映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

家族を想うとき(2019年)

2019-12-30 | 【か】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68035/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 イギリス・ニューカッスルに住むリッキー(クリス・ヒッチェン)とアビー(デビー・ハニーウッド)夫妻の一家。

 マイホーム購入の夢を叶えるためにリッキーはフランチャイズの宅配ドライバーとして独立し、アビーはパートタイムで介護福祉士の仕事をしている。個人事業主とは名ばかりで、理不尽なシステムによる過酷な労働条件に振り回されながらも働き続けるリッキー。

 一方アビーも時間外まで一日中働いている。家族のために身を粉にして働くリッキーを、アビーや子供たちは少しでも支えようとし、互いを思いやり懸命に生きる家族4人。しかし仕事により家族との時間が奪われていき、高校生の長男セブ(リス・ストーン)と小学生の娘ライザ・ジェーン(ケイティ・プロクター)は寂しさを募らせていった。

 そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれる……。

=====ここまで。

 やっぱり、ローチはまだ怒っている。


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 ローチの最新作ということで、見に行って参りました。『わたしは、ダニエル・ブレイク』では怒髪天を衝いていたローチだったけれど、本作でも、まだかなり怒っている模様。ただ、今回は、そこに少し無力感が加わって、救いがないところが前作より辛いとこ。


◆美味しいとこどりの本部様

 日本でもUber Eats といい、コンビニといい、利益の吸い上げ時には「フランチャイズ」、損切り時には「個人事業主」と、都合良く使い分けて美味しいところだけ本部がかっさらって行くという、まぁ、自由経済社会だからってそこまでやるか、、、みたいな話があちこちで聞かれる昨今。本作でも、イギリスにおける同様の実態が容赦なく描かれる。

 リッキーとアビー夫婦は、かつて自分たちの家を持っていたけど、不景気の煽りを喰らってリッキーが職を失い、家を手放した様子。だから、借金もある。加えて、車は自前の宅配業に身を投じたことで、経済的にもだけど、物理的・精神的に一層厳しい状況になるという、、、。個人事業主だから、休む=無収入、となる。だから休めない。でもフランチャイズだから上納金は免れない。封建時代かよ、って話。

 私の職場近くでも、ちょっと前に某コンビニ大手のオーナーが過労自殺してニュースになった。ネットでその背景など詳細が書かれているレポを読んだけど、そりゃもう、悲惨極まりない話だった。ハッキリ言って、本作に勝るとも劣らぬえげつなさで血の気が引いた。何しろ、そのオーナーの息子さんもコンビニの手伝いをしていて過労自殺しているのだ。息子さんのときもニュースになり、驚いたが、その後しばらくして閉店騒動が起きた挙げ句の話だった。今は、その元店舗の前を通るのも憚られるので通っていない。少し歩けば同じフランチャイズのコンビニに2つ3つとぶち当たるのは、いくら何でも節操なさ過ぎな感じがする。

 本作でリッキーがフランチャイズ契約している配送業者もまったく同じ。とにかく数をこなして売り上げを増やす。売り上げに響くようなことは許されない。病気や家族の緊急事態で休もうものなら、代わりを探せとドヤされる。つまり、数をこなす代わりさえいれば、別にお前なんかどーでもええわ、って話。前述のコンビニオーナーの話でもそうだったが、多店舗展開すれば本部にとっては売り上げが増えるが、オーナーにとってはカニバリで売り上げが下がる。本部にとって、上納金さえ増えれば、オーナーの1人や2人どーなってもええわ、っていう経営方針を堂々と体現する恐るべき人権軽視企業。

 ……と分かっていても、そこにあればそのコンビニを利用してしまう私。ネットで頼めば届けてくれるなら、わざわざ店に行かないで宅配してもらっちゃう。それもこれも、あるから使う。なければ使えないけど、そこにあるんだもん。

 コンビニや宅配だけじゃない。とにかく、利便性の追求という名目で、あれもこれも過剰なんだよ。コンビニがもっと少なくても、宅配が時間指定なんかなくて盆暮れ休みでも、別に社会は困っていなかったのに。
 
 24時間営業を見直したり、年末年始を休業したり、、、という動きが少しずつ出て来ているのは非常に良いことだと思う。
 

◆ローチ作にしては、、、

 ローチは、これまでも、こういう社会の不条理を描いてきたが、シビアな描写の中にも必ず一筋の光明を見出すエンディングにしていたように思う。だが、本作は、最後まで救いがないのが、ちょっと驚きだった。

