映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

バジュランギおじさんと、小さな迷子(2015年)

2019-01-31 | 【は】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 パキスタンの小さな村。幼い頃から声が出せない障害を持つ女の子シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は、心配したお母さんと一緒に、インドのイスラム寺院に願掛けに行く。ところがその帰り道、1人でインドに取り残されてしまう。

 困り果てたシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者、パワン(サルマーン・カーン)だった。バカがつくほどの正直者で、お人好しなパワンは、これもハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることに。

 ところがある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と知ってビックリ。インドとパキスタンは、歴史や宗教、経済など、様々な点で激しく対立していたからだ。

 パワンは、パスポートもビザも持たないシャヒーダーを、国境を越えて家に送り届けることを決意。果たしてシャヒーダーは、無事に母親と再会できるのか……?
 
=====ここまで。

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 何かの予告編で見て面白そう、と思っていたところ、新聞の映画評を読んで、これは見なくっちゃと思ったんだけど、上映館が少ないし、上映スケジュールもイマイチで、先日ようやっと見ることが出来ました。終映間近で1日1回の上映でおまけにサービスデー、というトリプルパンチだったせいか、なんと満席。ネットで座席予約できるシステムは本当にありがたい。


◆因縁の印パ

 インドとパキスタンの仲の悪さなんて、おそらく、日本とお隣のそれなどお呼びでないくらい根深く凄まじいもののはず。しかも彼の2カ国は地続きだし、、、って、もともとは一つの国だったのに分離されたわけだし、、、。イギリスは大英帝国の名の下に、世界中のあちこちで現在まで続く対立の火種を作ってきたことを、一体どう思っているのかね?

 まあそれはともかく。この両国の仲の悪さは、何と言っても(というか、これが最大の問題だろうが)宗教的な対立が根源みたいなものだから、厄介極まりない。宗教が絡むと、もう理屈じゃないから。

 本作でも、その辺の所は(かなりマイルドにしているだろうが)全編にわたってこれでもかとばかりに描かれる。パワンが居候している家の主(パワンの父親の友人)は、異教徒は家に入れない主義だし、インドにおけるムスリムの異端ぶりが織り込まれたシーンもある。主が、少女シャヒーダーがパキスタン人だと分かったときのリアクションは、彼女が子どもでなければ一体どうなっていたことやら、と思うほどの拒絶反応である。

 しかし、本作を見ていてしみじみ感じたのは、東洋人の私から見て、インド人もパキスタン人も、全然見分けがつかないほど見た目は同じであることだ。言葉も、ヒンディー語とウルドゥ語は文字は違うが口語はほぼ通じるんだとか。実際、パワンは、インドでも、パキスタンに入った後も、同じ言葉で話していて、私も、「あれ? 言葉は同じなんだ?」と思った。

 当の両国人同士も、見た目だけでは、インド人かパキスタン人か、区別かつかないのである。パワンは、パキスタンで「あ、インド人だ!」などとすぐ気付かれることなどないし、シャヒーダーがパキスタン人だと分かったのも、彼女がテレビのクリケット中継でパキスタン代表を応援し、画面に映ったパキスタンの国旗にキスしたからである。

 ただ、ムスリムとヒンドゥー教徒の格好の違いは明らかである。ムスリムは、インドでもムスリムと一見して分かる。つまり、こういう記号化されたものを通して、初めて、両者は対立に及ぶわけだ。実際、シャヒーダーがパキスタン人だと分かっても、主の幼い息子はシャヒーダーと仲良しになっていたから「これからも一緒に暮らせる?」等と無邪気なことを言っている。しかし、彼も長じると、親である主のようになるに違いない。

 これは、そのまま、アーミル・カーン主演の『PK』のテーマにつながるわけで、なるほど、彼があのような映画に主演したのも道理だと改めて思った次第。

 本作は、主演のサルマン・カーンがプロデューサーも務めており、彼は「この映画は、ヒンドゥー教とイスラム教、インドとパキスタンの対立を終わらせる可能性を秘めている」等と述べている。それはいかにも脳天気に過ぎると思うが、しかし、『PK』にしろ本作にしろ、少なくとも、インド映画界では宗教的な対立を大衆に問い掛けるだけの問題意識はあるわけだ。しかもそれをテーマのド真ん中に据えた上で、立派な娯楽作品に仕上げているのは大したもんである。

 邦画界も、タブーに挑戦しろなどとは言わないけど、せめてもうちょっと気骨あるところを見せて欲しい。


◆猿を見ると拝む男。

 パワン自身、敬虔なヒンドゥー教徒でしょっちゅう合掌して拝んでいる。何より、パワンが少女シャヒーダーをパキスタンに送り届けようという原動力は、その信仰心なのである。

 パワンが信仰しているのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神。猿の神らしく、wikiには、あの孫悟空のモデルになったのでは、とも書かれている。そして、パワンの暮らす町には(野生の?)猿がたくさんいて、パワンは猿を見掛ける度に猿に向かって合掌するのである。当の猿はむしゃむしゃ何かを喰っていたり、ポリポリ身体を掻いていたりするだけなんだけど。

 しかし、パワンは、このハヌマーン神の「嘘を言わない」「クチにしたことは行動する」「弱者を庇護する」という教えを忠実に守ろうとし、それが、どんな困難に遭遇しても命がけでシャヒーダーを送り届けることにつながるわけだ。

 正直なところ、私自身が無神論者だから、信仰を持つということ、さらに、パワンのような敬虔な信者になるということが、どうもイマイチ感覚的に分からない。でも、ある意味、そこまで何かを絶対的に信じ、それが自分の行動の全てに貫かれる、というのはちょっと羨ましくもある。私の中に、そこまで何があっても貫き通す確たる芯になるものは、ハッキリ言ってない。


◆その他もろもろ

 まあ、無事にパワンがシャヒーダーを送り届けるラストが待っていると分かっていても、道中のあれこれには心穏やかではいられない。ツッコミ所は色々ありそうだし、インド映画のお約束である歌と踊りも当然盛り込まれ、カットしても問題なさそうなシーンも結構あるが、2時間40分はアッと言う間に過ぎる。

 特筆すべきはカシミールの山岳地帯の美しさ。これはスクリーンで見た方が絶対イイ。あれこれ書くのもバカバカしくなるくらいの、息をのむ美しさに圧倒される。あんなに美しい自然の下で、何を対立しているのやら、、、と思えてくる。

 あとは、シャヒーダーを演じたハルシャーリー・マルホートラちゃん(絶対覚えられないお名前)がとにかく可愛い。喋れない役なので、本当に言葉を発しないのだけど、表情が実に豊かで素晴らしい。

 ラストはちょっと過剰に感動を演出していて、頭の中ではドン引きだったんだけど、心はツボにはまったらしく涙涙、、、であった。我ながらヘンな感じだった。ラストシーンのストップモーション、、、あれはちょっとね。もうちょっと普通に終わっても良かった気がするわ。

 本作を見ようと思った理由の1つは、近々北部インドへ行くから。デリーもちょこっと出て来たので、思わず食い入るように見てしまった。砂埃の舞う猥雑な町の風景も活気があって魅力的。ううむ、ますます楽しみになってきたゾ!








