映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

東京物語(1953年)

2024-02-09 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv23661/


 尾道に暮らす平山周吉(笠智衆)と妻のとみ(東山千栄子)は、東京の下町で診療所を開業している長男・幸一(山村聰)の下へと遠路はるばるやって来る。同じく東京に暮らす長女の金子しげ(杉村春子)や、戦死した二男の妻・紀子(原節子)も一堂に会し、久しぶりの再会を喜ぶ。

 しかし、幸一は往診を頼まれるなどして忙しく、しげも美容院の仕事に追われ、両親の歓待どころではない。せっかく上京して来たのに所在ない平山夫妻を、紀子が東京見物の案内をすることに。帰りには紀子のアパートにも寄って、もてなしを受けた2人は楽しい時間を過ごす。その後、平山夫妻は、しげと幸一の計らいで熱海の温泉に足を延ばすが、その温泉宿は安宿で騒がしく夜も寝られない。早々に東京に戻ってくれば、「何でもう戻って来たの?」としげに言われる始末。

 仕方がないので、尾道に帰った平山夫妻。帰って間もなく、とみが危篤になる。


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 小津映画は、ほとんど見ていなくて、もう何十年も前になぜか『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』を見ただけ。小津映画が世間で(というか世界的に?)評価が高いのは重々承知なんだが、正直言って食指が動かなかったというか、興味を持てなかったというか、、、。

 本作は名作として度々TVでも部分的に有名なシーンを見たことはあったけれども、話の筋も何となく知っている程度だし、“いまさら名画”シリーズ第5弾として、一度ちゃんと見てみようかな、、、とアマプラで配信していたので見てみることにしました。

 ……というわけで、本作をお好きな方、小津信者の方々は、この先はお読みにならない方が良いと思います(悪意は全くありませんが、若干悪口になっているので)。


◆大人になった我が子の家を訪ねるということ

 平山周吉は、本作内の設定では70歳だそうだ。私の母方の祖父(明治生まれ)より一回りくらい年上かな。でもまあ、大体同世代と言っても良いだろう。ちなみに父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっている。

 で、本作を見ていて、私は無意識に祖父と周吉さんを比べてしまっていたのだった。というのも、祖父は「結婚した我が子の家には絶対に行かない」を信条としていた人で、妻(祖母)にも「決して行ってはならん」と言っていたという。母方の兄弟姉妹は8人いるが、息子であれ娘であれ、祖父母が訪ねて行ったことは(全くないかどうかは分からないが)ないらしい。父方の祖母は時々我が家に来ていたが、少なくとも、私の記憶する限り、母方の祖父母が揃って訪ねてきたことは一度もない。

 なぜ、祖父がそこまで頑なに子の家庭を訪ねなかったかといえば、本作がその答えと言って良いだろう。

 結局、子には子の生活があるということだ。祖父は、自分たちが訪ねて行くことが、いかに子に物理的・経済的、そして何より精神的な負担を掛けるかを分かっていたから、頑として訪ねなかったのだと思う。

 客人が来るとなれば準備も必要、食事や茶菓子、寝具だって買い足さなきゃいかんかも知れぬ。おまけに、送迎の交通費やら、観光案内でもした日にゃ外食費やら何やら、土産代に至るまで、出費はいやでもかさむ。金の話だけじゃなく、幸一もしげも自営業ならそもそも都合をつけること自体が難しい。

 身も蓋もない話だけど、親が子の家庭を訪ねるのはトラブルの素である。ネット掲示板でも、義理の両親が訪ねて来て迷惑だという内容の書き込みは定番だ。父方の祖母が我が家へ来れば、両親は必ず揉めた。母親は専業主婦だったが、家は広くないし、経済的にも余裕があるわけじゃなし、そもそも姑である祖母を母親は嫌っていた(理由は耳タコってくらいに母親から聞かされていたがここでは割愛)。しかも祖母は一度来ると1週間は滞在していたので、昼間仕事に行ってしまう父親は丸投げで済んだが、そりゃ母親にとってはかなりの負担だったろう。

 ちなみに祖父亡き後、母方の祖母は時々我が家へやって来ては長逗留していた。そして、娘である母親と険悪になっていた(父親は適当に対応していた)。そうまでして祖母が我が家へ来る理由が分からなかったが、まあ、寂しかったのかな。ほかにも兄弟姉妹がたくさんいるのに、ソリの合わない母親の所にわざわざ来るのは不思議だった。

 それはともかく。そんな祖父と生まれ育った時代はほぼ同じ周吉さんが、子の家を泊まり歩いている姿が、私にはあまり好ましいものに見えなかったのである。おまけに、そんな子らのことを妻と「優しくない」と言ってグチっている姿は、正直言って醜悪だとさえ思えた。

 子にしてみれば、親だからこそ邪険にできず、しかし自分の生活もあるので板挟みになるのだ。そういうことに思いが及ばないのか、及びながらもなのか分からないけど、夫婦でグチる姿は、お世辞にも微笑ましいとは思えなかった。


◆本作に、日本が“悪くなった”理由が描かれている、、、らしい。

 あちこちでされている本作の紹介文を読むと、実子が冷たく親をあしらう一方で、他人である嫁が老夫婦に誠意ある対応をしたことの対比云々、、、というのが目に付くが、本気で言っているのかと書いた人の見識を疑う。

 老親はそれだけで哀愁を誘う姿である。言ってみれば「弱者」であり、バリバリ働く子たちは「強者」である。強者が弱者をいたわらない図は、たしかに非道に見える。

 けれど、紀子があのように振舞えたのは、彼女が独り身で子が居らず、勤め人で、ある程度自由が効く身だからに他ならない。あれで、戦死した夫との間に幼子でも居たら、しげのように店を構えていたら、話はゼンゼン変わって来るだろう。ましてや、紀子と周吉夫婦は赤の他人である。滅多に会わない他人だからこそ、たまに会ったときくらいは親切にできるという側面は確実にあるのであって、背景や関係性の違い過ぎる者同士を対比させて、実子のくせに冷たいだの、他人の方が優しいだの、あまりにも表層的で浅はかなのでは。

 もっとも、監督の小津はそんなことは百も承知で、だからこそ、終盤に、紀子が「私、ずるいんです」と周吉に話すシーンが入っているのだろう。

 紀子を“優しい人”と感じる人々は、かなりオメデタイと思う。もちろん、感じが悪いより良い方が誰しも好きなのは理解できるけれど、「日本の良さを体現する人物」「東京なるものに日本人の美徳が壊されていくのを辛うじて阻む存在」とか書いている人がいたのには苦笑してしまった。紀子さんの見せた“感じ良さ”は彼女のほんの一面に過ぎないということ。人間は多面体なのだよ。別の顔があるんですよ、紀子さんには。この映画では描いていないだけです。

 私が時々拝読している映画ブログ(ブログ主さまは男性で70代と思われる)では、本作が最高点になっていて、レビューでも激賞されていた。……まぁ、それは好みの問題なので良いのだが、その方は、本作のについて「家の崩壊をテーマにしている」と書かれている。「家の崩壊」とは、「家(族)制度の崩壊」「核家族の発生」という意味だそうである。さらに、戦後の小津は、そのことを懸念しており、映画でそれを訴え続けていたと。驚いたのは、「日本の社会の諸悪(少子化や犯罪の増加等)は家制度の崩壊から始まったと言っても過言ではない」とまで書かれている。

 他作品の映画評を読むと、保守寄りのリベラル、、、という印象なのだが、本作の感想は、思いっきり昭和オヤジ丸出しで、のけぞった。

 家制度ってのは、そりゃ、男(特に長男ね)にとっては実に都合の良い制度で、もっと言うと、女の犠牲の上に成り立っていたんスよ、、、。だから、こんなもんが崩壊して日本が悪くなったってぇんなら、それは家制度の地獄の側面を無視した、安直な懐古趣味に浸ってるってことです。まあ、家制度については書くと長くなるのでやめておくけど。

 また、本作の解説をしている複数のサイトで、子が成長して家族が崩壊していく様を描いているとしているのが目に付いたんだが、それは家制度下でもあった話じゃんね。男でも、二男以下は家から出ざるを得ないことが多かったんだから、必然的に家族はバラバラになるわけで。どんな制度であれ、人間が成長して老いる生き物である以上、形が変わらない家族なんてない。家族の形が変わることを「崩壊」というなら、崩壊しない家族はこの世に存在しない。

 で、考えてしまったのである。前述の私の祖父は、言ってみれば家制度のど真ん中で長男として育ってきた人でありながら、なぜ周吉さんと違って、子の家に行かないことをポリシーとしていたんだろう、、、と。祖父のことなど、ゼンゼン知らないのだよな、、、。

 本作を見て以来、祖父についてイロイロ思い出そうとして記憶をたどったのだが、祖母にはよく「女の子なんやから云々、、、」ということを言われていたが、祖父の口から「女の子だから」「女のくせに」というセリフは聞いたことがない、、、という事実に思い当たった。私の両親もしょっちゅう「女の子だから」「女のくせに」と言う人たちだったが、祖父がそんな言葉を口にしたのは全く記憶にない。むしろ、幼い孫娘である私や姉に「しっかり勉強してエエ大学行って立派になれ!」とよく言っていた(おじいちゃん、ゴメン)。

 でも。一方で、祖父は自営業で羽振りも良く、祖母も結構泣かされていたらしい、、。一体、どんな男やったん、、、おじいちゃん!!


◆嗚呼、小津映画。

 実は、本作を見る前に、昨年末にNHKBSでオンエアしていたのを録画してあった『秋刀魚の味』を見たのだけれど、本作同様、あんましピンと来なかった。それはやはり、作品内で描かれる女性の置かれた立場が、どうにも受け入れ難いものがあるからだと思う。

 小津映画が高く評価されているのは知っているが、私は撮影技術なんかはよく分からないし、構図が云々とか言われても「ふ~ん」という感じでしかない。それよりも、もっと分かりやすい、例えば、笠智衆の棒読みな演技とか、セリフ回しのくどさとか、いかにも芝居がかった演出とか、、、に目が行ってしまう。

 だから、こんなことを書くと小津信者に怒られるだろうけど、若干、過大評価されているんじゃないか、という気がしてしまう。

 ある人は「この時代に、普通の人の普通の生活の普通の話を取り上げて描いたところがスゴいんだ」みたいなことを書いていたが、そうなのか? まあ、映画史を分かっていないからツッコミようもないが、そういうもんなんですかね。

 一つの「映画作品」として見て、あんまし魅力的だとは、、、私の目には映りませんでした。良かったのは、おじいちゃんのことを思い出させてくれたこと。

 名画の誉れ高い作品に、こんな感想ですみません。他の小津映画をいっぱい見れば、印象変わるんでしょうか。

 

 


 

 

 

 

原節子演ずる紀子さんより、杉村春子演ずるしげさんの方が正直で好き。

 

 

 

 

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To Leslie トゥ・レスリー(2022年)

2023-07-22 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv81093/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。
 
 テキサス州西部のシングルマザー、レスリー(アンドレア・ライズボロー)は、宝くじに高額当選するが数年後には酒に使い果たしてしまい、失意のどん底に陥る。

 6年後、行き場を失ったレスリーは、かつての友人ナンシー(アリソン・ジャネイ)とダッチ(スティーヴン・ルート)のもとへ向かうが、やはり酒に溺れ呆れられてしまう。

 そんな中、スウィーニー(マーク・マロン)という孤独なモーテル従業員との出会いをきっかけに、後悔だらけの過去を見つめ直し、母親に失望した息子(オーウェン・ティ―グ)のためにも、人生を立て直すセカンドチャンスに手を伸ばしはじめる。

=====ここまで。


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 主演がアンドレア・ライズボローなので見に行きました。彼女は、これでオスカーにノミネートされていたのですね。……というのは見た後知りました。今年のアカデミー賞関連、ほぼニュース見ていなかったので、、、。


◆宝くじに高額当選すると、、、

 ほぼ予備知識なく見たのだが、スチール画像(moviewalkerのtop画像と同じ)のライズボローの様子がタダゴトじゃない感いっぱいなので、まあ、雰囲気は予想して行った。中盤までは予想どおりで、ヨレヨレになったライズボローとシビアな展開であったけれど、終盤は多少の救いもあり、鑑賞後感は悪くない。

 ライズボローは、「ナンシー」(2018)でもそうだったが、ちょっと病んでいる感じがめっちゃハマる女優さんである。不健康な役を演じるのが実に巧い。

 生い立ちも不遇そうなレスリーは、きっと元夫もDV野郎か何かだったんだろうと思われるが、シングルマザーで高額宝くじに当たった後、あっという間にその金を全部アルコールで使い果たして、本作は、そのどん詰まり状態から始まる。

 宝くじの高額当選者は、日本では匿名だけど、アメリカでは氏名が公表されることになっているとか、、、どこかで見聞きした記憶がある。日本じゃ、「高額当選したことを周囲に言ってはいけません!!」と、かなりしつこく金融機関から指導されるらしいが、おおっぴらにウン千万も当たったとなりゃ、そら集りに来る輩がうじゃうじゃ湧いてくるのも容易に想像がつく。

 先日見ていたYouTubeで、あるFPの方がお金の話をしていて、そこで言っていたんだが、人間とはそもそも大金を持つと使っちゃう生き物なんだそうである。例えば、1億円宝くじで当たった場合、そのうちのウン千万キャッシュで家を買って、残りは預金に回して、日々の生活は今まで通り地道に働いて、、、ってことはなかなか難しいのだと。大抵の人は、1億円あればあるだけ使っちゃうのだとか。悪銭身に付かず、、、ってか。私の友人は、高額当選したら、老後の資金を除いて、残りは全額寄付する、、、などと奇特なことを言っていたが。私だったらどうするかなぁ、、、、。1億円あれば、100万円の旅行が100回できるのだなぁ、、、。……と、これは取らぬ狸ですな。

