映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

敬愛なるベートーヴェン(2006年)

2020-10-23 | 【け】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv35558/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 “第九”の初演を4日後に控えたベートーベンのアトリエに楽譜を清書するため、アンナという女性がやってくる。最初は女性というだけで怒り心頭だったが、やがて彼女の才能を認め、2人の間には師弟愛以上の感情が芽生える。

=====ここまで。


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 『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』のパンフを見たら、本作も、アグニェシカ・ホランドの監督作だと書いてあって、知らんかった、、、ので、見てみることにしました。
 

◆第九シーンなんてどうやったって盛り上がる。

 前にも書いたが、“楽聖モノ”で良かったと感じた映画はほとんどないので(ないわけじゃない)、本作も全く期待しないで見たんだけれども、それでもさらにガックシ来てしまった。

 何がマズいって、ものすご~~~く人物描写が薄っぺらいこと。ベートーヴェンもだけど、アンナもね、、、。上記にコピペしたあらすじだと、何となく2人の間に恋愛感情的なものが生じるような書きっぷりだけど、そうではない。……ないんだけど、だったらどんな感情なんだ? というと、それが今一つピンとこない描写なのよ。いや、アンナはベートーヴェンのことを尊敬しているのは分かるし、ベートーヴェンがアンナに敬意を持っているのも分かる。分かるけど、そんなの別にフツーやろ、と。

 女が来たからと、最初はアンナを露骨に侮辱する、、、というところから入り、それがだんだん彼女の才能に気付いて敬意に、さらに信頼感に変わっていく、って当たり前過ぎの話で、……で??としか思えないわけよ、見ている方としては。だって、敬意を持てない相手と仕事なんか出来ないでしょ。2人で仕事したって話なんだから、そんなのはストーリー以前のものなのだよ、こういうジャンルの映画の場合。さらなるプラスアルファを見る方が求めるのは、求めすぎでも何でもなく、標準的な要求です。

 そんなことくらい、ホランド監督ともあろう人が分からないはずはないのであって、それでいてこういう作品を撮ったってのは、一体彼女は何を表現したかったのか、、、?

 本作の言語は英語。しかも、主役はハリウッドの大御所エド・ハリス。……ということで、満を持しての商業映画狙いだったのかなーー、と。でもその割には地味だし、シナリオ的にも盛り上がりに欠ける。

 本作の一番の盛り上がりは、何と言っても中盤の“第九の初演”のシーンだろう。既に聴力がほぼ失われていたとされるベートーヴェンが指揮台に上がり、アンナがステージからベートーヴェンに合図を送るという設定で、これが見事に成功するという筋立てだ。

 この演奏会のシーンはなかなか豪華で見物。演奏の音源はもちろん吹き替えだが(エンドロールで確認したが、確かマズア&ゲヴァントハウスだったと思う)、これがかなり良くて、実際こんなに完成度の高い演奏だったかは疑問だけれど、感動的なシーンになっていた。

 でも、本作の見どころはほとんどここだけ。第九の演奏シーンなんて、ああいう曲だから、ある程度どうやったって盛り上がるんだよね、、、。このシーンより前はアンナがベートーヴェンに信頼されていく過程が、この後はベートーヴェンが苦悩して死んでいく過程が描かれているものの、書いてきたとおり、ピンとこないまま終わってしまう。

 何より残念なのが、アンナが才能ある女性作曲家として、ベートーヴェンの死後どうなったのかが、まったく予想できないエンディングになっていること。ベートーヴェンが亡くなると、アンナは一人、どこか寒々しい野っ原を歩いて行く、、、、で終わり。見ている私は、……はぁ??何ソレ状態。これじゃぁ、ただ、ベートーヴェンのアシスタントガールがいました、ってだけの話じゃんか。ベートーヴェンという太陽がいないと輝けない月みたいな存在だったとでも言いたいわけ? つまんねぇ、、、。

 音楽の才能がある、当時は“珍しい”とされた女性が、ベートーヴェンと出会って、彼女の人生にどんな影響を与えたのか、、、ってのがキモになるんじゃないの? それが全く描かれていないって、、、。詐欺みたいな映画だ。
 

◆エド・ハリス56歳(当時)。

 とまぁ、文句ばっかし書いてきたけど、何もかもがダメダメだと思ったわけではありません。

 ベートーヴェンを演じたエド・ハリスは、やはりさすがの一言。作曲家としては天才だが、だらしがなく、無神経なキャラを巧く演じていた。多分、特殊メイクをしているんだと思うけど、かなり顔が違って見えた。ヅラも被ってたしね、、、。