カリーナ・カプールはやっぱり時々、小林幸子に見えた。




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燃えつきた納屋(1973年)

2019-01-29 | 【も】



 フランスの山間部にある寒村オートドーフで、若い女性の他殺体が見つかった。現場にほど近い“燃えつきた納屋”と呼ばれる酪農を営む一家の下へ、この殺人事件を調べるため派遣された予審判事ラルシェ(アラン・ドロン)が訪れると、彼を出迎えたのは酪農家の女主人ローズ(シモーヌ・シニョレ)だった。

 この農家には、ローズ夫婦とその長男ルイの一家(妻と子ども2人)、二男ポールと妻のモニック(ミュウ・ミュウ)、長女のフランソワーズが暮らしていた。事件当夜、長男ルイと二男ポールはいずれも外出していて、深夜に帰宅したと本人やローズが証言した。

 ラルシェは次第にこのローズ一家に疑いの視線を向けていくのだが、これといった手掛かりはなかった。しかし、一家に何度か接触するうちに、この一家はいろいろと問題を抱えていることが分かってくる。

 一方、ローズの夫は、二男ポールが何か事件に関わっているのではないかと不安に思ったのか、ポールの部屋を調べると、殺人事件で被害者が奪われたとされるスイスフランの現金が隠されているのを見つける。ラルシェに届け出ようとするが、結局、届け出ることはできず、妻のローズに打ち明ける。ローズはポールを問い詰めるが、ポールは「金は見つけたから盗ったが殺していない」と言うばかり。ローズはその大金を自分が預かることにする。

 そして遂に、ラルシェは“燃えつきた納屋”の捜索令状をとって、ローズの所へ家宅捜索にやってくるのだが……。
 
 
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 ちょっと前に見たドラマ版『バーニング』のことをネットで調べたときに“納屋”“燃やす”というワードに反応したのか、本作がヒットし、シモーヌ・シニョレとドロンの共演作と知って興味が湧いたので見てみた次第。地味な作品だけど、胸を抉られる人間ドラマが描かれた味わい深い逸品でした。こういう思いがけない出会いがあるから、映画はやめられないのよ、、、。


◆家族の崩壊

 本作は、一応、アラン・ドロンが主役になっているけど、彼はあくまで狂言回し的な存在で、どちらかというと脇。主役は、シモーヌ・シニョレ演ずるローズである。

 ローズが一家の要であることが序盤で分かる。夫は若い頃に反ナチスのレジスタンスだったとかで、ローズも夫自身もそのことが今でもよすがであるらしい。というのも、夫はどうも人生を諦めたか若しくは達観してしまったかの体で、唯一の趣味である時計の修理のために作業場に籠りきりで、ローズとも会話らしい会話もない様子。たまにローズが作業場に来て「片付けた方が良いわ」と言うと「ここはオレの場所だ、とやかく言われる筋合いはない」と撥ね付ける。

 息子たちはというと、長男ルイは家庭を築いて酪農を継いだのかと思いきや、親の土地を売って、スキーのリフトとスキー客用のカフェを作ることを考えている。二男ポールは、妻のモニックが田舎を嫌って町のホテルでメイドの仕事をしているため、たまにしか妻と会えないせいか、飲んだくれて家業を手伝うでもなく無職の日々、、、。

 あまりにも母親が強くてしっかり家を切り盛りしすぎたからか、息子は2人とも無能なのである。

 この息子たちの無能っぷりが、ストーリーが進むにつれてどんどん暴かれていくのである。二男のポールは最初からダメ男なのが分かるが、長男のルイは、一見普通の大人の男に見えて、無能なだけでなく、ポール以上にクズであることが終盤に明かされる。

 つまり、この一家は、もうずっと以前から、内部から腐敗が進行していて、殺人事件が起きて、外部の人間が家の中に出入りするようになったことでそれが露呈し、一気に崩壊したわけだ。


◆怖い母

 というわけで、本作は、ある家族が崩壊する様を描いているのであります。ドロンの出演作で家族崩壊モノといえば、ヴィスコンティの『若者のすべて』が思い浮かぶけれど、私は本作の方がグッときた。

 それは、ひとえに主役のシモーヌ・シニョレに尽きる。彼女は当時51歳かそこらなんだけど、正直言って、もう少し老けて見える。そして、そういう自分を敢えて偽ることなく晒しているのが素晴らしい。農家の女主人という役どころもあるが、飾り気のない顔に地味な衣裳であるにもかかわらず、存在感は他を圧倒している。アラン・ドロンと2人のシーンがいくつかあるが、完全にドロンは喰われている。まあ、本作でのアラン・ドロンはそういう役回りなんだけど。

 彼女は、『若者のすべて』に出て来たギャーギャーうるさい肝っ玉母ちゃん的な感じではなく、静かで厳しい“怖い母親”である。

 実際、ローズが、大金を隠し持っていたことをポールに問い詰めた際、ポールに「なんでもっと早くに私に相談しなかったの?」と言うローズに対し、ポールはこう答えている……「そんなこと出来るはずがない。母さんは怖い」

 そしてまた、終盤にルイが、実は弟ポールの妻モニックと不倫していたことが分かるのだが、それを知ったローズに横面を張られたルイは、ローズにこんな恨み節を言う。「母さんのせいだ。俺をルシルと結婚させた!」

 2人の息子は、母親の強さに抗えなかったのだろう。ローズが息子たちのことについて語る場面があるが、そこで「あの子たちは勉強が好きでなかった」と言っている。きっと、息子たちは2人ともあまり頭が良くないのだろう。だから、強い母親から自立する術を考えることもできなかったのだ。考えられることと言ったら、2人とも“親の土地を売ること”くらいなのだから。こんな腑抜けにしてしまったのは、母であるローズの罪なのか??

 ルイに「お前のせいだ」と言われたローズの言葉がキツい。「自分が何が欲しいか分からないのは、私のせいじゃない」……果たして本当にローズのせいではないのだろうか。

 もし、ルイがもっと頭が良くて、精神的にも自律できた大人であれば、いつの時点でかは分からないが、いつかは自分で自分の人生を選んだと思う。しかし、ローズは最初から、ルイに対してそれを許さない無言の圧力をかけていたに違いない。だから、ルイは大人になるまでに自ら選択権を手放したのだ。そうしないと、この家では生きていけなかったから。無能になることで自分を守ったのだ。二男のポールもそうだったのだろう。

 ローズとしては、家族を、家を守りたいからこその言動だったのだろうが、結果的に息子2人を無能にし、守りたかった家族を崩壊に向かわせることになったという皮肉。

 終盤のローズが寂しそうに林檎を剥く姿が哀しい。全て失い、挙げ句ポールが発した言葉といえば「俺はこれからどうすれば良い?」というローズへの問い掛けである。この期に及んで、彼はまだ自分で人生を選べないままなのだ。ローズは「知らない、私には関係ない」と突き放す。……そうだよね、これ以上、どうしろって言うの。