 お金があり過ぎても人生狂うが、なさ過ぎると、人生行き詰まる。文無しとなったレスリーは、息子にも拒絶され、あちこち放浪して、下手すりゃそれこそ野垂れ死にしてもおかしくない状況にまで追い詰められる。

 私はそんなレスリーを見ていて、それでも生きようとするレスリーに、何となく感動していた。私がレスリーなら、どこか空き家でも見つけて、もう人生に見切りをつけるかなぁ、、、などと思ってしまっていたので。彼女はそういう素振りは全く見せない。生活力はないけど、生命力はある、、、ってことかな。


◆終盤はファンタジー

 ライズボローがオスカーにノミネートされたというのは納得だったのだが、終盤の展開は、個人的にはあんまし好きじゃないかも、、、。

 モーテルのオーナーに救いの手を差し延べてもらって立ち直りのきっかけを得る、というのはいいのだが、最終的にそのオーナーのおじさん・スウィーニーと恋仲になっちゃうのがね、、、なんかなー、と。

 色恋が絡むと、人間関係が俄然メンドクサくなるじゃん、普通。依存症克服者&理解者、という関係なら、持続的な関係を築けると思うけど、恋仲になっちゃって、本作内ではそこまでは描かれていなかったと思うが、夫婦になっちゃった日にゃ、イイ関係でいられなくなる要素がいっぱい出て来ちゃうんじゃない? カネの話、子供の話、前妻の話、、、etc。依存症だったこともネックになりかねない。スウィーニーの前妻は、レスリー同様アル中で、それが原因で離婚したと言っていたし。だからレスリーを理解できるって言うけど、どーなのかねぇ。

 おまけに、レスリーはモーテルの向かいにある廃屋を改修してカフェ(レストラン?)をオープンさせるんだが、その経営だって大変なわけで、スウィーニーとの間にはトラブルの火種が多すぎる気がするんだよね。

 あと、本作に決定的に欠けているのは、レスリーがどうやってアル中を克服したのかが一切描かれていない点かな。依存症を克服するのって、本人の意志だけじゃどうにもならんわけで、医療や回復施設などの介入が絶対的に必要なはずなのに、それらは完全にオミットされている。これでは、いくらファンタジー映画だとしても、あんまりじゃないかねぇ。ワンシーンでもいいから、レスリーがのたうち回って依存症そのものと闘っている姿を見せておくべきだったのでは、と思う。

 ……とはいえ、本作は終盤こそファンタジーではあるものの、中盤までは結構シビアであり、途中までの展開はケン・ローチを思わせる。ローチの映画は酷な現実を描くのだが、必ず一筋の光明を見出せる展開が多い。ローチのアプローチは一貫しており、厳しい状況にある人間が立ち直るには、本人の意志や努力が必須ではあるけれど、それ以上に、周囲がほんの少し手を差し延べることの大切さをいつも描いている。

 そういう意味では、本作も同じで、死を考えても不思議でないようなシビアな状況に置かれた人間でも、本人の努力とほんのちょっとの周りの手助けで立ち直れるのだ、という希望をもたらす映画として存在意義は十分にあると思う。

 

 

 

 

 

 

 

宝くじ、買ったことないのですが、買わないと当たりませんよね。

 

 

 

 

 

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ドント・ウォーリー・ダーリン(2022年)

2022-12-29 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv78500/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 完璧な生活が保証された街で、アリス(フローレンス・ピュー)は愛する夫ジャック(ハリー・スタイルズ)と平穏な日々を送っていた。

 そんなある日、隣人が赤い服の男達に連れ去られるのを目撃する。

 それ以降、彼女の周りで頻繁に不気味な出来事が起きるようになる。次第に精神が乱れ、周囲からもおかしくなったと心配されるアリスだったが、あることをきっかけにこの街に疑問を持ち始めるー。

=====ここまで。

 オリヴィア・ワイルドの長編監督作第2弾。

 
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 公開直後から見に行きたかったのだけど、なかなかタイミングが合わず、このまま終映か、、、と思っていたら、ぽっかり時間ができて、ようやく見に行くことができました~。

~~以下ネタバレしております。今後、鑑賞予定の方は、予備知識ナシにご覧になることをオススメします。~~


◆フェミVSマッチョの殺し合い。

 あらすじはチラッと読んでいたけど、予告動画も見なかったし、ほぼ予備知識ゼロで見たのは正解だった。これ、予告動画を見てしまったら、おおよそ内容が想像つくし、実際に見て、その想像を(多分)超えないだろう。これは、予告編としてはダメでしょう。

