映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

炎628(1985年)

2015-11-30 | 【ほ】



 第二次大戦下の白ロシア(現在のベラルーシ)で、とある村がナチスの特別行動部隊(アインザッツグルッペン)により全滅させられた。なぜなら、その直前、ドイツの偵察機が、村の少年フリョーラが機関銃を持って荒野にたたずんでいるのを見つけていたからであった。フリョーラは友人の少年と、村の長老に武器を掘り出すことを諌められるのも聞かず、機関銃を見つけて喜んでいたのだった。

 フリョーラは地元のパルチザンに入ろうとして、少年であるために隊から置いてけぼりを喰ってしまい、仕方なく自宅に戻って、村中の人々が惨殺されていたことを知ったのだった。自分のせいで村が虐殺の的にされたと知り、精神的に追い詰められるフリョーラ。

 その後、アインザッツグルッペンは、地元民を集めると、とある教会の中へ入るよう皆に命令し、地元民たちは続々と押し込まれていく。そして、扉が閉められ、、、。

 1943年3月、ハティニという村の住民149名全員が惨殺された事件を題材にした映画。タイトルの628は、ナチスによって焼き払われ、殲滅させられたベラルーシの村の数、だということです。
 
 
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 有名なトラウマ必至の戦争映画、ということで、今さらですが見てみることにしました。

 で、感想ですが、正直なところ私には、そこまで騒ぐほどトラウマ映画ではありませんでした。ホロコーストものなら、もうさんざん色々な映画を見ているので、衝撃には慣れてしまっているというのもあるかも知れませんが、ソ連がやったことをおぼろげながらも知っているので、あまり被害者側一辺倒になって見ることが出来なかった、というのもあるかも。いずれにしても、戦争映画の衝撃度でいえば、私は、『戦場のピアニスト』の方が遥かに大きかったです。

 本作の前半は、少々退屈。フリョーラがパルチザンに入り損ねて、自宅に戻ってくるまでの少女とのあれこれが、う~ん、という感じ。あの少女は、ラストでナチにレイプされて血まみれになっていた女の子と同一人物なんでしょうか? ちょっと、顔がよく判別できませんでした。であれば、あの長々としたシーンも多少は理解できますけれど。

 中盤からは一気に緊迫度が上がります。まず、フリョーラが自宅に戻った時の、その自宅の何とも言えない不気味さ。誰もいない、でも、ただの留守とは到底思えない不穏さ。それから後は、ひたすら地獄絵巻。もう、ひどいのなんの。でも、あれが実際にあった光景と大差ないのだろうな、と思います。

 そして、ラストの生きたまま地元民たちを焼殺するというおぞましい虐殺行為。何も言うことはありません。

 最初は、ごくごく普通の少年だったフリョーラですが、恐ろしい体験を重ねていくうちに、髪は白くなり、顔もどんどん皺が増え、最後には老人のような容貌になっています。特殊メイクだろうけれど、これが本作で一番印象的だったかも。

 あと恐ろしいのは、虐殺の後に、パルチザンに捕えられたアインザッツグルッペンの将校が殺されるのを目前に吐くセリフです。「子どもから始まる。だから生かしてはおけぬ。必ず殲滅する!」(セリフは正確ではありません)というもの。子どもは守るべき存在ではない。共産主義の子どもなど、世界の癌だというわけです。だから絶滅させなければ、と、信じていたんでしょうなぁ、あの将校さんは。

 ナチスは確かに子どももたくさん殺していますし、そもそも民族浄化というのは、ある民族を根絶やしにするわけですから子どもこそ殺さなければならない存在、という思想は、まあ、当然といえば当然です。あの将校も、金髪碧眼で長身のイケメンでした、そう言えば。

 別に、ソ連もソ連なんだから、こんな映画作って被害者面してんじゃねーよ、などという気はさらさらないし、いろんな立場の人がいろんな側面から物事を描くのは大切だと思いますので、本作に存在意義はもちろん十分あります。実際に、ナチスがこの地で行ったことはただの虐殺で、その思想だの大義名分だの、何の意味もなしません。

 ただ、場所が変われば主客転倒し、虐殺者は被虐殺者となり、被虐殺者は虐殺者となるのです。ですから、本作を見て思うのは、戦争とは、人間の理性をあっさり奪うものであり、人間とはあっさり理性を捨てられる愚かな生き物であるということです。それ以上でも、それ以下でもない。『ベルファスト71』を見た時も思ったけれど、戦争や紛争は、結局はただの殺し合いだってことです。どちらにも義はないよね、あると言うだろうけど、双方ともに。

 今、ISISを空爆していますけれど、あれも同じことですよね、結局。それで解決なんかしないと、みんな頭では分かっているのに、メンツが勝ってしまう。あそこで、今、本作で描かれていたようなことが現実に起きているのだと想像する方が、恐ろしい。恐ろしい、と言っているだけで、何もできない、しない自分も、確かにここにいるわけで。せめてアベベには、有志連合に参加するなんて勇ましいこと考えず、いかに戦力でない方法で解決の糸口を探るかを考えて我が国の立ち回り方を示していただきたいものです。ま、ムリでしょうが。

 





思ったほどの衝撃はなかったけど、悲惨な内容です。




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スリー・モンキーズ(2008年)

2015-11-28 | 【す】



 トルコのある町に住む、夫婦と息子の一家。極貧ではなさそうだけど、裕福ではないみたい。ある晩、町の政治家セルヴェットが交通死亡事故を起こすが、セルヴェットは、一家の主、つまり夫であるエユップに犯人の身代りを頼む。エユップはセルヴェットの運転手らしい。そして、エユップはその依頼を金と引き換えに受ける。

 息子は(大学の?)受験に失敗し、浪人中なのだが、母親ハジェルに車が欲しいとねだる。ハジェルはセルヴェットに金を無心に行くが、それをきっかけに、なんと、二人は不倫。

 家族はどんどんおかしな方向へ進むのだが、、、、。
 
 
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 昨年のカンヌでグランプリを獲った『雪の轍』を監督したヌリ・ビルゲ・ジェイランという人の作品。ある方のブログで絶賛されていたので、ちょっと見てみようかと思いました。2時間弱だから短めだし。

 、、、で、見終わって、正直なところ、うーーーん、という感じです。雰囲気は嫌いじゃないけど、ちょっとね、、、カッコつけてる映画、という感じを抱いてしまいました。

 タイトルは、いわゆる“見ざる、聞かざる、言わざる”の三猿、ってことでそのまんまです。でもまあ、この一家が当てはまっているのは“言わざる”だけじゃないですかね。息子は母親の不倫を見ているし、夫も出所後の妻の様子がおかしいことを不審に思って聞いています。だけど、肝心なことを皆が言わない。

 そもそもこの作品が“言わざる”だもんねぇ、、、。セリフは少ないし、画だけで見せようという意図が伝わってきます。それは別に構わないんだけど、間が悪いというか。不必要に長い間が多すぎると思うのです。それは、展開の速い映画を見慣れているからだ、と言われるかもですが、冗長と言われがちなクストリッツァの作品とか、ものすご~く一見ムダにワンシーンが長いんですが、これはちゃんと意味があると分かりますし、アルトマンの一見ダラダラ展開の間とかも、ちゃんと意味があるというか、計算されている。でも、本作のこの間は、あまりそれが感じられないのです、私には。

