映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

レ・ミゼラブル(1998年)

2020-05-28 | 【れ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv30890/

 

 「レ・ミゼラブル」と言えば、ジャン・バルジャンとジャベール。そんな原作のメインテーマにフォーカスした映画。ミュージカルではありません。


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 レミゼ鑑賞、続いております。ネットを見たら、やはり、何作も映像化されているレミゼを見比べている方が結構いらっしゃる様子。ミュージカルからハマって本作に辿りつくパターンが多いみたいだが、ミュージカル版がお好きな方には、本作はちょっと肩すかしかも知れませぬ。なぜなら、ミュージカル版ではなくてはならないものが、本作には“ナイ”からです。


◆2人のオッサンの物語。

 本作は、公開時に劇場で見ていて、割と印象に残っているのだが、忘れていることも多いので、今回改めてDVDを見直してみた。

 一番印象に残っていたのは、ジェフリー・ラッシュのジャベールで、今回もやっぱりジャベールの存在感が一番だった。私の中にあるジャベール像に一番近い。子どもの頃「あゝ、無情」を「少年少女 世界の名作文学」(小学館)で読んだときのジャベールは、まさにジェフリー・ラッシュが演じたみたいな見た目とキャラだった様な気がする。その本には挿絵があって、ジャベールは黒ずくめのコートを着ていた記憶があり、だから劇場で見たときも、「うわ~、あのジャベールだ!」と思ったのだった。

 ……で、本作は、ミュージカル版のように「愛が全て!!」という感じではなく、飽くまで“ジャン・バルジャン VS ジャベール”がメインストーリーであり、それがほぼ全てと言っても良い作りになっている。オッサン対決の映画なのである。

 だから、それ以外のストーリーに絡む人物は、バッサリとカットされている。つまり、エポニーヌもアンジョルラスも出てこない。マリウスとコゼットのロマンスも、ほんの味付け程度に描かれるのみ。テナルディエ夫婦もチョイ出でほとんど存在感がない。ミュージカル版のキモと言っても良いくらいのエポニーヌがいないのだから、ミュージカル版LOVEの人にとっては本作は、気の抜けたビールといったところかも。

 しかし、私が長年抱いてきたレミゼは、本作と同じ“ジャン・バルジャン VS ジャベール”の物語なので、エポニーヌがいなくても、マリウスとコゼットのロマンスがチョロッとでも、ゼンゼンOK。むしろ、その方が面白い。

 本作では、ジャン・バルジャンは決して“改心した善なる人”として描かれているのでなく、飽くまでも“悪の誘惑と葛藤する人”として描かれている。そして、私はこういうジャン・バルジャンの方が好きだ。NHKで放映していたBBCドラマ版のジャン・バルジャンも、やはり葛藤する人で、だからこそ魅力があったと思う。内なる悪に誘惑されると、彼は、司教にもらった銀の燭台を手にして自らと向き合う。そして、苦しみながらも、善の道を選んで行く。ここが人間臭くて、ドラマになるのだと思う。ミュージカル版は、その辺の葛藤が薄いよね、ちょっと。

 そして、そんな葛藤するジャン・バルジャンを常に脅かすのがジャベールなのである。ジャベールに対するジャン・バルジャンは“善なる人”であり続けることは出来ない。そらそーでしょう。今の穏やかな生活を壊しに来る存在なんだから。つまり、ジャベールは、ジャン・バルジャンが必死に封印している“内なる悪”を呼び覚ます存在として本作では位置づけられている。

 だから、最後の最後まで緊迫したオッサンの対決劇が描かれ、見ている方は手に汗握りっぱなしなのである。


◆ラストのジャン・バルジャンの表情をどう見るか。

 で、本作で物議を醸しているのがラストシーンなのだが、、、。

 ジャベールは、原作どおり、セーヌ川に身を投げる。ただ、これが、ジャン・バルジャンの目の前で、、、なのである。しかも、その後のジャン・バルジャンの表情が、清々して笑っているように見えるのだ。

 これが、ネットでの感想を見ると、かなり不評の様で、「ガッカリした」とか「ジャン・バルジャンが偽善者ってことになる」とか「川に飛び込んで助けろよ」とか、、、。まあ、それも分からんではないけど、この場合はちょっと違う気がする。

 この感想を読んで、私は『戦場のピアニスト』で、主人公のシュピルマンが自分を助けてくれたドイツ人将校を助けようと奔走しなかったことを批判する感想の数々が頭をよぎったのだが(史実ではシュピルマン氏はドイツ人将校を探し、救出しようと活動しているが)、映画でそこまで主人公を筋の通った高潔な人物として描かなければならないのだろうか?