 あのまま、リッキーたち一家の厳しい日常は続く。何も改善の兆しがない。

 ローチはどうしてこういうエンディングにしたんだろう、、、? と、ちょっと考えてしまった。これは飽くまで私の勝手な想像だけど、さしものローチも、いささか無力感に苛まれたのではないか、、、という気がする。それくらい、現実が酷すぎると感じたのでは。ヘンに希望を感じさせる終わり方は嘘くさいと思ったんじゃないか、、、と。

 イギリスはそれでなくても、ブレグジット騒動で国全体が疲弊しているというし。しかし、マジでEU離脱後、あの国はどーなるのか?? 経済とかも気にはなるが、個人的には、北アイルランドがかなり心配である。また、紛争の地と化すのではないか、、、。ローチの懸念はいかばかりか。

 本作は、見ていて、リッキーがあの大事な端末をなくしちゃうんじゃないか、、、とか、疲れの余り居眠り運転で衝突しちゃうんじゃないか、、、とか、とにかく、下手なホラーやサスペンス映画よりもよっぽどハラハラ・ドキドキの連続である。でも、そんな分かりやすい追い詰められ方ではない、もっとじわじわと真綿で首を絞められるような追い詰められ方をしていくのだ。それが却ってリアルすぎて恐ろしい。

 家族との軋轢も実にリアル。父親不在で、母親も多忙となれば、家族はバラバラになりがちだ。長男セブの言動は、やや類型的かと感じたが、終盤、そのイメージは覆される。どうにもならなさが、分かりすぎて心が痛くなる。

 そんな中、母親のアビーが女神のように優しくて包容力のある女性で、感動的だった。介護の仕事でも、荒んだ雰囲気の父と息子が対峙する家庭でも、あんな状況で、あんな寛容な行動は、私には絶対ムリ。でも、アビーの寛大さには嘘くささがなく、彼女が真に心優しい寛容な人なのだと伝わってくる。そんな彼女が終盤、リッキーの上司に悪態をつくのは、むしろホッとする。彼女も、やっぱり人間だったんだなー、と。

 ローチと是枝監督の対談をTVで見たが、そこでのローチの言葉が印象的だったので、ここに記しておきます。

 「メディアにとって国益とは、富裕層や権力者の利益を意味します。だからこそ、何か問題があると、それは移民のせいだとか、労働者が怠け者だからだとか、様々な理由を示すのです」
 「私は、映画を通してごく普通の人たちが持つ力を示すことに努めてきました。一方で、弱い立場にいる人を単なる被害者として描くことはしません。なぜなら、それこそ正に、特権階級が望むことだからです。彼らは貧しい人の物語が大好きで、チャリティーに寄付し、涙を流したがります。でも、最も嫌うのは、弱者が力を持つことです。(中略)私たちには、人々に力を与える物語を伝えていく使命があると思います」

 

 

 

 

その後のリッキー一家がどうなるのかが気がかりだ。

 

 

 

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おろしや国酔夢譚 (1992年)

2019-12-29 | 【お】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv27373/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1782年、伊勢出帆後に難破した光太夫らは、9カ月後に北の果てカムチャッカに漂着する。

 生き残ったわずか6名の日本人は、帰郷への手立てを探るためにオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクと世界で最も厳しい寒さと戦いながらシベリアを転々とするが、土地土地で数奇な運命に翻弄される。そして、凍傷で片足切断した庄蔵は日系ロシア人のタチアナに手を引かれるようにキリシタンとなり帰化、若い新蔵はロシア女ニーナと恋におち姿を消した。

 一方、光太夫は学者ラックスマンを通じ、初めて見る文化に強い衝撃を覚え、この感動を故国へ伝えたいと帰国への執念をなお燃やすのだった。そして、最後の望みを賭け、エカテリーナ二世への直訴を決意、首都ペテルブルグに向かった。

 ラックスマン、ベズボロドコ伯爵、女王側近ソフィアの協力を得て、ついに光太夫の熱い想いは女帝の心に通じ、光太夫、小市、磯吉わずか3人だが、1792年、実に9年9カ月ぶりに帰国を果たし根室へ着く。

 だが、鎖国中の幕府は彼らを迎え入れようとはせず、小市は病死、光太夫、磯吉も上府、雉子橋外の厩舎に留置されるが、やがて松平定信のはからいで光太夫は幽閉という扱いで、迎え入れられることになるのだった。

