浮気男は、まあ、ものすごく類型的だわね。一見エリートで幸せな家庭のパパ、でも浮気男。こんな男の尾行して何が面白いのさ、と思う。映画だったら、もっとぶっ飛んだキャラの尾行させてよ。大体、エリートである必要なんぞないだろう。昼間っからぶらぶらしてるやけにオシャレな男で、家族は普通に暮らしているみたいだけど、家はゴミ屋敷で、シャレ男の尾行したら、実は……!!!みたいなのとか。エリートの化けの皮でも何でもないでしょ、浮気男なんてさー。掃いて捨てるほど転がっているネタを今更やってどーする?

 浮気男の人物造形も、冷たくて、利己的で、妻が自殺未遂したらあっさり浮気女と別れて、、、とか、ゼンゼン魅力なし男。ううむ、、、なんでこんなつまらない設定を敢えて選んだのか。

 尾行をする意味が分からん、と思いながら見ていたら、対象者Aの尾行が強制終了してしまった後、篠原教授が「対象を変えて続けろ」といって、珠さんが教授自身を尾行し始めた辺りから、ますます???となり、珠さんの尾行から見える教授の生活と、実際の教授の生活実態は、全く異なるものだった、というところへ至って、鈍い私は、ようやく気付いたのであった。なーんだ、客体と主体ね、、、ガクッ。

 エリートで良きパパVS浮気男、妻と仲の良い夫VS派遣妻を雇って親を看取った男、修論に励む院生VS尾行にのめり込む女、、、、これって二重生活っていうのか? これはただの二面性であって、そんなの人間ならアタリマエのことじゃん。

 そんだけのことを描くのに、このもったいぶった描き方は、一体、、、。それとも何かもっと見るべきものがあったのかなぁ。ゼンゼン響かなかったんですけど、私には。

 リリーさんと西田尚美さんの偽装夫婦が、本当の夫婦より幸せそう、という感想を見たけれど、ある意味そんなのはアタリマエで、西田さんはオシゴトなんですからね。そして、まあ、本作はきっとそこが言いたいのかも、と思いました。つまり、現実はそんな絵に描いた様な単細胞なもんじゃない、ってこと。、、、ま、これは深読みですけどね。

 原作を読んでいないけれど、いずれにせよ、原作はきっともう少し奥が深い話なんだと思いたい。


◆その他もろもろ 
 
 門脇麦さん、何かのドラマでチラッと見た気がしますが、まともに見たのは本作が初だと思う。んーー、正直なところ、あまり上手いのかどうか、分からなかった。ほとんど笑わない役だったし、院生なのもあって、かなり暗~~い人というイメージになっちゃったかも。でも、違う役ではゼンゼン違う側面を見せてくれそうな感じもする。もうすぐ始まる舞台「フェードル」を見る予定なので、一応楽しみ。

 長谷川博己は、最近めっぽうご活躍だけど、私はあんまし好きじゃない。このツルッとした感じの、爬虫類的な肌触り感を想像させる雰囲気がどうもダメである。本作の様に、自己チューで冷酷な男はお似合いです。彼の出演作は漱石を演じたドラマを含めて数本しか見ていないけれど、割と、何の役を演じても長谷川博己な感じがする。漱石ドラマも、尾野真千子さんに完全に喰われてしまっていたし、、、。彼のファンの方すみません、、、。

 リリーさんは、私は俳優として決して嫌いじゃないけれど、本作でのリリーさんは、ただのキモいオッサンにしか見えなかった、、、。すんません。

 ううむ、何か、雰囲気は悪くないのに、完全に雰囲気映画で終わっちゃっている気がする。マズイのは、シナリオと演出だと思われる。ちょっと調べたら、この監督さん、NHKドラマ「戦後70年 一番電車が走った」の脚本・演出も手がけていたのですね。このドラマは見たけれど、正直、素材は良いのにドラマはイマイチ、と思ったのでした。やはり、この監督さんの感性は、私には合わないようです。








期待外れでした、、、ごーん




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人魚伝説(1984年)

2017-02-09 | 【に】



 とある漁村。海女としてアワビ漁をしていた佐伯みぎわ(白都真理)と、夫の啓介(江藤潤)は、新婚で、喧嘩もするが仲の良い夫婦だった。

 ある晩、啓介は夜釣りしている男の乗った小舟が爆破され、男が殺されるところを目撃する。そして、数日後、爆破事件の真相を探ろうと、海に出ていた夫婦を何者かが襲い、啓介は殺され、みぎわも殺されそうになるが、負傷しながらも何とか逃れる。

 しかし、啓介殺しの犯人にされてしまったみぎわは、啓介の友人・宮本祥平(清水健太郎)を頼って、村から近い渡鹿野島に渡り潜伏することに。そこで、みぎわは啓介殺しの真相を知り、復讐鬼と化して村に戻ってくる、、、。

 本作の監督・池田敏春氏は、本作のロケ地で、2010年水死体となって発見されています。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 知る人ぞ知る、という本作。レンタルでもレアものらしく、しばらく上位に置いておいたんですが、このほど送られてきました。まあ、B級ではありますが、かなりの力作だと私は思います。いろんな意味で「根性が伝わってくる映画」です。