 ジャン・バルジャンは、決して完璧な善人ではない、というのが本作の前提であり、ジャベールは常に彼の善人としての人生を脅かす存在だった。一瞬の出来事とは言え、あっという間にジャベールは自らセーヌ川に身を投げてしまった、、、それを呆然と見ているしかなかったジャン・バルジャンとしては、ようやくこれで、内なる悪を呼び覚まされることがなくなったという“安堵感”が最初に込み上げるのは当然だと思うのよ。自分の“内なる悪”に自覚的だからこそ、もう、悪に戻らなくても良いとホッとする感覚、、、なんじゃないかなぁ。自覚していることの方が、人としては上等な気がするんだけどね。

 それまでの葛藤の数々と、人生を懸けて善の道を選んできた苦悩を思えば、その原因である存在がこの世から、しかも自ら消えてくれたのだよ? 何で、汚い川に飛び込んでそれをまた助け上げなきゃいけないのさ。そんな分かりやすさ、いらんと思う。

 ジャベールは飽くまでも正義を貫かんとして生きてきたわけだけど、正義ってのは立場が変わればその中身も変わるという、非常に攻撃的でありながらも脆いもの。ジャベールにとっての正義は法を守ることだったのだが、法は万能ではなく、自らが信じて来たことが脆くも崩れたことでジャン・バルジャンを放免するに至ったわけだ。しかしそれは、自らが法に背いたこととなり、だからこそセーヌ川に身を投じる前に自らに手錠を掛けて、自らを罰した形になったのだろう。彼なりに自己完結したのであって、助けてもいいけど、助けるには及ばないとも思う。

 そして、そこでバッサリと終わっているのが良い、、、と思う。その後のジャン・バルジャンなど描いても、それは本作の場合、蛇足だろう。オッサン対決に終止符が打たれたのだから。


◆その他もろもろ

 リーアム・ニーソンは、あんまし好きじゃないけど、まあまあ良かったと思う。本作では、ジャン・バルジャンとファンテーヌの間に愛があった、、、という設定になっていて、ファンテーヌの悲惨な末路が比較的丁寧に描かれている。ファンテーヌを演じたユマ・サーマンは大熱演。

 ジェフリー・ラッシュは、やはり素晴らしい俳優だと改めて思った次第。撮影時は40代後半で、まだ若い。ジャン・バルジャンに殺されるか、、、というシーンでの演技は、本作の白眉と言っても良いのでは。

 マリウスは、アンジョルラスのキャラと融合させたキャラになっており、何だか中途半端な感じだった。コゼットは、BBCドラマ版では可愛いだけの箱入り娘だったが、本作では割と自己主張をする強さも持ち合わせたキャラになっていて、こっちのコゼットの方が私は好きかな。

 ジャン・バルジャンがコゼットに自分の過去を洗いざらい打ち明けるという改変もされているが、まあ、これらもメインストーリーを重視して2時間半の尺に収めるための技だと思えば、あまり気にならない。

 本作の監督はビレ・アウグスト。『リスボンに誘われて』の感想では、本作について「良い作品だけど、ちょっと食い足りないというか、グッと来なかった」と書いたけど、今回見直してみて、グッとは確かに来なかったけど、決して食い足りないなどということはなく、十分オッサン対決のドラマを堪能させていただきました。ミュージカル版よりは、ゼンゼン見応えあると思います。

 


 
 

 

 

“Jean Valjean”の発音だけがやけにフランス語っぽく聞こえたのは気のせいか、、、。

 

 

 

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レ・ミゼラブル(2012年)

2020-05-15 | ヘレナ・ボナム=カーター(H・B・C)

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv50703/

 

 ご存知、世界的大ヒットミュージカル「レ・ミゼラブル」の映画版。原作は、もちろんユーゴーの同名長編小説。ジャン・バルジャンをヒュー・ジャックマン、ジャベールをラッセル・クロウがそれぞれ演じる。


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 先日までNHKで放映していたイギリスのドラマ版がなかなか見応えがあって良かったので、何となく他のレミゼも見てみたくなったというわけで、ミュージカルは苦手だけれど、とりあえずは一番メジャーであろう本作から見てみることに。


◆嗚呼、ミュージカル。

 最初から最後までセリフも全部歌っているらしい、とは聞いていたが、本当だった。ヒュー・ジャックマン演ずるジャン・バルジャンが、自分の囚人番号まで“トゥーフォーシックスオーワン~~~♫”とか歌っているのを見ているのは、かなりキツい、、、。後でwikiを見たら、これ、日本版でもあるらしく、しかも、最後が「イチ」で、ものすごくカッコ悪い響きだからだろうが、番号が変えられているんだとか。「にーよんろくごーさん~~♫」って歌ってんだろうなぁ、、、。

 ミュージカルが苦手な理由は、やっぱり、こういうところかなぁ。それ、歌う必要あるの??みたいな感じになってしまう。オペラもそうだけど、だからあんまし好きじゃないのよね。オペラは高いしねぇ。

