映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ジェヴォーダンの獣(2001年)

2022-02-23 | 【し】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv32634/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 18世紀の仏の田舎町で、奇怪な事件が発生。謎の野獣が、100人以上もの村人を襲ったのだ。学者フロンサックは国王に命じられ、従者マニと共に調査を開始。やがて事件の裏に、意外な人物の存在が浮かび上がる。

=====ここまで。


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 ギャスパー・ウリエルの事故死のニュース、本当に驚きました。37歳、、、何ということだ。彼の映画は何本か見ているが、本作はデビュー作とあちこちのプロフィールで書かれていて未見だったため、見てみた次第、、、、なんだけど、……え、ホントに出てた??


◆ムダに長いような、、、

 ジェヴォーダンの獣については、NHKのBS「ダークサイドミステリー」でも取り上げられており、こういう分野は大好物なのだけど、本作は存在そのものを知らなかった。こういうネタが基の映画は、大抵ハズレな予感があったので期待はしていなかったが、今でも謎だらけの出来事だからいくらでもストーリーを展開できちゃうという面白さもあり、本作も終盤でかなりトンデモな展開にしていたけれど、そこそこ楽しめた。

 ヴァンサン・カッセルが主役扱いなのに、序盤はイマイチ存在感が薄い役なんだが、絶対コイツ何かあんだろ、、、、と思わざるを得ないので、そう思って見ていたら、案の定、中盤からお得意のヤバい系キャラ発揮!! そうこなくっちゃ!

~~以下、結末に触れています。~~

 獣の正体は、、、? そうです、もう、皆さんお分かりですね。ヴァンサン・カッセルがラスボスです。

 ストーリー的には、割と話が大きくなっていて、国の転覆を図る秘密結社の親玉が、獣を操っていた、、、ということで、蓋を開けてみれば陳腐なんだけど、そこへ辿り着くまでかなり勿体つけていて、中身は薄いが一応は見せてくれる作りになっている。

 何より、衣装や美術が凝っていて目に楽しい。獣の動きは稚拙だけど、20年前ならこんなもんか……という感じ。役者さんたちも、何か楽しそうに演じていた。そら面白いだろうね、こんな中世そのものみたいな世界に入り込んじゃうわけだから。300年前にタイムスリップした感覚になるかも。

 どういうわけか、新大陸(アメリカやね)の原住民マニも出てきて、このマニが無駄にアクションを披露する。ハッキリ言って、いらんやろ、、、なシーン。でもまあ、演じるマーク・ダカスコスのキレの良い動きで見ていられるけれど。しかもマニは終盤殺されちゃうしね、、、。結構酷い殺され方をする。

 終盤にもラスボスのヴァンサン・カッセルと、主役のサミュエル・ル・ビアン演ずるフロンサックの対決シーンでアクションがあるけど、ややショボい。てか、アクションがメインディッシュの映画じゃないから、やっぱしいらんやろ。それに、獣が案外すんなり大人しくなっちゃうのもつまんないといえばつまんないかな。どうせなら、自分を操る主に反逆して暴れまくるとかして、ヴァンサン・カッセルにトドメを刺す!なんてのもアリだったんじゃ、、、。

 フロンサックとラスボスの妹の恋物語が結構ネチネチ描かれるんだけど、うぅむ、これもいらんかったんじゃ、、、。まあでも、ラスボスは、腹違いとはいえ妹に恋してしまっての暴走、、、ということも描かれているので、いらないとまでは言わなくとも、もう少しサラッとでも良かったような。というのもこのヒロインがあんまし魅力的じゃなかったのよね。

 モニカ・ベルッチも出ていて、夫婦で出ていたのね、、、。この人は、ホントに惜しげもなくスルッと脱いじゃうよなぁ。美しいから良いけど、ホント、こともなげに脱ぐ。脱ぎ惜しみする女優さんたちには、ちょっと見習っていただきたいくらい。

 という具合に、あまり真面目に感想を書く感じの映画ではありませんでした、、、ごーん。


◆ウリエルはどこだ!!