=====ここまで。

 井上靖の同名小説が原作。


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 今年も早終わろうとしているけれど、これほど年末感のしない年末って初めてかも……。年末年始休暇に入ったはずなのに、何だか普通の週末と同じ感じ。……まあ、これから一気に押し寄せてくるのかも知れませんが。

 で、年が明けたら、2月末におそロシアに行くことにしたので、ちょこちょこロシアものを見ていこうと思い、まずはこの映画から見てみました。


◆船乗り 光太夫

 ネットで感想をいくつか見てみたんだけど、あんまし評判がよろしくない模様。ほとんどが、「話の筋をなぞっただけで深みがない」というような理由からだった。……まぁ、一理あるけど、私は結構楽しめた。

 まず、あの時代(まともな世界地図など見たことがない人がほとんど)に、流れ着いた異国=ロシアであれだけのことを成し遂げた大黒屋光太夫という人の知力・胆力に驚嘆した。もう、ただただ凄いとしか言い様がない。

 よりによって寒いロシアに漂着するとは……。暖かい土地だったら、彼らの苦労ももう少し軽く済んだかも知れぬ。帰国できた人数も増えたかも。

 しかも、その寒い土地の、一番寒い時期に敢えて長距離移動するという、、、。光太夫は「今はダメだ」と言ったものの、彼の部下たちの懇願に抗しきれなかったことになっているが。あれでよく生きて目的地まで辿り着いたもんだと、オドロキ。

 その移動で、トナカイや馬を使っていたんだけれども、あれは現地の人が提供してくれたのかな?? まさか彼らが自力で調達できるとは思えないし。そうしてみると、当時のロシアの人々は結構、漂流民に親切だったのだなぁ、と感じた。

 今だったら、漂流民など即刻本国へ送還されるだろうに、当時は、漂流民を自国に取り込んで語学教師なんかさせるという、これもかなりびっくりである。いやぁ、映画ってホントお勉強になるわ。彼の地で現地の女性と所帯を持ったり、改宗したりする人もいて、時代は違えど、人の営みって根本的には変わらないんだろうな、なんて思ったり。

 光太夫はどうやらメモ魔だったようで、本作内でも終盤、大量のロシア滞在日記を役人に渡すシーンがあるが、そのおかげでこのような映画(小説)もできたんでしょうね。ロシア語の自作辞書なども見つかっているというし。一介の船乗りにしてこの知的水準の高さは恐れ入る。義務教育などない時代でも、読み書きは出来る人が多かったそうだし、今の日本人よりよほど勤勉で賢い人たちが多かったのではないか、、、などと想像してしまう。

 自分の国に帰りたい、、、というだけで、女帝の許しを得なきゃいけないなんて、なんということだ。……まぁ、だからこそ物語になるのだけれども、エカテリーナは、光太夫に会ってどう思ったのだろうか。本作のように、女帝の面前で光太夫が浄瑠璃の一節を披露したなんてことはないというが、小柄な極東の人間がロシア語を喋っているのを見て、何を感じたのか、是非聞いてみたいものだ。

 全編を通して、光太夫らの「祖国へ帰りたい」という強い気持ちが強く感じられて、ロシアをあちこち彷徨う間は非常にせつなく、やっと日本に帰ってきたらあんな扱いでやるせなく、ある意味、あまり救いのないところも、本作の評価がイマイチな理由なのかも知れない。


◆俳優 緒形拳

 それにしても、緒形拳という俳優は素晴らしい。私は、日本の女優で一番好きなのは昔も今も大原麗子さんなんだけど、一番好きな男優は、緒形拳かも。好きというより、掛け値なしに素晴らしいと尊敬する男優さんだ。

 役によってゼンゼン顔も雰囲気も変わってしまう。私の人生最初の緒形拳に対するイメージは“怖い”であった。大河ドラマ「黄金の日々」で秀吉を演じていたのだが、あのドラマで秀吉は悪役だったからってのもあるが、とにかく恐ろしかった。でも、その後、いろんなドラマで違うキャラを演じる緒形拳を見て、最初のイメージは呆気なく消え去った。

 その後、あるとき、たまたまTVで見掛けたドラマで、緒形拳と石田ゆり子が共演していた作品が非常に印象的で、今回、調べてみたら、川端康成の小説「母の初恋」を原作にしたドラマ「最後の家族旅行 Family Affair」だったと判明。そのドラマでの緒形拳は、憎めない優男っぽくて、石田ゆり子との抱擁シーンはとても美しかったのを何となく覚えている。