◆余談~大河ドラマの話。

 白都真理さんと言えば、私は、大河ドラマ「草燃える」なんですよねぇ、、、。郷ひろみ演じる源頼家の妻(比企能員の娘)を演じておられました。北条政子に疎まれる頼家を慕い、実力者の政子に堂々と刃向う、なかなか気骨のある女性を演じておられた記憶があります。頼家の死後、北条軍に攻め込まれた際(比企能員の変)の、白装束で敵を見下ろす姿が印象的でした。

 ちなみに、どーでもよいけど、そのとき、実朝を演じていたのが、篠田三郎だったのですよねぇ。小学生だった私は、実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されるシーンを、胸がつぶれる思いで見ておりましたヨ、、、。

 そうそう、どーでもよいついでに、そのとき、義経を演じてたのは、国広富之でした。当時は、美青年で、子ども心に「ハマリ役だぁ~~」と見惚れておりました。でも、静御前が友里千賀子で、なんか、合わないなぁ、、、と残念にも思いましたねぇ。懐かしいわぁ。

 思えば、「草燃える」は、かなりの美男美女揃いだったような気がします。北条義時を、まだ顔が四角くなっていなかった頃の松平健、その恋人茜を、まだ細くて可憐だった松坂慶子、頼朝は若かった石坂浩二、北条政子は当時から泣く子も黙る岩下志麻、政子に片思いする下級武士を眼光鋭い滝田栄、、、すげぇ~~、豪華キャスト!! 今の大河とは重みが違ったよなぁ、当時の大河は。出ている人も、作りも。

 大河ドラマは子どものころから熱心に見ていたけれど、「草燃える」は、中でも記憶に強く残っている作品の一つですねぇ。中島丈博脚本だから(この人のドラマは当たり外れが激しい気がするけど)、やはり、骨のある大した作品だったのでしょう。ホント、懐かしい。

 思うに、大河ドラマは、恐らく1986年の「いのち」が分岐点でしたね、多分。あれは、大河ドラマとしては非常に邪道で、内容も酷かった。その後、「独眼竜政宗」「武田信玄」で軌道修正を図ったものの、一度狂ったものは元には戻らないものです。緒形直人の「信長」で再び崩れ、「毛利元就」で完全にホームコメディドラマ路線に陥ってしまいました。

 極め付けは「利家とまつ」ですかねぇ。もう、大河も終わったな、、、と思ったものです。主役の俳優が、思いっ切り軽くなったのもここからのような……。


◆木綿のパンツと白いソックス

 、、、と、脱線が過ぎました。白都真理さんの話。

 「草燃える」の後は、2時間ドラマとかでよく見たような、、、。あんましハッキリは憶えていませんが、天知茂演じる明智小五郎の「美女シリーズ」とかにも出ていたような。その後は、セクシー写真集とかで時々話題になっていたのを覚えています。

 別に、好きとかじゃないけど、とても印象に残る女優さんだったんですよねぇ。演技が上手い、とは言い難いけど、一度見たら忘れられない人です。

 本作では、そんな彼女が、まさしく文字通り“体当たり”の演技をしています。もう、この役を演じたその根性だけでもアッパレだと思います。今時の若い女優さんで、こんな根性のある人、そうそういないでしょう。

 夫殺しの濡れ衣を着せられ、逃げた先の渡鹿野島では、宮下順子さま演じるママのバーで働くんですが、そこの住み込みの部屋で、清水健太郎演じる金持ちのボンと激しいセックスシーンが展開されます。

 このシーンがね、結構、面白いんです。長回しで(多分)ワンカットで撮っているんですが、その間、アクロバティックに体位を変える変える、、、。真理さん演じるみぎわは、ゼンゼン気持ち良さそうじゃない。これは、監督の池田敏春氏がロマンポルノを撮っていた人であることも大きいでしょう。そうでないと、こんな濡場の撮り方しないような気がします。まったく官能的ではないけど、切迫した何かが伝わってきます。

 しかも、ここでの清水健太郎は、全裸なのに、なぜか白いソックスだけ履いている!! これが結構ウケる。なんだよー、そのソックス!!

 おまけに、みぎわの履いているパンツなんですが、パンティーじゃなくて、パンツなんですな、これが。木綿の。ヘソまであるような白いの。ううむ、まったくセクシーじゃないのが、なぜか切実感を演出している。

 決して生々しくはないのです。私は、生々しいセックスシーンは超苦手で、しかも長いとうへぇ、、、ってなってくるんですが、本作の場合、そういうのがないの、長いのに、激しいのに。何かこう、、、痛々しいというか、哀しいというか。ストーリー上、決して悦びを感じるセックスじゃないので、当たり前かもしれませんけど。

 この監督さんは、セックスを美しいものとして撮ろうとはゼンゼン思っていないのでしょう。実際、セックスなんて現実には美しいもんじゃありませんしねぇ。美しく撮っている映画は、それはそれでステキなものもありますが、こういう、男と女の現実的な肉体のぶつかり合いとしてのセックスの描き方も、なかなか良いものだなぁ、と本作を見て思いました。


◆白都真理in全裸殺戮シーン

 その後も、ヤクザ者にほとんど強姦されるようなシーンもあるんですが、このヤクザが、清水健太郎演じる宮本祥平(地元土建屋社長で、事件の黒幕・宮本輝正の息子)が刺客として送り込んだヤツなんですね。祥平は、みぎわのことが好きだったけれども、簡単に好きな女を売ることもできる性根の腐ったどうしようもない男なんです。

