映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

たかが世界の終わり(2016年)

2017-02-24 | 【た】



 12年も帰らなかった家族の住む家に帰ることにしたルイ(ギャスパー・ウリエル)。それは、“あること”を伝えようとしたから。

 しかし、帰ってみたら、自分の家族はやっぱり昔のまんまだった。心休まる場所とは程遠い。そして、伝えたかった”あること”は、遂に伝えられないまま去ることになったルイだった、、、。

 グザヴィエ・ドラン監督作はこれが初挑戦だったんだけれど、、、、うーーーーーーーん、、、。

 
 
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 グザヴィエ・ドラン……『わたしはロランス』辺りから、一応、視界の端に入っていたその名前ではありますが、二十歳そこそこであまりに絶賛されている様(つーか回りが勝手に騒いでいる感じだったけど)がどうにも違和感バリバリで、わざわざお金を払って見る気もせず、、、。まあ、単なる天邪鬼なんですが。

 本作は、何かの映画評で読んで、割と内容が面白そう、と思ったので、ちょっとチャレンジしてみることにいたしました。

 、、、が。


◆“あること”を聞き逃した私、、、。

 ルイ君が家族に伝えたかった“あること”とは何か。

 実はこれ、作品の冒頭部分でルイ君のナレーションでバッチリ言っているんだとか。しかし、私は、寝ていたわけでもないのに、これをスッポリ聞き逃したんですよ。何で??? おかしいなぁ、、、。

 なもんですから、ルイ君が言おう言おうとして言えないことが何なのかが気になって気になって、でも、結局最後まで分からなくて、「はぁ~~~? 何それ!!!」ってな感じになり、終映後、すぐにパンフ(1,000円!! 高過ぎ! 意匠にムダに凝り過ぎ!)を買って、最初のイントロダクションでいきなり答えが書いてあるではないですか!!

 「もうすぐ死ぬ」と家族に伝えるために、12年ぶりに帰郷する人気作家のルイ。

 え゛~~~~、何でこんなことが分かるわけ~? どこでそんなこと言ってたのさ!!! と思って、ネットをザッと見てみたら「冒頭でナレーションが、、、」等と紹介されているサイトorブログ多数。え゛~~~~~~!!! そんなナレーション、あったか? マジで??

 というわけで、私の場合、この作品を見た大勢の方々とは、前提条件が異なりますので、少々見方がヘンかも知れませんが悪しからず。


◆本作の魅力はあんましよく分からず、、、。

 ただ、、、正直なところ、“あること”が分からなかったから、どうにか最後まで見ることが出来た、という感じです。もうね、、、途中、うんざりというか、退屈してきちゃいまして。

 なぜか。理由は、多分4つ。

 ①セリフ劇である:本作は、戯曲が原作ですから、ほぼワンシチュエーションのセリフ劇です。これは、中身次第では非常に眠くなる要素です。
 ②アップ画面の多用:セリフを言う人のドアップの連続。あまりにも続くので、早々に疲れて飽きました。
 ③うるさい会話:もう、ぎゃーぎゃーと怒鳴り散らす会話。、、、げんなり。
 ④誰一人共感できない登場人物:どの人も、ちょっと病んでる感じで、、、もうお腹いっぱい。

 、、、てな感じでござんした。まあ、終始、緊迫感の漂う作品なので、退屈する人は少ないと思いますけれども、私は退屈しちゃいました。

 というのも、セリフ劇ではあっても、会話でストーリーが展開していくわけじゃなく、もちろん後から考えれば、それは意味のある会話だとは思うけれども、見ている間は「ただのおしゃべり」的な印象が強くて、興味を持ってそのセリフの意図を読み取ろうとか思えないワケ。しかも、みんなトゲトゲしくて怖いし。何でこんなに仲悪いの、この家族、、、、みたいな愚問が頭の中に浮かんじゃうのよ。

 しかも、②のアップ画面が多過ぎで、いい加減にしろ、と言いたくなるし。俳優の顔を拝みに映画を見に行っているわけじゃないんだから、顔のドアップばかり見せられても、、、、いくら表情を読み取れって言われたって、スクリーン一杯に広がる一人の顔のどこを見ればいいのか、だんだん分からなくなってくるんだよ。まあ、そういう心理的な追い詰め感が、恐らくは狙いだと思うけれども、やり過ぎじゃない? 

 なので、序盤でそうそうに気持ち的にはギブアップでした。


◆アントワーヌの存在をどう受け止めるか、、、。

 よくよく考えてみると、私は、③の要素のある作品がダメっぽい。その筆頭は『バージニア・ウルフなんかこわくない』ですねぇ。もう、あれは途中で見ているのがイヤになりました。本作はそこまでじゃないにしても、まあ、やっぱし、うへぇ、、、って感じになっちゃいました。

 多分、これは、私自身がこういう家族環境に育ったからだと思われます。母親がいつもイライラして怒鳴っている、父もそれにつられて大きな声を出す、、、。姉と私はそそくさと退散、、、みたいな。親の実家に行っても、割と、言い合い・ケンカが始まることは珍しくはなく、誇張抜きで、しょっちゅうビクビクする状況にあったと思います。だから、フィクションの映画やドラマの中でさえ、そういう光景を目にすると、何となく脳味噌が拒絶反応を起こすのかも知れません。

 それに連動しているのが、多分④。本作の家族は、みんながちょっとずつ病んでいて、でも、家族で完結しちゃっている世界にいることで、その不健全さに居心地の良さも感じている、、、、という、かなり歪んだ家族です。父親がいない、ってのは、ある意味象徴的ですね。何で父親不在なのかは分かりませんが。この、不健全さが、やっぱり私の育った家族に通じるんですよねぇ、残念ながら。幼い頃の記憶は③だけれども、長じてからは④ですね。

 まあ、本作の家族と、私の育った家族との違いは、不健全さの自覚があったかなかったか、、、かな。本作の家族には、少なくとも、うっすら自覚がある気がしますので。

 本作で、一番、鑑賞者の反感を買うのは、ルイの兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)でしょう。彼一人が、せっかく良い雰囲気になって来た家族の会話を掻き乱すんですからねぇ。私も、見ていて、不快極まりないなぁ、と思っておりました。でも、ラストに、ルイが遂に“あること”を口にしようとしたとき、それを全力で妨害するアントワーヌを見て、何か、可哀想になって来ちゃいました。そして、ようやく気付いたんですよね、アントワーヌはルイに激しく嫉妬していたんだってことに。