 まあ、この間が、この家族の三猿的なもどかしさを醸し出しているとも言えましょうが、それも安易な気がするし。

 息子が駅で吐くシーンとか、やたらハジェルの携帯が何度も鳴るシーンとか、息子と母親のとりとめのない会話の長いワンシーンとか、もちろん、意味が感じられるシーンもあるんですけど。なんか、このムダに感じる間が、妙にカッコつけてるように感じた最大の理由です。

 しかし、トルコでは、身代りで刑務所に入ることって、そんなに珍しくないんでしょうか。終盤、息子が犯した罪について、エユップは身寄りがなく貧しい知り合いの青年を身代りに立てて服役させちゃうんですよ。自分がしたことを、他人にも平気でさせちゃうのです。この辺はちょっと??です。

 あと、一番イマイチだと思ったのは、話の筋が読めちゃうこと。ほとんど内容については予備知識なく見たんですけど、こうなるのかな、と思った通りに話が進んじゃった。ラストの息子に身代りを立てるのも、もしかして、、、? と思ったら、本当にそうなっちゃうし。意外性ゼロって、制作側の完敗だと思うんですけれど。いかが? もう少し、人に見せることを考えて作ってほしい、と思う。

 別にストーリーがベタでも良い映画はたくさんあるし、意外性だけが基準にはならないけれど、でもねぇ、、、本作については、ベタというより、ありきたり、類型的、という言葉が当てはまる気がします。それをカバーするために、この間の多い演出だとしたら、なおさら、いかがなものか、って感じです。

 しかし、母親の不倫、しかもまさにベッドで脂ぎったオヤジと絡んでる場面を目撃しちゃった息子の気持ちって、どんなでしょうか? 私だったら、もう、母親と同じ空気吸うのも嫌だと思いますが、、、、。その辺は、息子と娘の違いでしょうか。

 あと、この家族には、一人、亡くなった方がいるんです。それは、息子の弟だと思われます。その弟が出てくるシーンが2つほどありますが、これが結構コワい。そう、このシーンだけは意外だったかな。意外性ゼロではないですね、正確に言えば。何とも言えないゾッとするシーンでした。

 映画友は『雪の轍』に興味抱いていたけど、私はもともと長い映画はあんまし得意じゃないし、本作を見て、さらに見る気が失せたかも。







予想通りに展開するオハナシが少々退屈。




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放浪の画家 ピロスマニ(1969年)

2015-11-24 | 【ほ】



 グルジア(現ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニの半生を描いた作品。あらすじは、、、書き様がありません、悪しからず。

 1978年に日本で公開され、今回、グルジア語オリジナル版がデジタルリマスターされ、初公開時と同じ岩波ホールにて再上映されることに。

 余談ですが、貧しい画家と女優の悲恋を歌ったとされるあの“100万本のバラ”の歌のモデルが、このピロスマニだそうです。
 
 
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 初日の初回に行ったので、冒頭、支配人・岩波さんのご挨拶がありました。初日はこういうのがあるので良いですね。客層は、ハッキリ言って年齢高め。同い年の映画友と2人で行ったんだけど、私たちより若者と思しき方の姿がほとんど見当たりませんでした、、、。しかもかなりの人。初公開時にご覧になった方々が、リバイバル上映でいらしたんでしょうかね、、、。ま、余談ですが。

 しかし、、、なんかもう、画家の映画でハッピーなのって思い当たらないですけれども、本作も例外でなく、どツボな不幸映画です。

 ピロスマニ(本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ)は、周囲からは“ニカラ”と呼ばれていて、彼は画家として一定の尊敬は集めてはいるのですが、何しろ、人間として不器用というか、正直すぎるというか、とにかく何かと上手く行かずに、どんどん孤独への道を歩んで行ってしまうのです。

 冒頭からして不穏さ全開。聖書の一節が読まれている声をバックに、美少女が病気なのかベッドに横たわり、奥の部屋には女性が3人座っており、一人は「姉同然に接して来たのに、、、」と言って、よよと泣いている。どうやら、この女性は、ピロスマニの義姉らしく、ピロスマニはこの家の養子だったということらしい。その義姉にラブレター書いちゃったんですね、彼は。で、家を追い出される。

 その後はまあ、あれがあってこれがあって、歌のモデルになった女優さんが歌って踊っているシーンもあり、その間、ピロスマニはどんどん風貌がやつれて老い、病的になって行き、終盤は穴倉のようなすまいで孤独に絵を描いて暮らしているところへ、馬車に乗った男がお迎えにやってくる、、、でエンドマークです。

 、、、え? これで終わり? 的な、バッサリ感。ひゃー、ちょ、ちょっと待ってよ、つまりあのお迎えは、本当の意味でのお迎えだったのか? ピロスマニは死んじゃったんですか? と思っている間に、エンドロールもなく劇場は明るくなってしまいました。古い映画にはこういう、バサッと終わるの、割とある気がしますが、、、。ものすごい置いてけぼり感、、、。

 彼の絵もふんだんに出てきまして、私の好きな感じの絵ではないけれど、面白い絵が多いなと思いました。特に、途中で、ピロスマニが友人と一緒に始めた乳製品のお店の看板に掲げられていた黒い牛と白い牛の対になった絵とか。砂漠みたいなところにぽつねんと立っているお店の建物に、その牛の2枚の絵が、入り口を挟んで向かい合って掛かっているのが、絵的にとても印象に残ります。

 ピロスマニ、良く言えばすごいマイペースなんですよ。というか、これは正確に言えば、ただの自分勝手。商い中に、店を飛び出していったかと思うと、干し草を買い込んできて地面に敷くと、そこに寝転がったりとか。、、、は? な描写が一杯。

 かと思うと、ピロスマニを支持していると思われる大男が店に入ってきて、ピロスマニを侮辱するようなことを言う人にブチ切れたかと思うと、いきなり店のテーブルをひっくり返すとか。、、、え、何で???そこで急にテーブル返し、、、?みたいな。

 説明シーンが一切ないので、予備知識がないと、ちょっと分かりづらいところは多々あるかなぁ、と思います。

 が、なんというか、作品全体を覆うどよよ~~んとした空気感と、ピロスマニの個性的でユーモアさえ感じる絵が、うまい具合にギャップを醸し出し、おまけに書いてきたように意味不明な唐突な展開のシーンが時折はさまれると、何だか、好奇心だけで最後まで見せられてしまいました。面白い、というのとは違うんだけど、何と言うか、“何なん、このピロスマニって人!!”という、おかしな感じに支配されました。

 まぁ、画家ってやっぱり、ちょっとヘンでないとなれないし、続かないんでしょうね。あらゆる方面の感覚がバランス良く育っていたら、画家になんてなれないんじゃないかしらん。どこか、尖がっているから人と違うものを見たり感じたりでき、それを絵に表現できるのだと思うので。そうしてみると、安定と平凡の上に成り立つ一般的な幸せ、なんてのは彼らの対極にあるわけで、どうしたって不幸映画にならざるを得ないんだよなぁ、、、と妙に納得したのでした。

 結婚式のシーンがあるんですが、そこで老人がその体からは想像もつかない朗々とした声で歌を歌いだします。それに続いて奏でられる音楽はグルジア伝統のポリフォニーだそうです。この宴会のシーンが一番、平常心で見られたかな。後は、??か、!!の連続でございました。






画家映画は不幸映画。




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築城せよ!(2009年)