 で、ギャスパー・ウリエルです。彼のデビューを見るために、本作をわざわざ借りたのだ。

 ずーーーっと、目を皿のようにして見ていたけど、彼を見ることなくエンドマークが、、、。え?? 出てたの?? どこ???

 ネットで見ると、彼の役は「ルイ15世」と書いてあるサイトもあり、けれど、ルイ15世がそもそも出てこない。え゛、、、なぜ? 本当にこれが彼のデビュー作なんだろうか?

 で、もう一度、最初から見ましたよ、早送りしながら。でもいない。ウリエルはどこにもいない!!

 仕方がないので、エンドロールをじっくり見ました。登場順に名前が出てくるので。確かに彼の名前はある。役名は“Louis”。ルイだよ、ルイ。そして、その前にある名前は女の子の名前で、中盤、獣に襲われながらも九死に一生を得る役なのです。で、彼女のお兄さんがその直前のシーンで、獣に食い殺された死体となって出てくるんだが、つまり、ウリエルはこの死体役だったのだ、、、、多分。

 ハッキリ言って、ほとんど顔など映っていない。これじゃあ、分かるわけがないわ、、、、と納得。

 思えば、DDLのデビュー作『日曜日は別れの時』でも、DDLが出ているはほんの数秒で顔もほとんどハッキリ映っていなかったもんな、、、。あれでデビュー作って言えるのかレベルだったんだが、本作でのウリエルもまったく同じだ。

 とはいえ、DDLもウリエルもその後、スターになったわけで、どんなスターも最初はチョイ出から始まるのだ、、、ということなのね、きっと。

 ともあれ、ギャスパー・ウリエルはもうこの世にいない。本当に残念。もっと彼の映画見たかったなぁ。未見の作品もあるので、これから見ていきたいと思います。


 

 

 

 

 

 

 

ジェヴォーダンの獣は実際にいたので、雪男とかツチノコとかとは違います。

 

 

 

 

 

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SNS-少女たちの10日間-(2020年)

2022-02-19 | 【え】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv72736/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 巨大な撮影スタジオに3つの子供部屋を造り、幼い顔立ちの18歳以上の3名の女優が“12歳・女子”という設定のもと、部屋に設置されたパソコンを使いSNSで友達を募集した。

 すると、2,458名もの成人男性がコンタクトを取り、卑劣な誘いを仕掛けてきた。

 精神科医、性科学者、弁護士や警備員など専門家の万全なバックアップやアフターケアを用意し、10日間撮影を続けた。すると、撮影されているとは気づかず、未成年に対する容赦ない欲望の行動は徐々にエスカレートし、児童への性的搾取者が徐々に本性を現し始める……。

=====ここまで。

 ドキュメンタリーというか、リアリティ・ショーというか、、、。


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 昨年、劇場公開時にメディアでも取り上げられて話題になっていたけど、劇場まで行って見る気にもならず、DVDが出たので見てみることにしました。


◆想定内だったんですけど、、、?

 3人の女性を選ぶ面接シーンから始まるのだが、ここですでに、この面接に応募した女性たち23人のうち19人が、ネットで性的いやがらせの経験がある、、、という話になっており、いきなりのカウンター。

 12歳の振りをした18歳以上の女性3人が、いわば実験台となって、ネット界の実態を垣間見せてくれるわけだが、本作の感想をネットで4本くらい読んでみたところ、そのうち3本は男性で、お三方とも「衝撃を受けた」とか「ショックだった」とか書いていた。お三方とも、本作に出てきた男たちのゲスっぷりがショックだというのだ。

 私は遠い昔に10代だったわけだが、20代を過ぎ、30代を過ぎ、40代を過ぎても、男からの性的な目線というのは場面を問わずしょっちゅう感じたし(もちろん不快極まりない)、最近は大分楽になって来た実感はあるが、それでもやはり不快な視線はまだまだある。それは私が女性として魅力的か否かとかは全く関係なく、女性のほとんどがそういう“女性の体形”をしているがために“性的な目線”に常に晒されているってことなんだが、だから、本作で顔にモザイク掛けられていた下劣極まりない男どもの言動など、わたしにとってはゼンゼン“想定内”なのであった。