 嫉妬、というと誤解を招くかもですが、まあ、平たく言えば嫉妬でしょう、やっぱり。自分は、この家族の中に埋もれて地味な人生を生きている。過去にはきっとどこかで飛び出したいという欲求もあったはずだけれど、飛び出す勇気もなく、今に至っている。そんな自分の鬱屈を、弟は軽々と越えて都会に飛び出し、売れっ子劇作家になって、母(ナタリー・バイ)も妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)もウキウキして弟を迎えている。、、、そら、心穏やかでいられるわけないですよ。

 アントワーヌにしてみりゃ、何より気に入らねぇのは、妻のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)までもが、ルイを好意的に受け止めており、それどころか、母や妹よりも、ルイと心通じ合っているみたいだってこと。夫であるからこそアントワーヌにはビンビンと感じたんでしょうなぁ、、、。なんか、可哀想過ぎる。

 この上、弟に何事が秘密めいた爆弾発言をされたら、家族と妻の心は全てルイに持って行かれてしまう。発言させてなるものか!!! みたいな必死さがイタ過ぎなんだけれども、理解できてしまう、、、。


◆真に仲の良い家族、、、っているの?

 ルイは、ドラン監督を投影させた人物なんですかねぇ? 原作者のジャン=ルック・ラガルスは、エイズで亡くなっているそうなので、ラガルス自身が投影されているのは間違いないと思いますが。ドラン監督の過去作品はいずれも未見ですが、内容を見ると、どれも母親や家族についての作品とのこと。しかも、ハッピーな家族じゃないっぽい。

 恐らく、ドラン監督自身も、親兄弟と、ただならぬ葛藤を抱えているのだと想像します。

 このブログでもしょっちゅう書いていますが、家族が癒しでも救いでもない人はいっぱいいるわけで、家族って素晴らしいとか能天気に描いているものを見ると、白けちゃうんだよね。かと言って、本作みたいなのを見せられても、私の場合は、ちょっと拒絶反応に近いものを感じてしまう。

 本作を見ながら、『8月の家族たち』を思い出していました。あれも、家族同士で罵り合って、見ている方はギリギリ来る作品だった。

 「何でこんなに仲悪いの、この家族」という愚問が浮かんだと書いたけれど、こんな程度に仲が悪い家族なんて、別に普通かも。私の育った家族もそうだったし。仲が本当に良い家族って、どんなん? とむしろそっちの方が疑問かも。家族ってのは、葛藤があって当たり前で、仲が良いなんてのは、そう思っているだけ、(葛藤などの)見たくない所を敢えて見ていないだけ、ってことかも。

 本作の良い所を挙げるとすれば、家族にストレスを感じているのは「自分だけじゃない」と思えるのが救いになる、ってことでしょうか。

 ただまあ、『8月の家族たち』ほど、露骨なスポイルし合うシーンはないし、あそこまで家族が憎み合っている訳じゃないですけれどね、、、。

 セリフでストーリーが展開しないことに文句をつけたけれど、リアルな日常を考えた時、本当に言いたいことほど言葉にし難いものだから、こういう訳のわからない、意味のなさそうな会話のオンパレードってのも、実はかなりリアリティは高いのかも知れません。


◆その他もろもろ

 主演のウリ坊は、セリフが非常に少なくて難しい役ですが、結構頑張っていたと思います。まあ、上手いのかどうなのか、それさえよく分からないくらい、よく分からない役でしたから、演じる方はさぞかしタイヘンだったでしょう、、、と同情します。ご本人は、やりがいのある役だったようですが(とムダに洒落たパンフに書いてある)。

 レア・セドゥ、マリオン・コティヤール、ナタリー・バイの女性陣は、もちろん、迫真の演技なんですけれども、あんまし、、、、個人的にはインパクト薄。

 やっぱ、ヴァンサン・カッセルでしょう、一番の注目は。アントワーヌという、ムカつく、屈折した男を、実に、ムカつくように演じて見せてくれました。ルックスはあんまし好きじゃないけど、やっぱし、彼は大した役者さんです。

 有名どころを揃えて、天才の名をほしいままにするドラン監督。でも、私は、ここまでもてはやされている彼がちょっと心配だ。天才天才と言われて、あまりにも早急に消費されている、ってことは、、、きっとないと思いますが、、、、。才能が枯渇しないのが天才、、、、とは思えない。天才だからこそ苦しいはずです。彼自身というよりは、彼の取り巻きが、どうか賢い人たちであって欲しいものです。天才は、そうそういないのだから、大切にしてもらいたい。人類の宝なんですからね。








オープニングとエンディングの歌詞が象徴的。




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未来を花束にして(2015年)

2017-02-21 | ヘレナ・ボナム=カーター(H・B・C)



 洗濯女の娘は、また、洗濯女として生きるしか道はなし。

 ……という時代だった、1912年のイギリス・ロンドン。モード・ワッツ(キャリー・マリガン)は、7歳から洗濯工場で働き始め、21歳の現在は、同じ工場で働く夫サニー(ベン・ウィショー)と幼い息子ジョージの3人で、貧しいながらも幸せを感じられる生活をどうにか送っていた。

 ある日、工場主に言いつけられた届け物をするために街中へ出たモードは、女性参政権運動をしているWSPU(女性社会政治同盟)のメンバーが石を店のショーウィンドウに投げ付けるという運動の現場に出くわした。逃げ帰るようにその場を離れたモードだったが、それを機に、“サフラジェット”への仲間へと誘(いざな)われるように入って行くことに、、、。

 イギリスで女性参政権が条件付きながらも法制化される契機となるに至った“サフラジェット”の行動を描く。ちなみに、原題はまさしく“SUFFRAGETTE”=20世紀初頭にミリタンシーと呼ばれる女性参政権活動家を指す蔑称としてデイリー・メイル紙が名づけたもの。
 
 
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 HBCの出演作はティム・バートンもの以外は一応劇場で見る主義なので、やっとこさ行ってまいりました。豪華キャストなのに、劇場はガラガラ、、、。このダッサい邦題のせいだね、多分。