2015-11-20 | 【ち】



 21世紀の愛知県豊田市猿投町に、なぜか武将たち3人が突如現れる。彼らは、遡ること400年前の戦国時代、猿投城を築いている途中に無念の死を遂げた武将たちの怨霊が、現代人の体を借りて現れたのだった。

 殿様・恩大寺隼人将は、うだつの上がらない町役場の役人・石崎祐一(片岡愛之助2役)に、恩大寺の家臣・猿渡勘鉄斎は大工・井原勘助(阿藤快2役)に、家来・権太夫はホームレス(?)の男・ゴンに、それぞれ憑依した。しかし、彼らには時間がない。すると、殿はゴンが段ボールハウスで暮らしているのを目にし、「何じゃこれは!」と段ボールに目を付ける。そして、段ボールで城を作ることを思い付く。

 かくして、現代に生きる猿投町民を巻き込んでの築城が始まるのであった、、、ごーん。
 
 
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 大分前に、ネットで本作の存在を知り、げげっ!! となりました。なぜって、猿投は、私が大昔の一時期を過ごした隣町だったのでございます。猿投温泉が舞台と聞き、しかも戦国武将が出てくるとなれば、そりゃぁ、あーた、きっと猿投山も、猿投神社も出てくるだろう! こりゃ、見なくっちゃ、と思ったものの、まぁ、正直見るのが怖かった、ってのもありまして長らくレンタルリストの下位に沈ませていたのでございました。

 まずは、ガッカリした点を。

その1:猿投山も猿投神社も出てこないじゃん、、、ガックシ
 いやぁ、これはかなりガックシ度が高いです。正確には知らないのですが、猿投神社は日本武尊の双子の兄だかが祀られている、それなりの神社ですし、猿投山はその日本武尊の双子の兄だかが葬られた山だそうで、地元ではどちらも結構崇められていたのです。あの辺りの人々は、初詣と言えば猿投神社、遠足と言えば猿投山、みたいに、とてもとても土着のものなのに、それが本作ではかすってもいないってのは、ちょっとねぇ、、、。戦国時代なら、もうどちらもあったわけで、現代人よりはよほどその存在は大きかったはずなのに。城からの眺めをCGにするんなら、猿投山を入れないでどーするよ、、、と言いたい。もうちょっと地元の地理を研究していただきたかったですねぇ、、、。

その2:三河弁がほとんど出てこないんですけど!!!
 こりゃ、ガッカリいうより怒りだわ。猿投で生まれて育った殿さまが、家来まで、何で標準語喋っとんの? たわけぇ~。ウソ演ったらかんわ。馬場町長も、猿投の人間でしょう? ぜーんぜん三河弁話しとらんがや。おかしいでかんわ。愛工大の学生も、何気取っとるの、標準語なんか喋ってまって。ちゃんと三河弁でやらなかんじゃん!! ぜーんぜんリアリティなんありゃせんわ!!!

その3:あの猿投玉って何?
 私には柿に見えたんですけれども、あの辺の名産品として、あまり柿は順位は高くないと思うのですが、、、。梨か桃なら分かるんですけど。何で柿なんでしょーか? 、、、謎。

 ……というわけで、いきなり文句を並べ立てましたが、映画としては、結構面白かったですよ。ヘタにその場所をよく知っているもんだから、つい文句が言いたくなるだけで、知らなければ上記3つのことはゼンゼン気にならないことです。

 過疎の村という設定ですが、過疎っていうほど過疎じゃないと思いますけれど、、、。まあ、私は、もう少なくとも10年は足を踏み入れていない地なので、今現在の状況は分かりませんが、本作の制作年は2009年でしょ? 私が知っているのは2005年くらいまでなんで、4年後にいきなり過疎になっているとは思えないんですよねぇ、、、。

 なぜなら、あそこは「豊田市」だからです。そう、企業城下町。トヨタのおかげで豊田市は超お金持ちなんですよ。だから、過疎で困っている、というのはあり得ない、、、と思うんですけれど。確かに、高齢化は進んでいるでしょう。しかし、それは猿投だけの問題じゃありませんからねぇ。“ド”のつく田舎であることは間違いないですが、あの辺一帯は(トヨタ)車社会。田舎だろうが、ド田舎だろうが、ゼンゼン問題ないのですよ。

 ……と、またまた地元のリアルな話をしてしまいました、、、。

 本作の成功(?)のポイントは、殿に愛之助さんを起用したことですね。昨今お騒がせの君ですが、さすが歌舞伎役者、殿に憑依されてからの演技は堂に入っていました。「築城せよ~~!」と軍配を掲げたシーンは、素晴らしかったです。本物のトノに見えましたもん。段ボールに目を付け、近隣に段ボール探しに殿自ら行くのですが、ある場所で山積みの段ボールを見つけた殿のセリフ「このダンボ、どれくらい集められる」(だったかな、正確じゃありません)の、「ダンボ」が笑えました。愛之助氏が大真面目に言っているのが余計に可笑しい。

 そして、脇を芸達者が固めたのも良かったです。敵役の馬場は江守徹さんでなかなかピッタリ。彼、お歳のせいでしょうか、ちょっと滑舌悪いです。今の大河ドラマでも感じますので、多分、さしもの江守氏も寄る年波には勝てぬ、ということでしょうか。それはそれで味わいがありますが、かつての姿を知っているとつい比べてしまって寂しいです。

 さらに、阿藤快さんです、、、。本作を見た翌日に急死されてしまい、ものすごく驚きました。つい最近も、「下町ロケット」に出ていたし、確かちょっと前には「ケータイ大喜利」にも出ていたような。本作でも、アクの強い家臣を大真面目に演じていらっしゃいました。悪役が上手い役者は素晴らしいと常々思っているんですが、阿藤さんは悪役がよく似合って、でも善人演じたら本当に善人に見えて、、、惜しい人がいなくなってしまわれました。

 あと、ストーリー的にも、なかなかよく出来ていると思います。馬場町長も、ちゃんとご先祖が殿とつながりがあったり、建築史が専門の大学教授を戦国時代の人間と現代人をつなぐ存在にしていたり、、、上手いなぁと思います。

 何より段ボールで、本当に城を作ったってんですから、凄いです。メイキングも見ましたけど、かなり大変だったようで。そらそーだよなぁ。

 まあ、そこかしこで低予算作品というのは隠せませんけれども、アイデア次第で面白い映画は作れるんだ、ということを実践して見せてくれた意欲作だと思います。もう少し、地元をよく知る人間も納得できる、猿投の描き方をしてくれていれば、あと2つくらいを献上したのですが、、、。





“猿投”は足助と並んで愛知県でも田舎の代名詞です。
でも良いところよ




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FRANK フランク(2014年)

2015-11-17 | 【ふ】



 いつかは売れっ子ミュージシャンになることを夢見ているジョン(ドーナル・グリーソン)。ある日、行きがかり上、あるバンドの自殺未遂したメンバーの代理を務めることになったジョンは、そこで素晴らしい才能を持ったバンドリーダーのフランクに出会う。

 が、このフランク、精神的な疾患(?)から、いかなる時も素顔をさらすことが出来ずに、妙なハリボテの被り物をしているのだった。バンドのメンバーでさえ、彼の素顔を見たことがないという。

 そのバンド、レコーディングにのための合宿(?)に、ジョンを代理のまま連れて行く。ジョンが入ってきたことで、それまで保たれてきたバンドのバランスが崩壊し始める。そして、遂に、フランクは、名実ともに壊れてしまう。

 うーーん、正直、こういうのは苦手。 

 
 