 でも、みぎわは、そんな刺客に簡単に殺されるようなタマじゃなかった! ヤクザ者を返り討ちにして、自らも返り血を浴びて真っ赤になります。このシーンがなかなかスゴイ。血飛沫バーーッて感じなんですが、わざとらし過ぎるので、あんましグロさはないですね。でも、グロくはないけど、真理さん演じるみぎわは全裸で逃げ惑い、ヤクザ者と格闘し、時には大股開きまでして、ドスでヤクザ者をメッタ刺し!!! すげぇ迫力の真理さんを存分に堪能することができます。

 とはいえ、これは、みぎわの復讐劇のほんの序章。本編は、これから。

 そもそも、何でみぎわの夫は殺されたのか。彼が見た小舟の爆破による男の死の背景には、この漁村近くに持ち上がったレジャーランド計画があります。この計画、レジャーランドは表向き。実際は、「原発建設」だったのです。近畿電力(関電のモデル?)の、いかにもな社員と、土建屋社長の宮本輝正らが、それこそ、頭の黒い鼠よろしく会合しているシーンとかありまして、宮本社長「俺が動けば、何でもすぐに解決するんや!!」と豪語しております。この原発建設に難色を示していた土建屋の社員を殺したのが社長だったというわけ。

 みぎわは、前述のヤクザ者に“冥途の土産”として、その話を聞かされることで、夫の死の真実を知ります。本当は、自分も殺されるはずだったけれど、殺しそびれたので、夫殺しの濡れ衣を着せられたことも知らされます。

 呆然となるみぎわは、血染めの部屋で、ヤクザ者の死体と共に朝を迎えるのです。


◆本作のラスボスは、、、

 こういう復讐劇で、黒幕張本人ってのは、いわゆる“ラスボス”として、最後に殺られるのが定石っちゃあ定石ですが、本作には、定石なんぞありません。いきなり、黒幕張本人であるオッサン宮本輝正を殺っちゃいます。しかも、宮本家のプールで(プール付きの豪邸なのよ、宮本さんチは)。海女さんに水の中に引きずり込まれちゃ、さしもの極悪人の土建屋社長も形無しです。勝ち目なんぞありません。結構、水中格闘シーンが長いんですが、当然、オッサンは水面にうつ伏せで浮かび上がります。

 あ、ちなみに、この水中格闘シーンでは、みぎわさんは全裸じゃありませんヨ。ちゃんと、海女の着る白装束をお召しです。この後の、大殺戮シーンも、この白装束で行われます。

 その後、みぎわは海女らしく、2本の銛を研いで“武器”を準備し、いざ、原発誘致パーティーの会場へ乗り込みます。

 まずは、警備員の男性を問答無用で瞬殺したかと思うと、次に社長の息子で自分を売った宮本祥平を銛で躊躇なくブスリ、、、。海へ落下する祥平、、、ドボーン。その後はもう、、、とりあえず、手当たり次第にブスリ、ブスリ、ブスリ、、、、夫殺しに関係あろうがなかろうが、自分を止めようとする者たちをお構いなしに殺しまくります。

 彼女が、何で無差別殺人に及んだのか、、、。それは、このセリフに答えがあると思います。

 「原発いうんはどこや。ウチんひと殺した原発いうんは、どこにおるんや!」

 結局、彼女にとってのラスボスは、宮本社長なんぞではなく、原発そのものだったということ。だから、それにまつわる人々は誰であれ、皆、夫の仇、というわけ。だから、原発誘致の旗振り役だった、地元選出の国会議員なんかはもう、メッタ刺し、、、。

 白装束だったみぎわですが、返り血で頭の先から足の先まで真っ赤っか。顔も真っ赤。そのアップは、まるで赤鬼のよう、、、。復讐鬼とはよくぞ言ったものです。

 その後、今頃おせーよ的に、三重県警のパトカーが大挙してやって来たり、機動隊が盾を並べてバリケード作ったりするけど、それもみぎわが念じた海の神のおかげで、突如、嵐が巻き起こり、みぎわ以外、一人残らず吹っ飛ばされます。

 そして、復讐を一応遂げたみぎわは、真っ赤に染まった海女の衣装のまま海へ、、、。そして、海面に上がると、愛しい夫が船上で彼女を迎える、、、。

 そう、ここに至り、本作のタイトルが「伝説」となっている所以が分かります。

 ……にしても、あんな細っちぃ銛2本だけで、何十人も殺せませんね、現実には。それに、大の男があんなに大勢いて、あそこまでみぎわを止められないのは、やっぱし不自然。、、、でも、本作では、そんなことはどーでもよいことなのです。あそこは、みぎわの怒り=海の神の怒り、と思って見れば、これくらいのあり得なさがあって当然なんです。

 本作のラスボスである原発。震災を経験した今見ると、まさに、今の社会にとってのラスボスこそが原発、という気もしてきます。


◆その他もろもろ

 脚本が西岡琢也、水中撮影の中村征夫、音楽は本多俊之、、、という、かなりの豪華スタッフ。……の割には、音楽がイマイチ印象に残らなかったかも。水中シーンは確かに美しいです。ラストは特に印象的。

 あと、みぎわが途中で逃げる“渡鹿野島”が、その昔はかなり怪しい島だったってことを、本作を見て初めて知りました。昨年、伊勢志摩サミットなんぞではしゃいでいましたけれど、そのお膝元にこんな島があったのですねぇ、、、。