 そりゃ、私はSNSでの交流などやらないから、いきなり見知らぬ男に性器を見せられたり、裸になれと脅されたりした経験はない。ないが、本作のような設定で、こういうことをする男がいる、しかもいっぱいいることなんか、不思議でも何でもなかった。

 本作の“実験”では、次のルールがある。

① 自分からは連絡しない、② 12歳であることをハッキリ告げる、③ 誘惑や挑発はしない、④ 露骨な性的指示は断る、⑤ 何度も頼まれた時のみ裸の写真を送る(偽の合成写真)、⑥ こちらから会う約束を持ちかけない、⑦ 撮影中は現場にいる精神科医や弁護士などに相談する

 12歳って、小学6年生だよね。連絡してくる男たちは、40代とか確か60代もいた。女性たちが「私12歳だけどいいの?」としつこく聞くが、皆「いいよ、ゼンゼン問題ない」とか言っている。現場にいる精神科医によれば、これらの男たちはほとんど小児性愛者ではないだろうとのこと。小児性愛者は、小児の裸にあまり執着を見せないらしい。が、本作で出てくる男たちは、ほとんどが女性たちに「脱げ」と言う。

 つまり、12歳でも身体が大人の女なら、見ず知らずの関係であるのだから、あわよくばセックスまでして、都合が悪くなったらポイできる、、、ということなんだろうな。確かに、本作で見る限り、出てくる男たちは“小さい子が好き、、、”という感じではなかった。

 終盤、上記のルールを一部破って、男たちの一部と3人の女性たちがカフェみたいな店で直接会うことになる。彼らは、公共の場では周囲の目を気にして、女性がちょっと声高に「何であんなこと言ったの?」みたいに詰問するとうろたえたり、女性に親から電話が掛かってくると焦ったりする。要は、痴漢と同じで、自分がヤバい状況にならなければ、自分の欲望を暴発させることに何のためらいもない輩ということ。

 最終的に、本作では、連絡してきた男のうちの1人に突撃し、監督と実験台となった女性3人たちとが直接対決していた。けれど、大勢で1人の男を責め立てるばかりで、「どうしてそういうことをしたのか」ということに切り込んでいないのが、思いっきり期待外れな展開であった。突撃するなら、監督2人(男性と女性の2人が監督を務めている)だけで男に会い、責めたてるのではなく、じっくり男の話を聞いた方が良かったのでは。

 それなりに意義のある企画だとは思うが、ああいう終わり方では、企画意図が分からなくなっちゃう。ただの「お下劣男図鑑」になっちゃった感あり。


◆男性性について。

 前述の男性お三方は異口同音に「ショック」と言っている一方で、「そんな男ばかりじゃないと言いたいが、直視しなければならない現実」みたいなことも書いていた。この男性たちの受けた「ショック」は、男性性そのものに対するショックでもあるのかもね。でも、オレは違う、、、と。

 先日見た『ドライブ・マイ・カー』について、批評家・杉田俊介という人の論考をWebで読んだのだが、男性性に絡めて書いてあって、もの凄い違和感を覚えた。

 男は強くあるべしという「男らしさ」を社会に求められて弱音も吐けず、溜め込んでしまいがちだが、『ドライブ~』は、「正しく傷ついて」良いのだ、と男たちを男性性から解放するものだ、、、みたいな論調だった。しかも「女性的な感情」という言葉もあり、具体的に何を指すのかは分からないが、文脈からは弱音を吐いたり涙を見せたりすることは「女性的な感情」と言いたいらしい。でも、私の印象では、政治家でも芸能人でも、謝罪やら何やらで会見して泣いているのはモレなく男なんですけどね。

 ともあれ、こういう都合の良いときだけ、男性性で括って語るなよ、と感じた。男性優位とか性犯罪とかの話で、男性性で一括りにされれば「そんな男ばかりじゃない」と言うくせに。辛くても弱音も吐けず、溜め込んでいる女性もいっぱいいるんですけど? 現に『ドライブ~』でも、辛い思いを抱えていたのは男の家福だけじゃなく、女のみさきもだったじゃん。なんで“男だけの物語”にするのか。