◆気付いちゃったら戻れない。

 まあ、、、正直な感想としましては、80年代以降に社会人になる年代に日本人の女として生まれて来たことは、極めてラッキーだったのだなぁ、ということです。

 そりゃ、もっと良い環境はあるかも知れないけれど、少なくとも、生まれた家庭の階級で生きる道が(良くも悪くも)ほぼ一つの道に限定されることはないわけで、格差はあれど、選択肢は複数提示されているのが私が過ごしてきた20代以降の社会だったから。

 洗濯工場の労働環境は、そらもう、劣悪そのもの。作中でもセリフにあるけど、洗濯女は寿命が短いと。あの環境ならば、納得です。その上、今で言う、セクハラ、パワハラが横行し、それに女たちが耐えるのが当たり前な環境。私が社会人になったバブル崩壊直後でさえ、セクハラ、パワハラはしぶとくかつ強固にはびこっていたのですから、本作の時代ならばそれは想像を絶するレベルのものだったに相違ない。

 モードも、サフラジェットの運動に接触しなければ、自分の置かれた環境を変えられるかもしれない、などという考えそのものが浮かばなかったと思う。現状はツラい、嫌だと思いつつも、これが当たり前と思ってしまっている人間に、「今の状況はおかしい!」という声を上げることはそもそも不可能。でも、一度、そこに気付いてしまったら、もう引き返せないのだよね。知らなかった頃には戻れないのさ。

 モードも、夫も仕事も子どもも失っても、運動から身を引くことはしなかった。それはもう、必然なのです。


◆クソ真面目映画

 本作は、とても真面目な映画です。女性たちが権利を勝ち取るために闘った歴史を、真正面から忠実に映像化しようという思いが伝わってきます。

 よく言われることだけど、今、我々が手にしている権利は、当たり前のように昔からあったものではないのだ、ということを主張している映画です。

 でもまあ、正直言って、私はそういうところは割とどーでも良いというか、そんなの「今さら」だし、当たり前すぎて鬱陶しいだけ。見る前から、TVでもちょっと取り上げられたりしていたのを見ていたこともあるけど、そんな感じなのは十分予想できたし。モードの生きる環境がサイアクなものだとは思っても、最初に書いたとおり、あの時代に生まれなくて良かった、としか思えない。もっと言っちゃえば「あー、はいはい」という感じ。

 それよりも、むしろ、「人権蹂躙」ってのは、普通にそこらへんに転がっているんだなぁ、、、ということを頭の中では巡っていました。本作で描かれるほどあからさまなセクハラやパワハラは少なくなっているかもしれないけれど、一向になくならない、ってことは、結局、人間という生き物はエゴイストなんだよなぁ、とか。自分がされたら嫌なことでも、平気で他人にはできちゃう。自分さえ良ければ良い、ってやつ。私自身の中にも、当然そういうのはあるし。もちろん、剥き出しにしないだけで。

 だからこそ、まあ、こういう類の映画などで、継続的に啓発していかないとダメ、ってことなんでしょーか、、、。

 それくらい、本作は、真面目すぎる映画で、裏を返せば面白味があんましないですね。こういう作品だからって、別にユーモアとか入れたって良いと思うんだけど、クスッと笑えるシーンが1コもないってのが凄すぎる。中学の社会の授業とかで見せてもノープロブレムです。というより、文科省推薦でも良いんじゃない? それくらい、教科書的な映画です。

 リアリティを追求しているので、画面も全般に暗め。女性たちの着ている衣装もモノトーン系のものばかりで暗いしね。でもこれが、当時の風俗に近いんだろうなあと感じました。


◆そうは言っても、見どころは多い。

 とはいえ、見どころがゼンゼンないかというと、もちろんそんなことはないんですよ。

 本作の白眉は、後半ではなく、前半の、モードが図らずも下院の公聴会で証言をするシーンでしょう。「あなたにとって選挙権とは?」と聞かれ、彼女は「ないと思っていたので、意見もありません」と答えると、失笑が漏れる。「では、なぜここに?」とさらに聞かれたモードは「もしかしたら……他の生き方があるのでは、と」と答える。そこで場内は一転静まり返る、、、。

 このシーンだけで、本作は見る価値があると思います。そう、「他の生き方がある」と知ってしまったモードの顔は、凛々しいのです。

 あと、思わず涙がこぼれたのは、サニーがジョージを養子に出してモードと別れるシーン、、、。運動に身を投じる妻を恥じたサニーはモードを家に入れないようになり、ジョージとも会わせなくなる。ジョージの面倒をサニーは一人で見きれなくなって、中産階級風の夫婦に養子に出してしまうんだけど、ジョージが「ママ……」と呼ぶと、モードが「あなたのママの名前はモード・ワッツ。忘れないで。大きくなったら探しに来て!」と涙ながらに言い聞かせる、、、。一緒に見に行った子持ちの映画友は「あの歳じゃ、多分忘れちゃうな、、、」と寂しそうに言っておりました。切ないシーンです。

 その後、サフラジェットのメンバーたちが、郵便ポストに爆発物を放り込んだり、電線を切断したり、空き家に爆弾を投げ込んだり、という過激な行動に出るところもなかなかスリリングですが、投獄されたモードがハンストし、餓死しないように強制食餌させられるシーンもおぞましいです。

 そして、あのダービーでの事件。史実を知っていても、映像で見せられるとショッキングです。

 というわけで、終始緊張感が貫かれた作品ですので、息つく暇はありません。「あー、はいはい」等と内心で思いつつも、スクリーンから目が離せません。


◆その他もろもろ

 まあ、私の主たる目的は、HBCだったので、そこそこ出番もあり、アラフィフになっても相変わらずキュートなヘレナを鑑賞できて、そういう意味ではまあまあ満足できました。何で彼女はあんなに可愛いのかしらん。品があるし、やっぱし好きだわ~~。

 そうそう、本作の中で、サフラジェットの運動を弾圧していた当時の首相ハーバート・ヘンリー・アスキス伯爵は、ヘレナの曾おじいさんなんだけれど、それゆえに、彼女にイーディス(中産階級の活動家)の役を依頼するのはスタッフも覚悟が要ったとパンフに書かれていました。冒頭で「アスキス首相」と誰かのセリフにありました。