 でもって、清水健太郎、、、。彼が、その昔、もの凄い人気があったことは、幼かった私でも、うっすら覚えています。本作を見て、まあ、いかにも、、、って感じではあるけど、シャブ中になんぞならなければ、結構イイ俳優さんになっていたのではないか、という気がします。もったいないですね、ホントに。まあ、自分で勝手に堕ちて行ったのだからどーしようもありませんけれど、、、。






本作自体が半ば“伝説”になっています。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の値打ち(2013年)

2016-11-16 | 【に】



 イタリア・ミラノ郊外の豪邸に暮らすベルナスキ家の息子マッシミリアーノと、自分の一人娘セレーナが恋人関係にあるのを良いことに、しょぼい不動産屋のディーノは、ベルナスキ家の主で投資家のジョヴァンニに取り入り、自分も投資で一儲けしようと企む。

 もちろん、失敗し、借金で作った投資金はパー。

 ところが、どん詰まりだったディーノに格好の金儲け材料が転がり込んでくる。なんと、とあるひき逃げ死亡事件でマッシミリアーノが容疑者扱いされていたところ、真犯人を偶然知ったことで、マッシミリアーノの母親でベルナスキ夫人のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)に、真相を教えることの引き換えに大金を要求するという取引を持ち掛けるのだ。

 それだけではない。もともと、カルラをイイ女だと憧れていたディーノは、ディープキスまで要求するのである。ヤな男、、、。

 ディーノ、カルラ、セリーナの3人の視点から同じ事象を見る手法で描かれる。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ホントは別の映画を見る予定だったんだけど、ちょっと想定外のことが起きまして、終映間近な本作を見てみました。新聞の映画評で、格差社会のひずみをあぶり出す上質ミステリー、みたいなことが書いてあったので、そこそこ興味を持って見たのですが、あの映画評はかなり的外れだったんじゃないかと感じた次第。


◆格差社会、、、とはあまり関係ないような。

 アメリカの次期大統領がトランプ氏に決まり、メディアは社会の分断だの、格差が浮き彫りになっただの、、、イロイロ言っていますが、本作に描かれる3つの家庭の経済格差は、確かに大変なものがありますけれども、こういう設定は、何も現代の格差社会を反映したものなんかではゼンゼンなく、非常に古典的かつ類型的なものです。

 強いて、現代を反映しているというのなら、それはジョヴァンニが投資家として大金を得ている、という点でしょうか。以前なら、大きな会社の社長とか、大病院の院長とか、悪徳弁護士とか、政治家とかでしょ、金持ちの典型的職業は。

 でもって、金持ちの奥様は、贅沢三昧だけれど毎日に退屈している美しい有閑マダムで、当然、夫婦の関係は冷えている、、、って。ありきたり過ぎで、これのどこが上質ミステリー?

 おまけに、一攫千金を企むディーノの商売は不動産屋、離婚歴があって(妻に逃げられた)、娘は賢くてしっかり者、、、。ううむ、つまらん。

 なんかもう、序盤でちょっとガッカリ感が、、、。


◆金持ちのドラ息子がひき逃げ犯なのか?

 ただ、本作は、作りが3つのチャプターで構成されていて、一連の同じ出来事を違う目線で追い、また、それぞれのチャプター独自の描写も織り交ぜながら、コトの真相を描いて行くので、その作りはなかなか面白いし上手いな、と思いました。

 最後のチャプターが、セリーナの視点なんだけれど、これで、ひき逃げ事件の真相が分かります。ここには真相は書きませんけれども、私はちょっと、その成り行きには解せない部分もありますねぇ、、、。かなりムリがないか? と思っちゃう。

 結論だけ書くと、マッシミリアーノはひき逃げ犯ではありません。容疑者扱いされて、世間でさんざん両親も叩かれます。おまけにジョヴァンニは途中で投資に失敗し、それこそ家も土地も全ての資産を手放さなければならなくなるかもしれない危機に陥ります。そんな中で起きた息子のひき逃げ犯疑惑。金で解決できそうだと持ち掛けられても、ジョヴァンニは自分にとって1銭の得にもならないと見向きもしません。この辺が、金の亡者のドライさなんでしょうかねぇ。

 でも、マッシミリアーノの疑惑が晴れると、ジョヴァンニの賭けみたいな一発逆転投資が功を奏し、再び大富豪に返り咲き、大邸宅では贅を尽くしたパーティーが開かれる、、、というのがラストシーン。


◆人物造形も物語も類型的過ぎ

 その間、ずっと憂いの表情を浮かべているのがヴァレリア・ブルーニ・テデスキ演じるカルラです。

 本作の何がイマイチかって、登場人物に魅力的な人が、セリーナ以外誰もいないんですよねぇ。一番嫌悪感を催すのは、もちろんディーノですけど、カルラもなんだかなぁ、、、な人なんです。

 金持ちの奥さんで、ちょこっと不倫なんかもして、夫の稼いだ金で文化活動に精を出そうとしたりもするけど、どれも中途半端。

 こんな人生、つまらないだろうなぁ、、、と、見ていて思いましたねぇ。まあ、金があってもこういうのはいかがなものか、というキャラなんだから、私がそう感じたということは、作り手の狙いどおり、とも言えますが。

