映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ニュー・シネマ・パラダイス(1989年)

2021-09-26 | 【に】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv14237/

 
 以下、映画.comよりあらすじ等のコピペです。

=====ここから。

 映画監督として成功をおさめたサルバトーレのもとに、老いたアルフレードの死の知らせが届く。彼の脳裏に、「トト」と呼ばれた少年時代や多くの時間を過ごした「パラダイス座」、映写技師アルフレードとの友情がよみがえってくる。

 シチリアの小さな村の映画館を舞台に、映画に魅せられたサルバトーレの少年から中年に至るまでの人生を3人の役者が演じる。アカデミー外国語映画賞やカンヌ映画祭審査員特別グランプリなど、各国で賞賛を浴びた。

=====ここまで。

 「シチリアの小さな村を舞台に映写技師と少年の心あたたまる交流を、あふれる映画愛とともに描いた不朽の名作」だそうです。


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 映画が好きだと自称し、こんなショボいブログまで書いているのに、“不朽の名作”と言われる“名画”で見ていない映画がいっぱいありまして、、、。本作もその一つ。今まで見なかった理由は特にないけど、強いて言えば、単純に“見たいと思わなかった……”ですかね。

 今回敢えて見る気になったのは、先日見たアルモドバル監督の『ペイン・アンド・グローリー』(2019)が、 “アルモドバル版『ニュー・シネマ・パラダイス』”なんて紹介されていたからです。『ペイン~』にすごく感動したというわけでもないし、内容も何となくは知っているんだが、これを機会に、“いまさら名画”と称して、ときどきあまりにも名画な映画をボチボチ見て行こうかな、と思った次第です。

 というわけで、“いまさら名画”第一弾です。

 ……でまあ、今までそそられなかったのは、やっぱり自身の嗅覚が機能していたんだな、と確認した次第。正直言って、本作の何がそんなに褒め称えられているのか分かりませぬ。本作がお好きな方、すみません。ここから先はお読みいただかない方が良いです。

 良かったのは、トトが子ども時代の前半3分の1くらい。青年以降は、なんだかグダグダ、、、、いや、グダグダ映画でも面白い映画はいっぱいあるんだが、すんません、度々眠くなりました。何度も巻き戻して見直しました。眠くなるってのは、大抵、自分にとってはツマンナイからなんだよね(寝不足とか、体調が悪いとか、ということもあるが、、、)。

 アルフレードはトトがあんな幼い頃に既にオジサンにカテゴライズされてよいような年齢で、亡くなったのが、トトがもう初老に差し掛かったような年齢であるということは、一体おいくつまで生きられたのか、、、? なんてことは、多分どーでも良いんでしょうね、この映画では。

 何がツマンナイのか、と言われましても、ツマンナイものはツマンナイのであって、立派な理由などないのだが、青年期以降は、トトの物語がすごく薄っぺらくなったかなと。恋をして、失恋して、故郷を離れて、成功しました! ってこれ、トルナトーレの自伝的な映画なのか? と思いきや、そういうわけではなさそうだしね。

 自伝的な映画ならまあ、自慰映画ってことで、それもありかな、とは思うのだが。トルナトーレが33歳のときに発表された映画なんだよね、これ。つまり、撮影したのはそれより前だから、32歳かそれくらいでしょ? 随分、ジジくさい作品撮るんだなー、と、むしろ驚いたわ。

 アルフレードに強引に背中を押されて故郷を離れたトトだが、私はこういう“受身な生き方”をする人間にあまり魅力を感じない。不可抗力に押しつぶされる人と、流される人ってのはゼンゼン違う。トトは流されているとまでは言わないが、受身だよね、生き方が。美少女に猛アタックしたではないか、とツッコミが入るかもだが、自然消滅しているではないか、と一応反論しておきましょう。私は、フィクションの世界でもリアルでも、恋愛を“自然消滅”で終わらせる人が嫌いなのだ。

 トトは、だから女性関係にも主体性がなく、こんな人が一体、どんな映画撮ってんねん?って感じ。そんな素晴らしい作品が、こんな人の手から生み出されるものだろうか?

 印象に残ったのは、火事の直前、アルフレードが建物の壁に映画を投影するシーンくらいかな。

 有名なラストだけれど、あのキスシーン寄せ集めで感動する人が多いそうだが、、、すんません、何がそんなにイイのか分かりませんでした。一応、その意味は分かっているつもりだけど、、、あのキスシーンで知っている映画が多い人ほど感動する、ってみんシネに書いている人がいたけど、そういうものかね? 私は、2つ3つくらいしか分からなかったからかしら。

 本作には、3時間超えの完全版なるものがあるらしいが、そちらは本作とはかなり違うようだ。話が違っている、、、というみんシネでの書き込みも見たし。けど、そっちを見てみたいとは全く思わないので見ません。

 ……というわけで、どれほど世間で名画といわれていようが食指が動かない映画ってのは、何かしら勘が働いているのだと確信したので、この企画、1本で終わっちゃうかもです、、、。ごーん。いや、見たいなぁ、と思いながら見ないまま来てしまったという映画も少なからずあるから、続けられるかな??

 

 

 

 

 

 

 

少年トトは可愛かった、、、。
  

 

 

 

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アフガン零年(2003年)

2021-09-20 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv33786/

 
 以下、「NHK アジア・フィルム・フェスティバル」HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 タリバン政権の抑圧の下で生きる12歳の少女とその母。病院で働いていた母親は、タリバンが女性の一人歩きを禁止したことにより、就労への道が閉ざされる。タリバンは、女性が男性に伴われずに外へ出る事を堅く禁じ、反した者には刑罰を与えていた。

 生活の糧を失った家族は、少女に男の子のかっこうをさせて働きに出すことを思いつく。生きるため、母と祖母は、恐怖におののく少女の髪を切る。

 少年となった少女は戦争で殺害された父の友人の下で働き始めるが、その翌日、街のすべての少年たちとともにタリバンの学校へと召集されてしまう。その学校では宗教の勉強や軍事訓練が行われていた。大勢の少年達の中で、真実を隠し続ける少女だが、宗教儀式でのささいなミスから、タリバンに疑いを抱かれる。そしてとうとう少女であることが暴かれる…。

=====ここまで。

 制作にNHKが加わっており、「NHK アジア・フィルム・フェスティバル」で上映され、カンヌではカメラ・ドール賞を受賞しているとのこと。


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 アフガニスタンにタリバン政権が復活したというニュースを見聞きすると、何ともいえない無力感を覚えます。中東情勢など、疎いもいいとこなので偉そうなことは言えないけど、本当に苦難続きの国、それがアフガニスタン、という印象。

 もとはといえば、直截的には、911の実質的な報復としてアメリカが暴走したことが引き起こした事態。911の起きる2か月前、私もNYに旅行で1週間滞在していたのだけれど、本当は、9月に行く予定だったので、ヘタしたら足止めを喰らって帰れなくなっていた可能性もあったのでした。9月から7月へ前倒ししたのは、NYの前に、友人が留学していた南ドイツへ行くことになっていて、友人に「9月は忙しくなりそうだから7月がいい」と言われたから。ドイツに1週間、NYに1週間。NYの1週間のうち後半3日間は胃腸炎で寝込んだので、実質3日間くらいしか観光できなかったのが心残りではあったものの、無事に帰国し、2か月後にあの映像をリアルタイムでTVで見たときは、怖ろしかった、、、。私は高い所苦手なので、WTCに昇る気はさらさらなかったけど、帰れなくなるのはやっぱり困るもんなぁ。

 それはともかく、911後のアメリカ(だけじゃないが)は、どう見ても異様で暴走していたような。タリバンが崩壊したとはいえ、20年後、結局復権を許すことになったのは、アメリカの失策と言うほかないのでは。

 本作は、その最初のタリバン統治下のアフガニスタンでのお話。もう、最初から最後まで、とてもじゃないが心穏やかでいられない。ヒリヒリ、ズキズキ、ドキドキのしっぱなし。恐ろしくて早送りしたくさえなるのを、どうにか我慢して最後まで見ました。

 
◆少女の名は“オサマ”

 とにかく、徹底的に女性を抑圧するのが、タリバンの方針なんである。女は独りで出歩いたらいかんのである。主人公の少女は、母親と祖母と3人女所帯のため、収入がゼロになってしまう。だから、長い髪を切って少年として、ささやかな収入を得るために働きに出されるのだ。少女が「怖いからイヤだ」と言っても、祖母も母親も「大丈夫」と言って、強引に髪をジョキジョキ鋏で切ってしまう。ヒドいと言うことなかれ、、、。こうしなければ、祖母も母親も飢え死にするより道はないのだ。

 少女は男の子として近所のミルク屋にアルバイトに行く。そこにも強引に母親が頼み込んで働かせてもらうことにしたのだ。このミルク屋のオジサンが、わりかし良い人で、タリバンが来てヤバそうになるとうまくかわしてくれ、自分も厳しい生活なのにちゃんと報酬(食べ物)をくれる。

 けれども、それはたった1日で終わる、2日目、ミルク屋で働いている少女は強引に召集(?)されてタリバンの男子教育施設へ運ばれる。そこで、ターバンの白い布を渡され、皆頭に巻くんだよね。インドでターバンを巻いている人はシーク教徒だと聞いたが、タリバンの巻いているあのターバンは、どうやら伝統主義者ということみたいだ。シーク教徒のターバンの場合、髪は伸ばしていると聞いたが、タリバンは男性の長髪は許さないということなので、ターバンはターバンでも見た目も意味もゼンゼン違うということらしい。

 とにかく、少女もターバンを巻かねばならないのだが、自分では巻けないので、少女を女の子だと知りながら親しくしている“お香屋”の男の子に巻いてもらう。

 それにしても、この教育施設、描写はわずかだが、やっぱし異様である。男児たちに、かなり高齢の爺さんが、「性器の洗い方」の指導までしているのだ。爺さんは小さな湯船に浸かって「まず右、次に左、それから真ん中、、、」とか実演する。一応、腰に布を巻いてはいるものの、少女のことを思うとハラハラする。最初は物陰から見ていた少女だったが、当然、少女も「脱げ」と言われ、爺さんの湯船に一緒に入れられ、、、とか、もう見てられない。

 当然、他の男児たちは、少女が“女”だと勘付いて、突き回し始める。「お前、なんて名前だ?」と少女に少年たちが聞くが、少女は答えられない。で、お香屋の男の子が機転を利かせて「オサマだよ!」と言って必死で少女をかばうが、多勢に無勢。しかも、女性ならではの生理現象により、呆気なく“女”とバレる。

 その後は、さらなる悲惨の坂道を転げ落ちる。オサマ=少女は、施設の庭の井戸に吊るされる。泣き叫ぶ少女。お香屋の男の子も泣いている。少女は、ブルカを被せられて投獄された後、裁判みたいなものにかけられる。死刑、石打ちの刑などに他の罪人は処せられていくが、少女には「結婚相手」が現れたことから、罰を免れることに。その相手は、60をとうに超えていそうな爺さんだ。ちなみに、この爺さんには、既に複数妻がいる。

 牢屋の中で、少女が縄跳びをするシーンが何度か挟まれるんだが、これがよりヒリヒリした悲哀を増す。自由への渇望と、現実の、残酷なまでの対照。見終わって、これほど気が重くなる映画も少ない。


◆女が悪い、、、のか?

 イスラム法ってのは解釈の幅が広く、服装について、別に女性の髪や肌を出すなとは明記していないそうで、(男女問わず)性的な部分は隠せ、ということらしい。だから、国や宗派によって隠す部分が異なっているわけだ。本作でも、やたら、女性たちに「隠せ、隠せ」というタリバンたちが描かれている。

 でもまあ、一連の描写を見ていてすごく疑問に思ったのは、男は「女に原因があるから」女に性欲を抱くのだ、という思考回路っぽいところ。“女の身体”が男を唆していると。そうは言ってない、と言われるだろうけど、いろんな決まりごとを突き詰めて考えるとそうとしか思えない。男本位の理屈に呆れる。だったら、性欲をいかにコントロールするかを教育しろって話。自分の下半身の暴走を女のせいにするな。

 おまけに、女の性欲は無視だしね。女に性欲がないとでも思ってんのか? 女が隠してなければ、性欲もコントロールできないケダモノなんですか?男って。

 タリバンの統治では、女性の人権蹂躙が槍玉に挙がっているが、それについて、あるブロガーさんが「日本や欧米のフェミたちは、自分たちの人権侵害には敏感だが、アフガンの女性のそれには無関心で、誰も声を上げない。彼女らは所詮、安全地帯でギャーギャー言っているだけで、自分たちさえよければそれでいい輩である」みたいなことを書いていた。

 まあ、この方は、以前にも『82年生まれ、キム・ジヨン』(2019)で取り上げたのと同じ方で、イスラム関係にも興味をお持ちでお詳しい様子。確かに、ツイッター等でもフェミ筋の方々のタリバン関連の書き込みはあまり見ない。けれど、だからといって、このブログ主が言っているようなこととはちょっと違うと思う次第。

 つまり、欧米はともかく、日本のフェミは、イスラムについて無知過ぎるんだと思う。何となくは知っている、、、けれど、具体的に知識としては分からない。よく知りもしない、しかも宗教というデリケートな背景がある問題を、それこそ日本人相手にモノを言うように言うのは、あまりにも短絡的過ぎることくらい、少し考える人ならば容易に分かること。それを、不勉強、無関心、と非難するのはちょっと浅はかではないか。イスラムについて知らないのは、フェミに限らず、大方の日本人の共通項であって、なぜならゼンゼンそういう教育をしていないから。欧米に目が行きがちで、自国の属しているアジアでさえ覚束ない、ましてや中東なんぞ別世界、、、というのが標準的な日本人ではない? 

 あとは、やっぱり自分たちの状況がまだまだ酷過ぎて、アフガンの女性云々まで具体的な行動を起こす余裕などないのが現状だと思う。そら、アフガンに比べれば日本は大分マシではあるが、性を理由にしたヘイトクライムは日常茶飯事、入試でさえされる性差別、性犯罪・痴漢被害に遭う女性の多さ、セクハラ被害の圧倒的な女性の多さ、、、等々、十分、日本の女性たちは人権侵害に日々晒されているのだ。

 だから、アフガンの女性たちに無関心で良いというわけではないが、少なくとも、日本で声を上げるだけでももの凄い風当たりなのであるから安全地帯なんぞでは全くないし、同じ女性でミソジニー全開にしてフェミを揶揄している人びとよりは何ぼかマシだと思うんだが。そういうミソジニー女性たちだって、かつてのフェミたちが勝ち取ってくれた権利に安住しているのですけれど? お忘れ??

 テロと聞くと、どうしてもイスラムとかムスリムとかにつなげて考えてしまうが、とにかく私はイスラムについて知らな過ぎるので、今さらながらもう少しいろいろ勉強したい。いずれにせよ、イスラムだけでなく、宗教というのは、本当に人間の心を救うものなのか? むしろ狭くするものなのではないか? 特に一神教の排他性は、詰まる所、排除ではないのか。排除からは何も生まれないと思うのだが、、、。

 

 

 

 

 

 

 

監督もアフガン出身の方です。
  

 

 

 

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ウンベルト・D(1951年)

2021-09-10 | 【う】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv13110/

 

 年金生活者ウンベルトは、安アパートに愛犬フライクと細々と暮らしているが、あまりにも年金支給額が少ないために家賃も滞納する有様。年金増額デモにフライクと参加するものの、事態は変わらず。アパートの女家主に、滞納分を払えないなら出て行けと言われる。この家主は、ウンベルトの部屋を時間制の“売春部屋”にしていたのである。

 あれこれ金の工面をしようとするものの万策尽きたウンベルト。可愛いフライクを道連れに、鉄道自殺を図ろうとするが、、、。

 ヴィットリオ・デ・シーカお得意(?)のビンボー映画。


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 デシーカは苦手なんだけれど、、、、というほどデシーカ作品を見ているわけじゃないので、偉そうなことを言うつもりはないのですが、とにかく『自転車泥棒』(1948)がまるで合わず、『子供たちは見ている』(1944)もちょっとなぁ、、、という感じで、ネオリアリズモだか何だか知りませんが、あまり良いイメージはないです。『ひまわり』(1970)は好きじゃないけど良い映画だと思います。

 本作は、タイトルは耳にしていたけど、レンタルはできなさそうだし、ビンボー映画は見ていて暗くなることが多いので別にいいや、、、と思っていたのだけど、たまたま区の図書館の映像ソフトリストを見ていたら目についたので、借りてみることに。そして、、、やっぱりイマイチ合わなかったのでした。ごーん……。

~~結末に触れていますのでよろしくお願いします。~~


◆ウンベルトは愚かではない。

 私がこれまで見たデシーカ映画に共通するのは、出て来る大人たちがみんな、ものすごく“愚か”であるということ。貧すれば鈍する、とはいうけれども、そういうのともちょっと違うような気がする。『子供たちは見ている』は、別にビンボー映画じゃなかったし。でも、出て来る大人は“超”のつくバカ者たちだった。

 『自転車泥棒』は名画と言われ、みんシネでもえらく評価が高い。ネオリアリズモの代表作らしいが、私には主人公の父親の愚かさが度を超していて不快でさえある。愚痴はみんシネにいっぱい書いたので割愛するが、いくら貧すれば鈍するといったって、それはちょっと、、、???という描写が多過ぎる。

 ああ、あんな状況になったらそうなっちゃうよね、、、とまったく思えない。『子供たちは~』もそう。作為的に過ぎる。主人公を追い詰めるのは、シナリオのイロハだけど、やり過ぎというか、主人公をバカにしすぎというか、引いては見る者をバカにしているとさえ感じるシーンもある。当時の貧しさはそれくらい今の人間から見れば酷かったんだ、、、ということなのかも知れないが、『子供たちは~』は貧しさは背景にないからね。

 それに比べれば、本作のウンベルトは大分マシである。少なくとも、愚かだとは思わない。負のループにハマるというのはこういうことだ、、、と見ていて思える。

 ウンベルトは、虎の子の時計を売ったり、食費を浮かそうと入院を試みたり、果ては、物乞いまでしそうになる。さすがに、物乞いは一瞬手前で止めるのだが、、、。物乞いまでする気になるのに、「施設にだけは絶対入りたくない!」と言っている。恐らく、当時の施設の環境は劣悪で、それこそ現代を生きる私の想像をこえているのだろうということくらいは想像できる。ウンベルトの意識としては、物乞い>>自殺>>施設なのだ。

 結局、ウンベルトは物乞いをする勇気(というか、プライドがそれをさせないのだが)もなく、施設に入ることなどもってのほか、……というわけで、愛犬フライクを道連れに鉄道自殺を図るのだが、もちろん、未遂に終わる。

 で、その後のラストシーンは、愛犬フライクと楽しげに道を駆けていく、、、というもの。現実問題は何も解決していない。ウンベルトは、あの後、どうなるのだろうか。あれほど忌避していた施設に入ることになるのか、、、。

 物乞いをするくらいなら、施設に入れば……、と思わないでもないが、これはかなりビミョーな問題なのだと思うに至った。


◆理想の老い方・死に方

 つまり、この映画は、老いる、どう死ぬか、、、を嫌でも考えさせられるのだ。

 施設に入ったとして、自分の世話を自分で出来ているうちはまだ良い。自分の世話を自分でできなくなってからが問題だ。特に、排泄関係。考えるだけで憂鬱になる。

 まあ、認知症になってしまって、自分のアイデンティティとかなくなっちゃえば、そういうことも気にならないのか、とも思うが、いや、そういうのとアイデンティティとは別だろうとも思う。排泄を人の手を借りてすることに対する羞恥心等は、認知症になったからと言ってなくなるものではないのでは?

 ……とかイロイロと考えていると、確かに、ウンベルトが言うように「施設だけは絶対にイヤだ!」というのも理解できる。けれど、私は物乞いはもっとイヤだなぁ、というのが本音。嗚呼、、、これなら安心して老いることが出来る、なんていう道筋はないのだな、としみじみ思うのであった。

 やっぱし、社会保険料を払えているうちにお迎えに来ていただきたい。私には子供もいないし、いたところで世話になるのは憚られるが、ウチの人の方が私より長生きするのは心配でもあるし、、、。しかし、“どう死ぬか”ばっかりは自分の意思でどうにも出来ないところがツラい。病気になった場合も、他人様の手を借りなければならなくなるケースは大いにあり得る。

 そんなどよよ~んとした気持ちにさせられる映画ではあったが、犬のフライクが可愛らしくて救いだった。ウンベルトが入院している間に、女家主に追い出されて保健所送りにされるが、ウンベルトがそれこそ死に物狂いで救出に行く。でも、そんなにしてまで大切な愛犬を、鉄道自殺の道連れにしようとするのよね、、、。そのとき、フライクが怖がってウンベルトの腕から脱出するシーンは見ていて身につまされる。

 自殺が未遂に終わった直後は、フライクはウンベルトに対して警戒するんだけど、すぐに元通りになって、楽しげに駆けていく、、、というのが、前述したとおり、ラストシーンとなっている。でも、ゼンゼン見ている者は救われた気分にならないのがミソ。むしろ、さらにどん底な気分になる。

 ウンベルト役を演じていたカルロ・バティスティというお方は、学者さんで、役者としてはまったくの素人らしい。そうとは思えない演技で、驚き。ウンベルトに金を無心される旧知の紳士のあからさまな逃げっぷりとか、全編実に人間臭い映画である。『自転車泥棒』より、本作の方が秀作だと感じた次第。
 

 

 

 

 

 


部屋に侵入してきたアリの大軍を始末する方法にびっくり。
  

 

 

 

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罪の声(2020年)

2021-09-02 | 【つ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv67839/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 平成が終わろうとしている頃、大日新聞記者の阿久津英士(小栗旬)は既に時効となっている昭和最大の未解決事件を追う特別企画班に選ばれた。事件の真相を追い取材を重ねる中で、犯人グループが脅迫テープに3人の子どもの声を吹き込んだことが阿久津の心に引っかかる。

 一方、京都で亡くなった父から受け継いだテーラーを営み家族3人で幸せに暮らす曽根俊也(星野源)は、ある日父の遺品の中から古いカセットテープを見つける。何となく気に掛かり再生すると、聞こえてきたのは確かに幼い頃の自分の声であるが、それはあの未解決事件で犯人グループが身代金の受け渡しに使用した脅迫テープと全く同じ声でもあった。

 事件の真相を追う阿久津と、脅迫テープに声を使用され知らないうちに事件に関わってしまった俊也ら3人の子供たちの人生が、35年の時を経て、激しく交錯する。

=====ここまで。

 同名小説の映画化。言わずと知れたあのグリコ・森永事件がモデルです。


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 原作は上梓された頃に図書館で借りて読みました。ちょっと買う気にまではならなかったもので、、、(スミマセン)。もう5~6年前なんで詳細は忘れましたが、なかなか面白く読みました。で、その小説が映画化されたというので、これまた劇場まで行く気にはならなかったので(スミマセン・アゲイン)、DVD借りて見ました。2時間超と長めで、思うところはイロイロありましたが、面白かったです。


◆不気味事件

 グリコ・森永事件、、、リアルタイムで知っているのはせいぜい40代以上くらいだろうか。私は高校生だった。当時は連日このニュースが報道されており、正直言って、怖かった。特に怖かったのが、本作のメインテーマである、あの「子どもの声」だった。TVでこの音声が流れたときはゾッとしたのを覚えている。とにかく、事件の異様さと、子どもの無邪気な声との違和感があまりにも強く、不気味以外の何ものでもなかった。

 本作は、その「子どもの声」から事件を紐解いていくという、目の付け所がナイスアイデアである(原作が、なんだけどね)。

 まあ、とにかく登場人物が多い。誰が誰やら、、、という感じになりそうなところを、ちゃんと混乱しないように構成しているシナリオはさすが。でもって、関係者としてチョイ役で出ている方々の顔ぶれが豪華で皆さん芸達者。塩見三省の仕手のドンみたいなオヤジの凄みがインパクト大。雀荘で関係者との麻雀仲間として出て来た正司照枝も、役というより本人そのもののキャラに見える。その他、浅茅陽子、宮下順子、佐藤蛾次郎、火野正平、堀内正美、、、と名脇役がズラリ。彼らの演技は圧巻である。

 そして、ラスボス的に出て来たのが、梶芽衣子と宇崎竜童。梶芽衣子は星野源演ずる俊也の母親役だが、ただの「利用された子どもの母親」であるはずがないよねぇ、梶さんが演じているってことは。宇崎竜童は犯行グループの主要メンバーとして、最後にご登場。彼の若い頃を演じているのが、私の秘かなお気に入り川口覚くんであった。ヘンな髪形だったのがいただけない、、、。

 それはともかく。実際のグリコ・森永事件と、本作でのギンガ・萬堂事件はほぼ経緯は同じに進行していく。原作者の塩田武士氏が、そこは同じにしたと言っているらしいが、背景も当時から言われた説がイロイロと取り入れられている。

 まあ、本作では事件の真相が明らかになっているのだが、現実のグリコ・森永事件については、一連の事件全てが時効成立してしまったのだった。だからこそ、創作意欲を駆り立てられるんだわね。この原作がなかなかの秀作なので、この後、グリコ・森永事件に材をとった小説や映画を作るのは難しいかも。

 

~~以下、本作及び小栗旬くんをお好きな方は自己責任でお願いします。悪意はありませんがちょっと悪口になっていますので。~~


◆新聞記者を買い被りすぎ。

 というわけで、ギンガ・萬堂事件の真相は分かったし、見ていて面白かったのも事実だけど、正直なところ、途中からちょっと白けてしまった。

 なぜか。

 それは、あまりにもスルスルと事件の真相が分かって行っちゃうから。警察がのべ何万人と投じても検挙できなかった事件を、何十年も経ってから、しかも、イチ新聞記者があの程度の取材で核心に辿りつけるほど、現実は甘くないと思うゾ。これは、原作を読んだときにも感じたことだけれど。

 こういう話で決まって狂言回しに使われるのが小栗旬が演じた“新聞記者”。まあ、便利な設定ではある。でも、本作の場合、阿久津の存在抜きで、曽根俊也が一人であのテープの存在を探ることで、ラスボス2人にアッサリ辿りつけちゃうんだよね(俊也が母親に「これ何?」と聞けば良い)。それに、曽根俊也がテープを見つけるのと、阿久津がギン萬事件の特集で取材に動き出すタイミングが偶然同じって、ちょっとね、、、。そんな“たまたま”は現実にはほぼない。俊也が自力で他の2人の子どもたちに辿りつけそうにないから、記者か探偵に協力を仰ぐ、、、とかいう設定にするならまだアリかもだが。

 新聞記者が何でも謎解きできる職業みたいに、特にドラマや映画などの映像系では使われるように思うが、ハッキリ言って新聞記者がここまで鮮やかに事件の核心に迫れることって、あんましないと思うなー。そりゃ、関係者がネタを持ち込めば別だけど。記者にあそこまで親切にベラベラ市井の人たちが喋ってくれるって、、、、いや、犯罪がらみじゃなければそういうこともあるだろうけど、あんなおっかない組織が絡んでいる犯罪だよ? まあ、これは小説&映画だから、そういうのは構わんといえば構わんけど、鮮やか過ぎるよね、ちょっと。

 まあ、そこは百歩譲って良しとしても、私が一番嫌だなと感じたのは、阿久津が宇崎竜童演ずる曽根達雄に説教しているシーン。「あなたは子どもの未来を奪ったんだ」とか何とか、、、。一介の記者がナニサマのつもり? 真相を究明するだけにしておけば良いでしょ。俊也が伯父の達雄に言うならアリだが。映画としても、ああいうラストへの盛り上げ(のつもりだろうが)は浪花節的で安っぽくなるからやめた方が良いと思うな~。まあ、達雄みたいな思想の人間に一発かましてやりたくなる気持ちは分かるけれども、アンタ仕事で来てるんでしょ??と。ああいう記者が書いた記事は情緒的で読む者に余計な情報を与えるからよろしくないね。

 新聞の記事は、たとえ連載や特集であっても、事実を冷静に書けば良いのです。コラムはまあ、別だけど。阿久津の書きそうな記事が想像できてウンザリした。

 
◆その他もろもろ

 小栗旬、、、好きでも嫌いでもないけど、終始、なんか軽いなーーー、と思って見ていた。いかにも軽そうな兄ちゃんが、巨大メディアの名刺一枚差し出すだけであんなにサクサクと真相を暴くってのが、余計に違和感あったのかも。こんな小僧にイギリス来てまで説教される達雄に同情しちゃったよ。彼はルパンとかがお似合いなんでは? ハリウッドから強制送還されたのも分かるわ。来年の大河で、私のこのネガティブなイメージを覆して欲しいものです。

 星野源は、抑制の効いた素晴らしい演技だったと思う。テイラーが似合っていた。自分の幼い頃の声って、テープで聞いて分かるものかね? でも、それを見つけて、ギン萬事件に迫って行く過程の、俊也の切迫した気持ちとかよく出ていたと思う。

 一番印象に残ったのは、やっぱし前述の正司照枝さんかな。ほんの数分の出番だったけど。あと、松重豊は言うに及ばず、さすがの芸達者振り。悪人も善人もすっとぼけたキャラも何でもござれで素晴らしい。

 ちなみに、グリコ・森永事件は、何年か前にNHKが未解決事件シリーズで取り上げていた。ほとんど既知の情報だったけど、やっぱり今見ても、気味の悪い事件だと改めて思った。犯人たちは今どこで何をしているのやら。

 

 

 

 

 

 

 

 

かい人21面相→くら魔天狗、、、かい人21面相の方が気持ち悪い。
 

 

 

 

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