 ……とはいえ、ミュージカルでも、昨年の午前十時の映画祭で見た『サウンド・オブ・ミュージック』はとても感動したし、『マイ・フェア・レディ』もまあまあ楽しい。『オズの魔法使い』『メリー・ポピンズ』とかも嫌いじゃない。

 ミュージカルのキモは何と言っても音楽だろうが、正直なところ、本作には、『サウンド・オブ・ミュージック』に匹敵する“胸に迫る音楽”があるとは思えなかった。まあ、テレビ画面で見るのとスクリーンで見るのじゃ大違いだから、そこを割り引いたとしても、このミュージカルを愛している方々には申し訳ないのだけれど、私の心にはあんまし響かなかった。特に有名な「夢やぶれて」とか「オン・マイ・オウン」とか、良い曲だとは思うのだけど、、、。

 ……と書いてきて思ったのだが、哀しい歌があんまり好きじゃないのかも。本作の場合、基本、みんな眉間に皺を寄せたような顔で哀しい歌を歌っている場面が多い。「夢やぶれて」なんか聴いてるだけでウツになりそうな歌詞だしね……。実際、それを歌うときのファンテーヌの置かれた状況は悲惨そのものだし。

 これは飽くまで私の感覚だけど、絶望しているときとか、哀し過ぎて涙も出ないときとか、歌うエネルギーってないと思うのよね。歌うってものすごいエネルギーを消耗する行動なわけで、、、。だから、怒りの歌は、まだ分かる。怒りもある意味ポジティブな感情だもんね。なんか、絶望とか哀しみを渾身の力を込めて歌われても、その違和感が、私には受け容れ難いのだと思う、、、多分。いやだから、これ、ミュージカルなんだってば、、、ってことはもちろん分かってるんですが。


◆イギリス人はレミゼ好き♪

 で、ストーリーは、割と原作に沿っているっぽいし、長編を2時間半にうまく収めていると思う。基が長編小説だから、これくらいの長さは仕方ないでしょう。歌ってるしね。ただまあ、TV版を見た後だから、どうしたって浅い感じは否めないけれど。

 それにしても、このミュージカルといい、NHKのドラマといい、制作はイギリス。過去の映像化作品の制作国を見ても、本国フランスに負けず劣らずイギリスが多い。どんだけレミゼが好きなん、イギリス人。

 日本人から見ると、なんか不思議。日本が、韓国や中国が原作の、しかもその国の歴史を舞台にしたドラマや実写映画を日本資本で日本人キャストをメインに制作するって、、、(例えば「三国志」とか、、、?)かなりあり得ないことだと思うのだが。共同制作ならアリだろうけど。フランス人には、イギリスが作ったフランスを代表する小説が原作の映画って、どういう風に見えるのかな~、と。

 ただ、アニメだったら、いっぱいそういうのはあるもんなぁ。ハイジなんて、ヨーロッパで放映された際、それが日本のアニメだと知らなかった人も多かったとか。「キャンディ・キャンディ」でも似たようなエピソードは聞いたことあるし。キャンディなんて原作者も日本人だしね。

 イギリスは、ソ連ものやナチスものも自国資本&制作で映画にしているし、やっぱりその辺は、英語という世界市場に通用する言語を母語にしているお国だからかしらん??プロパガンダ映画でなく、娯楽映画として作っちゃうところは、アメリカもそうだけど、何か凄いなぁ、、、といつも思う。


◆その他もろもろ

 俳優さんたちもみんな頑張って歌っていた。ただ、ラッセル・クロウの歌唱力は、どーなの? 彼は上手いのだろうか? 正直、あまり上手いと思えなかったんだが。だいたい、ジャン・バルジャンとジャベールの配役、逆じゃないか?と感じたのは私だけ?? まあ別に目くじらを立てるほど違和感があったわけじゃないんだけど。

 アン・ハサウェイは、これでオスカーを獲っているんだね。確かに重要な役どころで、体当たり演技だったと思うが、、、ううむ。死にそうになってベッドに横たわりながら、やっぱりそこでも歌うんかい! と突っ込みを入れてしまった。

 愛するヘレナは、マダム・テナルディエを楽しそうに演じていた。サシャ・バロン・コーエンと、なかなか良いコンビだった。

 ただ、本作全般に感じたんだけれど、歌っているときの俳優の顔アップが多くて、それが結構ストレスだった。ずーーーっと歌っている俳優の顔だけ見せられるのって、ちょっと困る。もっと引きの映像も入れて欲しいところ。せっかく映像化するんだったら、もう少し工夫の余地があったのでは? マリウスとコゼットの逢瀬のシーンも、交互にアップの画像が切り替わるだけで、2人が門を挟んで気持ちを確かめ合うという肝心の雰囲気ぶち壊しだった。あれじゃぁ、いくら俳優陣が熱演・熱唱したところで、台無しでしょ。