 金持ちの奥さんで、旦那が稼いだ金しか使えるお金がなくても、もっと人生楽しんでいる人もいるはずでしょ。別に不倫なんかしなくたって。

 でもって、しょぼい不動産屋の娘セリーナは魅力ある少女で、主体的に生きている、というキャラ。

 金持ちでもつまらん人生 VS 貧乏でも充実した主体的な人生、という掃いて捨てるほどありそうな物語。だから、こういう類型的な人物造形がイヤだなぁ、と思っちゃったんです。

 
◆その他モロモロ 
 
 ヴァレリア・ブルーニ・テデスキは相変わらず美しかったです。セリーナを演じたマティルデ・ジョリは、当時24歳くらい? 個性的な美人で、大胆に裸体を晒して、才能も度胸もある女優さんとお見受けしました。

 翻って、男性陣は、うーーーん、イマイチ。マッシミリアーノを演じたグリエルモ・ピネッリくんも、イケメンとは言い難い。イタリアにはイイ男がもっと一杯いると思うけれど、本作では見当たりませんでした、、、、ごーん。

 タイトルは、あまり深読みするほどの意味はないかと思いますね。最後に字幕で出た通り、保険の支払で算定される根拠=その人の値打ち、ってことでしょう。思わせぶりなタイトルをつけた本作自身の値打ちも、さほどのものではないように思えます。






地下(?)にプールのある家、住んでみたいですか?




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュースの真相(2015年)

2016-08-11 | 【に】



 ジョージ・W・ブッシュ大統領はコネを使ってベトナム派兵を逃れたのではないか、、、という噂はもともとあった。が、飽くまでも噂は噂のまま、彼が大統領2期目を目指していた2004年、再選されるか否かという微妙な時期に、大統領自身の軍歴に疑問を投げ掛けるスクープが報道された。

 ブッシュの軍歴詐称疑惑について追跡取材を進めるうちに、決定打と思われる資料“キリアン文書”を入手した、CBSテレビのニュース番組プロデューサー、メアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)は、苦心の末に資料の裏をとり、ダン・ラザー(ロバート・レッドフォード)がアンカーマンを務めるCBSの看板番組で報道に踏み切ったのだった。

 が、しかし、、、。報道直後から、裏をとったはずの決定打と思った“キリアン文書”にケチがつき、報道の真偽に疑問が持たれるように。他の報道各社も調査に乗り出し、CBSのニュース自体がクローズアップされ騒ぎになる陰で、ブッシュの軍歴詐称疑惑自体は闇に葬られ、、、。

 実際に起きた“大誤報事件”を映画化。同じことは日本でも起きていますが、、、。



☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 実話ものはイマイチ苦手なのに、なぜかこれは興味をそそられ見に行ってしまいました。サービスデーだったからか、なんと全席完売。ひょ~~。ま、イロイロ考えさせられました。


◆報道モノの定番を覆す映画

 ダン・ラザーの名前は、私の年代くらいまでの人ならよく知っているはず。CBSニュースは日本でも夜中に放送されていました。確か、吹替えで。本作のネタとなった事件は、実は私はあまりよく知らなくて、ブッシュの軍歴詐称疑惑報道はよく覚えていますが、なんだかうやむやになったなぁ、、、くらいにしか認識していませんでしたが、こんなことがあったのですね。

 これだけ人物関係も事実関係も複雑に入り組んだ話だと、ちょっと、事態を正確に理解するのは難しいです。大体の流れは分かりますけれども。字幕を追うのに必死になってしまい、映画に集中できないというか、、、。こういう作品は吹替えで見た方が分かりやすいかも知れません。

 ただ、本作は、中盤以降、観客が??と思うところについて、きちんと説明したり、まとめて解説したりしてくれているシーンがあります。それも、わざとらしい説明セリフではなく、必然性を持った形でね。なので、途中で???と思っていても、ラストまでにはキッチリ収集がついていますので辛抱して最後までしっかり見れば大丈夫。伏線もきれいに回収してくれていますので、この辺りの脚本の妙は素晴らしいです。

 報道モノの映画だと、大抵は『スポットライト 世紀のスクープ』みたいに、大スクープをしてそれまでのスタッフの苦労が報われ、、、というお話が多い訳ですが、本作は、スクープ報道後が本筋で、凄まじい権力との闘いが繰り広げられ、結果的に報道側が屈するという、報道モノの定番とは異なる展開です。
 

◆スクープして祝杯を挙げる、ということ。

 序盤、ブッシュの軍歴詐称をスクープ報道した後、メアリーとダンら、スタッフが祝杯を挙げるシーンがあるのですが、、、。正直、ちょっと失望しました。あれだけの大スキャンダルを報じたことに対する緊張というか畏怖というか、報道の重みを感じていないように見えたからです。違う意味で重みは感じていたからこその祝杯なんでしょうが、少なくとも、報道が引き起こす事態に対する緊張感は感じられなかった。

 報道する側というのは、報道対象が権力者であれ犯罪者であれ、自分たちが報道する内容によって、関係者の人生を狂わせるかも知れない、という自分の仕事に対する畏怖と緊張感が欠かせないと思うわけです。だからこそ、“確実に裏をとれ”ということなんだけれども、裏をとったら報道して、報道した側の勝利で終わって良いのか。

 メアリーとダンの祝杯には、勝利で終わった!!という満足感がありありと現れており、そこに軽く失望を覚えました。なので、私はその後の展開もむべなるかな、、、という思いで見てしまいました。