◆その他もろもろ

 アラン・ドロンは、当時38歳くらい。彼が判事ってどーなの??と見る前は思ったけど、まぁ、そこまで違和感はなかったかな。何か、ちょっとやつれて見えたんだけれど、この頃、お疲れだったのかしら? とはいえ、凡人が着たらダサくなりそうな白いチョッキみたいなセーター(?)をスーツの下に着ていても、なんだかキマッて見えるのはドロンだからこそかもね。

 シモーヌ・シニョレ以外に印象的だったのは、二男ポールを演じたベルナール・ル・コク。ちょっと特徴のある顔も印象に残るが、愚鈍で病んでいる感じがすごくよく出ていた。なんかもう、本当にどーしようもない男、、、って感じだった。

 あと、義兄と不倫するというトンデモ女モニックを演じていたのはミュウ・ミュウ様。いかにもバカっぽい感じで、雪深い“燃えつきた納屋”に来るのに、超ミニスカ姿とか、もう完全にバカ女を絵に描いたような演出だった。中盤、ローズに「うちに帰ってきて」と言われても、「私は百姓じゃない、そんなの知らない」とか何とか、にべもないところが、モニックという女をよく表わしていたように思う。

 とにかく、この“燃えつきた納屋”のあるオートドーフという場所が、寒そうで寒そうで、見ているだけで鳥肌が立ってくる感じ。架空の場所なのか分からないけど、1年のうち5か月くらいは寒い場所という設定だった。やはり、寒い土地っていうのは、それだけで生きていくのが大変だと、本作を見ていてしみじみと感じた次第。

 余談だけど、字幕がひどい。もう少し何とかならないのか、これ。廉価版DVDだとひどい字幕があると聞いたことがあるけど、、、。NHKのBSとかでオンエアすることがあれば是非録画して、もう一度見直してみたい。

 







シモーヌ・シニョレが圧巻。




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ある日どこかで(1980年)

2019-01-23 | 【あ】



 WOWOWのあらすじからコピペです(一部加筆しています)。

=====ここから。

 1972年、演劇を学ぶ大学生リチャード(クリストファー・リーヴ)。見知らぬ老婦人が急に寄ってきて、彼女から古い懐中時計を渡され“帰ってきて”と囁かれるが、彼にはまったく訳が分からない。

 8年後、劇作家になったリチャードは、とあるホテルで、1912年に生きていたというエリーズ・マッケナ(ジェーン・シーモア)という女性の肖像画に一目惚れする。リチャードが調べると何とエリーズは、8年前に懐中時計を渡されたあの老婦人だった。

 リチャードがエリーズに会いたいと願うと、いつの間にか彼は1912年の世界に飛んでいて……。
 
=====ここまで。

 今まで知らなかったのですが、何でも、熱烈なファンがいる映画だそうです。ファンサイトまであるらしい、、、。
 
 
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 大分前にBSでオンエアしていたのを何気なく録画しておいて、ようやっと先日見た次第。録画した映画の中で、一番時間が短かったから、、、という理由だけで本作を選んで見ました、、、。


◆念力でタイムスリップ!

 まるで本作のことを知らずに見たのだけど、こんなぶっとびファンタジーラブロマンス映画だったとは、オドロキ。

 一番驚いたのは、何と言ってもリチャードがタイムスリップする手段が、ひたすら念じる、、、というもの。ううむ、なるほど。ヘンなマシンとかクスリとか使わないで、コストもかからず、それでいて意外に説得力もある感じ。 

 リチャードは、70年前のファッションに身を包み、ホテルの部屋の中からタイムスリップ先の年代にはふさわしくない現代的なもの(テレビとか)は一切排除し、ベッドに横になると目をギュッと閉じて、事前にテープレコーダーに自分で録音しておいた「時は1912年6月、、、心を無にして受け容れろ」とかなんとかナレーションを流し、汗だくになって念じる。……が、なかなか上手く行かない。

 このシーンを見ていて、なんでテレビは排除するのにテープレコーダーは手元に置いているのかね?? それも立派な現代的なものじゃないのか?? と思ったんだけど、案の定、上手く行かないのよね。で、リチャードは60年前の宿泊名簿をホテルの屋根裏で探し当て、そこに、エリーズの名前と、自分の名前を見つけ「やっぱりボクも60年前ここにいたんだ!!」となって、再び部屋に戻って、ようやくテープレコーダーの存在がマズイと気付いたのかベッドの下に隠して、ベッドに横たわり強く念じる、、、。

 ……と、ハイ、今度は見事タイムスリプ成功! というわけでした。

 あとは念願叶ってエリーズと出会い、あっという間に恋に落ち、愛し合って将来を誓い合い、幸せの絶頂で、ふとしたことから突然、リチャードだけ現代に連れ戻される。2人は強制的に時空を超えて引き離されてしまったのでした、、、ごーん。。。 「ふとしたこと」とは何かは敢えて書きません、ふふふ。一応、序盤にちゃんと伏線はあります。

 現代に戻されたリチャードは、廃人のようになって、(多分)死んでしまう。そして、あの世で、若く美しいエリーズと再会し、、、というラストシーン。

 いやぁ、、、少女漫画も真っ青なファンタジーラブロマンスでござんした。


◆美男美女だからこそ、、、

 とまあ、かなりシンプルなストーリーで、ツッコミ所も多いが、そんなツッコミは野暮と思えるほど突き抜けているから、却って清々しいとも言える。

 とは言っても、それなりに修羅場をくぐってきたオバサンとしては、やっぱり見ていてちょっと小っ恥ずかしくなるシーンもあり、、、。

 例えば、リチャードが無事タイムスリップし、エリーズに出会うまでのシーンとか、、、。明らかに浮いているダサダサファッションのリチャードが、あちこち訪ね歩いている姿は、まあ、クリストファー・リーブがいかに美男でもかなり滑稽。

 割と感動的なシーンとされている、エリーズが舞台上で台本にないセリフを言ってリチャードへの愛を語る場面も、こりゃちょっと恥ずかしい。いや、まあ、映画なんで良いんだけど、その愛のセリフを聞いているクリストファー・リーブの表情とか、、、、もう見てられない、、、すみません。

 コレはある意味、少女漫画よりも少女漫画な展開である。

 本作が「「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴され」などとwikiに書かれるのは、しかし、こういう少女漫画チックなところを照れずに突き抜けて描いているからではないかと思う。こんなシナリオ、今時コンクールに出したら一次審査も通らないと思うけど、逆に言えば、こんなシナリオは今時のプロを目指す素人は“書けない”はず。多分、今時は少女漫画でもここまでの激甘なファンタジックラブロマンスは絶滅危惧種なのでは?