 本作は、俳優がライブで歌ったことがウリになっているが、メイキングの映像を見て、それがホントに大変だったことがよく分かる。せっかく、そんな大変なことをクリアして制作したのだから、もう少し、カメラワークは工夫して欲しかったなぁ。

 まあ、ミュージカルだからあまり期待はしていなかったけれど、思っていたよりは楽しめたかな。他のレミゼ映画もこれから見ていく予定です。


 
 

 

 

 

ラッセル・クロウのジャベールは最後まで違和感バリバリだった。

 

 

 

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地獄の逃避行(1973年)

2020-05-06 | 【し】

作品情報⇒https://eiga.com/movie/15601/

 

以下、TSUTAYAの案内ページよりコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。 

 25歳のキット・カラザース(マーティン・シーン)は、ジェームス・ディーンに憧れ、そのイメージを追い求める若者だ。その彼がある日出会った15歳の少女ホリー(シシー・スペイセク)。彼女の純粋な魅力に惹かれて恋に落ちたキットに、ホリーの父親は2人の交際を禁じた。思い余って父親を殺してしまったキットは、ホリーとともにあてのない逃避の旅に出る。

 1958年にネブラスカ州で実際に起った連続殺人事件を基に、15歳の少女ホリーと、交際を禁じられたため彼女の父親を殺した25歳のキットとの逃避行を、広大な荒野をバックに描いたカントリー色鮮やかなロード・ムービー。

=====ここまで。


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 ネットをボケーッと見ていたら、巣籠もり生活のサスペンス映画オススメ10選、みたいのがあって、あんまし私の趣味じゃない系の映画ばかり並んでいたのでスルーしようと思ったら、本作の出演者に目が留まり、急に見てみたくなったという次第。若い頃のマーティン・シーンにシシー・スペイセク。何か面白そう、、、と思って、ちょっと調べたら、意外に有名な映画だった模様。


◆キラーカップル逃亡劇

 テレンス・マリックの監督作品というと、『シン・レッド・ライン』しか知らない上に見ていないので、つまりは、この監督については何も知らないのだけれども、何となくその評判から“長いだけで面白くはないのでしょ?”と勝手に思っていた。

 でも、本作に限って言えば、95分と短くテンポも良いし、無駄な描写もない。地味だけど、なかなか良い映画だと思った。

 人を殺しながらのロードムービーというお話の割に、終始とてものどかな雰囲気で、“人殺し”シーンさえなければ、純粋な青春モノと言っても良いくらい。25歳のキットを演じるマーティン・シーンは、当時もう32歳で結婚して子ども(エミリオ・エステヴェスとチャーリー・シーン)もいた身とは思えないくらいに瑞々しさを放っている。頭はあんまし良くないし、堪え性がなく不器用だけど、単細胞で素朴な、序盤ではまあまあ好感を持てる青年だ。

 一方の15歳のホリーを演じるシシー・スペイセクも、当時23歳だったそうだが、まあ15歳に見えるところが凄い。あんまし男の子に免疫のなさそうな、美人ではないけど、ちょっと抜けた感じの庇護欲を刺激する少女。キャリーとはかなり雰囲気が違う。

 この2人のキャスティングが良かったのだと思うなぁ。キットとホリーの気持ちが通じ合っていく過程の描写などは実に微笑ましい。

 しかし、キットがゴミ収集の仕事をしているということで、ホリーの父親はキットを毛嫌いする。キットとちゃんと話をしようとさえしない。職業だけでその人を判断する、、、ってのは、まあ、大人はやってしまいがちなことだけど。反社とかヘンな宗教関係とかじゃないんだから、あそこまで頭ごなしに否定することもないと思うのだが。

 で、この後、キットが豹変するのだよ。ホント、豹変って感じに見えた。それまでホリーに対しても、ホリーの反応を無視して襲い掛かるようなこともゼンゼンなく、そういう意味ではとっても“紳士”だったキットなのに。ただ、ホリーの父親に頭ごなしに否定されて、「今度来たら殺す」とまで言われたのに、キットは怒りとか悔しさとかを露わにすることなく、何とも無表情なのが、不気味と言えば不気味だったけれど。

 ホリーを連れ出そうとしたところを父親に妨害され、キットは呆気なく父親を射殺する。側にいるホリーも、取り乱すこともなく、呆然と見ているだけ。父親の遺体を地下に放置し、家に火を付けて、逃亡劇が始まるのだが、、、。


◆キットとホリー、本当に可哀想なのはどっち?