 それはともかく。

 見終わった直後は、そこそこ面白かったと思ったのだけど、時間が経つにつれて、イマイチ感が増幅してきてしまった。

~~~以下、結末に触れています。~~

 完璧な街ヴィクトリー(この名前からしてアレなんだが)は、仮想空間だったのだけど(それは良いのだが)、完璧な街とかバーチャルとかは割とよくある設定だし、男尊女卑を徹底的に批判するものとしてこの設定を使っているのは既視感も強く、あまり感心しなかった。

 いや、マッチョに鉄槌を下してやりたい気持ちは痛いほど分かるので、フランクみたいにミソジニー丸出しの男たちの妄想をヴィクトリーという街に見立てて、徹底的に虚仮にすること自体は理解できる。できるし、面白いは面白いんだけどねぇ、、、何かねぇ、、、という消化不良な感じ。

 世間じゃ、本作は“フェミ映画”なんて言われているらしいが、確かにフェミ映画だけど、私はこういう描き方はあまり好きじゃない。

 マチズモをこき下ろすのは、まあそれがフェミの常套だからね。そのこき下ろし方が、どうしようもなく暴力的なんだよね。シニカルな笑いに落とし込んでいるのならば良いのだけど、日頃マチズモの暴力性に異議を唱えておきながら、それはどうなんだろう、、、と。力には力で!というのでは、マッチョとやっていることは同じだろう。

 要は、フランクに逆らう女は殺すとか、アリスがバーチャルから抜け出すためにジャックを殺すとか、フェミVSマッチョの行き着く先は凄惨な殺し合い……という展開が、本作の最大の難点だと思い至った次第。


◆カオスは敵!!

 ヴィクトリーの首謀者フランクが「進歩の敵は何だね?」と問い掛けると、ヴィクトリーの住民は「混沌(カオス)」と答える。整然と統一されていることが良しとされるのだが、これはつまり、独裁のメタファーだということは容易に想像がつく。

 その象徴として、円形に同じ外見の住宅が整然と並ぶヴィクトリーの街を上空から捉える映像や、大勢のダンサーによる万華鏡のようなダンス映像が差し挟まれるのだが、これがちょっとやり過ぎというか、意図がミエミエで安易ささえ感じる。ただ、アリスたちのバレエは、整然と!と言われている割に、あまりそうでもなくバラバラな感じだったけど。

 とにかく、ヴィクトリーの女たちは、ミソジニーの男たちに徹底的に消費されているのであり、こういう世界をユートピアと感じる男性は、一定数いるんだろうなあ、とも思う。女でも、ミソジニーはいるからね。

 余談だけど、昨今の少子化解消策として「女が家事育児に専念すればよい」と唱えている人は男女問わずいて、彼らは、そういう性的役割分業制にした方が、社会が効率的に回って良い、と信じているのだよねぇ。

 フランクが言う「カオスは敵!」ってのは、やっぱり「性的役割分業制の方が効率的」という考えと地続きなんだよなぁ。独裁は、ある意味、単純で分かりやすいからねぇ。でも、独裁は停滞でしかなく、発展は望めない。分かりやすさを求める大衆、、、というけど、そういう大衆を育てたいのだよね、権力者は。その縮図がフランクであり、ヴィクトリーということだ。逆らうヤツは殺すと。

 日本よりいくらかマシなアメリカでもこんな映画が撮られるんだから、日本がジェンダーギャップを解消する日は遠いわね、、、ごーん。 


◆その他もろもろ

 アリス(って、鏡の国のアリスからだよね、多分)を演じたフローレンス・ピューは、『ミッドサマー』に続き、受難のヒロイン。『ミッドサマー』ではあまり感じなかったが、本作では、すごくカワイイなぁ、と思った。こういうカワイイ系の女性が、マッチョと闘う!ってのは、(ありがちだと貶しておいて矛盾するけど)この種の映画では新しいヒロイン像かもね。

 夫のジャックを演じたハリー・スタイルズは、窪田正孝に見えて仕方なかった。中盤で、ダンスシーンがあるのだが、どうにも不安定な感じのダンスで(そういう演出なんだろうが)、しかも結構長くて、見ていてイラっとなるシーンであった。私は、この人のことゼンゼン知らないのだが、どうやらミュージシャンらしいけど、演技はハッキリ言ってイマイチ、、、というか、面白くないんだよね。演じようによっては、かなり面白いキャラだと思うのだが。

 ヴィクトリーの街並は美しくて、アリスたちの家のインテリアが素敵だった。衣装もとっかえひっかえで目に楽しい。

 街の立ち入り禁止区域ってのがあって、そこに「本部」と呼ばれる無機質な建物があるんだけど、実際のその建物は、元原発施設だった、、、と聞いてちょっと納得してしまった。ラストシーンは、アリスがそこへ乗り込んで行って、、、で終わるのだが、当然ながら、スッキリ感はない。
 
 ここのところ、“フェミ映画”が多い気がするのだが、それは歓迎すべきことなんだが、どうも暴力性が気になるなぁ。フェミは、“マッチョは殺さないとなくならない!”と思っている証左かも知れない。気持ちは分かるが、でもそれは、やっぱり近視眼に過ぎるだろう。教育ですよ、教育。ま、今の日本じゃダメだけど。

 

 

 

 

 

 

ラップで頭をグルグル巻き、、、見ているだけで苦しかった。

 

 

 

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TOVE/トーベ(2020年)

2022-06-06 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72409/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1944年のヘルシンキ、戦火の中でトーベ・ヤンソンは自分を慰めるようにムーミンの世界を作り、爆風で窓が吹き飛んだアトリエで暮らしを始める。

 型破りな彼女の生活は、彫刻家である父の厳格な教えに相反していたが、自分の表現と美術界の潮流との間にズレが生じていることへの葛藤、めまぐるしいパーティーや恋愛を経つつ、トーベとムーミンは共に成長していくのだった。

 自由を渇望するトーベは、やがて舞台演出家のヴィヴィカ・バンドラーと出会い、互いに惹かれ合っていく。

=====ここまで。

 言わずと知れたムーミン原作者、トーベ・ヤンソンの半生を映画化。

 
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 昨年の劇場公開時に行きたかったのだけど、タイミングが合わず見逃し、、、。ようやくDVDで見ました。……ま、DVDで十分だったかな。
 

◆個性的な面々

 トーベのお父さんは著名な彫刻家だったようで、トーベの創作活動に何かとケチをつける。しかも、結構悪意を感じる物言いで、これはトーベは辛いよなぁ、、、と思って見ていた。トーベはお父さんのことを尊敬しているので、尊敬する人に貶されるってのは精神的に削られるだろう。

 お母さんは挿絵画家で、この方はトーベの良き理解者。まあ、お父さんがああでも、このお母さんがいればトーベもいくらか救われただろう。トーベが何だかんだと潰れなかったのはお母さんの存在が大きいのではないかと感じた次第。もちろん、それだけではないと思うが。

 基本的に、お父さんとの芸術家としての葛藤が通奏低音として描かれており、それがムーミンの成功でラストへ向けてどう変化するのかも見もの。割とベタな着地のさせ方をしているが、まあこれはこれで良いのでは。私も思わずもらい泣きしちゃったし。実際はどうだったのか知らないけど、wikiを読む限りでは戦後に和解しているらしい。

 トーベを取り巻く人々は皆個性的なんだが、主に、2人の人物との関係がメインに描かれる。

 1人は、スナフキンのモデルとも言われる男性アトス・ヴィルタネン。スナフキンとは大分イメージ違うけど、この時代の男性にしてはかなりの自由人として描かれている。トーベとはしばらく不倫関係。ある朝、アトスの妻からトーベの部屋に電話がかかってきて、アトスも平気で電話に出て、、、なんていうシーンもあった。

 もう1人は、ビフスランのモデルであるヴィヴィカ・バンドラーという女性。ヴィヴィカとトーベは出会ってすぐに恋愛関係になるが、ヴィヴィカは既婚者、トーベにはアトスがいるという、、、。本作では、トーベの気持ちは明らかにヴィヴィカ>>アトスとして描かれており、アトスと結婚を決意した後に、ベッドでアトスの腕の中にいながら「ヴィヴィカ……」と名前をつぶやいて結婚話は消える。それまでヴィヴィカとの関係も黙認していたアトスだったが、さすがにこれは堪えたということか。

 実際のアトスは左翼の活動家だったらしく、トーベとの結婚がナシになったことにヴィヴィカが絡んでいるのかどうかは分からない。まあ、ヴィヴィカとの関係は知っていたのだろうけど。

 フィンランドでも、当時は同性愛は犯罪で精神疾患の一つとされていたというのだから、まあ、さすがのトーベと言えども、一度は結婚を考えたのだろう。その辺は本作内ではほとんど描かれていないが、ヴィヴィカがトーベに「手紙の差出人名は毎回変えて」と言っている辺りで察しはつく。

 何だかんだと、トーベは出会いと人脈に恵まれ、“本業”と言っていた油絵よりもムーミンが爆発的に売れたわけだけど、おおむね芸術家としては恵まれた人生だったと言えるのではないか、、、と見ていて感じた。


◆うぅむ、、、なモロモロ

 ……というわけで、終始、落ち着いて心穏やかに見ていられる映画だった。だからこそ、グッとも来なかった、、、ごーん。

 トーベはイロイロ悩んで苦労しているし、ムーミンが売れるまでも簡単ではなかったのだけど、でも、創作活動においてはどうしようもなくなるまで追いつめられることなく成功への道が開けるし、お父さんとは確執があるとはいえ、お母さんは理解者だし、弟も才能があってトーベの仕事を手伝ってくれる、、、という具合に、比較的ハッピーである。

 なので、本作ではヴィヴィカとの恋愛がメインフォーカスされているのだろう。私の目には、あまりヴィヴィカが魅力的に映らなかったので、トーベがどうしてそこまで彼女に執着するのかがイマイチよく分からなかった。ヴィヴィカを演じたクリスタ・コソネンという女優さんは大柄の美人だけど、奔放というと聞こえは良いが、どう見てもセックス依存症じゃないの?というくらい、男女問わず誰彼構わず寝る人なのである。トーベも「あの人はやめとけ、私も寝た」と、仲の良い女性から言われているシーンがある。

 まあ、人を好きになるのは理屈じゃないし、本人にしか分からないので、それは良いのだけどね。ヴィヴィカがものすごく魅力的に見えれば、もっと説得力があったかなぁ、、、と感じた次第。

 あと、お父さんを演じたロベルト・エンケルという俳優さんは、あの『ボーダー 二つの世界』(2018)に出ていたとかでビックリ。何の役だったのだろう、、、??

 途中、市庁舎の壁画を描くシーンがあるが、その壁画が素敵だった。ヘルシンキに行けば実物が見られるらしい。行きたいなぁ、、、でも、行けないだろうな、当分は。フィンランドにしてみれば、それこそウクライナの戦争は他人事ではないだろうから。ヘルシンキのロシア大使館前で、フィンランディアを(国名をウクライナに変えて)歌うヘルシンキの人々の動画がTwitterで流れて来たけど、あれを大使館内で聴いていたロシアの大使館員はどんな気持ちだったろうか、、、。

 

 

 

 

 

 

 


ムーミンの人形劇はちょっと怖い、、、。

 

 

 

 

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トッド・ソロンズの子犬物語(2015年)

2022-04-08 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv74944/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 アメリカ中をあちこち彷徨うことになる1匹のダックスフント。

 その旅の最初、病弱な子どもとその母親(ジュリー・デルピー)に引き取られるが、無邪気に問題ばかり起こし、たちまち多くの人々の手に渡ることに。

 崖っぷちに立たされた映画学校の講師兼脚本家(ダニー・デヴィート)、偏屈な老女(エレン・バースティン)、そして大人になってもいまだに自分のやりたいことが見つからないドーン・ウィーナー(グレタ・ガーウィグ)……。

 そんな飼い主たちは、ままならない人生を送りながらも、どこか妙なおかしみを抱えていた……。

=====ここまで。

 
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 確か、某全国紙で誰かが紹介していた記事を読んで、レンタルリストに入れたのだと思われます(うっすら記憶にある)。が、記事の内容はまるで覚えていなかったので、予備知識はほぼゼロで見たと言って良いでしょう。

 ……子犬物語というタイトルから受けるほのぼのな印象と、実際の中身はかなり乖離しております。


◆ラストが、、、グェッ。。

 子犬物語、っていうけど、このダックスフントは子犬なのか? 成犬に見えたんだけど。小さい犬……なら「小犬」とするだろうしなぁ。原題は“WIENER-DOG”でただのダックスフントだわね。邦題をつける人、大丈夫か?

 ともあれ、本作のこの妙な空気感、最初はちょっと??となるが、すぐ慣れる。で、気付いたら、結構喰い付いて見ておりました、、、ごーん。

 犬は狂言回し的存在で、犬と出会う人たちの抱える問題が描かれる、というありがちな構成で、ほぼ4話のオムニバスと言っても良い。出てくる人たちがみんなクセのある人ばかりで、面白い、、、というと語弊があるが、目が離せない。

 4話、どの飼い主も印象的なんだけど、一番インパクト強かったのは、やっぱし4話目の老女ナナ(エレン・バースティン)かなぁ。彼女は末期がんで、このダックスフントにも“キャンサー”なんて名前をつけている。部屋の中でもでっかい真っ黒なサングラスをずーっとかけている。滅多に顔を見せない孫娘が来たと思えば、いかにもなアート系彼氏ファンタジー(彼氏の名前です)のために金をくれと。するとこのナナさん、めっちゃ不機嫌そうな顔しながら、金額空欄の小切手をホイと孫娘に渡しちゃう。

 そこからラストへがビックリな展開で。

~~以下、結末に触れています。~~

 金さえもらえれば後は、、、とばかりに去っていく孫娘とファンタジー。ナナさんは何を思うか、庭へ出てうたた寝すると、過去のあの時選択しなかった少女の姿をした自分が何人も現れる。ハッとして目が覚めたナナさん、キャンサーがいないことに気付き、サングラスを外して探し回るのだが、何とキャンサーは家から出て、前の通りを渡ろうとしているではないか! ナナさん、慌てて追いかけようとしたところへ、トラックが走ってきて容赦なくキャンサーを、、、。

 もろ、映るんですよ、その瞬間が。しかもその後も2台くらい轢かれちゃう。いやぁ、、、ギョッとした。

 さらに驚きのオチがあるんだけど、まあ、書くのはやめておきます。人によっては、ちょっと悪趣味と受け止めるかも。私はあんまし、、、必要なオチではないような気がしたかな。言いたいことは分からなくもないけど。


◆何気に豪華キャスト。

 1話目に出てくる男の子の母親が、どっかで見たなぁ、、、と思ってよく見れば、なんとあのジュリー・デルピー。ええ~~!っていうくらい、どすこい体形になっていてビックリ。だって、これ撮ったとき、まだ40代半ばでしょ? ビノシュもだけど、フランスの女優さんは太るの平気なんですかね?

 彼女の演じたお母さんは、ダックスフントが病気になって悲しんでいる男の子に、慰めになっていない酷いことを優しく笑顔で言うという、、、そらねーだろ的な母親を演じている。