 そしてまた、それをファンタジーとして、またラブロマンスとして強引に成立させてしまっているのは、何と言っても、主演のクリストファー・リーブとジェーン・シーモアの2人。この、キラキラな美男美女が繰り広げる悲恋物語だからこそ、見る者は切なくなるのであって、凡庸な容姿の男女が演じていたら目も当てられないはずだ。

 残念ながら、私はそこまで心動かされることはなかったけれど、コアなファンがいるのは何となく分かる。私は、なんだかんだ言っても、少女マンガの金字塔「キャンディ・キャンディ」のコアなファンなのだ。絶版となってしまったけれども(ちゃんと本は持っています。愛蔵版ですが)、この映画に負けず劣らずのラブロマンスもの。だから、本作を好きな人と、根底では通じるモノがあるんだろうと思う。まぁ、私が好きなのは、「キャンディ・キャンディ」というより、テリィなんですけどね。……ま、どーでも良いです。

 クリストファー・リーブは、やっぱり良い役者。こんな小っ恥ずかしい話なのに、素晴らしい演技で見事に世界観を体現している。何度も書くけど、やはりあの美形あっての本作である。

 ジェーン・シーモアの美しさも特筆事項。彼女の他の出演作を見ていないけど、そこまで絶世の美女というイメージはない女優さんだったけれど、本作での美しさは溜息モノである。現在のお写真をネットで見てしまって衝撃を受けたんだけど、ま、それも残酷な現実の一つってことですね、、、がーん。
  
 2人の恋路を何かと邪魔するウィリアム・ロビンソンを演じたクリストファー・プラマーが、なかなかカッコ良かった。最近のクリストファー・プラマーはすっかりお爺さんで、トラップ大佐とあんまし結びつかないけど、本作の彼は今のクリストファー・プラマーに通じる感じがある。まあ、同一人物なんだから当たり前だけど。トラップ大佐もカッコ良いけど、本作のウィリアムもなかなかでした。








私も念じればタイムスリップしてテリィに会いに行けるのか? ……あ、あれは漫画か。




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子供たちは見ている(1943年)

2019-01-16 | 【こ】



 少年プリコの母親ニーナ(イザ・ポーラ)は、真面目な夫アンドレア(エミリオ・チゴーリ)がいながらロベルトという男と不倫している。ロベルトは、ニーナに駆け落ちを迫り、ニーナはプリコを思いながらも、ある晩、家を出て行く。

 しかし、プリコは母親が突然いなくなり、祖母宅へ預けられるなどして環境が変わったストレスからか高熱を出し、それを聞かされたのか、ニーナは再びプリコと夫の下に戻ってくる。夫は、プリコのためにもニーナとやり直すことを受け容れ、再び3人の平穏な生活が戻るかに思えた。が、ロベルトは執拗にニーナを口説きに現れ、プリコと夫の3人でバカンスに行ったリゾート地まで追って来る。

 ロベルトが来ているとも知らずに、一人先に帰った夫アンドレアだったが、アンドレアがいなくなった途端、ニーナの前にロベルトは現れ、執拗に口説く。最初は拒むニーナだが、次第に大胆になり、よりを戻してしまう。

 そんなニーナを見て、プリコは、また母親がいなくなってしまうのではないかと不安に駆られたのか、父アンドレアのいるローマに一人で線路伝いに帰ろうとする。プリコが行方不明になり大騒ぎになるが、無事プリコが保護された後、母親はやはりロベルトの下へと去って行く。そして、たった一人でアンドレアの待つ家に帰るプリコだったが、、、。

 ……『自転車泥棒』『ひまわり』ビットリオ・デ・シーカが監督。かなり初期の頃の作品。
 
 
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◆愚かすぎる大人たち

 デシーカ作品は、『自転車泥棒』『ひまわり』しか(多分)見ていないが、『ひまわり』は好きではないが非常に印象に残る良い映画だと思うけれど、『自転車泥棒』は見ていて非常にストレスが溜まる映画だった。なぜなら、あまりにも子供の親が愚かだから。そして本作、、、。

 『自転車泥棒』といい、本作といい、子供の親たちがあまりにも愚かで泣けてくる。

 子供の母親が夫以外の男と不倫なんて、、、という意味で愚かと言っているのではない。まあ、確かに賢い行動とは思えないが、人を好きになるのは理屈じゃないから仕方がない。夫アンドレアは真面目で誠実で一応優しいが、威圧的な感じで気難しそうだし、そもそも雰囲気が暗い。ああいう男と一緒に暮らしていると、ちょっとストレス溜まりそう。だから、かなり強引で男臭いロベルトが、ニーナの目に魅力的に映るのは分からないでもないのだ。

 何が愚かって、出たり入ったりを繰り返すところ。そして、子供の前で夫以外の男との情事を繰り広げるところ。これはさすがにダメだろう。

 子供がいようがいまいが、夫と愛人の下を行ったり来たりするのは節操がなさ過ぎる。そして、我が子の前で、その子の父親以外の男とイチャイチャしている神経が理解できない。もう、このダブルパンチの愚かな行動により、私はニーナを“おクズさま認定”いたしました(ちなみに、「おクズさま」とは、先日見ていたTV番組「ねほりんぱほりん」で山ちゃんとYOUがヒモ男のことをこう称していました)。

 というか、ニーナという女、あまりにも主体性がなくて、中盤以降バカ女に見えてくる。序盤はまだ、“主婦のよろめき”だろうと許容できていたけれど……。なんでこんなに彼女は主体性がない人間なのか。自分がどう生きたいのか、ということを“自分の頭で考える”という描写が一切ないのが見ていて辛い。ただただ愛人や現状に流されるだけ。下半身の緩い女という感じでもなく、緩いのは何よりも彼女のオツムであることが哀しい。

 それにしても『自転車泥棒』の父親といい、ニーナといい、デシーカはどうしてこうも愚かな大人を、主人公の子供の親として設定するのだろう。『自転車泥棒』の場合は、貧しさゆえ、、、という尤もらしい説もアリだが、本作の家族は中流階級で決して貧しくはない。上記リンクの本作の説明では「子供の眼を通して大人の世界を批判したものである」とあるが、批判するのなら、もう少しマシな大人を設定してほしいものだ。こんな、万人に愚か者の烙印を押されそうな大人、批判にさえなりゃしない。

 『自転車泥棒』は名作として名高いのだけれど、私は、どうしてもあの父親がダメで、名画とは思えないのであります、、、ごーん。

 本作について、ネットで検索してみたのだけど、ほとんど感想やらレビューやらがヒットしなかった。これ、最近DVD化されたんですかね? だからかな?? 実は、私自身、本作をなぜリストに入れたのか、まるで記憶にないのだけれど、、、。もしかして、新作の中にあったのかしら。

 本作について、wikiでは「ルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、アレッサンドロ・ブラゼッティの『雲の中の散歩(英語版)』と並んでネオレアリズモの嚆矢と見なされている」とあるけど、本作もやはり名作と言われているのかしらね?


◆唖然呆然な終盤の展開

 以下、結末に触れています。

 ちなみに、ニーナが再度夫アンドレアを捨てたことで、アンドレアは絶望し、プリコを修道院(?)に入れ、院長と思しき人に「あの子を我が子のように愛してください」というようなことを言い、プリコには今生の別れを言い、去って行く。そして、自ら命を絶ってしまうのである。

 え゛~~~!! と思ったのは私だけ???

