映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

アイガー・サンクション(1975年)

2016-06-30 | 【あ】



 ジョナサン(クリント・イーストウッド)の、表の顔は大学教授&登山家、裏の顔は元殺し屋。

 ある日、足を洗ったはずの殺し屋稼業に再び戻らざるを得なくなる。たった1度だけ、という約束で依頼を完遂するが、その帰り道に美女の誘惑に乗り、再度、殺しをしなければならなくなる。しかも、その舞台は、今まで2度とも登頂に失敗しているアイガー北壁。殺す相手も不明。

 、、、ツッコミどころ満載ながら、まだイイ男だったイーストウッドを隅から隅まで味わえる、イースドウッド・ファンしか楽しめない(と思われる)作品。
 
 

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 もちろん、私は、俳優イーストウッドの半ば信者なので、十二分に楽しめますけれど。、、、一体、何度見たことやら、と思いつつも、BSでオンエアしていたので、ついつい録画して観てしまいました。う~~ん、カッチョええわぁ、イーストウッド


◆すぐにパンツを脱ぐ殺し屋が、アイガー北壁に挑む。

 まあ、正直言うと、本作のジョナサンのキャラは、あんまし好きじゃないんです。イーストウッドが演じる中でのベスト・キャラは、そらもう、ハリー・キャラハンなわけで。ジョナサンは、いくらなんでもマヌケ過ぎで、見た目がカッコイイだけに余計にバカに見えるという、イマイチなキャラです。

 最初の殺しも、びっくりするくらいの杜撰さ。あれでよく敵に気取られずに殺せたよなぁ、、、と。“まあこれは映画だもんね”としかコメントのしようのないお仕事の仕方です。排水管を伝ってよじ登るとことか、後半にあんだけ登山シーンで身体機能見せつけるんだから、別に今やらなくてもいいんじゃない? と、必死でよじ登っているイーストウッドにツッコミを入れてしまいます。

 でもって、女と見ると、すぐに寝るジョナサン。殺し屋なのに、そこまで下半身が緩くてよろしいの? と、またまたツッコミ。ここでも、“まあこれは映画だもんね”と思う次第。

 そして、最大の見せ場のアイガー北壁。確かに、絶壁を上るシーンは手に汗握る素晴らしさ。どうやって撮影したんだろう? と、素直に感動。イーストウッドも絶壁をまたまたよじ登っています。

 で、終盤、こいつがターゲットだったのか……!! とジョナサンは初めてそこで知るんだけど、見ている方は、とっくに察しがついている。サスペンスとしては、イマイチどころか、かなりダメダメな展開。

 イーストウッドがザイルを切る瞬間のドキドキ度といったら!!! 落っこちないの分かっているけど、もう怖くて見てられません


◆映像はさすが、、、なのでは。

 本作は、監督もイーストウッドが務めていて、もう文字通り、イーストウッドの・イーストウッドによる・イーストウッドのための映画なわけです。

 で、内容的にはツッコミだらけなんですけど、映像は、結構素晴らしいと思うのです。技術的なことは分かりませんが、この頃からすでに腕は確かだったんでしょう。

 登山シーンのアイガーを臨むホテルからの眺めや景色の美しさ・明るさ・解放感、対比するかのように青い空が上の方にだけ見えている周囲を岩に囲まれたモニュメント・バレーでの訓練シーン、殺し屋の元締めドラゴンの暗室みたいな部屋でのシーン、、、と、実に画になるシーンがたくさん。内容がスカスカでも、これだけで見応え十分。

 あとは、45歳で脂の乗り切った俳優イーストウッドのカッコイイお姿を拝んでいれば、この作品は、美味しく味わえるのです。

 今回見て思ったのは、この頃のイーストウッドは、マイケル・ヴァルタンにちょっと似ているってこと。知名度的にはゼンゼン違うけど、ヴァルタンを、もう少しごつくした感じでしょうか。顔だけ見れば、ホント、雰囲気がそっくりです。私がヴァルタン教の信者になったのも、まあ、必然だったのかもなぁ、と妙に納得しました。

 ちなみに、ヴァルタンが、『アリー・myラブ』で出演したときの役の名も、ジョナサンでした。すごいどーでもよいネタをすみません。

 イーストウッド氏、今年86歳なのですねぇ。いやぁ、すんごいお元気。創作意欲は枯れることなく、素晴らしいです。あと何本撮ってくれるんでしょうか。いつもに増して中身のない感想で重ね重ねすみません、、、。





あんまし感想を書く気にならない映画です。




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セッション(2014年)

2016-06-27 | 【せ】



 一流と言われる音楽院の学生ニーマン(マイルズ・テラー)は、ある日、練習しているところを、校内で有名な教師フレッチャー(J・K・シモンズ)に目撃される。フレッチャーの要求に応えてドラムを叩くが、フレッチャーは気がついたら部屋からいなくなっていた。

 そのフレッチャーに、自分のバンドに招かれたニーマンは得意気になってバンド練習に参加するが、そこは、信じられない理不尽なハラスメントが横行する異様な空間だった。

 こうして、フレッチャーとニーマンの仁義なき闘いの幕は切って落とされた。果たしてその行方は、、、?
 
 

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 面白いという世間の評で、ちょっと見てみることに。ほとんど内容については予備知識なく見たのですが、あんまし楽しめませんでした。


◆フレッチャーは、単なる欲求不満の八つ当たり爺ィ

 これを言っちゃうと身も蓋もないんですが、私、こういう“罵倒する指導”って、もう大っ嫌いなんです。こういう指導法を良しとする人間を心の底から軽蔑してしまう。厳しい指導と、怖い指導、って別物だと思うわけです。厳しくて緊張するのは良い緊張だと思うけれど、怖くて緊張するのは単なる委縮であって良い緊張とは到底言い難い。指導する対象を委縮させて、本気でその才能を伸ばすことが出来ると信じている時点で、頭悪いんじゃないかと思ってしまう。

 もちろん、楽しく和気藹々が良いだなどと言っているのではありません。厳しさとは、相手を恐怖で支配することではない、と言いたいだけです。多くの天才バイオリニストを育てたアナ・チュマチェンコの指導理念などを読むと、真に有能な指導者は、罵倒は指導ではないと常識として弁えていると思います。