 2話目に出てくるちょっとヤバそうなお姉さんはグレタ・ガーウィグ。彼女が演じるドーンという女性は、ソロンズ監督の前作にも出てくるキャラみたいで、前作では死んだことになっているらしい。ヤク中の男ブランドンとのちょっとしたロードムービー風。ブランドンを演じているのがキーラン・カルキン。マコーレー・カルキンの弟たちも俳優だったとは知らんかった。

 3話目のおじさん、シュメルツの話もかなりブラック。1発屋の脚本家で、大学で教えている(多分非常勤)けど生徒たちには馬鹿にされている、、、という、なかなか見ていて辛いキャラ。脚本をエージェントに送っても相手にされず、挙句、仕事もクビを言い渡される。大学では、生徒たちが自分の悪口を言っているのを聞いてしまい、シュメルツさん、ブチ切れて、ダックスフントに爆弾巻き付けて大学に放つという暴挙に出る。

 ……てな感じで、どこが“子犬物語”やねん、というようなブラックなお話で、細かい部分の描写もイチイチ皮肉が効いている。ソロンズ監督作は初めて見るのだけど、これは確かにミニシアターでないと上映できない作品ばかり撮っているというのも頷ける。

 話が進むごとに、主役の年齢が上がっていき、ラストはワンコの轢死、、、という、生あるものの定めを描いている、ってことなのかしらね。

 まあ、あんまし心が弱っているときには見ない方が良いかも、、、だけど、私は嫌いじゃないです。

 

 

 

 

 

 

 


90分足らずの作品なのに、インターミッションがあります。

 

 

 

 

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ドライブ・マイ・カー(2021年)

2022-01-28 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72095/


以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 舞台俳優であり演出家の家福(西島秀俊)は、愛する妻の音(霧島れいか)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう――。

 2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさき(三浦透子)と出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻(岡田将生)の姿をオーディションで見つけるが…。

 喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 いろんな賞をもらっているらしい本作。昨年公開されたときは、“だってハルキー原作でしょ?”という理由で敬遠していたのだけれど、世間の評判も上々で、劇場公開もロングランしているし、、、ってことで、ミーハー全開で劇場まで見に行ってまいりました。

 オミクロン感染爆発状態なのに、劇場はなかなかの混み具合。実は本作を見た日は、『ハウス・オブ・グッチ』も見ていて、グッチを朝イチで新宿ピカデリーで見て、11:05にエンドマークが出た瞬間にエンドロールも見ずにダッシュで劇場を出、日比谷シャンテで11:45から上映の本作に間に合うよう急いで移動! というギリギリな状態で見たんです。だって、2作とも長いんだもん(グッチも2時間半以上あるし、本作も、、、、)。余裕持って見ようとしたら、帰りが遅くなってしまう。

 ……というわけで、以下、感想です。

~~以下、本作をお好きな方、村上春樹をお好きな方は、お読みにならない方が良いです。悪意はないですが、お好きな方から見れば悪口になっちゃっていますので。~~


◆途中から地味なロードムービーに

 村上春樹原作、、、というので、ちょっと……いや、ものすごく先入観ありまくりで見に行ったわけだけど、意外にも中盤過ぎまでは、面白いと思って見ていた。

 でも、オーディションシーンあたりから、だんだん、じわじわと、、、うっ、、、ダメかも、、、と思い始め、、、、台本棒読み稽古シーンでかなりヤバい状況(気持ちが)になり、一番カギになるシーンであろう、家福と高槻が車の中で語り合うシーンで、ドロップアウト(気持ちが)してしまった。

 これは、ハルキー原作だからとかじゃなく、単純に、登場人物たちがみんなセリフでしゃべり過ぎなのが鼻白んだのだけど、、、でもまあ、まだ、どんなオチをつけるのだろう、という好奇心で見ていることはできた。

 で、いよいよ、みさきの故郷、北海道で、家福とみさきが語り合う(多分、感動するシーンなのだと思うが)シーンで、頭を抱えてしまった。

 家福が涙目で叫ぶセリフ「僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりを続けた。だから音を失ってしまった。永遠に。生き返ってほしい。もう一度話しかけたい」で、すみません、引きました。

 人は自分と向き合い「正しく傷つくべき」であり、現実を「見ないふりを続け」てはいけなかったのだ……って、これこそが、本作の主題でしょう。私、主題をセリフで回収するシナリオは嫌いなんですよ。そんなの、素人だってできる。

 一応弁解しておくと、小説ではアリだと思う、小説では。小説は、だって、ちゃんと文字に書かなきゃ読者に伝わらないもんね(まんま書かなくてもちゃんと伝えられる小説家の方が好きだけど)。原作でこのセリフがあったとしても、それはイイと思うのよ。

 けれど本作は、映画、映像作品でしょ。映像で見せてよ、と思うわけ。セリフで言っちゃっちゃぁ身も蓋もないというか、、、。そんなのセリフで言うんだったら、3時間もかけんでもええやん、、、と。引っ張った挙句、それかい、、、と、

 せっかく、味わいあるロードムービーになりそうだったのに、途中から脇道へ入って迷走してしまった感じだ。

 もっと言えば、ロードムービーのほとんどは、テーマが「きちんと自分と向き合うことの大切さ」を描いているのであり、そんな「太陽は東から昇るんだよ」なことを涙目で叫ばれてもね。いやだからさ、それをどうやって表現してくれるのかを見に来たんですけど、アタシは、、、と、スクリーンの西島さんに向かって私は心の中で叫んでおりました、、、ごーん、、、。


◆ハルキーは永遠なり。

 まあでも、やっぱしハルキー節はそこかしこに感じましたね。愛し愛されている(?)夫がいるのに浮気する女、とか。ベッドでシナリオのネタを語る女、とか。「もう一人子ども欲しかった?」と今さらなことを夫に聞く女、とか。

 これは好き嫌いなので、貶す意図は毛頭ないのだけど、村上春樹が描きそうな女性像。フシギちゃん系の女、男に都合の良い素敵な女。

 浮気する女のどこが男に都合の良い女なんだ?と言われそうだけど、この妻は、結果的に、命と引き換えに夫に「当たり前のこと」を教えてくれるという、これ以上ない献身を男にしているのだ。修羅場目前にして殺しちゃうところが嫌だよなぁ。なぜ、修羅場を書かない?

 もちろん、夫婦だからこそ言えないこと、言いたくないことがあるのは当然で、家福が音に浮気のことを問い詰められないというのは、分かる。

 浮気する女は、夫に気付きを与えるためにしているんじゃなくて、自分のためにしているのだよ、浮気を。寂しいとか、夫が嫌いとか、そりゃ理由はイロイロだろう。音だって、家福の気を引きたかったから浮気していたんだろう。そこを書けよ、と。何か重大な局面で、女を動かすんだよね、ハルキーは。男を主体的に動かすことがない。音なんか、殺されちゃったもんね。ひでぇ。

 もう、村上春樹の小説は何年も読んでいないので、好き嫌いを語る資格はあまりないのは自覚しているが、私の知っているハルキーの描く女が、やっぱり映画の中に現れて、そこはすごくイヤだった。

 そもそも、ドライブマイカーっていうタイトルもね。自らはハンドルを握らず女に運転してもらっている車に乗っているだけ。「マイカー」は人生だとすれば、自分の人生をドライブしているのは自分以外の人。自分でドライブしない、handleできない、まさにハルキー節ではないか。

 きちんと現実を直視すべきは、ハルキーよ、あなた自身なのでは。いつまで女(だけ)を動かして、現実から目を逸らすおつもりか。女は(特に素敵な女は)そんなに男に都合よく動かないよ。ファンタジーを描いているにしても、いつまでやってんだよ、、、。だから、私の周りでは、ハルキー好きは男ばかりなのだろうけど。


◆その他もろもろ

 西島さんは、一気に飛躍の作品となりましたね。あんまし演技巧者とは思えないけど、誠実そうな雰囲気と、家福のキャラがうまくマッチしていて良かったと思う。才能ある演出家、、、ってのは、ちょっと違うかなぁ、イメージとしては。もうちょっとパッションがあっても良いよね、演出家なら。

 岡田将生は、どんどん階段を上っている。見る作品、どれも良い演技をしていると感じる。作品自体はイマイチでも、彼は光っている。高槻と違って、彼は自分のキャリアを大切にする頭の良い役者だと思うから、是非とも、もっともっと上って行って欲しい。

 愛想のない運転手・みさきを演じていた三浦透子ちゃんにとっても、本作は代表作になるかも。歌も歌っているそうだけど、聞いたことないので、今度聞いてみよう。彼女は、それこそ実力派の、地に足の着いた役者さんになるに違いない。

 そのみさきが、本作のラストシーンでなぜか韓国にいるのだが、、、。ネットでもいろいろと読み解きがされているけど、私も見終わった直後は??となったけど、あんまし深読みする必要はないのかな、と思うに至った。

 家福が広島で滞在する島の家が、とっても素敵で、私もあんな古民家に滞在してみたいわ~、と思って見ていた。東京の喧騒も良いけど、根が田舎者である身としては、やっぱし自然豊かで静かな場所に心惹かれるのも事実。移住したいなぁ、、、などと、途中からそんなことも頭をよぎっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

オスカー獲れるでしょうか? 獲ったらまた大騒ぎですな。

 

 

 

 

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ドーベルマンギャング(1973年)

2021-07-20 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv6433/

 

以下、amazonの商品紹介よりあらすじのコピペです(長いので一部カットしています)。

=====ここから。

 銀行強盗のエディ(バイロン・メイブ)、サミー(シミー・ボウ)、ジョジョ(ジョジョ・ダモーレ)の3人は、自分たちではなくドーベルマンを調教して銀行強盗に使うというアイデアを思いつく。

 エディはベトナム帰りのバーニー(ハル・リード)に協力させ、人里離れた山中の農園を借りて、犬の訓練所を作る。エディは街で拾った女ジューン(ジュリー・パトリック)と共に、狙いをつけた銀行の実地研究を始め、さらに獰猛で賢いドーベルマンを6頭買い入れ、訓練と調教が始まる。

 ドーベルマンを動かす方法は犬笛を使うと決まり、原寸大の銀行窓口に見立てたセットでなんどもテストを重ねた。ついに銀行強盗決行の日がやってくる。

 ドーベルマンたちは、銀行内に入り込むと、口にくわえた脅迫メッセージを窓口の行員に取らせた。そこにはこう書かれていた。「これは銀行強盗である。今から5分以内に犬のバッグに札束をつめろ。もし要求にそむいたら全員をかみ殺す」

=====ここまで。


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 本日の都内の感染者数は1,400人近く。通勤途上では明らかにオリ関係者と思しき外国人をあちこちで見ます。バブル崩壊しております。ようやく明日ワクチン1回目接種なんですが、今さら感が半端ない、、、。接種しないよりはマシなのか。

 そして金曜日にはオリンピックの開会式だそーです。満を持して発表した音楽スタッフが過去のイジメ問題で4日前になって辞任とか、もう、あらゆることで世界に恥をさらしている今回のオリンピック、この際、とことん恥さらしてもらって、日本の現状を世界に知らしめるのも悪くなかろう、、、と思う今日この頃であります。

 これまでオリンピックには度の過ぎる商業主義や国粋主義に辟易することはあっても、アスリートたちには純粋に頑張って欲しいなぁ、くらいに思っていたのだけれど、今回のことで、オリンピックはもちろん、アスリートに対する見方もかなり変わりました。きちんとモノを考えているアスリートか否か、その言動に以前より大分気を付けて見るようになりました。競技だけ強ければ良いのではないということ、アスリートも一人の社会構成員に過ぎないこと、、、、を自覚しているアスリートを応援しようと思いますね。少なくとも、水泳女子のあの人とか、体操男子のあの人とか、応援したくないですね。これまではその能力と努力を純粋に尊敬していましたが、すっかりメッキが剥がれて魅力を感じなくなりました。ま、私が応援しなくても、彼らを応援する人はゴマンといるので問題ないですからね。

 これからパラと併せて約一ヶ月、お涙ちょうだいのストーリー仕立てスポーツショーに嫌でも付き合わされるのかと思うとウンザリします。もうTVは一切見ない、ネットもオリパラ情報はシャットアウトし、映画や撮りためた映像をひたすら見ようと思います。……というか、ちゃんと最後までオリもパラもできるんでしょうか、今からこんな状況で。

 愚痴が長くなりましたが、以下、映画の話です。


◆アイデア一発!

 犬に銀行強盗をさせる、、、という映画、子供の頃にTVで放映されていたのを覚えているんだけど、本作は、本邦未公開らしいです。本作の後、2、3があるらしく(よく分からないけど)、そちらは公開されているようで、TVで見たのも、本作ではなくそちらの方かも。

 とにかく、この映画はアイデア勝負ってヤツですね。内容は、まあまあ面白いけど、映画として見ればグダグダで、B級というより、C級に近いかも。

 笑っちゃったのが、冒頭のシーン。3人の男がある家から「よし、行くぜ」みたいな感じで銀行強盗に行って、ヘマして普通に元の家に呑気に帰ってくる。いや、それ、ちょっとナイだろ、、、とかツッコミ入れるのもバカバカしくなる。ヘマの内容も、銀行の前に止めていた自分たちの車とは別の車に強奪した大金を間違えて積み込んでしまって、積み替える時間がなく、手ぶらで戻ってしまう、という、何ともマヌケなもの。顔もバレ、車もバレ、そのままアジトに戻ってきても、誰も追い掛けてこない、、、ごーん。

 ドーベルマンに銀行強盗させる、というアイデアは面白く、実際に、そのシーンも面白い。よく訓練されていて、低予算映画だろうに頑張ったなー、と感心する。途中、強盗からアジトへ戻る途中に一匹事故死してしまうものの、ドーベルマンの活躍に釘付けになる。ラストのオチもなかなか皮肉が効いていてgoo。

 ただ、その他のところが大雑把過ぎで粗が目立ってしまい、B~C級止まり、となってしまった感じ。

 でもまあ、こんな突拍子もないアイデアをちゃんと企画して、現実に撮影まで漕ぎ着け、本当に作品に仕上げたのだから、それはスゴいと思う。そして、続編ができたということは、本作はそれなりに評判になったということよね。金と時間のムダみたいな映画が掃いて捨てるほどある中で、存在意義のある作品に仕上げたのだから、それだけで本作は十分価値があるとも言えると思う。