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 もうね、お分かりだと思いますが、フランクを始め、バンドメンバーは皆、メンタルに問題を抱えた人ばかりです。バンド自体が病んでいるのです。当然、奏でる音楽も、何だかなぁ、、、というものばかり。正直、このバンドの音楽で、唯一聴けたのはラストの音楽だけでした、私は。後はもう、良さがさっぱり分からない。

 ジョンは夢はあるけど才能がまるでナシ男くんなんです。でも、彼は精神的には健全というか、いわゆる常識人、フツーにイイ人。一方、フランクは、大それた夢なんか持っていないけど才能は一応ある。飽くまでも“一応”ね。世間を見渡せばフランク程度の才人は掃いて捨てるほどいるんだけれど、ジョンにはフランクはちょっと眩しく映る。バンドメンバーからも、フランクは一目置かれている。

 言ってみれば、このバンドは、もの凄く“閉じたバンド”なんです。精神的に病んだ人たちが自分たちの世界に引きこもって、自己完結しているグループ。

 そんなところへ、常識人で悪意なきイイ人であるジョンが闖入してしまったものだから、ちょっとヤバいことに。

 閉じたバンドで満足していたのに、ジョンがマトモに「売れること」を考えてあれこれ提案したり、才能もないのに自作曲を披露したり、、、。バンドメンバーにしてみりゃ、ウザいことこの上ないでしょうねぇ、、、。こういう悪意なく人を不快にさせるイイ人って、いるもんなぁ。まあ、一種のKYでしょう。

 でも、ジョンからしてみれば、このバンドの人たちこそ“おかしい”わけです。なぜもっと、表現者として表現者らしく他者に働き掛けないのか? という“アタリマエ”な疑問を抱き、それをちゃんと深く考えもせずに、“これじゃダメでしょ。もっとアピールしなきゃ、もっとウケる音楽作らなきゃ”と勝手に結論を出して、バンドメンバーに熱く訴える。だって、そーでしょ? フツー、売れること考えるでしょ? 何でアンタらそんな自己マンなことしてんの? 、、、てな感じじゃないでしょうかね、ジョンの本心は。本気で疑問に思って、本気でバンドを改革しようとしているのです。

 途中、合宿中に、曲が出来上がって皆が盛り上がった翌朝に、バンドメンバーの1人が自殺しちゃうんですよねぇ。ドンという名前の男の人。このドンが、そもそもジョンをバンドに誘ったんですけれど。しかも、ドンは、フランクの被り物を被って首吊ってるんです(どうやら、フランクの被り物は複数あるみたい)。だから、最初は、フランクが自殺しちゃったのか!? と観客も驚いちゃうんですが、、、。でも、ドンが自殺した理由はイマイチ分からない。おまけに、ドンを勝手に火葬しちゃうんですよ、この人たち。それって、死体遺棄で犯罪じゃないのか・・・?

 それはともかく、なんと、悪いことに、フランク自らが、ジョンの影響を受けて、閉じた世界を自ら壊してしまうのですね。バンドが世間に認知されることを夢見てしまうのです。でも、、、、そんなの広い世界じゃ虫けらみたいなもんだと思い知らされるだけ。結局、自分に跳ね返って来てしまう。フランク自身、被り物が壊れて、逃げ出してしまうことに、、、。

 終盤、被り物を外したフランク(マイケル・ファスベンダー)が、ちりぢりになったバンドメンバーの下へ戻ってきて、イカレた歌を絶叫するんですが、、、。ここでようやく、ジョンは、自分のやっていたことがお門違いも甚だしかったことを思い知り、そっと皆の所から去って行くわけですね。

 まあ、フランクは、思いがけない外的要因で、被り物を脱ぐハメになったんですが、それで結局、殻を破ったことにはなっていないのでしょうね、多分。別に、殻を破る必要はないだろうし、ああいう、閉じた世界で自己完結していることが悪いとも思いません。でも、なんか、私は本作はダメでした。

 まず、2人も自殺(or自殺未遂)する、っていうシナリオが、、、。それも、何が理由かよく分からない自殺です。私、自殺はどうしても生理的に受け入れられないものがありまして、、、。病んだ人たちの閉じたバンド、ってことで、こういうシナリオならちょっと安易すぎる気がするんですよねぇ。

 そして、最大のネガポイントは、フランクその人の人物造形です。被っちゃった原因がハッキリしないのは、まあよしとして、なんというか、被っているときのフランクの性格は、ものすごく尊大&不遜な感じで、被り物の顔がさらにそれを増幅しているように見え、こう言っちゃなんですが、私はあの顔のハリボテを蹴っ飛ばしてやりたくなったのです。フランクの病気がどういうものかハッキリ分からないけど、「てめぇ、甘えてんじゃねえ~~!!」とね。

 多分、それって一番こういう人たちに言っちゃいけない言葉だと思います。

 しかし、フランクは、自分の顔を晒すのが怖い代わりに、あのハリボテを被り、皆の注目を浴びるのは、むしろ快感だったのではないでしょうか。つまり、あのハリボテは、彼の自己顕示欲そのもの、ということです。自己顕示欲を隠そうともしないのは、ある意味、正直で結構ですが、裏を返せば駄々をこねて周囲を困惑させているだけのオコチャマだ、ってことです。

 ちょっと前に、春日武彦の「自己愛な人たち」という本を読んだんですけど、もう、まさにフランクそのもの。自己愛のない人などいませんが、あり過ぎると病気になります。自己愛の塊が、あのハリボテなわけです。途中からもう、だんだん見ていて恥ずかしいやら、いたたまれないやら、、、って感じになってしまいました。

 大体、被り物のせいで流動食しか摂れない男が、何であんなにイイ身体してんのさ。筋肉ムキムキで、おかしくないか? 筋トレしているシーンもあったけど、もしあれが流動食+筋トレの賜物だとしたら、やっぱりフランクは自己愛廚なオコチャマオヤジってことで決定です。

 、、、しかし! な、なんと、、、本作を見終わった後に、ネットで、本作をハルキーが絶賛しているとの記事を見つけまして、つくづく、私は村上春樹とは相性が悪いと改めて思いました。別に私の感性との相性が悪かろうが、彼にとっては屁でもないわけで、どーでも良いんですけど。まあ、彼の小説も、自己愛の塊だもんなぁ、、、。