 逃亡の邪魔になる人間を容赦なく殺す一方で、カー・ラジオから流れるナット・キング・コールの「A BLOSSOM FELL」で踊るなど、キットの不思議なキャラが印象的だ。ホリーを大切に思っているのか、1人じゃ寂しくて自分に無条件に着いて来てくれるからなのか、その辺も正直なところ見ていてよく分からない。そもそも、ホリーを連れ出そうとしたのも、そこまでホリーにぞっこんだから、、、という感じではない気がした。

 ホリーの方も、何となくどうしてよいか分からないからそのままキットに着いて来てしまったけど、、、みたいな感じで、キットとの逃避行に何らか思いを抱いているようには見えない。まさに、“主体性がない”ってやつなんだが、上記のナット・キング・コールでキットと踊っているときに見せる無表情な顔は、決して考えなしのおバカ娘のそれではない。もう、この逃亡に、、、というより、キットに心の中では見切りをつけていることがアリアリとしている。どうやってこれを終わらせるか、しかも自分は安全圏に身を置いたままで、、、ということを考えているチャッカリ娘なのだ。

 つまり、キットは彼女にとって、支配的な父親から解放してくれた恩人ではあるが、それ以上の存在にはならなかったし、彼女には最初からキットがそれ以上の存在にならないことは分かり切っていたのだ。なぜなら、キットは“ゴミ収集の人”だから。

 序盤で、2人が親密になる前に、キットに彼女自身が言っている。「お父さんはあなたを認めない。だって、ゴミ収集しているんだもの」(セリフ正確じゃありません)と。父親がそういう人間でも、自分がそれとは異なる価値基準を持っていれば、そんな相手の尊厳を傷つけるような言葉を安易に直接言いはしない。逃亡を終わらせるためにホリーがとった行動、さらには後日談についての独白を聞けば、彼女はまさしくそういう人間だったということが分かる。

 そうしてみると、キットの方がむしろ気の毒という気もする。キットは全て一人で罪を背負い、電気椅子送りになった。実際、ホリーは殺人には手を染めていないし、その裁きは妥当なのだろうが、ホリーは決して“巻き込まれて可哀想”なわけじゃない。父殺しという点においては、気持ちの上では共犯だったと言っても良いだろう。


◆その他もろもろ

 キットは、ジェームス・ディーンに憧れているという設定なのだが、若かりしマーティン・シーンは、その設定に違和感がない。私の知っている、オッサンになった後の彼とはまるで別人で、驚いた。下積みが長かったそうだが、本作での演技を見ると、作品に恵まれなかったのかな、、、としか思えない。まあ、本作が彼の転機になったようだけど。

 シシー・シペイセクは、不思議ちゃんを好演している。

 本作は実際にあった“スタークウェザー=フューゲート事件”をモデルにしているそうだが、ネットでいろいろ見たところ、本作とは大分、事件の様相が違うみたい。大筋は同じだけれども、もっと陰惨なイメージ。しかも、2人が逮捕された後、映画とは異なり、男の方が「女も人を殺している」と証言したことで泥沼になった様だ。ご興味のおありの方は、ネットで検索してみてください。

 あと、ヘンな邦題だと思ったんだけれど、これには理由があるらしい。詳しくはwikiをどうぞ。ま、ありがちな話だと思ったけど、もう少し真面目につけろよ、と思ったわ。

 

 

 

 

 


殺された人々が一番気の毒なのは言うまでもない。

 

 

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パトリック・メルローズ(2018年)

2020-05-04 | ドラマ

作品情報⇒https://www.star-ch.jp/drama/patrick-melrose/sid=1/p=t/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 貴族でウィットに富んだプレイボーイのパトリック(ベネディクト・カンバーバッチ)。だが幼い頃に受けた父親(ヒューゴ・ウィーヴィング)からの虐待と、現実逃避しては息子をないがしろにする母親(ジェニファー・ジェイソン・リー)の間で育ち、その子供時代のトラウマをかき消そうと、アルコールや薬物におぼれる・・・・・・。

 やがて彼が更正するまでの、パトリックのその痛々しい人生を時にユーモアを交えて描く。

=====ここまで。

 映画ではなく、全5回のTVドラマです。このブログは、基本的にはドラマの感想は書いていないのだけど、本作は、ちょっと書き留めておきたいと思ったので例外ですが、感想を書くことにしました。


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 ある方のTwitterで、このドラマについて言及されていたので興味を持ち見てみた次第。原作は、エドワード・セント・オービン作の英人気小説らしい。邦訳版も出ているが、まだ単行本で、5冊揃えるとなるとかなりの出費なので、文庫化(されるか分からんが)されるのを待つかな。最悪は図書館か、、、。

 各話にエピソードタイトルがついていて、原作がそういう構成になっているので、そのままドラマでもタイトルにしたみたい。ただし、原作本と見比べると、1話と2話のタイトルは入れ替わっている。ドラマの各タイトルは次のとおり。