 ……などという御託はどうでもよく、頭が疲れてあんまし考えたくないときに見るにはオススメです。感想になっていなくてすみません、、、。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドーベルマンの名前に、ボニー、クライド、ベビーフェイス・ネルソンetc、、、

 

 

 

 

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ドヴラートフ レニングラードの作家たち(2018年)

2021-05-23 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70644/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1971年レニングラード。ソビエトで活動する作家セルゲイ・ドヴラートフ(ミラン・マリッチ)は、友人で詩人のヨシフ・ブロツキー(アルトゥール・ベスチャスヌイ)と共に、世間に発表する機会を得ようと模索していた。

 そんな闘いのなか、彼らは政府からの抑圧によって出版を封じられ、その存在を消されていく。

 すべてをかなぐり捨て、移民としてニューヨークへ亡命する決意を固めるドヴラートフ。それは、厳しい環境下で喘ぎつつも、精彩を放ち続けたドヴラートフの人生における郷愁と希望の狭間で格闘した究極の6日間であった……。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 昨年夏に公開され、劇場に見に行ったのだけど、正直なところ??な部分もあり、上映後に、ドヴラートフの小説の翻訳を手がけた沼野充義氏と島田雅彦の対談があって、それを聞いたら、もう一度見直してみたくなったのでした。

 ……が、もう一度劇場まで行く気力もなく、とりあえずはドヴラートフの書いた小説を読んでみようと思い、劇場でも対談後に販売されていたんだが、人が滞留していてめんどくさかったので、ネットで買えばいいや、と思ったら、amazonでは法外な値段がついているではないの!! ガーン、、、と思ったら、版元の成文社さんに直接メールで注文できるみたい……ということで、メールしたら、即返信があり、おまけに送料サービスで直送、しかも注文した翌日届いた!! 感動

 注文したのは、「わが家の人びと」「かばん」の2冊。で、これが読んでみたら、めっちゃ面白いんですよ、マジで。書かれた順に「わが家の人びと」から読んだのですが、最初こそ、その簡潔過ぎて飄々とした文体に、むむ……?って感じだけど、すぐに慣れて、慣れたらもうハマってしまった。

 この2冊を読んだら、ますます本作をもう一度見たいと思いまして、2月にソフト化されたのでDVDを購入し、先日ようやく再見できました。


◆著作を読んでから見た方が、、、

 本作を見るまで、ドヴラートフという名も知らなかった。ロシアに行く前に、ロシアのことを泥縄で調べたけれど、そこでもこの名前には出くわさなかった。ネット通販でロシアの食材を購入したら、本作のチラシが入っていたので興味を持って劇場まで行った次第。

 序盤から終わりまで、基本的にはほとんど山ナシで展開していく。ドヴラートフが書く小説が、出版社に受け入れられない、小説家協会に入れない、、、悶々、、、である。協会に入れないと、どれだけ良いものを書いても掲載されない、本にもされないらしいのだ。

 ドヴラートフと同じ物書きたちが集っては、夜通し飲んだり、歌ったり、語ったりするシーンもあるが、トーンとしては全般に暗くて抑揚がほとんどない。

 けれども、なぜかあまり退屈しないのだよね。面白い、、、というのとも違うのだが、ドヴラートフがとにかく鬱憤を溜め込んでおり、自分のやり場のない思いに自分が振り回されている描写に、共感とは違うが、人生って嗚呼、、、と、スクリーンの中の彼と一緒に鬱々としてしまうというか。

 彼はある業界新聞みたいなところで記事を書いて糊口をしのいでいるのだが、思わず笑っちゃったのが、例えば「電気の詩を書け」って言われるんだよね。電気の詩??と思って見ていると、今度は「工場の詩を書け」と言われたり、地下鉄工事をに従事している詩人のクズネツォフに取材に行かされたりもする。その取材中に、幼児の人骨が何体も出てくる事態に出くわすというシーンもある(戦時中に防空壕だった所で、幼稚園児たちが避難していたらしい)。

 彼は、別に反共の物書きなどではなく、自分の書きたいものを書きたいだけ。体制に都合の良いことをちょっと書けば協会に入れるかもしれないけど、そういうことは出来ない。書くもので妥協はできない。まあ、それはそうでしょう。だから、見ていて胸が痛くなるというか、、、。

 ドヴラートフと親しく、後にノーベル文学賞を受賞した詩人ブロツキーも出てきて、自作の詩を朗読しているシーンが何度かあった。その姿を見ていると、吟遊詩人という言葉が浮かぶ。本作の中では描かれないが、ブロツキーは、ちゃんとした職に就かない「徒食の罪」で逮捕されているらしい。徒食の罪って、、、びっくり。私も当時のソ連にいたら監獄行きだったかも、、、、。ブロツキーも反体制の詩を書いていたわけではないのに、結局そういう人を市中に放置しておくと、都合の悪い思想が蔓延って、支配者たちが気づいたときには手遅れになるから……でしょうな。

 終盤は、ドヴラートフのやりきれなさが全開で、見ていてかなりツラいものがある。パンフの沼野氏の解説には、「主人公がどうしても妥協できない潔癖さによって自分を追い詰めていく姿を見て、涙が抑えられなくなった」とある。私は涙は出なかったけど、嗚呼、体制が違っていたらなぁ、、、と、自分の近しい人のことのようにじれったい気持ちになった。

 最初に劇場で見たときはよく分からない部分も結構あったが、ドヴラートフの著作を読んで、そこに書かれていた内容がいくつか本作でも描かれているので、これは本を読んでから見た方が良いと思った次第。……と言っても、ドヴラートフの著作を事前に読むなんて、ロシアやロシア文学によほど興味のある人ではないかと思うけど。


◆沼野・島田対談
 
 冒頭書いたように、本作の上映後にあった沼野充義氏と島田雅彦の対談が割と面白かった。20分くらいだったけど、中身はまあまあ濃かった。

 本作の舞台となった70年代は「ブレジネフ時代」で、「雪解けの時代」の反動で締め付けが厳しくなっていたそうだが、沼野氏が言うには、本作はその当時の「色」がよく出ているとのこと。「発色が良くない、もやっている画面が、社会主義の色に乏しいところと通じていて、ドヴラートフの(自分の小説が出版されない)憂鬱との戯れの描かれ方が特徴的だ」と言っていた。

 また、沼野氏は、この「憂鬱との戯れ方」が上手いとも言っていた。嘆き方にウィットが効いていると。確かに、クスッと笑えるやりとりもあるのだが、あまりにもサラ~ッと描かれているので、それが面白いんだが気のせいなんだか、受け留めに戸惑うところも多々あったなぁ、、、と、この話を聞いて思った。

 意外だったのは、当時のレニングラードは、フィンランドとの物資のやりとりが盛んで、モスクワとはむしろ少なかったということ。理由も語っていたと思うが、メモをとるのが追い付かなかったのだけど、要は西側の通貨は貴重で、フィンランドからの方が豊富に物が入りやすかったということだろう。本作内でも描かれているが、ジーンズや腕時計が闇で高値で取引されていたとか。

 「わが家の人びと」にもパンスト(ストッキングね)の闇取引のエピソードが出てきて、それがかなり笑える。結局、それで大損するんだが、パンストの他にも、鏡付きのコンパクトや、リップなどはわいろとしても有効だったと沼野氏は言っていた。

 本作ではレニングラードの街並みも少し出てきて、凍ったネヴァ河も映っているシーンがある。11月が舞台なのに、もう凍っているのか、、、と、私が昨年2月に行ったときは記録的な暖冬でまったく凍っていなかったのが思い出される。凍った大河を見たかったので、ちょっと恨めしい。……それはともかく、その街並みの景色というか、雰囲気は、いかにも50年前という感じではなかったのだが、島田雅彦が言うには、この街はロシア革命時代から戦後、共産時代も含めて現在まで、ほとんど街並みは変わっていないらしい。

 沼野氏も島田雅彦も話が面白くて、もっと長い時間イロイロ聞きたかったわ。


◆ドブラートフの小説について。

 劇場で本作を見た後に、ドヴラートフの著作を読んだので、何となくギャップを感じた。著作は飄々としていて実に面白い。確かに、自分の書いたものが出版されないことへのモヤモヤもしょっちゅう書かれているんだが、本作での鬱々としたものは、著作からは感じられない。

 おおむね私小説といってよいと思われるが、読んでいるうちに、虚実が混沌として、これはもしや100%創作なのでは?とも思えてくる不思議な小説でもある。その文体は、悪く言えばぶっきらぼう、良く言えば簡潔。でも、実に生き生きとその光景が脳裏に浮かんでくるからますます不思議だ。こんな小説、いままでお目にかかったことがない。

 書籍のカバー見返しの部分にドヴラートフの写真が載っているんだけど、ロシア人というより、南米系の人に見える。沼野氏が言うには、すごい「大男」だったらしい。沼野氏は生前のドヴラートフに会っていて、話もしているという。彼の写真と、小説から受けるイメージは、本作のミラン・マリッチという俳優が演じるドヴラートフとはちょっと雰囲気が違う気がするが、沼野氏は見た目は良く似ていると言っていた。

 ドヴラートフの魅力が伝わる、ドヴラートフの言葉を、「かばん」の沼野氏の解説文から少しだけ引用して感想文おわりにします。小説、オススメです。

 「ぼくの文学的名声はこんなものだ。つまり、ぼくのことを知っている人がいると、ぼくは驚く。ぼくのことを人が知らなくても、ぼくはやはり驚く。そんなわけで、驚きがぼくの顔から消えることは決してない。」
 「何かをぼんやりと感じているときは、まだ書き始めるにはちょっと早いだろう。でも、すべてがはっきりしてしまったら、後は沈黙あるのみ。つまり文学にとって、ちょうどいい瞬間というものはない。文学はいつでも間の悪いものなのだ。」

 

 

 

 

 

 


ドヴラートフは79年にアメリカへ亡命、90年(48歳)NYで死去。

 

 

 


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翔んで埼玉(2019年)

2021-01-10 | 【と】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv65057/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 埼玉から東京へ向かう車のラジオでは、DJが埼玉にまつわる都市伝説を語っている。

 埼玉県民が東京都民から迫害を受けていた時代。東京の超名門校に通う都知事の息子・百美(二階堂ふみ)はアメリカ帰りの転校生・麗(GACKT)と出会う。実は麗は隠れ埼玉県人で埼玉県民が東京に出入りするのに必要な手形の撤廃を目指して活動する組織の主要メンバーだった。

=====ここまで。


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◆ダサイたま、クサイたま、、、、

 公開時に話題になっていて、職場の人も見に行って「面白かった~!」と言っていたが、わざわざ劇場まで行く気には到底なれず、このほどようやくDVDにて鑑賞。原作はもちろん未読。魔夜峰央にこんな作品があったことすら知らなかった(大分古い作品みたいだけれど)。

 ……く、くだらねぇ、、、、ってのが、見終わっての率直な感想です、ハイ。が、この実にくだらない、ナンセンスなものを、皆が大真面目にやっていて、むしろ見応えがあったと言えましょう。

 でも、本作の見どころは、ほとんどそれに尽きると言いますか、、、。これ、関東圏以外の人が見ても面白いんですかね? てか、関東圏に住んでいる人間が見ても、それほど笑えるところは多くなかったんですが。

 たしかに、「埼玉」というと、ちょっとダサいという“イメージ”はリアルに一般化しています。現在、緊急事態宣言が発出されている、“首都圏”のうち、ダサくないのは神奈川だけかも。千葉も埼玉と大して変わらない扱いで、それは本作内でも伊勢谷友介演ずる阿久津翔が「千葉解放戦線」率いる千葉代表で出て来ていましたが。

 ここまで突き抜けて戯画化しちゃうと、埼玉県人も笑えるでしょうね。伊勢谷率いる千葉との対決は、それこそ「川中島の戦い」みたいで、まあまあ面白かったし。あれ、CGじゃなくてロケしたんですかね? かなり大掛かりなシーンになっていたんだが、、、。


◆埼玉はカナダ。

 本作を見ていて思い出したのが、清水義範著『蕎麦ときしめん』。本作同様、地域性をネタにしているんだが、清水氏は名古屋出身で、名古屋をディスっていて、私は名古屋出身ではないけど、元愛知県人としては、結構笑える。

 中でも、一番ウケたところをちょっとご紹介しておこう。

「名古屋は日本の中にあって信じられないほど閉鎖的な特別な村落的都会なのである。(中略)/日本における名古屋の位置、それは世界における日本の位置と全く同質のものである。名古屋人にとって東京とは、日本人が漠然とアメリカを思うのに非常に近い。大阪はソ連である。千葉はメキシコで、埼玉はカナダである。名古屋人はそのように考えて生活しているのである。/(中略)名古屋人にとって(中略)四国はオーストラリアで九州はアフリカである。名古屋人はそのように名古屋以外の土地を外国だと思っているのだ。」

 これは一理あって、少なくとも私が住んでいた1990年代頃は、まだこういう側面はあったような気がする。「大阪はソ連」てのはちょっと違う気がするが、これが書かれたのは1984年だから、まだソ連があったんだよね。ちなみに『蕎麦ときしめん』の文庫版の「果たし状」と題された解説に代わる文章は、今は亡き、景山民夫が書いていて、時代を感じる、、、。

 本作では東京が過剰に威張っていたが、リアルで言えば、実は一番ダサいかも知れず、、、。何しろ、地方出身者が山のように居るんだから。つまり、東京は言ってみれば“人種のるつぼ”。人種のるつぼは、世界で言えば、まさにアメリカで、『蕎麦ときしめん』でいう名古屋人の認識のママではないか!

 埼玉は、名古屋人から見れば、ダサイたま、、、どころか外国ですよ、外国。しかもカナダ! 十分ダサくないと思いますが、いかがでしょう。


◆ダサイたまよりダサいのは、、、

 映画と関係ないことばかり書いてしまったけれど、本作は、あんまし色々感想を書きたくなる映画じゃなかったもので。ナハハ、、、と乾いた笑いが出て終わりだった。

 そんな本作が、昨年の日本アカデミー賞で最優秀監督賞とか最優秀脚本賞とかをもらっているみたいなんだが、これが今の邦画界の現状を如実に表わしているようで、乾いた笑いの後には、ひきつった笑いが浮かぶわ。

 だいたい、日本アカデミー賞、ってネーミングが、、、。こっちの方が、埼玉よりも百倍ダサい。邦画界を本気で盛り上げて育てたいのなら、まずはネーミングから変えた方がいいんじゃない?? アメリカの二番煎じみたいなことやってるから(しかも業界人だけの内輪はしゃぎレベル)、いつまで経っても邦画界は幼稚なんだろうね、、、、納得。

 

 

 

 

 

 

 

 

京本政樹、歳とらないなぁ~~。
 

 

 


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ドッグマン (2018年)