 『ドライブ~』が社会的な男性性からの男性の解放映画だというのなら、本作は、身体的な男性性を男性が自覚する映画、であって欲しい。男性性の持つ加害性をコントロールするにも、まずは“自覚すること”の第一歩が大事なので。

 正直なところ、本作の感想としては、もっとイロイロ、いっぱい、書きたいことはあるんだが、あまりにも長くなるし、今までにもあちこちで細切れに書いているから重複になるだけな感じもあるので、今回は自重することとしました。

 

 

 

 

 

 


日本でも似たような状況だと思います。

 

 

 

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オルランド(1992年)

2022-02-10 | 【お】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv16557/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 青年たちが女性的な装いを好んだ一六世紀末エリザベス一世(クェンティン・クリスプ)の治下、晩餐の宴で青年貴族オルランド(ティルダ・スウィントン)は女王に詩を捧げた。女王はオルランドの若さを愛し「決して老いてはならぬ」という条件つきで屋敷を与えた。まもなく女王は崩御、次いで父親も亡くなり、オルランドはユーフロジニと婚約する。

 大寒波で氷の都となったロンドンで、新国王ジェームズ一世に挨拶するロシア大使一行の中に美少女サーシャ(シャルロット・ヴァランドレイ)を見たオルランドは、ひと目でとりことなり愛を誓う。二人はロンドン橋の上で落ち合い旅立つ約束をするが、サーシャは現れず、失恋したオルランドは六日間昏睡状態に陥る。

 眠りから覚めたオルランドは詩作に没頭するが、尊敬する詩人(ヒースコート・ウィリアムス)から罵倒され詩作も断念し、オレンジ公ウィリアムに申し立てオリエントの国へ大使として旅立つ。

 十年の月日がたちオリエントになじんだオルランドにアン王女からバース勲位が授けられた。授勲式の夜、親しい王(ロテール・ブリュトー)が敵国の急襲を受け、戦いになった。敵兵が死んでゆくのを見たオルランドはショックのあまり二度目の昏睡に陥る。

 二日目に目覚めた時、オルランドは女になっていた。イギリスに戻り貴婦人として社交界にデビューしたオルランドはハリー大公のプロポーズを断る。「自然よ、私をあなたの花嫁にして」と大地に向かってオルランドがつぶやいた時、突然馬にまたがったひとりの男が現われた。アメリカ人の冒険家シェルマディン(ビリー・ゼイン)とオルランドは恋に落ち、甘美な一夜を過ごす。

 翌朝、ヴィクトリア女王の使者が「男子を産まねば財産は没収する」という通達を持ってきた。旅立つシェルマディンを見送ったオルランドはやがて身重の体で戦場を逃げまどう。

 時は移り、現代のロンドン。オルランドは出版社に原稿を持ち込む。そして幼い娘をサイドカーに乗せ、百年前に失った屋敷を観光客として訪れ、自分の肖像画を見るのだった。

=====ここまで。

 ヴァージニア・ウルフの長編小説『オーランドー』の映画化。


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 ヴァージニア・ウルフ、、、遠い昔(10代でした、、、はぁ)『ダロウェイ夫人』を開いて、あっという間に挫折したのと、リズの映画『バージニア・ウルフなんかこわくない』がダメ過ぎて、ウルフにも良いイメージがありません。今なら小説はもう少し読めるようになっているんでしょうかねぇ、、、。ウルフ原作ではないけど、ウルフを描いた『めぐりあう時間たち』もピンとこなかったし。

 本作は、何となくストーリーも取っつきやすそうだし、サリー・ポッター監督作というのもあって、なぜか見てみたくなりました。もちろん、原作は未読です。ちなみに、原作が発表されたのは1928年で、日本では昭和3年。