 彼女のお祖母さんが、アスキス伯爵の娘だそうで。お祖母さんは、自立した女性で差別された経験がないので、サフラジェットの活動に共感できなかった、とヘレナは言っている、、、。ふうむ、そういうものなのかなぁ。まあ、ドラマ「ダウントン・アビー」を見ていると、貴族階級の人々って、労働者階級の人の鬱屈した気持ちとか、ゼンゼン理解できないし、しようともしていないのがよく分かるから、ヘレナの言葉もそのまんまなんでしょうなぁ、多分。

 サフラジェットを率いたWSPUの設立者であるエメリン・パンクハーストを演じたのは、あのメリル・ストリープさまでございますよ。もう、ハッキリ言って見飽きた、、、。彼女のファンの方、すみません。でも、あれにもこれにも出過ぎでしょう。素晴らしい俳優だということは分かりますが、、、。まあ、出番はほんの5分くらいですけどね。でもポスターにはしっかり一翼を担っていらっしゃるんだから、さすがはメリルさま。、、、嘆息。

 サニーを演じたベン・ウィショーは、出番が少なく、ちょっと寂しかったですねぇ。モードを理解できない夫なんだけど、そんなサニーを責めることはできません。なにせ、あの時代なんですから、むしろ多数派の男性像だと思います。というか、そういう気質の男性を演じているベン・ウィショーってのが、ある意味、新鮮かも知れません。モードとジョージを引き離すシーンでは、ろくでなし! って感じでしたけど。

 モードを演じたキャリー・マリガンは素晴らしい好演です。『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』では、ゼンゼン違うキャラを演じていたので、同じ人とは思えないくらい。童顔なので、21歳の役でも違和感なしでした。ますます活躍しそうですなぁ。

 パンフの最後のページに、メインスタッフ一同の集合写真があるんだけど、これがすっごいステキな写真!! キャリー・マリガンはもちろん、ヘレナもステキ。うう~ん、これ、ポスターにしてほしいわぁ。





ヘレナが好きなことを改めて自覚いたしました。




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人質(1999年)

2017-02-13 | 【ひ】



 以下、allcinemaよりあらすじのコピペです

=====ここから。

 異常犯罪者が地中に埋めた人質を解放するため、女性警官が必死の説得交渉を行うサスペンス・スリラー。

 突如ニューヨークで誘拐事件が発生。しかも、通常の誘拐とは異なり、人質は犯人だけが知っている場所で生き埋めにされていることが判明する。酸素は24時間しかもたない。警察の捜査をあざけるように、犯人は一人の女性警官を指名する。彼女は人質を救うべく捜索を開始するが、冷酷な犯人に翻弄される。

====コピペ終わり。

 原題は、“OXYGEN”=酸素。ん~~、原題もイマイチかなぁ。主役は、人質の女性ではありません、念のため。
 
 
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 ブロディ出演作をぼちぼち見て行こうと思って、過日『ミッドナイト・イン・パリ』を見たんだけれど、ブロディの出番はほんの3分くらい(マジでダリそっくり!!)で、しかも映画自体も、なんだかなぁ、、、な内容で、感想を書く気にならないといいますか、、、。ウディ・アレン監督作で、面白くなくはなかったんですが、正直なところ「だから何だ?」的な感じでして。……まあ、また書く気になったら書くことにします。

 というわけで、ブロディ20代の頃の本作を見ました。巷じゃ(というより、本作を見た数少ない方々の間では)『羊たちの沈黙』のパクリと言われているようですが、そ~かなぁ、、、。まあ、「サイコパスVS女刑事」という図式は同じですが、テイストはゼンゼン別物だと思いました、私は。


◆犬を連れていると心に隙が生じる。

 ブロディは、前述のあらすじでいうところの“異常犯罪者”を演じております。一応、役名は、ハリーと付けられていますけれども、これが彼の本当の名前かどうかは不明。

 ある金持ち(著名な古美術品収集家クラーク)の奥さんフランシスを誘拐し、下着姿にして棺桶みたいな箱に入れて、どこかの森の地中に埋める、という荒っぽい手法。身代金をのこのこ受け取りに来るわ、あっさり捕まるわ、、、で、この犯人は一体何がしたいわけ? と、見ている者は皆思う。

 彼は、自分でも「人が恐怖に怯えているところを見るのが好き」と言っていて、この犯罪もその一環なんでしょうなぁ。人を傷付けるのが趣味なんです。でもって、警察が自分に翻弄されている姿を見るのも好きなんですね。自分の万能感を味わいたいんですかね。

 この、訳の分からない役を、ブロディは、非常にナチュラルに演じていて、この人マジでヤバくないか? と思わせる。一見、普通の兄ちゃんなのに、、、ってところがコワい。

 生き埋めにされた女性も、最初は、ブロディ演ずるハリーの笑顔にすっかり騙されちゃう。私も騙されるなぁ、あんな笑顔で犬の散歩中に話し掛けられたら。犬といると、何か安心感があるのですよね。チワワみたいなちっちゃい犬じゃ感じられないかも知れませんが、柴犬くらいでも結構、頼りになる気がしてしまう。そういう、心に隙があるところに、あの一見爽やかな笑顔。ううむ、この状況なら、簡単に拉致されても仕方ないかも。

 まあ、でも、警察にあっさり捕まるところまで、ハリーは計算していたのです。あとは、警察との心理戦、、、。この後どーなるの? という好奇心だけは途切れさせることなく展開してくれます。


◆マヌケ過ぎる警察、、、唖然。

 ハリーの相手をすることになる女性警察官マデリン(モーラ・ティアニー)は、かなり頑張っています。上司で足が不自由な(?)夫がいながら、SMプレイ(つーか不倫?)相手もいるマデリン。さすが警察官、ゴツいです。ハリーに「あんた、警察官の割に、美人だな」とか言われていますが、確かに、キレイと言えばキレイですが、ゴツいんです。

 取り調べ中、ハリーは、マデリンの目の前で、ルパン3世もビックリな手錠抜けをやります。机の下に両手を下ろしているほんの数分の間に、歯の矯正ブラケットの針金をこっそり外すと、その針金を使って、開錠してしまうのです。その瞬間、マデリンが拳銃を向け、隣室で監視していた警察官たちがなだれ込んできて事なきを得ますが、ハリーの異常さがどんどん剥き出しになってきます。……で、このシーンは重要な伏線になります。