 他にも『鬼畜』でのダメ男っぷりといい、ドラマ「ナニワ金融道」でのコテコテ大阪弁の金貸しといい、まるで違うキャラを実に自然に演じておられた。でも、思うに、どの役にも通じているのは、彼の持つ色気だと思う。実際は堅物だったらしいし、決して女好きという感じはないのに、とっても色気があるんである。こういう雰囲気を持っている俳優さんは稀少ではないか。ここまで見事に硬軟両面を持ち合わせる俳優さん、ほかに思い浮かばない。強いていえば、渡瀬恒彦くらいかな、、、。でも、役者としての七変化っぷり(特に“硬”の方)は、やっぱし緒形拳に軍配が上がるだろう。

 光太夫が緒形拳だったから、楽しめたのかもなー、という気もする。もちろん、他の役者さんたちも頑張っていましたよ。沖田浩之なんて、懐かしい、、、。凍傷で脚を切断することになった庄蔵を演じた西田敏行も若い! 川谷拓三も懐かしいなぁ。……でもまぁ、やっぱしちょっと彼らの影は薄いよね。

 エカテリーナとの謁見シーンは、実際に、エカテリーナ宮殿でロケしたとのこと。恐ろしく“デカい”(大きいとかのレベルじゃない)宮殿であることが、テレビ画面からでも伝わってきて圧巻。さぞや光太夫は圧倒されたに違いない。どんな気持ちで女帝に会ったのだろう、、、と想像を巡らせてしまった。

 何はともあれ、何とか帰国できた光太夫。本作のラストは不遇のままで終わるが、実際は帰国後はそこそこ恵まれた境遇だったようで、それを知ってちょっとホッとした。原作を読んでみようと思う。
 

 

 

 

 

本作のロケをしたときは、まだ“ソ連”だった。

 

 

 

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私が棄てた女 (1969年)

2019-12-23 | 【わ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv22277/


以下、YAHOO映画よりあらすじのコピペです(上記リンクのあらすじが長すぎるので)。

=====ここから。

 自動車の部品会社に勤める吉岡努(河原崎長一郎)は、自らの出世のため、専務の姪のマリ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えていた。ある夜クラブの女から、吉岡が学生時代に遊んで棄てたミツ(小林トシ江)という女が中絶したとの噂を聞いた。

 吉岡は今でも責任を感じつつ、マリ子と盛大な結婚式を挙げるのだったが……。

=====ここまで。

 遠藤周作の長編小説『わたしが・棄てた・女』の映画化。


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◆遠藤周作もだったのか……。

 遠藤周作の小説は、恥ずかしながら読んだことがない(と思う)。エッセイは、狐狸庵シリーズをいくつか読んだが、これまた恥ずかしながら、ほとんど覚えていない。読んだのは高校生の頃だからだが、読んだ後、何年か(というかそこそこイイ歳の大人になるまで)は、ちょっと印象に残ったいくつかの文を覚えていた気がする。しかし、もはやその記憶の一片すら残っていないという、何とも情けない限り。

 ただ、遠藤の思想がマッチョだとは、ゼンゼン思っていなかったので、本作を見て少々彼へのイメージが変わった。

 本作の原作も、他の彼の著作同様、キリスト教が影響しているらしいのだが、本作を見る限りでは、ほとんど宗教色は感じられなかった。一部では、ミツに聖母的なものを見出す向きもあるようだが、原作でどんな描かれ方をしているのかは知らないが、映画でのミツは、聖母というより、ちょっとオツムの弱い、、、もっと言えば、男にとってどこまでも都合が良いだけの女、……でしかないように感じた。

 この小説が発表されたのが1963年、本作が6年後の69年。つまり、昭和38年と44年。……であるから、この内容も、まぁ、仕方がないのか。

 びっくりしたのは、原作にも同じセリフがあるのか知らんが、吉岡がマリ子の家族に挨拶に行った席でへべれけになるまで飲むのだが、それは別にいいんだけど、そのシーンで、中年男性が「女は半人間ですからね」というセリフがあるのである。これが大手を振って許されていた時代なのか、、、と、愕然としてしまった。半人間、、、。すごい言葉だよなぁ、、、。半人前とかならまだ分かるが。でもって、これに続くセリフが、確か、「結婚してor子供を産んでようやく人間になる」みたいなのだった。まあ、こういう思想は今も脈々と受け継がれておりますが、一部では。

 ある意味、このセリフは象徴的で、全編にわたり“マチズモ的なるもの”が通底しているのをヒシヒシと感じた。まあ、時代のせいもあるだろうけど、遠藤周作自身に、自覚的か否かは別として、そのような思想背景があるのは間違いないだろう。彼の著作の大半は未読だから決めつけはよろしくないと思うけど。本作などタイトルからして、“女”を“棄て”るである。推して知るべしではないだろうか?