◆男だろうが、女だろうが、、、

 いろんな映画でいろんなエリザベス一世を見てきたけど、それらに比べても、本作の冒頭におでましのエリザベス一世はかなりインパクト大。演じているのはクェンティン・クリスプというお方。寡聞にして知らなかったのだけど、ネットで検索したら、有名なゲイの作家で“ゲイカルチャーの先駆者”として伝説的な人物だそうで、、、。あのスティングのヒット曲「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」のモデルとなったお方らしい。

 とにかく、その冒頭シーンで、エリザベス一世に「老いてはならない」と言われたオルランドは、確かに美しい。ティルダ・スウィントンは、正直なところあんまし好きな女優さんではないのだが、この映画は彼女がいてこそ成立した作品だと、強く感じた次第。それくらい、性の垣根を軽々と超える不思議な主人公を違和感なく演じていた。

 中盤までは男性、後半は女性になるオルランド。男性から女性に変わったところでは、ティルダ・スウィントンの全裸シーンもあり、公開当時このシーンは話題になったのかしら?? 女性になったとき、オルランドはカメラ目線で「前と同じ人間。何も変わらない。性が変わっただけ」とつぶやく(ちなみに、カメラ目線でオルランドがつぶやくシーンは、ほかにも何か所かあった)。

 時代が飛ぶ際に、オルランドは昏睡するんだけど、最初に昏睡してしまったシーンが結構面白い。召使が起こしに来るが目を開けないオルランド、起こしに来る人が1人、また1人と増えていく。医者も来る。……ただ、昏睡して時代が飛んでいる、ってのが見ていてもイマイチ分かりにくく、ストーリーをある程度知っていないと置いてけぼりを喰らうこと必至。

 映画として面白いと思うけど、ふーん、、、という感じでもある。何しろ、400年を描いているのだからね。男と女の違いということには、ほとんど焦点が当たっておらず、男も女も人間としてどう生きるのか、、、ということが描かれる。ただ、意外だったのは、どのオルランドも“恋愛”が絡んでくるのよね。そして、それは異性愛なんだよね。

 女になったオルランドが、コルセットでガチガチのドレスに身を包み、サロンでオジサンたちと語り合うシーンも興味深い。そのオジサンたちはジョナサン・スウィフトや詩人アレキサンダー・ポープなんだが、彼らは女性蔑視丸出しの言葉を吐きまくっている。そのときのオルランドは怒って部屋を飛び出していくんだが、、、。ガリバー旅行記もぶっ飛ぶハラスメントおやじ・スウィフトさんであった。これ、原作にもあるんだよね? ウルフは意地悪だなぁ、、、。


◆ティルダ・スウィントンとか、その他もろもろ。

 本作の公開当時、ティルダ・スウィントンってどのくらい知名度があったんでしょうかね? 86年に映画デビューし、2000年にレオ様主演の『ザ・ビーチ』でハリウッド進出、、、とwikiには出ている。本作が撮影されたころは、まだ売り出し中だったのかな、、、。

 というのは、オルランドを演じているのが謎めいた中性的な俳優であれば、なお映画として魅力的だったんじゃないかな、と思ったから。今となっては、ティルダ・スウィントンが女性であることは大抵の人は知っており、途中でオルランドが女性になっても、ゼンゼン違和感なく見れてしまうのだけど、これが無名に近い俳優だったら、さぞや面白かっただろうな、と。男から女に軽やかに垣根を越えて演じているあの美しい人は誰、、、??となるでしょ。でも、ティルダ・スウィントンだと知っているから、ふむふむ、、、としかならなくて。

 それにしても、今からほぼ100年前に、ジェンダーフリーなお話を書いていたというのはオドロキだ。ウルフをよく知る人なら驚きでも何でもないのかも知れないが。映像化は無理と言われていたらしい原作だが、本作を見て、原作を読んでみたいと思った次第。

 特典映像で、サリー・ポッター監督が色々と苦悩している場面が収録されており、本編よりそっちの方が興味深かった。なかなか過酷な現場だったみたい。『耳に残るは君の歌声』も(内容はほとんど覚えていないんだけど)まあまあ面白かった記憶があり、もう一度見てみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