 ハリーは、人質をどこに埋めたか、なかなか口を割らないんだけど、監視を完全に排除してマデリンと2人きりになれたら全部話す、と警察を揺さぶる。マデリンは重装備し、ハリーは手錠だけでなく、足に鎖を掛けられ床に固定された状態になって、監視を排除し、机を挟んでマデリンと2人きりになって向き合う、、、。

 ……で、もうお分かりですね。そーです、ハリーは、見事手錠抜けしてマデリンを組み伏せ、取調室の換気口からマデリンを連れて脱出する、というわけ。

 でもさあ、ここまでの描写が、さすがに「そらねぇだろう、、、」的なツッコミどころが多過ぎで、ちょっと白けちゃいました、私。

 大体、2人きりになった直後から、ハリーは机の下に両手を下ろした格好になるんだけど、普通だったら、その前のこと(前述の伏線と書いたシーン)があるんだから、マデリンがいくらアホでも気付くでしょうって。

 それに、手錠抜けはできたとしても、足の鎖はどーやって抜けたのでしょう? 意味深に背後にペンキが置かれていて、ハリーの靴にペンキの飛沫が掛かっている描写がありましたが、だから何?? それと、足の鎖抜けはどーゆー関係が?? 靴を脱いだとでも言いたいのでしょーか?

 おまけに、マデリンみたいなゴツい体の女を抱えて、細身のハリーが天井の換気口を抜ける、、、そら不可能でしょう、って。マデリンを縛って、上から引き上げる、という方法も考えられなくはないけど、あれは重いぞ、、、。引き上げるのは並大抵ではない。

 ……とか、マジメに考えるのもアホらしいのですが、まあ、とにかく、ちょっとばかし大味すぎる展開に唖然となります、、、ごーん、、、。

 最終的にハリーは自滅するんですけど、肝心の人質の女性はどーなったか? 生きていたのですよ、これが。掘り起こしたときには死んだようになっていたのですが、ハリーがちょっと隙を見せた途端に、ゾンビよろしく猛然とハリーの背後から襲い掛かり、あっという間に形勢逆転、最後はマデリンに撃たれるわけ。

 とりあえずは、正義が勝って、めでたしめでたし、、、というラスト。


◆こじんまりと異常さを描く。

 ストーリーをこき下ろしてきましたが、でも、本作は結構面白いです。なぜなら、ハリーがめちゃくちゃ憎ったらしくて、しかもキモいのです。キモいってのは、異常犯罪者の“怖キモ”ではなく、“優キモ”です。優男の優。一見、良さそうな人だけど、ちょっとキモい。ブロディは、一応ハンサム(と最近の私の目には見える)ですが、 ああいう顔でも、キモ男に見事になりきることができるのか、、、と感動してしまいました。

 マデリンを挑発するときに見せる、両手を口に当てて「やだぁ」みたいなポーズを取るわざとらしいバカっぽさ。その中に、一瞬垣間見せる異常な怖さ。

 『羊たちの沈黙』のハンニバルとは、そもそもスケールが違います。あそこまでのキャラを、ハリーはそもそも狙っていないのでは? ハンニバルは、万能感を見せつけたいというキャラじゃなくて、もともと超凶暴で、ある意味、無敵。既にラスボス。別に、小細工を弄して万能感を他者に見せつける必要なんかないんです。でもハリーは、存在が小物。異常犯罪者という共通項はあっても、異常度が違い過ぎ。多分、本作の制作陣も、『羊たちの沈黙』の構図は借りたけれども、スケールではもっとチマチマした半径数メートルの世界を描きたかったんじゃないのかな。

 裏を返せば、ハンニバルなんていうモンスターキャラを登場させなくても、こういう小さな世界でも、十分にゾッとする異常さを描ける、ということです。

 ブロディは、この役、楽しかったんじゃないですかねぇ。存分に楽しんでいるように見えました。まあ、確かに、こんなキャラ、現実ではなりたくてもなかなかなれませんからねぇ。フィクションの世界であるからこそ、別人格になりきることが出来る、というのは、ちょっとだけ分かる気がします。『ミッドナイト・イン・パリ』のダリも、ブロディは楽しそうに演じていました。彼は、天性の俳優なのだなぁ、、、と本作を見て強く感じました。

 彼は、オスカー受賞後も地味な作品にたくさん出ていますけれど、きっと、こういうインディーズ系の作品が、彼の俳優としての根っこなんでしょう。まあ、作品に恵まれない、という部分もあるかも知れませんが、彼自身が地味な作品も好んで選んでいる側面もかなり大きいと思われます。ある意味、どんな役でも見事に演じ切ってしまうからこそ、メジャー俳優だけじゃ物足りなさを感じるのかも知れません。

 ……とはいえ、ブロディ自身ももっとメジャーな作品での露出は望んでいるでしょうから、そちらの方でも作品・機会に恵まれるといいなぁと思います。起用する側から見れば、あのルックスとあの個性ですから、逆に難しいという気はしますけど。

 まあ、とにかく、本作は、ブロディを鑑賞するための映画と言っても良いでしょう。あとの人たちは、人質役のライラ・ロビンズ以外、失礼ながら、ほとんど印象に残りません。






オネエっぽいブロディも見られます。




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人魚伝説(1984年)

2017-02-09 | 【に】



 とある漁村。海女としてアワビ漁をしていた佐伯みぎわ(白都真理)と、夫の啓介(江藤潤)は、新婚で、喧嘩もするが仲の良い夫婦だった。

 ある晩、啓介は夜釣りしている男の乗った小舟が爆破され、男が殺されるところを目撃する。そして、数日後、爆破事件の真相を探ろうと、海に出ていた夫婦を何者かが襲い、啓介は殺され、みぎわも殺されそうになるが、負傷しながらも何とか逃れる。

 しかし、啓介殺しの犯人にされてしまったみぎわは、啓介の友人・宮本祥平(清水健太郎)を頼って、村から近い渡鹿野島に渡り潜伏することに。そこで、みぎわは啓介殺しの真相を知り、復讐鬼と化して村に戻ってくる、、、。

 本作の監督・池田敏春氏は、本作のロケ地で、2010年水死体となって発見されています。
 
 
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 知る人ぞ知る、という本作。レンタルでもレアものらしく、しばらく上位に置いておいたんですが、このほど送られてきました。まあ、B級ではありますが、かなりの力作だと私は思います。いろんな意味で「根性が伝わってくる映画」です。