 メディアは権力の監視者である、けれども、メディアはそれだけで存在自体が正義な訳じゃありません。メアリーに、そのことに対する驕りはなかったと言えるだろうか、、、。私は、あの祝杯シーンに、やはりそれを感じたのです。“私たちこそ、正義よ”という驕りを。


◆蟻の一穴から全てが崩壊

 こういう、検証報道というのは、本当に、蟻の一穴から崩されて、コトの本質が見誤れることはよくあります。

 どんなことでも、何かを批判するということは、自分にも同じかそれ以上の批判が返って来るということ。卑近な例でも、誰かを批判すれば「お前はどーなんだよ?」ってことになるわけで。「お前だって○○じゃん」と、相手は些末なことでも揚げ足を取ってくる。人間、図星をつかれて追い詰められると、反撃のためには手段を選びませんから。地位や肩書にこだわる人ほど、この傾向は顕著でしょう。

 報道というか、メディアの役割とは、権力の監視がその第一義である以上、権力批判が仕事みたいなものです。であればこそ、蟻の一穴の隙もないほどに、事実を固め、批判を完全にかわさなければならない。少なくとも、本作でのこのネタにおいては隙があった。そこから突き崩されて、結局、大本命のブッシュのベトナム逃れは吹っ飛んでしまったのです。ん~~、残念。

 ブッシュはきっと、ほくそ笑んでいたことでしょう。なんだかんだと、結局2期目も務めましたからね。

 日本でも、捏造だ、誤報だ、というのはしょっちゅうです。中でも、慰安婦問題などは、その報道の在り方ばかりがフォーカスされてしまい、しかも対象となったお隣の国がまた一筋縄ではいかない相手だったということもあって、結局、あの問題の本質は何なのさ、、、ということになっています。


◆会社は社員を守らないのよ

 こういう問題が起きると、誰かシンボリックな一人が人身御供になって、組織は保身に走る、というのが定石です。

 本作でも、メアリー一人が槍玉に上がってしまい、ブロデューサーとしての手腕を問われるのは当然としても、その思想信条、家庭生活、生育環境、果ては彼女を虐待してきた父親にまでメアリー批判をさせるという、異常な状況が生まれていました。本来なら、彼女を虐待した父親こそ非難されるべきなのに、虐待した当事者が「あの女はリベラリストの困ったフェミだ。育てにくい可愛げのない女だ」という言葉を、無批判で報道する。それは、メアリーの過失に見合うものなのか。

 問題は、ブッシュの軍歴詐称でしょう。大統領ともあろう人間が、軍歴を偽っているかもしれない、そのことの重みを、もう大衆は忘れてしまう。忘れるように、実に狡猾・巧妙に権力側は誘導するのです。これに、我々大衆は乗ってはいけないのに。

 終盤、メアリーが第三者委員会で最後に反撃するシーンが印象的です。そう、彼女の言っていることは正論です。そのとおりです。でもね、正論が封じられてしまうのよ、ほんの小さなほころびがあったというだけで。彼女の無念はいかばかりか、、、。

 結局、会社は社員を守らないのですよね。メアリーが証拠をねつ造していたのなら、そら解雇は当然でしょう。誤報でさえなかったはずなのに、誤報にされた。会社は権力にあっさり屈したのです。メディアって何なんでしょうねぇ。組織になった瞬間に、メディアも権力になってしまうということを、本作は描いています。


◆その他もろもろ

 それにしても、ロバート・レッドフォード、すごい歳とりましたね、、、。でも、彼は、ずっと映画を撮ったり出演したり、一線に居続けているので凄いなぁ、と思います。ただまぁ、、、ジャーナリストって感じではなかったかな。ちょっと目に鋭さが足りない感じがしました。

 ケイト・ブランシェットは相変わらずの存在感。バリキャリのプロデューサーがハマっていました。メアリーを支えた夫・ジョナサンがイイ男でした。ルックスが、じゃなくて、人間としてです。決してメアリーを責めずに、常に勇気づけてくれる夫、、、。なかなかいないんじゃないでしょうかね、こんな大人な器の大きな男は。

 メアリーと一緒に取材に駆け回るスタッフのおじさんの顔、どっかで見たよなぁ、、、と思っていたら、デニス・クエイドだった!! ごめん、最後まで気付かなかった! 別にすごいルックスが変わったとかじゃないのに、なぜか、分からなかったわぁ。

 まあ、実話が元ネタなので、真に迫っていて面白いとは思いますが、好き嫌いで言っちゃうと、好きじゃない作品です。








で、真相(TRUTH=原題)は“ブッシュは詐称していた”ってことを言っているのね。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の悲劇(2012年)

2016-06-21 | 【に】




 肺がんを患い3か月の余命宣告を受けた不二男(仲代達矢)は、手術を拒否して半ば強引に退院して来た。退院に付き添ったのは、もう長いこと無職の息子・義男(北村一輝)。

 義男は、数年前に突然リストラされてうつ病になり、妻子を置いて勝手に入院。入院中に妻子に去られ、社会復帰しようと退院した矢先に母親・良子(大森暁美)が倒れて寝たきりとなり4年間の介護生活の果てに良子は亡くなる。

 ようやく介護から解放されたと思ったら、東日本大震災に見舞われ、気仙沼が実家の妻子は行方不明。不二男は肺がんで入院。今や、余命わずかの不二男と、その不二男の年金を頼りに生活する無職の義男だけが残された。