 ① バッド・ニュース、② ネヴァー・マインド、③ サム・ホープ、④ マザーズ・ミルク、⑤ アット・ラスト

 ……とまあ、それはともかく、私はほとんどこのドラマについての予備知識はなく(カンバーバッチが出ていることと、親子の確執モノだということくらいしか知らなかった)見始めたので、1話目の開始直後からエンジン全開でぶっ飛びまくりで、正直、始まって15分くらいは、何じゃこれ、、、状態。父親が死んだところから始まるのだが、パトリックは「やっと死んだか!!」と笑みを浮かべ、父の遺灰の入った壺を投げつけて破壊しようとする。ハッキリ言ってもう、最初から最後までメチャクチャなんである。

 1話目が見た目的には一番壮絶だった。とにかく荒れまくるパトリック。ヤクを打った上に酒をがぶ飲みして、見ているだけで恐ろしくなる。よくこれで死ななかったな、と、むしろ驚き。

 でまぁ、もちろんそんなことになるには背景があって、、、というわけで、お約束のような幼児期の虐待エピソードが2話で描かれる(ちなみに、2話ではカンバーバッチはほとんど出て来ない)。

 その虐待ってのが、実の父親からの性的虐待。もちろん、その場面の描写はなく、それと分かる間接描写なのだが、それでも目を背けたくなった。しかも、甘言でいつのまにか本人がよく分からないうちに、、、というのではなく、最初から「パンツを脱げ」とダイレクトな命令による恐怖支配で、戦慄する。これが度々行われていたというのだから、おぞましいことこの上ない。

 で、この父親・デヴィッドなんだが、すげぇヤバい!! もう、見た目もヤバいし、言っていることもやってることも、全部ヤバすぎるのである。いかにヤバいかというのが、この2話でのメイン。一言で言うと、周囲の者を不快にすることに長けている。わざとやる。まぁ、言ってみれば“マウント”だよね。プライドはエベレストよりも高いが、自信のなさはエチオピアの海抜マイナス100メートル(こないだNHKの「ホットスポット」とかいう番組で福山が訪れていたので)よりも低い男なんだよね。自信に裏打ちされていないプライドほど厄介なモノはない。

 普通、こんな男が夫だったら、妻は逃げ出すと思うのだが、逃げる気力がないのね、もう。この、パトリックの母親・エレノアはアメリカ人で、実家が大金持ちだったため、落ちぶれ貴族(階級)の父親に掴まった、、、という結婚の馴れ初めのようである。デヴィッドにとってはこの結婚自体にうま味があるから、エレノアを絶対に手放すことはない。エレノアは、気がついたときには逃げる機会を逸していたってことだろう。

 まあ、エレノアも気の毒だが、一番悪影響を受けるのは子供であるパトリックだ。実際、悲惨な目に遭っている。エレノアは、自分を防御することにも無気力な人だから、当然、子供を守ることもしない。とにかく、ただただ息を吸って日々をやり過ごしているのが、エレノアだ。だから、パトリックは、とことん、デヴィッドの餌食になってしまった。
 
 3話目では、ヤク中&アル中から脱した学生のパトリックが、辛い過去と向き合いながら、伴侶を得るまでが描かれる。この3話の主役は、パトリックというよりは、むしろ2話にも出て来たブリジット(ホリデイ・グレインジャー)という成り上がり女。まあ、そこそこ面白いけど、インパクトで言うと、割とおとなしめ。

 4話目は、弁護士になったパトリックの家庭が、崩壊に向かう。この崩壊の原因は、母親・エレノア。デヴィッドが死んだ後は、自分を取り戻しているかと思いきや、何かもう廃人のようになっているエレノアは、おかしな宗教にはまり、自分の財産をその宗教団体に譲ると言って聞かなくなってしまっているのである。

 この一件は、もともと母親からの愛情を実感できていないパトリックにとっては、ダメ押しみたいなもんだったんだろう。アルコールに逃げ、アッと言う間にアル中に逆戻り。しかも、パトリックは、父親から受けた虐待のことを、エレノアに話せていないことが、ずっと心の重しになっていた。パトリックにとってみれば、この傷を癒やせるのは、エレノアしかいないのだ。気付かなくて、あなたを守れなくて、苦しめて「ごめんね」の一言が欲しい。その一言で、どれだけ救われるか、、、。

 しかし、これを話せば、エレノアは苦しむに違いない。だから言えない。その“母への告白”が5話目のキモとなる。この告白は、母の死後の回想という形で描かれる。

 もうね、この告白のシーンを見て、私は大げさでも何でもなく、サーッと血の気が引いた。パトリックの告白を受けたエレノアのリアクションについては、ここには敢えて書かない。書きたくない。なぜなら、私も同じ経験をしているからだ。