 じゃあ何で本作を見たのさ、、、って話だが、何でだろう?? TSUTAYAの新作一覧のパッケージ画像の浅丘ルリ子がちょっと魅力的に見えたから、かな。いや、ヤなタイトルだと思いながらも、『キューポラのある街』と同じ監督だから、ちょっと見ておこう、、、と思ったんだった、確か。

 
◆原作との違いと映画の最終盤の意味するもの

 wikiによれば、原作では、ミツは老人介護施設ではなく、ハンセン病療養所に勤め、交通事故で亡くなる、という展開だったらしい。

 まあ、wikiのあらすじを読む限り、まだ本作の方が原作よりもマシな話だったんだな、という気がした。だって、原作のミツは、本作以上に吉岡にとって都合の良い“だけ”の存在じゃん。吉岡の自己憐憫を刺激し、プライドを傷つけず、自らの欺瞞にも気付かせないまま心地良くさせるだけの話に思える。

 でも、本作は、ミツが亡くなった後、吉岡に自身と向き合う機会が与えられている。マリ子にミツとのことを追及された吉岡は肩を落として「ミツは優しい。優しいということは弱いということ、ミツは俺だ」と、吉岡を醜聞からかばって過って死んでしまったミツのことを振り返る。

 ……だからといって、吉岡が自らの欺瞞に気付いているとは思えないが、その後のラストの展開で、マリ子が何事もなかったかのように吉岡と夫婦を続けている様子を見て、しかもそのマリ子の様子がどこか淡々としていて割り切っている感じがするのだが、そこにむしろ、マリ子の方こそ、自分たちの生活の欺瞞に気付いていて、でも現実を生きるために割り切っているような感じがした。吉岡がどういう人間かも承知の上で。

 そういう意味では、本作の方がいくらか話として奥行きが出たのではないか、という気がする。

 
◆ミツは本当に優しい女なのか?

  河原崎長一郎が演じる吉岡という男が、嫌悪感を催す。終盤まで、自己中全開で、さらに自己憐憫まで見せ、欺瞞に満ちた吉岡の言動に、河原崎長一郎のあの容貌が手伝って、これ以上ないってくらい鬱陶しい。見た目といい、性格といい、ものの考え方といい、こんな男に惚れるマリ子が、同じ女性として全く理解不能。

 むしろ、ミツの方が、まだ理解できる。世間知らずで、初めての男に惚れてしまった、ってことだろう。多分、相手が吉岡でなくても、ミツは惚れたと思う。ミツという女性はそういう性質の人だということ。一種の刷り込みみたいなもんでは? だから、男は初めての女性が良い、、、などと妄想するんだろうけど、こればっかしは人によると思われる。初めての男なんか思い出したくもない、という人もいるし。大半の女性は何の価値も感じていないんじゃないかね? 少なくとも私はそうですが。

 ミツの場合、男がどうこう、、、ってことよりも、本作では彼女の置かれた貧しさが本質的な問題だと思う。彼女が田舎の富豪の娘とかだったら、同じ世間知らずの田舎娘であっても、話は大分変わっただろう。貧しさ故に、ヘンな奴らに取り込まれることにもなる。

 ネット上で感想をいくつか拝見したが、ミツは与えるだけの人、赦す人、、、な感じで受け止められているみたいで、もちろんそういう見方もできると思うので否定はしない。が、冒頭書いたように、私にはもっと下世話な風にしか見えなかった。

 ミツを演じたのは当時無名の小林トシ江。この方、『ねことじいちゃん』にもご出演なさっていたみたい。ゼンゼン気付かなかった。ミツが亡くなる様は、まさに悲惨。監督が、「ミツは許す女だから、ぶざまに死ななきゃいけない」とか言って、ああいう死に様のシーンになったらしい。でも、あれを演技させられる身になると、非常に辛いものがある。小林トシ江さん自身、本作の撮影は辛いことばかりだったと回顧していたようだが。

 まあ、とにかく、教育って大事だよな、ってことを改めて感じさせられた映画ですね。多分本作を見てそんなことを思った人間はいないでしょうけど。女は可愛きゃ良い、という人は男女問わずにいますが、オツムの弱い女は、本作に限らず、どの映画でもほぼ例外なく悲惨な目に遭っていますから。可愛かろうが不細工だろうが、教育は大事です。