2019-09-03 | 【と】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67573/

 

 以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。 

 イタリアのさびれた海辺の町で、〈ドッグマン〉という犬のトリミングサロンを営むマルチェロ(マルチェロ・フォンテ)。店は質素だが、犬をこよなく愛す彼には楽園だ。妻とは別れて独り身だが、彼女との関係は良好で、最愛の娘ともいつでも会える。地元の仲間たちと共に食事やサッカーを楽しむ温厚なマルチェロは、ささやかだが幸せな日々を送っていた。

 だが、一つだけ気掛かりがあった。シモーネ(エドアルド・ペッシェ)という暴力的な友人の存在だ。シモーネが空き巣に入る時に無理やり車の運転手をさせられ、わずかな報酬しかもらえなかったり、コカインを買わされ金を払ってくれなかったりと、小心者のマルチェロは彼から利用され支配される関係から抜け出せずにいた。自分の思い通りにいかないとすぐに暴れるシモーネの行動は、仲間内でも問題になり、金を払ってよその人間に殺してもらおうという話さえ出ていた。

 ある日、シモーネから持ちかけられた儲け話を断りきれず片棒をかついでしまったマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失い、娘とも会えなくなってしまう。満ち足りた暮らしを失ったマルチェロは考えた末に、ある驚くべき計画を立てる――

=====ここまで。

 『ゴモラ』(2008)、『五日物語 -3つの王国と3人の女-』(2015)のマッテオ・ガローネ監督作品。

 

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 チラシを見たときから、見たいと思っていた本作。先日1日の映画の日にようやっと見に行って参りました。映画の日なのに、9月1日から値上げでなんと1,200円!!! サービスデーで1,200円って、、、。まあ、仕方がないのか、世の流れとしては。

 

◆嗚呼、マルチェロ、、、。

 マッテオ・ガローネの監督作は、『五日物語 -3つの王国と3人の女-』しか見たことがなく、代表作の『ゴモラ』も未見。『五日物語~』を見た限りでは、“鬼才”と呼ばれていることが今一つピンとこなかったけれども、今回、本作を見て納得した気がする。

 とにかく、その世界観に引き込まれる。マカロニ・ウエスタンを思わせる荒廃した街並みで、全体に暗いんだけれども、そこで描かれる人間関係は決して暗いわけではなく、人情味のある貧しい田舎町、といったところか。街の人たちは皆仲が良く、食事をレストランで一緒にとったり、サッカーを楽しんだり、決してどんよりした風景ではない。

 だけれども、その平和そうな街は、たった一人の荒くれ者・シモーネの存在によって常に恐怖と隣り合わせにある、というところがミソだ。

 このシモーネ、トンデモ野郎で手がつけられない。もう見るからにおっかない。デカい!! 全盛期のヒョードルを二回りくらい大きくした感じ。こんな奴が近寄ってきたら、大の男でも足がすくむのはムリもない。シモーネは、コトが自分の思い通りにならないと、すぐ暴力に出る。暴力で相手をねじ伏せ、自分の意のままに周囲を動かす。しかも、圧倒的な暴力なのだ。一発で相手をぶちのめす。それもいきなり。身構える余裕さえ与えない。こうやって、彼は問答無用で街を老若男女を支配してきたのだ。

 とはいえ、当然、街の人間たちだって、好きでこんなならず者にいいようにされているわけじゃない。何とかしたい、とは思っているが、手も足も出ないのが実情なのだ。挙げ句の果てに、誰かを雇ってシモーネを殺させよう、、、なんて話し合いまでしてしまう。まぁ、そんな風に考えてしまうのも、あれじゃぁ責められない。

 マルチェロだってそうだ。彼は、シモーネ殺害談義では傍観者だが、本当はシモーネと関わり合いたくないと思っている。でも、圧倒的なパワーの差で、とことん拒絶することは不可能なのだ。シモーネに一発食らったら、下手すればマルチェロなんぞ即死なんだから。誰だって死にたくはない、こんなクズに殴られて。

 その、マルチェロの抱えるどうしようもなさ、情けなさ、弱さ、、、あらゆるネガティブな要素が実に巧みに描かれる。見ている者は、マルチェロにふがいなさを感じつつも、我が身に置き換えれば致し方なし、、、と、マルチェロに同情的にもなる。その辺の描写が実に上手い。

 映画監督の行定勲氏が、本作の評でこんなことを書いている。

「とにかくマルチェロが愚かでイライラさせられる。なぜ、自分の生活を害する者とわかっていても、それを排除できないのか理解できない。主人公がしがみついて生きる町の存在が不気味で、その集落に生きるしかない男のあわれが描かれる」

 この人、ホントに映画監督なの? 彼の監督作品、調べたら一杯あるけど、んで私は1本も見たことないんだけど、“それを排除できないのか理解できない”って、信じられない感性の鈍さに仰天する。この方の画像も見たけど、言っちゃ悪いが、この人シモーネに軽く叩かれただけで失神しそうなんだけど。

 さらに“その集落に生きるしかない男のあわれが描かれる”ってさぁ、、、アンタ何見てたのよ、この映画の、、、と言いたい。マルチェロがこの街を離れられない理由なんて何度も何度も描かれていたじゃんよ。“主人公がしがみついて生きる町の存在が不気味”とか、いちいち映画人とは思えぬアサッテな物言いに、邦画界に絶望しそうになるわ。

 上記の文の後には「人間は割り切れるものではないという、その曖昧な感情と人間の愚かさを表現しているところにこの映画の匂いがある」なんて、とってつけたようなフォローが続くが、チョー鼻白む。

 でも、ネットの感想には、行定氏みたいに、マルチェロにイラついて蔑む人が少なからずいるらしく、ちょっとなぁ、、、と感じる。

 確かに、映画をどう見てどう感じるかは、その人次第で自由だ。けれども、ここだけは押さえておきたいツボ、みたいなものってあると思うのよね。これはとあるブロガーの方が書いていたけど、“映画鑑賞偏差値”なるものがあると。

 本作で言うならば、マルチェロがシモーネの支配に甘んじていることに対し、理解出来るか出来ないかが、偏差値50ラインではないかと思うのだよ、私は。実際、本作は、そこのところをきちんと、しかもしつこく描いていたと思うし。

 監督自身、インタビューで言っている「本作で描きたかったのは、間違いも犯すけれども、人に好かれたい、皆とうまくやっていきたいという気持ちもある、私たちの多くに似ているような、ある種平凡な男が、望んでもいないのに、じわじわと暴力のメカニズムに巻き込まれていく姿です」と。そして、監督のこの言葉は、確かに本作に見出すことが出来るのだけど……。

 

◆シモーネ VS マルチェロ

 冒頭のシーンで、見るからに恐ろしげな顔をした犬(調べたところ、恐らくドゴ・アルヘンティーノという犬種)が出て来て、歯を剥き出しにして唸っている。次第にマルチェロが手懐けていくのだが、この冒頭の犬が、もしかしてラストでシモーネを襲うようにマルチェロが仕向けるのか?? などと安っぽい予想をしてしまったが、案の定、大ハズレ。

 もっと、想像の斜め上を行く展開に、唖然としてしまった。

 以下ネタバレです(結末に触れています)。

 マルチェロは、愛すべき街の人たち皆から嫌われそっぽを向かれ、捨て鉢になって、自らの手でシモーネに制裁を下すのだ。その方法が、さすがドッグマンだね、というもの。詳細は敢えて書かないけど、もちろん一つ間違えばマルチェロの方がやられていたかも知れない。それくらい、ギリギリのものだった。でもその攻防も、どこか可笑しさが混ぜ込まれており、なかなか残酷な描写なのにグフフ、、、と笑えてしまうのだ。実際、劇場でも笑いが小さく起きていた。

 しかし、問題は、その後。死体となったシモーネを、マルチェロは、一旦は処分しようと商売用の車に載せる。このとき、あまりにもシモーネがデカくて重いので、軽くてみみっちいマルチェロの車が動いてしまうのが、またまた笑ってしまった。

 そうして、街の広場からほんのちょっとだけ離れた草むらでシモーネの屍を燃やし始めるマルチェロ。サッカーをしているかつての仲間たちに「おーい!! オレはやったぞ!」などと声を張り上げて叫ぶが、誰の耳にも届かない。すると、マルチェロはシモーネの屍を燃やしている草むらに戻って、火を消して、今度はシモーネの屍を背負って、再びサッカーグラウンドにやって来る。……が、もうそこには誰もいない。そして、マルチェロは屍を背負ってふらふらと当てもなく彷徨うのである。

 このラストシーンをどう見れば良いのか。一緒に行った映画友は「もうあの時点ではイッちゃってたのかね?」と言っていたが、どうだろうか。少なくとも、“オレはシモーネを仕留めたぜ! 克服したんだ!” という思いがあったのだろうが、彷徨う姿はいかにも哀れである。彼がこの後どうなるかは想像に難くないのだが。

 最後は屍となったシモーネだが、こんなならず者が一人いるだけで、小さな街は平和でなくなるという不条理。このシモーネ、しかし、母親には弱い。母親にコカインが見つかったときのシーンなどは笑える。そして、案の定というか、オツムも弱い。街の人たちから巻き上げた金で高級バイクを買って、それを爆音を轟かせながら乗り回すという描写もある。しかも、同じ道を行ったり来たり繰り返しているという、、、。こんなヤツ死んでくれたら、と思うのは、むしろ自然だろう。

 ちなみに、本作は、実際にイタリアで起きた猟奇殺人に監督がインスパイアされてオリジナル脚本を書き上げたんだそうだ。詳しくは、公式HPをどうぞ。

 マルチェロを演じたマルチェロ・フォンテが素晴らしい。カンヌで主演男優賞を受賞したのも納得。無名の役者だったようだけれど、実に表情豊かで、多面体なマルチェロを見事に演じている。彼を見出した監督はさすがの審美眼だ。

 まあ、万人にオススメの映画ではないかもだけれど、ブラックな笑いと不条理さを好む方は、見て損はないと思います。

 

 

 

 

 

マルチェロに冷凍庫から救い出されたワンコを演じたチワワにパルム・ドッグ賞!

 

 

 

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隣の影(2017年)

2019-08-07 | 【と】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67937/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 閑静な住宅地で暮らす老夫婦は、ある日隣りに住む中年夫婦から、庭にそびえ立つ大きな木がいつも日光浴をしているポーチに影を落としているとクレームを受ける。それをきっかけに両家はいがみ合うようになり、身近で相次ぐ不審な出来事を何の証拠もないにも関わらずすべて相手の嫌がらせと思い込むように。

 元恋人とのセックス動画が原因で妻から別れを切り出され転がり込んできた老夫婦の息子も、庭のテントで寝泊まりして隣人を監視する手伝いをする。

 やがて、老夫婦が家族の一員のようにかわいがっていた飼い猫が失踪。1本の木を挟みいがみ合ってきた両家の対立は激化し、危険な一線を踏み越えていく。

=====ここまで。

 アイスランド映画って、見たことないかも、

 

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  もう、災害と言っても良いんじゃない?ってくらいな酷暑で、東京では、この1週間で30人以上も亡くなっているらしい。そんな毎日で、仕事行って帰ってくるだけでエネルギーを全て消耗し、駄文をブログに書く気力さえ起きず、映画を見てはいてもなかなか記事のupに至らない日々、、、。

 そうこうしている間に時間ばっかし過ぎて、感想を書くのに必要なその映画に関するエキスが脳内と体内から流出して行ってしまう。本作も先月末に見たんだけど、何とか2週間経つ前に書けそうだ。

 本作は、アイスランドとデンマーク、ポーランド、ドイツによる制作。アイスランド以外の3カ国は、2年前の旅で巡った国じゃないの……! 何やら呼ばれた気分で、暑い中を劇場まで見に行って参りました。

 

◆隣人を愛せ

 まあ、本作の場合、“文字通り”の隣人なわけだけれども、、、。隣人は、大抵の場合、選べないから始末が悪い。慎重に選んだはずでも、住んでみたらトンデモだった!!ってこともあるだろうし。

 本作も、「お宅の木、デカすぎるから剪定しておくれ」「……ああ、まあ、考えとくよ」というやりとりから始まるのだけど、それが拗れに拗れて、挙げ句の果ては、、、、ぎょえ~~~! な事態になる。

 隣人トラブルの場合、まあ、こう言っちゃ悪いが、多分どちらかが“話の通じない家”の場合が多いんじゃないかなぁ。どちらも話が通じる家なら、多少ゴタついてもトラブルにはならずに何とか納める(納まる)のだと思われる。納めたからといって、その後、良好な関係でいられることは難しいだろうけど、少なくとも自分たちが住みにくくなるほど雰囲気が悪化しないよう、互いに当たらず障らずを心がけるのではないか。

 ……で、本作の場合も、拗れた最大の原因は、老夫婦の妻であるインガ。このインガ婆さん、もうどーしよーもないほど捻くれていて、根性悪。まあ、コレには一応理由がある。老夫婦の長男が数年前に失踪して生死が定かでないのだ。というか、自殺しているというのが現実のようだが、インガ婆さんはその事実を受け容れられていないらしい。このことが、この隣人トラブルを拗らせた最大の要因だと、私は思った。

 何で長男が失踪して生死不明なのか、、、というのは、ハッキリした描写がないんだが、何となく、親と子の関係が良くなかったことが背景にあるらしい。でも、インガ婆さんを見てると、そらこんな母親がいる家、出ていきたくなるわな、、、と妙に納得してしまう。彼女が、息子がいなくなってから変わってしまったのかどうかは分からないけど、息子がいなくなる前は明るくて常識的な母親だったとは想像しにくい。あの、“自分の価値観絶対”なふるまいというか生き方は、彼女のそもそもの性質に見える。だから、息子は出て行ったのだとしても不思議に思わなかった。さらに自殺となれば、彼女が主な原因で精神的に病んでしまったのだと考えても、大方ハズレではないだろう。

 そして、こういう夫婦においてのお約束は、夫が“逃げる”人であるということ。逃げたくなるのは分かるが、お前が逃げたら、そら息子が妻の餌食になるのは当たり前だろう、、、ってこと。そして、こういう逃げる人は、何があっても逃げる。息子が自殺に追い込まれても、妻が隣人トラブルを大きくしても、基本放置。自分にさえ火の粉がかかってこなけりゃ良い、かかってきても最小限にしてほしい、、、ってやつ。自分だけが可愛い。まあ、妻も自己愛が過剰な人間だから、ある意味“似たもの夫婦”とも言える。

 おまけに、この夫婦の二男がまた、どうしようもないゲス男で、この親にしてこの子あり。本作の冒頭で、この二男の浮気がバレるシーンがあるんだけど、そのバレ方が、ホントに最悪なんである。世の浮気男たちも、たとえ妻に浮気がバレるにしても、こんなバレ方だけは避けたい、と思うんではないだろうか。それくらい、不様で破廉恥極まりないバレ方である。あの妻の立場にだけはなりたくないねぇ、、、。

 ちなみに、老夫婦の隣人はというと、どうやら年の差夫婦で、夫はバツイチっぽい。不妊治療に励んでおり、大きいシェパートを可愛がって、まあまあ裕福そうである。夫婦仲も良さそうだし。こちらの夫婦は、話が通じる人たちと言っても良いと思う。少なくとも、理由もなく周囲を攻撃したりはしない。