 もうね、ここまで来ると、アンドレアも愚か者と言いたくなる。一人息子を残して、妻に逃げられたからと言って絶望して自殺。それは、確かに生きているのも辛いことかも知れないけれど、残されたプリコの気持ちを考えない父親ってのはどーなのか??

 それを聞いたニーナは、プリコのいる修道院に来て、涙ながらにプリコと再会するんだけど、プリコはニーナに駆け寄ることはなく、泣きながら立ち去っていく。……当たり前だろ。

 まったく……、子は親を選べないとはいえ、こんな両親の下に産み落とされたプリコこそ、絶望したくなる人生ではないか。

 こういう批判をして欲しかったのかしら、デシーカは。これほど究極の愚かな大人を用意してまで糾弾したかったことって何なのだろう。

 プリコのその後を思うと、もう涙も出ませんよ、マジで。ニーナが修道院に来たシーン、私は、ドン引きで見ていました。何なんだこいつら、、、みたいな。アンドレアにも、最後の最後で裏切られた思いで、全然同情できないし。せめて、アンドレアには父子2人でたくましく生きて欲しかった。そういうラストにしてくれても良かったんじゃないのかな。ここまでプリコをどん底に突き落とす話にする意味が分からない。

 今んとこ、デシーカ作品で良いと思えるのは『ひまわり』だけだ、、、。後は、映画として云々以前に、内容が到底、私の感性では着いていけない。『自転車泥棒』は、それでもまだ、ラストにちょこっと救いがあったように思うけれど。
 






これぞ究極の“絶望映画”




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アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング(2018年)

2019-01-13 | 【あ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 レネー・ベネット(エイミー・シューマー)は、ぽっちゃりでサエない容姿を気にして、自分に自信が持てない。高級コスメ会社リリー・ルクレアのオンライン部門に勤めているが、美しい社員たちが勤める華やかな本社ではなく、チャイナタウンの地下の小部屋においやられ、サエない毎日を送っていた。

 ある日、レネーは一念発起し、痩せるためジムに通い始める。しかし、トレーニング中にバイクから転落!その勢いで頭を強打し、失神してしまう。

 目が覚めたとき、レネーは自分の異変に気づく。なんと絶世の美女に変身していたのだ。しかし、それはレネーの思い込みであり、実際は何一つ変わっていなかった―。
 
=====ここまで。
 
 
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 新年劇場鑑賞『メアリーの総て』→『ボヘミアン・ラプソディ』に続くハシゴ3本目。2本目の『ボヘミアン~』は、訳あって(まあ、早い話が世間のノリに着いていけないってことですが)感想文書くのはお預け。3本目にはちょうどよい、軽くて色々考えずに見て楽しめる作品でした!


◆人は見た目が9割。

 “人間、外見じゃない、中身だよ!”……なんて言われてもね。人との出会いにおいて、視覚から入る情報ほどその相手のイメージを形成するに当たって強力なものはない。

 特に、恋愛では、外見から受けるイメージがほぼ全てといっても良いです、私の場合。外見と言っても、“雰囲気”であって、イケメンか否か、ではない(←ココ重要)。なので、第三者から見れば「あんなのの何がええの?」というパターンも当然あるわけで。でも、私はそれで「こんなはずじゃなかった、、、」という大ハズレに当たった経験はなく、というより、100%大アタリだったわけで、、、。つまり逆を言えば、初対面でパッと見「……あ、ダメ、、、」と思った人と、その後、色っぽい展開になったことは一度もない。ちなみに、「ダメ」の大半は、恋愛でなければ別にダメじゃない人だし、私に「ダメ」と決めつけられた人のほとんどは、私に恋愛感情など抱かないのであり、だから、私がダメとかダメじゃないとか無意識のうちに篩にかけていても、人畜無害なのであります。

 そもそも、恋愛に限らず人間関係の基本として、世の中の大抵の人々は、こういう“篩にかける”作用を心の中でしているのでは? していない人なんて、いるんですかね? 「優しそう」「キツそう」「ヤバそう」……etc。だからこそ、「人は見た目が9割」なんて本がベストセラーになるのでは。非常に的を射たタイトルです。

 ただ、その本を読んでいないので分からないけど、「見た目が9割」といっても、それは美男美女であるべき、と言っているのではないんでしょう、多分。美男美女はたくさんいるけど、そうじゃない人はその何倍もいるわけで、そうじゃない人々が、じゃあ、みんな見た目で損しているかというと、決してそんなことはないはず。美男美女こそ、その見た目がかえってアダになるパターンもあるのでは?

 ……ということを、本作は面白おかしく描いているのです。

 外見から受けるイメージがほぼ全て、と書いたけど、それはその人の醸し出す雰囲気であって、本作でもレネーは、失神する前と後で、外見は全く同じなのに、“気持ち”が変わったことで雰囲気もガラリと変わる。失神した後、絶世の美女になったと勘違いしたレネーは、突然、自信を持って、姿勢や歩き方まで変わり、全身から明るさを発するようになっている。発言も、卑屈さがなくなり、そのポジティブさはいささか度が過ぎるとは言え、そこは映画ならではのデフォルメであり自分を肯定することのカリカチュアだと思えば、自分で自分を受け容れることが、いかにその人の雰囲気を変えるかが分かるというもの。

 と書くと簡単なことなのだけど、人間、そんな単純な生き物ではない。鏡を見れば、自分の容姿の程度などイヤでも分かるし、幼い頃から周囲の反応で自分が回りからどう見られているかはイヤというほど経験させられる。ネガティブな言葉を度々吐かれれば、自分を肯定できなくなるのは当たり前。人は、相対的なモノの見方をする生き物だから、どうしたって自分だけでなく、他人でも親でも子どもでも兄弟姉妹でも、回りと比べてしまうのだ。レネーだって、好きであんなネガティブな性格になった訳じゃなく、そういう扱いをされ続けてきたことで、卑屈になり、もう自分ではどうしようもないところまでそれを拗らせてしまったのだ。

 とはいえ、私は、レネーがそこまで自分を否定するほどヒドい外見には思えなかったし、身なりも(センスはちょっと、、、だが)気をつけているし、性格だって決して悪くない、十分、問題なく社会生活を送れる女性に見えた。だから、レネーは一体、何を望んでいるのか??と疑問だったんだけど、まあ、女優並みの美貌を望んでしまえば、世の中のほとんどの女性は自己肯定できなくなっちゃうわね。

 レネーは勘違いによって自己肯定することができ、それによって、イーサンという恋人もゲットし、仕事でも頭角を現し、自信を得ることが出来た。けれど、再び頭を強打し、勘違いの魔法が解けた後は、再び自信喪失のネガティブ・レネーに逆戻りする。

 この、ネガティブ・レネーに戻ってしまってから、ラストまでの展開がイマイチだったので、6コにしたんだけど、もう少し葛藤があっても良かったんじゃないかなぁと思った次第。割とあっさり、ネガティブ・レネーから脱却してしまったのがね、、、。失神前に、あそこまで容姿のために後ろ向きだったレネーが、プレゼンで初めて失神前と後で容姿が変わっていなかったことに気付いて一瞬でポジティブに転換する、ってのはちょっと拍子抜け。というか、プレゼンの場に出ていくこと自体がちょっと???な展開。

 レネーにとって、失神前と後で容姿が変わっていないことに気付くシーンはものすごく重要だと思うから、そこはもっとじっくり、イーサンや親友たち、あるいはエイヴリーとの絡みなどで描いても良かったと思うのね。というか、そうであるべきじゃないかしらん。その重大な事実と、信頼できる人からの信頼できる言葉で、初めてレネーの思考回路に変化がもたらされる、、、という方が、まあ、見ている方は説得力を感じるよね。

 
◆ナンパ男なんか絶滅しろ!

