映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その④~

2017-03-28 | ドラマ
 そののつづきです。 


◆最終回の展開について

 そので、最終回の展開がやや“物足りない”と書いたけれど、ドラマだから、あれはあれで良いとも思っている。ただ、信田さんがダメ出ししたという割には、決定稿の展開にはナゾが、、、。

 第7回で、浩司が会社を辞めて、先に会社を辞めて海外で事業を展開しているという篠田(角田信朗)に会うシーンがあります。そこで、篠田が浩司に「お前もこっちでやってみないか」と言うのを聞いて、浩司と顕子は海外へ行くという展開なのは読めました。

 でもねぇ、、、それまでの過程が、ちょっと???なんだよなぁ、、、。

 篠田に声を掛けられた後、顕子が自殺未遂の真似事などすることによって、美月と再び深刻な状況に陥り、遂には美月が観念し、顕子と一緒に暮らすという結論を出す。この一連の出来事を、浩司は知っている。

 それなのに、、、浩司は海外へ行くことを決めてしまうのです。美月に「お母さんのことは引き受ける」と宣言したのに、この行動はあまりに無責任かつ矛盾しているのでは? 家に美月が戻れば、顕子と美月の2人っきりになってしまい、状況はさらに悪化することくらい、浩司でなくても分かります。なのに、、、なぜ?

 ドラマ的には、海外へ旅立つ前に浩司が「君を必要としていた、それだけは信じてほしい」と顕子に言うシーンで、それらの矛盾を解消したつもりかもしれませんが、これじゃあ、現実的には何の解決にもなりません。

 浩司が外国へ旅立つ直前に、美月と顕子は派手な喧嘩をし、互いに顔を引っぱたき合うというシーンがありますが、顕子的母親にとって、あんくらいの喧嘩、何でもないことです。屁とも思わないでしょうね、実際は。とにかく、自分の思い描く通りに現実が収まればそれでいいのです、過程なんかどーでも。浩司が外国へ行ってしまえば、“美月と親子水入らずで暮らす”という顕子の目的は達せられてしまいます。顕子にとって、これ以上の結果はありません。

 信田さんが、この展開でOKした理由がイマイチ解せません。

 そして、なんと言っても、顕子自身が、浩司について行こうと決意することが、最大のナゾです。なぜ? 浩司の「君を必要としていた」の言葉が効いた? ……まさか!! あの時点の顕子が、自ら美月のそばを離れる決断が出来る精神状態とは到底思えません。浩司の言葉など、現実ではほとんど意味をなさないと思います。

 信田さんの言うように「鍵はやっぱり父親にあることが伝わってほしい」ということで、あの浩司のセリフが入ったのでしょうが、、、。あまりにもあの一言だけでは説得力が低い。

 そして、さらに信田さんの懸念していた「一番恐れたのはあまりにもあっけなく母が変化することで、娘の感じ方が過敏で問題だったんだ、一時的で遅れて来た反抗期だったんだという感想が生まれることだった」というのは、一部の人の目にはそう映っただろうと思いますね。こういう経験をしたことがない人には特にそう感じた人が大勢いただろうと思います。

 あんな吹っ切れた顔して、空港から旅立つ顕子さんは、やっぱり、この問題に心底悩む者たちから見ると違和感バリバリです。

 そう言う意味で、最終回の展開は、いささか物足りないのです。もちろん、素晴らしいドラマであることは前提です。


◆私が最終回のシナリオを書くとしたら、、、

 私だったら、海外へ行くのは、浩司ではなく、美月にしますね。今の仕事も、松島の存在も、全て捨てて、美月を海外に旅立たせます。

 まあ、そうすると、松島との別れを予感させるので、視聴者受けが良くないかも知れないけど、海外へ行くこと=松島との別れ、というのも違うでしょ。縁があれば、そう簡単には別れないものです、男と女なんて。

 それよりも大事なのは、顕子と美月の物理的な分離です。しかも、顕子が自ら気付きを得る展開は、現実的にはほぼあり得ないことを思えば、ここは、美月が顕子から全力で“逃げる”展開にする方が、むしろドラマチックになる上、リアリティも増します。

 海外へ美月が行くのには、根拠があります。美月は、“教師”という仕事には疑問を持っていたけれど、“英語”は好きそうでした。ならば、英語をもっと極めようと志すのは大いにアリです。しかも25歳とまだ若い。海外脱出費用は、これまで親と一緒に暮らしてきたのだから、貯金もそれなりにあるはず。物語として破綻はないと思います。

 浩司さんには、そんな美月の決断の背中を押す役割を演じてもらいたい。「俺に任せろ」と言った以上、その言葉に責任をとっていただかなければ。自らは、美月が海外へ去った後の顕子の苦しみにとことん付き合うのです。

 顕子は、美月の喪失感と葛藤しなければなりません。この葛藤を経ないで、“気付きを得る”などあり得ません。現実はそんなに甘くない。葛藤する上で、浩司と夫婦として向き合わなければならないのです。ここは、夫婦の試練だと思います。これがなくて、どうして顕子が救われるでしょうか。

 ドラマの展開では、本当の試練……つまり、美月と離れた後の顕子の苦しみを克服すること……が描かれていないので、それまでの修羅場が、結果的にファンタジーに帰結してしまった感じなのです。修羅場はキレイには終わらない。修羅場は修羅場を経て、ようやく収束への兆しが見えてくるものなのです。

 顕子がカウンセリングに行き、浩司が付き添う、というシーンも入れつつ、そうやって、夫婦の試練を乗り越えられそう、、、というところで、エンドマークにしますかね、私なら。美月は帰っては来させません。




(その⑤につづく)

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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その③~

2017-03-27 | ドラマ
 そののつづきです。 


◆「親の言うこと聞いてりゃラクじゃん」(by我が姉)

 美月は、第5回のラストで、ついにママと暮らしていた家を出るわけですが、家出準備を浩司に目撃されてしまいます。浩司は、一瞬驚くんだけれど、美月の気持ちを聞いて納得したのか、娘の背中を押します。その際に、美月が浩司に言ったセリフが、また実に的を射たものでした。

 「ママだけが悪いんじゃない。アタシも、ママと一緒にいるとラクだったし。……きっと、パパも。アタシとママが仲良くしてるのがラクだったんでしょ?」

 これはねぇ、、、言われた父親は堪えるでしょう。浩司を演じていた寺脇さんも、なんとも言えない表情で押し黙ってしまいました。こういうことを見抜く力がある美月は、やっぱり賢いと思います。

 実は、これと似たセリフをリアルで聞いたことがありまして、それを言ったのは、私の実の姉です。姉は、美月のように状況を洞察して言ったのではなく、単に、自分の思うことをポロリと吐いただけなんですが、、、。

 私が、母親が強硬に押しつけてくる見合い話に辟易し、心身共に疲弊していたのを見て、姉はこう言いました。

 「なんでそんなに親の言うことに刃向かうの? 親の言うこと聞いてりゃラクじゃん。何かあったときは責任とってくれるし

 “ラク”とは、どういうことか。

 奇しくも美月は最終回で言っている。少し長いけど、全文を。

 「アタシは臆病でズルくて、ママに嫌われたくないからママの顔色ばっかり気にして、ママの気に入ることだけして、上手く行かないことがあったらママのせいにして自分をごまかして、自分の好きなものも分かんなくて、平気で嫌いなスムージー飲んで、ワンピース着て、ニコニコ教壇に立って、でもそれでいいんだって、アタシってこんなモンだからって……!!」

 「何かあったときは責任とってくれる」(姉の言)≒「上手く行かないことがあったらママのせいにして」(美月のセリフ)、じゃないでしょーか。

 誰かのせいにすれば自分を正当化できるから、自分を責めなくて良い……ラクである、ってこと。

 でも、「人のせいにする」ことは、果たして本当に楽なのか。

 ママのせいにしたからと言って、ママが時計の針を巻き戻してくれるわけじゃなし、ママは上手く行かない現実について、実質的に手も足も出ないのである。

 ママができることは、せいぜい本人を慰めるか、テキトーなことをいって現実を直視させないか。誠意あるママなら「ごめんね」くらいは言うかもしれないが、それでも何も現実は変わらない。むしろ、本人が いつまでもグチグチ言おうもんなら「いい加減にしなさい! ママが言ったからって、決めたのはあなたでしょ!」とか言って逆切れするのがオチである。

 すると、「ママに逆らったら大変なことになるから言うとおりにしたのであって、私が決めたのではない」と思う本人のやりきれなさはまったく解消されないまま溜まる一方である。これが、本当に楽と言えるのか。


◆漬物石な母親

 結局、楽じゃなかったんですよね、美月も、本当の心の奥深いところでは。だから、25歳になって爆発したわけです。25歳で爆発できただけ、美月はまだまだ幸せです。大抵の娘たちは、茹で蛙のごとく違和感を抱いたままやり過ごしてしまい、気がついたときには茹で上がってしまって取り返しがつかない状況になっているのがオチです。

 本当の「楽」というのは、自由であることじゃないでしょうか。自由とは、自分で自分を偽らないことだと思います。自分だけは自分を裏切ってはいけない。精神的に自立していること。

 ただし、これは自分の思いのままに生きる、という意味ではない。思いのままにならないことなど多々あるけれども、思いのままにならない現実を、納得して受け入れる。受け入れるためには、自らが自らの意思に従って選ばなければ。

 美月は、自分の好きなものも分からなくなるくらい、25歳まで、自分の意思で選択してきたことがない女性だったのです。これを遅れてきた反抗期と見る人もいるだろうけど、反抗期すら許されなかった抑圧された環境だったということです。物心ついたときから、母親が自分の全身に漬物石の様に載っていたのです。最初から載っていたので、重みが分からないまま成長してしまう。しかし、第三者(松島)が介入することで、その息苦しさの原因が母親という漬物石だったことに気付くのです。

 「ママが重いの!!」

 気付けて良かったね、美月さん。





(そのにつづく)
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わたしは、ダニエル・ブレイク(2016年)

2017-03-26 | 【わ】



 以下、本作公式HPのあらすじコピペです。

 ====ここから。

 イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない。

 悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供の家族を助けたことから、交流が生まれる。貧しいなかでも、寄り添い合い絆を深めていくダニエルとケイティたち。

 しかし、厳しい現実が彼らを次第に追いつめていく。

 ====コピペ終わり。

 ローチが、引退宣言を撤回してまで撮った本作。カンヌでは、パルムドールを受賞したことで批評家たちはブーイングの嵐だったらしいが、ローチの怒りはそんなもんと比べものにならんでしょ、これ。 


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ローチファンとしては、引退宣言撤回は嬉しい限りでありますが、とにかく、ローチがものすごく怒っていることがビンビン伝わってくる作品でした。いやぁ、、、マジで、すごい怒り様です。まあ、本作を見れば、その怒りもムリもないと思いますが。怒りにまかせて何かをすると、大抵、大失敗になるわけですが、そこでキッチリ秀作を世に出してくるところが、ローチのローチたるゆえんです。


◆ローチが、とにかく怒っている。

 正直な話、本作を見ると、日本の方がまだマシと思えてしまうところが恐ろしい。国の財政健全化を名目に、福祉の切り捨てに邁進する政府の政策に翻弄されるのが、ダニエルやケイティたちなのですね。その一方で、福祉を切り捨てている張本人であったキャメロン前首相は租税回避していたってんだから、そら、ローチでなくても怒るわね。

 きっと、ダニエルは、昨年行われたEU離脱の国民投票まで生きていたら、離脱に1票を投じていたんじゃないですかね。世界からは白眼視されがちな排他主義的思想だけれども、こういう実態を見せ付けられると、離脱の選択にもそれなりの理由があるのだと、改めて知る思いです。

 大体、日本が排他主義を非難できるのか、って話です。ヨーロッパで極右政党が躍進していると批判しているけど、ルペンなんかは以前、「我々は、日本のようになりたいだけだ」とか言っているわけで、それは、難民をほとんど受け入れず、移民政策もとらず、国籍法によって血統主義が明文化され、、、彼らが望むのはその程度のことだ、ってことらしい。その主張のどこが極右なんだと。だったら、日本はとっくに極右じゃないかと。……まあ、実際、日本の現政権は極右どころか、独裁傾向に拍車がかかっていると思うけれども、確かに、日本のメディアがこぞってトランプ政権や欧州の極右政党を批判しているのには、あまりにも短絡的すぎて違和感を禁じ得ない。

 私自身は、政治信条的にはリベラル寄りだが、移民政策には慎重派だし、国籍の血統主義も間違っていないと思っている。難民受け入れはもう少し寛大になっても良いとは思うけれども、近い将来起きると予想される朝鮮半島有事の際、難民が押し寄せたらと思うと、そうそう人道主義第一のタテマエばかりも言っていられないと思う。

 ローチは、EUについて、残るも地獄、去るも地獄だが、去るよりは残る地獄の方がマシだろうということを言っている。ローチからすれば、EUなんてのは、金持ちの理論で成り立っているのであって、下層階級の者にはなんの恩恵もないけど、タテマエ上、人権尊重主義でつながっている共同体に属することで、イギリスのさらなる右傾化は避けられる、ということらしい。……まあ、ローチらしい見解です。

 でも、ローチは、ダニエルがEU離脱に1票を投じるのを見ても、決して咎めたりしないでしょう。十分、その心境は理解できると思います。だからこそ、本作を撮ったわけで。


◆シビアな中にもユーモアを忘れないところがローチ。  

 見ていて疑問に思ったのは、ダニエルは、心臓発作を起こして、労働はドクターストップがかけられているわけで、働きたくても働けない状態なのに、「就労可能」という判断が役所から下されること。日本だったら、医師の診断書があれば、手当はされるでしょう? なのに、イギリスでは、医師の診断よりも、役所の判断が優先される。死んでもイイから働け、ってこと。これはヒドイ。強制労働じゃねーか。人権無視もいいとこです。

 このときの役所の対応が、まあ、見ていてムカつくんですよねぇ。ダニエルじゃなくても怒り爆発したくなるわね。「(役所に)反発したら手当は出ない」というお上意識丸出しの恫喝行政。これがかつては「ゆりかごから墓場まで」と言われた国で行われていることだとは……。決して、映画だからデフォルメしているんではないと思いますね。

 一番、見ていて悲しかったのは、ケイティがフードバンクで缶詰をもらったら、空腹に我慢しきれずにその場で缶詰を開けてむさぼる様に食べ出したシーンです。その光景もショッキングですが、フードバンクのボランティアスタッフの優しさが切ない。服や床を汚してしまって、泣きながら詫びるケイティに「いいのよ、大丈夫よ、気にしないで、スープがあるから食べる?」と、こんな時にこんな優しい言葉を掛けられたケイティの心情を思うと、胸が張り裂けそうになります。また、泣きじゃくるケイティに、自らも苦しい状況にあるダニエルが「君は悪くない、泣かなくてもいい、自分を責めなくていい」と慰めます。

 このケイティの行動は、ローチや脚本を書いたポール・ラヴァティが取材で実際にスタッフから聞いた話だそうで。そこまで、市民に尊厳を失わせるって、、、そら、ローチが引退撤回するのも納得です。

 でも、ローチ映画の良さは、そういう絶望的な状況を描きながらも、ユーモアを忘れないところ。

 怒りが溜まりに溜まったダニエルは、遂に、行動に出ます。カラースプレーで、役所の壁に自らの尊厳を懸けて派手な落書きをするんだけど、これを見た、近くにいたホームレスや失業給付金請求者たちは拍手喝采をする。ここは、ローチが一番言いたかったシーンだと思うけれど、それを説教くさくなく、ユーモアを交えて面白く、かつ辛辣に批判しているのです。

 ダニエルの落書きシーンでは、みんなスマホで写真撮ったりしているので、私は、これが全国に拡散して、少しは行政が動く、、、という展開になるのかな、などと甘いことを考えてしまいましたが、案の定、ゼンゼン違った。

 ダニエルは、駆けつけた警察官に連行されてしまい、結局、事態は何も変わらず、彼は家財道具を売り払い、どん詰まりまで追い詰められる。でも、ギリギリのところで、ケイティの娘に「あなたは私たちを助けてくれたでしょう? 今度は私たちにあなたを助けさせて」と言われて、窮地を救われる。人権派と思しき弁護士が助っ人に現れ、何とか、救済措置を申請できそうになったところで、ダニエルは心臓発作で亡くなる、、、という結末。

 最後のダニエルの葬儀シーンで、ケイティが読み上げる一文が、「私は、ダニエル・ブレイク、一人の人間だ」というもので、これを言わせるためには、やはりダニエルが亡くなるという展開は仕方ないのかな、、、と。


◆ローチ映画に共通しているもの。

 ローチの映画に通底しているのは、逆境から抜け出すのは、本人の意思+「人の力」が欠かせないということ。どの映画も、詰まるところそれを描いていると思う。

 人生や世の中には「どうにもならないこと」「不可抗力」は必ずある。それを跳ね返すのは、結局自分自身でしかないけれど、それをほんの少しだけ支えたり見守ったりする周囲の人の小さな力が欠かせないということを忘れてはいけないと改めて教えられる。そこが、ローチの映画のシビアさにもつながると思うし、でも絶望で終わらないところだと思う。

 本作も、ダニエルは亡くなったけれど、ケイティたちには一筋の光明が差して終わっている。ダニエルも、ただただ役所にやりこめられて終わったわけでなく、彼なりに精一杯の抵抗をしたわけです。これは、階級闘争でもあり、私はそんなものに甘んじるつもりはないぞ、という確固たる意思表示で、これを成し遂げたことがダニエルの一つの希望であったと思う。こういう、ほんの少しの救いが、胸に沁みる。

 ダニエルは腕の良い大工だった、という設定で、彼が木材で魚のモビールを作るんだけど、そのモビールが実にステキです。ケイティの子どもたちにプレゼントし、自分の家にも飾っているんだけど、モビールの魚がゆったりと空を泳ぐ様が、ダニエルやケイティたちの置かれた状況との対比で切なくもあります。そういうところもまた、本作の味わいを増していると思います。

 カンヌの受賞は、まあ、ファンにとっては割とどーでも良いことで、ローチの創作意欲が枯れていなかったことを本作を見て改めて知ることができた、それが一番嬉しいことです。また、次作があるものと信じて。

 
 

 




ローチの怒り爆発!!




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牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件(1991年)

2017-03-22 | 【く】



 以下、本作公式HPのあらすじコピペです。

 ====ここから。

 1960年代初頭の台北。建国高校昼間部の受験に失敗して夜間部に通う小四(シャオスー)は不良グループ〝小公園“に属する王茂(ワンマオ)や飛機(フェイジー)らといつもつるんでいた。

  小四はある日、怪我をした小明(シャオミン)という少女と保健室で知り合う。彼女は小公園のボス、ハニーの女で、ハニーは対立するグループ〝217”のボスと、小明を奪いあい、相手を殺して姿を消していた。ハニーの不在で統制力を失った小公園は、今では中山堂を管理する父親の権力を笠に着た滑頭(ホアトウ)が幅を利かせている。

 小明への淡い恋心を抱く小四だったが、ハニーが突然戻ってきたことをきっかけにグループ同士の対立は激しさを増し、小四たちを巻き込んでいく。。。

 ====コピペ終わり。

 エドワード・ヤン監督の91年制作映画。権利関係の問題からソフト化もされず、長年、映画ファンの間では伝説化していた作品。このたび、デジタルリマスターされて、3時間56分完全版でリバイバル上映。……つ、疲れた、、、。 


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 何かの映画を見に行った際に予告編で見て、へぇーと思いながら、映画友に薦められるまで見る気がしなかったんですが、意を決して見に行きましたよ、劇場まで。なんつったって、4時間ですからね、4時間!! しかも、休憩ナシ!!! これは、映画好きでも尻込みしますって。とにかく、劇場最後尾の、通路側の端っこの席を確保し、上映前には何度もトイレに行き、万全の体制で臨みました(……って大げさな、と思わないでくださいまし)。

 正直、3時間くらいまでは結構フツーに見ていたんですが、それを過ぎると、さすがに「まだ続くのか、、、」と長さを感じました。といっても、不思議と退屈したわけではなく、睡魔にも全く襲われず、、、でも、やっぱし、4時間は長いっす。苦行に近い。

 まあでも、そんな思いをしてでも、今回を逃したら、今度はいつ見られるか分かったモンじゃないので、見ておいて良かったとは思います。映画として伝説化するのも分かる気がしました。確かに逸品です。

 ただ、こんな大作を前にして、いつものように思いつくことをグダグダ駄文に書き連ねるのは、何かこう、、、違う気がするといいますか。実は、いつものように思いつくまま書いたんですが、こんなことを書きたい訳じゃないんだよなぁ、と思って全部消しました。

 正直な話、1回見ただけで語るには、あまりにも奥が深い作品だと思います。歴史的背景や政情等に詳しければ、もう少し意義ある見方も出来たでしょうが、何しろ、そういうことには通り一遍以下の知識しかなく、何を書いても、しっくり来ない……。

 かといって、もう一度見る気は正直しないのです。4時間は、あまりにもハードルが高いです。見直したいシーンは色々と思い浮かぶのですが、そのために4時間、、、と思うとげんなりしてしまう。

 本作は台湾映画ですが、いつの時代でも、どこの国・地方でも、人間の営みの根底にあるもの……つまり、人間関係から生まれるドラマ……というのは普遍的であり、悲劇であれ喜劇であれ、ラブストーリーであれ、そこには、誰もが経験したことのある感情が流れているのだということは書き留めておきたいと思いました。

 小四の恋と、学校生活や友人との交流等の青春絵巻が描かれた本作は、多くの男性のノスタルジーを喚起し、共感を呼ぶのだと思います。男性批評家に支持者が多いのは理解できます。とはいえ、ノスタルジー一辺倒ではなく、厳しい現実も投影させ、青春絵巻といった一面的な描き方ではない、多面的な台湾での少年たちの生き様を丁寧に描写しているところに、本作の真価があるのでしょう。

 時間は長いけれど重苦しさはなく、画面も全体的に暗いけれど、映像はとても美しいです。これぞ、映画、と言うのかも知れないな、と思いながら、劇場を後にしました。

 見ないと損、とまでは言いませんが、見ておいた方が良い映画であることは間違いありません。


 





小明は映画史上に残るファム・ファタールでしょう。




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お嬢さん(2016年)

2017-03-21 | 【お】



 以下、リンク先のあらすじコピペです。

 ====ここから。

 1939年、日本統治下の朝鮮半島。世間とは隔絶した辺鄙な土地に建ち、膨大な蔵書に囲まれた豪邸から一歩も出ずに支配的な叔父(チョ・ジヌン)と暮らす華族令嬢・秀子(キム・ミニ)。

 ある日、秀子のもとへ新しいメイドの珠子こと孤児の少女スッキ(キム・テリ)がやって来る。実はスラム街で詐欺グループに育てられたスッキは、秀子の莫大な財産を狙う“伯爵”と呼ばれる詐欺師(ハ・ジョンウ)の手先だった。伯爵はスッキの力を借りて秀子を誘惑し、日本で結婚した後、彼女を精神病院に入れて財産を奪うという計画を企てていたのだ。

 計画は順調に進むが、スッキは美しく孤独な秀子に惹かれ、秀子も献身的なスッキに心を開き、二人は身も心も愛し合うようになってゆく……。

 ====コピペ終わり。

 原作は「このミス」で1位となった、サラ・ウォーターズの「荊の城」。舞台を19世紀半ばのイギリスから、日本統治下の韓国に移しての映画化。


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『未来を花束にして』を見に行った際に予告編を見て、面白そう、、、と思った次第。おまけに、一緒に見に行った映画友が「このミス」上位本は必ず読む派の人で、原作オススメと言うので、これは見るしかないでしょ。


◆劇場で音の出る菓子を食うな!!

 いきなり余談で恐縮ですが、、、。

 劇場で映画を見るときの宿命だけど、隣に座る人を選べないのですよねぇ。今回は、そういう意味で大ハズレ。

 隣になったのは、多分、私と同世代か少し若い目のオッサンだったんだけど、この人が、本編が始まってから、いきなり、音が出る菓子を食べ出したんですよ。落花生のせんべい。しかもガシャガシャ音のする袋に入っているヤツ。匂いであのせんべいだとすぐ分かったし、一応、バリバリ平気で音を立てて食べるわけじゃないけど、ガサガサ、バリッ、ボリ、、、ボリ、、、ガサッ、ガサガサ、バリッ、ボリ、、、、ボリ、、、、、、ってこれ、延々続いたわけ。最初の5分か10分くらいかと思っていたら、2時間半の映画のほとんどず~っと! てめぇなぁ、、、と思って「音立てないでもらえますか?」と、よほど言おうかと思ったけれど、そう言う私の声が周囲の迷惑になるよなぁ、と思ったり(結構混んでいたので)。

 ああいう人って、何考えてんですかねぇ。本編が始まるまでに食べりゃいいじゃん。予告編でガサガサ・バリバリ音がしていてもいいけど、本編はダメでしょうよ。ったく、、、。10代の若者ならともかく、イイ歳したオッサンがやることか。

 とはいえ、もう、途中からは、そんなオッサンに気を取られるのはもったいないと思い直して、映画に集中しましたけれど。でも、あの落花生せんべいの匂いだけはイヤでも鼻に入ってくるのだよ、、、、トホホ。


◆エログロ炸裂。

 と、余計なことはさておき。

 面白そうと思って見に行ったとはいえ、大して期待もしていなかったのですが、これが良かったのか、結構楽しめました。

 まあ、一言で言っちゃうと、エログロ・ギャグ映画、って感じかなぁ。さすが、パク・チャヌク監督だけあって、中途半端なことはいたしません。かなりぶっ飛んでいます。でもそこがイイ。ここまで振り切れちゃっていると、爽快でさえあります。

 三部構成で、第一部は珠子=スッキの、第二部は秀子の、第三部は伯爵の、それぞれ目線でという具合。第二部、第三部へと進むにつれて、コトの真相が分かってくると、ええ~~っ、っていう展開もちりばめられつつ、でも片方では一定のお約束な展開もあり、その辺のバランスも絶妙。逆に言えば、ギョッとするほど意外な展開ではなかったとも言えます。でも十分観客の興味を最後まで引っ張ってくれるので、エンタメとしては上出来なのでは。

 特に、第二部の終盤に展開する、スッキと秀子の恋模様はちょっと切なくもあり、大胆な濡れ場シーンも交えて、飽きさせないです。全体にユーモアもあり、人間の愚かしさを容赦なく徹底的に愚かしく描いている辺りが、イイです。

 ネット上で、日本の着物の着方や髪型、住まいの館の様式がヘン、といったツッコミを入れているレビューを見かけましたけれど、監督は承知の上でやっていると私は思いましたね。だって、それは、本作全体を見れば分かることでしょう。細部でウソを描くと白けるとは常々思うことですが、こういうのは、ウソを描いているのではなく、演出の一つだと、私には思えたんですけれどねぇ。

 でなきゃ、秀子に日本人の女優を使っただろうし、あんなあり得ない朗読会のシーンとか、そもそもおかしいでしょ、って話じゃない?


◆秀子の、自由への脱出物語。
 
 とはいえ、あんまり奥行きのある映画ではなく、見終わって何か強烈に心に残るものがあるわけじゃありません。

 ただ、叔父も伯爵もロクでもないヤツで、女性礼賛的な印象は強いです。そのほかにも出てくる男たちは、ただのスケベ親父的な扱われ方で、言ってみれば女を性の道具としてしか見ていないような男性像。それに抗い、自力で人生を切り開く若い娘たち、みたいな対比ですかね。斜めに見れば、旧体制VS新体制、のメタファーというか。

 少なくとも、男性目線で、“男が喜ぶ女”を描いてはいないです。男性は、本作を見てどういう感想を持つのかなぁ、、、。多分、女性受けの方が良いと思いますね。

 第三部の展開は、ちょっとグロで、私としては苦手なシーンが多く、あまり直視できませんでした。、、、つまり、痛いシーンが多いってことです。痛い目に遭うのは、もちろんニセ伯爵さん。痛い目に遭わせるのは叔父さん。どちらも胡散臭すぎなんだけど、まあ、どこか憎めない人に描かれています。

 ラストは、とことん叔父に抑圧されて、男たちの好奇の目に晒され続けてきた秀子が、スッキと奔放に愛し合うシーンで終わります。秀子はようやく抑圧から解放されたのです。


◆その他もろもろ

 冒頭に書いた、原作が面白いと言っていた映画友曰く、原作は、もっと繊細な感じらしい。面白いからオススメ! と言われたので、原作も読んでみたくなりました。

 秀子は日本人の設定だし、日本人に憧れる叔父の館に仕えるスッキなので、彼女たちや伯爵が日本語を話すシーンも結構あります。ただまあ、正直、なんて言っているのか聞き取れない部分も多々ありまして、、、。大勢に影響ありませんけれどね。

 秀子役のキム・ミニは34歳とは思えない若々しさで、美人というわけじゃないけれど、独特の退廃的な雰囲気と色気で、役柄にぴったりです。スッキ役のキム・テリは、なんと新人だというからオドロキ!! あの大胆な濡れ場シーンもですが、演技経験がないとはとても思えぬ役者っぷりです。顔もあどけなくてカワイイし。秀子の奥歯を、スッキがヤスリで優しく削ってあげるシーンとか、なかなか画になっていて見所の一つです。

 自殺しちゃった叔母役のムン・ソリがチョイ出ですが良い味出しています。また、秀子の子ども時代の女の子が凄くカワイイ。この2人がエロ本を朗読するシーンがあるんですが、「ちん○」とかいうNGワードが、フツーに彼女たちの口から飛び出しますので、その意外性にまた笑ってしまいます。

 邦画でも、ここまで大胆かつ、振り切れちゃった映画が、もっとたくさん作られると面白いんですけれどねぇ、、、。







あっという間の2時間半。




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葛城事件(2016年)

2017-03-16 | 【か】



 親から継いだ金物店を営む、葛城清(三浦友和)は、郊外に家を建て、妻・伸子(南果歩)と、2人の息子、保(新井浩文)と稔(若葉竜也)を養ってきたことを自負して、生きていた。

 しかし、家族を大切にし、男として一国一城の主として頑張ってきたはずなのに、なぜか家族はバラバラで、妻は自分を拒絶するわ、長男の保はせっかくまともな勤め人になったのに店を継ぎたいなどと言い始めるわ、二男の稔はバイトを転々としながら半ば引きこもり状態である。挙げ句、妻は二男とともに近所にアパートを借りて家を出てしまう、、、。

 どうしてこんなことになったのか、、、。そんなある日、保はリストラに遭っていたことを親にも妻にも言えずに自殺。稔は「いつか一発逆転してやる」と、棺桶の中の保に向かって誓う。稔の言う、一発逆転とは……、無差別大量殺人犯人になって世間の注目を浴びることだった。

 基は、同名舞台の戯曲だそうで。戯曲段階では、モデルは、あの宅間守の家族だったそうですが、映画化に当たり、他の無差別大量殺人犯の家族に材をとり、融合させたとか。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 昨年、話題になっていて、気にはなっていたのですが、どうもスクリーンで見る勇気がないまま躊躇しているうちに終映してしまいました。まあ、スクリーンで見なかったのは、ある意味正解だったかも。


◆大嫌いな男の子どもを2人も産む伸子も相当ヤバい。

 ネットの感想を少しザッピングしてみたのですが、概ね「リアル」「自分も清みたいな部分があるかも」というようなものでした。

 確かに、清という男性は、その辺にいそうなオッサンです。昭和な親父とでもいいましょうか。平成の世でもフツーにいるでしょう。やたら身近に感じるキャラなので、見た人たちは親近感を覚え、「自分もこんな家族を作ってしまうかも、、、」という、妙なリアリティに襲われ恐怖を感じてしまうのでしょうねぇ、、、。

 まあ、重大な罪を犯した人間の育った家庭というのは、大なり小なり、何かしら病理を抱えている可能性はあるでしょう。裁判のニュースなどで「犯人の生い立ちには汲むべき事情がある、、、」みたいなフレーズをよく耳にします。

 だから、「罪人たちの育った家庭に問題があった」ということについては、誰もがあまり疑問を抱かないと思いますが、「問題がある家庭に育った人間は皆罪人になる」わけじゃない、ということは、アタリマエのこととして認識しておきたいものです。

 稔があんなことを起こしてしまったのは、清の父親としての振る舞いに根本的な原因があるかのように受け止められかねない本作の構成は、ちょっといただけません。稔だけに限らず、伸子がああなのも、保がああなのも、全部、この父親が原因なんだ、とでも言いたげな描写の数々は、いかがなものでしょうか。葛城家の人々は、清以外、皆、清の被害者、、、みたいな。

 私が一番、イヤだなぁ、と思ったシーンは、伸子が清を激しく拒絶したところです。拒絶したこと自体は構わないけれど、その後がね、、、。伸子は「アタシ、あなたのことが最初から嫌いだった、大嫌いだった。どうしてこんなことになっちゃったんだろう」(セリフ正確じゃないです)とか言って、ボロボロ泣くんですよ。そのシーンの南果歩の泣き顔がメチャクチャ醜く見えました、私には。このセリフは、自分に対して言っているように見えるけれど、違います。自分が可哀想で、伸子は泣いているのです。こういう、自己憐憫の涙を平気で流せる人間が、私は大嫌いでして、、、。

 大嫌いな人間との間に、なぜ、2人も子ども作ったんでしょーか、アンタは。大嫌いな人間との間に産み落とされた2人の子どもは、一体、何なんでしょーか? 彼らの気持ち考えたことないんでしょーか? 子どもたちに産んでくれって頼まれでもしたんでしょーか? 勝手に産んだのは誰でしょーか? 泣きたいのは子どもたちじゃないでしょーか?

 清に問題がないとは言いませんが、同じくらい問題なのは、この伸子でしょう。でも、ネットでの感想で、伸子を批判的に書いているものはあまり見当たりませんでしたね。何でなのかしらん、、、。

 親も人間だから仕方がない、、、。それはそのとおりです。だったら、伸子がああなのは仕方がないし、清がああなのも仕方がないんじゃないの?


◆食事で分かる家庭の病理。

 とはいえ、確かに、家族の誰か1人のせいで、家族全員に悪影響を及ぼすことはあります。また、どんなに劣悪な環境で育っても、罪人にならない人はならないのだと、全て自己責任論に帰結させるのも乱暴でしょう。

 いただけないと思う部分はありますけど、人間の嫌らしい側面を、決してわざとらしくなくサラッと描いているその腕は、素晴らしいと思います。

 中華料理店でのシーンなんて、もう、コントみたいに痛々しいけれど、ああいう人は確かにいる。それでいて、清が毎日店で座っている場所から見える景色は、店の棚がほとんどを占め、外はほんの隙間から覗いているだけ、、、という狭さを強調した画面とか。清という人間の卑小さ、それをカモフラージュするための尊大さ。万人が持つ人間の醜い部分を遠慮なく抉る描写。……、ああ、嫌らしい!! 

 葛城家の人たちがものを食べるシーンが多いのだけど、手料理が一つもない、ってのがまたねぇ、、、。宅配ピザ、コンビニ弁当、カップ麺、、、。こういうところの描写も、上手いなぁ、、、と。この家を象徴する描写ですもんね。


◆自己チューじゃない人なんているのか?
 
 稔と獄中結婚する女性・星野順子(田中麗奈)の存在が、非現実的だ、と書かれている感想がありました。でも、よくありますよね、死刑囚の獄中結婚。

 結局、順子も、稔のためだとか言ってはいるけど、ただの自己チューにしか見えなかったなぁ。独善、自己満足でしかないでしょ。

 つまり、本作に出てくる人たちは、皆、自己チューなんですよね。自分のことだけ。自分さえ良ければ良い。でも、自分が良くないから、良くないのは、自分じゃない何かのせい、、、。そういう思考回路な人たちな気がします。

 人間、誰しも自己チューで、私ももちろん自己チューです。でも、自己チューな人間が皆、病んでしまうわけじゃない。自己チューと、せめて自覚くらいはしておきたい。「あなたのため」なんて平気で言う人間にだけはならないぞ、と常に自分に言い聞かせていたい。自分の信念のために、自分以外の誰かの気持ちを踏みにじることをしないよう、気をつけなければいけない。

 こういう作品を見ると、人間は、結局、誰しも一人で孤独なんだな、、、ということを痛感させられますね。家族であっても、きちんと互いに自立し尊重し合える関係でないと、誰かが病んでしまうのだから。

 人間とは、なんて厄介な生き物なんだろう。漁港が見下ろせる、日当たりが良くて小高い丘になわばりを持つ野良猫に生まれたかったかも。に゛ゃ~~







三浦友和が圧巻。




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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その②~

2017-03-14 | ドラマ
 そののつづきです。 


◆それでも美月は恵まれている。

 このドラマを見ていて、そうはいっても、美月の置かれた環境はまだまだギリギリではないな、と思う点がいくつかありました。

 それはまあ、松島のような人間力の高い男性が現れてくれたことや、浩司が家庭を顧みない父親とは言っても全面的に美月の味方になってくれたことや、、、挙げれば他にもありますけれども、娘の立場を経験した者からして何が一番羨ましいかって、それは文恵さん(麻生祐未)の存在ですねぇ。

 文恵さんってのは、顕子の学生時代からの親友。でもって、顕子が現在通う人形教室の講師で、人形作家の自立した女性。離婚歴があって、元夫が顕子の好きな男性だったらしい、、、。でも、文恵さんと元夫はうまく行かずに別れた、ってことの様です。

 この文恵さんが、顕子の異常な美月への執着ぶりを冷静に見極めており、顕子に時々「行き過ぎである」と忠告してくれる存在なのです。もちろん、そんなことで目の覚める顕子ではないけれども、家族以外の他人である第三者が、しかも身近に存在する人が、“母親の異常性を理解している”、、、このことは、娘の立場になってみると、非常に重要です。

 現実では、世間の見方というのは大抵の場合、「親は子の幸せを願わないわけがない」なんですよ。つまり、世間というのは、まあ、十中八九は母親の味方をしてしまうのね。娘も(当然ながら)そういう一般論的価値観に毒されているので、世間にそう言われると「やっぱり自分がおかしいのか、、、」と、自己嫌悪と罪悪感に襲われて絶望するのです。母親との確執を抱えた娘でこういう絶望を味わったことのない人は、恐らく皆無でしょう。皆が、一度は味わう“目の前が真っ暗になる感じ”なのですよ。

 しかし、文恵さんのような存在が、外側に1人でもいてくれるというのは、娘にとってこれほど心強いことはありません。「お母さんの方がおかしい」と言ってくれる人がいる。それが、文恵さん、たった1人でも、もう百人力のような気持ちになります。

 これはね、彼氏とか恋人とかじゃダメなのよ。ドラマの中でも、松島は非常に重要な役どころですが、いかんせん、恋人ってのは娘と目線が同じです。少なくとも、娘から見て、世間を代弁してくれる存在とはちょっと違う。文恵さんは、人生の修羅場をかいくぐってきたオトナな女性。美月よりも、松島よりも、遙かに先を行く人生の先輩です。しかも物心両面で完璧に自立している。そんな達人が「あんたのお母さんはヘン」と言ってくれるんです。この重みは、松島にも代わることはできないのです。

 私も、若い頃、「あなたのお母さん、おかしい」と、面と向かって言ってくれた人が2人いました。ですが、2人とも男性で、なおかつ同年代。彼らは、私にとって尊敬する人たちでしたから、そう言われることで「やっぱりおかしいのか……!?」とまでは意識が到達しましたが、「そうか、あの母親は、やっぱりおかしいんだ!!」という確信にまでは至りませんでした。それは、先に書いたような理由だからだと、ずっと後になって分かったことなのです。

 まあ、文恵さんの存在があったからと言って、美月の葛藤が消えるわけでは当然ないのですけれどね。でも、文恵さんの存在がなければ、美月だけではなく、早瀬家自体がもっと煮詰まっていた可能性は高いと思うのですよねぇ。

 なぜなら、これはドラマだからなんだけれども、この文恵さん、適度に早瀬家に介入してくれるんですよ。時には、浩司を職場に訪ねて、美月の窮地を救います。夫に直接もの申してくれる第三者がいるなんて、これは、顕子にとっても素晴らしく幸せな環境だと思いますね。実際、こんな文恵さんみたいな人、まずいないでしょうね。

 だからこそ、文恵さんのような存在が身近にいてくれたらどんなに良いか、、、。このドラマを見てそう思った娘たちはたくさんいると思います。娘をとっくにやめた私も思ったのですから。


◆美月は賢い。

 美月は、25歳にもなって母親のことを「ママ」と呼んで憚らず、身の回りの世話も母親にしてもらって、正直、大丈夫か? と言いたくなるような娘なんだけれども、でも、芯の部分では非常に賢い女性だと、ドラマが回を追うごとに思いました。もちろん、美月の成長譚なのですから、そういうものかも知れませんが、彼女は、あの若さで、もの凄い洞察力を持った人です。

 第7回のラストで、「自由にしなさい。その代わり、松島さんとは別れなさい。だって、独立するんでしょ? 独立するのに男の人に頼るなんておかしいじゃない!!」と絶叫する顕子を見て、美月はこう言うのです。

 「ママ……、私に嫉妬してるの? いつもそうだった。言うとおりにしていれば、ママは嬉しそうだったけど、私が自分で幸せになろうとするのはイヤなんでしょ?」

 正直、この台詞を聞いて、この若さでここに気付くなんて、(そりゃドラマの中の世界だけど)美月は賢い!!と、驚嘆してしまいました。これ、なかなか気付けないのですよ、普通の娘は。

 まあ、このやりとりから言って、見ている人にも分かりやすい流れだとは思います。この流れなら「嫉妬する母親」というのも、見ている方も受け入れやすい。でもね、現実では、たとえこういう分かりやすい流れでも、なかなか「嫉妬」という言葉は、娘の脳裏に浮かばないのですよ。

 なぜか。

 娘は、母親を女としては(全く)見ていないからです。母親も、娘を女として自覚的に見てはいないでしょう。でも、無自覚で、母親は娘を女として見ていることはママあると思います。

 この「嫉妬」というキーワードにたどり着くまでに、娘は大抵の場合、かなりの葛藤を経験するはず。私の場合、そこに気付いて、ようやくイロイロな呪縛が解けていった気がしますね。そうだったのか、、、と目からうろこな感じで。

 そう、美月の言ったことはドンピシャリの正解なのです。これは、以前の記事にも書いたけれど、母親は、娘に嫉妬するのです。ドラマの流れだと、男がらみの嫉妬、と解される可能性もありますし、実際そういう部分もあるでしょうが、どちらかというと、そういう色恋ではなく、「同性としての娘の生き方への嫉妬」ですね。自分が手にできなかったものを手に入れる娘を見るのが、死ぬほどイヤなのです。

 そんな母親いるか? と思うor思えるあなたは、きっと、比較的問題の少ない家庭に育った人か、あるいは、問題に気付いていない人か、どちらかでしょう。私も、40歳近くになるまで気付いていなかったので、、、。

 母親が、自らの嫉妬心に気付くこと、認めることは、多分、そうはないでしょう。そんなの、母親としてのプライドが許さないはずです。私の母親にそんなこと言ったら、母親は激高し、怒りのあまり憤死するかも知れません。それくらい、母親にとって受け入れがたい事実でしょう。

 嫉妬してしまうのは、自らの人生が満たされていないからなんですよねぇ。それは、環境のせいも多少はあるけど、申し訳ないが、やはり自分の努力不足もかなりある。夫と向き合おうとしない、自分の人生に向き合おうとしない、娘に愛情を注ぎ込んでると自己陶酔に陥って自らの客観的姿を見ようとしない、、、。そういうことを全部ひっくるめて、娘ごときに「私に嫉妬してるんでしょ」などと言われた日にゃ、、、。

 顕子は、どうして働かなかったんでしょうねぇ、、、。経済的に自立できていたら、もっと違う人生が開けたかも知れない。あんなに娘のことばっかり考える時間もなかったはず。要はヒマなんですよねぇ、顕子さんは。

 その他でも、美月は、短絡的な行動をとることなく、どんなときも、自分できちんと考え、困難にも立ち向かう強さも持っています。演じた波瑠さんの持つ雰囲気もあるでしょうけど、いつもどこか凛とした姿勢を持っている美月は魅力的です。こんな素晴らしい娘を育てたんだから、顕子さん、あなた、自信持って良いんですよ、本当は。



(そのにつづく)




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汚れたミルク/あるセールスマンの告発(2014年)

2017-03-10 | 【よ】



 1994年のパキスタン。ある多国籍企業ラスタ社(仮名)に、大卒資格がないにもかかわらずセールスマンとして採用されたアヤンは、前職での医師たちのツテと人好きのするキャラが奏功し、粉ミルクの営業で好成績をあげ、新妻ザイナブとの間に子も生まれ、幸せに暮らしていた。

 が、旧知の医師から、粉ミルクについての恐ろしい真実を知らされたアヤンは、ラスタ社を辞めてしまう。そして、粉ミルクの実態について告発しようとするのだが、、、。

 2014年制作なのに、やっと日本で今、世界初の公開に踏み切れたという問題作、、、らしい。
 
 
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 日本が世界に先駆けて公開に踏み切った、なんてこともあるのねぇ~、と意外な思いがしたので、とりあえず劇場で見てみようかと行って参りました。監督のダニス・タノヴィッチの映画『ノー・マンズ・ランド』も『鉄くず拾いの物語』も見ていないし、予備知識も新聞の評を読んだだけでほとんどナシでございました。


◆多国籍企業ラスタ社(仮名)はまるでヤクザ。

 多国籍企業の実名は、本作内で1度だけ出て来ます。1度でも出すんだったら、仮名にする必要あんの? と不可解だけれど、まあ、あんまし社名を連呼するのも憚られたってことでしょうかね。

 正直、その社名を聞いて、さもありなんと思いましたね。世界的に評判が悪いからではありません。大昔、個人的に、この企業にはとてもイヤな思いをさせられたからです。詳細は書けませんけど、日本法人の広報の担当者(もちろん日本人)は、恫喝まがいのことを平気で言ったり、こちらがそれに対して文書でロジカルに説明をした途端ダンマリを決め込んだりと、広報のイロハをも弁えぬサイテーな対応をしてくれました。

 それを機に、私は、その企業の製品は一切購入していません。どんな人間であれ、彼らにとっては客の一人であることを考えない浅はかな企業だなぁ、と、言っちゃ悪いけど心底軽蔑しました。企業の顔と言っても良い広報がそんな体たらくなんて、どんなにTVCMでイメージ戦略を打っても、自らそれを台無しにしているようなモンでしょ。図体がデカイからと言って、末端の客一人の切り捨てに頓着しない企業なんて、所詮底が知れていると思いました。

 ただねぇ、、、困ったことに、職場でこの企業のお菓子をくれる上司やら同僚やらがいるわけですよ。当然、彼らは何も知らないし、何よりメジャーな菓子なんで。そうすると、「私、そこの菓子は食べないから!」とは言えないわけです。でも、やはり口にする気にはなれないので引き出しの肥やしに、、、。こっそり捨てるときの罪悪感。たとえクソ会社の商品でも、食べ物は食べ物。食べ物を捨てることには、やっぱりものすごい後ろめたさを感じます。なんであの会社に、こんな後ろめたさまで感じさせられなきゃいかんのか! と憤りも感じますけど、それは筋違いな憤りでもあり、悩ましいものです。

 とはいえ、粉ミルクを、パキスタンの下水施設の整備されていない貧困地域で売りさばいたのは、なにもその企業だけじゃないんですよ。他の企業の実名は出て来ませんでしたけど、そういう意味では、1社だけ実名を出すってのはいかがなものかという気もします。まあ、だからといって実名を全く出さないってのも、それはそれで事実を隠蔽しているみたいで、制作側としてみれば出したいのも分かります。だから、1度だけのチョイ出し、ってことにしたんでしょうね。

 あとは、その企業が、アヤンのモデルとなったサイヤド・ラーミル・ラザ・フセイン氏に実際に行った犯罪まがいのことの数々から検討し、企業名を作中で連呼することにより、ますます作品の公開が非現実的になることを恐れた、というのもあるでしょう。というか、こっちがメインの理由でしょうね。まあ、あの企業なら、それくらいやりかねないかもな、と思う半面、そこまでやるのか、まるでヤクザ、、、と呆れもします。


◆「汚れたミルク」の意味と違和感。

 前置きが長くなりましたけれど、本作の構成は、なかなかユニークです。アヤンの経験したことを映画化するプロジェクトが、実際に映画を撮るに至るまでを描く、という設定で一連の問題が描かれていきます。現在はカナダに住むアヤンと、ロンドンのスタッフが、スカイプによる議論を始めるところから、本作は始まります。

 ただ、私が本作を見ている間、ずーっと疑問だったのは、粉ミルクを売れば、汚い水で溶かれたミルクを乳児が飲むことを、アヤン自身が想像し得なかったのか、、、ということです。考えればすぐに分かりそうなことじゃないのか……?

 それをさも、その企業に騙されたかのごとく怒りを向けるのは、何かこう、、、違和感を抱いちゃったんですよねぇ。

 粉ミルクを、金欲しさにひたすら売り歩くセールスマンがいることも、そんなセールスマンに賄賂で丸め込まれて粉ミルクを貧困層の母親たちに薦めた医者が大勢いることも、何も知らずに言われるがまま乳児たちに飲ませてしまった母親たちがいることも、それは理解できるんですけどね。特に、母親たちは、「粉ミルクを飲むと頭の良い子になる」等というデマを吹き込まれた様ですし。

 アヤンも、知っていながら金欲しさに売り歩いていたけれど、途中で考えを変えて、その企業を告発するために動く決心をした、、、というストーリーなら分かりますけど、医者に指摘されるまで全く気付かなかったなんて、んん~~、なんだかなぁ、、、という感じ。

 でも、アヤンは、事実を知ってからの行動は至って速い。すぐに仕事は辞めるわ、WHOに告発するわ、ドキュメンタリー番組の制作に協力するわ、、、。その行動力には恐れ入る。

 しかも、若い妻も、アヤンの実父母も、アヤンを全面的にバックアップするんです。アヤンが、告発行動を辞めようかと悩む場面でも、妻は「信念に背く夫を尊敬できない」等と言って、背中を押すんですからね、、、。家族にまで危険が及びかけているというのに。すごい女性です。私が妻なら「もうやめてくれ! 平穏な生活がしたい!!」って言っちゃうね、間違いなく。理想は、アヤンの妻のように振る舞えることでしょうけれど。


◆実話モノはねぇ……。

 そんなわけで、展開の速い本作ですが、終盤、一波乱あります。アヤンが、企業の脅しに屈しかけた事実が、ドキュメンタリーの制作スタッフらに暴露され、放映予定だったドイツのTV会社が手を引いた、、、というわけです。

 そしてアヤンが絶望してとぼとぼ歩くシーンでジ・エンド。字幕で、その後……、ってのが説明される。

 なので、本作をドキュメンタリーと受け止めてしまう観客が、少なからずいるんじゃないか、と危惧しますねぇ。監督のインタビュー等を読むと、制作過程はまた別物だったことが分かるので、きちんとそういうバックグラウンドも観客としては知る必要はあるかと感じます。あくまで本作は、実話ベースにしたノンフィクションだ、ということをきちんと見る者に伝えるべきでは?

 実話モノのイヤなところってのはこういうところで、何だか、映画で描かれていることが、さも実際にあったかみたいに見る者に錯覚させる。受け手のモラルと感性が非常に試されるジャンルの映画だと思います。

 まあ、そうはいっても、ある意味、告発映画としての役割は果たしているわけだし、粉ミルクの犠牲になってたくさんの乳児が亡くなっているという事実はあるわけだから、人殺しもしかねない企業を相手に、よく腹を括って制作したな、とは思います。そういう意味で、プラス2つしました。








若妻・ザイナブが美しくてカッコイイ!




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NHK・ドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」(全8回)を見終えて ~その①~

2017-03-08 | ドラマ
 今年のNHKドラマ10は、「お母さん、娘をやめていいですか?」という、なかなかインパクトあるタイトルのドラマでスタート。開始直前、年明けの番宣で知って、これはイヤでも見てしまうなぁ、、、と思って、実際、毎回欠かさず見た次第。

 映画以外のことはほとんど書いていないブログですが、このドラマについては、ちょっと他人事とは思えないものがありまして、、、。

 ドラマのあらすじを一応。番組HPからコピペです。その他、細かいことはリンク先のWikiをご覧ください。

====ここから

 娘、早瀬美月(波瑠)25歳。母、早瀬顕子(斉藤由貴)50歳。美月の中学受験や大学受験、就職の時もいつも二人三脚で頑張ってきた。

 美月は完璧な母のサポートで順調に育ち、今は女子高の英語教師となり、母であり一番の親友である顕子を全面的に信頼していた。

 二人はまるで恋人同士のように仲の良い母娘だった。この母娘の密着を父、浩司(寺脇康文)は気にかけていたものの、仕事一筋で二人の関係に踏み込むことができないでいた。そんなとき、新築中の早瀬家を担当するハウスメーカーの松島(柳楽優弥)が、不思議な人懐っこさで二人と親しくなる。顕子は彼を気に入り、美月とつきあうように背中を押すが、美月は松島と会うことで、自分が無意識に母親の顔色を見て生きてきたことを自覚していく。顕子は娘が次第に変わり、自分から離れて行くことに動揺し、自分の一番大切なものを奪われたくない、と次第に心の奥の危険なスイッチが入っていく。そして、ついに松島を誘惑してしまう―


====コピペ終わり。



◆現実の“母と娘”の確執にハッピーエンディングはない。

 ここまで、“母と娘”の確執にフォーカスしたドラマって、これまで多分なかったんじゃないでしょうかね。本作は、 波瑠さん演じる娘が主役のドラマだったし、何より私自身が娘の立場で似たような経験をしたので、まあ、どうしたって美月の目線で見てしまいましたわねぇ、、、。

 実は、かつて私がシナリオコンクールに応募していたときに、このテーマで作品を書いて提出したことがありますが、その際、主人公は、母親側にしました。なぜかって、娘の立場で書いたらあまりにグロテスクになりそうだったし、母親の目線で見ることによって母親の気持ちが少しは分かるかも、と考えたからです(分からなかったけど)。

 コンクール作品は、大抵1時間もののドラマですから複雑な話は書けませんけど、母親とその母親(つまり私の祖母)や、夫(つまり私の父)との関係性にかなり根の深い原因があるだろうと思ったので、母親が夫と結婚する前にタイムスリップして、人生やり直すとしたらどうするか、という筋立てで書いたわけです。コンクールには暗黙の掟があり(今はどうか知りませんが)、やはりハッピーエンディングか、せめて救いのあるラストにすることが求められるため、私も無理矢理、救いのあるラストにしたんですけれど、本来、“母と娘”の確執問題で救いのある展開というのは、非常に稀なケースなので、経験者から見れば甘いラストになるわけです。

 我ながら、こんな甘い話は非現実的だと思ったけれども、やはり、お茶の間で見るドラマである以上、あまりに救いのないバッドエンドのフィクションをわざわざ見たい人なんて少ないでしょうから、こういうもんだと割り切って提出しましたよ。結果は、最終審査手前で落ちましたけどね。 

 どう甘いラストだったかというと、母親が自分の過去を辿ることで改めて夫の存在の大きさを思い知り、娘に執着していた自分の病理について、母親自身が気付きを得る、というものです。“母と娘”の確執において、救いのあるラストにするならば、母親が自ら変わるしかないのです。そして、そんなことはほぼ100%あり得ないと、経験者は皆身をもって分かっているので、“やっぱドラマよね~”と思うわけ。

 この「お母さん、娘をやめていいですか?」の脚本は井上由美子さんという素晴らしい書き手で、この井上さんが一体、どうやってこのドラマを着地させるのか、ドラマが始まったときから興味津々でした。バッドエンドはあり得ないだろうから、であれば、井上さんはどうするのかな、と。

 そして、3月3日の最終回は、、、。


◆母よ!! 父よ!!

 まあ、やっぱりそうなるよなぁ。……というのが、正直な感想でした。

 そう、最終回、美月の母が、夫との関係性を見つめ直すことによって自ら気付きを得て、娘からの自立のための一歩を踏み出す、、、というものでした。さしもの井上さんも、やはり、こう来たか、という感じです。……というより、それしかないんだよね、マジな話。

 番組HPの掲示板をざっと見たところ、やはり、この最終回については「現実はあんなに甘くないが、ドラマだからあれで良いと思う」という意見が多く、中には「がっかりした」というのもチラホラ。まあ、そうなるでしょうねぇ、、、。どちらの意見も分かります。

 最終回のシナリオについては、監修の信田さよ子さんに一度はダメ出しされたそうです。信田さんのツイッターを拝見したところ、「鍵はやっぱり父親にあることが伝わってほしい」「一番恐れたのはあまりにもあっけなく母が変化することで、娘の感じ方が過敏で問題だったんだ、一時的で遅れて来た反抗期だったんだという感想が生まれることだった」と書かれていた。確かに、それはその通りで、その苦心の跡は窺えるシナリオだったと思うけれども、経験者からすると、物足りなさを感じるのは否めないかもね。

 ただ、このドラマが凄いのは、“母と娘”の確執という、普遍的かつ壮大でグロテスクなテーマを、極めて分かりやすく、エキスだけを(少なくとも最終回までは)過不足なく盛り込んでいるところだと思うのです。リアリティを持たせながら、なおかつ、ドラマとして破綻しない程度にデフォルメし、それでいてこの異常さの根源には“夫婦の関係の希薄さ”という暗くて深い川が横たわっていることを浮き彫りにしています。こういう描き方ができるところが、やはり、井上さんは素晴らしい、と言われる所以でしょうねぇ、、、。

 そんなわけで、最終回は若干甘さを感じたけれど、ものすごく見応えのある、秀逸なドラマだったと、見終わっての満足感はかなり高いのですが、……というか、高いからこそイロイロと思うところがあるわけで、それらをこれから書き留めておこうと思います。


(そのにつづく)



 


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家族の肖像(1974年)

2017-03-06 | 【か】



 お気に入りの美術品に囲まれ、召使い以外のいない邸宅で一人暮らす教授(バート・ランカスター)。ある日、教授の下にケバケバしい婦人(シルヴァーナ・マンガーノ)が押しかけてきて「上階の空き部屋を貸せ」と教授に迫る。教授は断るが、婦人は一向に引こうとしない。

 こうして、平穏だった教授の一人の優雅な生活は見事に婦人の家族とその愛人らにぶち壊されることになるのだが、、、。

 生誕110年 没後40年を記念してのデジタル完全修復版による上映。

 
 
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 ヴィスコンティ好きの映画友に誘われて、まさにお散歩日和の好天の休日、岩波ホールへ行って参りましたよ。相変わらず、年齢層高っ!! やはり、初公開時に見に来られた方たちが、またいらっしゃってるのかしらん、、、などと、映画友とくっちゃべりながら、いざ上映開始……。


◆いきなり意味不明な展開、、、

 もうね、開始早々訳わからん!! 目が点でした。シルヴァーナ・マンガーノは、ブルモンティ侯爵夫人のビアンカという女性の役なんだけど、まあ、とにかく、傍若無人というか、図々しいというか、教授が「貸さない」と頑なに拒否している部屋を、「ちょっと見るだけ」などと言って、ずかずかと上がり込んでくる。……あ、あり得ん! なに、このオバハン!! って感じなんだけど、教授も気圧されて仕方なく部屋を見せる。そうしているうちに、ビアンカの娘やら、恋人やらが上がり込んできて「ステキな部屋じゃない!」などと大騒ぎし始める、、、。嗚呼。

 そうこうするうちに、ビアンカの愛人、コンラッド(ヘルムート・バーガー)がご登場。で、お約束というか、案の定というか、教授がコンラッドにハッとなる、、、。もちろん、その美しさや男としての魅力に、ってことですが。

 ん~、もう、出だして気持ち的にくじけてしまった私。……またかよ、的な気分。ヴィスコンティ好きの映画友には悪いけど、やっぱし、私、ヴィスコンティ、ダメだわ。


◆相変わらずの不親切な作り

 まあ、ストーリーは、公式サイトを始め、いろんなところで紹介されているので、わざわざ感想を書くためになぞる必要もないかと。

 本作を撮ったとき、ヴィスコンテイは病身で、室内だけで撮影できる簡潔なストーリーの映画を、、、ということで本作のシナリオになったそうだけど、、、。この映画のどこが“簡潔”なんでしょーか?

 貸さないと言われている部屋を勝手に工事して改装しちゃうし、ビアンカは本作の舞台であるローマを始めパリだかロンドンだかを駆け回っている様子だし、ビアンカの娘と恋人とコンラッドは乱交パーティしているし、、、はぁ??な展開が続くんだよねぇ。

 本作でも感じたのは、やっぱし、ヴィスコンティ映画は、不親切ってこと。なんとなく、言いたいことは分かるので、見る者のことを考えていないとは思わないけど、やっぱし作りは自己中だよねぇ。まあ、状況が状況だったからってことを割り引いても、ううむ、、、私にはゼンゼン響かない描写の連続だったわ。

 大体、いきなり面識のない人の家にズカズカと上がり込んで、「空き部屋貸せ」なんて展開、おかしいでしょうが。なんでそーなるの? と。そこの説明はいらない、というのなら、見ているウチにそれが分かるようにしてくれよ、と言いたい。最後までそれは分からないし、勝手に部屋を大改装しちゃって、結局は出て行っちゃうんですからねぇ、、、。何なんだ、このオバハン? と見ている人たちが思わないだろうか、と、ヴィスコンティは思わないんでしょうか。こういうところが、不親切だ、と私が思うところなのね。

 でも、それは想像力で補え、ってことなんでしょーよ、きっと。はいはい、補える想像力が乏しくて、どーもすみません。


◆名作、というより自慰映画だと思うんだよなぁ。

 まあ、無理矢理こじつけ解釈をすると、滅びの美学、ってやつでしょーか? 過去を封印し、孤独にあらゆる美に囲まれた生活をして、でも、自分の美意識を受け継いで欲しい者(=コンラッド)にようやく出会えたと思ったら、その人は死んでしまうし、そのせいで教授自身まで衰弱して死を予感させる終わり方。……嗚呼、こういうのが理解できる日が、私には永遠に来ない気がする。

 彼の作品には、貴族とか、愛人とか、芸術とか、ゲイとか、必ず出てくるものたちがあるけど、それらは、何かこう、、、記号化されている感じがするのよね。ヴィスコンティ・オリジナルな記号。それくらい、ホントにどの作品もカラーが似ていて、ちょっと辟易としてしまう。こういうのが好きな人は好きなんでしょうけれど。

 映画友は「ヴィスコンティ作品に駄作は一つもない」と言っていましたが、私は同意できかねました。まあ、確かに、本作だって、駄作と言ってしまうには若干違和感はありますが、ここまで名作名作と持ち上げられるのも、なんか違う気がしますね。
 
 世界の巨匠の作品に対して言うことじゃないかもしれないけど、なんつーか、これは自慰映画ではないでしょうか(オ○ニー映画とは、さすがに畏れ多くて書けません)。

 例えば、 ホドロフスキーの『リアリティのダンス』なんかは、やっぱり自分を癒やすための映画ではあるけど、自慰映画とは思わないのね。ホドロフスキーの場合、あんまり、自分への哀れみが感じられないのよね。自分が生まれたのはこんなヘンな家族で、こんなユニークな人生だった! という徹底した自己肯定が感じられる。でも、ヴィスコンティの場合は、一見、自分の置かれた境遇(貴族出身であることとか)をシニカルに描いているようで、キョーレツなプライドと自意識・自己愛が隠せないでダダ漏れしちゃっている感じがする。そこのところのギャップが、ものすご~く、私のような歪んだ感性の人間からすると、自慢たらしく、嫌みたらしく見えるのよ。

 そういう意味では、『若者のすべて』は、そういったものがあまり感じられず、素直に見ることができた気がします。初期の『揺れる大地』を見逃したのは、残念だったわ……。


◆その他もろもろ

 ヘルムート・バーガーって、やはり、美しいけど、知性美はあんまし感じられませんね、、、。ヴィスコンティは、彼のどこに惹かれたんでしょうか。やはり、見た目の美しさでしょうか、、、。

 バート・ランカスター、『山猫』のときと似たような役どころでしたが、大分衰えを感じます。まあ、十分ステキなおじいさまですが、、、。

 しかし、本作は、なんと言っても、シルヴァーナ・マンガーノでしょう。登場シーンからして強烈です。ゴージャスな毛皮をまとって、でっかいペンダントヘッドのついたネックレスを下げ、メイクは目の周りをぐるっと真っ黒にラインで囲んで、さらに細くてつり上がった眉。『地獄に堕ちた勇者ども』のイングリッド・チューリンと雰囲気がよく似ています。

 あと、2回くらい見たら、もう少しましな感想が書けるようになるんだろうか、、、ごーん。








家族の肖像=中島みゆきのANNを思い出してしまう。




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サード・パーソン(2013年)

2017-03-01 | 【さ】



 デビュー作こそピューリッツァー賞なぞ獲って話題になったが、その後停滞しているらしい小説家のマイケル(リーアム・ニーソン)は、パリのオサレなホテルで次作を執筆中の様子。

 そこへ、愛人と思しき美しく若い女性アンナ(オリヴィア・ワイルド)が訪ねて来るのだが、、、。

 錯綜するお話が、実は…………だった、、、と見る者たちの脳を刺激する、オスカー脚本家ポール・ハギスによる脚本&監督作品。

 
 
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 ブロディの出演作をちまちま見ているので、今回はこの作品。手当たり次第にテキトーに選んで見ているので、今回、本作を見た理由は特にありません。なので、ポール・ハギス脚本と知りませんでした。知っていたら見なかったかも、、、。

 ハギスさんのファンの方は、以下の駄文はお読みいただかない方が良いです。きっと、腹が立つだけですので。


◆「ストーリーの構成はお手のもの」なんだって。

 本作の解釈については、もう、あちこちでイロイロと書かれているので、大方はそちらにお任せして、率直な感想を。

 本作をお好きな方には申し訳ないのですが、私は、こういう脚本の映画は、嫌いです。それも、ただの嫌いじゃなくて、大っ嫌いです。

 引き合いに出すとハギスさんに怒られるかもですが、邦画でいうと、『アフタースクール』とか『キサラギ』とかと同系列だと思うんですよねぇ。とにかくトリッキーさにこだわる。イロイロ伏線張ったり、謎を仕込んだりして、見ている者の興味を引きつける。でも、中身はスカスカ、、、みたいな。「よく出来たお話ですね。……で?」という言葉が脳裏に浮かぶ。

 本作も、まあ、それと同じな訳です、私にとって。しかも、本作のタチの悪いのは、ローマとNYの物語については、マイケルの小説のオハナシであろうと思われるオチだってこと。まあ、その2つの物語が、マイケルの過去の投影だ、、、と言われれば、夢オチと一緒にするのは乱暴かも知れませんけど、でもまあ、大差ないかなと思っちゃいますね、私は。

 私が、ローマとNYの物語がマイケルの小説内物語であると気付いたのは、ホントに終盤。ブロディ演じるスコットとモニカ(モラン・アティアス)の乗った車がサーッと消えた辺りで、「は、、、? それはもしかして、、、あれですか??」みたいな感じで、もともと苦手なハギス作品かぁ、、、と思って見ていたところにトドメを刺されました。そして、ラストシーンで、やっぱりそうらしいと確信し、げぇ~~~っ、ひど過ぎ!! と思ったワケです。

 こういう、話の構成に異様に凝った作品は、私は“本末転倒映画”と勝手に呼んでいます。映画は究極的には娯楽だと思うので、何であれ楽しめれば良い、というのもアリだとは思います。が、私が映画に求めるものは、やっぱり、見た後にその作品の“人物の物語”に心揺さぶられることなんですよ。なので、本作のようにトリッキーなのは邪道にしか思えないのよねぇ。

 映画にしろ、小説にしろ、人物描写ありきであって、ストーリーは従だと思うわけ。でも、ストーリーありきで、人物描写が従になると、なんかこう、、、もの凄く虚しい気持ちになるのです。

 もっと言っちゃうと、見る者に、トリッキーさを感じさせる時点で、脚本としてはダメだと思うんです。見終わってから、ああ、アレとかアレとかアレは、コレの伏線だったんだ~~、と感服させられたいのです。でも、本作みたいな映画は、ハナから見ている者を惑わせようとする下心が見え見えで浅ましくさえ思えてしまう。同じストーリーでも、もっと正攻法で描いたって感動作にすることはできるはず、本当に優れた脚本家であれば。こういう小手先で見る者をたぶらかす人ってのは、正直言って、似非だと思いますね。

 だから、本作だって、ローマとNYの物語は、マイケルの小説の話だと最初から見ている者に明かせばよいのです。きちんと見ている者に分からせたうえで、ストーリーを展開させる、それが見る人本位の創作じゃないでしょうか。

 イヤなら見るな。はい、そうですね、見ませんよ、原則的には。でも、私みたいに、出演者が見たくて、内容もよく知らずに見ちゃう人だってたくさんいるわけ。そして、見る人がみんな、脳をフル回転させて見たいわけじゃないのね。

 制作者ってのは、独り善がりになったらダメでしょ。ハギスさんが独り善がりだとは、まあ、今んとこは思いません。でもね。DVDの特典映像見たら、彼はこう言っていました。「(私は)ストーリーの構成はお手のモノだから」……さようですか。そりゃよござんしたねぇ。でも、それって、あなた、策士策に溺れていらっしゃるんじゃありませんか? そのままだと、まさしく“独り善がり”なオナニー映画作ることになっちゃうよ。

 彼は「理解不能な作品が好きだ」そうです。特典映像でおっしゃっています。まあ、大体、クリエイターが自作について饒舌すぎるのは私は好きじゃないので、この特典映像も、本作のイメージダウンにかなりつながっているかもですが。作品“だけ”で勝負しろよ、と言いたい。あんまりベラベラ喋るのは、言い訳にしか聞こえません。

 ……というわけで、世間では、本作についての感想の多くはその解釈についての見解が述べられているんだけれど、文句ばっかしになってしまい相すみません。

 文句ついでに、もう一つ言うと、アンナと父親の近親相姦のエピソード、もの凄く嫌悪感を抱きました。いらんでしょ、このハナシ。全く必然性のない設定、見ている者に「えぇ~~っ!」て言わせたいがためだけのハナシ。こういうエピを、ウケ狙いで「構成はお手のもの」とか言いながら入れちゃうところに、ものすごくクリエイターとしての志の低さを感じるのよ。すんません、偉そうなことばかり書いて。

 
◆その他もろもろ

 ブロディは、なんか日焼けした顔になっていて、彼、茶色い顔はイマイチですね。なんか、似合わないです、日焼けした顔。

 まあでも、彼が画面に現れると、やっぱり画がしまるというか、映画らしくなる(気がする)よなぁ、、、。映画俳優って、こういう人のことを言うんじゃないかしらん。

 そういう意味では、リーアム・ニーソンって、私にはあまりピンと来ません。彼の役者としての魅力も、そもそも演技が良いのか良くないのかも、イマイチ分からないです、、、。出演作はそんなにたくさん見ていないけど、彼も割と、何を演じてもリーアム・ニーソン、な役者な気がする。もっといろいろ作品を見れば、また見方が変わるのでしょうか。

 キム・ベイシンガー、すごい久しぶりに見ました。ステキに歳とってますよね。

 オリヴィア・ワイルド、キレイだけど、ううむ、キーラ・ナイトレイとちょっと被る気がしたんですけど、そんなの私だけですかね、やっぱし。彼女の出演作は、多分、これが初めてだと思うのですが、他でどんな役をどんな風に演じているのか、ちょっと興味がわきました。
 








“watch me!!”がウザい。




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