 まあ、恐怖による支配は、ある程度までは上手くいくと思います。でも絶対、限界がある。秀才は育っても、天才は育たない。天才は、余白のあるところから生まれるものであって、ギリギリ追い詰めてボーダーラインでやっと出てくるものじゃないと思う。これはあくまで私の一意見ですが。

 罵倒する指導を実践する指導者は、指導対象を一人の人間として接しているのではなく、何か動物訓練をしているのと同じ感覚なのではないかと疑ってしまう。普通の言葉で判らないんだから、人格を根こそぎ否定する罵倒もOK、暴力もOK、ってどういう思考回路なわけ? むしろ動物にこんな訓練したら絶対上手くいかないのは半ば常識になっていますが、人間ならOKと思うのはなぜ? 天才ならなおOKと思うのはなぜ? 天才ならどれだけ貶めても這い上がってくる、なんて噴飯モノな理屈です。天才は、プライドが高いから、むしろこんな指導したらポッキリ行っちゃう可能性もかなり高いと思う。こういうのは、指導ではなく、指導者自身の欲求不満からくる単なる八つ当たり、じゃない?

 そういう前提で見ると、本作のフレッチャー先生は、生徒を育てようなんてハナから考えていないとしか思えない。つまり、才能を潰すことが目的なわけ。潰すにはこれ以上ない方法だもんね。なぜ潰したいか。そりゃもちろん、嫉妬ですよ、嫉妬。才能に対する嫉妬というより、可能性や前途ある若さへの嫉妬じゃないかな、フレッチャー先生の場合。あんな指導をする教師に、生徒に真に天賦の才があるかどうかを見極める審美眼があるとは到底思えないもの。

 公式サイトのストーリー紹介にある「天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった」ってのは、私には大ウソにしか思えません。まあ、事前にサイトを見ていませんでしたから怒りも感じませんが。完璧を求める人が、終盤、あんなことしませんて。


◆甘ちゃんニーマン

 主人公のニーマンは、まあ、普通の青年ですよねぇ。いけ好かないヤツというネットでの評を見ましたが、ああいう傲慢さも、若さゆえのものである意味仕方がないと思うし。

 必死で練習をする姿は、なかなかグッとくるものがありましたが、、、ドラムってそういうものなのかもしれないけど、私、汗撒き散らしながら演奏する人って、ちょっと生理的にダメなんです、、、すみません。ベルリンフィルを振ったとかってはしゃいでた日本人指揮者のS氏とか、もう見てられません。あれ、弦楽器の前方の奏者に相当飛び散ってると思うんですよねぇ。楽器や楽譜にオッサンの汗飛沫、、、うげげ~っ。私だったら気持ち悪くて逃げ出すかも、、、。プロの奏者はそういうところも耐性があるのかしら。、、、とにかく、汗やら血やら飛び散りまくって、それは演出だと分かっていてもイヤだわ~。

 ニーマンは、なんだかんだ言っても、ちょっとアマちゃんですよねぇ。序盤でも終盤でも、フレッチャーに声を掛けられるとそれで“いい気”になっちゃう。序盤のはまだしも、終盤のは脇が甘いなぁと。私なら、あんな目に遭わされたヤツの誘いになんか二度と絶対乗らないけど。……とはいえ、本番の舞台で大恥かかされるとは予想できなくても仕方ない。というか、そんなこと音楽を生業とする者は、普通思いつかないもの。だからフレッチャーはやっぱり音楽家としても邪道、指導者としてはもっと邪道、だと思ってしまう。

 ただ、ちゃんとやり返すあたりは、ニーマン君、なかなかやるじゃん! と思って見ていました。あれはドラムだからできた芸当かも知れません。少なくとも、ベースだったら無理だよねぇ。

 でもって、最後は、フレッチャーとニーマンの和解? みたいな描写に見えなくもないけど、そんなはずないよなぁ。個人的には、ニーマンには我が道を突き詰めて欲しい気もするけど。世間の注目を浴びたいという名声欲が強すぎるのは難アリかも。上昇志向が強すぎる人間って、大抵、どっかで足下すくわれるんですよねぇ。いずれにしても、彼らのその後にあんまり興味が湧かないです、正直なところ。


◆その他モロモロ

 それにしても、こういう教師が一流と言われる学校にいること自体が不思議です。まあ、途中でクビになりますけど。当然でしょう。

 そんなわけで、本作を好意的にはどうしても受け止められません。

 世間の評判通り、映画として面白いか、というと、まあ心理戦なので興味はラストまで尽きません。嫌悪感を抱きながらもついつい見てしまう、ってヤツです。

 フレッチャーを演じたJ・K・シモンズが、悪漢、、、じゃなくて圧巻でした。スキンヘッドで、見るからにヤバそうなオッサンって感じ。彼の手の動作が印象的です。演奏を止めるところとか。ちょっと指揮っぷりがイマイチなのが残念でしたが、助演賞もなるほど、の演技でございました。ニーマンを演じたマイルズ・テラーは、ふてぶてしさと弱さを併せ持つキャラを好演していたけれど、J・K・シモンズの悪漢ぶりに、完全に喰われてしまっていたような。あのドラムの演奏は、天才っぽいんですか?


 




汗&血飛沫、飛びまくりにドン引き。




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日本の悲劇(2012年)

2016-06-21 | 【に】




 肺がんを患い3か月の余命宣告を受けた不二男(仲代達矢)は、手術を拒否して半ば強引に退院して来た。退院に付き添ったのは、もう長いこと無職の息子・義男(北村一輝)。

 義男は、数年前に突然リストラされてうつ病になり、妻子を置いて勝手に入院。入院中に妻子に去られ、社会復帰しようと退院した矢先に母親・良子(大森暁美)が倒れて寝たきりとなり4年間の介護生活の果てに良子は亡くなる。

 ようやく介護から解放されたと思ったら、東日本大震災に見舞われ、気仙沼が実家の妻子は行方不明。不二男は肺がんで入院。今や、余命わずかの不二男と、その不二男の年金を頼りに生活する無職の義男だけが残された。

 不二男は、そんな義男の先行きを案じ、自分にできることは、ひっそりと逝き、息子がこのまま無職でも自分の年金で生活していけるようにすることだけだと考える。そして、退院した翌日から妻の遺影の飾られた祭壇がある部屋の戸を中から釘で打ち付けて閉じこもり、絶食によって死を待つことに。閉じこもった父を何とか思い直させようと泣き叫ぶ義男だが、不二男の意志は固い。