 

 

 

 


 

浅岡ルリ子と河原崎長一郎、バランスがイマイチとれていないカップルな気がするんだが。

 

 

 

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サウンド・オブ・ミュージック (1965年)

2019-12-10 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv3582/

 

 ご存じ、ミュージカル映画の金字塔。

 修道女見習いのマリアが、妻に先立たれた7人の子持ちの貴族でイケメン大佐と相思相愛になり結婚、メデタシメデタシ……、とはならず、大佐がナチスに追われる身となり、一家は歌いながら(?)逃避行に、、、。果たして一家の命運は!?

 

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 午前十時の映画祭にて鑑賞。高校の英語の授業で見て以来だから、30ウン年ぶりだったのだけれど、、、、こんなに泣けるとは思っていなかった。この映画ってこんなだったっけ??と序盤に頭をかすめたものの、直後から、映画の世界にトリップしてしまいました。高校生の私は、何も分かっていなかったのね、、、。

 

◆薄っぺらい映画になりそうな要素てんこ盛りなのに、、、。

 いやぁ、、、こんなに涙が出るだなんて、不覚だった。

 ハッキリ言って、この映画は、道徳の教科書に出て来てもおかしくないような「健全かつ善意の塊」なお話で、本来の私の大好物である「不健全で悪意の塊」とは対極にある。おまけに、私の大の苦手分野、突然歌い出すミュージカル。しかも名曲ばかり。

 この、イヤミなまでに出来過ぎで“嘘臭さ”が放つものといえば、相場は決まっている。ドン引きなまでの偽善臭・欺瞞臭立ちこめる作品……のはずなのに、実際に本作を見てみると、、、あら不思議。何ということでしょう!!! 偽善も欺瞞もまったく感じない!!

 それどころか、私のような邪悪で汚れきった心を見事に浄化してくれるではないか!! 私が本作を見ながら流した涙は、私の心の澱を洗い流してくれたのか。

 ……なーんてことはもちろんないが。、、、でも、心洗われる、とはまさにこの映画のことを言うのだと、止まらない涙を拭きもせず、ただただ圧倒されていた。

 予定調和、先の読める展開なのに、退屈しないのは、やはり何といってもその素晴らしい音楽の数々にある。名曲ばかりが、これでもか!と続くが、音楽の持つパワーを本作ほど感じさせられたことはない。私は、基本的にあまり歌付きの音楽は聴かない方だが、本作で登場人物たちがそれぞれに歌う“歌”は、私の好みなど超越したものだった。ミュージカルで、歌を興醒めすることなく聴いていられるというのが、この映画の持つ不思議なパワーである。

 泣けたシーンはどこかというより、ほぼ全編にわたって、あちこちで泣いていた。中でも一番泣けたのは、もちろん、大佐が舞台上で「エーデルワイス」をギターを奏でながら歌うシーンだ。実話モノの完全なるフィクションとは分かっていても、あのシーンは感動的。もともと良い音楽が、あのような重い意味を持つとなると、胸に響くものがゼンゼン違う。

 音楽に負うところ大であるのは間違いないが、それと同じくらい本作が人を魅了するのは、そこに通底している、信仰と良心、そして信念だろうと思う。

 信仰も良心も、そして信念も、どれも一つ間違えれば他者への“押し付け”になるものだけれど、本作の中ではそのどれもが強固でありながら押しつけになっていないという、稀なる描写がされている。

 修道女たちは皆、マリアにはマリアに適した生き方があるという。男爵夫人は、大佐の愛を得られないと分かって、自らの進むべき道を悟る。大佐自身は、自らの信念を貫き、命を懸けて愛する国を棄てる。

 ここには、信仰と信念こそあれ、悪意も強制もなく、登場人物たちの行動は、言ってみれば良心の現れ。私のような屈折しまくった心にも、その良心は控えめでありながら真っ直ぐに届いたのだから、スゴイとしか言い様がない。

 さらに言えば、他力本願でないところがなお良い。厚い信仰心を持つ修道女たちは、神に祈ってさえいれば良いなどとは当然言わず、マリアに「自らの意思で道を切り開け」と諭す。

 ……などと、野暮な読み解きをしてみたものの、これらはほとんど意味がない。なぜなら、本作はそんな小理屈など蹴散らし、見るものを圧倒するパワーがあるから。だから、まあ、見てみてくださいな、そこのミュージカル嫌いのお方。