◆余談~大河ドラマの話。

 白都真理さんと言えば、私は、大河ドラマ「草燃える」なんですよねぇ、、、。郷ひろみ演じる源頼家の妻(比企能員の娘)を演じておられました。北条政子に疎まれる頼家を慕い、実力者の政子に堂々と刃向う、なかなか気骨のある女性を演じておられた記憶があります。頼家の死後、北条軍に攻め込まれた際(比企能員の変)の、白装束で敵を見下ろす姿が印象的でした。

 ちなみに、どーでもよいけど、そのとき、実朝を演じていたのが、篠田三郎だったのですよねぇ。小学生だった私は、実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されるシーンを、胸がつぶれる思いで見ておりましたヨ、、、。

 そうそう、どーでもよいついでに、そのとき、義経を演じてたのは、国広富之でした。当時は、美青年で、子ども心に「ハマリ役だぁ~~」と見惚れておりました。でも、静御前が友里千賀子で、なんか、合わないなぁ、、、と残念にも思いましたねぇ。懐かしいわぁ。

 思えば、「草燃える」は、かなりの美男美女揃いだったような気がします。北条義時を、まだ顔が四角くなっていなかった頃の松平健、その恋人茜を、まだ細くて可憐だった松坂慶子、頼朝は若かった石坂浩二、北条政子は当時から泣く子も黙る岩下志麻、政子に片思いする下級武士を眼光鋭い滝田栄、、、すげぇ~~、豪華キャスト!! 今の大河とは重みが違ったよなぁ、当時の大河は。出ている人も、作りも。

 大河ドラマは子どものころから熱心に見ていたけれど、「草燃える」は、中でも記憶に強く残っている作品の一つですねぇ。中島丈博脚本だから(この人のドラマは当たり外れが激しい気がするけど)、やはり、骨のある大した作品だったのでしょう。ホント、懐かしい。

 思うに、大河ドラマは、恐らく1986年の「いのち」が分岐点でしたね、多分。あれは、大河ドラマとしては非常に邪道で、内容も酷かった。その後、「独眼竜政宗」「武田信玄」で軌道修正を図ったものの、一度狂ったものは元には戻らないものです。緒形直人の「信長」で再び崩れ、「毛利元就」で完全にホームコメディドラマ路線に陥ってしまいました。

 極め付けは「利家とまつ」ですかねぇ。もう、大河も終わったな、、、と思ったものです。主役の俳優が、思いっ切り軽くなったのもここからのような……。


◆木綿のパンツと白いソックス

 、、、と、脱線が過ぎました。白都真理さんの話。

 「草燃える」の後は、2時間ドラマとかでよく見たような、、、。あんましハッキリは憶えていませんが、天知茂演じる明智小五郎の「美女シリーズ」とかにも出ていたような。その後は、セクシー写真集とかで時々話題になっていたのを覚えています。

 別に、好きとかじゃないけど、とても印象に残る女優さんだったんですよねぇ。演技が上手い、とは言い難いけど、一度見たら忘れられない人です。

 本作では、そんな彼女が、まさしく文字通り“体当たり”の演技をしています。もう、この役を演じたその根性だけでもアッパレだと思います。今時の若い女優さんで、こんな根性のある人、そうそういないでしょう。

 夫殺しの濡れ衣を着せられ、逃げた先の渡鹿野島では、宮下順子さま演じるママのバーで働くんですが、そこの住み込みの部屋で、清水健太郎演じる金持ちのボンと激しいセックスシーンが展開されます。

 このシーンがね、結構、面白いんです。長回しで(多分)ワンカットで撮っているんですが、その間、アクロバティックに体位を変える変える、、、。真理さん演じるみぎわは、ゼンゼン気持ち良さそうじゃない。これは、監督の池田敏春氏がロマンポルノを撮っていた人であることも大きいでしょう。そうでないと、こんな濡場の撮り方しないような気がします。まったく官能的ではないけど、切迫した何かが伝わってきます。

 しかも、ここでの清水健太郎は、全裸なのに、なぜか白いソックスだけ履いている!! これが結構ウケる。なんだよー、そのソックス!!

 おまけに、みぎわの履いているパンツなんですが、パンティーじゃなくて、パンツなんですな、これが。木綿の。ヘソまであるような白いの。ううむ、まったくセクシーじゃないのが、なぜか切実感を演出している。

 決して生々しくはないのです。私は、生々しいセックスシーンは超苦手で、しかも長いとうへぇ、、、ってなってくるんですが、本作の場合、そういうのがないの、長いのに、激しいのに。何かこう、、、痛々しいというか、哀しいというか。ストーリー上、決して悦びを感じるセックスじゃないので、当たり前かもしれませんけど。

 この監督さんは、セックスを美しいものとして撮ろうとはゼンゼン思っていないのでしょう。実際、セックスなんて現実には美しいもんじゃありませんしねぇ。美しく撮っている映画は、それはそれでステキなものもありますが、こういう、男と女の現実的な肉体のぶつかり合いとしてのセックスの描き方も、なかなか良いものだなぁ、と本作を見て思いました。


◆白都真理in全裸殺戮シーン

 その後も、ヤクザ者にほとんど強姦されるようなシーンもあるんですが、このヤクザが、清水健太郎演じる宮本祥平(地元土建屋社長で、事件の黒幕・宮本輝正の息子)が刺客として送り込んだヤツなんですね。祥平は、みぎわのことが好きだったけれども、簡単に好きな女を売ることもできる性根の腐ったどうしようもない男なんです。

 でも、みぎわは、そんな刺客に簡単に殺されるようなタマじゃなかった! ヤクザ者を返り討ちにして、自らも返り血を浴びて真っ赤になります。このシーンがなかなかスゴイ。血飛沫バーーッて感じなんですが、わざとらし過ぎるので、あんましグロさはないですね。でも、グロくはないけど、真理さん演じるみぎわは全裸で逃げ惑い、ヤクザ者と格闘し、時には大股開きまでして、ドスでヤクザ者をメッタ刺し!!! すげぇ迫力の真理さんを存分に堪能することができます。

 とはいえ、これは、みぎわの復讐劇のほんの序章。本編は、これから。

 そもそも、何でみぎわの夫は殺されたのか。彼が見た小舟の爆破による男の死の背景には、この漁村近くに持ち上がったレジャーランド計画があります。この計画、レジャーランドは表向き。実際は、「原発建設」だったのです。近畿電力(関電のモデル?)の、いかにもな社員と、土建屋社長の宮本輝正らが、それこそ、頭の黒い鼠よろしく会合しているシーンとかありまして、宮本社長「俺が動けば、何でもすぐに解決するんや!!」と豪語しております。この原発建設に難色を示していた土建屋の社員を殺したのが社長だったというわけ。

 みぎわは、前述のヤクザ者に“冥途の土産”として、その話を聞かされることで、夫の死の真実を知ります。本当は、自分も殺されるはずだったけれど、殺しそびれたので、夫殺しの濡れ衣を着せられたことも知らされます。

 呆然となるみぎわは、血染めの部屋で、ヤクザ者の死体と共に朝を迎えるのです。


◆本作のラスボスは、、、

 こういう復讐劇で、黒幕張本人ってのは、いわゆる“ラスボス”として、最後に殺られるのが定石っちゃあ定石ですが、本作には、定石なんぞありません。いきなり、黒幕張本人であるオッサン宮本輝正を殺っちゃいます。しかも、宮本家のプールで(プール付きの豪邸なのよ、宮本さんチは)。海女さんに水の中に引きずり込まれちゃ、さしもの極悪人の土建屋社長も形無しです。勝ち目なんぞありません。結構、水中格闘シーンが長いんですが、当然、オッサンは水面にうつ伏せで浮かび上がります。

 あ、ちなみに、この水中格闘シーンでは、みぎわさんは全裸じゃありませんヨ。ちゃんと、海女の着る白装束をお召しです。この後の、大殺戮シーンも、この白装束で行われます。

 その後、みぎわは海女らしく、2本の銛を研いで“武器”を準備し、いざ、原発誘致パーティーの会場へ乗り込みます。

 まずは、警備員の男性を問答無用で瞬殺したかと思うと、次に社長の息子で自分を売った宮本祥平を銛で躊躇なくブスリ、、、。海へ落下する祥平、、、ドボーン。その後はもう、、、とりあえず、手当たり次第にブスリ、ブスリ、ブスリ、、、、夫殺しに関係あろうがなかろうが、自分を止めようとする者たちをお構いなしに殺しまくります。

 彼女が、何で無差別殺人に及んだのか、、、。それは、このセリフに答えがあると思います。

 「原発いうんはどこや。ウチんひと殺した原発いうんは、どこにおるんや!」

 結局、彼女にとってのラスボスは、宮本社長なんぞではなく、原発そのものだったということ。だから、それにまつわる人々は誰であれ、皆、夫の仇、というわけ。だから、原発誘致の旗振り役だった、地元選出の国会議員なんかはもう、メッタ刺し、、、。

 白装束だったみぎわですが、返り血で頭の先から足の先まで真っ赤っか。顔も真っ赤。そのアップは、まるで赤鬼のよう、、、。復讐鬼とはよくぞ言ったものです。

 その後、今頃おせーよ的に、三重県警のパトカーが大挙してやって来たり、機動隊が盾を並べてバリケード作ったりするけど、それもみぎわが念じた海の神のおかげで、突如、嵐が巻き起こり、みぎわ以外、一人残らず吹っ飛ばされます。

 そして、復讐を一応遂げたみぎわは、真っ赤に染まった海女の衣装のまま海へ、、、。そして、海面に上がると、愛しい夫が船上で彼女を迎える、、、。

 そう、ここに至り、本作のタイトルが「伝説」となっている所以が分かります。

 ……にしても、あんな細っちぃ銛2本だけで、何十人も殺せませんね、現実には。それに、大の男があんなに大勢いて、あそこまでみぎわを止められないのは、やっぱし不自然。、、、でも、本作では、そんなことはどーでもよいことなのです。あそこは、みぎわの怒り=海の神の怒り、と思って見れば、これくらいのあり得なさがあって当然なんです。

 本作のラスボスである原発。震災を経験した今見ると、まさに、今の社会にとってのラスボスこそが原発、という気もしてきます。


◆その他もろもろ

 脚本が西岡琢也、水中撮影の中村征夫、音楽は本多俊之、、、という、かなりの豪華スタッフ。……の割には、音楽がイマイチ印象に残らなかったかも。水中シーンは確かに美しいです。ラストは特に印象的。

 あと、みぎわが途中で逃げる“渡鹿野島”が、その昔はかなり怪しい島だったってことを、本作を見て初めて知りました。昨年、伊勢志摩サミットなんぞではしゃいでいましたけれど、そのお膝元にこんな島があったのですねぇ、、、。

 でもって、清水健太郎、、、。彼が、その昔、もの凄い人気があったことは、幼かった私でも、うっすら覚えています。本作を見て、まあ、いかにも、、、って感じではあるけど、シャブ中になんぞならなければ、結構イイ俳優さんになっていたのではないか、という気がします。もったいないですね、ホントに。まあ、自分で勝手に堕ちて行ったのだからどーしようもありませんけれど、、、。






本作自体が半ば“伝説”になっています。




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妖精たちの森(1971年)

2017-02-06 | 【よ】



 とある田舎の屋敷ブライ邸に暮らすフローラとマイルズの幼い姉弟は、両親がおらず、家庭教師のジェスル先生が母親代わりに彼らの面倒を見ていた。

 姉弟はジェスル先生に懐いていたが、姉弟がもっと慕っていたのが馬番(庭師?)のクイント(マーロン・ブランド)という中年の男だった。粗野で下品だが、ユーモアがあり遊び相手になってくれるクイントは、姉弟にとっては面白い存在だったのだ。

 姉弟は、クイントとジェスル先生が特別な関係にあり、愛し合っていることを知っていた。そして、クイントが発したある言葉に触発された姉弟は、クイントとジェスル先生の思いを遂げさせてあげようと、ある行動に出るのだが、、、、。

 あのヘンリー・ジェイムズの名作「ねじの回転」の前日譚を映像化した作品。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 前回の記事『回転』の前日譚。といっても、フローラとマイルズは、『回転』では兄妹だったのが、本作では姉弟になっています。しかも、『回転』よりはちょっと年上な感じです。B級っぽいけど、まあまあ楽しめる作品でした。


◆これなら化けて出たくもなる、ってもんでしょ。

 正直、「ねじの回転」を読んだとき、“なんで、クイントとジェスル先生が幽霊になって屋敷を彷徨っているのか?”というのが最大の疑問でした。古いお屋敷のこと、先祖の霊が彷徨っているというのならまだしも、ついこないだ死んだ使用人たちの霊が彷徨っている、、、。なんかヘンじゃない? と感じたのです。

 だからこそ、あれは幽霊ではなく、ギテンスの妄想だという説が有力になるわけですが、本作のようなエピソードがあれば、彼らが本物の幽霊だったというのも十分アリだと思うわけで、私としては、前回の記事に書いたとおり、“本物の幽霊説”を望んでいるので、ちょっと嬉しくなってしまった!

 フローラとマイルズの姉弟が、クイントとジェスル先生に何をしたか? そう、子どもたちは、大人の男女を結ばせるためにあの世に送ってあげたのです。

 、、、つまり、子どもたち2人が大人2人を殺しちゃった、ってことです。何でそんなことをしたかというと、姉弟が「好きな人同士は、どうやったら会えるの?」とクイントに聞いたとき、クイントが「死んだら会えるさ」と答えたからです。

 姉弟は、クイントとジェスル先生が相思相愛にもかかわらず、ジェスル先生が屋敷を追われることになって、何かこう、上手く行かない状況にあることを察するのですね。それで、クイントにそんな質問をしたわけです。

 クイントの答えを聞いた姉弟は、それなら、あの世で好きなだけ2人を逢わせてあげよう、と純粋に(?)考えた。そして、、、。

 でもまあ、殺された方にしてみりゃ、なんのこっちゃ??なわけで、クイントだってまさかこんな展開になるとは想像だにしていなかったでしょう。だから、死後、化けて出てきた、、、。理にかなった展開ではないですか。

 やっぱり、あの「ねじの回転」での幽霊は、ガヴァネスの妄想などではなく、本当の幽霊だったのです!!
 

◆クイントとジェスル先生は、、、

 とまあ、幽霊がどーのこーの、というのは、本作では何も関係ありませんので、本作についての感想を書かなくては。

 「ねじの回転」にあった通り、クイントとジェスル先生はアブノーマルなセックスを楽しむ関係だったんですが、それを、しっかり映像化しています。下品で粗野なクイントを、中年太りしかかっているマーロン・ブランドが好演、、、というか何というか、、、。ジェスル先生役のステファニー・ビーチャムを緊縛し、ヤリたい邦題のクイント。中途半端なポルノですな、こりゃ。でも、ゼンゼン官能的ではない。むしろ、可笑しい。

 で、この様子を、外から窓越しに覗いているのが幼いマイルズ。しかも、マイルズ君、お姉さんのフローラに、ジェスル先生がされていたのと同じように緊縛を仕掛け、いたぶったりなんかして遊んでいる。メイドのグロースさんに「何やってるんですか!!」と聞かれて「セックスだよ!」なーんて答えちゃうこの姉弟、、、大丈夫か? いや、大丈夫じゃないんだけれど、、、。

 ジェスル先生も、初めは、イヤイヤという感じだったんですが、夜這いをかけつづけられ、遂にはクイントが忍んで来るのを全裸になって待つようにまでなってしまう! うーーん、これは、どーなんでしょうか。、、、まあ、原作のクイントは「従者」ですから、本作のクイントよりはもう少し学も品もあったはずで、それならば、ガヴァネスのジェスル先生と間違いが起きるのはあり得る話だと思われますが、ガチガチの階級社会だった当時、いくらジェスル先生が好きモノの女だったとしても、馬番とは“ナシ”だと思うんだよねぇ、私は。

 ましてや、本作のクイント=マーロン・ブランドは、あんまりにもヒドい。汚らしいというか、間違ってもコイツにだけは触れられたくない、的なデブったオッサンですよ? ただただ、キモい。

 これは、もう少し、クイントの描き方を考えるべきだったのでは? せめて、馬番か庭師かではなく、原作どおり「従者」にして、きちんとタキシード着ているシュッとした美青年にした方が良かったんじゃないかなぁ。美青年だけど、品がない顔、ってあるでしょう? そういう役者さんにした方が、本作は説得力も出ただろうし、もっと面白くなった気がするんですけれど、、、。

 まあ、、、でも、本作の見どころは、ほとんど、マーロン・ブランドとステファニー・ビーチャムのSMシーンと、姉弟が2人を殺しちゃう、ってところに尽きると言っても過言ではないでしょう。面白いけれど、正直、そんなに味わいがある作品とは言えないし、「ねじの回転」という前提があるからこそ楽しめる作品だと思います。本作を単体で見たら、ただのB級映画にしか見えなかったような気がします。


◆その他もろもろ

 マーロン・ブランドって、あんまし好きな俳優じゃないのですが、本作を見ても、やっぱりそれは変わりませんでした。オッサンになったからとか、中年太りしてるからとかではなく、若い頃の彼も苦手。イイ顔だとは思いますが、、、うーーーん、どうもこう、脳味噌も筋肉系みたいな印象で、、、。ただのイメージですよ、もちろん。そのイメージがどうしても苦手、ということです。

 多分、そんなイメージを強烈に抱いてしまったのは、『欲望という名の電車』のせいです。ヴィヴィアン・リー演じるブランチを徹底的に追い詰めるスタンレーが憎らしくて恐ろしかった。ブランチもイヤだな、と思わせる女だけど、スタンレーはそれ以上に嫌悪感を抱く男。

 本作でのクイントも、ちょっとスタンレーに通じるところがあるような。だから、余計にキモいと思ってしまったのかも。

 ステファニー・ビーチャムさんは、美しいし、身体もとってもキレイですが、顔がどこか小雪さんに似ていて、だんだん小雪にしか見えなくなってきて困りました。

 姉弟を演じたヴェルナ・ハーヴェイとクリストファー・エリスは、正直、あんまし可愛いと思えなかった。特に、フローラを演じたヴェルナちゃんの方。なんか不気味さを纏っており、本作でのフローラ役には合っていたのかも知れませんが、、、。

 まあ、美術や衣装も、どう見てもちょっとB級感が溢れていますけれども、「ねじの回転」を前提に見るのであれば、十分楽しめる一品です。


 




クイントの殺され方が結構エグいです。




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