 かくして数日後、不二男は義男の呼び掛けにも応えなくなった、、、。
 

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 あんまり得意じゃないと分かっているのなら、最初から見なきゃ良いのに、こういう社会問題を扱った映画についつい手が伸びてしまう悪い癖。見てから大抵、後悔するんですよね……。本作もしかり。


◆エアー老人問題

 数年前の一時期、世間を騒がせた“所在不明老人”の問題が元ネタのようです。元ネタは、都内某所で、戸籍上111歳になる老人が、30年以上前に死亡しており、その間、遺族らは老人の年金を黙って受け取っていた、という話。ここまでの長期間でなくとも、親の死亡を届け出ることなく、遺族が年金を不正受給していた、というニュースはその後も後を絶ちません。

 元ネタになった事件では、亡くなっていた老人は「即身成仏する」と言って部屋に閉じこもったきり出てこなくなった、ということだそうですが、本作の場合、父親の不二男が、息子に年金の不正受給をさせることを目的に部屋に閉じこもり、絶食による自死を選択するという設定です。

 確か、元ネタになった事件が公になった時、当時の都知事だった石原慎太郎が「親が死んで弔いもしないなんてのは人でなし」みたいなことをコメントしていましたが、まあ、それはある意味正論ではありますが、このオッサンは為政者として本当に物事の本質を見極めることができない強権爺ィだなぁ、と呆れた記憶があります。弔えるんなら弔ってるよ、ってことが分からない。想像力の著しい欠如。故人のわずかな年金を当てにしないと生きていけない、追い詰められた生活をしている人々が東京の空の下に少なからずいるのだ、ということを、都知事ともあろう人なら直視して対策を考える必要性に思いを致すことの方が、正論ぶち上げてこき下ろすより先じゃないんですかねぇ、、、ってことです。都知事じゃなくて、ただの作家ならいいですよ、好き勝手言ってりゃ。立場をわきまえろよ、って話です。

 まあ、だからこそ、映画にして世に問い掛けようという、この監督さんみたいな人がいるのでしょうが、、、。

 その後、根本的に年金制度の改革もされていないし、こういう問題は高齢社会ニッポンでは今後も続発が予想されます。その度に、遺族を逮捕・糾弾しているだけで果たして良いのでしょうか。長寿社会で、親の介護に想像以上の莫大な費用が掛かり、親自身はもちろん、子自身の老後資金もスッカラカン、わずかな年金が命綱になる人が爆発的に増えるのは火を見るよりも明らかなんですけれど。その年金だっていつ破綻するか、時間の問題という考えただけでも恐ろしい現実。保険料払っているうちにお迎えが来てほしいです、本当に。

 エアー老人はその後、各地で調査されてかなり明るみに出たことによりエアーじゃなくなったみたいですが、年金不正受給の詐欺はなくならないでしょう、多分。


◆セリフで全部説明し、細部は嘘くさい。

 で、映画としての本作についての感想ですが。正直、ものすごく退屈でした。社会派映画だか何だか知りませんが、もう少し、「人に見せる」ことを意識して作ってもらいたいなぁ、と思います。

 そもそも映像化している意義が分からない。だって、全部、何もかも、セリフで状況を説明してしまっているのですから。何のための映像ツールなのか。低予算なぞ関係ない。創意工夫がまるでないのが、志を感じられなくてイヤです。

 北村さんは実力ある俳優さんだと思うけれど、本作での芝居は、嘘くさくて見ていられませんでした。これは演出がマズイとしか思えない。北村さんに限らず、仲代さん始め、皆さん上手い人ばかりなのに、なんかヘンだった、ずーっと。学芸会みたいな感じ。わざと下手に演出したんですか? と疑いたくなるくらいに、ヘンだった。シーン転換の間も長過ぎてブツ切りな感じだし。その意図が全く理解不能。

 大体、良子さんが寝たきりになって義男が4年も介護したというけれど、その間、夫の不二男は何をしていたんですかねぇ。4年前はまだお元気そうですけれど? 本来なら不二男が主体となって妻の介護をするのが筋で、その当時、うつ病上がりで妻子に去られた後とは言え、前途ある息子にそれを全面的に背負わせるのは、親としてあまりにも非常識なのでは? と思うと、何だかこの設定自体が嘘くさく見えてきてしまい、、、。

 それに、うつ病が完治しているかどうかも怪しい状態で介護に忙殺されていている中年男と、酒ばっかし飲んでいるその親父の2人の暮らしにしては、家の中がものすごく片付いていてキレイなんですよね。冒頭、退院してきた不二男に義男が布団を敷いてやるシーンがあるんですけど、そのシーツもアイロン掛かってるし。こういう細かいところが嘘くさいんだよなぁ、、、。


◆分かりやすいけど響かない

 告発映画(?)なんでしょうけど、こうも独善的な作品だと、制作者の意図は伝わらないよ。伝わる人に伝われば良い、というのなら、制作者としては失格だと思う。

 この監督さんは、昨今の“分かりやすい映画”を批判なさっているようですが、それは同意する部分も確かにありますが、だからと言って、仮に本作がその制作ポリシーを貫いた映画だと言われても、なんか違うんじゃないの? というのが正直な感想です。

 見る人の想像力を信用するのと、作る側の独りよがりは、別物です。テーマも役者も良いのに、その扱い方がマズイと作品自体がダメになるという見本のような作品だと思います。

 その内容はともかく、まだ『バッシング』の方が、映画としては成立していたと思う。私は、あれは内容的に嫌いですが。

 最終的に、不二男は目論見通り、絶食の末に亡くなる様です。ラストシーンは、義男が職探しに出掛け、不二男の遺体が眠るだけであろう留守宅に電話がむなしく鳴り響く、というものです。もはやこのシーンをどのように解釈するとか、考察する意味さえ感じられません。

 本作は、残念ながら誰が見てもとても分かりやすいけど、想像力を働かせるまでもなく退屈過ぎて思考停止にさせられる作品、と言ってもまあ過言ではない映画だと思います。それって、監督さんのポリシーの対極なんじゃない?

 仲代さんが回想する場面で、表情だけの演技は素晴らしいです。本作での見どころは、ほとんどそこだけ、と言っても良いくらいでした。ほとんどこき下ろしてばっかでスミマセン。


 




もうこの監督のこのジャンルの作品を見るのはやめておこう。




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団地(2016年)

2016-06-17 | 【た】



 漢方薬局を営んでいた山下ヒナ子(藤山直美)と、清治(岸部一徳)の夫婦は、息子ナオヤをバイク事故でなくしたことをきっかけに店をたたみ、とある団地の一室302号室に引っ越してきた。

 清治は一日中、近所の森(?)に薬草収集に出掛け、ヒナ子はスーパーのレジ打ちのパートに出て、一見、平穏な日々を送っていた。

 4か月ほど経った頃、団地の住人達がある噂をし始める。「最近、山下さんの旦那さん、ゼンゼン姿見せないわね……」「おかしくない?」「もしかして……!?」「奥さんが!?」「うっそ~! やだぁ~!」

 果たして、コトの真相は……。
 


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 某全国紙で、主演の藤山直美さんのインタビューが載っていて、「演じている自分もどんな映画になるか分からなかった」と話していたのと、岸部一徳氏が割と好きなので、ちょっと興味をそそられ、劇場まで見に行ってまいりました。

 ===本作は、飽くまで予備知識なく見た方が絶対に楽しめると思いますので、ご覧になる予定の方は、ここから先はお読みにならない方が良いです。思いっ切りネタバレバレしておりますので、悪しからず===


◆斉藤工がなぁ、、、

 それでは、感想を。

 実は、見に行く前から懸念はしていたのです。本作の監督が阪本順治氏なので。と言っても、私が見た彼の監督作品は、多分2本(『闇の子供たち』『北のカナリアたち』)で、『亡国のイージス』はテレビでぼ~っと見ただけ。でも、どれも“良い映画だなー”と思えた作品はなく、特に『闇の子供たち』は、ちょっと制作者としての姿勢に疑問を覚えたものでした。なので、懸念していたのです。

 ……で。やはり、阪本作品、合わないのかも知れないなぁ、と改めて感じてしまいました。

 まずは冒頭、斉藤くん演じる真城さんが、深々とお辞儀をして、ご無沙汰ですと言うところを「ごぶがり(五分刈り)です」と挨拶する。、、、え゛……。もう、これで思いっきりドン引きしてしまいまして。その後も、なんかダジャレみたいな言い間違い連発してましたけれども衝撃過ぎて覚えていません。もちろん、彼が言い間違えるにはちゃんとした理由があるからなんだけれど。とにかくもう、、、サム過ぎ、イタ過ぎで、始まったばかりだというのに逃げ出したい気分に  実際、劇場内も空調効き過ぎで寒かったんですけど、サーッと全身に鳥肌が立つのが分かりました。

 まあ、おそらく斉藤くんの演技力にも若干難があったとは思うのですが、、、。他にも、例えば、姿勢良く椅子に座っていたかと思うと、突然貧血(?)で椅子から落っこちて、山下さんの漢方薬を飲んだらあっという間に治って元通りの姿勢で椅子に戻る、、、というシーンがあるんですが、ここでも、効果てきめんのことを「効果きしめん」と言ったりする、、、。こんな調子で、もう、最後までずっと、ダメでした、彼の出るシーンが。思いっきり興を削がれた感じです。

 はっきり言って、彼には、コメディはかなり厳しいのでは。真城さんがこういう不自然な言動をするのは、地球人ではないから、という設定のためであって、それは面白いし良いと思うのです。でも、いかんせん、肝心の斉藤くんが、、、。役者としてそういう突飛な役どころは不向きなように感じました。演技力やセンスも足りないとは思うけど、そもそも論として合っていないというか。雰囲気とかルックスとか。多分、堺雅人ならもっと笑えるように演じたでしょう。もの凄く重要な役どころなのに、最大のミスキャストだと思います。


◆コメディの生命線である“間”が悪い

 ストーリー的には面白い筋立てだし、後半の荒唐無稽なSF展開も、ゼンゼンOK。脚本もよく考えられていて面白いと思う。だけど、やはり演出が、、、。

 ダメ押しだったのが終盤です。山下夫妻と、石橋蓮司&大楠道代演じる行徳夫妻が、宇宙と地球上の異空間で会話するシーン。長いし、間延びするしで、もう思いっ切りツマラナイ。折角の芸達者たちなのに、どうしてこうも間の抜けたシーンになるのか、、、。もっとエッセンスを絞った会話にした方が良かったと思う。

 本作は、コメディの顔をした人情劇だと思うのですが、コメディ部分はいささか空回り気味な感じを受けました。

 でも、、、。劇場では、一部でかなり笑いが起きていて、私がドン引きしていたところで大ウケしていた人々もいたのです。そっかぁ、面白いんだ、こういうのが、、、と思いながらも、私の心は冷え行く一方。……ぴゅ~

 カラオケの妄想シーンから一転、ナオヤくんのヘルメットに画が変わり、ヒナ子さんの号泣、、、。と、印象に残るシーンもあるにはあったのですが、私には笑えるシーンは皆無でした。一人息子を、交通事故で突然亡くした山下夫妻の悲しみの深さが、コメディとのコントラストを構成していたと思うのですが、私にはコントラストはまるで感じられなかったのが致命的でした。

 藤山&阪本コンビで有名な『顔』は未見なので、そちらを見てみようかな。面白いとのもっぱらの評判だし。

 




藤山直美&岸部一徳の最強コンビも斉藤工の前に撃沈




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フランシス・ハ(2012年)

2016-06-14 | 【ふ】



 アラサーの、美人だけどゴツくて非モテの独身女フランシス。親友のソフィーとNY・ブルックリンのアパートでルームシェアをしていて、プロのダンサーを目指している。

 ある日、フランシスは彼氏に同棲しようと言われるがソフィーがいるからと、あっさり断る。しかし、その直後に、ソフィーからルームシェアの解消を告げられる。前から住みたかった地区に掘り出し物の部屋が見つかり、他の女友達と一緒に住むことにしたからだという理由で。

 おまけに、ダンサーとしてもほぼプロの道が閉ざされる事態となり、フランシスは失意の中、故郷サクラメントに帰ってクリスマスを過ごし、パリにも2泊3日の一人旅に出掛ける。旅を終えてNYに戻ってきたフランシスの自分探しの結果は、これいかに。
 

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 劇場に、見に行こうかなー、どうしようっかなー、と思っているうちに終映となり、今ごろDVDを見ました。つまり、ちょっと気にはなるけどそこまでそそられなかったということなんだけど、まあ、やはりDVD鑑賞で十分だったかな、というのが正直なところです。


◆残念なフランシスちゃん

 無駄のないトントン拍子の人生劇を見せられてもつまらない。かといって、いまさらアラサー女の自分探しモノもなぁ、、、。自分探しは大いに結構なんだが、私はこのフランシスさん、ゼンゼン共感できなかった……というより、嫌いかも。

 そもそも27歳の女が、その年齢でプロのダンサーを目指している、、、という点にかなり違和感が。これが、ダンサーじゃなくて、物書きとか、絵描きとか、学者とかなら感じなかったと思う。身体能力的に言って、27歳ならもう、とっくにプロになる人はなっている年齢なわけで、そこをその歳まで自分で見極められない、見極めようとしない人っていうのは、ちょっとどーなの? と正直思う。その時点でプロになるレベルのセンスがもともとないのでは、、、というのは言い過ぎなのかな。

 そりゃ、夢を実現するのに年齢は関係ない、とはよく言うけれど、そこには暗黙の前提というものがあって、実際、フランシスにはダンサーとしての未来はないと、カンパニーの主催者に断言されているわけで、、、。ダンサーを諦めるか否か、を選択するには5年くらい遅い気がするんだよね。

 映画やドラマとして、自分探しモノが見るに堪えるのは、おそらく、その本人が自分ときちんと向き合う努力をしている場合に限定される気がするんだよなぁ。

 フランシスを嫌いだと思った理由は、まさにそこなわけです。彼女は、美人で性格も悪くはないけれど、いかんせん、ちょっと頭がよろしくないのでは。

 ソフィーとのルームシェアを解消した後、彼女は男女関係なく友人の家を泊まり歩くのですが、そこで集った人々に思いっきりKYな発言をしたり、明らかに見栄を張っていると分かる強がり(や嘘)を言ったり、、、。最初は、彼女が自分の境遇に折り合いをつけられない反動で、そういう言動に出てしまっているのかなぁ、と思って見ていましたが、どうも違うのです。これ、彼女の地のキャラなのです、多分。それってつまり、、、バカ、ってことじゃない?

 努力しているけれども報われない、頑張っているけれど空回り、、、そういうことはよくあるし、自分探しモノにつきものだけど、フランシスは努力しているようにも頑張っているようにも見えない。ただただ現実に流されているだけ、のくせに、現実を受け入れられない。私は、こういう人の話を敢えて見せられるの、イヤなのよね。だって、スクリーンで見なくてもリアルでその辺にいますから。

 イヤなら見るな、ってことだけど、見る前にそこまで分からないこともよくあるわけで、、、。と一応、言い訳しておきます。


◆そこに“愛”はあるのか?

 本作を見て感じたんですが、こういうアラサーでモラトリアムっている、特に女子に対して制作サイドは固定観念があるんじゃないですかね? そしてその固定観念は、何も本作の制作だけに限らない、割と世間一般的なモノのようにも思うのです。

 どんな固定観念か、というと、、、ものすご~く乱暴なまとめ方をしちゃうと、「イイ歳して自分探ししているヤツらは、現状分析の出来ないバカどもだ」というもの。現状分析=自己分析でもOK。自分を客観視できないヤツら、みたいな。だから、フランシスの人物造形がああなるんではないかしらん。

 なんというか、フランシスというヒロインに対する愛が感じられない作品なんです。愛はないくせに思い込みはある、というか。愛があれば突き放した描き方もできると思うけれども、本作は、とことんフランシスに甘い。彼女の置かれた状況は甘くないですよ。でも、とことんまで追い詰められていない気がするんだよなぁ。現実の厳しさって、こんなもんじゃない気がするのです。

 もっと言っちゃうと、制作サイドの“上から目線”ね。とことんヒロインを追い詰めて、自力で這い上がらせていないところがね。どこからともなく救いの手が差し伸べられる、なんて愛がないなぁ、、、。フランシスにはそんな自力さえない、と勝手に決め付けているかのよう。終盤なんか、甘すぎなんじゃ? ご都合主義っぽくないか? これでは、自分探しにもなっていないと思うんですけど、、、。

 ……というのは、かなりひねくれた見方だというのは承知の上ですし、別に、こういう作品はもっと軽~い気持ちで見て、サラッと流せば良いのです。でも、なーんか、見ていて気分悪くなったのです、私。だから文句を言いたくなってしまったのでした。

 巷ではわりかし評判良いみたいですし、私の感性がねじくれているのは自覚しておりますので、本作がお好きな方に不快な思いをさせてしまっていたらすみません。


◆その他モロモロ

 フランシスを演じたグレタ・ガーウィグは、確かにゴツいけれど、意志の強そうな美女です。ちょっと、フランシスの役のイメージとはズレている感じもなくはないですが、彼女が走っているいくつかのシーンは素敵です。全編モノクロなのも、かろうじて最後まで見ることが出来た要因かも。音楽もgoo。

 ちなみに、このヘンテコリンなタイトルの意味は、ラストシーンで分かります。








自分探しモノなのに、探す前に答え出しちゃってあげてる。




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神様メール(2015年)

2016-06-11 | 【か】



 ベルギー・ブリュッセルに神は住んでいる。この神は、意地悪で、日がな一日パソコンに向かって世界を支配し、暇つぶしに“普遍的な不幸の法則”を作ってほくそ笑むという、およそ人間の信じる神の像からはほど遠い。

 神は現在、妻(女神)と、娘・エアと3人で、玄関のないアパートに暮らしていた。横暴な神は、女神とエアを支配し、かつてはエアの兄JC(キリスト)を死に追いやっている。

 エアは、こんな生活がイヤで仕方がない。何かと父である神に反抗するが、ことごとくやり返される。我慢も限界に達したエアは、ある日、神の書斎にこっそり忍び込み、神のパソコンを操作して、人々に余命を知らせるメールを送信してしまう。余命を知らされた人間たちは、、、、もうタイヘン。

 兄JCのアドバイスで、エアは家の洗濯機から下界へと脱出し、余命を知っておろおろしている人間たちから6人を使徒に選んで、彼らに出会う旅をする。

 

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 6年ぶりの、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督による新作、ってことで劇場まで行ってまいりました。


◆人生における“たられば”

 みんシネの『ミスター・ノーバディ』のレビューでも書いたのですが、この監督は、「人生とは何ぞや?」という、答えのない問いに、いつもいつも真正面から向き合っておいでです。もちろん本作もそうです。ただ、『ミスター・ノーバディ』が『トト・ザ・ヒーロー』のS・Fバージョンだとすると、本作は、ちょっと別視点からではあるけれど、テーマは通底しているのかな、と。

 それは“もう一つの人生”ってやつです。

 今回、余命を知らせる神からのメールを人間たちが受け取ることにより、人生とは何か、生きる意味とは何か、を考えさせられるのだけど、エアに使徒として選ばれた6人の人間たちは皆、余命宣告メールをもらって、ある意味“生まれ変わった”のですね。それまでの人生を、まったく転換させてしまった。

 そこにエアの力は大して働いていない。エアが現れたことで彼らは人生を見つめ直しはするけれども、その後をどうするかは、皆自分の意思で選んで決めて行きます。エアは小さな奇跡を見せることもあるけれども、ほとんどは彼らの話を聞くだけ。そして、彼らの胸に耳を当てて、彼らの音楽を聴く。自分の音楽を知らされた彼らは、その音楽に一種の“気付き”のようなものを与えられるわけ。

 つまり、“余命を知ること”とは、運命を知ること、ではあるけれども、生き方は自分で選べるはずだ、意味ある人生とは自らが作るものだ、ということ。そして、肝心なのは、”運命は変えられるのか否か“ですかね。それは、ラストに集約されているのですが、、、。

 余命、知りたくないですよねぇ。私の場合、仮に平均寿命を生きるとしても、これまで生きてきた年数より明らかに短い時間しか残っていませんが、例えあと○年○か月生きると言われても、それがあと50年でも、50時間でも、どっちもゼンゼン嬉しくありません。じゃ、何年なら嬉しいか。何年でも嬉しくありません。つまるところ、いつ死ぬか分かんないから生きていられる訳です、人間は。


◆人生をとことん肯定する

 本作の原題を直訳すると、「新・新約聖書」だそうです。なので、邦題の『神様メール』とはいささか趣旨が異なるような。神を悪し様に描くことで、新しい新約聖書を作ることに意味を持たせるのでしょうが、この邦題ではそれが分かんないし、そもそもメールを送ったのは神ではなくエアだからね。

 6つの福音書であるエピソードはどれも突飛で、コメディというより、いささかお目出度いファンタジーにさえ思えるけれど、よくよく考えると、結局、人生なんて苦痛と苦悩の連続で過酷そのものにしか思えない時間の方が長いけれども、それでも敢えて人生を肯定しようと思えば、こういうエピソードにならざるを得ないんじゃないかと。設定こそ違えど。

 そういう意味で、やっぱり本作も、テーマは過去の作品と共通しており、監督の信念として“人生讃歌”があるのだと思いました。

 どんなにとるに足りないものに見える人生も、全て、同じ重みの価値のあるものであり、それは大切にされるべきものである。そういう、ちょっとまともに口にすれば小っ恥ずかしくなりそうなテーマを、こうも堂々と真正面から描かれると、却って清々しいです。


◆ジャコ・ヴァン・ドルマル監督&その他もろもろ

 この監督はそもそも寡作な上に、作風が独特過ぎで好みが分かれる作品ばかりだと思うけれど、私は基本的にとっても好きです。多分、この人の感性が好きなんだと思う。あと、音楽。本作も音楽はどれもとっても美しかった。サントラが欲しくなったくらい。映像も美しく、ブリュッセルの街中をキリンが歩いていたのもツボだったし、切断された左手のダンスのシーンもグロいけど美しいし、エアが会話する鳥とその群れも可愛らしいく神秘的。

 特に、最後のエピでのテーマ曲トレネの「ラ・メール」に乗せて、骨だけになった魚のCGが空をゆっくりと泳ぐ描写になぜだか胸がじーん、、、となりました。「ラ・メール」が好きだから、というのもあるでしょうが、、、。さすがフランス人、この人の作品にはどれも素敵なシャンソンが必ずどこかに流れます。

 ラストの空を花が覆うシーンは、まあ、ふーん、、、という感じでしたが、“運命なんてあるかないか分からない”ということなのかな、と。ただ、自分の意思とは無関係な何かの力はある、という風に受け取りました。だって、意地悪な神が設定した余命を消したのは、人間自身じゃないんだから。

 その意地悪な神が、エアの部屋のドアを、斧を振りかざして叩き破るシーンは、あの『シャイニング』のJ・ニコルソンを思い出して笑っちゃいました。





もう一つの人生、ありますか?




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インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌(2013年)

2016-06-08 | 【い】



 1961年のNY、フォーク・シンガーのルーウィン(オスカー・アイザック)は、どんづまり。ライブハウスで歌うもののパッとせず、彼女(?)のジーン(キャリー・マリガン)には妊娠したと告げられ、何より“文無し&宿無し”で知り合いの家を泊まり歩く日々だった。レコード会社に印税を請求しに行っても無視を決め込まれそうになるが、どうにか40ドルをもぎとる。

 その日も、知り合いの大学教授の家に泊めてもらうが、翌朝、出掛けようとしたところ、教授の猫が玄関ドアからすり抜けてしまい、と同時にオートロックのドアは閉まってしまう。鍵を持たないルーウィンは、茶トラ猫を抱えて行動せざるを得なくなり、、、。

 究極のだめんずシンガー・ルーウィンが、自分の音楽と人生を見つめ直す旅に出て帰って来るまでのロードムービー。茶トラ猫のおかげで、幾分、悲哀がオブラートに包まれた味わい深い逸品。

 

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 ポスターに惹かれて公開中に劇場まで行こうと思いながらも行けずじまいになってしまった、、、。やっとこさDVDで見ました。


◆ルーウィンのぐたぐだな日々in NY

 どんよりとした灰色のNYの風景をバックに、根無し草のごとくフラフラと行き当たりばったり的に生きているように見えるルーウィン。カネ無し、宿無し、仕事無し、、、のないないづくし。

 背に腹は代えられないと、ルーウィンからすればおよそ受け狙いのダサイ歌のレコーディングに助っ人で駆り出されて応じることもある。ジーンには罵詈雑言を浴びせられ、姉にもロクデナシ呼ばわりされ、八方塞がり状態。

 とはいえ、シカゴへの旅に出るまでは、常に憂いをまとってはいるもののさほどの悲壮感はないように見える。


◆これでもか、これでもか、、、のシカゴ旅

 しかし、シカゴへの旅は、見ていてだんだんキツくなってくる。

 ほとんど喋らないでタバコばっかり吸って車を運転している男ジョニー(ギャレット・ヘドランド)と、後部座席に座る巨漢のジャズミュージシャンらしきローランド・ターナー(ジョン・グッドマン)は杖で助手席に座るルーウィンを小突いて人生論・音楽論をぶってくる。

 そしてこの巨漢との会話から、ルーウィンがかつての相棒を自殺で亡くしていたことが分かる。

 途中入ったトイレの壁の“What are you doing?”という落書き、シカゴで雪の塊に足がはまってびしょ濡れになる靴下、「金の臭いがしない」等と分かり切った評価をするプロデューサー、、、。これらはどれも、カネ無しよりも、宿無しよりも、仕事無しよりも、遙かに強力なボディブローとなってルーウィンを追い詰める。


◆再びのNY

 尾羽うち枯らしてルーウィンはNYに戻って来るが、もはや彼はフォークシンガーとして生きることを辞める決意をしていた。元の船乗りに戻ることを決めたのに、、、しかし、それすらままならない。

 もはや、進むことも退くこともできないルーウィン、、、。見ていて苦しくなってくる。


◆さまよえるミュージシャン

 人生には、“彷徨する時期”というものがあって、それがない人生などは実に味気ないものであり、彷徨い終わって一定の型 にはまることがまた良いことなのかどうかも分からなくなるときがある。多くの場合、彷徨う理由は、「どう生きたいのか」と「どう生きられるのか」という“理想と現実問題”に集約されると思われるが、大抵の人は、現実に理想を引き寄せる(=妥協する)ことで、どうにか折り合いをつける。

 だが、ルーウィンのように、意志によるものか否か関わりなく、現実に理想を持ち込む人(=夢追い人)もいる。どちらが苦しいか、惨めか、情けないか、などとは一概には言えない。

 本作でのルーウィンは、どこを切っても、どんづまりだけれども、作品全体には悲壮感はあまりない。灰色がかった画面と寒々しいNYやシカゴの光景は悲哀を感じさせるには十分だが、ルーウィンの歌う自作の歌とその声、そして何より茶トラ猫の存在が本作をじんわり味わい深いものにしているように思われる。


◆要所を締める茶トラ

 この茶トラ猫、終盤でその名前が「ユリシーズ」と判明する。しかし、本作ではもう一匹別の茶トラが登場している。ユリシーズももう一匹も、本作における茶トラは、ある意味、ルーウィンの理想(=フォークシンガーとして生きること)を象徴する存在のように思われる。

 序盤で、ルーウィンがユリシーズを抱えて公衆電話から教授に、ネコを連れていることを伝えようとするシーンが面白い。教授は授業中のため、受付の女性に言伝を頼むルーウィンだけど、そこで“Llewyn has the cat”と言うルーウィンに、受付の女性は“Llewyn is the cat”と復唱するわけ。笑っちゃいました。でも、これが後の展開でも効いていた。

 何といっても印象的なのは、シカゴへの道中、やむなくもう一匹の茶トラを置き去りにするシーン。茶トラと一瞬見つめ合う。そして、踏ん切りをつけるかのようにバタンと車のドア閉める。その一瞬の茶トラの表情に、何とも胸が締め付けられる思いがする。

 しかも、その茶トラ(と思われる猫)を、NYに戻る車を運転していて轢きそうになる。でも、NYに戻ってみると教授宅にはユリシーズが帰って来ていた。そして、ルーウィンは船乗りに戻れない、、、。


◆その他もろもろ

 猫映画というと、ロードムービーだと『ハリーとトント』が真っ先に思い浮かぶけれど、『ロング・グッドバイ』も印象深い作品。冒頭のマーロウとのやりとりだけで、心鷲掴みにされてしまう。犬も好きだけど、猫のあの気ままさ、人の思い通りにならなさは、本作ではまんまルーウィンのままならなさだったように思えて仕方がない。

 ユリシーズの名から、ホメロスの「オデュッセイア」云々については、語れるほどの知識もないので詳しいサイトへどうぞ。

 コーエン兄弟作品は、『オー・ブラザー!』『ノーカントリー』の2作し か見たことがなく、どちらもピンと来なかったので食わず嫌いだった感があるけれど、これから積極的に見て行こうかなと思った次第。






茶トラに最優秀助演賞!!




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美しいひと(2008年)

2016-06-01 | 【う】



 ジュニー(レア・セドゥ)は、母親が亡くなったため叔母の下に預けられ、従兄マチアスと同じ高校(リセ)に通うことになった。そこで出会ったイタリア語教師ヌムール(ルイ・ガレル)と、互いに一目で惹かれ合うが、ジュニーがステディに選んだのは真面目な男子生徒のオットーだった。恋愛経験豊富なヌムールだったが身辺整理をしてまでジュニーに真剣な思いを寄せるようになる。

 ヌムールの思いを感じ、自身も彼に強く惹かれるジュニーだが、踏み切れない。ある日、高校の廊下でヌムールに抱き寄せられ迫られるジュニーだが拒絶する。しかし、それを目撃した男子生徒にその事実を聞いたオットーは2人の関係を誤解して絶望し、学校の廊下から中庭に飛び降りて自殺 してしまう。

 ジュニーがヌムールの思いを受け入れないのは、いずれヌムールが自分に飽きて去っていくことを見越してのことだった。オットーの死を機に、ジュニーはヌムールの下から去って行く。

 17世紀の恋愛小説「クレーヴの奥方」を原案に、舞台を現代の高校に移しての映画化。

 

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 アナイス・ドゥムースティエが出演しているので見てみました。つい先日『美しい人』という漢字か平仮名かの違いの別作品のレビューを書いたばかりですが、、、。


◆フランスの高校では、校舎内でディープキスが普通らしい

 アメリカのハイスクールもののバカっぽさも好きじゃないけど、フランスの高校生たちのマセっぷりもなんだかなぁ、、、と思っちゃいました。文化の違いといっちゃえば身も蓋もないけど、学校でブチュブチュってどーなんでしょ。学校全体の自由な雰囲気は良いなあ、と思いますけれど。それとも、イマドキは、日本の高校でもこういうの珍しくない光景だったりして、、、。私が知らないだけなのかしら。

 ヨーロッパでも、イタリアは日本みたいにパラサイトシングルが普通に見られ、いわゆる母子密着度が高い文化らしいんですが、フランスは母子密着度低そうだよなあ、確かに。子どもの4割が婚外子ということは、おそらく母親自身も精神的に非常に自立している人が多いと想像します。夫(パートナー)や子どもに女性が依存するケースが少ないのかも知れませんねぇ。そういう意味では、フランス人の子どもたちがもの凄く羨ましいですが、、、。

 精神的な自立を早く促されると、やはり恋愛も低年齢化するのは道理かもですね。でも、フランスの高校生をするのは、私には荷が重い、、、。


◆不倫でもないのに“してはいけない恋”って、、、なんじゃそら。

 さて、ジュニーの言動ですが、、、。皆さんは共感できるのかしら。

 「あなた(ヌムールのこと)はステキな人。でも、私と寝たら、あなたは確実に私に飽きて去って行く」(セリフ正確ではありません)

 、、、イラッとするわ~~。何となく、16歳というお年頃ならこういうことを言って一人でこじらせるってのはありがちだとは思うんですけれど、でもねぇ、、、。

 私だったら、自分が好きな人が自分を好きだと分かれば、後は野となれ山となれで暴走しますね、確実に。だって、そんな相思相愛が人生で起きることって、そう何度もないでしょう? ある意味、それって奇跡なわけで。そら、レア様なら掃いて捨てるほどあるかもしれないけど、、、いや、やっぱしレア様でも、そんなにはないでしょう。

 人生における奇跡を、みすみす見逃すなんて、もったいなくて出来ません。だいたい、不倫でもないのに、“してはいけない恋”なんて、頭でっかちもいいとこ。恋愛なんて、そこに飛び込んでみなけりゃ分からないことだらけでしょう。リスクを恐れていたら、悦びも味わえない。ものすごい痛手を負うかもしれないけれど、それこそ若さの特権で、歳とってからの痛手より痛くない。

 ま、原作が不倫モノで踏み込まなかったオハナシらしいから、こういうことになったんでしょうけれど。

 恋愛なんて踏み込んで、、、つーか、寝てみてなんぼ、ではないでしょうか。お下品でスミマセン。でもセックスはあくまでスタートラインだと思うのですよね、恋愛においては。その手前であーでもない、こーでもないと脳内だけで恋愛哲学しているのは好きじゃないわぁ。実践あるのみでしょ、実践。哲学はその後、あと!


◆アンニュイ&濃い濃い

 ジュニーを演じるレア・セドゥですが、ほとんど笑顔がありません。終始アンニュイな表情と 雰囲気。16歳でこれかぁ、、、。私も高校生の頃、「気だるそう」とよく言われましたが、それは基本的な性格が面倒くさがりで何をやるにも面倒くさそうにしていたために「覇気がない」ように見えたのであって、アンニュイに不可欠な色気とは対極なものでござんした。

 それはともかく、ジュニーは何でこんなにアンニュイなのか。もともとの性質なのか、あるいは生育環境とかに理由があるのかしらん。どっちでもいいけど、アンニュイの似合う16歳の少女、ジュニーです。レア様自身は、このとき20歳過ぎでいらしたみたいですが。

 つーか、そんな“してはいけない恋”だの何だの脳内哲学しているからアンニュイになるんだよ。だって、生きてる意味ないじゃないの、好きな人と恋愛もしないで。好きな人さえ見つからない人間も世の中にはたくさんいるのに。生き甲斐を自ら断ってりゃ、そらアンニュイにならざるを得んわな。

 レア様の出演作を見るのは、多分これが初めてです。魅力的だけど、好き嫌いでいうと、あんまり引力は感じなかったなぁ。私は、どちらかというとカワイイ感じの人の方が好きなので。でも、レア様は、違う役ではゼンゼン違う顔を見せてくれそうな予感がします。他の作品も要チェックかな。『グランド・ブダペスト・ホテル』にも出ていたなんて知らんかった。『アデル、ブルーは熱い色』は、ちょっと興味あるけれど。

 あと、ヌムールを演じたルイ・ガレル。彼の作品もこれが初見ですが、濃いわぁ~。すんごい濃い。私は東洋人なので、こういう激しく濃い系はちょっと苦手、、、。まあ、色気があるのでモテる役でも違和感はありませんが。

 この人、過去には、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキさんと付き合っていたとか。かなりの歳の差カップルなのでは? 若くても大人な男なんでしょうな。まあでも、他の作品も見たい、って感じではないです、はい。


◆その他もろもろ

 高校生たちの服装が、皆さん、何気にオサレです。この辺、さすがおフランス、ってとこでしょうか。

 お目当てのアナイス・ドゥムースティエの出番はあんましなくてちょっとガッカリ。たばこをぷかぷか吸っていたのがけっこう衝撃的でしたけれど。

 リセでの外国語の授業は、英語はもちろん、イタリア語、ロシア語もありましたね。さすがヨーロッパ。日本の学校も 、英語の授業は全部英語でやればいいんですよ。今はそうしているのかも知れませんが、そうすれば、多少は話せるようになるんではないでしょうかね。先生の言うこと聞き取ろうと必死になりますから。耳がなくては喋れませんし。

 置き去りにされたヌムールは、トラウマにならないといいんですけどねぇ。ここは、小娘の恋愛哲学教室の講師をしてあげたんだ、くらいに割り切ってはいかがでせうか? ムリ?






恋愛は、哲学よりも実践が大事、、、と思う。




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