 

◆トラップ大佐とか、ガヴァネスとか、、、。

 クリストファー・プラマー、めっちゃエエ男! ……というか、渋い!! あんな7人の子持ちいるかよ、、、と内心ツッコミまくりだったんだが。彼の出演作というと、数年前に劇場で見た『手紙は憶えている』は結構面白かった。オチがひどかったケド。あの作品での彼は、もう、認知症の爺さんという設定で、見た目もすっかりヨボヨボになっていたんだけど、時々見せるキリッとした挙動に、トラップ大佐を思い出させるものがあったような。ピアノを弾くシーンも、実に様になっていた。

 本作での彼は、ギターを弾きながら「エーデルワイス」を歌う。登場シーンの強面から、後半、ほぼ“急変&激変”するのもご愛敬。マリアに思いを打ち明けるトラップ大佐もステキ。マリアじゃなくても、そら恋に落ちるわね。

 ちょっと田宮二郎に所々似ているなー、と思いながら見ていたんだけど、、、。

 ジュリー・アンドリュースは、もう、健康優良児そのもので色気のイの字もないんだが、まあ、マリアにはああいう感じがちょうど良いと思う。歌が素晴らしいのは、今さら書くまでもない。

 マリアはトラップ家に“ガヴァネス”として派遣されていたと、今回初めて知った次第。そっかー、ガヴァネスだったのねぇ。本作では、期限付き“家庭教師”だったが、実際のマリアは、修道院を辞めてガヴァネスとしてトラップ家に行ったということだから、、、こんなことを書くと本作の夢を壊すかもだが、マリアとしてみれば、最初からトラップ家に入ることを狙っていた可能性が高いだろう。

 “ガヴァネス”については、『回転』『ハイジ アルプスの物語』でも書いたので、ここでは割愛するが、学だけあって行き場のない中年女性にとって、生きる道は、財力あるバツ有り男の後妻になることくらいしかなかったのだ。

 マリアは当時20代だったというが、修道院も出て来た以上は恐らく、先行きは暗かったに違いない。トラップ家の主は、そんな彼女にとって一筋の希望となったと言っても、あながち間違いでもないだろう。

 本作の冒頭でセリフに頻繁に出てくる“governess”の単語を聞いて、そんなことがつらつらと脳内をよぎったりもしたけれど、それ以外のほとんどの時間は、本作の世界にどっぷり浸っておりました。

 

 

 

 

 

サントラ欲しくなっちゃった。

 

 

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テルアビブ・オン・ファイア (2018年)

2019-12-06 | 【て】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv68447/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 エルサレムに暮らすパレスチナ人青年サラーム(カイス・ナシェフ)は、1967年の第3次中東戦争前夜を舞台にした人気ドラマ『テルアビブ・オン・ファイア』の制作現場で、言語指導を担当している。しかし、撮影所に通うためには、毎日面倒な検問所を通らなくてはならなかった。

 そんなある日、サラームは検問所のイスラエル軍司令官アッシ(ヤニブ・ビトン)に呼び止められ、咄嗟に自分はドラマの脚本家だと嘘をついてしまう。アッシはドラマの熱烈なファンである妻に自慢するため、毎日サラームを呼び止め、強引に脚本のアイデアを出し始める。困惑するサラームだったが、アッシのアイデアが採用されたことで、サラームは脚本家へと出世することに。

 ところがドラマが終盤に近付くにつれ、結末の脚本をめぐり、アッシと制作陣の間で板挟みになったサラームは窮地に立たされる……。

=====ここまで。

 

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 新聞に出ていた評を読んで、俄然見たくなって、劇場に行ってまいりました。

 

◆宣伝に偽りのない珍しい映画

 パレスチナについてなんて、ほぼ無知に等しく、ぼんやりとしか知らなかったところへ、今年、TVの放送大学の講義で高橋和夫氏の「パレスチナ問題」をたまたま見掛けて、結局全15回見てしまった。

 で、ぼんやりしていたのが、ちょっと輪郭が見えてきたくらいには理解したパレスチナ。まあ、それでも複雑過ぎる彼の地の事情については、まだまだ無知の域を出ていないのだけれども、その講義のおかげで、本作の評にも興味を持てた次第。