 最後に、春日氏の本の一部から、、、。

 ~~~自己愛は呆れるばかりに強固であると同時に不安定で、日光を浴びたドラキュラのように脆くもあり、また、身体の一部を切り取られても再生するプラナリアのように「したたか」でもある~~~by春日武彦『自己愛な人たち』(講談社現代新書)より抜粋。





自己愛、、、この厄介なるもの。




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裁かれるは善人のみ(2014年)

2015-11-13 | 【さ】



 ロシア北部の海沿いの田舎町に暮らす一家。夫婦と息子1人。夫婦は再婚で、若い妻リリアは息子ロマの継母である。そして夫コーリャは、市と自分の土地を巡って係争中。何とか裁判を有利に進めたいコーリャは、かつての軍時代の後輩である弁護士ディーマをモスクワから呼び寄せ助っ人を頼む。

 一家の暮らしはつつましく一見平穏だが、小さな火種もある。リリアにロマは反発ばかりするし、リリアはこの田舎での生活に倦怠感を抱いている。一番の問題は、コーリャがそれらの火種に全く気付いていないこと。土地を巡る裁判に全神経が集中してしまっている。だから、ディーマとリリアが不倫関係になってしまったことにも気付かない。

 ディーマはなかなかのヤリ手で、市長の致命的な過去の悪事をネタに交渉を上手く進めるが、逆上した市長はディーマを脅し、モスクワへ帰らせ、いよいよコーリャに牙をむくのだが、、、。そのとき、コーリャ一家も内部崩壊し出していた、、、。

 不幸のオンパレードで、究極的に救いのない映画だけれど、鑑賞後感は意外と悪くないのが不思議。

 
 
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 冒頭の、コーリャの住む町の風景が描き出されるシーンに流れる音楽が、もう不穏さ全開で何だか怖い。町の中では景観も良い一等地だというけれど、そのもの寂しい風景といったら、、、。

 なんかもう、この土地の持つ空気感が、何とも言えず重い。鉛色の空に、朽ちた漁船の残骸、荒れた海、大きなクジラの骨、ゴツゴツした岩礁と断崖、、、と、切り取られるもの全てが心和めないものばかり。一体、これからどんな物語が待ち受けているのやら、、、。と思ったら、コーリャの家に明かりがともって、ちょっとだけホッとなる。

 市長は、見るからに悪人。強欲、自己中で、市長室の壁には若い頃のプーチンの写真が飾ってある。その前で吠える太った闘犬みたいな市長。絵になり過ぎで笑える。

 余談だけど、プーチンさん、数年前から顔変わりましたよね? 腫れぼったくなったというか、目が細くなったというか。若く見せるために何か注入しているらしいですけど、昔のスッキリ眼光鋭い方がカッコ良かったのに。基本的にマチズモ親父は嫌いなんだけど、あそこまでマッチョ全開でやってくれるとむしろアッパレだなぁと感心しちゃう。石原慎太郎なんかプーチンに比べりゃ中途半端でショボいもいいとこ。少しはプーチンを見習え、とさえ言いたくなる。まあ、御年も御年だから大人しくしてた方が良いでしょうけれど。

 この市長の過去の悪事ってのは具体的には何か明かされません。ディーマは「まるでホラー映画だ」と言っていたので、恐らく、何人か殺しているのでしょう。そりゃ、そんなことが表沙汰になったら裁判どころじゃありません。

 ディーマもなかなか男気のあるカッコイイ弁護士だ! と思って見ていたら、案の定、リリアは彼に陥落してしまう、、、。え? なぜ?? と映画を見ている間は解せなかったけど、ちょっと経ってみたら、そりゃそうだよな、と妙に腑に落ちました。我が夫コーリャと比べたり、この町とディーマのいるモスクワを比べたり、とにかく、ディーマが自分をこの泥沼みたいな現実から拾い上げてくれるかもしれない救世主に見えても無理はないか、と。

 が、悪人市長は簡単に引き下がらない。判事、検察官、警察官を抱き込み、ディーマをチンピラを雇って痛めつけるという古典的な方法で脅し、あっさりディーマは脅しに屈してモスクワへ逃げ帰ってしまいます。

 ディーマがいなくなったことで、コーリャ一家は、一気に崩壊へと進んでしまいます。コーリャも土地を市長に買い叩かれてしまうけど、一番キツかったのはリリアだったのでは。リリアの本心は作中でハッキリは分からないんだけど、多分、何もかも捨ててディーマの下へ走るほどの思いもなかったけれど、でも、心の逃げ道にはしていたんだと思う。それが、急にその逃げ道がバッサリ断たれてしまったのだから、これは案外リリアには堪えたと思いますね。リリアが自ら死を選んだのも、何となく分かる気がします。

 コーリャは、家を奪われ、土地を奪われ、妻を奪われ、と、これでもかと不幸が続くんですが、極めつけは終盤です。リリアの死が、なんと、殺人であるとされてしまう。しかも犯人はコーリャだと。冤罪で投獄されるという、想像を超える不条理が待っていました、、、。

 もちろん、これは、市長が裏で糸を引いたのだと、私は解釈しました。作中では明確な描写はないので、見ている人の判断に委ねられます。でも、作品をずっと見てきたら、あれが市長の差し金でなくて何なんでしょう。それが証拠に、あのラストの光景です。金ぴかの教会が、コーリャから奪い取った土地に燦然と輝いて建っているのです。そこで行われた司祭の説教が、もう嘘くさ過ぎで(しかも長いんだ、これが)、呆れて可笑しささえ覚えます。

 、、、と悲惨てんこ盛りみたいなオハナシなんですが、なぜか鑑賞後感は、そこまで悪くないのです。それは恐らく、コーリャたちの日常が描かれるシーンで、時折りユーモアも織り込まれているからだと思われます。

 途中、コーリャ一家とディーマ、そして、コーリャ達と親しい家族たちで“狩猟”に出掛けるシーンがあるんですが、それは野生動物を狩るのではなく、空き瓶を並べて銃の腕前を競う射撃ゲーム。しかも、皆、1発ずつ猟銃で撃っていたのに、ある人は機関銃ぶっ放して全部瓶を撃ち壊しちゃったり。で、次に彼らが「これからが面白いんだ」と言って標的として出してきたのは、レーニン、ゴルビーなどのかつての支配者の肖像写真だったり。このシーンでは劇場でも笑いが起きていました。

 あと、何かというと皆があおっていたウォツカ。コーリャは瓶からラッパ飲み。老若男女、皆、飲むわ飲むわ。ロシア人の体、ちょっと違う構造なんじゃない? と思うくらい。あのシーンで、観客もちょっと酔わされて深刻さが紛れるのかも知れません。

 そして何より、登場人物の描写が素晴らしい。タイトルは、「善人」なんて入ってるけど、コーリャは別に善人として描かれているわけじゃなく、清濁併せ持ったごくごく人間的なオジサンだし、リリアも、ロマも、ディーマも、皆、多面体で描かれています。権力者=悪、市民=善、の、やるせなさ全開の単細胞ドラマじゃないところが、見ている者に良い余韻を残してくれるのでは。

 本作は、権力の横暴ぶりだけを描いたのではなく、そこにロシア正教を絡めたのがミソです。また宗教ですよ、、、。ホント、困ったもんです、無宗教の人間には。司祭の言っていることとやっていることのデタラメぶりとか、イコンに並べて女性のヌードの写真が飾ってあったりとか、もう、頭が痛くなる。コーリャが、神はどこにいる? と言いたくなるのも道理です。

 よくぞこれがロシアで上映禁止にならなかったものです。プーチンも、余裕あるところを見せたかったのかな。

 コーリャを演じたアレクセイ・セレブリャコフ(舌噛みそう)という俳優さん、50過ぎの渋いイイ男です。顔の皺も、ただの皺じゃなくて人生が刻まれている顔で、イイ味出しています。ウオツカの瓶がすごくよく似合う。リリアのエレナ・リャドワさんは美人、色気もアリ、まあ、男ならクラッとくるでしょうなぁ。無表情でもちゃんと感情が現れている演技が素晴らしい。ディーマのウラディーミル・ヴドヴィチェンコフさんはゴツいけど、まあまあ洗練された感じをうまく出していました。なんと、本作撮影後に、エレナさんと結婚したとのこと、、、。本気で惚れちゃったんですね、まあ、分かります。