 ……が、そんな話が通じそうな年の差夫婦の夫も、さすがにブチ切れる事件が起きるのだ。

 

◆インガ婆さん暴走

 (以下、結末に触れています)

 ある日、インガ婆さんが可愛がっているネコがいなくなる。息子に失踪されている身としては、これは堪えるだろうね。で、インガ婆さん、案の定、ネコがいなくなったのをお隣の仕業だと邪推する。夫にたしなめられるものの、一旦そう思い込んだら、彼女の頭の中では事実が出来上がってしまっているのだ。

 で、こともあろうに、インガ婆さんは、隣人の飼っているシェパードをエサでおびき寄せると拉致して、何と! 剥製にしてしまうのである!! はぁ?? アイスランドって、生きている動物でも殺して剥製にしちゃうお店があるの? こえぇ、、、。

 シェパードがいなくなって心配しながら不妊治療を受け、帰宅した年の差夫婦は、自宅玄関前にシェパードが座っているのを見て喜ぶ。妻が嬉しそうにシェパードに近付くが、当然シェパードは動かない。ぎゃぁ~~~っ、となる妻。……そらそーだよね。ま、体外受精もこの一件で失敗に終わったのだろう、多分。

 まあ、ここからはラストまで、一気に事態が最悪の方へと加速度的に転がり落ちていく。

 ある夜中、年の差夫婦の夫が、トラブルの元となった木をチェーンソーで切り倒そうとし、それに気付いた老夫婦の夫が止めに入って押し合いになった弾みで、木が庭でテントを張って寝ていた二男を直撃するように倒れる。二男の生死は不明。

 最終的には、両家の夫同士が殺し合いになる。

 終盤を見ていて思ったのは、やっぱり、実力行使に出るのって男に多いのかな、ってこと。まあ、女でも殺し合いにならないとは限らないが、男の方が暴力に訴える確率は高いのではないか。DVの加害者が圧倒的に男だということからも、そう思う。

 確かに、剥製にするという(これも立派な暴力だが)トンデモ行為に出たのはインガ婆さんで、これが引き金になったのだが、もし、ここで最初から男たちがいなければ、年の差夫婦の妻は、木を切り倒すことも、インガ婆さんを殺そうともせずに、引っ越して、その場から去るだけだったんじゃないかと思う。相手が、気の狂った婆さんだと分かった以上、身の危険を感じるから。女性は、多分、現実的な身の危険を感じたら、その相手を抹殺することより、自分が逃げることを考えるような気がする。

 でも、男の場合、やられたらやり返す、的な発想になるのかねぇ? ウチの人も、イイ歳して売られたケンカは絶対買う主義なので、このような場合、やっぱりやり返しに行くのだろうか、、、? と考えたら、頭が痛くなってきた。まぁ、あそこまで非常識な人を相手に、まともにやり返そうとは思わないだろう、、、と信じたいが。

 

◆その他もろもろ

 本作は、イヤミス風映画かな。悪意剥き出しの人がでてくるところとか、結末に救いがないところとか、どんどんどんどん悪い方へ話が転がっていくところとか。

 監督のハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン(絶対覚えられないお名前)というお方は、アイスランド人で、本作の構想段階で、ハネケやリンチ、リューベン・オストルンドらの作品について撮影監督と話し合ったと言っている。

 確かに、ハネケっぽいところもあるけど、ハネケほど意地悪さは感じなかったし、リンチほど突き抜けてもいない感じ。ブラックなユーモアというか、黒い笑いもそこかしこにちりばめられていて、多分、この監督さん、面白くてイイ人なんだろうな、と感じた。強いて言えば、オストルンド監督作品が一番近い感じを受ける。

 黒い笑いの最たるものは、ラストショット。この瞬間、私は思わず、ガクッとなって笑いがこみ上げて来てしまった。ハハハ、、、という力のない乾いた笑いね。

 これじゃあ、殺し合って死んでいった男たちが浮かばれないだろ、、、と。合掌。

 

 

 

 

エサに釣られて剥製にされたシェパードが哀れ過ぎる。

 

 

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ともしび(2017年)

2019-03-26 | 【と】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ベルギーの小さな地方都市のアパートで、慎ましやかな日々を送る老年に差し掛かったアンナ(シャーロット・ランプリング)と夫(アンドレ・ウィルム)。小さなダイニングでの煮込みだけの夕食は、いつものメニュー。会話こそないが、そこには数十年の時間が培った信頼があるはずだった。

 だが翌日、夫はある疑惑により警察に出頭し、そのまま収監されてしまう。

 しかし、アンナの生活にはそれほどの変化はないかに見えた。豪奢な家での家政婦の仕事、そのパート代で通う演劇クラスや会員制のプールでの余暇など、すべてはルーチンの中で執り行われていく。自分ひとりの食事には、煮込み料理ではなく、簡単な卵料理だけが供されることくらいがわずかな変化であった。

 ところがその彼女の生活は、次第に狂いが生じていく。上の階から漏れ出す汚水、ぬぐうことができなくなった天井のシミ、そして響き渡るような音を立てるドアのノックの音……。なんとか日常を取り戻そうと生活を続けるアンナだったが、そこに流れ込むのは不安と孤独の冷たい雫。やがてそれは見て見ぬふりが出来ないほどに、大きな狂いを生じていく……。
 
=====ここまで。
 
 『まぼろし』『さざなみ』ときて、『ともしび』。邦題、ひらがな4文字が続くけど、これってやっぱり意図的だよね?


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 シャーロット・ランプリングが好きなので見たかったのだけど、なかなか都合が付かず行けず仕舞いか、、、と諦めていたところ、ぽっかり時間が出来たので、終映ギリギリに滑り込みで見に行って参りました。『まぼろし』も『さざなみ』もまあまあだったと思うのだけど、これは、、、うぅむ……という感じ。


◆老いるということ。

 ほとんどセリフがないのよね、これ。ほぼずーっと、シャーロット・ランプリング演ずるところのアンナの姿を追っている感じ。だから、彼女の演技がほぼ全ての映画とも言える。

 夫が収監された罪状は分からないけど、まぁ、多分、幼児性犯罪だと思われる。序盤で、外から女に「あんなことして恥ずかしくないのか?」みたいなことを叫ばれていたり、息子には「迷惑だ、帰れ!」と激しい拒絶に遭ったり、動かした洋服ダンスの裏から夫が隠していた写真(何が映っているのかは映画では映らないから分からない)が出て来てそれを見てアンナが愕然としたり、、、という辺りでそれを臭わせる。

 老いて、夫婦ふたりの生活をささやかに楽しもうと思っていたであろう老女が、突然独りぼっちで世間に放り出されてしまった、、、というお話なんだが、正直なところ、見終わった後の気分は悪かった。テーマがテーマだから重くなるのは仕方がないが、どうも悲観的に過ぎる気がして、、、。

 夫がそんな犯罪で刑務所行ったら、息子だけじゃなくて友人などの他人だって冷たくなるだろから、独りぼっちになってしまうのは、まあ道理だと思う。しかし、飼っていた犬にまでそっぽを向かれるのは、何だかあんまりな気がする。犬ってどこまでも裏切らない生き物だと思うけどなぁ、経験上。序盤のシーンで、アンナが食事の支度をしている側で彼女を見上げていた姿は、決して懐いていない感じではなかったと思うんだけど。ダンナにより懐いていたとしたって、あれはないだろう。

 まぁ、犬のことを抜きにしても、何かこう、、、ただただ現実に押しつぶされていく老女の様を描いているのがなぁ。アンナはずっと受け身なんだよね。唯一、自ら動いた、孫の誕生会に出向いたというシーンも、息子にあそこまで拒絶されるという結果になるし。その後、駅のトイレの個室で号泣するアンナが気の毒すぎて見ていられない。

 老いるってそういうことなのかね? そこまで無抵抗になるってこと? そこまで現実は老いに非情なのか? あまりにも老いに対してネガティブすぎる感じがするんだけど。

 息子とは、夫の逮捕以前からそもそも確執があったらしいのだけど、それらを含めて、アンナという一人の女性はこれまでいろいろな現実に向き合ってこなかった、見て見ぬふりをしてきた、自分と向き合ってこなかった、そういう“事なかれ主義”的な生き方の代償がこれなんだよ、みたいなことを、監督は言っている。

 「『ともしび』では献身といった思いに囚われ、不安や依存によってがんじがらめになってしまった、現実から目をそらす女性の悲痛な内面を描いています」
 「(この映画の)核心というのは、夫が逮捕されて去ったことでアンナは自分自身と折り合いをつけなければならなくなるということです。(中略)ストーリーの中心が依然として主人公の内面、彼女の当惑、絶望であるということが重要なのです」


 ……確かに、自分と向き合うことをしようとしない人間は、どこかでしっぺ返しを喰らうとは思う。しかし、私は、アンナと息子以上に、親とは断絶しているが、母親がもし手作りケーキを持参で出向いてきたら、いくら私でも、あの息子みたいに追い返すことはしない(できない)だろうと思う。喜んで招き入れはしないが、少なくとも、家には迎えるだろう。父親が犯罪を犯したこととは別次元の話では? あるいはそこは、息子と娘の違いなのか。もしくは、日本と欧米の文化の違いなのか。

 いずれにしても、とにかく、この監督の言っていることは分かるのだけど、描き方は好きじゃない。

 
◆71歳のシャーロット・ランプリング

 衝撃的だったのは、思った以上にシャーロット・ランプリングが年老いていたこと。『さざなみ』(2015)は本作の2年前の作品だけど、グッと老いた感じがしたのは私だけ?

 アンナが着替えるシーンが頻繁に出て来て、その度に、彼女の下着姿が晒される。プールで泳いだ後にシャワーを浴びるシーンでは、全裸になっている。あそこまで露出する必要性があったのだろうか、、、? 私的には、ちょっと過剰な気がしたのだけど。あんなに脱ぎまくらなくても、十分、彼女が老いたことは伝わっているのに。

 終盤、海岸に打ち上げられたクジラを見に行くシーンが何というか、非常に哀しい。ただ死んだクジラを見に行くだけなんだが、それを見ているアンナの姿が痛々し過ぎる。

 あと、ラストシーンも怖い。ずんずんとヒールの音だけを響かせて地下鉄の階段を降りていくアンナの後ろ姿を映しているんだけど、私は、あのままアンナが、、、と思ってドキドキしながら見ていた。心配した展開にはならず、呆気ないエンドマークで、思いっきりどよよ~んとなる幕切れだったけど。

 シャーロット・ランプリングも撮影時71歳。『さざなみ』までは本当に美しいと思っていたが、本作では、哀しいかな美しく見えなかった。やはり、あまりにも受け身過ぎる役ってのは、彼女の魅力をも曇らせているのではなかろうか。それが本作を見て一番残念に思ったことかも知れない。









演技のレッスンシーンが面白い。




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トランボ ハリウッドに最も嫌われた男(2015年)

2018-10-07 | 【と】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 第二次世界大戦後、共産主義排斥活動“赤狩り”が猛威を振るうアメリカ。その理不尽な弾圧はハリウッドにも飛び火し、売れっ子脚本家ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)は、議会での証言拒否を理由に投獄されてしまう。

 やがて出所し、最愛の家族の元に戻ったものの、すでにハリウッドでのキャリアを絶たれた彼には仕事がなかった。しかし、友人にこっそり脚本を託した「ローマの休日」に続き、偽名で書いた別の作品でもアカデミー賞に輝いたトランボは、再起への歩みを力強く踏み出す……。

=====ここまで。

 赤狩りに遭ったが故に、ここまで有名になったという皮肉。しかし、これだけ名作を多く書いているのだから、やはりスゴい。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 何となく劇場まで行く気になれなかった本作。……まあ、DVDでも問題なかったかな。


◆異端は作られる

 アメリカは、今も共産主義が大っ嫌いなのは誰もが知っているけれど、当時の赤狩りが凄まじかったのは、それだけソ連が怖かったことの裏返しなんじゃないかなぁ、、、と、本作を見ていて感じた次第。嫌悪しているというより、怖がっている。犬が尻尾を後ろ足の間に入れて、むやみやたらに吠えまくっている、、、そんな感じに思えた。

 共産主義は弾圧しても良い、ってのが、今思えばやっぱりちょっとやり過ぎだったということだろうけど、当時の世界情勢を考えると、、、まぁ、仕方ないのか。だからといって、あんなやり方は許されて良いとは思えない。あれじゃぁ、魔女裁判と同じだろう。異端は、権力者によって作られ、それによって分断が生じ、詰まるところ、権力者にとって都合の良い状態が出来上がるだけの話だ。異端を作って自らを正当化することで、支持を得る。

 ……とはいえ、本作は、ちょっと描き方に難がある。

 つまり、トランボたちは犠牲者、反共主義者たちは加害者という、単純な二項対立的な構成になってしまっている気がする。共産主義者というだけであの扱いは人権無視もいいとこだが、反共主義者たちの描き方があまりにも酷すぎるというか、バカっぽく見せすぎで、ちょっと気の毒ですらある。確かに、反共主義者たちの言動は、脊髄反射に近いところも多々あるし、客観的に見ればバカっぽく見えるとは思うが、彼らなりの主義主張や理由もあったわけで、そこら辺の背景も、ちょっとは描いてあげてもいいんじゃないの? ってこと。

 それは、エリア・カザンが一瞬たりとも出てこないことにもつながるような。映画人として、彼をバカっぽい方の人たちに一括りにするのはやっぱし抵抗があったんじゃないか、とかね。『ローマの休日』の監督を、キャプラが降りたことも出てこない。私は、キャプラは嫌いだから、そういうエピソードが入っていてもゼンゼン構わないが、彼の崇拝者はたくさんいるから、やっぱり忖度したのかな、とかね。

 本作では、ソ連怖さの余りに、共産主義を異端とし、堂々と弾圧を国家を挙げて行ったわけだから、それは、国の歴史の汚点として記録されて然るべきだ。カザンもキャプラも擦ってもいないにしても、こういう映画がアメリカ自身によって作られるのは、まだ救いがある。


◆逆境で生き延びるとは、、、

 自らの腕一本で稼げる人、というのは、やっぱり凄いし素晴らしい。

 エディこと、エドワード・G・ロビンソンがトランボに「君は偽名で仕事が出来る。でも、自分は顔を晒さなければいけない仕事なんだ」というようなことを切実に訴えるシーンがある。確かに、俳優は、顔を晒さなければならない。トランボはその点、幸運だったと言えるだろう。

 しかし、彼が仕事が出来たのは、ただ運が良かったからではなく、彼に才能があり、次々に作品を書き上げる努力と根性が伴ったからだ。本作の架空の人物らしいが、トランボとともに赤狩りに遭った脚本家アーレン・ハードは、稼げないまま病死する。アーレンには、ヘンなプライドはあったが、才能も根性もなかったのだ。トランボは、プライドもかなぐり捨て、B級映画の脚本も厭わず書き上げた。逆境で生き延びる人と潰れる人の、典型的なパターンだ。