 それに、何と言ってもその評には、“ラストで爆笑”みたいなことが書いてあったので。ストーリーと背景から言って、爆笑するオチってどんなん??と単純に興味が湧いた。

 オチがスゴイと言われる映画で、ホントにスゴイ映画はほとんどないが、本作は、全く観客の想像を超えた展開にしたところがスゴイ。こういう映画の場合、オチを“読めた”という人は必ず出てくるものだが、それは多分、見終わってから“読めたと思った”だけだろう。それくらい、え゛ーーーーーっ!!なオチだった。しかも笑える。劇場でも爆笑だった。

 だから、どんなオチかはもちろん書かないけれど、そのちょっと手前までは触れるので、これから本作をご覧になる予定の方は、ここから先は自己責任でお読みください。

 アッシは、ドラマのラストで、主役の2人、つまりパレスチナ人女スパイと、ユダヤ人将校を結婚させろ!!とサラームに迫る。それ以外のラストを書かせないために、サラームのIDまで取り上げてしまう。サラームはエルサレムの自宅にも帰れなくなり、仕方なく、ドラマのスタッフ陣に、ラストに考えている2人の結婚式のシーンを話すが、サラームの叔父であるプロデューサーは、、、

 「よし、じゃあ、その花嫁のブーケに仕掛けた爆弾が爆発して終わりにしよう!」

……彼らにとっては、たとえドラマの中であっても、パレスチナ人がユダヤ人と結婚なんて、あり得ない!!!という訳だ。結婚すると見せかけて、自爆テロ。いくら何でも、メロドラマにはエグすぎるオチじゃねぇ?

 でも、そんなオチにしたらアッシを怒らせるのは必至。サラームは苦悩した挙げ句、、、、どっひゃ~~~! ……というシーンを書き上げる。

 そのおかげで、『テルアビブ・オン・ファイア season2』も制作されるというエンディングになっている。果たして、サラームはどんなオチを書いたんでしょう。それは見てのお楽しみ。

 

◆パレスチナとイスラエル、とか。

 サラームを演じているのはパレスチナ人の俳優だし、アッシを演じているのはユダヤ人の俳優。でも、ヘブライ語もアラビア語も、私には違いが全く分からなかったし、パレスチナ人もユダヤ人も、そんなに容貌に違いはない。

 インドとパキスタンもそうだけど、第三国の人間から見たら、似たような姿形をした人々がいがみ合っているようにしか見えないのだよね。

 本作のスゴいところは、もちろんオチのぶっ飛びぶりもなんだが、この緊迫した両者の関係にあって、その深刻さも内包させた笑いに仕上げているシナリオだ。映像に低予算ぽさは漂うものの、実に巧妙な構成に、ただただ圧倒させられる。当たり前だが、決しておふざけではなく、それでいて所々に笑いを込め、互いを揶揄する描写もふんだんに(とはいえ、どちらかと言えば、やっぱりパレスチナ寄りだけど)組み入れて、その巧みさは素晴らしいとしか言い様がない。一瞬たりとも退屈しない。

 検問所も、放送大学で見た画像では、もっと緊迫した雰囲気の場所かと想像していたが、本作内ではそこまでピリピリした感じはなかったように思う。検問所は他にもあるだろうし、情勢等によって実際の雰囲気はもっと緊迫する場面は多々あるのだろうが。

 あと、印象的だったのが、アッシがフムスを美味しそうに食べるシーン。何度かあるんだけど、そのうちの1回は、サラームが期限切れの缶詰で適当に作ったもの。でも、アッシはそれを「これぞ本物のフムスだ!!」と舌なめずりをしながら食べるという、、、。この辺も、結構アイロニカルなシーンなんだろうな、、、。 

 フランス人女優でパレスチナ人女スパイ役、という設定の女性を演じたのは、ベルギーのルプナ・アザバルさんというお方。美しいけど、ちょっと強そうで怖い感じ。もう一方のユダヤ人将校役を演じたのはユーセフ・スウェイドというイスラエル人。このお方のお顔、どこかで見た様な気がするのだが、出演作を見ても、私が見た作品はないし、、、。どこで見掛けたんだろう。似ている人だったのかしらん。

 本作の面白さは、主役の、サラーム役カイス・ナシェフと、アッシ役ヤニブ・ビドンというお二人にある。サラームは朴訥な感じが良く出ていて、一見、あまり表情がないかに見えて、実に表現力豊かだったし、アッシはマッチョ系の単細胞男っぽいけど実はアイデアマン、みたいなギャップが味わい深い。

 見に行って良かった、と思える貴重な逸品でありました。  

 

 

 

 

 

 

フムスって美味しいんだろうか、、、?

 

 

 

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コメント (2)
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