 レネーが、その辺の男たちから粗末に扱われるシーンの数々が、あまりに漫画チックで笑えると同時に、かなり不快でもある。あそこまで露骨な言動をするのかね、アメリカの男たちは。……というか、日本の男たちもそーなの?

 イケメンとそうじゃない人と、私はあそこまで露骨に対応を変えてしまっているかしら、、、。というか、そこまでウキウキするほどのイケメンに、そもそもドラッグストアや街中で出会ったことなんかないんですけど?? 仕事やその他の関係でも、会うのが楽しみなイケメンなんて、幸か不幸か、これまでいなかったわ。まあまあカッコイイくらいならいたけど、話しかけたいとか、気を引きたいとか、、、それとこれは別だしね。

 大昔(20代)に、渋谷でナンパされたことがあるんだけど、私はその日スッピンで髪もテキトー、服装もその辺のスーパーにちょいと買い物、って感じでいたから、ハッキリ言って「お前、女なら誰でもええんだろ!!」と却ってもの凄く不快になった。そんな安っぽく見られたんだと思うと、ムカついたよね。無視してさっさとかわしたけど、たとえ小綺麗にしていてナンパされたって別の意味で不快になったに違いなく、ナンパってホントに失礼だと思うわ。

 だから、本作でも美人さんたちがナンパされていたけど、ナンパする男たちってホント、救いようのないバカだよね。そういう奴らに限って、レネーに失礼な態度を平気でとるんだから。全女性をバカにしていることに自覚がないのもほどほどにしろ、と言いたい。

 レネーが美人に「一度で良いからあなたになってみたい」とか、「あなた、ホントに内蔵入ってるの?」とか言っているのがウケた。でも、一番ウケたのは、やっぱり失神後に、絶世の美女になったと勘違いしてモデルウォークして街中を歩いたり、イーサンを強引に口説いたりしているシーン。同じ人間なのに、あそこまで変わるのかと。最初はイタい勘違い女っぽかったんだけど、それも一瞬で、ビキニコンテストで弾けまくるレネーは、もう圧巻。

 そういう意味では、“人間、外見じゃない、中身だよ!”は真理でもある。それくらい、レネーは、意識が変わっただけで輝いたのだからね。

 アドラー先生じゃないけど、上手く行かないことがあると「この外見だから……」と何かのせいにしている方が楽な側面はあると思う。レネーは、これから生きていく上でイーサンと破局するかも知れないし、仕事でつまずくかも知れないが、これまでみたいに外見のせいにすることはもうできない。そのときこそ、レネーの真価が問われるのだと思う。頑張れ、レネー!!






ミシェル・ウィリアムズが別人みたいで全然分からなかった!!




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そして父になる(2013年)

2019-01-07 | 【そ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 学歴、仕事、家庭といった自分の望むものを自分の手で掴み取ってきたエリート会社員・野々宮良多(福山雅治)。自分は成功者だと思っていた彼のもとに、病院から連絡が入る。それは、良多とみどり(尾野真千子)との間の子が取り違えられていたというものだった。6年間愛情を注いできた息子・慶多が他人の子だったと知り、愕然とする良多とみどり。

 取り違えられた先の斎木雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)ら一家と会うようになる。

 血のつながりか、愛情をかけ一緒に過ごしてきた時間か。良多らの心は揺らぐ……。
 
=====ここまで。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 是枝作品はあんまし得意じゃないんだけど、年末にBSでオンエアしていたので、今さらながら、録画して見てみました。


◆弱者目線は分かるけどさぁ、、、

 福山演ずる良多みたいな父親、その辺にいると思うわ。世の妻たちも「うちの夫みたい……、ルックス以外」と思いながら見た人、多かったんじゃないのかしらん。それくらいリアリティのある人物造形。一方、妻のみどりはちょっと古風よね。夫にあまり物申さない妻、子どもには優しいお母さん。まぁ、今時の女性にしてはちょっと弱いかなという感じもするが、こういう女性ももちろんたくさんいるでしょう。

 赤ちゃんの取り違えなんて、もう、悲劇的としか言いようがないんだけど、本作は、是枝作品にしては全般に暗くない感じで、深刻なテーマを深刻すぎずに、でも真摯に描いているのは好感を持てた。

 ただね、、、ちょっと、野々宮家と斎木家のコントラストが強すぎて、この辺がこの監督の、なんというか、良く言えばカラー、悪く言えばワンパターンかなという感じは否めない。

 確かにそうした方が分かりやすいし、ドラマ性も出しやすい。けれども、裏を返せば安易だとも言える。

 私が最も安易だと感じたのは、6年間育ててきた慶多が、斎木家に懐いてしまい、良多は、実子である琉晴からも慶多からも“ダメ父”の烙印を押されることになったという展開。

 是枝氏の立ち位置は常に弱者目線であることはよく分かる。だから、格差の上下でいえば、明らかに下として描いている斎木家の方が、子どもにとっては“生き生きと”生きられる環境である、とするのは、彼のポリシーから言えば当然の帰結だろう。でもね、世の中の現実は、正直ベースで言うと、経済的に余裕のある子も“生き生きと”生きているし、貧しい家庭は精神的にも親に余裕がないから家庭が荒みやすく、“生き生きと”生きられない子どももいるんだよ。

 是枝氏は、やっぱり、琉晴が野々宮家にあっさり馴染んでしまい、慶多が斎木家から逃げ出してしまう、という難度の高い展開に敢えて挑戦すべきだと思う。それをやらない所が、何となく志が高いとは感じられないように思われて、手放しで好きと言えない。

 ハッキリ言って、私が子どもなら、斎木家よりも野々宮家の方が断然良いわ。家はキレイだし、経済的には恵まれているし。私はそもそもインドア派だから、リリー・フランキー演ずる雄大みたいなパパは迷惑この上ない。子どもの元々持っている性質もあるし、慶多があそこまであっさり斎木家に馴染むのも、少々違和感あるわ。子どもは慣れるのが早いとはいえ、子どもだからこそ馴染めない、理屈では受け容れられないものも必ずあると思うのよね。

 それなのに、良多はバツで、雄大はマルって、まるでシロクロ付けるみたいに描き分けるのは、あんまりだと思う。

 ここまで類型的に両家を描き分けるのは、ある意味、タワマンに住むエリート一家に対しても、町の電気屋さん一家に対しても、かなり失礼であるとも言えるのでは? 