 アンナが作って来た曲を、「こりゃヒドい、オナラみたいだ!」などと茶化して、変な音を口で発しながらピアノで弾くシーンは、本作でのベートーヴェンのキャラを見事に表わしている。ピアノを弾くその手つきや姿勢は素晴らしく、手元だけ吹き替えなどという姑息な手段ではなく、実際にエドさんが弾いている(音は吹き替えだと思うが)。あれは、ふざけたシーンだが、彼がピアノの演奏経験がないのだとすれば、相当訓練と練習を積んだに違いない。

 エド・ハリスの好演は確かなんだけれども、ベートーヴェンの変人っぷりとかの描写は極めてありきたり。逆に、どれほどの天才だったのかは、ほとんど描写できていない。難しいのは分かるけど、これじゃぁね、、、。

 アンナを演じたダイアン・クルーガーは、結構頑張っていた。品のある正統派美人なので、才能があることを自覚していても嫌みがない。やはり、知性って大事よね。第九のシーンでの指揮っぷりは、画になっていたし、かなりトレーニングしたんだろうなぁ。エドさんのピアノといい、この辺は監督の指示かしらね。

 第九の初演の後は、大フーガの作曲に苦悩するのがメインなんだが、大フーガのモチーフをアンナに聞かせると、アンナは確か “terrible” って言っていた。でも、折角、才能ある女性作曲家ならば、当時は酷評された大フーガの先見性に気付くという展開にすれば良かったのに。ロマン派を一気に飛び越えて近代音楽の萌芽を感じさせる曲を作るとか。どうせフィクションなんだからさ~。


◆ベートーヴェン250歳(今年)。

 本作を見ていて、途中から、バーナード・ローズ監督の『不滅の恋/ベートーヴェン』の方が断然好きだわ~~、と思っていた。『不滅の~』でベートーヴェンを演じていたのは、ゲイリー・オールドマン。ゲイリー・ベートーヴェンもエド・ベートーヴェンとは全然違うキャラだけど、それはそれで素晴らしかった。第九の初演シーンの描かれ方も全然違い、多分、『不滅の~』の方が史実には近い感じだったろう。……まぁ、こういうジャンルの映画で史実云々言うのはナンセンスだが。

 また『不滅の~』見たいなぁ、、、と思うけれど、残念ながらレンタルどころか、DVDは絶版みたい。amazonでとんでもない値段で出ている、、、。

 本作の第九のシーンを見た後、先日、Eテレの「クラシック音楽館」とやらで「いまよみがえる伝説の名演奏」と題して、バーンスタイン&ウィーンフィルの第九をオンエアしていて、一応録画しておいたので見てみたのだが、残念なことに4楽章だけだったけれど、バーンスタインが大汗かいていて、そこにばっかり目が行ってしまった、、、、 私はオペラとか声楽とかにあんまし興味がないので歌は全然詳しくないんだけれど、初めてクルト・モルの歌声をじっくりと聞き、シビれてしまった。ものすごい艶のあるバスで、美しいことこの上ない。……ていうか、4人の歌手があまりに豪華でビックリ。ギネス・ジョーンズ、ハンナ・シュヴァルツ、ルネ・コロ、、、私でも知っている名歌手揃い。第九はホントにスゴい曲だわ、、、と改めて実感させられた。

 それにしても……。今年は、ベートーヴェン生誕250周年で、年明けから様々な企画がされていたのに、コロナでぜ~~んぶオジャン。4月に来日するはずだったクルレンティス&ムジカエテルナの第九も中止になったし、、、。第九、実はライヴで聞いたことないから楽しみにしていたのに。GWのラ・フォル・ジュルネも、ベートーヴェンがテーマで、チェックしていたプログラムがいくつかあったんだけど、これも中止になってしまったし。

 ……まったく、今年は、コロナコロナで明け暮れた一年となりそう。折角のベートーヴェン・イヤーだったのにねぇ。ベートーヴェンさんも、あの世で残念がっていることでしょう。 
 

 

 

 

 

 

優れた監督にも、やはり駄作はあるもんなんだなぁ、、、。

 

 

 


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ゲッベルスと私(2016年)