食わず嫌いしていないでウルフ作品も読んでみようかな、、、。

 

 

 

 

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セールスマンの死(1951年)

2022-02-06 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv4893/


 長くセールスマンとして働いてきたウィリー・ローマン(フレドリック・マーチ)は、歳をとって運転も覚束なくなってきた。そんなウィリーの身体を心配する妻リンダ(ミルドレッド・ダンノック)であったが、ローマン家では、まだ家や家財のローンが残っている。

 出張から戻ったウィリーをリンダが労っていたところ、彼らの2人の息子が帰ってくる。放浪の旅をしていたプータローの長男ビフ(ケヴィン・マッカーシー)と、女好き二男のハッピィ(キャメロン・ミッチェル)。この2人の息子たちは、ウィリーの期待に背き、不甲斐なさ全開である。ウィリーは2人が帰ってくるなり、ビフに罵声を浴びせ、家の中は険悪に、、、。

 父親の一方的な期待に反発し、不甲斐なさに自己嫌悪を抱きながらも現状から脱しきれない息子と、我を顧みず、息子たちの人生で自分の人生をリベンジしようとする父親の、哀しい親子の鬱物語。


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 4月に、本作の基となった舞台が、主演・段田安則氏で上演されるとのこと。少し前に風間杜夫でも上演されていたみたいだけど、段田さんは割と好きな役者さんなので見てみたいと思い、チケットも無事ゲットできたので、まずは映画から見てみることに。聞きしに勝る鬱映画で、これは気分が落ち込んでいるときには見ない方が良い映画です。


◆何で自分ばっかり、、、

 本作は、現在シーンに、過去の回想シーンが頻繁に挟まる。といって、時系列がグチャグチャというわけではないので、見ていて別に混乱するとか分かりにくいということはないのだが、ネットで本作についての感想をチラホラ見てみたら、ウィリーは認知症だと書いている人が複数いて驚いた。……確かに、身体は衰えたという設定だが、認知症ということではないと思うのだけど、、、。

 それはともかく。

 セールスマン=営業マン。営業ってなくてはならない職種なんだが、なかなかキャリア形成という側面は難しい職種だと思う。何年やっても専門職とは言えないというか。それは、50年代のアメリカでも同じだったようで、若い社長に、ウィリーが「歳でしんどい……」ってことで事務職へ異動を願い出たところ、にべもなく却下され、クビを言い渡されてしまう。

 長年セールスマンをやってきて、会社に貢献してきたという自負の強いウィリーにしてみれば、こんな扱われ方、歳の取り方は不本意に違いない。だから、2人の息子の人生で、自分の人生のままならさを回収したくなるのも、まぁ、、、、分からんではない。息子たちが立派になったのを見れば、自分の苦労も報われる、ということだろう。

 しかし、そうは問屋が卸さないのが人生でして、、、。

 ウィリーみたいな男性優位思想の男は多い、、、という感想もいくつか目にしたが、男性優位思想もあるけど、根本的には“自分と向き合えない人”であって、こういう人は男女問わずそこらへんにいっぱいいる。自分と向き合う勇気がないのだよね。だから、必然的に自信もない。けど、プライドだけはものすごく高い。自信がないから、自分の価値観を、自分より弱い者に強制して支配することで、自分の承認欲求を満たそうと必死になる。必死になればなるほど、自分が支配しているはずの人間に背かれ、遂には逆襲される。

 ウィリーが家族のために頑張ってセールスマンとして働いてきたことが彼の望む形で報われなかったのは、別に息子たちのせいではない。息子たちがどう生きるかを決めるのは息子たち自身なので、セールスマンとして頑張ってきた“のに”息子たちが不甲斐ない、というのは、一見まっとうな文言かと思うが、ウィリーがセールスマンとして頑張ってきたことと息子たちの生き方に因果関係はないのだから、“のに”という接続詞は正しくない。