 不二男は、そんな義男の先行きを案じ、自分にできることは、ひっそりと逝き、息子がこのまま無職でも自分の年金で生活していけるようにすることだけだと考える。そして、退院した翌日から妻の遺影の飾られた祭壇がある部屋の戸を中から釘で打ち付けて閉じこもり、絶食によって死を待つことに。閉じこもった父を何とか思い直させようと泣き叫ぶ義男だが、不二男の意志は固い。

 かくして数日後、不二男は義男の呼び掛けにも応えなくなった、、、。
 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜



 あんまり得意じゃないと分かっているのなら、最初から見なきゃ良いのに、こういう社会問題を扱った映画についつい手が伸びてしまう悪い癖。見てから大抵、後悔するんですよね……。本作もしかり。


◆エアー老人問題

 数年前の一時期、世間を騒がせた“所在不明老人”の問題が元ネタのようです。元ネタは、都内某所で、戸籍上111歳になる老人が、30年以上前に死亡しており、その間、遺族らは老人の年金を黙って受け取っていた、という話。ここまでの長期間でなくとも、親の死亡を届け出ることなく、遺族が年金を不正受給していた、というニュースはその後も後を絶ちません。

 元ネタになった事件では、亡くなっていた老人は「即身成仏する」と言って部屋に閉じこもったきり出てこなくなった、ということだそうですが、本作の場合、父親の不二男が、息子に年金の不正受給をさせることを目的に部屋に閉じこもり、絶食による自死を選択するという設定です。

 確か、元ネタになった事件が公になった時、当時の都知事だった石原慎太郎が「親が死んで弔いもしないなんてのは人でなし」みたいなことをコメントしていましたが、まあ、それはある意味正論ではありますが、このオッサンは為政者として本当に物事の本質を見極めることができない強権爺ィだなぁ、と呆れた記憶があります。弔えるんなら弔ってるよ、ってことが分からない。想像力の著しい欠如。故人のわずかな年金を当てにしないと生きていけない、追い詰められた生活をしている人々が東京の空の下に少なからずいるのだ、ということを、都知事ともあろう人なら直視して対策を考える必要性に思いを致すことの方が、正論ぶち上げてこき下ろすより先じゃないんですかねぇ、、、ってことです。都知事じゃなくて、ただの作家ならいいですよ、好き勝手言ってりゃ。立場をわきまえろよ、って話です。

 まあ、だからこそ、映画にして世に問い掛けようという、この監督さんみたいな人がいるのでしょうが、、、。

 その後、根本的に年金制度の改革もされていないし、こういう問題は高齢社会ニッポンでは今後も続発が予想されます。その度に、遺族を逮捕・糾弾しているだけで果たして良いのでしょうか。長寿社会で、親の介護に想像以上の莫大な費用が掛かり、親自身はもちろん、子自身の老後資金もスッカラカン、わずかな年金が命綱になる人が爆発的に増えるのは火を見るよりも明らかなんですけれど。その年金だっていつ破綻するか、時間の問題という考えただけでも恐ろしい現実。保険料払っているうちにお迎えが来てほしいです、本当に。

 エアー老人はその後、各地で調査されてかなり明るみに出たことによりエアーじゃなくなったみたいですが、年金不正受給の詐欺はなくならないでしょう、多分。


◆セリフで全部説明し、細部は嘘くさい。

 で、映画としての本作についての感想ですが。正直、ものすごく退屈でした。社会派映画だか何だか知りませんが、もう少し、「人に見せる」ことを意識して作ってもらいたいなぁ、と思います。

 そもそも映像化している意義が分からない。だって、全部、何もかも、セリフで状況を説明してしまっているのですから。何のための映像ツールなのか。低予算なぞ関係ない。創意工夫がまるでないのが、志を感じられなくてイヤです。

 北村さんは実力ある俳優さんだと思うけれど、本作での芝居は、嘘くさくて見ていられませんでした。これは演出がマズイとしか思えない。北村さんに限らず、仲代さん始め、皆さん上手い人ばかりなのに、なんかヘンだった、ずーっと。学芸会みたいな感じ。わざと下手に演出したんですか? と疑いたくなるくらいに、ヘンだった。シーン転換の間も長過ぎてブツ切りな感じだし。その意図が全く理解不能。

 大体、良子さんが寝たきりになって義男が4年も介護したというけれど、その間、夫の不二男は何をしていたんですかねぇ。4年前はまだお元気そうですけれど? 本来なら不二男が主体となって妻の介護をするのが筋で、その当時、うつ病上がりで妻子に去られた後とは言え、前途ある息子にそれを全面的に背負わせるのは、親としてあまりにも非常識なのでは? と思うと、何だかこの設定自体が嘘くさく見えてきてしまい、、、。

 それに、うつ病が完治しているかどうかも怪しい状態で介護に忙殺されていている中年男と、酒ばっかし飲んでいるその親父の2人の暮らしにしては、家の中がものすごく片付いていてキレイなんですよね。冒頭、退院してきた不二男に義男が布団を敷いてやるシーンがあるんですけど、そのシーツもアイロン掛かってるし。こういう細かいところが嘘くさいんだよなぁ、、、。


◆分かりやすいけど響かない

 告発映画(?)なんでしょうけど、こうも独善的な作品だと、制作者の意図は伝わらないよ。伝わる人に伝われば良い、というのなら、制作者としては失格だと思う。

 この監督さんは、昨今の“分かりやすい映画”を批判なさっているようですが、それは同意する部分も確かにありますが、だからと言って、仮に本作がその制作ポリシーを貫いた映画だと言われても、なんか違うんじゃないの? というのが正直な感想です。