2018-08-09 | 【け】



 以下、上記リンクよりストーリー(?)のコピペです。

=====ここから。

 1911年、ベルリンに生まれたブルンヒルデ・ポムゼルは、第二次世界大戦中、1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、近代史において最も冷酷な戦争犯罪者のそばにいた人物である。

 いくつもの高精度カメラは、ポムゼルの深く刻まれた顔の皺や表情だけでなく、瞳の奥に宿す記憶をも鮮明に捉える。

 幼少の頃の父親の思い出、初めて出来た恋人の話、ユダヤ人の友人の面影、そして“紳士”ゲッベルスについて……。103歳とは思えぬ記憶力で、ポムゼルはカメラに語りかける。

 また、ナチスを滑稽に描くアメリカ軍製作のプロパガンダ映画や、ヒトラーを揶揄する人々を捉えたポーランドの映像、ゲッベルスがムッソリーニとヴァカンスを楽しむプライベート映像、そして戦後、ナチスのモニュメントを破壊する人々やホロコーストの実態を記録した映像等、世界各国で製作された様々なアーカイヴ映像が挿入される。

 「いわれたことをタイプしていただけ」と語りながらも、ポムゼルは時折、表情を強張らせて慎重に言葉を選んでいく。それは、ハンナ・アーレントにおける“悪の凡庸さ”をふたたび想起させるのだった。

=====ここまで。

 ドキュメンタリーなので、ストーリーというよりは内容紹介ですね。


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 『マルクス・エンゲルス』を見に行ったときに予告編で見て、何となく見てみようかな、と思った作品。103歳の元ナチ党員が、一体何を語るのかしらん、、、という単なる好奇心。……見終わって、正直なところ、心重くなって劇場を後にしました、、、。


◆まさに『白いリボン』の世界、、、。

 ポムゼルさんの語る幼少時の話を聞いていると、もうまさに、ハネケの『白いリボン』のまんまで驚いた。以下、ちょっと抜粋。

 “第一次世界大戦が終わり父が自宅に帰ってきたわ。お行儀が悪いとすぐに殴られたのよ”
 “じゅうたん叩きでお尻を叩かれたことや、夜お化けが出そうな廊下を歩いてトイレに行かないといけなかった”
 “ドイツの当時の子どものしつけ方はとても厳しく、少しでもごまかしたり、嘘をついたり、罪を他人になすりつけることを、子どものうちから覚えてしまう”


 ……ハネケは、こういうことを描いていたんだね、やっぱり。喋るポムゼルさんのシワシワの顔を見ながら、あの映画のシーンが頭に浮かんだよ、、、。やはり怖い映画だったんだ、アレは。

 こういう育てられ方をするとああなる、、、とハネケが言いたかったのかどうかは微妙なんだが、やはり、学校に限らず、あらゆる場面における「教育」って、ものすごく、個人の人格形成だけじゃなく、社会の骨格形成にも影響を及ぼすということは、間違いない。だから、アベベも教育にやたらと介入したがり、実際に介入してくるわけだ。

 そして、そんなことは、ドイツだけじゃなく、日本だけじゃなく、全世界の国々共通に言えることである。どんな教育を子ども達に施すか、これはその国の命運を左右することなのだ。

 ……だから、もう本作の序盤で、私は暗澹たる気持ちになって、どよよ~んとなってしまった。

 『白いリボン』再見する勇気がなかったんだけど、本作を見て、ますます再見する気がなくなった、、、なんてことはなく、実は、もう一度ちゃんと見てみたいと逆に思った次第。あの作品は、やはり、大人がちゃんと見て咀嚼しないといけない映画なんだ、と改めて感じたのよね、、、。見るのが怖い、ってのはあるけれど、近々、再見しようと思う。


◆死期を悟る年齢になっても、、、。

 しかし、このポムゼルさん、約70年も前のことを実によく語るんだな。103歳で、死を間近に感じている身で嘘はつかんだろう、、、と、普通の人情ならば思うが、どうだろうか。

 私は、ポムゼルさん、この期に及んでなお、真実から目を逸らし、言い逃れをしているように感じた節が多々あり、少々うんざりした。人間の性(さが)って、これほどまでなんだろうか。死に際に、洗いざらい吐き出すわ、、、という風にはならないものなんだろうか。

 うんざりした部分を以下に抜粋してみる。

 “当時は、私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ”
 “あんな激動の時代に運命を操作できる人はいない。私たちは渦中にいたのよ”
 “私たちは何も知らなかった。とうとう最後まで”
 “たった一人の人間に魔術をかけられてしまったの”