 もちろん、私の場合は、親に性的虐待をされたことはないし、親に告白した内容もゼンゼン異なる。しかし、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、本当に、人生レベルの決断をして、母親に明かしたある事実について、全くその重みを無視したリアクションをされるというのは、子にとっては「死ね」と言われるより辛いことなのである。

 だから、私は、この告白シーンを見て、自分のときの体験がフラッシュバックし、本当に顔色が変わるのが自分で分かる感覚だった。涙も出ない。実際、ドラマの中でのパトリックの表情も、、、。まあ、詳しくはご覧ください、ドラマを。

 ラストは、一応、パトリックの家庭が再生に向かうことを予感させる終わり方で希望が持てるのでgoo。

 本作は、悲惨な内容を扱っているけれど、見ていて笑えるシーンも多く、大人のブラックコメディと言って良いと思う。1話目は唖然となってしまうが、ここで着いていけなくならなければ、2話目以降は一気に引き込まれる。展開が早く、一瞬も退屈しない。こんなドラマが作れるなんて、イギリスはやっぱりすごいなぁ、、、。日本のドラマで、このレベルのものって、ちょっと思い浮かばない。ここまで、社会の闇に切り込めるのは、やはりそれを受け止める社会が成熟している必要もあるだろうね。

 ちなみに、本作は、原作の著者エドワード・セント・オービンの半自叙伝とのこと。

 それにしても、幼少期の悲惨な体験が、いかにその人の人生に多大な影響を及ぼし続けるか、ということが、これでもかと描かれており、恐らく、原作小説もそうなのだろう。そして、原作者の一番書きたかったこともそこなのではないか。人生で、これほどの理不尽はない。そんな主人公パトリックを演じたカンバーバッチの熱演は見物。彼がこの役を演じることを熱望したというのも、見終わってみて分かる気がした。

 

 

 

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ゴッズ・オウン・カントリー(2017年)

2020-05-01 | 【こ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66274/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 イギリスのヨークシャー。祖母(ジェマ・ジョーンズ)や病気の父(イアン・ハート)に代わり、寂れた牧場を管理する青年ジョニー(ジョシュ・オコナー)は、孤独でやり甲斐のない日々を、酒と行きずりの不毛なセックスで紛らわせていた。

 そんなある日、羊の出産シーズンを迎えて、季節労働者のゲオルゲが牧場に雇われる。初めは衝突する2人だったが、羊に優しく接するゲオルゲ(アレックス・セカレアヌ)の姿を目の当たりにしたジョニーの中に、今まで感じたことのない恋心が芽生える。次第にその思いに突き動かされていくジョニーだったが……。

=====ここまで。

 

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 ゲイのラブストーリーものは好んでは見ない方なんだけど、本作は、今、NHKでオンエアしている海外ドラマ「レ・ミゼラブル」でマリウスを演じているジョシュ・オコナーくんが主演を務めていると知り、本作がちょっと前に話題にもなっていたこともあって、見てみようかな、と思った次第。ちなみに、ジョシュ・オコナーくんは好みのタイプというわけでは全くありません。


◆同じゲイ映画でも、、、
 
 本作の設定からして、いやでも、あの映画と比べざるを得ない。あの映画とは、もちろん『ブロークバック・マウンテン』(以下「ブロマ」)ですよ。私は、ブロマが好きではなく(というより、むしろ嫌い)、本作もまあ、多分同じような感想を抱くのだろうなぁ、、、と予想していたんだが、見終わってみればそれは意外にも違っていた。

 ブロマが嫌いな理由は『キャロル』でも書いたが、2人の男があまりにも自己憐憫に浸っていてウザかったからだが、本作の場合、もちろん時代背景が違うことが一番大きいとはいえ、ゲオルゲはかなりイイ男(中身がね)でタフなのだ。ゲオルゲのキャラが、ジョニーと同じようなウジウジ系だったら、多分ブロマと同じ印象になっていたような気がする。

 ゲオルゲは1週間という期間限定の助っ人としてジョニーの牧場にやってくるわけだが、羊の扱いはジョニーよりも上手く、恐らく牧畜関係の仕事を渡り歩いている移民なのだろう。最初は、パキだのジプシーだのと差別感丸出しでゲオルゲのことを小馬鹿にしていたジョニーだったが、毅然とそういうジョニーの態度にNoと言い、仕事の手際も良いゲオルゲに、逆に腰が引けてしまう辺りは、ジョニーのショボさが上手く描かれている。

 で、やはり本作でも、“それ”は唐突に起きる。またかよ、、、とちょっと苦笑してしまった。ゲイのロマンスの始まりってのは、ああいうことが珍しくないんですかね? ヘテロであれやったら、まぁ、100%強姦なんだけど。本作でもやっぱりそこは気になる。