あんなにウオツカをがぶ飲みして、ロシア人は肝硬変にならないんだろうか。




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ヒトラー暗殺、13分の誤算(2015年)

2015-11-09 | 【ひ】



 大戦前夜の1939年11月のある晩、ヒットラーはミュンヘンのとあるビアホールで演説していた。その頃、ドイツとスイスの国境であるドイツ人男性がドイツ兵に見つかる。男性はゲオルク・エルザー。地図や何かの設計図を持っており明らかに不審者であることから捕えられ、尋問を受けることに。

 尋問を受けるエルザーはしきりに時計を気にする。そして、9時20分。エルザーは一瞬の恍惚にも似た表情を浮かべ、ミュンヘンのビアホールでは大爆発が起きる。しかし、その13分前に、ヒットラーはビアホールを去っていた。この爆発を仕掛けたのは、エルザーで、ヒットラーが13分早く立ち去ったのは、悪天候による予定変更のためだったが、こうしてエルザーの完璧に計算されたはずのヒットラー暗殺計画は、あっけなく失敗に終わる。

 エルザーは一介の時計職人。共産党員でもないノンポリ音楽愛好家のプレイボーイ。彼がなぜ、、、?

 邦題のセンスが悪過ぎる。作品の趣旨がゼンゼン違う。原題の『Elser』が作品を素直に語っていると思います。
 
 
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 多分、この邦題のせいで、もっと違う内容を期待して見に来た人も多いと思いますね。私も新聞で紹介記事を読んでいたけれど、もう少し、暗殺計画にもフォーカスした話かと思っていました。

 だからといって、それで作品にガッカリしたということは全然ありません。むしろ、こういう作品は好き。本作は、この暗殺計画をたった一人で計画実行したゲオルク・エルザーという男性にフォーカスし、彼がどういう経緯でそこに行きついたのかを辿る、かなり地味な作品です。

 なので、『ワルキューレ』みたいのを期待して見に行くと、かなりハズレ感を受けるかも知れません。

 本作自体はそんなことはないのだけど、エルザーをドイツでは英雄扱いする向きもあるそうです。しかも、ドイツの戦況が悪化する以前の戦前~開戦直後に起きた暗殺未遂事件、ということで、エルザーにはヒットラーやナチスの本質を見抜く鋭い眼力があった、という評価だそうです。

 まあ、それは一面的には理解できなくもないけど、所詮は暗殺計画であり、私としては、正直、エルザーの行動を賞賛する気にはゼンゼンなれません。確かに、この暗殺計画が成功して、ヒットラーが1939年に死亡していたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。もしかすると、ホロコーストの拡大も防げたかも知れない、とか。、、、でも、それは飽くまで仮定の話でしかなく、結果が吉と出たか凶と出たか、誰にも分からないことです。

 なので、本作は、事実を淡々と、エルザーの目線で、、、というより、私的にはエルザーを尋問した刑事警察局長のネーベの目線もかなり入っていたように感じましたが、、、、とにかく、かなり抑制的な描写がされていて、真摯に作られた作品だと思います。

 その割にの数が少ないのは、映画の作品として言えば、まず、エルザーを演じたクリスティアン・フリーデルという俳優さんがちょっと苦手なタイプだった、ってことと、彼の元婚約者エルザが同じ女として大嫌いなタイプだった、ということが非常に大きいです。

 実際のエルザー氏は、スッキリ、シャープな感じのするかなりの美男子です。これで、職人、ノンポリ、音楽に長けていたとなれば、女性にモテモテだったのもすごくよく分かる。が、演じたフリーデルさんはちょっと、、、こう言っては失礼だけどシャープさに欠けるし、スマートさがまるでない。決して頭が悪そうには見えないけど、、、なんかね。こんな大それたこと一匹狼でやり遂げちゃうようなトンデモなさを持つ神秘性は感じられません。これが私にとってはかなり致命的でした。アコーディオンの演奏シーンといい、ダンスのシーンといい、キマってない、イケてない、、、、って彼のファンの方々、いらっしゃったらすみません。

 実際よりイケメン過ぎるってことは実話モノにはよくあるけど、実際よりイマイチってのは、、、ちょっとねぇ。少なくとも不特定多数の人々が鑑賞するものなんだから、やっぱりドラマ性を盛り上げる意味でも、ビジュアルにはもう少し拘ってほしいよなぁ、と思っちゃう。

 そして、エルザですが、、、。エルザーの元婚約者のエルザ。なんかややこしい。この人、エルザーと出会ったとき、子持ちの人妻なんですね。まあ、それは別にイイんですけど、そのダンナってのが、まぁ、もうホントにサイアクな男で、、、吐き気がするほど。この辺の設定は脚色されているかもなので、実際のエルザがどんな女性だったか知りませんが、飽くまでも本作でのエルザは、言ってみれば、ダメンズ&下半身が緩い&男に(精神的に)どっぷり依存&自己中、とまるで魅力の理解できない女性像なんです。男性から見たら魅力的なんですかねぇ、こういう人。演じていたのはカタリーナ・シュットラーという女優さんで、まあ、美人ではあるけど、私はあんまし好きな顔ではありません。ちょっとキツ過ぎな感じ。

 というわけで、本質とは別の所で思いっ切り好みでなくなっちゃったのですが、作品の中身について言えば、エルザーがどうしてあんな大それたことをしでかしたのか、という明確なものは、当然と言えば当然だけど、描かれてはいません。でも、私は、だからむしろリアリティを感じたというか、、、。彼は、ノンポリだったからこそ、シニカルで、ヒットラーやナチスの胡散臭さ、危うさを感じたんだと思う。映画小屋で人々がナチスのプロパガンダ映画を見て熱狂している姿に、、、理屈じゃない何か、を肌で感じたのでしょう。理屈的にも十分危ないですけれども、もう、生理的に許せないものがあったのではないか、と私には感じられました。こんだけ、身近な人々を不幸にしていく社会っておかしい、という単純な思いも当然あったでしょうし。

 そして、彼は、ノンポリだからこそ、○○主義を掲げた可動性の悪さもよく分かっていたんでしょう。集団ほど厄介なものはない、と。個の力など知れているけれど、可動性は高い。自分さえ決断すればよいのですから。そして、彼には、ヒットラー暗殺しか方法が思い浮かばなかったんでしょう。冒頭、賞賛できないとは書きましたが、私が彼でも、やはり結論はそこに行きつくような気がします。

 でもまあ、信念を持っての行動、というのなら、イスラム過激派の自爆テロだって、別の側面から見れば同じことです。そう、彼のやったことはテロです。だから、やっぱり賞賛する気にはなれないし、私だったら、彼のように実行する行動力もなかったでしょう。

 恐らく、ヒットラーやナチスに対してエルザーと同じ見方をしていたドイツ人は他にもたくさんいたはずです。しかし、多勢に無勢、なす術ナシだったのでしょうか。歴史を知る現代人はこれらのことから学ばないといけませんよね、、、。

 ナチス及びヒットラーにしてみれば、こんな大爆発を、一市民がたった一人で実行できるはずはないと思い込み(ある意味、当然だと思う)、徹底的にエルザーを拷問にかけ自白させようとするわけですが、この拷問シーンが短いんですけど、私はほとんど正視できませんでした。これは、恐らく実際の拷問に比べればほんの序の口だと思いますが、それでも凄惨極まりないです。グロいのが苦手な方、ご用心。