 ……などということを感じながら、見終わってから、本作のベースになった実話をネットで読んだら、実話では、経済的に恵まれた「野々宮家(仮)」に、「斎木家(仮)」で育った子が懐いてしまい、「斎木家(仮)」の実子は「野々宮家(仮)」に戻ってしまった、、、という展開だったと知ってビックリ! ……な半面、“やっぱそうか~”という気もする。


◆「血は水よりも濃い」「生みの親より育ての親」

 中盤で、みどりが良多にブチ切れるシーンがあり、そこで、慶多が実子でないと分かったときの良多の言動が問題となる。良多は無意識のうちに「やっぱりそういうことか……」と、みどりの前で漏らしたのである。

 この序盤の、車中で福山が窓を叩いてつぶやくシーンは、私もギョッとなって、「なんだコイツ……!!」とムカついたので、中盤になってこの言動が夫婦の間で大問題になったことについては、非常に共感した、というより、尾野真千子がブチ切れてくれたことによって、私の溜飲も下がったのだった。

 「やっぱりそういうことか……」って、このセリフは、良多の人格を如実に表わすもの。でも、男は自分が子どもを産むわけじゃないから、自分に生き写しでなければ、我が子を本当に我が子と実感するのが難しい側面はあると思う。しかし、それを妻に言ってしまうのは論外だ。……と思うが、少し前にネットの掲示板で、「夫に子どものDNA鑑定をしたいと言われた」という書込みを見つけたのだけど、「私も言われた」という女性の書込みが結構あって、驚いた。言われた女性たちは、「あっさり受け容れた」という人たちと、「離婚覚悟なんでしょうね?」と身構えた人たちの真っ二つにタイプが分かれていた。私がそんなことを言われたら、絶対に後者のタイプになるだろうと思うが、世の中には太っ腹な女性もいるのねぇ、、、と感心するやら驚くやら。

 良多は子どもの交換を急ごうとして、斎木の妻ゆかりにもこう言われる。

 「(自分に似ているとか似ていないとかに拘っているのは)子どもとつながってるっていう自覚のない男だけよ」

 結局、良多は“血”に拘っているのよね。でもこれは、責められないとも思う。「血は水よりも濃い」と言うくらいだし。けれども、「生みの親より育ての親」とも言われるほどだから、それもまた真実なのだ。

 本作のラストシーンは、最終的に、双方の子どもがどちらに引き取られたのかハッキリ描かれていない終わり方なので、ネット上でも色々な感想が上がっている。私は、本作の展開から言えば、元サヤ(慶多は野々宮家、琉晴は斎木家)に収まるのが自然かな、と思うが、現実だったら、慶多はやっぱり斎木家に、琉晴は野々宮家に、だろうなと思う。良多みたいな男は、そんなに簡単に価値観が変わらない、つまり“血”への拘りを捨てられないような気がする。まあ、もっと現実的に言えば、野々宮家と斎木家は近距離に住んで、慶多と琉晴は好きなときに両家を行き来できる、という状況にするのが、子どもたちにとっては良いのかな、とも思う。成長すれば、子どもたちはもっとハッキリ自分の考えを持って行くしね。


◆その他もろもろ

 福山は大根とか言われるが、本作ではとても良かったと思う。正直言って、彼の笑顔(特に口元)がちょっと嫌いなんだけど、本作ではあまり笑顔のシーンがないので、それも良かったと思えた理由の一つかも。唇の薄過ぎる男の顔って、なんか好きになれないのよね、、、。あ、好みの問題です、はい。

 リリーさんは相変わらずのナチュラル演技で、ハマっていた。こういうちょっとダラシナイ感じの男が似合う。

 尾野真千子と真木よう子は、逆の配置の方が合ってるんじゃないか?? と序盤は感じたが、見ているうちに違和感はなくなった。朝ドラ「カーネーション」の印象が強いせいか、尾野真千子の方が、町の電気屋の女房、って感じがしたんだけど、そこは2人ともさすが女優さん。どちらも各キャラを見事に演じておられました。

 子どもたちの演技は、やはり是枝作品ですね。こういうところの演出力が、やっぱり評価が高いことの一因なのかな、とも思ったり。終盤、琉晴くんが、野々宮家で「パパとママの場所(斎木家)に帰りたい……ごめんなさい」と言って顔を覆うシーンが、切なすぎて泣けます。「ごめんなさい」って、、、。慶多くんもおっとりしてて可愛かった。

 まあ、文句もいっぱい書いたけど、良い映画ではあると思う。好きか嫌いかといえば、好きではないけれど。










慶多がこっそり撮っていた良多の写真が、、、




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メアリーの総て(2017年)

2019-01-05 | 【め】



以下、公式サイトよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 19世紀、イギリス。作家を夢見るメアリーは、折り合いの悪い継母と離れ、父の友人のもとで暮らし始める。

 ある夜、屋敷で読書会が開かれ、メアリーは“異端の天才詩人”と噂されるパーシー・シェリーと出会う。互いの才能に強く惹かれ合う二人だったが、パーシーには妻子がいた。情熱に身を任せた二人は駆け落ちし、やがてメアリーは女の子を産むが、借金の取り立てから逃げる途中で娘は呆気なく命を落とす。

 失意のメアリーはある日、夫と共に滞在していた、悪名高い詩人・バイロン卿の別荘で「皆で一つずつ怪奇談を書いて披露しよう」と持ちかけられる。深い哀しみと喪失に打ちひしがれる彼女の中で、何かが生まれようとしていた──。
 
=====ここまで。
 
 小説「フランケンシュタイン」を書き上げるまでのメアリ・シェリーについての映画。2019年初っぱなの劇場鑑賞作。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 小説「フランケンシュタイン」が生まれる契機となったといわれる“ディオダディ荘の怪奇談義”を描いた、ケン・ラッセル監督『ゴシック』(1987年)という気の狂った映画を大昔に一度だけ、多分、テレビの深夜放送でたまたま見掛け、あまりのイカレっぷりに衝撃を受けたんだけど、内容をあんまし(というかほとんど)覚えておらず、ガブリエル・バーンの怪演と、ジュリアン・サンズの美貌だけがうっすら脳裏に残っていて、そもそもその映画がケン・ラッセル監督作だということも割と最近知り、DVDをamazonで物色したけど口コミに「映像があまりに酷い」とかロクなことが書かれていなかったので、どうしよう、、、と思っているうちに、昨年だったか久しぶりに検索したら既に品切れになってしまっていて、ますます再見する機会が遠のいてしまいました。

 仕方がないので、小説「フランケンシュタイン」を読んだり、『ゴシック』の中古パンフをamazonで購入したり、2014年のEテレ「100分de名著」で「フランケンシュタイン」が取り上げられたときにテキストも買ったりして、時々、この『ゴシック』にまつわるものに思いを馳せておりました。見られないとなると、異様に気になる困った性分、、、。