 ……が、とりあえずそこはスルーするとして、その一線を越えてからのジョニーの変わり様が、なんというかカワイイのだ。オバハンになった私から見ると、「嗚呼、若いって良いな~」と微笑ましくなる。実際、あれくらい劇的な変化をもたらすパワーが恋愛にはあるし、それこそが恋愛の醍醐味でもあり、ブロマには描かれていなかったもののように思う。その違いは、時代の違いそのものとも言えるだろうが、それだけじゃない。やっぱり、ブロマに欠落していたのは、ゲイであろうとなかろうと、恋愛に対する“本気度”だと思うのだ。

 ジョニーは、ゲオルゲが去った後、必死で後を追う。そして、帰ってきて欲しいとなりふり構わず懇願する。こういう“なりふり構わず”な行動が、やっぱり見ている者の胸に迫るものがあるかないかの違いになるんじゃないのか、、、。ゲイじゃなくても、ヘテロでも不倫とか格差恋愛とか、枷のある恋愛ってのはあるわけよ。その枷をいかになりふり構わず外していくか、ってのがドラマツルギーでもあるわけで。ゲイという枷を何か外しがたい特別感を持った恋愛モノにしちゃうと、ブロマみたいな「環境が悪い」という自己憐憫に帰結する話で終わっちゃう。

 とか書いてきたけど、よく考えてみると、ブロマももう大分内容を忘れているので、もしかしたら、もっと良い映画なのかも知れない。私の中でどんどん作品への記憶の上書きがされている可能性は高い。今度、もう一度見直してみよう、、、。


◆寒々しく暗い風景とカワイイ子羊

 ブロマは、2人の男の心象風景をネガにしたかのように、背景の自然はとても明るく美しかったが、本作は、やはり背景はとても美しいのだが、全編にわたってとても暗い。しかし、結末に希望があるのは本作の方であるところが面白い。

 また、羊の出産シーンのリアルさは本作の見どころの一つ。生まれた子羊が息をしていないのだが、ゲオルゲは根気よく子羊をさすってやる。隣でジョニーが「ムダだよ」と投げやりな態度で居てもさらにさすり続けていると、子羊がぴくんと動いて立ち上がる。かと思うと、死んだ子羊を手際良くその皮を剥ぎ、生きている別の子羊に被せてやる。こういう、まさに“生と死”が目の前でリアルに展開される仕事を誰かと一緒にしていると、その相手と理屈抜きで“生”を分かち合いたくなるのも、何となく分かる気がしてくる。

 おまけに、その子羊たちが実にカワイイのだ。その子羊を世話することは、ジョニーとゲオルゲの子を世話しているみたいな感覚になるのかも知れない。こういう時間を、たとえ1週間という短い間でも共有することは、そら特別な感情を抱くことになるのも不思議じゃない。

 2人の関係に気付くジョニーの父や祖母も、まぁ、手放しでは喜べないものの、あからさまな拒絶はしていないところも、ブロマとは時代が違うことを如実に物語る。

 きっと、2人は良きパートナーになって、あの牧場を運営していくことになるのだろう、、、と思えるラストで良かった。


◆その他もろもろ

 で、ジョシュ・オコナーくんだが、、、。レミゼのマリウスのジョシュくんは、正直言ってイマイチなんだけど、本作のジョニーはなかなか良かった。マリウスは、飽くまでも私のイメージでは、上品で美形の優男なんだよね。でも、このジョシュくんは特別美形ではないし、下品ではないけど、ハッキリ言ってモロ庶民のイメージ。だから、ちょっとマリウスには合っていない気がするんだけど、本作ではゲイのラブシーンも、まあ見られるものになっていた。

 ゲイのラブシーンは、やはり美男同士でないと、ちょっと見ていてキツいのだが、本作で見られるラブシーンになっていたのは、ゲオルゲ役のアレックス・セカレアヌの持つ雰囲気に負うところが大きいと思う。彼も美形とは違うが、彫りの深い目鼻のハッキリした顔立ちで、キレイなんだよね。

 それにしても、2人とも素っ裸になって大熱演だった。昨今、ゲイの映画も珍しくなく、当然、ラブシーンも描かれることが多いわけで、俳優さんたちも仕事とは言えタイヘンだ。私だったら、仕事で裸になることはできても、女性とベッドシーンを演じるのはムリ。もう、生理的にダメだと思う。まあ、そもそも役者になる素質もなければ、そんな願望を持ったこともないのだけど。

 レミゼでは極めてなよっちい男を演じているジョシュくん。次の日曜日がレミゼの最終回なんだが、ラスト、どんなマリウスを見せてくれるでしょーか。
 

 

 

 

 

もうトレーラーハウスはいらない。

 

 

 

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コメント (2)
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