エルザーをトーマス・クレッチマンが演じたら良かったのになぁ
(ちょっと年齢が上過ぎるか)




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ワルキューレ(2008年)

2015-11-05 | 【わ】



 第二次大戦末期、ナチスの総統ヒットラー暗殺及びクーデター計画が、軍内部で進行していた。果たしてこの計画は成功するのか? ・・・って、失敗したことは現代人ならみんな知っている。ならば、この一大クーデターが、本作ではどう描かれたのかが見もの。

 それにしてもヒットラーは悪運が強い。

 
 
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 『ヒトラー暗殺、13分の誤算』を、近々、見に行くつもりだったので、たまたまタイミングよくBSでオンエアしていた本作を参考までに見てみました。

 まぁ、映画の内容云々を言う前に、本作はそもそもダメだな、と思っちゃいました。だって、ドイツ軍の幹部たちを、英国を代表する俳優陣が演じているのですよ? おまけに主人公はハリウッドの顔みたいなアメリカ人俳優トム・クルーズです。しかも全編ほぼ英語。なんじゃこりゃ、です。ドイツでは大ブーイングだったらしいけれど、当たり前だわね。

 これは、例えて言えば、『日本のいちばん長い日』を、中国と日本の共同資本で、主役たる阿南大臣をトニー・レオンが演じ、しかも全編中国語で撮影された、みたいなもんじゃん? トニー・レオンでご不満ならば、誰でもイイですよ、とにかく中国の顔みたいな俳優です。でもって、天皇を渡辺謙とかが演じていて、しかも発するお言葉は中国語なわけです。おかしいでしょ、それ。そんな映画、日本人が素直に見られますか? 冷やかしで見るならありだけど、作品自体は大真面目なんですからねぇ。やってらんないですよ、そんなの。リアリティもへったくれもあったもんじゃない、でしょ。

 トムクル主演って分かってて見たんだろ、と言われればそれまでですけど。日本語吹き替えで外国映画を見たら、全部だめなのかよ、というのも当たらない。もちろん、吹替えで見ることで変わってしまうことは多々あるだろうけど、翻訳のため、という大前提が見ている者にもあるわけで。だから、やっぱし本作はアカンと思う。どうしてもトムがシュタウフェンベルクを演じたいというのならそれはそれ、演じてもいいけど、言葉はドイツ語でやれよ。それが出来ないんなら、せめて吹替えでドイツ語を後から被せろ、って思う。

 ドイツ側も、よくこんなの許したよなぁ、、、。日本ならあり得ないでしょ、これはさすがに。この制作側の姿勢は、ドイツに対する敬意とかまるで感じられない。彼の国の尊厳を端から踏み躙っているとしか思えない。ナチスをやっつける映画だし、そもそも義は連合国側にあったのだから蹂躙してもかまわんと、チラリとでも思っていたのではないか、と疑っちゃいますね。

 こういうのって、やっぱり英語圏の人間の傲慢さだと思う。英語こそ世界語!!と信じてるんでしょうねぇ。だから、ドイツ語で演じる意義をまともに考えもしないんでしょ。でもさぁ、言語って、その国の思想の原点みたいなもんだから、実はもの凄い重大な要素なんですよ。人間、誰でも思考ってのは母語でするものです。どんなに外国語をネイティブのように喋れる人でも、思考は母語でしているのです。でも、英語圏の人間にはそんなのカンケーねぇ。なぜなら、自分たちの母語が世界の共通語だから。母語が一番価値ある言葉で、あとの言語はいわば二流語。母語だけでなんでもかんでも罷り通ると勘違いしている人々なんです。それが証拠に、日本に来たアメリカ人も英国人も、平然と、堂々と、英語で道を尋ねる。日本人がNY行って日本語で道尋ねますか? それくらい、英語が母語の人々は、こと言語に関して言えば、傲慢そのものだと思います。言葉が持つその地域の文化や歴史、人間性、価値観、そういうものを片っ端から英語というブルドーザーでなぎ倒していくのです。

 本作を見て一番感じたのはそこでした。なので、作品自体については、史実を丁寧になぞっただけの作品、という印象です。

 現代人は皆、もう、史実というか、成り行きを大筋では知っている訳ですから、せっかくなら、暗殺実行からクーデター失敗に至るまでを、もう少しドラマチックにスリリングに描いてほしかった。上手く行きかけたと思ったが、一気に形勢が逆転していくサマをドラスティックに描けたら、もっと面白かっただろうな、とは思います。

 とはいえ、やっぱし、書いてきたとおりで、どんなドラマチックな展開であれ白けた見方しか出来ないので、あんまり映画として素晴らしく作られても、それはそれで納得いかないような気もするし。、、、というか、しつこいようだけど、本作は英語でやっちまおう、と決めた時点で、映画としては二流路線が決まってしまったとしか思えません。軽い、薄い、淡泊、面白くない、、、それらは全て、その出発点で既定路線だったのです。

 というわけで、本作にはまるで入り込めませんでした。本作がお好きな方、すみません。






言葉は大事。




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ファントム オブ パラダイス(1974年)

2015-11-03 | 【ふ】



 見た目は冴えないオタク系だが才能はあるウィンスロー(ウィリアム・フィンレイ)は、自分の曲を売り込もうとしてライブハウスで歌っていたところ、伝説的プロデューサーとして名声を確立しているスワン(ポール・ウィリアムス)の目に留まる。そして、まるで悪の化身かのようなスワンに曲だけ奪われ、騙され、刑務所送りにされてしまうウィンスロー。

 服役中にスワンが自分の曲をスワンの名で世に出そうとしていることを知り、狂ったように脱獄するウィンスローは、その足でスワンの経営するレコード会社に乗り込み曲を奪い返そうとするが、不運な事故に遭い、顔と声を潰される。

 その後、仮面をつけたウィンスローはファントムとなって、スワンに復讐をしようとするのだが、スワンに正式な契約を結ぼうと持ち掛けられる。その契約は、もちろん正式でも何でもなく、ウィンスローをさらなる地獄へ落とすものであった。スワンはどこまでも悪魔だったのだ。

 果たしてウィンスローの無念は報われるのか、、、?

 
 
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 大分前に何気なく録画してあったものを、何の予備知識もなく見ました。いや~、なんだかエラいもんを見てしまった、という感じです。

 デ・パルマ作品は、そんなに数は見ていないけれど、見たものはどれもそれなりに好きです。本作も、まあ、ノリはあんまし好きって感じじゃないけど、なんか見始めたら目が離せなくなっちゃいました。

 本作の一番の見どころはウィンスローを演じた、ウィリアム・フィンレイでしょう。特に、仮面をつけた後の片目だけの演技は凄まじい。キモいし、こ、、、コワい。対するポール・ウィリアムスもキモさでいけば、かなりのもんです。この2人の醜い闘いが、毒々しい描写で終始描かれるという、、、。

 タイトルからもお分かりの通り、前半は、「オペラ座の怪人」の、ブラックパロディというところでしょうか。合間に「ファウスト」が挟み込まれ、終盤は「ドリアン・グレイの肖像」がモチーフになっているみたいです。スワンの顔が溶けていく終盤は、キモいというより、笑えます。

 、、、こういう、ウィンスローみたいな才能はあるけれど、押し出しが悪くて損する人って、実際ショウビズの世界には多々いるだろうな、と思われます。才能がなくても見た目の良さだけでどうにかなっちゃっている人もいるわけで、ウィンスロー型人間から見れば、そういう人たちは許せん存在かも知れません。でもまあ、音楽について言えば、ルックスがイマイチでも音楽の才能だけで評価される人も大勢いるし、やはり、出会いを含めて運ですかねぇ、、、。

 そういう意味では、ウィンスローは、とことん運に見放され、、、どころか、邪悪な人間の餌食になって才能を食い潰されるという、不条理極まりない成り行きです。そら、ファントムになってでも、不条理を正したい、と執念を燃やすのも分かります。

 プロデューサーっていうと、パッと思い浮かぶのが、秋元康という名前なんだけど、秋元さんがスワンみたいな悪魔とは思いませんが、やはり剛腕プロデューサーってのは、どこかでかなりアーティストに厳しいこと迫って追い込んでいるとは思うんですよね。かつてのおニャン子しかり、AKBしかり、アイドルは消耗品、と割り切っているとしか思えないそのやり方とか、、、。どうしても、私は彼のプロデュースするアイドルたちを好意的に見られないのです。というか、ちょっと可哀想とさえ思ってしまうというか。だから、スワンを見ていて、秋元さんの顔が浮かんじゃってどうしようもなかったです

 ウィンスローのミューズ、フェニックスを演じたジェシカ・ハーパー、可愛いし、歌も素晴らしい。口パクには見えませんでしたが、どうなんでしょう。冒頭のウィンスローが歌っているシーンはどう見ても口パクでしたが、、、。フェニックスの低めのアンニュイな声は、ウィンスローの曲にピッタリです。この歌のシーンもグッとくる要素の一つです。

 2人の壮絶(?)な闘いは悲惨な結果になるのですが、さらに、そこへラストに流れる曲の歌詞が、「才能がないなら死んじまえ」とか「生きていたって負け犬」とか、、、まさにトドメを刺すわけで、ここまでくると笑っちゃいます。

 初期の作品らしく、粗っぽいけどぶっ飛んでいて、エネルギーが炸裂していて、見ている者を圧倒するパワーがあります。本作に比べれば、『アンタッチャブル』なんてすんごいフツーの映画ですよね、マジで。

 私としては、まぁそこまでではなかったんですけれど、、、熱狂的なファンがいるというのも納得の作品であります。






スワンは、マモーのモデルだって。道理で似ている訳だ。




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白い沈黙(2014年)

2015-11-02 | 【し】



 裕福とは言えないが、夫婦と娘、仲良く平凡に幸せな生活を送っていたが、ある日、娘カサンドラ(=キャス)のフィギュアスケートレッスンの帰り、マシュー(ライアン・レイノルズ)はいつものように帰り道にあるダイナーに寄ってドーナツを買おうと、キャスを車に一人置いてダイナーに入って行った。ものの数分で車に戻ると、キャスは忽然と姿を消していた、、、。

 キャスは一体どこへ? コトの真相はいかに?

 
 
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 新聞の評を読んで、見てみようと思い劇場まで行ってきました。同じ劇場で『ヒトラー暗殺、13分の誤算』も上映中で、どっちにしようか迷ったんですが、まずは本作から。『ヒトラー~』はまた次回。

 で、新聞評からは、サスペンスものだという印象で見に行ったんですが、これはサスペンスというより、スリラーと言った方が良いかもです。なぜなら、キャスの行方不明の真相は、本作中の早い段階で明かされるからです。本作の中では8年の歳月が経過した、ってことになっているんですけれど。

 良質なサスペンスを期待して見ると、これはかなり腹が立つ作品でしょう。カンヌで大不評だったというのも納得です。でも、私は、割と最後まで飽きずに見ることができました。

 以下、ネタバレバレです。

 言ってみれば、本作は、“のぞき”の世界です。監督は“監視”と言っているけど、覗きの方がしっくりくると思います。

 まず、キャスは長らく児童ポルノ愛好家集団の一味に監禁されていて、多分、幼い頃はその姿態を隠し撮りされた映像が、変態集団に配信されていたのだと思われます。つまり、変態集団の覗き対象にさせられていたキャス。

 そして17歳になって、そっち方面では用済みになったのか、今は、監禁は継続中ながらも、児童ポルノへの勧誘をさせられているキャスです。勧誘するのは、家庭や親への不満を持つ少女たちが覗きに来る、変態集団が運営している一見合法なサイト上。

 他には、母親のティナがパートで働いているホテルの部屋も隠し撮りされている。キャスは、自分の失踪で抜け殻になった母親ティナが働く姿を、監禁場所で見て(見せられて?)いるんです。母親の仕事ぶりを覗くキャス。そして変態集団も、母親の絶望ぶりを覗き見してほくそ笑んでいるらしい。この辺り、意味不明ですが、キャスの監禁を解くためのカギにはなっていきます。

 もちろん、変態集団のリーダーも、キャスや母親の動きを覗き見しています。

 そして、警察も、8年かかってようやく、キャスをネット上で発見し、ティナに確認させる。ティナは8年経ってようやくキャスの姿を画面越しに認める。生きていることを知って涙するティナ、、、。

 パンフを見ると、アトム・エゴヤン監督は、ネットという最新技術によって、姿は見えているのに手が届かないもどかしさ、どうしようもなさを描きたかった、みたいなことを言っています。確かに、生きているキャスの姿は映像で確認できるけれど、どこにキャスがいるかが分からない、、、。どうすればキャスの実体に近づけるのか? これが本作のキモなんですね、多分。

 本作がスリラーだと言ったのは、これが理由です。

 ありがちな時系列ぐちゃぐちゃ系ですが、あまり見ていて混乱はしません。8年経っても、マシューもティナもあんまし変わっていないのですが、まあ、8年前の描写は瞬間瞬間で差し込まれる感じだし、何よりキャスが少女なので、分かりやすい方だと思います。この手の作品で時系列を順を追って、、、という編集にすると、もっと緻密な脚本にしないと見られないでしょうね。

 、、、ということで、そーなんです。かなり粗が多いシナリオで、そもそもサスペンスとしては成立し得ない、と思います。

 キャス失踪事件を担当する警官は、ロザリオという女警官と、スコットという刑事上がりの生安警察官。このロザリオも実はヒドい幼少時代を送っていたり、ロザリオとスコットがいつのまにか恋人同士になっていたり、挙句、ロザリオが犯罪集団に拉致監禁されたり、、、と、なんだかもう話が???な展開になっていきます。キャスの監禁場所が判明するのも、かなりイージーです。詳細は書きませんが、これじゃ、観客がサスペンスとして受け入れ難いと思っても致し方ない。

 ただ、スリラーとして、“そこにいるのに手が届かない!”というじれったい状況をどう打破するのか、という意味では、最後まで興味を引っ張ってはくれます。私は、意外にも、あっさりこの辺の切り替えが見ている途中に出来てしまったので、良かったのかも。

 サスペンスとしてはお粗末ですが、心理劇として見ると、結構奥が深いかも、とも思います。夫が目を離した隙に娘が失踪したことで、当然、夫婦に亀裂が入る。それでも、夫も妻も、いなくなった娘を追い求める気持ちは変わらない。夫婦の縁は切れても、家族の縁は切れない、、、。実際、キャスは最後に救出され、無事に両親と再会するのですが、ラストは家族再生を思わせる終わり方になっています。

 でもまあ、、、正直、一度見れば十分な作品です。というか、DVDで良かったかも。役者さんたちも、なんかソソられる人がいなかったし(男優も女優も)。サービスデイで見たので良いけれど、満額払っていたらちょっと後悔したかもです。






こき下ろすほどじゃないけど、イマイチ、良さが分からない作品。




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