 他にもいっぱいあるけど、まあ、この辺が象徴的かな、、、。たった一人の人間、ってのは、もちろんヒトラーであり、ゲッベルスではない。ちなみに、ラストではこう語る。

 “私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ。結果的にドイツ国民はあの政府が権力を握ることに加担してしまった。そうしたのは国民全員よ。もちろん私もその一人だわ”

 このラストの言葉は、私は、まあそうだな、と思った。私に罪はない、と言い切っちゃっているけど、後半では自分にも罪があると間接的には言っている。これくらいが、このポムゼルさんの精一杯の言葉だったのだろう、と思う。多分、自分に非があると言ってしまえば、自分の過去を否定することになるような気がするんだろうな、と。

 そういう思考回路の人はいる。過去の自分の言動を否定すること=自分を全否定すること、という方程式を頑なに持っている人。もの凄く不思議な方程式だけれど、これ、私の母親がまさにそうだから、こういう考え方の人がいることは、実によく分かる。

 自分が間違っていたと思えば、過去の自分の言動を否定し、改め、今後の人生に活かせば良いではないか。……というのは、口で言うほど簡単じゃない。私だって、人に指摘されれば、その場ですぐに率直に受け容れられるか怪しいもんだ。しかし、間違いを犯さない人間はいない。間違いを間違いと認めることの方が勇気がいるし、厳しいことなのだ。

 今の時代に生きている、ということは、未来に対して責任を負っている、ということ、、、、などと書くと壮大な感じがするが、まあ、そういうことだと思う。昨今の日本は、色んな側面から見て決して良い状態にあるとは思えないが、そういう状態にしている責任の一端は、一人一人にあるということだ。政治が悪いだの、政治家がアホだの言うのは簡単だが、その国の政治や政治家は、国民の実態を映す鏡でもある。

 死に際に、あの時は、みんなああするしかなかったのよ、、、等と言って、未来の若者達を呆れさせる老婆にならぬよう、、、、と思う半面、自分の無力さにゲンナリもさせられた作品だった。







ポムゼルさんは2017年に106歳で亡くなっている。




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月下の恋(1995年)

2016-03-14 | 【け】



 大学で心理学を教えるデイヴィッド(エイダン・クイン)は、幼い頃に双子の妹ジュリエットを自らの過ちによる事故で溺死させており、そのことがトラウマとなって心理学を専攻したという過去があるのだが、霊だの超常現象だのを一切信じていない人間だった。

 そんなデイヴィッドの下に、エドブルック邸の老女ミス・ウェッブから幽霊にまつわる相談の手紙が度々届いていた。スルーしていたが、エドブルックという地名にふと目が留まる。自分の故郷に近いその場所での出来事に興味をひかれたデイヴィッドは、ミス・ウェッブを訪ねることにする。

 エドブルック駅に着いたデイヴィッドを迎えに来ていたのは、邸に住む若き令嬢クリスティーナ(ケイト・ベッキンセイル)。彼女の運転する車で邸に案内されたデイヴィッドは、その屋敷の素晴らしさや、クリスティーナの兄たちロバートとサイモンの歓待、何よりクリスティーナの美しさに魅了される。ミス・ウェッブの怯えた様子を除いては……。

 が、屋敷に滞在するようになったデイヴィッドの身の回りに不可思議な出来事が次々と起こるようになる。超常現象を信じないデイヴィッドは、謎を解明しようとするが、そんなある日、屋敷の庭を歩くジュリエットの姿をハッキリと目撃し驚愕する。だんだんデイヴィッドは何が起きているのか分からなくなってくるが、クリスティーナにもどんどん惹かれて行き……。

 原題は『Haunted』。原題の方が、まあ内容的には合っているかも。邦題も風情はあるけれど、うーん、、、。

  
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 またしても記憶にないDVDが送られてきましたよ。というか、間違いなく自分がリストに入れたからなんですが、どうして入れたのかまったく思い出せない、、、。当然、予備知識なく見ました。

 以下、ネタバレバレです。

 一応、ジャンルとしてはホラーものらしいのですが、そういう意味では怖くはないです、ゼンゼン。途中で、何となく展開が読めますし。ネット上では『シックス・センス』と同じだとかあちこちで書かれていますが、本作の方が制作は早いわけで。まあ、あちらの方がメジャーなんで仕方ないですけれど。当時としては結構オドロキのあるお話だったのではないでしょうか。今見ても、ダサさは感じません。

 とはいえ、あんまし内容的に感想を書きたくなることはなく、、、。正直、私、こういう“お化けオチ”ってあんまし好きじゃないんですよねぇ。夢オチに近い虚しさを感じるというか、、、。本作は、デイヴィッドが心理学者ということもあって、きちんと、ロジカルに謎が解明されることを期待して見ていたんですけれども、途中、、、3きょうだいがパーティーに行く辺りから、「もしやこれは、、、」と嫌な予感がしていたら当たってしまいました。ごーん、、、。

 というわけで、本筋とは関係ないことで思うところをいくつか。

 まず、デイヴィッド役のエイダン・クインですが、その吸い込まれそうな青い瞳と、端正な顔立ちは、なんだか昔の少女マンガに出てきそうな感じでした。つーか、たまたま先日、今オンエアしているEテレの「漫勉」という番組で、萩尾望都さんの回を見て、彼女の描いていたマルゴの夫・アンリ4世(?)の顔に似ているな~、なんて思っちゃったんです。「王妃マルゴ」は読んでいませんが、、、。それはともかく、まあ、学者と言われても違和感のない知的な雰囲気も湛えており、主役として素晴らしい引力だったと思います。

 そして、ヒロインのケイト・ベッキンセイルですが、、、。彼女、今の彼女の顔と、イメージが大分違うと思っちゃうのは私だけ?? 何と言っても違うのは“口元”。駅にデイヴィッドを迎えに来た彼女を見て、口元が残念な人だなぁ、と思ったら、ケイト・ベッキンセイルだった! という、、、。顔の全体のイメージが違うんですよねぇ。別に整形だなんだと騒ぐ気もないし、整形なんてしたって別に構わないと思うけれども、ここまでイメージが違うとビックリします。本作での彼女も、確かに美しいですが、やはりなんというか、口元に目が行っちゃうんだよなぁ、、、。

 そして、何より一番イロイロ考えちゃったのは、ケイト・ベッキンセイルのヌードがボディ・ダブルだということです。デイヴィッドとクリスティーナのベッドシーンなんて、2人とも替え玉なんです。スローモーションで確認しちゃいましたよ。お2人さん、全然別人やん。おまけに、ケイト・ベッキンセイルのバストトップには前貼り(?)が、、、。すんごい興醒めなんですけど。もうちょっと上手く撮れなかったのかしらん。つーか、そこまで脱ぐのが嫌なら、別にキスシーンだけで、あとはそれを匂わせる演出にすれば良かったんじゃないの?

 アクションのスタントマンは、その意味が分かるんですけれども、裸の替え玉は意味が分からないのです、私。裸なんて、別に誰だってなれるのだし、特別な技術が必要な訳ではない。スッポンポンになるのも俳優の仕事な訳で。俳優になるってことは、そーゆーことなんじゃないのかしらん。

 裸のシーンで替え玉を使う、ってことは、つまり「脱ぐ=格落ち」とその俳優が認識していることを公言しているのと同じだと思うわけです。もちろん、仕事を選ぶ権利は万人にあるのだから、脱ぐか脱がないかを選ぶ権利もある、という理屈も考えられます。しかし、一つの役を演じる際に、その役には脱ぐシーンがあって、でも脱ぐのは嫌だけどその役は演じたい、ってのは、どーなんだろうか、、、と。それって、例えば、「資料のコピー取りは嫌だけど、編集の仕事はやりたい」とか言っている人とどう違うんでしょうか。コピー取りも編集の仕事のうちなんですけど? だってもの凄くメンドクサイから、それは誰かやってよ、って言っているのとは違うのでしょうか。

 裸を晒すのと、コピー取りを同じ次元で語るな、と言われるかもしれないけれど、どう違うのかがどんだけ考えても分からないのですよねぇ。編集の仕事をしたいってことは、それにまつわる面倒なこと、キツいこと、屈辱的なこと、全部ひっくるめて引き受けなければならないはずです。それが嫌なら辞めれば? って言われますよね。なのに、俳優の裸の替え玉は許される。なんなの、これ。

 本人が脱ぎたくないのか、回りが脱がせないのか、それは分かりません。どっちにしても、俳優の仕事を舐めているように思えて仕方がないのです。そんなに脱ぐのがNGなら、脱がない役だけやってろ、ということです。ある意味、観客を裏切っているということでもあると思うのですが。もの書きの世界でいえば、ゴーストライターみたいな。