 見る人の想像力を信用するのと、作る側の独りよがりは、別物です。テーマも役者も良いのに、その扱い方がマズイと作品自体がダメになるという見本のような作品だと思います。

 その内容はともかく、まだ『バッシング』の方が、映画としては成立していたと思う。私は、あれは内容的に嫌いですが。

 最終的に、不二男は目論見通り、絶食の末に亡くなる様です。ラストシーンは、義男が職探しに出掛け、不二男の遺体が眠るだけであろう留守宅に電話がむなしく鳴り響く、というものです。もはやこのシーンをどのように解釈するとか、考察する意味さえ感じられません。

 本作は、残念ながら誰が見てもとても分かりやすいけど、想像力を働かせるまでもなく退屈過ぎて思考停止にさせられる作品、と言ってもまあ過言ではない映画だと思います。それって、監督さんのポリシーの対極なんじゃない?

 仲代さんが回想する場面で、表情だけの演技は素晴らしいです。本作での見どころは、ほとんどそこだけ、と言っても良いくらいでした。ほとんどこき下ろしてばっかでスミマセン。


 




もうこの監督のこのジャンルの作品を見るのはやめておこう。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニッポン無責任時代(1962年)

2016-04-11 | 【に】



 平均(たいら・ひとし)は、一見、お気楽屋のお調子者だが、実は機を見るに敏く、都合の良い方を選んで“楽して得する”生き方を地で行くツワモノ。「サラリーマンは辞表を出したらオシマイよ」などとうそぶきながら、自分はあっさりクビになってもちゃっかり後釜を見つけている。

 植木等が、一見お調子者サラリーマンを演じて一世を風靡した本作。本作が公開されて54年、植木さんが亡くなって早9年が経つけれど、無責任時代のニッポンは、今もバッチリ継続中!
 
  
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ちょっと前にBSでオンエアしていたのを録画してあったので、やっとこさ見ました。率直に言って、こういう気の利いたコメディ映画について、あれこれ語るのは野暮だと思いました。

 なので、ここからは単なる独り言みたいなものです。

 植木さん、結構好きだったんですよね~。ああいうキャラだけれど、顔はよく見ると結構、スッキリ系の男前だし、歌はうまいし、若い頃は体のキレも良いし。私が知るリアルタイムの植木さんは、おじさんというより、おじいさんに近いお歳になっていたけれども、バカをやっていても品があると感じたものです。

 そう、コメディアンとは、下品・下劣では、目も当てられないくだらないものになってしまうけれど、品性があるからこそ、笑いに昇華できるのだと思うのです。

 後年、「名古屋嫁入り物語」で頑固者の花嫁の父を演じていたのも、割と好きだったなぁ。デフォルメされた名古屋弁と、植木さんのキャラが絶妙にマッチしていて笑えました。調べたらなんと、10本も作られていたのですね。私が見たのはそのうちの半分にも満たないと思いますが、共演していた川島なお美さんも鬼籍に入られ、時の移ろいを嫌でも感じますね……。ネイティブ名古屋弁の川島さんもとってもチャーミングでした。

 本作は、ちょっとミュージカルっぽいです。植木さんの歌うシーンがかなり多いので。歌への移行も違和感なく、唐突に歌いだすということはありません。あの「スーダラ節」もありますし、「無責任一代男」の歌詞も笑えます。アハハと笑えるというより、イヒヒ、、、というか、ムフフ、、、というか、イ行やウ行のちょっと屈折した笑いです。

 平均さんの行動は、一見、行き当たりばったりに見えるけれど、実はかなり計算ずくで動いていて、あれなら、何もサラリーマンじゃなくても、別の稼業でも十分成功できる才覚をお持ちなのでは? と思っちゃいますが、そこはやっぱり、無責任の最たるものということで、敢えてサラリーマン稼業を選んでいるわけですよねぇ。そこも、自分を知った上での計算ずく、ってのがイイです。

 あと、太平洋酒の氏家社長、ハナ肇も素晴らしい。偉そうにしているけれどバカで人を見る目がない、何でこんな奴が社長なの? 的な社長を好演です。

 しかし、果たして平均さんは本当に“無責任”でしょうか? 無責任というより、いい加減キャラって感じ。サラリーマンは気楽な稼業と言っていますけれど、彼は実質はフリーランスみたいなものではない? 自分の才覚だけで世間を渡り歩く、、、本作では世間が“会社”という狭い組織だからそう見えないけれども、世間だって大きく捉えれば組織であり、平均さんは自分が都合よく活躍できそうな会社(=世間)を嗅ぎ分け渡り歩いている、“フリーのサラリーマン”だと思います。

 フリーって、なんだかんだ言って、結局はすべて自己責任。本作の登場人物の中で、平均さんと同じ程度にフリーな身分の人は、新橋の芸者さんと、バーのお姉ちゃんくらいでしょ。あとの社長だの会長だの、結局は、組織の傘下にある人々で、責任回避術を心得ているのでは。

 だから、平均さんは、責任取らされてクビになる。クビになっても、ちゃんと次を見つけ出す。大したもんです。

 この頃の邦画って、増村保造作品を数本程度で、あまり見ていないので、これを皮切りにコツコツ見て行こうかな、、、と思っております。




コツコツやる奴はごくろうさん!!




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする