映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

まぼろしの市街戦(1966年)

2018-11-24 | 【ま】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第一次大戦末期、敗走中のドイツ軍は占拠したフランスの小さな街に大型時限爆弾を仕掛けて撤退。

 イギリス軍の通信兵は爆弾解除を命じられ街に潜入するも、住民が逃げ去った跡には精神科病院から解放された患者とサーカスの動物たちが解放の喜びに浸り、ユートピアが繰り広げられていた。

 通信兵は爆弾発見を諦め、最後の数時間を彼らと共に過ごそうと死を決意するが…。

=====ここまで。

 あの名作が4Kデジタルリマスター、なんとスクリーンで見られることに!

 
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 これを見逃してはいかんでしょ~。と、劇場まで行ってまいりました。……この映画をスクリーンで見られる日が来るとは。しかも4Kデジタルリマスターで画像もキレイ。感激。


◆毒入りおもちゃ箱

 本作はよく“カルトムービー”とか“カルト映画”とか言われるんだけど、今回再見して、どこがカルト?? と改めて思った次第。一緒に見に行った映画友は「やっぱ、精神病院が舞台だからじゃない? ディズニー映画みたいには公開できないっしょ」と言っていたけど、そうなのか、、、? コアなファンがいるのは確かだろうけど(私もその一人だけど)。

 まあ、それはともかく、、、。詰まるところ、本作は、戦時下のシャバと精神病院とじゃ、精神病院の方が平和なユートピアである、つまり“狂気”の本質を抉っているわけだ。それを、押しつけがましくなく、可愛らしいメルヘンのような装いに痛烈な毒を塗り込めて作られており、大人のおとぎ話といったところか。正直なところ、非常に中毒性の高い映画であるので、その辺が“カルト”と言われる所以かも知れませぬ。

 みんシネにも感想を昔書いたのだけど、あるレビュワーさんが本作のことを「おもちゃ箱をひっくり返したみたい」と書いていて、至言だと思った。まさしく、精神病院の患者たちが、もぬけの空になった街中に繰り出して、思い思いの格好をし、自由を祝うがごとくのお祭り騒ぎに興じる描写は、その色彩といい、音楽といい、おもちゃ箱そのもの。おまけに、爆弾を恐れて住民がみんな逃げ出した後の街には、ほかにも、移動動物園から出て来たクマやサルが闊歩していて、おもちゃ箱、、、いえ、パンドラの箱を開けたみたい。

 そのおもちゃ箱のロケ地は、パリの北40キロにあるオワーズ県サンリスという街とのこと(パンフによる)。この街並みが実に美しい。ヨーロッパには中世の趣を残す街並みは少なくないだろうけれども、このサンリスもそう。こんな街で暮らしてみたいものだわ。

 そんなおもちゃ箱に仕掛けられた爆弾を巡り、ドイツ軍とイギリス軍が右往左往するわけだが、終盤、この両者が鉢合わせになる場面がある。爆弾の仕掛けられた広場で、両者は向かい合い、双方が発砲する。当然、両軍の大勢の兵士たちはバタバタと倒れて死ぬ。このおもちゃ箱のようなメルヘンと大量死。

 アラン・ベイツ演じる通信兵プランピックは、途中で、ドイツ軍が爆弾をどこに仕掛けたかを悟り、患者たちを街の外に避難させるべく連れ出そうとするが、患者たちは、ふと我に返ったように街から出ることを拒絶して精神病院に戻っていくのである。色とりどりの衣裳を脱ぎ捨て、「現実の世界は苦しいだけです」と言って。精神病院の門の前に散乱する衣裳やパラソルの数々に、何とも言えない虚無感を抱いてしまう。

 こういう、ところどころのシビアな描写が、全体のおもちゃ箱との鮮烈な対比となり、実に印象深い。


◆ラストシーンの違い

 本作の原題は“Le Roi de Cœur”で、「ハートの王様」。これは、序盤にプランピックがドイツ兵に追われて精神病院に逃げ込んだ際、患者に紛れて名乗った名前。それで、患者たちから「王様」に祭り上げられ、街中に繰り出した際には教会で戴冠式まで行われる。

 そして、このハートの王様が恋するのが、患者の中の一人コクリコという可愛い女性。このコクリコを演じているのが、ビジョルドであります。なんと可愛らしい、、、。プランピックに「あなたに抱かれたい」とか言うのよ。当然、プランピックもコクリコを好きになってしまう。だから、街から出ようとしない患者たちをプランピックが見捨てられなかったわけよ。そしてまた、このコクリコと最期の時を過ごそうとプランピックが腹を括ったことで、爆弾の起爆装置を止めることが出来た、、、というオチ。

 この爆弾については、序盤で、住民の一人のレジスタンス(街の床屋)がイギリス軍に密告するんだけど、「真夜中に騎士が打つ」と言い掛けたところでドイツ兵に銃殺されちゃうので、イギリス軍としては、この謎の一文だけを手掛かりとして爆弾探しのためにプランピックを街に送り込んだというわけ。で、終盤、コクリコが言ったセリフが、この「真夜中に騎士が打つ」を解明することになる、、、という次第。

 街は爆破されずに済むんだけれど、戦争の狂気は続き、、、。ということで、問題のラストシーンになります。

 日本公開版と違うラストということだけど、私は、DVDの特典映像だったか何かで、この4K版のラストシーンを見たことがある。ちょっとした違いだけれども、どちらが好きかは人によるかも。私は、日本公開版の方が好きかな。4K版ももちろん悪くはないけれど。どんなラストかは、ここでは敢えて書きませんが。是非見ていただきたいです。


◆その他もろもろ

 主演のアラン・ベイツは撮影当時31歳くらいですかね。若いです。私の中で一番印象深いアラン・ベイツといえば、そらなんつっても『ニジンスキー』で演じたディアギレフ役。それはそれはもう、冷酷非道な男を、実に見事に演じておられました。本作ではコミカルな役どころで大分印象が違うけれど、ハートの王様の彼はすごく可愛かった。ゼッフィレッリの『ハムレット』や、アルトマンの『ゴスフォード・パーク』とかも印象的。2003年に亡くなっていたのですね、、、。

 ビジョルドは、もう最高に可愛い。ハートの王様の部屋に、窓から窓へとパラソルを持って綱渡りするシーンがすごく良いです。ビジョルドの出演作で一番好きなのは、『1000日のアン』と本作かなぁ。彼女の魅力が最も生きている役だと思う。何のDVDだったか覚えていないけど、割と最近(10年くらい前かな)の彼女が特典映像のインタビューで出ていて、確かに歳はとったけれど、相変わらず可愛らしい魅力的な女性だったのが嬉しかったわ。

 あと、娼館のマダムを演じていたのがミシュリーヌ・プレールで、あの『肉体の悪魔』でジェラール・フィリップと共演していた女優さんだった!! パンフを見て初めて知ったけど、ビックリ。何度も見ているのに今までゼンゼン分からなかった。しかも今もご健在とか(98歳!!)。公爵を演じていたジャン=クロード・ブリアリはやっぱり渋くてステキ。

 本作は資金集めに苦労した、ということだけど、この豪華出演陣、、、スゴい。フランスではゼンゼン当たらなかったらしいけれども、その後公開された、当時ベトナム戦争泥沼化していたアメリカでかなり受けたという、なんとも不思議な現象。どっちかというと、本作はヨーロッパ的エスプリ(?)な感じだけど、アメリカで受けたとは。やはりベトナム戦争という背景があったからでしょうかね。

 今回見逃すと、いつスクリーンで見られるか分からないので、是非この機会にご覧ください。可愛いパンフも発売されています!










「サバは芋好き」(街の床屋の暗号名)




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ロブスター(2015年)

2018-11-18 | 【ろ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 近未来。

 独身者は身柄を確保され、送られたホテルで45日以内にパートナーを見つけなければ、自分で選んだ動物に変えられて森に放たれることになる。独り身になったデヴィッド(コリン・ファレル)もホテルに送られるが、そこには狂気の日常が潜んでいた。

 しばらくして、“独り者たち”が暮らす森へ逃げ出したデヴィッドは、そこで恋に落ちるが、それは“独り者たち”のルールに反していた……。

=====ここまで。

 現代日本の婚活狂時代のカリカチュア映画、、、と言っても良いのでは?

 
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 婚活婚活って、バカじゃないの? と日頃から思っているので、本作も序盤はコメディとして見ていたんだけど、そういえば、私自身がこういう状況に20年前くらいまで置かれていたことを思い出して、一気に身につまされてしまいました。


◆動物にされる方がまだマシ……かも。現実世界では“名誉殺人”

 45日間で相手を見つけなきゃ動物にされるけれども、その動物は自分の好きなものを選べるのであれば、好きでもない相手と嫌々くっつくより、好きな動物になって別世界を生きた方が良いかもね、、、と思ってしまった。こんな風に思うのは私だけかもなぁ。

 これまでも時たま書いてきたけれども、私は、24歳から30歳で形ばかりの結婚をするまで、母親に見合い攻勢を掛けられ、それはそれは死ぬほど苦しみました。……何で? と思うでしょう? たかが親の持ってきた見合い話くらいで、と。……まぁ、普通はそうでしょうが、ウチの場合はちょっとその辺が普通からかなり外れていまして、私の意思はかなりどーでも良い扱いをされていたのです。

 つまり、(相手の)学歴と職業と生育環境が良いことが全て!! ということ。性格、感性、思考及び嗜好、クセ、容姿、健康状態etc……、全て度外視。なので、釣書だけ見ると、一体どんな素晴らしいお方?? と妄想してしまうような人ばかり。しかし、写真を見て“あり得ない”人も多く、仮に写真が普通でも会ってみて“論外”な人も多く、それはそれは異様な世界でした。キャリア官僚、医者、弁護士、会計士、研究者、エリートサラリーマン等々、世の中でそれなりのご職業の方々とは一通りお目にかかったと思いますねぇ。しかも、割とオウチもおよろしい方々が多く、ヨーロッパのある国に別荘を持っているだの、都心の一等地に○億円のマンションを購入してあげるだの、オプションが着いている方も少なくなかったような。

 でも、私にはそういうのはゼンゼン魅力的に見えなかったのです。そもそも養ってもらいたいなんて思ってないし。子どもも産むつもりないし。愛してもいない男と一緒になる意味が分からない。つーか、そんなオプションをパパやママに付けてもらわないと勝負できねぇのかよ、、、と、むしろ減点材料に……。

 まあ、それはともかく。……とにかく、条件第一、ではなく、条件だけで結婚しろ! と強要されていたのです。母親に毎日毎日念仏のように「女は若さだけがウリだ」と言われ。「恋愛と結婚は別。セックスなんぞ誰とだって出来る」と言われ。「1日1日とお前の商品価値は下がっているのだ」と言われ。「相手の条件のみにすがって結婚しろ」と言われ。

 一体何十人と見合いしたことやら。基本、こちらからは断れない。『裸足の季節』の感想でも書いたけれど、女が断れば「身の程知らず」と罵られ、断られると「価値のない女」と謗られる。そんなの別に構わないけど、相手に気に入られた場合は地獄。「女は望まれて結婚するのが幸せだ」「今はそうでもなくても結婚すればそのうち好きになる」等と親だけでなく仲介人にまで寄って集って言われる始末。条件の良い男ほど、相手女性の意思を踏みにじることが出来るというワガママが効く異様な世界。「お前鏡見ろよ!!」と女なら平気で言われるのに、女が男に言ったら叱られる、極めて不条理な世界。もうね、、、私は発狂寸前でした。

 そう、異様な世界、不条理な世界、、、まさに本作の描いている世界と同じではないですか!!!

 あの当時の私なら、迷わず動物になることを選んでいたかも。なるのなら、そうだなぁ、、、キリンも柴犬も大好きだけど、なりたいとは思えないなぁ。ミサゴが好きなのでミサゴかなぁ。微生物でも良いかも、煩悩とかなさそうで。

 でも、動物にされる方がまだマシな現実は、多分、世界に目を転じればたくさんあるはず。前述の『裸足の季節』もそういう話の映画だった。実際、イスラム圏やインド・パキスタンでは、少女婚が今も行われているし、女性が親の望まない相手と交際すれば“名誉殺人”という名目で焼き殺されるという風習が残っている地域もある。それなら、動物にしてくれる方が遙かに優しいではないか。

 だから本作をブラックコメディと言って笑えるのは、幸せな証拠だと思った方が良いかも。


◆実は今の日本も、、、

 まあ、“名誉殺人”の話は今の日本の現実とは懸け離れているけれど。今の日本では、自由意思で結婚できるとは言え、何かに追い立てられるように“婚活”している人々が多いのでしょ? もう、結婚なんて制度が、現実にそぐわなくなってきているんじゃないの? 男も女も、自分の人生を自由に生きる上で、結婚がかなり枷になっているのでは。つまりそれは、女性の出産年齢があるからだわよね。結婚制度の下での子育てがメジャーだと国が設定しているからそうなるのよ。結婚という制度に縛られることなく、産める間に産みたい人は産みたいときに産める社会であれば、みんなこんなに悲壮感漂わせて婚活なんかしなくてもいいじゃないの。

 ……なんてことを言うと、トンデモナイ!! と反論する人は必ずいるだろうけど、フランスで出生率が上がっていることを考えると、日本も真面目に考えた方が良いと思うけどね。

 要は、結婚や恋愛という極めて私的かつ自由意思に基づく問題を、誰かに強制されることがいかに理不尽か、ということをこの映画は描いているのでしょ。結婚制度の下での子育てがメジャーであると国に設定されていることも、広い意味では、同じでは?

 本作では、ホテルではカップルになることを強要され、森ではカップルにならないことを強要される。これって、結婚して子どもを持つことを強要され、結婚せずに子どもを持たないことを(暗に)強要されていることと同じでは?

 しかも主人公のデヴィッドは、ホテルでは相手を見つけられなかったのに、森では見つけてしまうという、、、実に皮肉な展開。きっと、ホテルでしっくりくる相手を見つけられる人もいるんだろうけどね。森で見つけたら、ホテルに戻ってカップル生活を楽しむ、という選択肢はない。……何で? 独身が罪なのであれば、どこであれ相手を見つけられたらそれでいいじゃん! どこであれ子を設けたい相手と出会ったら子を作れば良いじゃん! というのは、ダメなんですかね? 少子化に歯止めが掛かると思うけどなぁ、、、。


◆その他もろもろ

 本作で解せないのはラスト。(以下ネタバレです)

 コリン演じるデヴィッドは、どーしてあんな行為に出たのか? まるで「春琴抄」で、正直、ビックリしてしまった。「春琴抄」の場合は、目を潰す理由があったけど、デヴィッドの場合は、それまでの流れからまるで理解できない行動なんだけれど、、、。愛の証? 意味分からん、、、。2人とも見えなくなってしまったら、これから困るじゃないの、逃亡生活。

 でも、実際にデヴィッドがあの後、本当に目を潰したかどうかは分からない(映像がカットされているので)。なので、あのまま実は目を潰すことはしなかった、という展開も考えられるけど……。

 まあ、どっちに転んでもとんでもないディストピアだから、もうそんな現実見たくない! ってことかなぁ~、と思ったり。だったら、ロブスターにされちゃった方が良くないか??

 あとヘン過ぎるのが、カップルになった後、最終的にヨットで3日間(だったかな?)過ごす、っていうプログラム。なぜヨット?? とりあえずすぐには外と接触できない世界で過ごせ! ってことかな。意味不明すぎて笑えたけれど。

 ホテルでは、同じ個性を持つ者同士がくっつくように描かれていたのだけど、これもヘンだと思った。案外、似たもの同士って合わないもんじゃない? デコとボコだから合うとも言える。まあ、共通点がゼンゼンないのも難しいけど、そこに比重を置き過ぎな描写に違和感ありまくり。ラストのデヴィットの行動と言い、これって監督の恋愛観なのかしらん? だとしたら思い込み激し過ぎじゃない? 

 それにしても、、、。コリンは見事なまでのメタボ体型で、可笑しかった。逃亡中も、「ベルトがきつくてこれ以上速く歩けない」とか言っているし。お兄さんのワンちゃんが可愛かった! あんなヘンな女に殺されちゃって、酷すぎる。あのシーンも意味不明だよね。殺す必要性が感じられない。

 とにかく、ヨルゴス・ランティモス監督の映画は、『聖なる鹿殺し~』といい、本作といい、とんでもないディストピア。こういう世界観がお好きなんでしょうか。他の映画を見ていないので分からないけど、、、。とんでもないディストピアなのに、何かこう、、、シニカルな笑いの要素が散りばめられていて、嫌いじゃないけど好きとも言いにくい。でも多分、次作も公開されたら見に行っちゃう気がする。そういう不思議な引力を感じます。

 



 






あなたのなりたい動物は何ですか?




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負け犬の美学(2017年)

2018-11-14 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 40代半ばを迎え、盛りを過ぎた中年ボクサーのスティーブ(マチュー・カソヴィッツ)は、たまに声のかかる試合とバイトで家族をなんとか養っていた。

 しかし、ピアノを習ってパリの学校に行きたいという娘の夢を叶えるため、誰もが敬遠する欧州チャンピオン、タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)のスパーリングパートナーになることを決意する。
スティーブはボロボロになりながらも何度も立ち上がり、スパーリングパートナーをやり遂げる。

 すると、チャンピオンからある提案が舞い込んでくる。家族のため、そして自身の引き際のために最後の大勝負に出たスティーブが、引退試合のリングで娘に伝えたかった思いとは……。

=====ここまで。

 汗と涙のコッテリ系ではなく、サッパリながらも味わい深いお茶漬けみたいな映画。

 
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 新聞の映画評を見て“面白そうかも”と思い、昼過ぎカミュの舞台『誤解』と、午後7時からのポリーニの演奏会までの間に空いた時間で見に行って参りました。まぁ、ポリーニはともかく、『誤解』は、あまりにも悲惨な話の内容に、見終わった後、気分も頭の中も真っ暗に。原田美枝子が割と好きなので見に行ったのだけど、彼女の声質は意外に通らないのだなぁ、、、と初めて知る。小島聖はパワフルだった、、、。何より美術が布1枚で情景を想像させるという素晴らしさ。この舞台で一番感動したのは、この美術だったかも。

 ……と、いうわけで、カミュで真っ暗になった気持ちを建て直してくれたのが本作でありました。


◆承認欲求なんかクソ喰らえ!!

 ボクシングって、若い頃は、正直あんまし好きじゃなかったんだけど、歳をとるごとにそういう拒絶感は薄れ、今も好きとまでは言えないけれども、嫌いではなくなった。ボクシングにはなぜか他のスポーツよりも“悲哀”みたいなものを感じてしまう。これは、勝手な私のイメージのせいだろうけど、例えば、ゴルフとかテニスとかの持つ“金持ちのスポーツ”イメージとは明らかに違う、“ハングリーなスポーツ”であるからだと思われる。おまけに見ていて痛い。実際殴り合っているのだから、痛いに違いない。

 ボクシング映画といって真っ先に思い浮かぶのは、そらなんつったってDDLの『ボクサー』。本作とはテーマも趣旨も違うので比べようがないけど、主人公のボクサーが人生の岐路に立たされているのは同じ。あの映画で、DDLの美しい顔の鼻が曲がってしまったのだよ、、、トホホ。

 それはともかく、本作の主人公スティーブは、何十敗もしていて、パンチドランカーみたいな症状も出ており、誰が見ても、もう辞めた方が身のためという感じの黄昏ボクサー。でも、彼は本当にボクシングが好きなのが、見ていてよく伝わってくる。もちろん、勝ち負けに拘らないわけはないのだけれど、負け続けても、とにかく「リングに立ちたい」という気持ちが萎えないという、ちょっと不思議なボクサーだ。

 そんなスティーブがさらにボクシングで稼がなきゃならない理由が出来る。可愛い娘の夢を叶えるためだ。……と書いちゃうと、ものすごいベタなんだけど、見ているとそんなベタさは感じない。なにより、娘のオロールが弾くピアノは、決して上手いとは言えない。訥々と一生懸命に、でも楽しそうに弾いているオロールの姿に、彼女が「パリでピアノを習いたい」という夢を持つことを単純に応援したくなる。観客がそう思うのだから、父親が思わないはずはない。

 ……で、スティーブは無謀とも言える、世界チャンピオンの練習相手を務めることになり、、、あとはラストの試合までは、ボコボコにされたり、その姿を娘が見て逃げ出してしまったり、、、という描写が続く。でも、スティーブに悲壮感は全くない。

 そう、この映画がサッパリなのに味わい深いのは、スティーブに悲壮感が全く感じられないからだと思う。ボコボコにされても、娘の前で屈辱的な体を晒しても、彼にとってそれは屈辱でもなければ、みっともないことでもない。一生懸命ボクシングをやっている、、、それだけだ。

 あまりにも吹っ切れている姿に、娘オロールの気持ちを考えると、そんなスティーブはちょっと自己満足なだけの父親じゃない? というイヤミの一つも言ってやりたくなる。大好きなお父さんが、観客に囃し立てられ、貶められ、リングで倒れる姿は、見るに堪えないのは当然だ。

 ……とはいえ、彼は、それまで決して娘に自分の試合を見せてこなかったんだけれどね。オロールがどれだけ「見たい、見に行ってもいい?」とせがんでも、普段は激甘パパなのに、厳しい顔で「ノン!!」ととりつく島もない。それは自分がボコボコにされる姿を見て娘にショックを受けさせたくないという思いもあっただろうけど、そんな痛々しい姿が、家族のために犠牲になっているとか娘に誤解される方が遙かにイヤだったからに違いない。

 それにしても、ここまで突き抜けた姿を見せられると“そういう生き方もあるんだな……”などと、哲学的な思想にまで至ってしまうのだから、天晴れでもある。

 何事も腹を括って臨み、どんな結果も受け容れる潔さがあれば、昨今何かとネタにされる「承認欲求」なんてものは屁みたいなものなのかも知れない。

 だから、終盤、彼が引退試合で闘うシーンは、彼が初めて、自分以外の人のために勝ちに拘った試合だったのかも。妻にも「私のために勝って」と言われるし、娘にも勝利を期待されているのだから。有終の美で終わらせたい、とスティーブが思ったかどうかは分からなかったけど、多分、そういう自分のリング人生よりも、家族のことを考えた試合だったに違いない。


◆その他もろもろ

 スティーブを演じたのは、あのマチュー・カソヴィッツ。『ハッピーエンド』では変態不倫に耽っていたインテリを演じていたけど、ゼンゼン雰囲気も顔も異なる人物造形で、さすがの一言。負けてばかりで顔もアザだらけになったりするのに、悲壮感を醸し出さずに、むしろ時にはカッコ良くさえ見えるという演技は、素晴らしいとしか言い様がない。

 娘オロールを演じたのはビリー・ブレインちゃん。パッと見、男の子かと思ったら、キュートなお嬢ちゃんでした。まあ、とにかく可愛い。美形ではないけど、とにかく愛らしい。これまで愛されて育ってきたのだろうなぁ、と思わせる。ショパンのノクターンをポツンポツンと弾く姿が可愛すぎる。ラストの発表会のシーンでは、大分上達しており、スティーブにピアノを買ってもらった成果なのだろう。その姿を、客席からではなく、ステージ袖からそっと見ているスティーブがイイ。何かジンときた。

 あと、スティーブの妻がとても魅力的な女性だった。夫の身体を心配しつつも、力尽くでボクシングを辞めさせようとはしないで見守る妻。最後の試合ではなりふり構わず絶叫しながら応援している姿が、なんか微笑ましい。イイ夫婦だなぁ、、、と思う。

 若い頃は、結果――つまり、誰もが良しとする勝利や成功――があってこそ生きる意味がある、と思いがちで、自分もそう思っていた時期もあったけれども、歳を重ねると、それがいかに浅薄な価値観だったか身に沁みてくる。そんなこと言っていたら、世の中の99%の人は生きる意味がないことになりかねない。本作は、まさにそういうアタリマエのことを、ベタになることなくサラリと描いている逸品でありました。

 






たくさん負けることが勲章にもなるのだ!




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霧の中の風景(1988年)

2018-11-03 | 【き】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 12歳の少女ヴーラ(タニア・パライオログウ)と5歳の弟アレクサンドロス(ミカリス・ゼーケ)は、ドイツにいると聞かされている父に会いに行きたいがため、毎日夜のアテネ駅にやって来るが、列車に乗る勇気はなかった。しかしある日、ついにふたりは列車に飛び乗った。切符がないふたりはデッキで身を寄せて眠る。夢の中でヴーラは父に向けて話しかけるのだった。

 無賃乗車を車掌にみつかったふたりは途中の駅で降ろされ、行き先を尋ねる駅長(ミハリス・ヤナトゥス)に伯父さんに会うのだ、と答える。警官がふたりを連れて伯父(ディミトリス・カンベリディス)の勤める工場を訪ねると、伯父は警官(コスタス・ツァペコス)に、ふたりは私生児で父はいない、と話す。それを立ち聞きしたヴーラはショックをうける。警察署に連れていかれたふたりはそこを逃げ出し、旅を続ける。

 山道でふたりは、旅芸人一座を乗せたバスに乗せてもらい、彼らと行動を共にする。その夜、ふたりはバスの運転手オレステス(ストラトス・ジョルジョグロウ)と、道に落ちていたフィルムの切れはしを拾う。そこには白い霧の中に、見えるか見えないか程度にうっすらと一本の樹が写っていた。

 旅芸人たちと別れたふたりは、雨のハイウェイでヒッチハイクしたトラックに乗せてもらうが、翌朝アレクサンドロスが眠っている間にヴーラは運転手(ヴァシリス・コロヴォス)に犯される。

 次に乗った列車で警官に見つかりそうになったふたりは、逃げこんだ工場でオレステスと再会する。ふたりはオレステスのオートバイで海岸を走り、テサロニキ駅にたどりつく。

 再びオレステスと別れたふたりは、ドイツを目指して歩き始める。北方の駅で、ヴーラは人のよさそうな兵士(イェラシモス・スキアダレシス)を誘い切符代を稼ごうとするが、彼は何もせず金を投げ捨てるようにして去った。

 夜行列車で国境までやってきたが、旅券がないふたりは、川べりで監視の目を盗んでボートに乗る。彼らに向けて放たれる一発の銃声。

 翌朝、霧の中で目覚めたふたりが対岸に降り立つと、ゆっくりと霧がはれ、緑の草原と一本の樹が現われた。ふたりは手を取り合ってその樹に向かって駆け出すのだった。

=====ここまで。

 字幕は池澤夏樹氏。

 
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 アンゲロプロス作品初体験。難解で評価も分かれている様ですが、、、私には非常に印象深い作品でありました。


◆青い鳥はいずこ、、、

 送られてきたDVDには短い特典映像があり、字幕担当の池澤氏が、アンゲロプロスにインタビューしていた。アンゲロプロスは本作について「娘に語って聞かせていたおとぎ話を映像にした」と言っていた。

 まぁ、確かにおとぎ話かも知れぬ。これは、あの『青い鳥』のアンゲロプロス版なのだ。……って、『青い鳥』の戯曲を(恥ずかしながら)読んでいないんですけどね、私。そもそも童話といって良いのか微妙ではあるが、、、。まあ、でも誰でもオハナシは大体知っている。本作を見て、同じことを感じた人はきっと多いと思う。

 この2人の姉弟の父親は、本当にドイツにいるのか? 多分いないでしょう。母親の身近にいる男なんじゃないかと思うけれど、母親は姉弟に「お父さんはドイツにいる」と言っているんだよね。ちなみに、この母親は冒頭にチラリと姿が出てくるだけで顔は映らないので、どんな女性かさっぱり分からない。けれども、彼らの“叔父”という男が、この姉弟のことを「私生児だ」と言っているところから、どんな母親か、おおまかな輪郭を見ている者に想像させる。おそらく姉弟の父親は同じではないだろう。姉ヴーラは「ママのことは好きだけど、パパに会いたい」というようなことを弟に語っているシーンがあるので、別に母親が嫌いで姉弟で逃げ出した、というわけではなさそうだ。

 本作での“青い鳥”は、その未知なる父親だ。子どもは、……というか、人間という生き物は自分のルーツを知りたがるものなのだ。父親がいないのであれば、どんな男なのか知りたいと思うのは、ほとんど本能に近いものなのだろうと思われる。

 しかし、父親に関する具体的な手がかりを何一つ持っていない彼らは、当然、父親に会えるはずもない。彼らが会うのは、行きずりの人たち。

 会いたい人の下にはなかなか辿り着けないが、姉のヴーラは、その行きずりで出会った青年に恋をする。これで、ヴーラにとっては旅の意味合いがかなり変わってくる。父親に会いたいだけの旅ではなくなるのだ。しかも、この恋をしている途中で、ヴーラは別の中年男にレイプされてしまうという、非情な経験をする。しかし、ヴーラは弟とその後も旅を続け、一旦離ればなれになった青年と再び出会う。ヴーラの心の波は激しく上下していたことだろうなぁ、、、。

 この、オッサンにトラックの荷台でレイプされるシーンが、何とも痛い。……というか、恐ろしい。レイプシーンはゼンゼン映っていないのだけど、その間、幌のような幕が下りた荷台のバックをただひたすら写し続けているのです。そして、オッサンがその幕をかき分け出て来て立ち去り、しばらく後に、ヴーラの、ソックスがくるぶしまでおろされた脚が幕の下からのっそりと出てくる。力なく荷台の端に座ったヴーラの脚には真っ赤な血が滴り出て来て、荷台にも広がる。その血をヴーラは指で掬うと、荷台に擦りつける。この一連の描写に、見ている方も凍り付く。


◆ブラック・ファンタジー

 しかも、このレイプの後に青年と再会して、ヴーラの受けた傷が少しは和らいだかと思った矢先に、ヴーラはこの青年にまともに失恋するという、、、、なんでこんないたいけな少女にそこまでの試練を与えるのかね、アンゲロプロスは。

 青年の腕の中で泣きじゃくるヴーラに、青年は「最初は誰でもそうなんだ」と言って彼女の頭を優しく撫でる。あっけなく散ったヴーラの初恋。もしかすると、レイプで受けた傷よりも、この失恋の傷の方が、彼女にとっては痛手だったかも知れない。

 そんなズタボロになったヴーラに、しかし、アンゲロプロスは手を緩めることなく試練を与え続ける。手持ちの金が底をついたヴーラは、何とか電車賃を入手しようと、駅にいた軍人の男に「金をくれ」と直談判する。軍人は、対価を得ようと、物陰に彼女を連れ込むものの、さすがに自分に恥じたのか金だけ置いて立ち去る。これで、見ている者はホッとして一瞬油断するのだが、無事に電車に乗った姉弟に、今度はパスポートを見せなければならないという難題が降りかかるのだ。

 結局、彼らは国境を夜陰に紛れてくぐりぬけると、ボートで川を渡ろうとし、監視に見つかってしまうのである。そこで響く銃声、、、。

 これまでとは打って変わった穏やかな別世界のようなラストシーンの映像から察して、まあ、多分、姉弟はあの銃声により亡くなったと考えるのが妥当なのでしょう。

 ……一体、ヴーラの人生は何だったのか。幼い弟の人生は、、、? 戯曲『青い鳥』のようなオチはなく、もう一つの青い鳥かと思いかけた恋は逃げ去り、最初の青い鳥である父親には、その気配にすら触れられなかった。

 特典映像で、アンゲロプロスは「本作は一貫してファンタジーだ」とも言っていた。確かに、最後まで姉弟には“まだ見ぬ父親の存在”という希望があったから、ファンタジーという括りに偽りはないだろう。それにしても、あんまりにも過酷すぎるブラック・ファンタジーである。


◆空飛ぶ右手

 ところどころ、不思議なシーンが挟まれるのが印象的。

 姉弟が警察署から逃げ出すシーン。雪が降る外にいる人々は動きが止まっている。その中を、人々の間を縫うようにして姉弟は走って逃げていく。その後、姉弟はある広場に行き着くが、そこでは、結婚式を終えたと思われる新郎新婦が建物から出てくるが、新婦の方は何やら泣いている様子。しかも、広場には、どこからか馬が引きずられて来て、姉弟の脇でその馬が置き去りにされる。姉弟がよく見ると、その馬は死んでいる。

 青年と再会した後、岸壁に3人で来たシーン。海の中から何かがヘリコプターによって釣り上げられる。だんだん姿を現したそれは、何と、人差し指の欠けた巨大な人間の右手の形をしたモニュメント。ヘリコプターに釣られたまま持ち去られていくのは、いかにも何かを暗示しているようであるけれど、それが何なのかはさっぱり分からない。

 本作は、極端にセリフが少ない。映像で姉弟の旅がどんどん展開していく。ところどころで、姉弟が父親に宛てた手紙の形をとってナレーションが入るけれども、ヴーラが弟以外の人と会話らしい会話をするシーンは皆無だろう。

 過酷な状況に置かれて、過酷な経験をする子どもの話を描いた映画はたくさんあると思うが、本作は、その中でもかなり悲惨度は高いのではないか。アンゲロプロスの意図が、私には分からなかった。

 けれども、何とも言えず、心に深く印象が残ったのも事実。見てもすぐに忘れてしまう作品の方が多い中、本作は、一度見たら脳裏にこびり付くシーンが多い。それこそが、映画として存在価値がある作品だということでしょう。

 他のアンゲロプロス作品も、ぼちぼち見ていきたいと思いました。



 



本作では、ギリシャの隣はドイツ、、、らしい。




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エンジェル、見えない恋人(2016年)

2018-11-01 | 【え】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 マジシャンの恋人が失踪し、ルイーズ(エリナ・レーヴェンソン)は心を病んで施設に入る。そこで生んだ息子のエンジェルは不思議な特異体質を持っていて、誰の目にもその姿が見えなかった。ルイーズは世間との接触を一切経ち、懸命に息子を育てた。

 エンジェルは、ママが小さい頃に両親に連れられて行ったという湖のほとりにある小屋の話が大好きな、優しい男の子に育った。

 ある日、ふと施設の窓から近所の屋敷を覗き見たエンジェルは、そこにいた女の子のことが気になって仕方がない。間もなく、エンジェルは施設を抜け出し、屋敷に向かう。庭でブランコに乗っていた盲目のマドレーヌは、エンジェルに話しかける。驚いたエンジェルが「ぼくのことが見えるの?」と尋ねると、「見えないけど、声と匂いがするから」と答える。マドレーヌはエンジェルの秘密に気づかない。

 彼らは次第に心惹かれ合っていき、二人きりの幸福な時間を過ごす。一方、ルイーズの容態は悪くなるばかりだった。そんな折、マドレーヌが視力を回復させる手術を受けることになる。「あなたの姿を見られる」というマドレーヌに対し、エンジェルは自分の秘密を伝えられなかった。

 それから数年が経ち、その間にルイーズは亡くなってしまう。

 ある日、マドレーヌ(フルール・ジフリエ)が屋敷に戻ってくる。美しい女性に成長し、視力も完全ではないが回復した彼女はエンジェルの姿を探す。しかし彼を見つけられないマドレーヌは、姿を見せてほしいと書いた手紙をルイーズのお墓に置く。実はすぐそばにいたエンジェルは、昔みたいに会いたいので目を閉じてほしいと返事を書く。

 再会した二人は、再び夢心地の時間を過ごすようになる。しかし、エンジェルの姿を見たいというマドレーヌの想いは消えない。エンジェルは、ついに自分の秘密を打ち明けることになる。

=====ここまで。

 ジャコ・ヴァン・ドルマルが、監督ではなく制作・総指揮の作品。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品が割と好きなので、まあ、これは監督ではないけど一応見ておこうか、と思って劇場まで行ってまいりました。まぁ、ある意味、ジャコ・ヴァン・ドルマル風ではありながら、ちょっと亜流な感じを受けたのは私だけ……?


◆パラドックス

 カップルの片割れが、見えなかったときは上手く行っていたのに、見えるようになったら破局した、、、とかいうオハナシは結構ありそうだけど、本作は、それと似て非なる話。

 “見えないときには確かにいたのに、目が見えるようになったら、いなくなってしまった”……それは、あなたのことです、エンジェル。

 冒頭に書いたオハナシとどこが違うか、、、。目が見えるようになったら、もう一方の片割れの本当の姿が見えた、というのが、冒頭の話。こういう話の場合は、大抵“見えないときの方が、人間的にピュアだった”的な、ある種の寓話みたいなものが根底にあるように感じる。もっというと、説教臭い。見えるようになってからの世界が“現実”であり、見えないときの方が幸せでいられた、みたいな。

 でも、本作は、目が見えなかったときも、見えるようになってからも、片割れの姿をビジュアルで認識できない。だから、見えるようになってからの世界として描かれている、中盤以降の方が、むしろファンタジー色が強くなっていて、これが、ありがちなおとぎ話とは決定的に違う構成だと思う。しかも、マドレーヌは、見えるようになって、“現実”を知ってからの方がむしろエンジェルを深く愛していくようになるのである。

 目が見えないときの方が確かに感じられたその人。見えるようになったら、どこにいるか分からなくなる、、、というのは、なかなか面白いパラドックスです。

 終盤、エンジェルがマドレーヌに真実を明かす際、彼女の前に姿を現すに当たり、ビジュアル化するため(だと思うが)、白い布を被っている。そこにエンジェルがいることが分かる。そして、マドレーヌがエンジェルの姿を見ようと布を取ると、そこには何もない、、、。実際には透明のエンジェルがいるわけだけど、全く見えない。

 まあ、確かに、透明であっても確かに存在しているのだから、体温や触感はあるわけで、しかもちゃんと言葉によるコミュニケーションも可能で、それは視覚がない世界で相手とかかわることと同じと言えば同じだよなぁ、、、。

 むしろ、透明で、エンジェルの顔や形が分からないからこそ、マドレーヌの目が見えるようになってからも、エンジェルに幻滅することなくいられたのかも。だって、永遠にエンジェルを理想化することができるから。

 触感では顔の輪郭は何となく分かっても、ちゃんとは分からない。玉木宏かムロツヨシかの違いは、多分、触っただけじゃ分からんだろ、と思うわけ。私だったら、相手の顔が見えたとき、玉木宏なら以前より好きになる可能性が高いが、ムロツヨシならその可能性は低い、、、と思う(ムロファンの皆さん、すみません)。でも、見えないけどそこにいる、触ることは出来る、というのであれば、本当はムロツヨシでも、玉木宏だと勝手に認識することは可能でしょ。そうすれば、私は、玉木だと思い込んで、テンション上がったままでいられるわけだ。

 おいおい、顔だけじゃねーだろ、というツッコミが聞こえてきそうだけれど、もちろん、顔だけじゃありませんよ。ただ、見なくてよいものを見なくて済む半面、見なくてはならないものも見られない=真実を知らぬまま、って面もあるよね、、、というハナシです。まあ、何でも真実を知ることが最善ではないので、それはそれで良いのだけど。


◆あの映画の下世話なあのシーンが、、、

 でもまあ、本作の面白いところはそこくらいで、あとは、イマイチ私には入り込めない世界でした。

 特に、マドレーヌが視力を得た後、エンジェルが真実を打ち明けるまでの描写が、かなりドン引きで、、、。エンジェルは真実を打ち明けるまでの数日間、マドレーヌに目隠しをさせたまま一緒に過ごすんだけど、当然、セックスもするわけで、、、。何しろエンジェルは透明人間だから、マドレーヌ役のフルール・ジフリエという女優さんの一人芝居になるわけ。一人で、マスターベーションではなく、相手がいるセックスをする芝居をする、、、って、ものすごい難しいと思うし、見ている方も、正直なところもの凄く気まずい感じになるのよねぇ。見ちゃイケナイものを見ている気分、というか。マスターベーションのシーンならゼンゼン良いんだけど、何でだろう、、、。

 気まずいというよりは、やっぱし違和感なのかも知れないけれど。

 あと、透明人間っていう設定だけに、イロイロ突っ込みを入れたくなるシーンが多々。例えば、エンジェルがものを食べるシーン。食べたものは、どうしてエンジェルの身体に入った瞬間見えなくなるのか? とか。エンジェルがマドレーヌをお姫様抱っこするシーンも、CGだろうけど、やっぱりもの凄くヘンだったし。片方が透明だと、本当にあんな風になるのか??という疑問が。

 正直、マドレーヌの一人でセックスシーンを見ていたら、『インビジブル』で透明になったケビン・ベーコンが、エリザベス・シューの胸を触るシーンを思い出しちゃったよ。あれは、スケベ心、覗き趣味でやったいたずらだから一緒にするなと怒られるかもだけど、、、。透明人間のエンジェルが、マドレーヌの乳房を触ったり、乳首を吸ったりするのがCGで描かれるのは、いささか不快感さえ覚えてしまった。……はて、何でだろう。やっぱし違和感かな。

 あの『インビジブル』でのシーンを自著でイラストを描いていた石川三千花が、本作のパンフ(買ってないけど)でイラスト入りコメントを寄せていたので、余計に、そのシーンが甦っちゃったんだよな、、、。

 
◆やっぱし監督として映画を作って欲しい

 ジャコ・ヴァン・ドルマルっぽいカラーは何となく出ていたような感じがあるけれど、ちょっとファンタジー要素が強すぎて、私はあまり好きじゃないかな、本作は。音楽や映像はとても良かったけど。

 制作って、どれくらい作品づくりに関わるのか分からないけど、、、というか、作品によってまちまちなんだろうけど、やっぱり、私は監督ジャコ・ヴァン・ドルマルが好きだわ。彼の独特の人生観というか死生観、美意識、音楽的&映像的センスetc……が好きなんだよね。だから、いくらお金出してプロデュースしていたって、監督として作品づくりに全責任を負う立場でない限り、やはり彼らしさを作品から感じるのは難しいのだろうな、と。

 『神様メール』からもう3年経っているけど、彼は寡作だから、、、次作はまだ何年か先ですかね。早く作って欲しいとは思うけど、こればかりは仕方がない。気長に待っています。







少女時代のマドレーヌが可愛い!!




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