 しかしまあ、、、実際は子育てはものすごく大変だろうから、正論で済むほど単純じゃない、、、ってのが親の理屈なんだろう。ちょっと前に某全国紙で、「親ガチャ」という言葉に関連して家族とは何かという特集が組まれており、評論家の東浩紀がインタビューで「よく『子は親を選べない』と言いますが、哲学的には『親は子を選べない』ことの方が重要です」と言っていた。「哲学的には」なんてエクスキューズして小難しく言えば免責されるとでも思っているのかも知らんが、失礼ながら東氏も人間としてウィリーと同根だと思う。東氏のことはよく知らんけど、彼のTwitterを時々見る範囲で、その物言いというか、思想は好きじゃない。前述の発言も驚きはしなかったけど。

 ウィリーの最大の問題は、自分“ばっかし”苦労したという意識に凝り固まっており、自分の言動が息子たちに辛い思いをさせて苦労させたということに全く気付いていないこと。ウィリーが苦労したのは、主に自分のせいであって、それなのに、その苦労の報いを息子たちから回収しようとするからモメるのだ。自分の問題は自力で解決してよ、ってことよ、子供から言わせてもらえば。


◆必ず後悔する人・ウィリー

 ウィリー自身も、息子たちも、あれもこれも上手くいかず八方塞がりとなり、ついに長男ビフに現実を突き付けられて反撃される。そこでようやくウィリーは、自分に非があったのか??となるのだが、彼の気の毒なところは、それで人生全てが否定されてしまった、、、と思ってしまうところ。

 で、ついにちょっとおかしくなっちゃって、夜中に庭で種まきを始めたりとか……。

 私の母親もそうだが、私に何かネガティブな指摘をされると、「自分のことを全否定された」と思い込んで激高するんだよね。別に全否定なんかしていないのに、全否定されたと思っちゃう。二進法的思考回路。何でも白か黒かでしかモノを考えられない。こういう人がいると、周囲が大変なんだよね、ホントに。

 途中で、ときどきベンという名の、ウィリーの兄とされる男が回想シーンで出てくるんだけど、ベンはリスクのある人生を選んで金持ちになった、という設定で、言ってみればベンはウィリーの理想の姿を体現している存在なのだ。

 でもさ。ウィリーみたいな人って、どんな人生でも“必ず後悔する人”だと思うなー。満たされないことばかりに目が向いてしまう人。物事を引き算でしか見られない人。私は常々、世の中には“必ず後悔する人”と“絶対後悔しない人”の2種類しかいないと感じているんだけど、ウィリーは前者だろう、間違いなく。そうやって、たら、れば、を妄想することで自分をかろうじて保っているのだから。

 他力本願というか、他罰的な思考って、苦しいと思うなぁ。学生時代の友人が、むか~し、何か思い通りにならないことがあったとき「人のせいにする方が楽だ」と言っていた。自分は悪くないと思えるからだそうだ。私の姉も大昔「親の言うとおりにしていれば、もし何かあっても親のせいにできるから楽じゃん」と、友人と似たようなことを言っていた(ちなみに、友人も姉も、私よりもゼンゼン優秀です)。でも、本当に“楽”だろうか。

 そして、友人・姉ともによく言うセリフが「あの時、〇〇だったら~」的なこと。しょっちゅう後悔するのって、楽じゃないんじゃない??

 まあ、こういうことを言うと、自己責任論か! とか言われちゃうかもだけど、自己責任論とは違うんですよね、、、。むしろ、他罰的な思考こそ、自己責任論と親和性が高いのだが、、、それを書くと長くなるのでここではやめときます。

 ウィリー役のフレドリック・マーチが鬼気迫る演技で、とにかく素晴らしかった。回想シーンに入るときの、ちょっと遠くを見る表情とか、実に切ない。最期も悲劇的。あれは私は事故だと思ったんだけど、自殺と解釈している人が多いみたい。

 果たして、4月の舞台で、段田さんはどんなウィリーを演じてくれるのか。楽しみ。


 

 

 

 

 

 

 

 

アーサー・ミラー(DDLの義父)の戯曲も読んでみようと思います。

 

 

 

 

 

 

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