 私には、稼げる腕がないので、逆境に遭ったら即死するしかないのだが、逆境までではなくとも、自分が置かれた状況と、自分がなすべきことと、自分が目指したい方向性と、それらをきちんと俯瞰して、最適な行動を選択できるだけの審美眼と行動力だけは備えておきたい、とは思う。


◆その他もろもろ

 カーク・ダグラスを演じたディーン・オゴーマンが、カーク・ダグラスにそっくりでビックリ。ジョン・ウェインを演じた人はゼンゼン似ても似つかぬ役者さんだったのに。

 カーク・ダグラスが、あんな気骨ある人だったとは知らなかったわ。息子のマイケル・ダグラスのイメージが被ってしまって、どうしても、女好きのニヤけ男みたいに思っちゃうけど、ゼンゼン別の人だよね、親子って言っても。まあ、『スパルタカス』も実はイロイロあった映画みたいだけれど、、、。

 それにしても、 「アメリカの理想を守るための映画同盟」って、すごいダサいネーミング。大体、“理想”なんて言葉をスローガンに掲げるのって、嫌いだわ~。理想って、言っちゃった時点で、もうそれは実現を諦めているもののようにしか思えない。それに、この同盟の場合、そもそもの“理想”が何なんだかもちゃんと掲げられていないしね。そういう曖昧であやふやなもののために、自分が正しいと言ったり、他人を貶めたりするのって、ホントに馬鹿馬鹿しい。

 ヘレン・ミレンが、そのバカっぽさを体現する役を楽しそうに演じておられて、その辺はさすがだった。彼女がいたから、本作は締まったようにも思うわ。あ、あと、ダイアン・レインが、ちょっと年取ったけど、相変わらずステキなのも良かった。

 トランボが、浴槽に浸かってシナリオの構成を一生懸命考えているシーンが面白い。後年『ジョニーは戦場へ行った』を監督したエピソードとかあっても良かったんじゃない、、、? とも思ったけど、まあ、やっぱし蛇足かな。








「最も嫌われた男」じゃなくて「迫害された男」でしょ。




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ドリーム ホーム 99%を操る男たち(2014年)

2016-09-02 | 【と】



 以下、amazonよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 フロリダ州に暮らすデニスは、日雇いで働きながら、母親と息子を養う平凡な男。だが、住宅ローンを滞納したために、自宅からの立ち退きを迫られてしまう。デニスは自宅を取り戻したい一心で、なんと住宅差し押さえビジネスに加担する。だがその非情なビジネスは彼の価値観を少しずつ狂わせていく…。

====コピペ終わり。

 住むところがなくなるなんて、、、。


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 昨年、劇場に見に行きたかったんだけど、気がついたら終映してしまっていたのでした。、、、ごーん。……というわけで、やっとこさDVDで見ました。


◆鍵で現金、、、、って何?

 私、ローンとか、金融商品とか、全く、ホントに全くの無知でして、そもそもローンなんて組んだ経験がないのです、イイ歳して。なので、イマイチ、本作内での「鍵で現金」(明け渡し期日までに鍵を返すと3,500ドルの現金が受け取れる制度)とか、理屈は何となく分からなくもないけど、ピンときませんでした。

 とにかく、本作はのっけからコワい。いきなり主人公のデニス・ナッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)が自分の家を追い出されるんですからね、、、。まあ、ローン滞納してりゃ、いつかこういう日は来ると本人たちは分かってはいただろうけど、ここまで容赦ないとは、、、。今住んでいる家を取り上げられたら……、なんて考えたら、もうそれだけでドキドキします。生きて行けないじゃん!

 ただまあ、大昔に仕事上で必要に迫られて仕入れた知識では、日本の場合、現居住者は割と保護されているような印象がありまして(記憶が薄れているので違っていたらすみません)、本作のように、いきなり不動産屋が保安官(日本なら警察官なのかなぁ)連れて来て、法律用語まくし立てて追い出す、っていう手荒な手法は多くはないような気がしますが、、、、。大体、差し押さえになる前に、売っちゃうんじゃないですかね、、、。詳しいサイトとか調べれば分かるんでしょうかね。あんまし興味ありませんが、、、。


◆金<愛情、って図式は陳腐すぎ

 デニスが、糞尿塗れになった空き家を、たった一人で清掃しようと名乗り出るところで、「そんな根性があるのなら、なぜ定職に就かないのさ?」と、ちょこっと思いました。その後の展開でも、デニスは頭も良いし、腕も良い、若いのにとっても“使える”職人なのです。まあ、そんな彼でさえ、こういう窮地に立たされる、というところを描きたかったのかしらん。

 その後、自分たちを愛着ある家から追い出した張本人の不動産ブローカー・リック・カーバー(マイケル・シャノン)にどんどんと取り込まれていく過程が見応えあります。大金を手にして、その感触に味をしめたデニスが、法の網をかい潜りヤバいことをして、さらなる大金を手にして、、、。金の魔力、恐るべし。

 カーバーは、やっていることはえげつないけれど、見るからに血も涙もない冷血人間、という感じには私には見えませんでした。デニスが使えるヤツだと分かってからは、利用するためにあれこれニンジンをぶらさげてくるんだけれど、そのやり方は割とスマートで、この男は意外に情にもろいところがあるのでは? という風にも思えました。案の定、自分の過去を語るシーンで、なるほど、と思わせる背景がありました。

 デニスは、金の魔力に魅入られたけれど、最終的には、カーバーにはなれなかった。というより、ならなかったのだけど、なんか、私はこういう展開、あんまし好きじゃないですね。デニスは良心までは捨てきれなかった、、、。もちろん、それには、家族に去られて、金を手にしても愛する人を失っては意味がない、ということなんだけれども、そんな当たり前のことを大真面目に描かれてもなぁ、、、。ものすごい予定調和な展開で、ガックシでした。

 私が脚本家なら、デニスには、カーバーを超えるブローカーに成長してもらって、見事1%の側に立ち、そのうま味を味わったところで、思わぬ失敗(もちろん仕事で)をして、奈落の底へ、、、みたいなハナシにするなー。家族(というか人情)と天秤に掛けるなんて、なんか普通過ぎ。

 1%の人々を悪人みたいに言う風潮があるけれども、“金があっても愛がなければ幸せとは限らない”的な紋切り型の批判は、もういい加減やめたら? と思う。幸せか否かなんて、本人以外分からない。

 カーバーも、本作では転落を予想させる終わり方だったけれども、彼が作中で幸せじゃないとは言い切れない。彼なりの価値観で、楽しそうに日々を送っていたわけだし。


◆家とは何か。

 邦題の、“ドリームホーム”ですけれど。日本でも、“夢のマイホーム”なんていいますけれど、欧米でも、借り物じゃない自前の家、って、やっぱり手に入れたいものの一つなんですかね。

 カーバーが言っていました。「家なんてただの箱だ」って。

 私は、そこまで極端じゃないけれど、デニスみたいに家への拘りはないし、どっちかというと、家は“生活する場”であって、持ち物的な感覚はほとんどないです、、、。だって、自分が死んだら、今住んでいるところなんてどうなるか分からないわけで、、、。未来永劫存在するものじゃないし。

 子どもがいて、子どもに遺してやる、っていう人もいるけど、子どもだって相続税払わなきゃいけないし、払えなくて土地が切り刻まれ、そこに所狭しと日もろくに当たらなそうな配置で3階建てがにょきにょき立って行くのは、我が家の周囲でもあちこちに見られます。ああいう光景は、ちょっと好きじゃないですね。何でこんな隣の家と1メートルも離れていないような日当たりの悪い家のために、一生ローンで縛られにゃならんのだ、と思っちゃいます。ま、余計なお世話ですが。ご本人にしてみれば、それこそ、夢のマイホームを手に入れた、ってことなんですよね、きっと。

 でもそうやって手に入れたその家は、こないだ見た映画『残穢―住んではいけない部屋―』みたいに、因縁付きの土地に建っているかもしれないし。、、、なーんて、私、ちょっとネガティブ過ぎですかね?

 私みたいに、ヤドカリ&野垂れ死に、が理想の人間にとっては、デニスにも、ガーバーにも、また、デニスに家を追い出された人たちにも、誰にも共感できないオハナシでした。


◆その他もろもろ
 
 アンドリュー・ガーフィールド、シングルファーザーの設定ですが、父親役にはちょっと若いような。まだ少年っぽい。イケメンだけど、あんまし好きな顔じゃないかな、、、。マイケル・シャノンはハマリ役。良い人なのか悪人なのかイマイチ分からない感じで、淡々と自分の利になることに敏いハイエナみたいなブローカー、ピッタリでした。

 あと、アメリカの家がいっぱい見られたのも楽しかった。日本じゃ豪邸の部類に入る家も、あちらでは、そこそこ、、、って感じ。あちらの豪邸は、ホント、もうスゴイ。我が家から歩いて行ける距離に都内有数の高級住宅街があるんですけど、そこでも、あちらの豪邸の部類に匹敵するお宅は、、、、まあ皆無ですね。とにかく、スケールのデカい豪邸の数々をチラッとでも色々見られたのは面白かったですね。成金趣味みたいなセンスのない家(『クィーン・オブ・ベルサイユ 大富豪の華麗なる転落』みたいのとか)はほとんど出てこなかったのが良かったです。

 住んでみたいとは思わないけど、2~3日滞在経験くらいはしてみたいかな。広すぎて落ち着かないだろうな、多分。
 







ローンで家を買う=負債を抱えるor資産を得る、あなたはどちら?




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読書する女(1988年)

2016-05-25 | 【と】



 コンスタンス(ミュウ=ミュウ)がベッドの中で恋人に読み聞かせている小説のタイトルは『読書する女』。

 小説の主人公マリー(ミュウ=ミュウ・2役)は、その美声と朗読の上手さを活かして、本の読み聞かせを仕事にしようと考える。きっと、求めている人はいるはず、、、。

 果たして、早速依頼が来た。記念すべき最初のお客は、足の不自由な少年。マリーがモーパッサンの「手」を朗読していると、少年はマリーの官能的な朗読に悩殺されて気絶(?)する。ほかにも100歳過ぎの将軍未亡人、欲求不満の中年社長、よぼよぼになった元判事の爺さん等々、風変わりな客ばかり。

 、、、という小説を読み終えたコンスタンスは、自分も「読書する女」になろうと心に決める。

 

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◆キュートなミュウ=ミュウ

 TSUTAYAの新作リストにあったので見てみることにしました。ミュウ=ミュウ、結構好きなので。

 ミュウ=ミュウは、この頃38歳くらいですね、、、。すごいキュートです。こんな38歳、なかなかいないでしょう。別にムリして可愛くしているわけでもないのに、可愛いのです。

 ミュウ=ミュウといえば、割と最近見たのが『華麗なるアリバイ』とかいうつまんない映画で、しかも、彼女はものすごくつまんない役どころでもったいないなー、と思ったのでした。もう少し前には『オーケストラ!』を劇場で見て、「あ、ミュウ=ミュウだ!」とちょっとビックリした記憶が。何しろ、さすがの彼女も歳とったなぁとかんじたので、、、。歳とっても、彼女のキュートさは変わっていませんけどね。

 本作では、アラフォーのミュウ=ミュウ。中年社長に朗読している途中で服を脱ぐ場面があるんだけど、マリーのお腹は、ぷよんとしていて、それがまた何とも言えず良い感じ。太っているとかじゃなくて、ちょっと肉付きの良くなった中年女性の身体なんだけど、でもキレイ。その絶妙なバランス感が、この映画の雰囲気にマッチしていてgoo。


◆朗読と官能

 朗読って、しかし、何故か物語になりますねぇ。あの『愛を読むひと』も、原作は確か「朗読者」でしたよね。

 確かに、官能と結びつきやすいかも。声ですよ、声 朗読の内容もあるけど、やっぱし、声でしょう。声は大事です。

 高校生の時、3年生で初めて同じクラスになった男子に、それはそれは目鼻立ちの整った美しいZ君がおりました。秘かにチェックしていたんですけど、直接話すチャンスもなく1週間が過ぎた頃、何かの授業でZ君が先生に指名されて教科書の朗読をすることに。そのとき発せられたZ君の声は、、、。た、高い!! 、、、ガックシ 私のささやかなときめきは、この一瞬で泡と消えました。以後、Z君には何の興味もなくなりました。まあ、Z君には何の責任もないですし、私にどう思われようがどーでも良いことですから、ホント、私の一人上手なんですけれども、、、

 というわけで、声は、色恋を含めて官能の世界には非常に重要なファクターです。

 ミュウ=ミュウの声は、キュートな見た目に合った、それでいて子どもっぽくないトーンの、耳に心地良いセクシーさがあります。その声で、デュラスの『愛人』を読んだかと思えば、マルクスを読んだり、サドの『ソドム百二十日』を読んだりするわけです。官能的にもなれば、無感情にもなる声です。そういう多彩な表情を持った声がステキです。

 どーでも良いですが、きっとZ君が何を読んでも、きっとまともに頭に内容は入ってこないだろうな、、、。というか、耳に入るのを拒絶してしまいそうだ。普通に会話する分には慣れれば気にならなくなりましたけれど。ああいう、高くて若干しゃがれた感じの声は、残念ながら、表情の乏しい声、ってことでしょうな。

 声のステキな人、憧れるわぁ~。さしずめ、現時点で(私にとっての)声のベストは、やっぱり玉木宏かなぁ、、、。イイ声ですよねぇ、彼。


◆官能的ではあるけどコミカル

 いわゆる入れ子構造で、コンスタンスとマリーが同化しているところが面白いです。

 一応、朗読シーンは官能的なシーンとなっているんですけど、どこかコミカルで、あまり官能性を感じるものではないですよねぇ。多分、そういう風に描写しているんだと思いますけれど。ミュウ=ミュウはキュートだけれど、匂い立つようなセクシーさとは違うので、それこそコケティッシュな感じです。男を軽々と悩殺し、自分はケロッとしている天然小悪魔、みたいな感じでしょうか。原作の朗読シーンは、とっても官能的だそうなんですけれど。

 マリーが、中年社長に、お尻に顔をうずめられても朗読を続けているところとか、笑っちゃいました。あと、マリーの股間に顔をうずめたかと思うと、いきなり咳込んで、最初???だったけれど、どうやら、マリーの陰毛が喉に絡まった、ってことらしい。ハハハ。

 
◆衣装の色合いが素晴らしい

 マリーの衣装がすごくビビッドな色彩でステキです。帽子と足下に同じ色のコーディネートなんですよね。その衣装に、ミュウ=ミュウのショートカットの髪型が実によく似合う。

 あと、お母さんが仕事で出掛けている間に、マリーと一緒に遊園地に行く少女の衣装も可愛い。お母さんの宝石をじゃらじゃら着けて、その上に大きなストールを巻いて、すんごいオシャレ。

 さすがおフランス、こういうところのセンスは素晴らしい。見ていて楽しいです。





玉木宏の朗読を聞きながら眠れたら、、、熟睡どころか覚醒しちゃいそうだ。




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