 そして、このたび、メアリの半生が描かれた映画が公開されると耳にし、しかも監督があの話題になった『少女は自転車にのって』(未見ですが)のハイファ・アル=マンスール(あのサウジ出身の女性監督)となれば、まあ、一応見ておこうかな、、、と気持ちが動いて、劇場まで行ってまいりました。

 まあ、、、これは言ってもせんないことだけど、私の中にある勝手なメアリやパーシーのイメージが、ちょっと、というかなり、エル・ファニングやダグラス・ブースとは違っていて、まあ、それでもそれがもの凄くネックになったというわけじゃないんだけど、2人の登場シーンから“あ゛ぁ、、、、”と心の中で頭を抱えたことは事実であります。

 ……というエクスキューズを最初にした上で、以下、感想です。


◆食い足りない、、、。

 割と史実の時系列に沿ったシナリオになっているようだけれども、まぁ、そんなことは映画ではあまり気にならない。正直なところ、全体にグッとこなかった。

 パーシーもバイロンも、ろくでもない男だってことは知っていたけど、映像で見せられると、マジで呆れる人たちで、こんなヤツと駆け落ちしたメアリまで(私の)見方が変わりそうで、何だかいたたまれなくなってしまった。

 18歳でSF小説の嚆矢「フランケンシュタイン」を書き上げたメアリは、両親も先進的な思想家でもあり、さぞかし賢く魅力的な女性に違いない、と勝手にイメージをしてしまいがちなんだけど、まぁ、賢い女が男を見る目も優れているとは限らないのは世の常で、メアリもその一例ということですかね。当時から結婚制度に懐疑的だったといわれるメアリの実父ウィリアム・ゴドウィンだが、自分の娘が不倫の恋に賭けて駆け落ちしようという際に、こう言う。

 「自分の子どもを捨てられる男だぞ」

 これって、妻を捨てられる男ならいいのかね? ……などというのは、あまりにも捻くれているかしらん。まあ、でも、このお父さんのセリフはそのとおりだと思うし、お父さんは実際、女性関係においてもかなり真面目な人だったように思われる。

 本作への有名人たちのメッセージを公式HPで目にし、フェミニズム的なコメントをしている人がちらほらいたけど、それはまぁ別に良いけど、「怪物よりも百倍怖いのは、 女の子の未来を食い潰す、 偏見、差別、男の身勝手な欲望だとわかる」ってのは、いささか引いてしまう。本作からそこまで読み取るかね? この時代、偏見、差別で未来を食い潰されたのは女の子だけじゃないし、イギリスはいまだに厳然たる階級社会。そもそも駆け落ちしたのはメアリ自身の強い意志であり、あの時代に、駆け落ちを選択できるだけ、まだメアリには勇気と行動力があったとも言える。そんな機会にさえ恵まれず、ただただトコロテンみたいに押し出されるように生きざるを得ない人々が圧倒的多数だったと思うけどなぁ。

 そういう意味では、姫野カオルコ「これは“昔”の話ではない。“今”の話だ。頭ごなしに否定されて暮らす人たちが今も世界中にいる。その一例としてのメアリーと、そして彼女の妹の物語は、現代の人間こそを惹きつける」というメッセージが一番しっくり来た。

 そして、グッとこなかった最大の理由は、恐らく、“ディオダディ荘の怪奇談義”のシーンがイマイチだったから。『ゴシック』でもパンフの表紙になっているあのフューズリの「夢魔」らしきものも出てくるが、かなりアッサリ(と私には感じられた)した描写で、ううむ、、、という感じ。別に、ケン・ラッセルと同じタッチなど全く期待していなかったつもりだけど。少しは期待していたのかしらん。


◆その他もろもろ

 俳優のイメージがもの凄くネックになったわけじゃない、と書いたけど、やっぱし、エル・ファニングのメアリは、かなりイマイチだった。エル・ファニング自身は可愛いし、演技も良いし、別に彼女に責任があるわけでは全くない。私のイメージと違うという、、、。

 なんだろう、メアリは、もう少しキリッとした大人っぽい美人の方が合っている気がするのね。エル・ファニングは、童顔で愛らしいという感じでしょ? 知的、って感じもちょっと薄い。

 じゃぁ、誰ならいいんだよ? と自問してみたけど、最近の若い俳優さん知らないしなぁ。強いて挙げれば、アリシア・ビキャンデルの方が、まだエル・ファニングよりは大分良いと思う。アリシアのあの、意志の強そうな、根性ありそうな、それでいて細身の美人で、、、っていうのは、割と私の抱くメアリのイメージに近い。ナタリー・ポートマンの若い頃なら、かなり近いかも。まぁ、でもナタポーも、時代劇ではあんましパッとしないから違うかな。

 よく分からんけど、とにかく、エル・ファニングではない、ってことです、はい。

 あと、びっくりしたのは、メアリとパーシーの駆け落ちに、メアリの義理の妹クレアが着いてくること(後でよく読んだら、「100分de名著」のテキストにもちゃんと書かれていたが)。駆け落ちに着いてくる方もアレだけど、それを許すメアリとパーシーも凄い。しかもこのクレア、バイロンに迫って彼の子を身ごもるんだからね。当時の女性たちが虐げられていた一色ではないってことよ。こういう現代のオバサンから見ても引いてしまいそうな肉食女は人類の歴史と共にいたんだと思うわ。

 パーシーを演じたダグラス・ブースはイケメンらしいけど、私の目にはあまりそう見えなくて残念。ネットで検索したら、劇団ひとりの画像と並んでいるのがあって、ウケた。確かにちょっと似ているかも。まあ、放蕩児を演じるにはいささか真面目過ぎる感じかな。実態は真面目かどうかは知らんが。

 バイロンのトム・スターリッジは、なかなか良かったと思う。ガブリエル・バーンほどのキョーレツさはなかったけれど、十分ヤバい人だった。あと、「吸血鬼」の原作者とされるジョン・ポリドリを演じたベン・ハーディは、本作では存在感がやや薄かったけど、『ボヘミアン・ラプソディ』でロジャー・テイラーを演じていたと、後で知って驚いた。本作を見たすぐ後に『ボヘミアン・ラプソディ』を見たのに、ゼンゼン分からなかった!

 本作は、小説「フランケンシュタイン」が生まれるまでを描いた映画だけど、メアリはこのデビュー作以上の小説を、結局残せなかった。そういう意味では、彼女の人生のハイライトは、この辺りだったのかも知れない。パーシーとは、前妻が自殺したその10日後くらいに正式に結婚しているが、パーシーもその6年後に事故死していて、メアリの人生は波乱続きだ。彼女が幸せだったかどうかは分からないし、そんなことはメアリ自身が決めることだけど、デビュー作にして最高傑作となった「フランケンシュタイン」が、彼女の死後200年近くを経て、文学史におけるSF小説の金字塔となっていることは、メアリの苦労に一矢報いていることには違いない。










こうして小説「フランケンシュタイン」は生まれました。




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