 本作の本質とは全然関係のないことを、長々と書いてしまいました。

 ベッドシーンの撮影には文句を付けましたが、本作の映像は、全般にとても美しいです。もちろん、美術や衣装も素敵ということもあるのですが、どのシーンもとても画面が美しい。よく見たら、撮影はあの『眺めのいい部屋』のトニー・ピアース=ロバーツとのこと。なるほどなー、と納得。屋外の光とか、豪華な部屋の絶妙な明るさとか、技術的なことはゼンゼン分からないけど、とても美しかったです。まあ、ホラー映画にしてはちょっと明るいかな、という気はしますけれど。でも、素晴らしい映像です。





終盤、亡き幼い妹ジュリエットとデイヴィッドのシーンがウルッときました




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毛皮のヴィーナス(2013年)

2015-01-16 | 【け】



 オーディションに遅れてきた女優ワンダと、オーディション会場から帰ろうとしている演出家トマ。最初こそワンダを追い返そうとしたトマだが、次第に彼女のペースに乗せられて・・・。

 ラストは、驚愕とともに思わず笑いが、、、。

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 本作は、度々予告編を見ていたので、ポランスキーだし見てみたいなぁ、と思っていて、ようやく先日見に行った次第。

 いやぁ、しかし、これは面白い。というか、不思議な感覚に襲われました。

 最後まで見て思うに、ワンダはトマの書いた戯曲を、最低の女を装いながら最高の方法でぶった切った、ってことでしょうねえ、これは。彼女の怒りを、妖艶に、かつ知的に、最上の趣向でぶつけたわけですね、トマに。

 トマの書いた戯曲と、本作は見事にリンクし、最初こそオーディションとしてワンダとトマは「演じて」いますが、次第に、虚実の境が曖昧になってきます。もちろん、観客もトマ同様にワンダに誘われて、次第に、どこからが素の彼らで、どこからが演技なのか、もう分からなくなってくるわけです。

 まあ、でも、これは想定内の展開です。

 問題は、その曖昧さに酔いそうになって来たところで、いきなり横面を張られたかのように「現実」を差し入れてくることです。トマも、本作を見ている私たちも、ワンダに良い様にヤラれます。そしてまた、曖昧の世界へ・・・。

 キーになるフレーズがありまして、「神、彼に罪を下して一人の女の手に与え給う」。これは「聖書外伝、ユディト記」からの一節だそうで(と、作中でトマが言っております)、このフレーズが、まさしく、本作を貫くテーマ、、、というか、ワンダが体現するものです。

 考えてみれば、ユディトですもんね。本作のラストは暗示されていたわけです。いや~、やられました、、、。

 トマは結局のところ、自分の書いた戯曲の女が自分自身の投影だということに、ワンダによって自覚させられるわけですが、その後がね、、、。これって、もしかして、ポランスキーの願望だったりして。

 マゾと言えば、月並みに谷崎潤一郎が思い浮かぶけれど、ラストシーンなんか、「痴人の愛」そのものじゃんかー、と思った方は少なくないはず、、、!?

 それにしても、本作のコピーにもある通り、ワンダとは一体、何者だったのでしょうか。

 ワンダを演じたエマニュエル・セニエが素晴らしく、下品な商売女風から、知性ある貴婦人風まで、瞬時に演じ分け、顔や声まで違ってくるのだから、なんともはや、圧巻です。ちょっと前に見た『母の身終い』で、主人公の男が通りすがりの情事を交わす相手が、このエマニュエル・セニエでした。本作とは、似ても似つかぬ人物造形。恐れ入りました。

 マチュー・アマルリックは、『チキンとプラム ~あるバイオリン弾き、最後の夢~』で初めて見て、その後『グランド・ブダペスト・ホテル』、そして本作と続いて、どれも同じ人とは思えないくらい、ゼンゼン違う顔を見せてくれています。

 オープニングとエンディングの音楽も素敵です。90分ちょっとの異世界への入口と出口にふさわしい音楽です。

 いまだに『戦場のピアニスト』の余韻にとり憑かれているというのに、こんな作品を見せられちゃって(って見に行ったんだけれど)、ポランスキーさま、あなたはなんちゅーことをしてくれるのでしょうか。私のこの持って行き場のない心持を、どーしてくれるのさ、と言いたい。



マゾとか倒錯とかより、これはある女の華麗なる激怒の表現、と見た




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